はてなキーワード: バーチャルyoutuberとは
久しぶりに見かけて素で「えっ、誰?」って思ったのが
天神子兎音
富士葵
なんだけど、パッと見で同一人物であると判断できないほど変えてしまうのって、せっかくの記憶への定着や愛着を損ねてしまうのでは・・・?と心配になるんだが
Twitterのアイコンをころころ変える人みたいな感じ・・。
自分が「顔と名前の一致が弱い」「人の名前の覚えが悪い」ってのもある(認知バイアス)ので、なおさら。
現モデルは3代目なんだけど、1代目→2代目はまだ面影が残っていてわかるんだけど、2代目→3代目がマジでわからんかった・・。しかも3Dと2Dイラストでもまた違うし
言うまでもなくこの投稿は所謂物申す系だ、嫌いな人はバックして推し事でもしてくるように。
また筆者はこの業界に詳しいかと言われると正直言って自信がないと前置きしておこう。
後はてなダイアリー自体も始めて使うが故に不慣れな部分も多いと思いますがご容赦下さい。
ゲーム部の騒動は4月に始まった。それ以前からRMT業者絡みではないかとの疑惑の目は向けられていたものの決定的な証拠はなく、こう言ったらなんだが一部のアンチの妄言に過ぎなかった。
しかしCOOである橋本直人のテレビ出演によりその疑惑はほぼ確定のものとなり、それから程なくして演者のツイッターでの内部告発が起こり大問題となった。
あまりにも大胆な告発とその内容故にこのままゲーム部は解散となるのかと少なくとも私は思っていたが、まさかの和解が発表された。
そしてそれから二ヶ月以上経った6月27日に『桜樹みりあ』の、7月7日に『道明寺晴翔』の演者が何の告知もなしに変更となった。特に『道明寺晴翔』の件は他のバーチャルyoutuberも反応を示すほどの騒ぎとなった。
この演者の変更事件について自分なりの考えを述べていきたいと思う。またその前段階としてバーチャルyoutuberとはなんなのかと言うことについても考えていきたいと思う。
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バーチャルyoutuber… その呼び名の起源とブームの火付け役は間違いなく「キズナアイ」であるだろうが似たような活動の者はそれ以前から居たりと意外と定義が難しい分野であると思う。また現代においてもそう呼ばれる人々の活動は多岐にわたる。
ライブ2Dか3DCGかは問わずそれらを使用し、Youtubeにて動画投稿または生放送を行うものの総称。この点について多くの人が同意見だと思う。
しかしその活動内容は多岐にわたり語源たるYoutuberに近い者、それ以前からの動画投稿者であるゲーム実況者や歌ってみた等の要素をもつ者、はたまたアイドルや芸人のような芸能人の派生ともとれる者も存在する。
これらは顔を隠し活動しようとあくまで「人間」であってそれらが二次元のアバターを被って行動しようと決して「アニメキャラクター」ではないのではないかと私は思う。
逆にアニメ等のキャラクターからバーチャルyoutuberと成った者も存在する。元々有名なニトロプラスの「すーぱーそに子」や自主製作アニメ出身である「ピーナッツくん」等が例となるだろう。今回の主題であるゲーム部もまたゲーム実況こそ行うもののショートドラマ動画に力を入れていたりと「アニメキャラクター」的な要素が強いのも特徴であった。アニメキャラクターと捉えるなら決して声優変更自体は問題ではないとも捉えられるが…。
しかし彼らはだからと言って完全なアニメキャラクターではない。比重は小さいとは言え生放送を行い、他のバーチャルyoutuberとコラボも行い一部はプライベートでまで付き合いがあるという。その上それとは別に顔出しゲーム実況者ともコラボしたりと下手したら他のバーチャルyoutuberよりもリアル寄りなんじゃないかとすら言える。
なによりも「バーチャルyoutuber」のブームに便乗してそうであると視聴者に認識されるたのだ。最初からアニメキャラクターでありたいのであれば
DCGアニメーションとでも銘打っておけばよかっただろうがそうはしなかったのだ。
巡洋艦を発展させた結果生まれ巡洋戦艦と名乗ろうと最終的に戦艦と曖昧な扱いを受ける金剛級やシャルンホルスト級が生まれたように起源が違おうとそう認識された以上は同じものなのだ。
だがそれでも運営は演者を『声優スタッフ』と称している以上はアニメと見ることもできる。アニメ、特に長期アニメは声優変更はどうしても起こるものである。
しかしそれらの声優変更は決して告知もなしに行われることはありえないし、そもそもアニメは声優が公表されているものだ。やはりアニメと呼んでいい代物ではないのではなかろうか。
また最近「キズナアイ」が分裂し、旧来の演者も続投しながらも新しい演者が登場することとなった。だがこれは可能性の模索と理由付けはされている上に設定に矛盾が生じているわけではない。
そしてそれ以外にも体調不良等で演者が変更となったバーチャルyoutuberも存在する。だがそれも告知は行われた。
これからバーチャルyoutuberと言うものが続くのであれば演者の変更は起こり得るものであるだろう。しかしが演者が「魂」と呼ばれるこの業界において告知なしだけはやってはいけないタブーではないだろうか。
最後に「旧桜樹みりあ」と「旧道明寺晴翔」自身についてである。まず4月の事件の内部告発としてこのようなものがある。
「お前ら声優スタッフなんて代わりは居るんだよ。」元ツイは保存していない故にしっかりとした引用は出来ないがこのようなことを他のスタッフに言われたとされる。
ゲーム部には脚本があったり、演者と別の人物がゲームプレイを行う所謂「ガチャピン」がおこなわれていたと言われる。不確定な情報だが今回は仮にこれと前述の告発が真であると仮定して話を続ける。
これだけ見ると彼らはまさしく声優スタッフでありそれ以上でもそれ以下でもない、しかしながら彼らは決してショートドラマや実況“動画”のみを行っていたわけではない。かなり前に書いたこととなるが生放送を行いコラボまでも行った。普通の生放送に関してはガチャピンを行っている可能性もあるが、コラボそれも他チャンネルにお邪魔した生放送で台本と言うのは流石に無理がある。実際に仲の良かったバーチャルyoutuberも存在するからここまで騒ぎになったわけであるのだし。そうなると演者もまた脚本家の一人と言えるのではなかろうかそれも即興で話を書き上げる優れものの。
そして他のバーチャルyoutuberと仲が良かったこれもまた大きなポイントである。バーチャルyoutuberに限らず動画投稿者や生主は横のつながりと言うのは大事なものでそれ故に伸びた人も多くいる。その上企業所属のバーチャルyoutuber同士のつながりと言うのは企業同士のつながりでもあるとも言えるのではなかろうか。企業同士をつなぐとなるとある意味営業とも捉えるのではなかろうか?
