はてなキーワード: 原典とは
昨日の夜血迷って飛影はそんなこと言わないで有名な某AVを見た。
処女喪失モノで、28歳処女の腐女子が蔵馬になりきって飛影に抱かれるという設定でセックスするヤバいポルノだと聞いていたが、なんというか全然ポルノではなかった。
女優がヤバいせいで抜けない、というようなものでさえなく、そもそも抜けるAVを撮ろうという意思が感じられなかった。あれで抜く男性っているんだろうか。しかも「飛影はそんなこと言わない」って言わない。言わんのかい。
とは言えそれなりに面白かった。
なんでAVの処女喪失企画に応募したの?とか、今まで処女だった理由は?とかまあ男優がありきたりなことを質問し、女優が拗らせ女全開の答えを返す。
今まで付き合った中には別に身体を許したいような男はいなかったけど、今後結婚するとしてその人しか知らないなんてのも嫌。上手な人で処女を捨てたい。その点AV男優なら上手でしょうよ。みたいな。
製作陣は彼女の態度が悪いだの処女のしおらしさがないだのと憤っていたが、私は彼女の言うことは結構分かるなと思った。
私も処女の頃そういう傲慢さと拗らせた思いを抱いていた。初めては上手な人がいい。童貞で処女捨てるなんて絶対いや。下手なら風俗で練習してでも上手になってから私を抱いてくれやと。まあ結局童貞で処女捨てたけど。
話は逸れたが卑屈で傲慢な拗らせ女たる彼女は、男優がパンツを脱いでイチモツを見せつけてきてもなお傲慢だった。
終始笑ってて「私、ちんこ見せられたぐらい平気ですよ。」と虚空に向かってアピールしているようだった。
分かる。超分かる。私は卑屈で傲慢な拗らせ女だから絶対初対面の男がちんこ見せてきたらそういう対応をする。いや初対面の男からちんこ見せられたことないけど。
ちんこ見せてエッチな雰囲気にしてやろうとする男、本当にイライラする。お前がおっぱい見ておっ勃ててる情けない野郎だからって私がお前の汚いちんこに同じように濡れると思うなよと。
ちんことか汚いだけで何もエロくないから。見せただけで女がエッチな気分になると思ってんじゃねえ。やりたいなら私をエロい気分にさせるだけの演出力と技巧を披露してみろ。
絶対ちんこ見せられて恥ずかしいとか思ってやらないから。恥ずかしいのは下半身出してる間抜けな男であって私が恥じる理由ミリもないから。
まあ、と女優がそういうことを考えて男優の汚いちんこをうふふと笑って流したのかは知らないが、男優のおっさんはちんこに対して失礼な態度を取られたと激昂して彼女を引っぱたき怒鳴り散らした。
関西弁で怒鳴り散らしていたが、滑舌悪くて何を言っているか分からない、お前の頭が悪いって情報以外何ひとつ伝わってこない。
分かる、お前のことめちゃめちゃ分かる。好きだよ。
しおらしく謝っておけばこれ以上怒鳴られない。委縮して泣けば許してもらえる。そんなことは分かっているんだが絶対いや。誰がこんな輩に怒鳴られて殴られたごときで泣くかと。分かる。超分かる。
だって涙も謝罪も敗北だから。どうすりゃ許してもらえるかぐらい分かってるがそもそもこんな輩に許してもらわなきゃならん謂れはないわけで。
殴って怒鳴って言うこと聞かそうなんて文明人のやることじゃねえよこの野蛮人が猿かお前は馬鹿じゃないのそれ自分強いとかかっこいいとか思ってるわけダッサ。
AV撮ってる人間ってDQNなんだなあとか、主演女優殴って撮影中断させといて仕事にプライドとかよく言うなとかまあ色々思ったけど、とりあえずなんやかんやあって映像はセックスに突入した。
細かいシチュエーションの相談などはなかったが、おそらく飛影×蔵馬でなりきりセックスということで両者合意が取れた上での撮影だったと思う。
蔵馬をママと聞き間違え男優が「お母さん!」と言い女優に「違うお母さんじゃない!」と訂正されたり、「ほら幽助が見てるぞ!」と言い「違う誰も見ていないこれは2人だけの世界であって…」とダメ出しされたりとまあ男優側が全く設定を真摯に理解して挑んでないことがありありと見て取れた。
他の感想サイトでは男優は幽白の世界観をセックスに取り入れ頑張ったのに腐女子がヤバすぎてダメ出しばっかり、結局男優は萎えてしまってセックス中断、腐女子怖い男優可哀想、という意見が散見されたが、私はちっともそうは思わなかった。
受けになりきる腐女子を攻めになりきって抱くなら、全然頑張りが足りていない。彼女に理想の処女喪失を与えるというコンセプトなら、もっと作品を愛するというか、違うな、作品愛じゃなくて彼女の作品解釈に寄り添い彼女の妄想を愛さなければならない。
とか思いながら眺めてたら、本当に製作陣が幽白と飛影×蔵馬のエロ同人誌を読みだした。作戦会議を開き勉強してもういっぺん挑戦しようと。その間女優は隣室の畳の上にひとり放置されていた。
で、製作陣は勉強会の結果女優の妄想の世界を理解し、寄り添い、母子相姦モノ飛影×蔵馬が好きみたいな彼女の性癖を汲み、飛影×蔵馬になりる彼女の理想のセックスに突入した。
本当に理想に叶っていたのかは分からないが、女優の演技はなかなか、というかBLエロ同人誌さながらの蔵馬っぷりだった。いや、幽白ミリしらだけどBL同人誌ってあんな感じだよね。
耽溺してしまうようなふたりだけの世界。お前のためなら死んでもいい。世界が滅んでもずっと一緒だ。みたいなテンションのBL大好きです。美しいね。
対して男優の演技は下手だった。自分はAV男優であるという自覚が捨てきれていないと感じた。AV男優として女を抱くのではなく、飛影になりきって飛影×蔵馬の夢を見たい人間を抱かなければならないのに、自分を捨てきれていないように思えた。
