はてなキーワード: ズバリとは
世の中には幽霊となった人が恋人の危機を救うだとか素敵なメッセージを残していくだとかそういった話も多々あるようなので
そういう存在もいてもいいかなくらいには思うのだが、そういう世界の扉を開けたことは一度もない。
そういうものを見た、何かが写っていた、気持ち悪かった、などという話に聞くたびにいわゆる『霊界』『死後の世界』『あの世』などと呼ばれるものに疑問を挟んでしまいうまく信じることができない。
『死』を受け入れられないというわけではない。
私が死んでも世界は変わらんと思っている。私という存在が消え去るだけだ。
死んだという報せを聞けば何人か悲喜こもごもあるだろうが、それこそ49日ほど過ぎれば死んだことすらどこかへ行く。
たまに思い出されて、「ああいたなあそんなやつ」。そんな人たちもいなくなれば、完全に消滅だ。そういうもんだと思っている。
だからこそ確認したいのだ。本当に死の向こうに、霊体だけが暮らす新世界があるのだろうか?
あらかじめ書きたいが、別にかの世界や特定の宗教等を否定したいわけではない。
○○は××だからwwwwwはい論破wwwwwww などとやる気は一切ない。むしろ逆だ。可能であれば完全に存在を証明されて論破されたい。
これを見て、こういったモノに詳しい誰かが非の打ちどころのないコメントを残してくれるのを見たい。それを心待ちにしている。
(1)心霊写真ってどう思う?
昔々はちょっとしたブームになり、織田無道だとか宜保愛子だとかが毎週のようにTV番組に出てきていたこともあった。
今は「おわかりいただけただろうか」か。流行の強弱はあれ、ずっと続いている心霊写真ブーム。
ところで、あの手の番組に出てくる写真や動画、構図や被写体って似すぎてやしないだろうか。
人間の体は頭、胴体、両手両足、股間まわりと大まかに言ってもこれだけパーツがあるが、
心霊写真って、ぼやっと全身が写っているか部分的なものは頭と手ばかり写っているように思う。
「顔と手には思念が残りやすい」などという話を聞いたりもしたが、それならケツや乳に思念が残ったっていいじゃないかと思う。
短小をバカにされて自殺した童貞男の幽霊がいて、夜な夜な女の宿泊客の顔にBUKKAKEてくる……とかさ。逆にデスペニスでもいいよ。
もうひとつ言うと、人間が霊体を認知するのって圧倒的に視覚じゃないかと思う。
音は幽霊の描写としてよく使われる手段ではあるけども、この音がするから幽霊だというのはイマイチ証拠に欠ける。
においというのはある種個性として認知されるものだが、『この建物はなんだか幽霊くさいぞ』とは聞いたことがない。なんせチョコボっぽいし。
いわゆる『向こうの世界』からくるものが圧倒的に人間ばかりだと思う。人間すぎる。
旧日本軍の兵隊や髪の長い細身の女性の幽霊の話はごまんと聞くが、ヒグマやサメの幽霊が暴れて人が死んだという怪談話を稲川淳二がしたことがあるだろうか。
霊はこの世に未練があってなんちゃらかんちゃらと言うなら、人間さまのご都合で殺されまくった動物の悪霊なんてアホほどいそうなもんである。
忠犬ハチ公の幽霊はご主人が帰るまで待ち続けたのだろうか?そんな話も一切知らない。
地獄という場所も圧倒的に(宗教的に)悪いことをした『人間』を懲らしめることに特化した施設のように思う。
今どきはペットだって洗礼を受けるし、葬儀だって開くわけだろう?
『動物には動物の天国や地獄がある』と主張する人もいるようだが、その世界観が取り上げられたものはほぼないように思う。
どうすれば天国でどうすれば地獄か、どうすればより高次の生き物に輪廻転生できるか、などという判断も人間さま向けの基準だ。
吸血や捕食を生業とする生き物に転生したら、殺したり奪ったりしないと生きられんわけで。
そんな生き物に転生させといて殺すな奪うなと言ってもじゃあどうすりゃいいんだよ……ってなもんじゃないか?
(2)ともちょっとリンクする部分があるが、見出しのままだ。あの世でパンは焼けるだろうか?酒が作れるか?と言ってもいい。
例えばパン職人ひとすじでこの世を去った人がいたとしたら、天国でボサッと呆けてるとは思えない。そりゃ、いっちょ自慢のパンでも焼くかと思い立つだろう。
逆にパン職人だったお父さんを見送った遺族だって、「お父さんはきっと天国でもおいしいパンを焼いてるよ……」とか言うだろう?
お父さんの生き生き天国ライフをかなえるには穀物と菌の存在が必要である。まあいい。生きたものがあの世には行かれないだろうから生きてはいないはず。
つまるところ、『植物や菌類の幽霊』なるものが存在するかどうかだ。
存在するとして。
パンを作るためには穀物をすり潰して粉にしたものをアレコレしたあと菌によって発酵させて、焼くという工程が必要だ。
工程の最中、穀物は当然として菌も死ぬよね。焼かれるわけだし。だとして、幽霊が死んだらどこへ行くんだ??
すぐに生き返って元に戻る、だとしたら最悪だ。イースト菌の霊からしたらなんべんも焼かれては生き返ってまた焼かれるわけだ。
ダンテの神曲に出てきた地獄の図とまったく同じことが天国にいながら天国に行ったパン職人によって引き起こされる。鬼かオヤジ。
さらに死んだ者用のナニガシが存在するとなると、それは無間地獄である。天国にいながら地獄という図は変わらないのではないか。
存在しないとして。
パンはどうしたら作れるだろうか?