彼らは声優のみならず多くの役割を持った資格は存在しないけれども大事な技術職員と私は考える、切り捨てるには実に勿体ない存在だ。
運営は外道なだけではなくコアなファンから見て下手を打った、そんな運営があらたなプロジェクトを展開しようとしている。もしこれが成功してしまったら自分の応援しているバーチャルyoutuber運営も同じ真似をするかもしれない。だから株式会社Unlimitedを絶対に許さない。
キズナアイさんは、バーチャルYoutuberの始祖としてこれまで活動してきた。
そこで、最近姿形はまったく同じなのに声と人格が違う存在をインストールしたり、中国語が話せる人格をインストールしたりしていた。
一つの姿なのに別の人格がたくさんいる。まるでSFの世界が出現したかのような先進性である。
で、本題だがバーチャルYoutuber略してVtuberだが、Vtuberって言葉そのものが一人歩きしていてバーチャルYoutuberって言葉の略語ではなくなっていたりする。
なので、バーチャルYoutuberとVtuberって同義ではない。
個人的な感覚としてキズナアイさんはバーチャルYoutuberであってVtuberではないと感じている。Vtuberって言葉の定義からは色々と外れるからだ。
今キズナアイさんは新たな素晴らしい一歩を進み始めた。
その中で、Vtuberとは袂を分かったので、Vtuber界隈で彼女を語るのは失礼に当たると考えている。
我々は過去の彼女の痕跡に敬意を払いつつも、Vtuberの第一人者としてキズナアイという存在について語るべきではないし、Vtuberというくくりでキズナアイを評価することもやめるべきだ。
いやー、引用されてるマシーナリーとも子の記事については、法則分かりやすいでしょ。
要は、客観的な情報になればなるほどフォーマルに、主観的なパッションが乗れば乗るほどカジュアルになる。
「文体が混ざる」という表面的な部分にだけ注目するのではなく、「フォーマルさ」「カジュアルさ」のグラデーションの発現として常体敬体を捉えるべき。
それに私が始めた1年前と違って、現在はバーチャルYouTuber的なライブ配信を可能なスマホアプリも数多くリリースされています。
中でも「REALITY」や「Mirrativ」、「カスタムキャスト」などが人気ですな。これらは既に用意されたアバターをカスタマイズできるし、アプリから直接配信もできるので、絵が描けない人でも、普段スマホしか使ってないPC操作が苦手な人でもバーチャルYouTuberになれちゃう。
ここらへん分かりやすい。
客観情報から、徐々に主観が入って敬体常体の合いの子の「ですな」を経由し、最後には完全に自分のパッションを伝える文章になる。
例えば、3DCGの姿でダンスを踊ってる動画を配信したいんならVR用のトラッカー(さまざまな物体に取り付けることで、VR内でそれらの位置を割り出し、現実の動きとVR内での動きを同期させる端末)を用意しなければならない。費用は60,000~数十万円かかるのでピンキリっすね!
これも同じ法則。
配信にまつわる自分自身の苦労を頭に置いた文章は常体だけど、客観的な入手手段の情報になると敬体に移り変わる。ただ「ピンキリ」と主観がちょっと混じるので「っすね!」で微妙なカジュアル感を加えてる。
敬体常体の使い分けについては、「小学校学習指導要領」にも言及があるようだ。
オリジナルへのリンクが切れてたので孫引きになるが、「ですます調・だである調、敬体と常体の使い分けと正しいルール」にはこうある。
(ア)丁寧な言葉と普通の言葉との違いに気を付けて話し,また,敬体で書かれた文章に慣れること。
「丁寧な言葉と普通の言葉との違い」については、日常の場面に応じて使っている話し言葉を中心にして気付き、先生や家の人、さまざまな学習の場面で出会う人などに対して、具体的な場面で丁寧な言葉遣いで話すことができるように指導することが大切である。「敬体で書かれた文章」については、まず、入学して初めて出会う教科書の敬体の文章に読み慣れるようにし、漸次、自分でも使い慣れるように指導していくようにする。
しかしこういうパッション交じりの記事の場合、その読者は「お客様」であると同時に、「オタク仲間」でもある。
お客様には敬体で語りかけるべきですが、オタク仲間には常体で語りたいよね。
その結果が、こういう文体の使い分けに現れているんじゃないかな。
Webという不特定多数の目を想定した場での文書においては、こういった敬体常体の混ざった文体は合理的で自然なものなのです。
引っかかるか、残念だったな。慣れろ。
バーチャルYouTuberのファンアートとか配信(動画)の切り抜きとかは好意的に受け止められてるようなんだけども、「twitterまとめ」は見かけないんだけどNGなのかなー。どうなんだろうか。
活動が長くなってきたので、そろそろ「活動履歴」みたいな振り返り記事が見られるようになってると便利だと思うんだけども。
とはいえ、いわゆる「まとめサイト」に対してインターネット世間からよくない目が向いているのも理解しているのだけども。もちろん善意でやろうとしてるし、権利者に怒られたらすぐひっこめるようにするんですが。
どうなんかなー。
そもそもtwitter利用規約的には、たしか「引用・参照される前提でつぶやいてね」ってなってたと思うんで断りなしにまとめてよいらしいんだけども。
がどうしても苦手で最後まで読めないんだけど、増田やブクマカはそういうのあまり気にしないよね。
例えば以下の記事。
『5,000円から始められる!? バーチャルYouTuberになるためのお金の話(マシーナリーとも子)』
https://hikakujoho.com/work/62874800012376
あと「おっさんだけど美少女っぽい声を出したい!」って人はボイスチェンジャーも必要ですね。これもいろいろあって(中略)手頃な選択肢も結構ある。予算や用途に応じていろいろ試してみるといいよ。
