それだけなのに、本当にそれだけなのに、なぜ狼少年は最終的に死ななくてはいけなかったんですか?
そのたびに、村人たちは大勢で駆けつけてきました。
しかし、村人たちは少年をだんだんと信用しなくなり、誰もその嘘に騙されなくなりました。
しかし、この話は道徳話としては不完全であり、そもそも合理性に欠けています。
つまり、嘘を諌めるこの話自体がひそかに「嘘」をついているわけです。
この増田では、狼少年の話の不完全な点と「嘘」を指摘し、より正しい「狼少年の話」の構成を試みます。
あと、見かけ上の問題ですが、狼少年の話が持つ嘘はカギ括弧付き(「嘘」)、本増田で構成する正しい狼少年の話もカギ括弧付き(「狼少年の話」)で標記します。
まず、指摘事項は以下の3点です。
狼少年には叫ぶ余裕があり、不意をつかれたわけではないので、木に登るなり池に飛び込むなりの逃げ方があったはずです。
一方で、その「災害情報」を無視した村人が助かっているのは合理的に欠け、その点が嘘つきを悪者にするための苦しい「嘘」だと言えます。
その時間、外に出ていた村人も居るはずで、村人が誰一人として被害を受けていないということはあり得ないはずです。
先にも書きましたが、無邪気な嘘の代償が本人の死というのは現実の比喩として正しいのでしょうか?
詐欺罪を考えてみれば、それは罪状的にも「嘘」であり、死という重すぎる罪状は合理性に欠けてますよね。
そして、狼少年はそれを機に改心できたとしても、死んでしまってはその気持ちを行動として表現することができません。
ヒーロー物の悪人が死ぬのを見て視聴者自身が反省を抱かないように、狼少年が死んでしまっては聞く側の反省は促されません。
村人は嘘が悪いことだと忠告し、狼少年の嘘を辞めさせなかったという過失を犯しています。
教訓話としては、これに対しても反省を促すために、村人にも狼少年同様の罪を背負わせるのが正しいはずです。
ならば、なぜ村人の罪が描かれないのか?
それは、この話を作り、語るであろう大人の罪を描かないための「嘘」なのです。
つまり、反省するのは狼少年に表象される子供たちだけでよいという「嘘」が含まれているわけです。
(狼少年の話には、少年でなく羊が殺されるバージョンの話もあるわけですが、どちらにしろ、大人の罪を描かない点において「嘘」であるわけです。)
こんなに不完全で「嘘」つきのストーリーが、嘘に対する正しい教訓話になるはずがありません。
よって、正しい「狼少年の話」は例えば、以下のように表現することができます。
そのたびに、村人たちは大勢で駆けつけてきました。
しかし、村人たちは少年をだんだんと信用しなくなり、誰もその嘘に騙されなくなりました。
それを知った少年は一人だけ逃げることもできましたが、今までの嘘を反省する思いから「狼が来たぞ~」と必死に叫びます。
仕方なく、少年は村人たちを見捨て、狼が来たのと反対方向の高台へと命からがら逃げだしました。
いかがでしょうか。
そして、この改良版のストーリーを見ると、既存の狼少年の話に含まれる最大の欠陥が見えてきます。
改良版では話の構成を変えたので理解してもらえると思いますが、狼少年が狼をみつけて叫ぶ最後の「狼が来たぞ~」は、自分が助かるためでなく、村人を助けるための叫びだったのです。
だって、狼少年は村人を無視すれば、一人だけ助かることができたわけでしょう?
それでなお、村人に向かって叫んでいるのは、自分の命を危険にさらしてでも、村人を助けようとした意志があった以外に理由が考えられません。
そして、この真実は私が改良した「狼少年の話」だけに限った話ではありません。前提は全く同じですから、既存の狼少年の話でも狼少年は同じ感情で「狼が来たぞ~」と叫んだはずです。
ただ、既存の狼少年の話ではその感情をはっきりと描いていない。そのことこそ、教訓話としての最大の欠陥です。一番大事な狼少年自身の改心をわざと無視させる構造になっているのです。
もっと強めに言うなら、最後の「狼が来たぞ~」という必死な叫びは、一人だけなら安全に助かることができた狼少年の、自分の命を危険にさらした改心のための叫びだったんです。
狼少年は既に改心を示していたんですよ!