墓参りの時に、生前好きだったものを供える習慣がある。寺の坊主に言わせると、お供え物の霊的なナニガシだけを受け取るのだとかなんとか。
これを使えばイケそうな気もするが、毎日墓前に小麦粉とイーストパウダーをお供えする遺族なんて存在しないだろう。なんせ傍から見てどう考えてもおかしい。
せいぜい跡継ぎ息子が焼いたパンをお父さんもぜひ試食してくれ旨いだろうと供えられる程度である。
お父さんも天国でパンを焼きたいのだが、このままではこの世に未練が残ってしまいお父さんが化けて出てしまう。
焼くことが可能だとして、パンはどうなるのだろう?幽霊はパンを食うだろうか?
死んでるんだから食わないというのなら、飢えに苛まれる地獄というのはよくわからない存在になりそうだ。
それに、そう、お供え物だ。我々が良かれと思って供える故人の好物や茶などは、実はありがた迷惑ということに……。それは悲しすぎる。
かと言って普通に食べるということにしてしまうとそれはそれで大変だ。これまでン万年の間に死んだ人間はそれこそ星の数ほどいるわけで。
食い物が、足りなさすぎる。
堺正章が原因とか言われているけど、この人は全然関係ないですよ。
干された理由と、その原因は何か?
簡単です。
芸能界はヤクザが仕切ってるので、干される理由も同じくヤクザ関係者です。
ヒロミは大物タレントと、その筋の関係者を本気で怒らせてしまった。
その大物タレントは誰なのか?
昔のことなので記憶も曖昧ですが、10年以上前にバラエティー番組で力也とヒロミが共演していた。
番組の演出で、出演者同士で限られた席を取り合うルールがあり、
出演差を指名して退かせ、指名した者が席に座る。。。みたいな番組進行だったと思う。
ここでヒロミはあろうことか、安岡力也が座っている席を指名して、自分が座ったのだ。
(他にも指名できる出演者居たにもかかわらず、力也を名指しで退かせたのである)
スプラトゥーンのCGアニメは非常にありそうです、シオカラーズがEDでダンスする姿が目に浮かびますもん(笑)
ただ映像作品を作って新作ゲームとタイアップするだけなら、色々挙げられたように、色々やってるんですよね。
なので、もう少し予想を膨らまして、こんなのが面白いかも、を考えてみました。
ポケモンだと、もう十年ぐらい映画館にゲーム機とソフトを持って行くと新しいポケモンが貰えるんですよね。
なので、その応用で映画館の劇場内に「アミーボをタッチするとアミーボに特別なデータを記憶させる機械」を設置する、なんて楽しそうです。
これの利点は家庭用ハードでリリースされているソフトでも、映画館に行ったこととの連動が出来る事ですね。
スプラトゥーンのアミーボを持って映画館に行って、専用の機械にアミーボをタッチして、特別なコスチュームをゲット! とかどうでしょう。
(え?、映画の前売り券にダウンロードコード付ければ良い? あー、それもそうかも)
「任天堂映画でアミーボに記録したデータを遊ぶ専用の総括ゲーム」が出る事を予想します。(我ながら、予想がデカすぎますが)
アミーボは、一つのソフトのデータしか保存できないという特性がありますよね。
だから、スプラトゥーン映画を見に行って、ガールのアミーボに特別データを保存したら、
次のマリオ映画を見に行ったときに、ガールのアミーボを使って、マリオの特別映画版再現コースをダウンロードできないじゃないですか!?(妄想に妄想を上重ねしています)
もちろん、マリオ映画はマリオファミリーのアミーボを使えっていうのがスジですが、そこはわざわざ球団を売って作った資金です、どでかく行きましょう。
それがズバリ任天堂映画でアミーボに記録したデータを遊ぶ専用の総括ゲーム」こと
このゲームは、ミートモの家庭用ゲーム機版ですが、アミーボで映画館から持ってきた「映画見たよデータ」を使って遊ぶゲームです。
Miiの部屋には、見た映画のDVD(のポリゴンモデルです)が蓄積されていって、
そのDVDをゲーム上で使うと、Miiが「スプラトゥーン映画のシオカラーズのライブシーンはどの曲が格好よかった?」みたいなネタバレ質問をしてきて、
答えると、フレンドの答えも見れちゃう!
なんて感じで、ゲームと映像の融合がアミーボを介して行われたら面白いなあ、
と思って予想を膨らましてみました。
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とうとう来た任天堂IPの映像コンテンツ化を、今のうちから予想しておく!
例の生理について無知な童貞諸君がdisられまくっている件についてである。
発端の記事は「信じられないツイート」から唐突に始まり、女性の生理についての話を生々しく繰り広げる。
http://mutitumi.hateblo.jp/entry/2016/04/17/024520
曰く、避難所の責任者のおっさんが、生理用品のナプキンをエログッズだと思って送り返した事件があったと。
それはけしからんと。
姉ちゃんが女体の神秘についてちゃんと教えたるけんねーと。
え?見知らぬ他人のツイートが一次情報?と思ったがまあ最初はスルーした。
はいはい無知でごめんなさい未婚でごめんなさいついでに童貞でごめんなさい
しかし、ここまで好き放題言われてるわりには、その根拠であるニュースソースが全然見つからない。
てか生理用品って、いつも水・食料の次くらいには優先されて送られてると思うのだが・・・
東日本大震災ではわりと大きく被災した県に住んでいたし、親戚が原発事故の影響をもろに食った地域にいたので、
当時からTwitterやはてブは齧り付くように見ていて、震災・原発に関するいざこざには一通り目を通してきたつもり。
そのはずなのだが、「生理用品をエログッズと勘違いして送り返したジジイがいた」という事件があったとは初耳だった。
そんな事件があったなら当然Twitterでは騒ぎになっただろうしブコメも山のように付いたはずなのだが、探してもどうも一次ソースと思しきものが見つからない。
まず東日本大震災直後から熊本の震災の前日までで、それっぽいワードでTwitter検索してみた。