さて、上記のような方法で、あなたは晴れてバーチャルYouTuberとしての肉体を得ることができました。各々いろいろと楽しむ目的はあるだろうけど、それとは別に脳内にチラつくのは「バーチャルYouTuberって儲かるのかな!?」ってことじゃないかな。
例えば、バーチャルYouTuberになれば、自分のグッズを作って売ることもできるのよ。現に私は「BOOTH」(pixivと連携して、創作物の売買ができるサービス)で「マシーナリーとも子のキーホルダー」や「LINE STORE」で「LINEスタンプ」を作って売っています。
コロコロ変わるにしても、地の文や独り言はフランクな言葉遣い、読者に話しかける部分は丁寧語という感じで
ある程度法則にのっとって使い分けられているならまだ分かる。でも上記記事は完全に混ざっている(最後の引用箇所が顕著)。
たぶん自分は気にしすぎなのだと思う。上記記事は300以上もブクマがついているけど、
誰も文末表現の不統一について突っ込んでいない。日本語として内容が伝わればそれでよいのだ。
ただ、それまで断定形で書かれた文章が途中からですます形になると
フランクな物言いだった友人が急に「僕はこう思います」なんて言い出したら混乱しませんか。
段落単位で変化しても混乱するのに、それが2~3文単位でコロコロ変わられると読んでいてすごく引っかかるんです。
今思い出したのですが、小学校の先生が文末表現の統一に結構こだわる人でした。
その影響が少なからずあるかもしれませんね。
他に同じ人いないかな。
私は、名もなき1人のオタクである。最近ある悩みで苦しんでいるので、整理するためにここへ記そうと思う。長いぞ。
私は普段、アニメ、イラスト、漫画、ノベル、ゲーム、音楽、動画、等など様々なオタク的コンテンツを楽しんでいる。が、それらを自分で作ることが出来ないのだ。当たり前のことのように思うかもしれないが、私はそこに強いコンプレックスを感じている。
コンテンツには絶対に作り手がいる。そりゃそうだ。作る人がいなければ、何も生まれない。
さらに、オタクの世界には「ファンアート(二次創作)」という文化がある。自分はこれが好きですよ、とハマっている作品のキャラクターを描いたり、そのキャラの登場する小説を書いたり、動画を作ったりすることだ。オタクをしていると、それらを目にする機会がとても多い。上手い下手はともかく、全てのオタクが何らかの創作活動をしているのではないかと思ってしまう程度には多い。オタクは、オタクが生み出したものを目にする機会が途轍もなく多いのだ。
だが私は、絵も満足に描けなければ、小説も書けないし、音楽が作れるわけでもないし、何も生み出せない生産性のないオタクだ。
自分なりに考えてみた。
魅力的なコンテンツがあって、それを好きなオタクのコミュニティがあって、そのコミュニティは大抵絵や小説が描/書ける人間で構成されていた。少なくとも私の周りではそうだった。(オタク友達を求めて入った部活が美術部や文芸部だったからね)
生産が出来なければ、オタクの輪にはまず入れない。友達ができない。
私もオタクであるはずなのに、何一つ生み出すことが出来ない。ただ消費するだけの存在。世の人々(私の目に映るオタクたち)が当たり前のようにやっていること(創作活動)が、私にはできない。技術力も、才能もない。今更頑張る勇気もない。
素晴らしいものを見て、聴いて、私も同じことが出来たらどんなに素敵だろうかと夢想するだけの日々だ。
絵を描いたり、小説を書いたり、音楽を作れたり、動画を作れたり、立体物を作れたり、作品の考察を発表したり、そういう生産者側への憧れが非常に強く、消費するだけのオタクに価値はないと本気で考えているのに、どこまで行っても結局消費者でしかない不甲斐ない自分。
最近ではどんなに良い創作物を見ても、罪悪感と劣等感ばかりが己の中に積もり、楽しめない。
コンテンツに深くハマっていくほどその裏にある作者の存在を意識せざるを得なくなる。生産者の才能への嫉妬、生産の努力すらしようとしない自分への苛立ち。
だんだんと、オタクコンテンツを見ること自体がしんどくなる。しかし私の趣味はそれしかない。
幼い頃からパンピの持て囃す流行のアーティスト、アイドル、ドラマ、スポーツetc…には唾を吐いて生きてきたのだ。今更手のひらを返して推すことはできない。
こんな私だが、創作的な活動をしてみたいと手を出したことはある。
漫画を初めて読んだ小学3年生の頃から絵は描き続けているし、ライトノベルにハマった高学年の頃から数年間小説の執筆にトライもした。
ボカロが流行っていた中学時代、楽曲制作に憧れてギターやピアノを始めた。DTMの勉強もそれなりにした。
MMD等のCG動画にハマった頃は動画も作ってみたし、3Dキャラクターのモデリングにも挑戦した。
拙いシステムとクソみたいなシナリオとゴミのような立ち絵で、自作のゲームを作ったことだってあるのだ。
しかし何一つ、満足に完成させることはできなかった。自分で納得のできるものは作れなかった。納得ができるクオリティになるまで粘り強く努力をするだけの忍耐力もなかった。
軽率に何かに挑戦し、すぐに諦めるダメな自分。結局無産な凡人のまま。
才能のある人が羨ましいと喚きながら、努力をしない自分から目を背け続けている。
オタクとして生きていくのがつらい。でもオタク以外の生き方を知らない。オタクっぽくない話はできない。
絵描きは絵描きしか相手にしないという話が一時期Twitterで話題になったように、生産者でなければオタク友達はできないように思う。(大抵のオタクは創作活動をしているという前提)(その前提が間違っている可能性には気がつかないふりをしている)
この状況を打開できる策はまだ思いついていない。
なにもかも諦めて消費者として一生を終えるしかないんだろうか?