そう、腐女子の夢は天井、推しカプがセックスしている部屋の天井になることだ。別に本当に天井になりたいかというと人それぞれだろうが、その本質は自分の存在を抹消することにあると思う。妄想の純度を高め現実を限界まで排除する。そのためには自分の存在さえ邪魔ななのである。自分がどんな人間でどんなセックスをするか。そういうことを妄想に持ち込んではならない。だって純度が下がるから。
だから、女優は自分の存在を抹消し蔵馬になりきって世界観に完璧に合わせに行ったし、一方で男優は自分が何者であるかを一切排除したセックスをするという意識が足りていなかったため、いまいちに見えた。
男として目の前の女を抱くのではないのだと何度言わせるのかと。製作陣は結局最後まで彼女の妄想の世界ではなく彼女本人を見ていたし、彼女は製作陣ではなく妄想の世界のことしか見ていなかった。
どちらが正解という話ではないが、彼女に理想の処女喪失を提供するというコンセプトなら、製作陣は彼女を理解することではなく彼女の妄想の世界を理解することを優先せねばならなかっただろう。
最終的に彼女の処女喪失は完了したものの理想であったとは言い切れず、なんとも噛み合わない結果となった。
まあ彼女の理想に応えることが果たして人間に可能なのかは分からないが、「腐女子の要望に応えたセックス」と言われていた割には腐女子から見ると「まだまだ理想には程遠い」という印象だ。
いや別に、腐女子の理想が受けになりきって攻めになりきった男に抱かれるセックスをすることだという話ではない。
腐女子には色んな夢と理想と妄想があり一括りには語れないが、ただ、製作陣は妄想に耽溺するとはとは何たるかに対する理解が不十分であったなという話である。
夢と妄想というのはもっと現実を限界まで排除したところにあるのだ。
AVを楽しむ層からすると腐女子がAVの世界、ひいては現実のセックスに歩み寄らなかったことが異質に見えるのかもしれないが、腐女子としてはもっとAVが腐女子の妄想に歩み寄るという選択肢もあるんだぞと。あってたまるか。
実際、私が推しカプなりきりセックスをやりたいかと問われるとまあ絶対AVに出ようとは思わないし彼氏にそれを要求しようと考えたことも一度もない。
しかし、無限のお金を渡され風俗店のような場所で理想のセックスをオーダーしろと言われたとき何をオーダーするかと考えると、もしかしたら推しカプなりきりセックスを頼むかもしれないなとは思った。
あるいは今はBL同人に托す推しカプの妄想と自分が生きる現実の男性との関係は完全に分けて考えているが、現実とポルノを混同して首絞めセックスがしたいだのおもちゃを入れさせろだの言ってくる男に、無下に断る代わりにじゃあ私も現世とポルノを混同させてもらうぞ推しの声で喘げと要求してみてもいいのかもしれない。いやしないわ。
しない。絶対しない。もっと現世に持ち込む方向で自分の妄想に向き合ってみると推しカプなりきりセックスがしたいという方向になるかもしれない、という可能性を完全否定はできないだけで、今現在それをやりたいかと言うと私は推しカプを読んで書ければ十分なので。やったら新しい扉開くかな?開かなくていいよ。
そもそもあれもどこまでやらせなのか分かったものではない。私にはやらせでまであの映像を撮る理由が全く分からないがどこかに需要があったのかもしれない。
それで、君は"宇崎ちゃんは遊びたい!"を見たのか? "ラブライブ!サンシャイン!!"を見たのか?
作品への感謝を忘れるんじゃないぞ。ファンだろうと、美少女アニメ作品全般のアンチだろうと、その「宇崎ちゃん」などのキーワードで他人と会話ができているのは、その作品を作り上げ育て上げてきたクリエーターやプロモーターの方々、それを支援する地域の方々の努力があったからだ。
作品や表現に対する個人的な捉え方、是非の感情はどうであれ、それについて語ろうとするなら敬意をもって原典をあたっていく努力は惜しむなよ。
さもないと、東方原作をプレイしてないのに二次創作をする(もはや三次創作か?)人やそれを消費する人と同じで、伝言ゲームのように元とかけ離れたものを弄くり回して面白がる状況になるだけだ。それが娯楽であるうちはいいが、君は娯楽で批判しているわけじゃあなさそうだろう。そんなのは悪夢だ。
あるいは、グローバル経済の現実を教えられても見ようとせずに日本アズナンバーワンの国粋主義的思考に凝り固まり中韓ヘイターと成り果てる老人と同じようになるだけだ。それも悪夢だ。
シャイロックの描き方の変遷って知っとお?
そらもう典型的な「強欲・非常なユダヤ人商人」そのまんまっすよ
テンプレ的すぎてひねりのなさで拍子抜けするような
そこから100年、200年、300年、400年……
なんか苦悩する悲劇の悪役にしたり
単純にユダヤ人差別的じゃポリコレ的に糾弾されるからという問題で済まず
ひねりを加えようと工夫してきたということであろう
同じような話はあちこちにあって
かちかち山や桃太郎みたいな日本の昔話は元々は残酷だったとかエロかったとか
時代状況によって改変された話は腐るほどある
戦時中に書かれた桃太郎なんざ軍服着て東南アジアに白人退治に行くんだぜw
都合良く話の書き換えをやってる
それはどうせ、どう頑張っても無理なんだよなあ
ま、1000年前、2000年前から、世の中ずっとそういうもんなんじゃないの
(以上いっさいポリコレを支持してない)
率直に言ってクソでございますわね♡
ファンはデカい顔して自分たちのコミュを作って陣取り、中身のない話ばかり楽しんでるくせに
なぜアンチは隔離場を作られてそこに押し込められなきゃならない?わざわざ愚痴垢裏垢を作って気を使わなきゃならない?