確かに「生理用品をエログッズ扱いして送り返したジジイの話」を呟いているアカウントはけっこうある。NHKの番組で見た、という証言もある。
だが、目を通した全てが伝聞情報でしかなかった。一次ソースへのリンク、番組の具体的なタイトル・内容などに言及しているツイートは一つも見つけられなかった。
加えて、震災当時に遡るほどジジイの登場頻度は下がる。ジジイがよくTLに登場するようになったのはここ2~3年ほどである。どうも辻褄が合わない。
発見したニュースの中で唯一ソースと言えそうなもので閲覧可能だったのは以下の記事。
http://www.news-postseven.com/archives/20110403_16444.html
ただこのニュースの中には「生理用品をエログッズ扱いして送り返したジジイ」は姿形もない。
女性用品を救援物資として持ち込んだが「そんな要望はないんだよな」と無下にされた、ムートンのブーツがなんなのか理解されずに受け取ってもらえなかった。という情報以外は読み取れない。
ブーツが受け取られなかったのは確かなんだろうが、生理用品その他の物資がどうなったのか?などはここからは分からない。
で、上の記事タイトルで検索したら関連ありそうな記事が2つ見つかった。
http://www.news-postseven.com/archives/20110401_16362.html
http://media.yucasee.jp/posts/index/7094
出てくる単語が一致するのでこれらの記事は同じ事案について書き方を変えただけのものだろう。
ピーチジョンだから当然物資の中身は女性用品。その中には生理用品もある。
↓
↓
やっと辿り着いた避難所で「そんな要望出していない」と無下にされいじける
↓
記事内容は実際けしからんし、たらい回しは気の毒だったが、熊本の震災では政府から直接ボランティア自粛を求める声明が出たように、
個人での物資持ち込みは現場のオペレーションを激しく乱す行為であると最近だいぶ周知されてきている。
震災当時は憤慨する人も多かっただろう。が、今となっては「まあそうなるよな」である。
ここまで実態が具体的になっても出てこないのでは、このソースは一次情報としては使えんことになる。
DTジジイは結局Twitter上で伝聞情報として語り継がれているものしか発見できなかった。
核になりそうな情報はポロポロとは見つかるが、そのものズバリな情報は存在しないと言いきっていいと思われる。
自分の中では「生理用品をエログッズ扱いして送り返したジジイ」の存在は都市伝説の域を出ないと結論せざるを得ない。
うん、まあ別に構わんよ、根拠がなくても。議論が深まっ太郎でも。実際良い啓蒙にはなっただろうよ。
でもな、他人の伝聞を一次ソースにするのは愚の骨頂だ。それは震災以後デマやヘイトに晒され続けて骨身に染みたよ。
見知らぬ他人の伝聞なんて、伝言ゲームの中でいくらでも盛られるし、改変される。とても信用するに値するものではない。
人は自らが信じたい情報を率先して信じるというのが、オレが震災を通して得た教訓の一つ。
別にでっち上げでも何でもいいの、自分がその情報でハッスルできれば。
一緒に騒げる仲間が多ければ、なおさらそれに気付きづらくなる。
自分では常にそれに気を遣っているつもりでも、どうしても自分が信じたい情報には気を取られるしな。これは本能に近いものがある。
この件がデマだったとして誰も傷つけてないし世の中の啓蒙になるんだから良いだろ、と言われたら返す言葉もない。
が、東北の震災を経てきた身としては、デマを真に受けた第三者達が当事者不在のまま好き放題騒いでいるということが不快でしょうがない。
勉強になるならないとか関係ないのよ、俺達が5年間我慢してきたのはなんだったのよ、何も学んでくれなかったの?あなたたちは。
まあ実際これが全くのデマなら、傷ついた人間も被害を被った人間もいなかったということにもなるし、喜ぶべき事なのかもしれないが。
DTジジイがみんなの心の中にいるおかげで、被災者達に適切な物資が行き渡るなら、それはそれでいいのかもしれない。
でもやっぱり納得はいかない。納得がいってない男がここにいることは理解して欲しい。
<追記>
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20160405121638
このブコメページを見て頂きたい。
今の人気ブコメ一位は
というブコメで、かぼちゃコロッケとコロッケを間違うというネタと、イカリングフライとオニオンフライを間違うというネタが似ていることを指摘しているブコメだ。
さて、ここでaukusoeのブコメを見てみよう。
aukusoe 久住昌之「そういう気持ちを漫画に書く事で、世にも奇妙なでドラマ化されて、ふたばのオモチャにされて、LOの巻末で一人全年齢書いてる人と仲良くなれる。そういう人生も送れるんだぜ?」
これである。
注意して欲しいのが、このブコメが。
三つ目のブコメだということだ。
いいか、三つ目だよ? 三つ目。
まだ大喜利的には始めも始めの手探りの段階なわけ。
久住昌之というのは孤独のグルメなどに代表される、グルメ漫画の原作者として有名で、
aukusoeが言及している
「世にも奇妙なでドラマ化されて」
というのにも、もうまさにズバリ、hinail氏が指摘する、イカリングとオニオンフライの勘違いのストーリーがある。
つまり、aukusoeのブコメは人気ブコメになれるだけのネタを扱っていながら、そこからさらに一捻りも二捻りも加えすぎているのだ。
素直にイカリングとオニオンフライの勘違いのストーリーを思い出したならそれを書けば良いのに、久住昌之の孤独のグルメが売れるきっかけのエピソードや、花のズボラ飯の絵を描いてる人の話を盛り込まなくてもいいんだ。
イカリングとオニオンフライのエピソードを指摘するブコメがついて、さらにそれが久住昌之の漫画である事実が指摘されて、それでようやく、久住昌之とこの元増田が繋がるんだ。
aukusoeのブコメはこういうのが非常に多い。
特に極めつけなのが
http://b.hatena.ne.jp/entry/284113782/comment/aukusoe