どうなんだろうね。
ちなみに今私はバーチャルYouTuberにハマっている。
好きになったものに軽々しく手を出す癖だけは治らないので、自分で描いた立ち絵を動かして、ボイチェンを使って美少女ライバーごっこをしようとしている。
2019年1月に活動休止したVtuber牡丹きぃが本日復帰した。
そして復帰と同時に以下の文書が配布された(運営と牡丹きぃとの紛争の経緯に関する合意文書)
本謝罪文書は、Twitter やチャット等のやりとりをとりまとめ、第三者(弁護士等)を交えて状
(中略)
付記4:経緯
(中略)
2019/01/03 19:30 頃:
牡丹きぃ Twitter アカウントで 「きぃ、ずっときぃのままでいたい。〜」といった
※合わせて、牡丹きぃ氏により Twitter アカウントのパスワード変更がなされた
--
牡丹きぃ Twitter アカウントで 「パパに無理やり先ほどのツイートを消されました〜」から
で、実際に報酬に関するツイートが以下の通り(実際のツイートは削除済みのため、当日に作成されたアーカイブ画像より転記)
01/03(木) 20:54:26
もちろんスーパーチャットも、すべて運営さんにいっていました。
(後略)
牡丹きぃは本文書において当該ツイートが虚偽であることを認めた。
しかし本業務委託契約においては契約書類が不在のため、ツイート時点での認識相違や勘違いもありうるため一方的に責めるつもりはない。
ただ現時点では事実と異なることを周知してしまった点について謝罪の1つでも行うべきではないか。
現在牡丹きぃが所属しているOveridea運営は牡丹きぃを擁護するあまり強い口調でツイートを繰り返しているが、その前にまずやることがあるだろう。
わたしは結局人の目世間の目が気になってわたしのしたいことができません。人の目がきになるのはわたしがわたしの顔が不細工で嫌い身体が醜く太ってるから嫌い、だから。整形して痩せたら素敵なことが始まる気がする。わたしのやりたいことが人の目を気にしないでできる気がする。でも整形するお金を作る行動が、痩せるための行動ができない。わたしにはできない。ぼんやり思っていた。そんなことを思ってました。いま深夜2じ11。ぼんやりしていたものがはっきりしました。なんではっきりしたのかというと、インターネットで複数人でよく通話をしていた中の女の子の1人が、顔出しをしてYouTubeで配信をしているのをみたから。その子はそこそこリスナーがいてTwitterのフォロワーは3000人くらいできていた。顔はすごくかわいかった。見なければよかったと思う。わたしはその子が羨ましかった。わたしのなりたい姿だった。わたしは親友と呼べる友達が3人いる。あとは高校生の頃青春をすごした友達も5人くらいいる。5年付き合っている彼氏もいる。今年から同棲していて来年結婚する。彼はインターネットで出会って、こんなわたしでもかわいい好き愛してると言ってくれる。わたしは両親、おばあちゃんとも仲が良くて、GWには実家に帰ってお土産を渡そうかなと思っています。インターネットの中の顔も知らない5年の付き合いの友達にもわたしはいい子だしおもしろいねと可愛がられます。でも、わたしは何か足りない。周りのみんなは大好きだけど、優しくしてくれるけど、わたしは自分のことが大嫌いです。
わたしがぼんやりと感じていたもの。今のわたしはほんとうにやりたいことが出来ていない。1回の人生これでいいのか?この思いが、YouTuberになった顔も知らなかったインターネットの知り合いの女の子を見てはっきりしました。わたしはこの子みたいになりたかったんだ。彼女はわたしの彼氏とインターネット上でわたしと出会う前仲がよかったみたいです。そもそもYouTuberになった彼女を知ったのは彼が「〇〇って覚えてる?いまYouTubeで顔出しで動画あげてる、ネットの知り合いでみたなかでも〇〇1番かわいいかも」と言ってわたしに動画を見せてきたからです。わたしはその瞬間心臓を掴まれたような感覚がした。気丈にふるまっていたけど、頭がおかしくなりそうになりました。わたしもインターネットで知り合った女の子なのにね。いま後悔したのかなわたしの彼氏。と思いました。ずっと彼女の動画を見ている彼を見るのは嫌でした。わたしってなんにもいいとこないな。バーチャルYouTuberのオーディションとか受けたいけど彼氏に気持ち悪がられるだろうし。わたしはインターネット上で声を出すときはいつもとぜんぜん違うかわいい声をだす。彼氏にはお前声つくってたんだなって馬鹿にされました。ぜんぜん作ったような感じしなかったけどお前もつくってたんだって。だってインターネット上くらいではかわいく思われたい。神様はわたしに声だけはかわいくだせるようにしてくれていました。歌も上手く歌えるようにしてくれていました。そんなわたしにインターネットはとても居心地がいいのです。顔は出さなくてもいいし、かわいいと言って貰える。なりたいわたしになれる。彼氏もそんなわたしのことをすきになってくれたし。わたしは彼氏とは現実世界であわなければよかったって思います。会いたくなかったです。でも彼に「会わないならお前とは一生絡むことはないだろうな」とインターネット恋愛していたときに言われてて、彼をインターネット上で失うのがいやだったから会いました。