好きなことを好きと語ることが許されるなら、嫌いなことを嫌いと語るのも許されるべきだろ、何が多様性だLGBTだこんな基本的な事も出来てないくせに
そのくせアンチが何かを言えばギャーギャー喚いて総たたきにする、こじつけで関係ない作品に乗り込んで汚染するクズども、お前たちと変わらない事をしてるのにお前たちも同類だろ
本スレや公式コミュは「○○について語る場所」だ、ならばお前たちが「○○が好き」って語るのと同じ様に「○○はクソ早く滅べ製作者もファンも全員精神病んで死ね」って書くのも良いだろ
なぜアンチばかり隅っこに追いやられる?ふざけるなよ
それと「何が嫌いかよりも、なにが好きかで自分を語れよ」ってセリフ
あんなの原典がワンピースと公式に間違えられるぐらいには漫画の中身も知名度もない、ただの打ち切りクソ漫画の戯言じゃないか
名言でもなんでも無い
ディズニー長編アニメで何が好き? と問われたら挙げるくらいに『ムーラン』(1998年)が好きだった。
『ムーラン』は中国の伝承をもとにした話だ。老いた父に代わり男装して従軍し武功を立てるも地位は断り故郷に戻る。最も古いのは詩と言われ、民謡、戯曲、小説の題材になっている。
時代によってどこに力を入れて語られるかは変わってくる。女で軍功を立てる力強さを描くのか、家族への孝行を尊ぶものなのか、国への奉仕を宣伝するものか。
ディズニーでのアニメ映画化にあたっては女性の自己実現という方向で物語はまとめられている。
主人公のムーランは、女は家でおしとやかにしているべきという風潮になじめない。老いた父を助けるため男装して代わりに従軍することになるが男ほどの力はない。しかし彼女自身の強みである知恵と機転を武器に自分を信じ、自分らしいあり方、誇りを見つけるのだ。
挿入歌『リフレクション』が名曲だ。映画のわりと最初のほうに歌われる曲で、含む意味が全編に影響してくる。家の名誉のためには仲人に気に入られて良い家に嫁がなければならない。でも失敗してしまった、という状況を受けて「水鏡に映った着飾った自分は知らない人に見える。ありのままの自分の心はごまかせないけれど、本当の私はいつか映るのだろうか?」と吐露する。
その後男装して(=別ベクトルで自分を偽って)活躍するわけだが女であることがバレてしまう。で、色々あって男だとか女だとか求められる役割だとかじゃなく、自分であることがいいよね! って結論に至るのだ。
さて、ディズニーのヒロイン像というのは時代によって移り変わる。おしとやかに待っていれば幸せ(王子様)が訪れる初期ヒロイン、自我がありパワフルながらやはり幸せはヒーローが運んでくる中期ヒロイン、恋愛から解放された最近のヒロイン。
ムーランは時代的には中期ヒロインに位置づけられる。とはいえロマンス要素は淡い。アジアが舞台で自己実現が主題という点が特筆すべきところだろう。
その頃のディズニーの非コーカソイドを取り扱った映画というのはエキゾチシズムあふれると言うかアメリカ解釈エスニック世界と言うか、なかなか文化描写が大味である。ご多分に漏れず『ムーラン』も西洋的なアジアであんまり正確ではない。突然念仏唱え出す登場人物が居るようなステレオタイプなオリエンタリズムである。また、男装のために長い髪をカットするシーンが山場のひとつだが、断髪して覚悟を示すことはとても西洋的な描写だ。古代アジアの人々は男女問わず長髪だからね。
それでも20世紀末にアジアが描かれたことは画期的で、東洋西洋の狭間で自分のあり方を考えていたアジア系アメリカ人二世三世に特に刺さったと聞く。また、脚本にはアジア系アメリカ人の女性が居た。そのあたりを思うにターゲットは西洋社会であったのだろう。
さて、そんな『ムーラン』が20年の時を超えて実写化されると言う。わくわくした。あの、魔法使いでもなんでもない同じ人間なのに圧倒的な力を持つかたき役、シャン・ユーの大軍勢が雪原に現れる絶望的なシーンが実写の迫力で見られるのか。ハリウッドに中国の方も増えただろうからオリエンタリズムの産物じゃなくてきちんと考証がなされた中国描写になるんだろうな。最近のディズニー映画のように現代の価値観を反映させるだろうから「異民族は悪、侵略者、だから防衛しなければならない」なんて単純な物語化じゃなく厚みを持って描かれるんだろうな。(アニメだと時代も場所もぼかされて相手はフン族という言及のみ。原典だとムーランは漢民族じゃなくて鮮卑の人っぽいし、北魏 vs 突厥 の戦争って遊牧民同士の戦いでつまり互いに侵略し合っていたってことだと思っている)アナ雪1でサーミの文化盗用と言われ、アナ雪2でサーミの監修を入れて文化盗用にならぬよう注意を払い、作中で植民地支配を彷彿とさせる歴史を描き、過去の過ちを直視し「今できる正しいことをしよう」と歌わせるディズニーだ。期待も高まるというもの。
そんな価値観も変わる時代の中にあっても輝く、自分らしく誇りを見つけるという変わらないメッセージ。名曲の数々、コミカルな相棒キャラクターであるドラゴンのムーシューと幸運のコオロギのクリキーのコンビ――彼らも「自分を偽っている」キャラだ。ムーランの物語は彼女だけではなく、ほかのキャラも自分を信じて自己実現する物語なのだ!――厳しくもきちんと実力は認めて義に厚く格好いいシャン隊長とムーランのほのかなロマンス。男装しているムーランに人間的に惹かれているっていうのがいいんだよねー。ああ、楽しみだなあ!
※ アニメ版と実写版の差異、未見のためニュース等で分かる部分のみ
うおおおい。やりたいこととやっていることとターゲットがちぐはぐで全方位損だよ。東西どちらにもいい顔をしようとして大失敗では。誰が嬉しいんだこれ。
いやね、きっと通常の劇場公開をしていたらふらっと見てしまっていたと思う。事前情報仕入れず見るタイプなので。公開延期で配信も加入しないと見られないと言うので時間ができてしまって調べたらさあ、ねえ。心情的にこれはもう見られない。
アニメ版が中国本土であまり評判が良くなかったというのは聞いたことがある。自分探しをするヒロイン、自立したヒロインというのが儒教感覚としてはそぐわないらしい。だからってアニメ版の主題であった自己実現を切り捨てて家のため国のため「孝」「忠」の話にするか? [追記] トラバで教えて貰ったが、アニメ版は中国本土でも人気だったそうだ。確かにレビューサイトの点も高かった。自分は欧米メディアの記事から人気がなかったのだと思いこんでいたが誤りだったようだ。失礼しました。えっ、じゃあディズニーはどこを向いて脚本変更を決定したんだ?