おんぷちゃんねる。
これである。
数々のメディアが取材を進める中、本増田も妄想関係者へ妄想取材を敢行。その結果、驚くべき妄想が浮かび上がってきた。
「すでに10月以降の活動自粛が噂されているが、それは冠番組を持つフジがゴネて先延ばしにしているとの噂がもっぱらです。」
「ただでさえ視聴率が低迷するフジテレビが、スマップの代表番組であるスマスマを終わらせるにはなんとしても阻止したいところ。しかし先日の謝罪だけで事務所への謀反を手打ちにすることは業界に第二第三の謀反が起こることになる。だから事務所としては活動自粛の時期をもっと早めたいのです。」
だが、スマップが活動を自粛している間に新しい勢力が台頭しスマップの人気が落ちれば事務所も大きなダメージを追うはず。活動再開の時にどこまで注目を集められるのか。その鍵を握るのがNHKだと言うのだ。
「スマップ復活の舞台はズバリ、紅白です。NHKは紅白のサプライズとしてスマップの復活の舞台を用意するつもりです。」
「去年の紅白は視聴率も最悪で散々だったNHKは紅白復活にかける意気込みは相当なものです。思えば去年の紅白の凋落は総合司会にタモリを招聘することに失敗したことから始まりました。スマップはいいとも!でタモリと長い間共演していましたから、彼らの復活の大舞台であればタモリも首を縦に振らざるを得ないと計算しているのです。」
だが国民総マンネリ状態と言われる紅白にスマップが出るのはあまりにもあたり前すぎる。そこにタモリが加わるとしてどれほどのインパクトになるのだろうか。
「もちろん事務所もただで出すわけではありません。【新生】スマップにふさわしい演出を用意しています。その鍵を握るのが中居の歌唱力アップです。」
「ご存知の通り、中居の歌唱力はアイドルとは思えないくらいひどいものです。そこで事務所は謹慎期間中に徹底的にボイストレーニングをさせて歌唱力をアップさせるつもりです。既にその道の専門家数人に接触しているとの噂があります。」
「紅白では木村と中居の二人をメインボーカルに据えます。新旧二人のリーダーが並び立つことでグループにはもうわだかまりはない、スマップが生まれ変わった事を世間にアピールできると計算しています。」
確かに先日の中継では木村が中央に、中居が左端に立っていてグループ内の力関係に変化が生じいているように感じた。スマップが再び応援してもらうにはグループの仲の良さをファンに感じてもらう必要があるだろう。
「さらにはNHKには良質のドキュメンタリー番組が数多くあります。そこでボイストレーニングに励む中居に密着して番組を作る約束もされているそうです。事務所もNHKもそしてスマップもが得をする取引がすでに成立しているのです。」
下着売り場が目立つ場所にあることの是非論で見たし、それ以前にも似たような話題でしょっちゅう見るんですけど。
「生殖活動だの、生理だの、泌尿器やトイレだの、下着だの、授乳だの、そういうのは性的なものでない、エロいものではない。エロいと感じる方が知識・理解不足だったり妙な歪みがあるだけだ」
みたいな意見あるじゃないですか。
あれを言ったり賛同したりする人って本気なんですかね。
まあ本気なんでしょうが。
じゃああの人らにとって、文句なく性的でエロくて欲情するのが相応しいものってなんなの?
性器?
でもろくでなし子とか、或いはあんな過激なパフォーマンスせずとも「性器もただの体の一部でしかない」とか言う人いるし性器もダメなんじゃないの。
互いの身も心も人間性も理解し、尊重し、愛しあい、合意を取った上で発生するセクシーな雰囲気、その帰結としての欲情やエロティシズムこそが正しく、そこにのみ真の性の喜びがある、みたいな話なんでしょうか? まあこれは冗談ですけど。
なんかもう、お互い顔も見えないローブを着て性器だけ接触させて正常位をし、できるだけ快楽を得ず射精したら即離れるセックス以外は異常、みたいな話になってきそうだなってああいうの見ると思うんですよ。
どっちかと言うと、全てが正しい欲情かな。
アヌスに興奮しようがおっぱいに興奮しようがチンコに興奮しようが唇に興奮しようがホクロに興奮しようが虫さされに興奮しようがウンコに興奮しようが、それでいいんですよ。
人は何を好きになってもいいんですよ。
結局、「~にエロを感じるのは認識や知識に歪みがあるから」みたいな意見は、「受け手が嫌がったらセクハラ」みたいな感覚で「受け手にとって不本意な部分や状況に対する欲情は正しくない」ってのを知的っぽく言おうとしてるんだと感じるんですけど、人が人に向ける好意悪意劣情愛憎にまで、正常異常の判断を下すことはすべきでないと思います。
欲情については、むしろ「する側が欲情したらそれは妥当な欲情」でいい。
意図せぬ部分について欲情されること自体が不快な人は結構いるし、私も知人にオナペットにされてたと知った時はオワーッとなったけど(知人がわざわざ私にそれを教えて楽しんでたわけではないので知人に罪はない)、そりゃあもう仕方ないよ。
嫌われるのが不本意だからって、他人が自分に抱く嫌悪や憎悪に「正しい嫌悪・間違った嫌悪」と裁きをくだすのはおかしいでしょう。
いや個人レベルでは「あいつに嫌われるのはまあわかる、筋が通ってる。逆にあの野郎が嫌ってくるのは不条理だ、誤解だ、おかしい!」とか思って当たり前ですけど、そういうんじゃなく、社会的に、一般論として「こういう嫌い方はよくてこういうのはダメ」なんて主張するのは変だ。
「博士の異常な愛情」なんて言葉は、映画タイトルという一種のポエムだから魅力的なのであって、真面目に人間の行動と心の善し悪しを議論する時に使うもんじゃあねえと思いますし、それが愛情じゃなく欲情でも一緒です。
論点がズレててよくわからないと言われたので補足しておきます。
メインは前半で、「生殖や性器が性的なものでない」という見方に納得できないということです。
じゃあそういう人らにとって文句なく性的なものの定義ってなんなのよ、と疑問を投げています。
後半は、「生殖や性器が性的なものでない」と考える人は「受け手にとって不本意な部分や状況に対する欲情は正しくない」という気持ちを秘めてそうだと推測した上で、正しい欲情も間違った欲情もないのだと反論しています。