自分の顔写真、身体の写真、全て他人撮りのものを20枚くらい送りました。これでも会えるのかって。彼は不細工でも愛嬌がある、と変換できて、太っている子がすきだったからかわいいって言ってくれました。だから会いました。でも会わなきゃよかった。一生インターネットの中でかわいがられていたかった。気持ち悪い思想だけど本心です。わたしのことをプロデュースしてくれる人がいたら、インターネット上で活動したい。いま彼氏と同棲して半年、幸せだしたのしいこともあるけど、そんな人がいたらわたしは彼氏と別れて、そっちをとります。悩むことも無く。なんでこんな事を考えちゃうんだろう。いま2じ46。30分くらいこんな文章を眠っている彼氏の横で書いている。いやになる。また自分が気持ち悪くてきらいになりました。この文章なにが言いたいかわからない。わたしも何がしたいのかもうよくわからない。たまに死にたくなる。幸せなのに死にたくなる。死ぬのは惜しいのに死にたくなる。自分のなりたい像になれないから死にたいのかな。よくわからない。でも書いたおかげで気分が落ち着いた。それはわかる。
自分の仕事はちょっと特殊で、複数のバーチャルYouTuber(以下「vtuber」とする)運営会社と関わる機会があった。
以下は私見であり事実では無いかもしれないけど、こういう立場の人間もそう居ないと思うので書いておく。
vtuber運営会社はだいたい大学生ノリかブラック企業かに分けることが出来る。
大学生ノリは特に深く考えて運営をしていないせいで、いろんな面でまともな会社とは言えない。給料面だったり福利厚生面だったり。
ブラック企業は当然社員を使い捨てのコマとしか思ってない。ただブラック企業としてやってきたおかげで、外から見ればまともな会社に見える。ただ中身は大学生ノリの会社以上にヤバい。
なので一見してまともじゃ無さそうに見える会社以上に、一見してまともそうに見える会社の方がヤバかったりする。
なぜこのような企業が幅を効かせているかというと、競合に大手がいないこととvtuberになりたいというのが若年層の子が多いこと。大手がいれば自身の会社がやばい事が知れ渡ってたちまち立ちいかなくなる。だからどんどん大手には参入して欲しい。若年層の子が搾取されるのは見ていて辛い。表に出てきてないけど普通の企業じゃ考えられないようなことをしてるvtuber運営会社がある。たぶんこれは近いうちに問題が表面化すると思う。
街でモデルにスカウトされたってよく分からない会社の誘いに乗る人は少ない。それなのに何故vtuberはよく分からない会社を信用してしまうのか。君たちの時間は有限なんだ。vtuberデビューに応募するなら本当にその時間を使う価値がある会社か本当に吟味してからやって欲しい。社会の色んな所を見てきたおじさんからの忠告だ。
VとはVirtual Gender、古くは悪意のないネカマのように、どちらともつかないバーチャル上の女性キャラクターを演じ続けてギルド等で社交経験を重ねていると、女性のような感性や情動を内面化し、女性のように細やかな気配りや立ち回りができる性格になっていき、時に男性キャラに好意を抱いてチャHに発展する等を通して、仮想世界の人格と現実の人格および肉体に違和感を感じるようになり、普段の生活におけるジェンダー的な立ち位置や人生が定まらなくなる現象、近年ではバーチャルYouTuberにおけるバ美肉勢が直面するジェンダー感覚であり――
みたいな話かと思ったら違った。なんだよ。
昨日開催のバーチャルYoutuberリアルイベント「おしゃべりフェス」。
バーチャルYoutuberと一対一でおしゃべりというコンセプトのイベントだったんだが、名取さなの一ファンとしてウォッチしていると、実に残酷な序列が浮き彫りになっていたのでメモ。
会話の内容によらず勝利。この組の中にも、あらかじめ名取さなに名前を認知されているか否かというのがあるが。
少なくとも敗北感を感じる必要がないので、ここから下に比べれば勝ち。
おしゃべりフェスに行かないせんせえ向けに名取さなが色々気遣ってくれる特典も。
ひたすらリロードを続けて完売ページに行き着いた、あるいはキャンセル狙いで敗北したせんせえ。
敗北感はあるが、上記と同様に「会場に行けない組」として扱ってはもらえる。
整理券が切れた時点で解放されていればまだマシだったのだが、公式ページにお見送り云々の告知があったこと・整理券追加のデマが流れていたことなどにより、ただ待ち続けた挙句何も得られなかった。
加えて、名取さなからは何も同情の言及などしてもらえない。運営批判になってしまうから。見捨てられた存在。
「多角的な視点から分析を試みる」とあるが、客観的なデータが一切なく、
「ではないか」「と思われる」「興味深い」と主観的で一面的な感想に終始しているため、
内容に一旦疑問を持つと、それ以上読み進めることが難しい。
「関係性消費」についても下調べが不足している。
最低限、日常系以外のコンテンツとの「関係性」の比較・検証をし、内容の客観的な違いや売上、言及数などのデータがないと、この仮説は成り立たない。
また、腐女子にとって「関係性」が重要だというジェンダー比較が出てくるが、なぜ現在の日常系は腐女子からではなく男性向けから出てきたのか。
・同じくバーチャルYouTuberの人気も「関係性消費」だけで説明できるのだろうか?