アニメ版のファンなんぞ知らん、商業的には大きなパイである14億人+全世界の中国ルーツの方々がターゲットなんだ! と言い切ってくれるならまだ理解できた。でも中華圏の評判も悪くてさ。聞こえてくるのは「孝」「忠」はこんなんじゃねーよとか伝統的な任侠精神を西洋騎士道のテンプレートに雑にはめ込みやがってとかムーランをフォースっぽい謎の不自然なパワーを持つ西洋的スーパーヒーローにしたなとかドラゴンのキャラの代わりに鳳凰がシンボルになったが鳳凰が象徴するのは古式ゆかしい女性性だぞフェニックスと混ぜてねーかとか『カンフー・パンダ』のほうが中国の伝承や比喩を尊重しているぞとか、そんな感想ばかりである。
中国をターゲットに完全シリアスな『花木蘭』実写化がしたかったらアニメの看板は控えめに、スタッフ陣にもアジア勢を揃えて時代考証風俗考証手厚く入れて中華圏を唸らせてくれよ……。
新疆ウイグル自治区でのロケってのもさ……。「異民族、それもモンゴルあたりで活動した今のトルコにも繋がると言われる実在の民族を排除するために戦う」ストーリー自体センシティブで取扱注意なのに、文化が異なるが故に現在進行形で人権侵害が行われている新疆ウイグル自治区をわざわざロケ地に選ぶとは。映画撮影のためにディズニーは人権侵害に目をつぶり「新疆ウイグル自治区は海外のクルーが来られるような安全で風光明媚なところで海外で言われているようなことなど行われていませんよ」という中国の宣伝に乗ったのだと言われても否定できないだろう。
ディズニーとしては MeToo を受けてストーリーは変更するが民族浄化は容認するみたいな基準なのか?
自分は今まで作品と作者・出演者は別と考えてきていた。役者が不倫していたり薬物をやっていたりしても作品の価値が貶められることはないし配信停止にすべきではない。また、過去の作品で今の基準だとアウトなものがあることも認識している。奴隷制を肯定的に描いている『風と共に去りぬ』、子役を薬漬けにして演技させていた『オズの魔法使い』などなど。それらも配信停止にすべきではないと考える。描写については注意書きを添え、新たに作る時は現代の倫理観をもとにし、新規であえて描写する時は「あえて」である説明を加えれば良いと。
とすると、俳優の発言は個人の思想と割り切れても現在進行形の人権侵害は了承できないな。俳優はアメリカ国籍とは言え中国本土の方だから一族も本土に居るだろうし当局の意に反する発言をしたら命が危ないのだろうけれど、ディズニーはウイグルの件を全く知らなかったとは言えないだろう。
ディズニーがどのような声明を出すのか、出さないのか。注目している。
[追記]
誤字を修正。
また、中国国内の反応を知りたくてデータを確認してみた。ご参考までに。
9/15昼時点の豆瓣(中国の代表的なレビューサイト)のスコア
作品名 | 公開年 | スコア (10点満点) | 最頻値 (最大星5つ) | スコアの母数 |
---|---|---|---|---|
実写版ムーラン | 2020 | 4.9 | 星2つ | 約16万人 |
アニメ版ムーラン | 1998 | 7.8 | 星4つ | 約20万人 |
実写版美女と野獣 | 2017 | 7.2 | 星3つ | 約32万人 |
アニメ版美女と野獣 | 1991 | 8.5 | 星4つ | 約14万人 |
実写版アラジン | 2019 | 7.5 | 星4つ | 約26万人 |
アニメ版アラジン | 1992 | 8.2 | 星4つ | 約6万人 |
ヴィッキー・チャオ主演版ムーラン | 2009 | 6.2 | 星3つ | 約9万人 |
アニメ版ムーランは意外と[追記] トラバで教えて貰ったが「意外と」ではなかった中国でも健闘していたようだ。レビューも楽しく読んだ。翻訳ソフトありがとう。
実写版ムーランは当初スコア4.7だったが、星3をつける人が増えて4.9まであがってきた。とは言え他のディズニー作品と比べると極めて低く、ここから他作品ほどスコアを上げるのは難しそう。
一番下のヴィッキー・チャオ主演版はディズニー関係ない中国発の歴史映画。そう、既にシリアスな実写映画は存在するのだ。
ランキング | 作品名 | 公開日 | 初週興行収入 | 累計興行収入 | 猫眼口コミ (10点満点) |
---|---|---|---|---|---|
1 | 八佰 | 2020/8/21 | 約6.4億元 | 約26.9億元 | 9.2 |
2 | 実写版ムーラン | 2020/9/11 | 約1.6億元 | 約1.8億元 | 7.5 |
3 | TENET テネット | 2020/9/4 | 約2.1億元 | 約3.6億元 | 8.3 |
6 | かぐや様は告らせたい~天才たちの恋愛頭脳戦~ | 2020/9/11 | 約0.03億元 | 約0.03億元 | 8.0 |
日中戦争を描いた超大作『八佰』と比較するのは酷として、興行収入面は大コケしなかったといったところだろうか? 有識者の見解を聞きたい。 [追記] トラバより 少なくとも口コミ的には大コケの大コケだと思う
とのこと。『アベンジャーズ:エンドゲーム』が初週約22.3億元、『アナと雪の女王2』が初週約3.8億元ということを考えると厳しい結果になりそうだ。
[再追記]
同じ作品を見ていいな、好きだなと思っていたことが分かって嬉しい。コメントでアニメ版が好きと表明して下さった方々もありがとう。
わかります。DeepLなどで機械翻訳の性能が上がったおかげで英語圏との情報のやり取りの敷居が下がったかと言うと意味やニュアンスが欠落した劣化コピー情報の氾濫のほうが目立っていて断絶はより広がりつつある気がします。
新し目の技術領域は原典となるドキュメントだったり論文を当たるか開発コミュニティ(statck*, Github issue, microservice.ioみたいな個別トピックのBlogメディア, etc)を当たるしかなくその場合、
英語を英語のまま理解する事が多くのケースで求められるのですよね。
なので英語力がない人も理解できるよう啓蒙として情報を翻訳して紹介したいという欲求が生まれたのですが、なんだか法的制約が厳しくて無理そう(翻訳許可も相手が大御所すぎてコミュニケーション取れるかも不明)。