村人に助けを求めていたわけではなく、村人を必死に助けようとしていたんですよ!
なのになんで村人はその改心を無視するんですか!
こう考えれば、無邪気なだけの狼少年を死という釣り合わない運命から救ってあげたくなる私の気持ちもわかるでしょう?
まとめると、狼少年の話における最大の欠陥は、既に「叫び」として現れている狼少年の改心をはっきりと読み取らせることができない構成の悪さにあります。
そしてそれは、僕のような嘘つきが改心を目指す上では耐えられないことなんです。
狼少年の改心への悲しみを、村人も語り手も聞き手も無視して踏みにじっているという点で、「既存の狼少年の話は絶対に間違っている!」と、狼少年の気持ちがわかる僕も呼応して「叫ば」ざるを得ないのです。
そうです。これこそが、この話を書きたい本当のモチベーションでした。
ひそかな「嘘」に覆われた既存の狼少年の話の落ち方では、この話を身近に感じる僕にとって「改心しても死ぬんなら、死ぬまで『村人』に嘘をつき続けてやる!」と、全く救いがないのです。
僕のような嘘つきに改心の余地を与えるには、どうしても狼少年の話の「嘘」を暴き、真実を「叫ぶ」必要があったのです。
では、「狼少年の話」が示す本当の教訓は何かを書いて、話を締めましょう。
それはよく知られたように、嘘をついてはダメ…ということではないのです。
むしろそれは逆に、嘘をつく責任を自覚するといったことになるでしょう。
なぜなら、狼少年が責めを受けるべきなのは、嘘をついたこと自体ではなく、正しい嘘をつけなかったことだからです。
もし「狼が来たぞ~」の嘘が村人から信用されていないと知っていれば、もっと大きな嘘をついて気を引くという手段があったはずです。
例えば、「王さまが来たぞ~」という嘘をついたのなら、それを無視することによるリスクに耐えられず、村人の誰かが顔を出してくれたはずです。
そうしたら、今度こそ狼の存在を目の前に提示することができ、村人の被害は防げたはずでしょう?
いささかロマンチックな話ですが。
だから、狼少年が本当に反省するべき点は、いち早く危険を知ったのに、肝心なときに正しい嘘がつけず、犠牲者を出してしまったことなんです。
それはさらに言うなら、無邪気な嘘(狼が来たぞ~)で満足して、人を納得させる嘘をつくための練習を怠ってきたことこそ反省するべきなんです。
世の中においても、それこそ嘘を交えてでも、とっさに説明する能力はとても大事なものなんですから。
その証拠が、既存の狼少年の話というよく知られた「嘘」だというのは本当に皮肉な話ですけどね。
このように、上の3つの縛りから考えていけば、既存の狼少年の話とは全く正反対の教訓が「嘘」なしに得られるはずなんです。
いや、既存の狼少年の話が、嘘を責めるようなストーリーを持ちながらも自身が隠れた「嘘」で覆われているという矛盾を責めてるわけじゃありません。
そんなことは、狼少年らしく嘘つきである僕に許されたことではありませんし、もう一度繰り返しますが、嘘をつくこと自体は決して悪いことではないんです。
ただ、既存の狼少年の話が、狼少年自身と同じく「無邪気に」嘘をついていることがいけないと気づいたわけです。
つまり、嘘は悪だと認識させてしまう無邪気な「嘘」で、その聞き手に嘘をつく責任(生産者責任)を自覚させないことこそ本当に悪いことなんです。
それは、むしろ村人を助けるような正しい嘘を妨げる行為なのです。
そして、嘘をつく責任を自覚させないと、世の中の人に「無邪気に」しか嘘をつけず、肝心なときに嘘をつけない狼少年の僕がまた一人育ってしまうんです。
そう、以上のように合理的に考えれば、村人を犠牲にして助かってしまった狼少年の僕にも、正しい嘘のつき方を予め教えておけば、村人はみんな助かったわけです。
そして、生きて正しい嘘をついてこそ、かつて狼少年であった僕にも、責任のない「無邪気な」嘘から反省し、改心するチャンスは必ず巡って来るはずなんです。僕は無邪気であったことを反省するのです。
足跡も見ないということは、村人の中に猟師がいないからそうなる。最初から終わってる。1回目でもう終わり。さっさと村を出ろ。 逆に専門家がいる場合狼がいなくても、糞 抜け毛...