前段となるニコ生やUstreamやYouTuberなどの動画配信、また声優ラジオなどの類似コンテンツの調査・比較は少なくとも必要。
また、キズナアイ登場時は、関係性よりも単体のコンテンツとして人気だった印象があるが、その変遷も調査しデータとして述べる必要がある。
全体的に最も信憑性に乏しい段。
「ホモソーシャルな絆」がキーワードのようだが、「腐女子は扱う創作物の特性上セクシャルマイノリティに対する理解が深く」という文言があるが、単なるイメージでしかない。
「BL研究家」を名乗るものがマイノリティへの差別意識を吐露し、またそれに追従するBL愛好家たちが炎上した件が有名である。
逆にホモソーシャル的な絆を強めるためには「攻撃対象」を用意することが有効という事例もある。
主観的な意見だけで不用意に書かれているので、要調査の上で客観的なデータを伴って修正する必要がある。
また、旧来の男性おたくが少女漫画と親和性が高かったという事実も、本稿では重要なポイントになるのではないだろうか。
全体としてデータ不足が顕著。
【承前】
https://anond.hatelabo.jp/20190216023228
本章では、オタク同士の関係性をテーマにした創作作品や、バーチャルYouTuber同士の関係性が消費されることについてより深く考察していく。
1章で述べたバーチャルYouTuber同士の関係性に視点を戻すが、バーチャルYouTuberは現在6000人が活動している。その中で人気を得ている配信者こそ、関係性を構築し、バーチャル上での物語を消費者に提供しており、姿かたちや趣味嗜好こそ多様なものの、ひとくくりにいえば大体の生まれは「オタク」である。つまり、「オタク」だからこそ萌えられるキャラクタと関係性をセルフプロデュースし、それをまた「オタク」が消費しているのだ。これがループのように連続することで、時には自らも憧れてバーチャルの世界に踏み込んでいくためにバーチャルYouTuberは日々増え続けているのである。自分の人生や趣味嗜好を、キャラクタというフィルターを通すことでシェアし、自らが創作物/キャラクタそのものになるということは、自伝やエッセイを執筆し、その読者と直接対談するようなことだ。「オタクの人生」を物語として消費し、絶え間なく新たな物語と関係性が発生していくというコンテンツに、オタクは萌えることができる。たとえパーソンが基底現実においてどんな人物であったとしても、「生けるキャラクタ」としてのバーチャルオタクの魅力に、オタクはシンパシーと巨大なエモーショナルを感じざるを得ないのだ。自分と近しい存在の人生を物語として消費することは、永久機関のような底の知れない魅力を持っている。
また、「このマンガがすごい!2019」*4 では、オンナ編第1位に鶴谷香央理「メタモルフォーゼの縁側」(2018)、第8位に町田 粥「マキとマミ」がランクインしており、この作品はどちらも腐女子同士の関係性を主題としたものである。2章で述べた「腐女子」特有の親密さは、既に広く認知されており、さらに創作物として女性からの支持を強く得ているということである。この背景にも、自らのオタク的言動やコミュニケーションを「あるある」と思いながら読むような自伝・エッセイ的な要素ももちろんのことだが、「腐女子特有の親密さへの愛着」や「登場する腐女子同士の関係性のリアリティに即した萌え」が確実に存在していると考えている。
上記のようにキャラクタ化したオタクや、親密さの自覚を持った腐女子は、基底現実においても関係するようになる。1章で述べた「バーチャルYouTuber同士が三次元で会った時の飲食物の画像」や、腐女子特有の「なりきりアカウント」文化の「背後交際」などが主な例だ。バーチャルYouTuberでコラボ放送をしていた親密なパーソン同士が3次元でも会うようになり交際に至ったという例も、キャラクタとして表沙汰にならずとも存在する。また、腐女子コミュニティにおける「なりきりアカウント」とは、主にTwitterなどで作品のキャラクタのロールプレイをし、自分の好きなカップリングの相手とネット上で交際したり、同作品のキャラクタと日常会話をする文化である。このアカウントの運用主を「背後」と呼ぶのだが、彼女たちは基底現実でもオフ会をし、実際にロールプレイで交際していた相手と現実でも交際に至ることがあるという。
つまり、関係性消費が加速し、自らもキャラクタ化したオタクは、パーソン同士としての基底現実でも「萌える関係性」を実践しているのである。この状況において、「わたしたちの関係性は萌える」という自覚の有無はもはや必要ない。パーソンとキャラクタの境界があいまいになり、オタクは自らを自らで消費することが可能になっていくのだ。
本論では、関係性消費が牽引していくというトピックからオタクそのもののキャラクタ化、そして完全なる相互消費の永久機関にまで言説が行きついてしまった。しかし、現実での関係性消費において立ち上がってくる問題はやはりジェンダーとルッキズムである。これに対するアンサーは2つある。1つは、すべてのオタクが理想のバーチャルキャラクタとしての3Dモデルの肉体を手に入れることである。バーチャル空間での関係性の構築はYouTubeだけでなく、「VRchat」という果てしない多様性を持ったもう一つの世界ともいえるVR空間でも今まさに進行中だ。全オタクが理想のキャラクタとなり、主体的に交流してその関係性すべてを消費することができれば、そこにはジェンダー格差もルッキズムによる格差も存在しなくなるのではないだろうか。2つ目は、キャラクタ化しない、あるいは関係性に参入せずあくまでも傍観者としての消費・あるいは創作を貫く選択肢を選ぶことである。2章で述べたように、創作物と消費者のセクシャリティ/あるいは創作物と作者のセクシャリティなどは分けて考えるべきというスタンスに基づく在り方である。
これらの二つの未来像は両極端にも見えるが、しかしこれらが混じりあい議論が巻き起こっているのが現状である。しかし、バーチャル空間上でのルールやマナーが議論の末に整えば、それぞれが理想の関係性を追い求めて基底現実とバーチャル世界を横断していくようになるのではないだろうか。創作だけに留まらず、現実世界と拡張現実へ侵食する「関係性消費」は、しかし古典の時代から物語として脈々と行われてきた文化である。オタクと文化、双方がその形を変えて混じりあう瞬間に、今わたしは立ち会っていると思うと感慨深い。
関係性を志向するファンたちのこれからは、今後のオタク市場の動向と、バーチャル技術の発展にかかっていると感じた。これからもジェンダー・セクシャリティ論とカルチュラルスタディーズ、両方の視点からわたしも一当事者として今後の動向を研究していきたい。
【引用文献】
*1 東園子,2015,「宝塚・やおい、愛の読み替え 女性とポピュラーカルチャーの社会学」新曜社
*2 難波優輝,2018,「バーチャルYouTuberの3つの身体 パーソン、ペルソナ、キャラクタ」『ユリイカ』第50巻:117-125
*3 斎藤環,2009,「関係する女 所有する男」講談社現代新書
*4 このマンガがすごい!編集部,2018,「このマンガがすごい!2019」宝島社
【参考文献】
玉川博章,名藤多香子,小林義寛,岡井孝之,東園子,辻泉,2007,「それぞれのファン研究 I am a fan」風塵社
山岡重行,2016,「腐女子の心理学 彼女たちはなぜBLを好むのか?」福村出版
2014,「ユリイカ 特集*百合文化の現在」第46巻第15号 青土社
2018,『ユリイカ 特集*バーチャルYouTuber』第50巻第9号 青土社
【あとがき】
期限ギリギリで提出したので粗も多いが、これをベースにディスカッションできる地盤固めができたので良かったと思っている。オタク!人生で遊んでいこうな!