なので後半は、「受け手にとって不本意な部分や状況に対する欲情は正しくない」という気持ちが背景にないタイプの「性器≠性的」説には関係ない話ですね。
私は、ある人の性的な興奮を喚起させるものである、ということがその人個人にとっての正しい「性的なもの」の定義だと考えています。
世の中には色々な人がいるので、ほぼ全てのものが誰かにとっては性的なものになりえます。逆に、あらゆるものが性的でない、そそらないものにもなりえます。
で、個人の感覚の集積、つまり多数決によって、社会通念としても性的だとみなされるものが曖昧に決まるのでしょう。
ある人にとって赤く見えることが「赤いもの」の定義であり、人間の多くが赤いと感じることで社会的にもそれは赤いとされる、みたいな感じです。
なので、本文では異常な愛情や欲情などないと言ったけど、マイナーな欲情の仕方は、社会通念や常識からはなんとなく異常として扱われてしまうことは残念ながらありえるとは思います。
社会通念のあやふやさが表れたどうも尻座りの悪い部分ですが、仕方ない。
私が納得できないのは、
「生殖活動だの、生理だの、泌尿器やトイレだの、下着だの、授乳だの、そういうのは性的なものでない、エロいものではない。エロいと感じる方が知識・理解不足だったり妙な歪みがあるだけだ」
という意見の口ぶりが、エロいと感じる個人の感覚・性的好みを愚かで間違ったものだと断じているように見えることです。推測ですが。
後半はそのものズバリですし、前半も「(誰にとっても)性的なものでない(べきだ)」というニュアンスを感じます。
間違った好みなどない、というのが私のスタンスですから、反対します。
それとも、ああいう意見を言う人たちは社会通念に焦点を当てているのでしょうか。そのつもりで解釈してみます。
「生殖活動だの(略)、そういうのは性的なものでない、エロいものではない(と考える人が多いから、社会的には性的なものではないと扱われている)。エロいと感じる方が(少数派の感性を持っていて、世の中に対する)知識・理解不足だったり妙な歪みがあるだけだ」……みたいな。
多数決で負けた感覚がおかしいとされちゃうことを私はあんま歓迎しないんですが、現実社会としてはそうせざるをえないですからね。
でもこれだと、本当に列挙されてる物事が社会から性的と扱われてないかはあやふやなものになってくる気がします。
多数決と繰り返してますが実際に決をとるわけでもないですし、それに少数派と言っても三割票くらい取れてれば一応認められたりしそうですし。
生殖活動や生理や下着に興奮するのがそんなに少ないかどうかは非常に微妙なところですね。それを少しははっきりさせるためにこの手の論争が役立つかもですが、まあ所詮ネットというコップの中の嵐。
……やっぱり社会的な話ではないのかもしれない。
推測ばっかしててあれなんですが、更に推測で話をします。
元々の本文では欲情されることが不快だから性的さを否定してるのではないか、と書きましたが、一方で実用的な理由で性的さを否定する人もいそうです。
生殖や生理や下着が社会通念として性的だと認められると、隅に隠せと言われて、大変息苦しい思いをすることが予想されるので、それをさけるため性的さを否定する、みたいな。
でも私は、個人が何を性的と感じるかを裁くべきではないと思ってますし、ということは自由にされた個人の欲情の集積である社会通念としての性的認定をコントロールするのも難しいだろうと考えます。
とはいえ世の中の息苦しさが増えるのは私も好ましくないですから、「性的に感じる人が多いかもしれんけど、便利だから堂々と下着も売り買いするし産婦人科にも入るし学校でうんこもするしゴムも買うし夢精もするんだよ!」と開き直り、その方向で社会に働きかければいいのではないでしょうか。
性的に感じる人が本当に多かったら、そういう姿に欲情されたり、ましてオカズに使われたりするかもしれませんが、それは犯罪行為に至らないのであれば甘受したほうがいいと思います。
性的なものを隅に隠せという主張は、「私の好みとしてついつい性的に感じてしまうのに、性的に感じることはよくないとされてるから、目につく場所におかれるとこっちも目につく場所でよくない欲情をしてしまって困る、隠せ」という理由があったりもします。(単に周囲の雰囲気に合ってないから隠せ、なんかグロいから隠せ、などもありますがそれは置いておく)
性的に感じることを無理に禁じようとし、欲情を悪徳とするから、性的とされかねないタイプの欲情をそそるものを排除してくれという声が上がるのであり、逆に「堂々とディスプレイするよ、でも性的に見てもそっちも堂々としてていいよ」とすれば許しあいになってくれるんじゃないでしょうか。その思想を広めるのに多少時間がかかるとは思いますけれど。
もし、性的に感じる人が一定数いるある物を、堂々と見せても咎められない社会であってほしい、けれど性的に見られたり欲情されたりするのは嫌……という全てを望むんだとしたら、それはやはり片っ端から精神的去勢をし、欲情能力を物凄く限定するしかないような気がしますし、私はそれには反対です。
ズバリ「ニュージェネレーションズの3人、特に島村卯月にもっとスポットライトを当てて欲しかった」ということです。
断っておきますが、自分はNGsの3人を特別に応援している訳ではありません(好きなキャラクターたちではありますが)。
そんな自分がなぜ上記したようなことを考えたかというと、アニメ2クール目の特に終盤に描かれたNGsたちがそれぞれ悩み、考えて成長する姿から、製作陣やキャストの皆さんが思い描いていたであろう感動・カタルシスがいち視聴者である僕にはどうにも伝わってこなかったからなのです。
悩んだ末にトライアドプリムスという新たなヒカリに会いに行くことを決意した凛、そんな凛の姿を見て自分自身も一歩踏み出そうと単独での活動を始めた未央、そして彼女たちがそれぞれ新たな目標に向かって走り出す中自分が進むべき道を見つけられず思い悩む卯月。そんな3人の対比を描いた終盤の展開を「暗い」と仰る方もいましたが、僕は群像劇においてこうした描写はなくてはならないものだと思うし、そのような展開を描こうと決断したスタッフの方々は英断を下されたと思います。