日本近代文学の研究してるんだがこっちは小規模の影響しか出てないな。どこの研究分野にもコロナの影響はあるみたいだが、その規模は大小様々だから苦労のシェアができなくて研究者間に溝がうまれそうw
無論、文学研究も原典や資料が大事なので図書館が使えなくなってた期間は全員死んでた。時代にもよるが近代以前の文学資料ってそこまでデジタル化されてねえからさ。あ、でも一定期間遡ると逆にNDLが公開してたりもする。ただ論文がわりと紙ベースで同人誌も多いんだよな〜
でも図書館が予約制なりで使えるようになってからはわりと大丈夫だ。図書が消毒中だから借りれないとか、長時間図書館に居るなとか、図書館間の貸し借りは取り止めとかはあるけど。人によってはどこどこの資料館がつぶれたとか私立図書館が閉鎖になったとかあるみたいだから一概に大丈夫とも言いきれないが…
ここ二十年だか十年くらい、オタク業界に限らず、売り手側が人気に敏感になり流行を見つけるのが上手くなった
次はコレが売れそうだ!となると、「最近これがおもしろいよ」とわいわい言ってる段階で、ちょっと待てや、多過ぎ。ってレベルの商材を突っ込んでくる
一番思い出すのはEVAか
あれは庵野監督の後日の記事でもあったが、金になると思った当時のガイナックスの上層部がクオリティなどどうでもいいからと大量にグッズやゲームなどを出していた
EVAほどではなくても、今は流行はじめの段階で即シュババババ!と金の匂いをかぎつけた奴らが集まり、グッズ!イベント!ゲーム!アニメ!などと盛り上がり、結局気づけばブームはすぐ去っている
売れたのはいいが、売れるとなると特典商法、アニメ、グッズ、などなどの大量の投入になんだか萎えてしまった
いや公式に金を落とすのは公式のためにもなるのはわかってるけどさあ…
せめて書き下ろしの絵くらいだせや…
原典から切り取っただけの絵を貼り付けたグッズを大量に出すって、それもうとにかくなんでもいいから商品さっさと出して金を儲けようってだけですよね
100ワニグッズも、売れてないっていうけど、売れてない理由の一つは絵に全然書き下ろしがないからってのもあると思うわ
まあとにかく載るしかないこのビッグウェーブに、という公式の金儲けの匂いがすると萎える
我ながら何でなのかなあと思うけど、最近はこの「売れそうだと思ったら、寝かせる間もなく怒濤の商業展開で搾り取りさっさと消える」パターンのものばかりで、どんどんオタク業界に興味がなくなっている
まあこの流れが逆になることはないだろうから、単に年寄りのお気持ち表明なんだけども
あれこれ言われているが、長いこと続いているのは、ある程度公式がセーブしながらやっているからだと思うんだよね
型月も、まあいろいろ派生作品はだしはするが、あっちもそれなりに公式がやり過ぎないように調整しているように見える
本当に金が欲しいならFateが売れているときに今やってる桜編まで全部やっただろうし
話が逸れたが、100ワニや鬼滅みたいな「適当に原作から絵をパッチワークしてとりあえず大量に物出して金を搾り取ってやる」系のもんはもう止めて欲しい
あと「これから金儲けをするために、邪魔になりそうな奴は追い出して俺たちが金を稼ぐ」というガイナックスとけもふれみたいなのも止めて欲しい
性行為がなければ確かに受け攻めは一見関係ないように思えるけど、実は腐女子の二次創作には受け攻めの解釈がキャラクター解釈を左右する傾向があるから、難しいところだなぁ(例えばただのギャグ漫画でも受けの方が線が細く乙女っぽく書かれているなど)
ワイ百合好き男なんやけど、そもそも受け攻めってキャラクター解釈がまずあってのことじゃないの?
たとえばワイもタチネコ考察はするけど、「こいつはこういう体格でこういう性格だから、ああいう体格でああいう性格のあいつに対してはネコ」みたいな解釈をするわけじゃん?
だから、別解釈もそれが原典と整合性があればオッケーやで。「なるほどそういう見方をすればこいつがタチという解釈は成り立つな」って納得するだけ。
内容には全く関係がないが、「文字をギュッとね!」というフレーズが浮かんだ。ああいかん、こうして見栄えのことだけに触れることもまたルッキズムだな…。
おっさん乙。
すまん、実は『炎の蜃気楼』読んでないんや。存在は知ってるってだけで……
北田の論文ではちゃんと「この論文では二次創作に興味があるオタクのことを二次オタクって呼ぶよ」っていう定義がなされた上で使われてるのでまあ問題はないと思う。この論文の中ではこういう用語法にしますよ、という話だから。
なのにtwitterでグラフの画像だけ切り取って拡散するやつがいるから勘違いされちゃうというね。その論文では一般的な用法とは違う用法をしてるって理解してくれー。
そんなに酷い本なのか、指摘されてる点が素人でも分かる程酷い
北田(2017)はあくまで本の1章やで……他の章に罪はないやで……参考文献にはちゃんと何ページから何ページまでって書いてあるんだからちゃんと見てほしいやで……
もとの調査は2010年やで。10年前のデータってのは古く思えるけど、2010年にデータ採って、それをもとに色々分析して、本の形で研究成果を発表したのが2017年でしょ? これだけの共同研究で7年なら、早くもないけど特別遅いってわけでもないよ。さすがにそれは言いがかりすぎて北田が気の毒。
『北田は、東浩紀(2001)のデータベース消費論に依拠しつつ』まで読んだが、その時点でもうほとんど相手する必要ない感がすごいある。謎の『二次オタク・非二次オタク』だったかの分類も意味わかんなかったけど。
いやその分類それ自体は別に悪くないやで……ただ分類に際して「興味がある」をそのまま「好きである、実践している」と同一視してる点とか、二次創作への興味を表す項目を腐女子の操作的定義に使ってるのが論理的におかしいって話やで……そういう分類も仮に適切に定義して適切に運用できるならまったく問題ないやで……
これ、「オタクの研究」じゃなくて「若者の趣味に関する共同研究」なので……他の章では音楽とか読書とかも扱われてて、オタクのジェンダー観の分析はその1章というだけ。
別に難しいことじゃないんだけどなぜか変なことしてるなぁ、という感じ。山岡(2016)の操作的定義は割とマトモだと思う。