本稿では、現在の「ファン/オタク」が「関係性消費」を志向するようになってきているという事象を踏まえ、その内部の「男オタク」と「女オタク」のジェンダー格差や、関係性消費の今後について多角的な視点から分析を試みる。なお、本稿においての「オタク」は、二次元三次元を問わずある作品・概念・グループなどを愛好すると自認している人々のことを指すポジティブな言葉として用いる。拡散し多様化するオタク文化は2次元と3次元の壁を超え、全体像を画一的に語るのはほぼ不可能なため、ジャンルやジェンダーに関する詳細については各部で詳細を補完したい。
「日常系」は広大なオタク市場の中でもかなりの割合を占める作品群だ。基本的には複数の女性キャラの日常生活を描写した4コマ漫画が多く、それを原作としたアニメは2010年代以降各クールに2~3本は放映されている。基本的にドラマティックで壮大な展開や激しい戦闘を行わない、いわば反「セカイ系」カルチャーともいえるだろう。源流としては美水かがみ「らき☆すた」(2004)や、なもり「ゆるゆり」(2008)などが代表的なものとして挙げられるだろう。00年代初頭から現代まで増加傾向にある「日常系」は、現在も各メディアで売れ続けている。この背景には、やはり弛緩した日常風景の一瞬・ごく短いセリフや1コマのシーンの行間を読む関係性消費への志向への高まりが一因であると思われる。日常系の「物語性のなさ」は、逆に巨大な「行間」を生み出し、そこにオタクが各々関係性や物語を想像して消費することができるからなのではないだろうか。
関係性消費について、2,5次元舞台での「リアリティの担保に参加しつつ、舞台裏も消費するファン」や、「タカラジェンヌの四層構造」(東 2015:96-98)*1 で取り上げられた「各レイヤーを横断し、その要素を複雑に融合させながら関係性を消費するファン」は非常に興味深い。これに似た位相にあるコンテンツに、「バーチャルYouTuber」が存在する。「バーチャルYouTuber」とは、2D/3Dの二次元的アバターを現実の肉体の動きとシンクロ(トラッキング)させ、そのキャラとしてゲーム実況や雑談配信などを行う人々の事を指す。そもそも「YouTuber」の動画には前提とされる物語や世界観はなく、その動画単体でも楽しめることが前提とされており、多くのバーチャルYouTuberも同じく、上記の「日常系」にも通ずる他愛もない放送を行っている。しかしここにおいて重要なのは、「日常系」を「実在の人物が演じる」ことがコンテンツとして確立し、今流行していることである。難波優輝は「Vtuberの鑑賞の構成要素は、パーソン、ペルソナ、キャラクタという三つの身体に分けられる。そして、ペルソナとキャラクタ画像がつねに重ね合わせられ、かつ、パーソン/キャラクタとペルソナの層がそのつど関係づけられながら、装われるペルソナが鑑賞者の鑑賞の対象になっている」(難波 18:121)*2 と論じ、これを「Vtuberの三層構造」と名付けている。
そしてバーチャルYouTuberは、電子の肉体によって軽々と他のバーチャルYouTuberとの関係性を構築する。コラボ放送などでみられる仲睦まじい様子を、鑑賞者は「Vtuberの三層構造」を横断し、「彼/彼女らのパーソンのレイヤーでの関係性」が見え隠れする片鱗をSNSや動画において意識しながら鑑賞しているのである。また、バーチャルYouTuber側も当然「パーソンを消費される」ことに対する意識を持っているため、現実世界でパーソン同士が実際に会い、その時食べた飲食物の画像を投稿する、それに対して「パーソン・レイヤーにおいても継続される強い関係性」を読み取れるようになる、といった事象もあった。これはまさにタカラジェンヌの四層構造における「芸名の存在」におけるパフォーマンスと相似であり、その表象が3DCGやVR機器の発達によりさらに「オタク」向けに変化(美少女・美少年だけに限らず多様化)したものではないだろうか。「日常系」と「関係性消費」の拡張であり、またジェンダーと次元の攪乱への大きな手掛かりとなるムーブメントだと考えられる。
つまり、「実在の人物が裏に存在するという事実に裏打ちされた生々しい日常系・関係性」が、液晶内のキャラクタバターと動画配信という形態の手軽さにより、オタクの関係性消費への志向は次元を超えてさらに加速していくと予想できる。
・関係性消費における性別によるジャンル分け(女性向け/男性向け)の無意味さ
前章で関係性消費への志向がさらに高まると予想したが、本章ではオタクのジェンダー格差について女性向けジャンル・男性向けジャンルという分類の持つ意味合いやその内部の消費形態に差異があるのだろうか。
もちろんHL(異性愛)文化を扱う少女マンガ・少年マンガにおいても恋愛・友情・ライバルなどの相関図は存在するが、メインとなるカップル男女の恋愛関係がメインに据えられることが多い。一方BL/GL文化ではそれ以外の登場人物の関係性をより深く読み込み二次創作に落とし込む、あるいは理想の相関図を一次創作で描き出す。今後どんどん規模を増していくであろう関係性消費においては、性別によるジャンル分け(女性向け/男性向け)は無意味になっていくのではないだろうか。しかしここではあえて、わざわざラベリングされている「腐女子」と「百合男子」という言葉の意味合いについて掘り下げ、BL/GL(同性愛)ファンの文化それぞれの特徴から考察してみたい。