ただ、どうしても言いたい事があるのです。「もっと時間をかけても良かったのではないか?」
紆余曲折を経て再集結したNGsの3人は、ニュージェネレーションズという存在が自分たちにとってなくてはならない、いわば彼女たちのアイデンティティーであるということを繰り返し噛みしめるように言葉にしていました。しかし、その様子を見た時に僕はどうにも腑に落ちない気持ちを抱いてしまったのです。「アニメ本編のなかで、彼女たちにとってNGsがそこまで大切なものであるって描写、十分にされてたかな…?」
1クール目の未央を発端とした解散危機、そして未央がフェスのステージやファンレターから「自分がアイドルである理由」を見つけ、一歩階段を上る姿、楓さんから「アイドル」を学ぶ姿。随所随所で、彼女たちNGsが絆を深めたり、自分たちの居場所を再確認するシーンはありましたが、しかし僕にはまだ「足りない」と映ってしまったのです。それ故に、第24話にて描かれたこの物語の1つのクライマックスシーンであろう「卯月のS(mile)ING!を歌う場面」を目のあたりにしたとき、僕は首を捻ってしまったのです。
アメリカン・コミックスにウォッチメンってのがあって、映画にもなってる。
長く冗長で無駄に大味なセックスシーンとか暴力描写とかアメコミの再現度は高いんだが、おすすめはしない。
その中に、ロールシャッハってキャラクターが出てきて、白黒ハッキリ付けたがる。絶対に妥協しない。悪を許したりグレーな領域を認めたりしない。
杓子定規というのとはちょっと違って、Justiceという単語がぴったりな、盲目で剣を持ち天秤で判断する正義の女神のグロテスクな表現に見える。
パチンコ、という遊びがある。まあギャンブルだ。スロットもそうだな。
法の下の平等や、実態としての賭博の規制などを鑑みると、そこにあるのは不正義だな。正しくない。
射幸心を煽り、勤労意欲を削ぎ、経済に影響を及ぼすので、ギャンブルは悪いことだとされている。
ただ、公営ギャンブルという存在を見ても分かる通り、お上の管理する賭博は良しとされている。
昭和の時代までは、競輪競馬競艇オートレースは、地方自治体を潤すお財布だった。
意識している人が少なくなるようにイメージ操作してるが、宝くじもギャンブルには違いない。
刑法が取り締まるギャンブルもそのものズバリ「賭博及び富くじに関する罪」だ。富くじは宝くじと同じだな。
どうやったって一定数そういうのをしたがるヤツがいるなら、お上がコントロールしてやるのが一番効率が良い。
変に潜らず目に見えるところでやるなら、パチンコみたいに、民間委託するのも、まあコントロールの範囲内だ。
繰り返しになるが、これは不正義だ。まったくもって正しくはない。
じゃあこれが正義、つまりは法律が正しく運用されて、かつ、ある程度吸収できるような方策を考えると、手詰まりになったりする。
つまりパチンコパチスロに慣れたジャンキーを吸収できる公営ギャンブルを設立できるかという問題だ。公営カジノが一番近いがやはり違う。
あの客層をそっくり収容できる娯楽施設が、まだ世の中に存在しない。
何度もパチンコが危機を乗り越えて存続している一つの大きな要因だ。
ただ、この世界もそろそろ終わりになってる。何度も繰り返しになるが、いままでが不正義で、正しくなかった。
ドヤ街に日雇い集めてその中で完結させる、日雇い払いの賃金を酒や焼き鳥で消費させて次の日に回す、働けなくなったらホームレスになって、働けないほど体が悪いから遠からず冬を越せずに死ぬ。つまりはそういうスラムが日本にもあった。他所の国のスラムに比較すれば健全なのかもしれないが。
本来正しくは生活保護を受けて、健康で文化的な生活が送れることが保障されている人たちだ。
この国が整備しているシステムが正しく運用されていれば、乞食は存在しない。
浮浪者も、餓死者も、それを望まない人たちはそうならないように文面では既になってる。
そして正しく運用されていないという不正義が問題視される程度には、日本は先進国となり、社会的に成熟してきつつある。
苛烈な正しさは、見える範囲の綺麗さと見えない部分への皺寄せという形をとることが多いが、シワを隠せる領域が減ってきている。
見えないところに追いやってそれとなく回していた不正義が許されなくなり、破綻しないようにさらに外側にシワを寄せようとしている。
東京のイベントに向けて、都内は綺麗になっていき、そのシワを吸収するべく既に受け皿ができていくように見える。見えない人もいるだろうけど。
でもきっと、そういう外出しした不正義も、糾弾されていくんだろうな。
例えばフィリピーナをネット越しに英語教師にするのは、日本に連れてきた移民を低賃金で働かせるより問題になりにくい。
同一労働に対して低賃金払っていることには変わりないけれども。
さらに苛烈な不正義を先に糾弾すべきというのは方法論として正しいし酷い現場はまだまだある。
海外へ仕事出す先が高賃金化でどんどん移動してるというのも、不正義だとはみなされにくい。
結局何が言いたいかというと、盲目のまま正義を無条件に実行すると、そこには正義だけが残るんじゃないかってこと。
理念への純粋性は美しいけど、たいてい現場の泥臭さが勝ってきた。
ものすごく卑近な例で言えば、シリア難民を救うために、とりあえず日本人とシリア人とで子作りして、それから在留許可を求めるという手段は難民申請よりもずっと現実的だし少子化対策にもなる。もちろん足元を見た人身売買だし、偽装としない為に子供を産むことになるし、当然に非人道的だろう。
この例は極端だから、この例なら文字通り死ぬほうがマシだったりするだろう。それがほんとにマシかは本人にしか解らないけれども。
でもきっと、正しければ多少の人死はやむを得ないというのは、すぐそこだと思う。
浮浪者はテントを張れなければ死ぬが、収容施設に入らない人間が死ぬのは自業自得だと思う人間が多数派になった時、対象は浮浪者から高齢者になり無職者になり、いずれ低所得者になるんじゃないかと、今から自分は怯えている。