なんで二次創作好きに絞って調査したのか気になる。一次創作好きと二次創作好きで分けて著作権意識について調査するとかなら必要性もわかるけど
それには、
という2つの要因がある。
北田は、男オタクは東浩紀の提唱した「データベース消費」をしているけど、腐女子はそれとは違う「関係性消費」をしていて、前者は既存のジェンダー規範に対して親和的だけど、後者は既存のジェンダー規範に対して批判的で、むしろ古臭い既存社会の構造に挑戦している、という議論をしているのね。
その文脈で二次創作に注目する、というのは、(議論の妥当性はさておき)まあわかる。
でも、北田のおかしいところは、「二次創作に興味がある」という項目から、これに賛同したやつはディープなオタクだろうとか腐女子だろうとか定義してるところね。「マンガの二次創作に興味がある女≒腐女子」ってのはデータがどうこう以前に論理的におかしい(『炎の蜃気楼』や『刀剣乱舞』で掛け算してる腐女子は「マンガ」で二次創作してるわけじゃないし、商業BL専門の腐女子もこの定義からは外れてしまうし、男女CPで二次創作やってる女オタクなんていくらでもいるし、好きなマンガをBLにするな! って毎日のようにBLを叩いてる女がいたとして、そいつは定義上「マンガの二次創作に興味がある女」ってことになるけどそれを腐女子と呼ぶのはどう考えても間違い)。これは山岡も皮肉ってる。
例えば、与野党の政治家、報道関係者、一般国民に至るまで、多くの者が総理大臣の言動に興味を持っているだろう。「興味を持つこと」と「好きであること」を同一視すれば……驚異的な支持率になる。……(山岡 2019: 21)
それと、男オタクと女オタクのデータベース消費うんぬんの話で東園子の先行研究を引いていて、これは私はまだ読んでないからなんとも言えないんだけど、『ヘタリア』と『東方』の差異で男女の消費の差異を論じてる箇所があるらしいんだよね。……『ヘタリア』、普通にギルエリとかヘテロCPもあったよな? 『東方』、男オタク界隈でも早期から百合(つまり関係性消費)の勢力が根強かったジャンルだよな? まあでもこれは東園子を読まないと何も言えないのでまずは読んでみますわ。
で、北田(2017)のツッコミどころはたいてい指摘されてて(てゆーか北田も一部については自己批判してる)、正直私がここでこんなこと書くのって車輪の再発明でしかないんだけど、あのグラフは画像として独り歩きしてて「男オタクは保守的、女オタク/腐女子は進歩的」の論拠として用いられることがまだまだ多いんだよね。だから、いやもともとの論文もけっこうおかしいよね? そんなとこから無批判に持ってきて男オタクを云々されるの困るんだけど? というのをブクマカ諸氏に訴えかけておきたかった。
ちなみに北田はその後noteで山岡(2019)に応答してるけど、今んとこ山岡からの再反論はなし。
https://note.com/gyodaikitada/n/nf3ec68635b4e
https://note.com/gyodaikitada/n/n64fa34704698
https://note.com/gyodaikitada/n/n1c5f282be513
ただこの夏に山岡が新刊出すらしいんでそっちで反論があるのかも。個人的には北田の反論もnoteとかでやってないでどっかの紀要とかに載っけてくれればいいのにと思うけど、まあ印刷物はすぐにはできないので気長に待つとしましょう。仮に去年の夏ごろに紀要に原稿投下してればそろそろ刷り上がってくるころかな(『現代思想』では江口聡のtweetを引用してdisってるんだから、ウェブ上の論争を紙でやることに抵抗はないのだろうし)。
フェミニズムの人って文献を批判的に吟味出来ているのかな?なんか北田のグラフをそのまま鵜呑みにしている反応を見たんだけど...
まあ畑違いの分野だったり自分に馴染みのないテーマだったりすると批判的に読むのすら難しいしねえ。同じドイツ近代史の真面目な研究者さんでもキリスト教に詳しくないとカール・レーフラーを見抜けなかったので……あと、フェミニストでも腐女子じゃなければ操作的定義のおかしさに気づくのとか難しいだろうし、腐女子でフェミニストでも研究についてよくわかってなければ吟味する能力がないのは仕方ない面もあるし。でも腐女子を自認してるフェミニスト研究者はさすがになんかおかしいと思わなかったのかよとは思う。
一応全部読んだんだけど、北田氏の言説がアレげな事はおぼろげにわかったが、それを突き詰めるために原典全部に当たろうとはとても思えない話だった
北田(2017)は日本語で50ページくらいの分量やで……選書だからページあたりの文字数もそこまで多くないしグラフも含めてのページ数やで……
引用しちゃダメな文献なんてないんやで。どんな文献でも引用してよくて、その中に肯定的に引用すると信頼度が落ちる文献とか自説を補強する目的で引用するとバカにされる文献とかがあるだけだから、もしも引用に値すると思うのなら匿名記事でもガンガン引用してええんやで。まあこんなガバガバ増田から引用するくらいなら素直に北田(2017)や山岡(2019)を引用しよう!
山北(リバあり)
そもそもがミソジこじらせてる連中が言う「俺らオタク」の定義がガバガバで、ジェンダー論に行く手前でもう突っ込みどころが満載なんだよなあ。アニメ漫画ゲーム以外にも山程オタはいるわけだし
twitterでたまに、男オタクは女や非オタク男と比べて「男は仕事、女は家事」のような性別役割分業を支持する割合が高く保守的である、という結論の棒グラフが回ってきているのを見かける(例:https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/phanomenologist/status/1228500960588124163)。あれはしばしばフェミニストによって「男オタクの女性蔑視の表れ」のように引用されるが、そもそもどういう文脈で出てきた棒グラフだったかちゃんと確かめた人はいるのだろうか? そして、あのグラフをめぐって学者同士の意見が対立していることはどのくらい知られているのだろうか?
ということで、以下であのグラフが出てきた文脈を紹介してみるよ! なお、増田は男オタクだけど、統計とか専門外だよ!