つまり、どういうこと?
合理的っていうかなんかポリコレに配慮したフィクションみたいになってきてんな
これ、最後まで読むと、ポリコレ云々っていうか、「信頼できない語り手」って話じゃないの?
少年は「狼が来たぞ~」と何度も嘘をつきます。 そのたびに、村人たちは大勢で駆けつけてきました。 しかし、そのうちに、村人たちは少年をだんだんと信用しなくなり、誰もその...
>>> イソップ寓話のギリシャ語の原典は失われている。のちのラテン語の本では狼が食べたのは「羊」であり、ギリシャ語を含めて多くは狼が食べたのは「(羊の)群れ」もしくは...
専門家会議は「コロナが来たぞ~」と何度も嘘をつきます。 そのたびに、市民たちは大勢で自粛してきました。 しかし、そのうちに、市民たちは専門家会議をだんだんと信用しなく...
問題は専門家の言ってたことが別に嘘じゃなくて、 実際に来てたのに、村人が勝手に相手にしてなかっただけなんだよな
そう。ウソと決めつけていたのは市民であり、 専門家は最初から何1つウソは言っていなかった。
その話をするなら、まず、オオカミ少年の労働問題についても触れなくてはならないでしょう。 なぜ、オオカミ少年は少年なのに、羊の番をさせられていたのか。 少年なのに働かされて...
そういや、「狼少年の話」ってなんで日本では、羊じゃなく少年が食われることになってんだろ? 原作では羊なんでしょ?
少年が死ぬんではつじつま合わないよな。 オオカミが来たと言ったのが信用してもらえなかったんなら、少年1人で逃げて他が食われそうなもんだ。
一人で逃げたから襲われたんだろ。 人間が大勢で逃げたり、逆に歯向かってくれば、狼の群れだって手を出すのを躊躇するだろう。
日本では羊に馴染みが無いからじゃない? 狼の方はニホンオオカミが居たけど、羊は居ないでしょう。
原作は残ってなくて羊が殺されるバージョンと少年も殺されるバージョンがどっちも残ってるだけだぞ
というかねえ、問題の本質は「羊は誰のものなのか?」だと思うんだよね。 ウィキペディア見たら「そして村の羊は全て狼に食べられてしまった」と、 まるで村の所有物かのように書い...
村所有の羊だったら早々に羊飼い首になって担当替えられるし 少年(またはその家族)の所有物と考えるべきよね
この話、原典も残ってないし曖昧な点が多すぎるんだよね。 それこそ、イソップ寓話っていうのがそもそも嘘で、後世の人間の創作でした~みたいなウィットが効いた話なのかもしれん...
今日の緊急地震速報誤報の話で「狼少年」ってワードが出てたけど、やっぱり「狼少年」は一番真実を知りうる立場に居るのだと思った。 「狼少年」を萎縮させる元の童話は本当に良く...
かわいそうなぞう 空襲はなかった。なぜゾウは殺されたのか 絵本『かわいそうなぞう』の真実 「猛獣処分」考(1) https://news.yahoo.co.jp/articles/93bdfcdaf4b5ca04e2014674b78f2e2ece47078b
村人が行動せざるをえない情報を意図的に改ざんして流したのは大きな罪でしょう (罪の定義が村人が村人の行動に対しての裁量の範囲内だったとして) むしろその少年が村人が行動...
というかこれ、フィクションなんじゃない? そういう理屈に狼少年だったらどう(無邪気に?)抗弁するか、みたいな。
なんか根本的に誤解というか話を摩り替えようとしてる感があるんだけど 「少年は羊飼いで、羊を守らないとどうせ失職して死ぬ」と「狼は羊を狙っている」っていうのを 意図的に無視...
おとぎ話にチャチャ入れるブーム来てるん?