女性オタクの人文学/社会学的研究に関しては、特に「腐女子論」か「ジェンダー論」による先行研究が数多くある。その中でも数多く散見されるのは、「主体的な女性の性的欲望の解放」といった視座からの言説であった。特に「腐女子論」と「ジェンダー論」を組み合わせた言説では、「自らの女性身体が侵されない安全な領域において、性的な表象を消費するためにやおい文化は発達した」といったものも存在する。しかし、現在においてこれらの言説に私は違和感を感じる。勿論そういった側面も確かに存在する(した)と思うが、現在の日本の混沌としたオタクカルチャーの中で女性オタクの中から腐女子だけを切り取って上記のように論じるのは既にごく限られた一部の事例においてしか適用されない理論であるように思う。
今あえて「腐女子」を論ずるならば、私は「腐女子同士の関係性」に目を向けたい。腐女子であることによる世間からのマイナスイメージを払拭しようとしたり、イベントやSNSでの趣味やスラングの共有による特殊な連帯が、このコミュニティでは無数に形成されている。やおいコミュニティの特殊性について東は、「やおいを好む女性たちは、一様に異性愛から疎外されているわけでも、異性愛を拒絶しているわけでも、異性愛を欲しているわけでもない。彼女たちはただ、異性愛を排除したところで成り立つ、女同士のホモソーシャルな絆がもたらす快楽を求めているのである。」(東 2015:236)と述べている。さらに、腐女子は扱う創作物の特性上セクシャルマイノリティに対する理解が深く、またホモソーシャルな絆から発展し、腐女子同士が交際していることなどもよく小耳に挟む。シスターフッドやレズビアン連続体、ホモソーシャルな関係性を含んだ腐女子コミュニティは、作品上においても現実世界においても強い「関係性」を追い求めている集団なのではないだろうか。
では次に、GLを愛好する男性オタクについて考察してみたい。残念ながら、男性オタクの先行研究は数多くとも、その内容は美少女キャラクタへの欲望やコミケでのゆるやかなホモソーシャルな交流などになり、「百合男子」単体にスポットライトを当てたものは見つけられなかった。なぜなら、GLというコンテンツは受け手のジェンダーによって大きくその意味合いが変化してしまう場合があるからである。そして男性のGL愛好者は、「美少女キャラクタへの性的な消費」という使い古された言説の中に含まれ見えなかった存在であり、その消費の仕方は齊藤によって「腐女子との比較でいえば、男性おたくの『萌え』にとっては、関係性のプライオリティはそれほど高くない」(齊藤 2009:154)*3 と評されていたのだ。よって、ネット上でGLを愛好するファンは「百合厨」「百合豚」などと呼称され、その性別は限定されていない。これはGLというジャンルを男性だけが消費することに対することが上記の齊藤の言説のような文脈を帯びてしまうことに対する対策と、実際にファンの男女比がほぼ半々であるため、両方の理由によるものと思われる。逆説的に考えれば、「腐女子」という呼称が流行ったのはBLというジャンルを女性が消費することを蔑視されることに対するアンチテーゼとして、BLファン当事者たちが自らをそう名乗ったことに起原するのではないかとも考えられる。
また、百合厨コミュニティにおける異性愛忌避の姿勢は、腐女子コミュニティのそれに比べてはるかに厳格なものに感じられる。先に述べた「男性による女性キャラクタの性的消費」とは違うことを宣言するために「百合男子/厨」を名乗った男性オタクたちは、腐女子のようにホモソーシャルな絆を構築することはなく、二次元三次元を問わずして異性愛的な欲望を抑圧されるようになった。この構造は腐女子のジェンダー論に見られた主体的な性消費の解放とは真逆の道を辿っており、非常に面白い点だと思っている。
こうして述べてきたように、同性愛コンテンツのファンの構造は非常に複雑で特殊なルールの基に成立している。しかし、上記の性的欲望を抑圧される百合男子に関しては、百合というジャンルの男女比がほぼ同じであることに大きく由来するだろう。つまり、「同性愛コンテンツを扱うにあたり、そのファンは異性愛を忌避しなければいけない」といった暗黙の了解のようなものがオタクの中で存在しているということである。これに関しては、創作物と消費者のセクシャリティは隔絶して考えるべきであるという立場をとりたい。そして、特殊な連帯がプラスにもマイナスにもなり得るBLファン界隈と、ジェンダー問題に揺れるGLファン界隈は、第一章で述べたバーチャルYouTuberの関係性消費をモデルとして再構築されつつあると考えている。バーチャルYouTuberの関係性消費は、非常に複雑なジェンダー攪乱が日常的に行われている。パーソンがシス男性、ペルソナがシス女性、キャラクタがシス女性のキャラ同士の「絡み」は、GLともBLともタグ付けをすることが難しい議論になってくる。しかし、その関係性に惹かれるファンはキャラクタとパーソンのジェンダーを軽々と越境し、その複雑な「関係性」を消費することができるようになるのである。これに似た現象はアニメ・漫画においても進んできており、創作物と受け手のジェンダーが必要以上にファンを語るうえで関係づけられることも少なくなっていくのではないだろうか。
【続きと参考文献リスト】
ラノベなら「本山らの」っていうバーチャルYouTuberが作家との対談とか書評動画上げててインフルエンサーたらんとしている。