あの棒グラフの出典は、社会学者の北田暁大による若者と趣味に関する研究の一節である(北田 2017: 291)。だがもちろん研究というものはそれだけで完結するものではなく先行研究の積み上げた文脈のもとに成り立つものだ。そして北田(2017)が特に目の敵にして批判しているのが、心理学者の山岡重行による研究である。山岡は2016年の単著において腐女子を心理学的に分析し、腐女子の恋愛観だけでなく彼女たちに向けられたイメージについても論じた(山岡 2016)。
山岡の研究はどう評価すればいいのか難しい。確かに興味深い点が多く、たとえば2015年時点でもオタクに対する否定的イメージが存在し、そのなかでも腐女子は同じオタクからも否定的に見られているということを学術的に明らかにしたこと(山岡 2016: 99, 132)などは、オタクのあいだでは公然の事実とはいえ一定の意義があるだろう。しかし一方で、男オタクと腐女子は相性が良いんだからもっと恋愛すればいいのにというようなアドバイスは大きなお世話というかクソバイスの極みであり、腐女子の心理について質問紙調査のみに基づいてものを言うのはいいとしてもBL作品の構造を論じる上でテキストクリティークを欠いていることは理解しがたい(山岡 2016: 229-230)。山岡はデータに基づく研究の重要性を主張するが、物語の構造などの質的な面に踏み込むのであれば、数字で示されたデータだけでなく様々なテクストに当たって読み込むという人文学的な手法を採用する必要があるはずだ。心理学の実証研究としては面白いが、実証以外の部分で余計なことを言い過ぎている、という評価をするのが最も良いだろうか。
では、それを批判した北田の研究はどのようなものなのだろうか。実はこれ、読んでみるとわかるがかなりのツッコミどころの塊なのだ。
まず、北田がこの調査で用いた方法論について確認してみよう。北田が依拠しているのは、2010年に練馬区の1988年~1990年生まれの男女に対して行った調査である。つまり、2020年現在のアラサーに対して10年前に行われた調査に基づくデータである。このデータは、北田が中心となっている若者の趣味についての共同研究の一環として採られたものであり、北田(2017)が収録されている本に収められた他の論文も同様にこのデータを出典としている。
北田は、東浩紀(2001)のデータベース消費論に依拠しつつ、男オタクの消費が東の言うようなデータベース消費である一方で女オタクすなわち腐女子(ここ、「ん?」と思う人が多いだろうけどとりあえず脇において続きを読んでほしい)の消費が関係性消費である、という先行研究で提示される図式を踏襲する形で分析を進めていく。当然、ではこの論文で言う男オタクと女オタクってのはどんな集団を指すんだ、腐女子かどうかはどうやって決めるんだ、という操作的定義が求められるわけだが、北田がどんな定義をしているのかを以下で見てみよう。
北田はまずオタクの操作的定義を示すが、この時点で首を傾げてしまう。たとえば「ライトノベルが好きだ」という質問はいいとして、「マンガがきっかけでできた友だちがいる」や「アニメがきっかけでできた友だちがいる」という項目は、そりゃそれに当てはまるオタクは大勢いるだろうがコンテンツがきっかけでできた友人がいるかどうかはオタクとしての本質に何も関係ないよね? もちろんこの研究では若者と趣味というテーマを掲げていて、趣味と人間関係がどう連関しているかという点も研究対象に入るわけだからそういう質問項目が悪いわけではないのだが、それをオタクの定義に使われると困惑するほかない。やめてください! 友達がいないオタクもいるんですよ!
そして北田は、上記のような質問で定義した「オタク」を更に「二次創作が好きか否か」で分類する。つまり、オタクを「二次オタク」「非二次オタク」に区分し、それをさらに男女で分けるわけである。そしてこの「二次創作好き」というのを定義する指標として「マンガの二次創作(同じ登場人物で、原作のストーリーとは違うストーリーを考えたり読んだりすること)に興味がある」(北田 2017: 270)というのを持ち出している……えーっと、これだと、『銀河英雄伝説』も『炎の蜃気楼』も『東方』も『アイドルマスター』も原典はマンガではないので当てはまらないのではないか? この調査の後にヒットした『ラブライブ!』も『艦隊これくしょん』も『刀剣乱舞』も『ユーリ!!! on ICE』も、いずれも原作はマンガではない。仮に私が当時練馬区に住んでいてこんなアンケートを渡されていたら、「私が買っているのはアニメ作品の二次創作なんだけど……」と回答に悩んでいたことだろう。「作品」「コンテンツ」とでも言い換えれば済むところをなぜ「マンガ」と表現したのか理解に苦しむ。ゲームを全部ファミコンと呼ぶおかんかよ(この喩えもいい加減古くなってきたな……)。
さらにこの調査は、「二次創作が好きな女性オタク(女性二次オタク)」と「二次創作が好きではない女性オタク(女性非二次オタク)」を区別しているが、肝心の二次創作の中身については区別していない。つまり、BL同人を読んでいようが男女カプの二次創作をしていようが「女性二次オタク」だし、商業BLや一次創作同人専門の読み手で二次創作に手を出していなければ「女性非二次オタク」である。つまりこれは、二次創作が好きなオタクを析出することはできても、本質的に腐女子を析出できる調査ではありえない。もちろん同じことが男オタクにも当てはまり、女キャラが無駄に淫乱になって男相手にサカる同人誌も女キャラ同士がプラトニックにイチャイチャする同人誌も同じ「二次創作」である。種つけおじさんレイプと百合を区別できない質問項目をもとにデータベース消費と関係性消費の対立みたいなこと言っていいのかな……いやダメでしょ。
だが北田の定義のおかしさはこれに留まらない。彼はなんと、「二次創作好きでオタク度の高い女性を『腐女子』という言葉でまとめあげることにはもちろん問題がある。二次創作好きとBL好き、やおい好き、女オタクなどの差異を孕んださまざまな概念が交差する地点に『腐女子』概念は存在している」としつつも、便宜的に「『二次創作好きで、オタク尺度が高位2層である女性』を、操作的に腐女子と」定義している(北田 2017: 307)。はぁ???