http://www.amazon.co.jp/review/R33VQYXB3J6P7P/ref=cm_cr_rdp_perm?ie=UTF8&ASIN=4838725833
ネットで叩かれているようですが、事態はもっと深刻だとおもいます。
何より、「グラフィックデザイン」という仕事自体への信頼を落とした罪は、とてつもなく大きいと思います。
擁護していた人間が、信じられない。「仕事」あってのデザイナーです。「彼はいい人」?ふざけるな、です。
真の人柄とは、「デザインの仕事」にこそ、出るものなはず、です。
全てのデザイナーが、こんなパクリ、というか、「雑な仕事」をしているわけではありません。
精一杯、ギリギリの低予算と日夜の仕事の上にちょびっとだけ花が咲くような「地味」な仕事です。
この「パクリ」は、むしろ「佐野研二郎」さん、「森本千絵」さん、「長嶋りかこ」さんら、
大手代理店の実質・専属デザイナーだからこそ、必然的に起こりえました。(まだまだ他にもいますよ)
彼等は、零細のフリーランスや個人のデザイナーと違って、大手広告代理店・電通や博報堂とのパイプがあるため、黙ってても、とんでもない「大きな仕事」が降ってきます。サントリー、資生堂、TOYOTA、HONDA…そんな大企業はデンパクにしかできませんからね。
それをチャチャっと、イメージソースを見つけ出し、Macでコピー&ペースト。下っ端のほぼアルバイトに近い低賃金アシスタントに、徹夜でとてつもない量の「アイデア」を出させ、その「手柄」を横領します。
「横領」と「電通・博報堂・多摩美ムサビ」を中心とする「これがオシャレなんだぜ」という「自己顕示」が、彼等のいう「クリエイティブ」の正体です。
彼等に創造性は一ミクロンもありません。「芸能人」に好かれているから、成り立っていただけです。
「ま、素人だしな、センスねえ・一般人なら、わかんねーだろ。」これが、彼等のいう「デザイナー感覚」なのでしょうか?
違います。真のデザイン感覚とは、「一般の人」にこそ、パッと「見るだけでわかるもの」だと私は思います。
ちょっと心あるデザイナーたちは、みなこの人たちの「センス」の源泉・ソース元が「パクリ」であることにとっくに気付いていました。ただ、一般の人の目と耳に届かなかっただけなのです。
彼等は「デザイナー」というより、「中間搾取業者」さんという方が適切なのです。
デザインに、本当はプロもアマもありません。だからこそ、デザインは過酷な仕事なんです。
かえって、「素人」だからこそ、曇りのない目だからこそ、デザインの本当の良さがわかるし、ウソもバレるのです。
国民の祭典である「オリンピック」に、あんな葬式か、安っぽいブランドのロゴのようなデザインを出してくるセンス。
それに疑いもしないセンス。これが「プロのデザイナーの仕事」なのですかね?
こんな「雑な仕事」が、止まることなく、まかり通ったのも、彼等を批判することが「タブー」だったからです。テレビ・新聞・ラジオという「メディア」の一番の資金源である「広告」を「美しく」作る方(パクリですけど…)なのですから。
まるで、一連の騒動も、「頭の悪いネット民」の批判だから、などと、彼等側の人間は、主張するでしょう。
いえ、今回ばかりは、発見したのはネットの方々かもしれませんが、日夜真面目に働く「デザイナーたち」こそ、一番の被害者です。
こんなズサンな人々と一緒にされたくない、とほとんどの方は主張するでしょう。そして、デザイナーこそ、こういう愚劣なクソデザイナーに怒りを感じるはずです。
和田誠さん、田中一光さん、亀倉雄策さん、横尾忠則さん等、デザイナーがスターだった時代は、手と情熱とで、素晴らしく美しいデザインをつくっていました。いちいち鉛筆で線を引き、イラストレーターと一緒にアイデアを考えていました。
デザイナーという仕事は「広告屋」「看板屋」などと低く見られ、軽蔑されていました。
何が「ミスター・デザイン」じゃ!!その「ネーミング」の恥ずかしさに、言葉も出ません。
最高に笑えないギャグですよ。口に出してみて下さい。「ミスター・デザイン」?。
オレは偉いんだぜ、ってことでしょ。自己顕示欲の塊なんですよ。ちょっと心あるデザイナーなら、誰でも気付いていたことです。
これを機に、「デザイン」という仕事から、足を洗って頂ければ、幸いです。
後記:多くの方に反響を頂きまして嬉しいです。
少なくとも、サントリーのパクリの件は、専門学生の1・2年レベルの課題でも今時するか?という初歩的な「画像のまんまパクリ」です。フリー素材か、写真を取ればよかっただけのことです。
デザイナーとして、本当に、ありえないレベルのミスです。こんな仕事の仕方は、佐野研二郎氏の事務所だけでしょう、と信じたい…。
しかし、それでもまだ擁護する「デザイン村」の人達にはつくづく情けない…。
理研の小保方氏、音楽クラシック村の佐村河内とホントーに、まったく同じ構図じゃないですか!
デザイナーたちも、仕事に響くので、黙っている方がほとんどだと思いますが、勇気を出して、声を上げて下さい。
呆れるほどボロボロとずさんな情報が出てきてしまいます。「思考をクリア化」しすぎた結果だと思います。
この本を読んで、「そもそものデザインのやり方」への「違和感」を感じて、すぐに某本屋へ、売りましたが、まさかあのときに感じた違和感が、これほどまでに実現化されるとは思いませんでした。
でも、いかに佐野氏が、「手抜き体質」かが、出ていると思いますよ。
なんと…驚愕の事実が発覚しました(2015年8月30日)。「ペンギンブックス」という、日本人には馴染みが薄いですが、
有名なペーパーブックのシリーズの名タイポデザイナー「ヤン・チヒョルト」のパクリであることが発覚しました。
私も、GGGでの展示に行って、感銘を受けました。本当に許せない。チヒョルトは、ハッキリ言って、
作風は地味です。しかし、心に残るデザインをする私も心から敬愛する、「巨匠」です。
しかし、そのチヒョルトの「表面」のデザイン部分だけをペーストして、パクる姿勢。
本当に許せません。
「スポーツの世界」のヤツラにならば、わからないだろう、という魂胆でもあったのでしょうか?