言うまでもなく、腐女子の全員が二次創作に興味を持つわけではなく、二次創作に興味を持つ女性オタクの全員が腐女子でもないのだから(男女CPや百合の愛好者はどうすればいいんだ)、この段階で北田が研究対象を正確に捉えられていないことがわかる。「BLが好き」という質問項目を入れてないのに「腐女子」の操作的定義なんてできるわけないだろ! この問題については山岡からもtwitterでツッコまれているほか(https://twitter.com/yamaokashige/status/1131363111636615168)、「興味」と「嗜好」を区別すべきだとも批判されている(山岡 2019: 21)。妥当な指摘だろう。意地悪なこと言うけどさ、これを注に放り込んでるのって悪意ありますよね?
さらに、男オタクに関しても、「二次創作好きオタク男性≒ディープな男性オタク」(北田 2017: 294)と記述している。当たり前だが二次創作にはたいして関心もないがディープなオタクはいるだろうと言わざるを得ない。声優のおっかけを熱心にやっているオタクはディープなオタクではあるかもしれないが二次創作が好きなオタクとはいえないだろう。
総じて、北田の研究は、オタクとしてディープであるか否かとか腐女子であるか否かといったことを、すべて「二次創作が好きか」で測ろうとしている。だがそれはとんでもない勘違いである。二次創作が好きな人とディープなオタク/腐女子であることとの間にはある程度の相関関係はあるだろうが、あくまで論理的には一対一で対応しているわけではないのだから、ディープなオタクを定義したければ注ぎ込んだ時間やカネや知識量を、腐女子を定義したければBL趣味の有無を、それぞれ尋ねるべきだったのだ(特に、客観的な測定が困難な「ディープなオタク」と違って、腐女子かどうかは「BLが好きだ」という項目を入れた上で性別と組み合わせれば一発で判定できるのだから、ここで手抜きをしているのは許しがたい)。
少なくとも山岡の著書にはパッと見で「おかしいぞ?」と思うような操作的定義はあんまり見当たらなかったのに、北田の論文の操作的定義はパッと見でもわかるツッコミどころが多すぎる。これもうどんなグラフ出されても信用できないでしょ。データの処理とか以前に操作的定義がおかしいんだもん。
で、北田にさんざんdisられた山岡は別の著書(山岡 2019)を発表して北田に反論している。個人的にはその議論はおおむね妥当であるように思えたので、詳しく知りたい人は山岡(2019)を読むか、彼のtwitterを見てほしい。私は統計とか詳しくなくて、前提となっている操作的定義のおかしさは指摘できても、標準得点に差があることは「対極にある」ことを意味しない(https://twitter.com/yamaokashige/status/1125940271298990080)とか、このへんはまったく気づかなかったので。
最後に、北田と山岡のどちらの研究もおかしい、と思ったポイントがあるので言及しておく。
北田のデータは練馬区の若者から採ったものであり、山岡のデータは都内の複数の私立大学の学生から採ったものである。つまり、東京圏に居住しているか、通える距離に住んでいる若者のデータに偏っており、さらに後者は大学生のみのデータとなっている。これが血液型性格判断の話であればいいかもしれないが(よくないけど)、オタク文化の拠点が東京などの大都市に集積していることと、就労等によって趣味との関わり方が変化すること、そして趣味に学歴が及ぼす影響を考えると、「東京圏の若者」のみに焦点を合わせて「オタク」の全体像を論じることは適当ではない。そこで集められたサンプルは、オタクコンテンツが身近に溢れていて可処分時間が多く学歴も高いオタクのサンプルに過ぎず、オタクの代表例とも若者の代表例ともいえない。
とはいえ、では他にどういう調査のやりようがあったのか? というと、思いつく計画がどれも高額の研究費を要求するものになってしまって個々人の研究ではなかなか厳しい。少なくとも、東京だけでなく日本全国(最低でも、大阪や札幌などの東京以外の大都市圏)からもサンプルを抽出することは必要だろうし、そのサンプル調査には大勢の非オタクも引っかかる以上はサンプル数もそれなりのものにする必要があるだろうし……こういう大がかりな質問紙使った研究ってやったことないからイメージ湧かないんだけどどんくらい金かかるんだろう。
それと、北田も山岡も統計的データを重視しているので、あえて質的な研究には踏み込んでいないのだろうが、それでもやはりいずれの研究も当事者の言説分析を欠いていることは大きな欠点であろう。オタクは自分たちについて膨大な自分語りを残してきており、それを悉皆調査すべきだとは無論言わないが男オタクや腐女子が自分たちのことをどう語っているのかも踏まえた上で論じられればなお良かったんじゃないかな。もちろんそれは大規模な質問紙調査並にめんどくさい手続きであり、代表性とかどうやって保証するんだ、という感じではあるのだが、せめてオタク自身の手になる非学術的な文献はもっと多く引用されていてもよかったのではないか。それは一歩間違えば大塚英志(2018: 136-140)が指摘するような当事者の営為を無視した簒奪的な研究にもなりかねない、と思う(もちろん彼らは文化そのものを論じているわけではないので、文化を論じる研究者に求められるほどの慎重さは要求しなくてもいいとは思うが)。
いやでもやっぱりこれ北田(2017)のほうがひどいわ。山岡(2016; 2019)の操作的定義を見てると、彼自身がオタクではないにせよ、趣味によってつながる人間関係のありようみたいなのを肌感覚でわかってるって感じがするけど、北田の定義はトンチンカンなんだもん。もしわかった上でやってるならクソだけど、仮に本気でああいう定義を持ち出してきたんだとしたら、それはもう根本的に趣味でつながる人間関係がどんな感じなのか肌でわかってないってことだよね。趣味人としてのリアルからかけ離れすぎてるんだよな。
あと北田の研究がひどすぎるからって社会学全般が悪く言われないといけない理由はないので念のため。北田の研究は別に社会学者なら誰もが参照してしかるべきみたいな位置づけのそれではないので……
よく分からんのだが、その北田氏の研究がいい加減なものだとしても
2007年の練馬区の若者においては、漫画やアニメが好きで二次創作を好む男が
これ、回答の平均値じゃなくて標準得点を元にしたグラフなのよ。標準得点をもとにそんなこと言えるか? って山岡が批判してるからそれ読んで(https://twitter.com/yamaokashige/status/1126035720122953729)。
ワイが間違ってたわ。言えるっぽい。すまん。
続きはanond:20200722142616で。