本当にふざけてる。デザイナーとしても、最低です。許せません。
(コメントに追記)>>広告代理店のデザイナーの仕事はプレゼンが主なので細部まで検討して作りに作り込んだファイナルプロダクツを作成することはありません。ファイナルプロダクツは下請けの専門家に任せます。だから”これとこれをくっつけて~”みたいに30%ぐらいの力で仕事を仕上げるのが”デザインする”ことだと思っちゃってるデザイナーになってしまうんです。しかも代理店にいたというプライドだけは高いから、始末に負えない。
そうなんですよ。彼等のいう「クリエイティブ」は、日本語訳の「創造すること」や「発想すること」じゃないんですよ。
いかにして、「自慢するか」なんですよ。
で、CMの世界では相手のクライアントが、「企業」ですから、世に漏れなかった。会議室の中だけでの世界でした。
しかし、「オリンピック」という晴れの世界で、「Mr.デザイン」こと「佐野研二郎氏」は同じように、惰性でやってしまった。彼にとっては、こういう仕事の仕方が、「普通」なんです。
もちろん、考える力も発想のノウハウも、強さもないから、最終的な「アウトプット」は「何かに似せる形」になります。何かに似せる、しかも雰囲気だけ…ぐらいなら、いいんです。
「何かに似せる努力」すらやめて、「そもそも画像をそのままネットからパクっていいじゃん!」
「フォトグラファーを使う」「イラストレーター(絵描き)を使う」「タレントを使う」のにも、何をするにも、
それを解消するには、タダで「アウトプット」を創り出すには、いくつかのアイデアがあります。
しかし、最も単純明解に、クリアに、ボールドに、全ての制作費が浮く方法があります。
一番安く、早く、タダで済ませられる唯一のデザイン。
一体なんでしょう。
それは「搾取」です(「パクリ」という言葉は、何となく、「万引き」に似た甘やかしの言葉だと思います。そんなレベルではないですよ、コレは。明らかに「システム」として、「自分の仕事」として、やっています。でなければ、こんなに出てくるはずはないです。)。
デザイナーたるもの、誰でも一度は、パクることはあります。学生時代に、一からオリジナルを創り出せる人間など、いないし、天才でもムリでしょう。「習作の時代」はあります。
「自分の周りへのヒト・カネ」がメインであって、「モノ」(仕事)は、どうでもいいのです。軽蔑された結果なのだと思います。
はっきりと、誰かの作ったものを「奪って、人に提出する仕事」に甘んじてたのだと思います。原宿の事務所のMacintoshの中では、イラストレーターが書いたパンも、誰かのブログのパンも、「一緒」です。
ならば、タダな方がいい。
とすら、考える頭もよぎりません。
まったく自然に「ミスター・デザイン」は、搾取します。無限に仕事がつくれ、永久にカネが入ってくる仕組み…。
思考は確かに「クリア」かもしれませんが、その精神は「ドロドロ」です。
クリエイティヴ・ディレクター、アートディレクターという「肩書き」は、「搾取指示人」なのでしょうか。
「クソ・デザイナー」というカテゴライズで、はっきりと「普通のデザイナー」とは一線を画す社会にしたいものです。
全てのデザイナーこそ、今こそ怒りを上げるべきです。
2015年9月1日、ついに、ようやく、取り下げました。が、凄まじいシロモノの反省文を掲示しました。
ここまで「ひどい謝り方」をできる人間が、いたでしょうか。
帰って来た返事は、「被害者」気取り、でした。
やはり、闇は深い、と確信するばかりです。
もうこれは確実に、しれっとして、またヒョロっと、5年後、五輪のバックで「名前の出ない形」で関わってきますよ。1000%。
絶対に、です。「今を乗りきれば、大丈夫」と思っているはずです。
もちろん、いわれのない誹謗中傷もあるでしょう。それはお察しします。
しかし、博報堂の「営業」の人間は、そういうことで強くなるんですよ。何にも言われないのは、クーラーの効いた部屋で、パソコンと戯れるクソデザイナーだけなのです。
自分の大好きなお仲間たちと、カネをバンバン出してくれるクライアントと、ドラゴンボールやドラえもんを使われても、何も言えないそっちのヒトたちの複雑な気持ち、アニメーター、漫画家、アーティスト、イラストレーターを、笑顔でほがらかに踏みにじってきたわけですからね。アートディレクターって、一体何なのでしょう。
博報堂では、こんなに「謝る」ということは「罪悪」なのでしょうか。
卑怯なのは、「テキスト」ではなく「画像」で謝るということも、そうなんですが、
「リュウミン」を使って、この際も「キレイに、クリエイティヴに、素敵なタイポグラフィ」で謝ろうとするクソみたいなデザイン根性です。
「ニッポンは、世界中から尊敬されている映画監督の出身国だった。お忘れなく。」のあの「ドヤ感」の「薄汚さ」が、本当に蘇ってきました。その「キタナさ」が何一つ変わっていない、どのメッセージでも。
これが、逆にいえば、彼のデザイナーとしての唯一の「統一性」なのかもしれません。
ただ、「ドヤ感満載」のデザイナーだと、仕事になりません。本来ならば…。
こういう場合、「真摯なデザイナー」は、実は、普通の、どこにでもある「そっけない」明朝体を使います。
リュウミンだと、あまりに「美しい書体」すぎて、ほぼ「ウソっぽく」聞こえるからです。
そんな「文字への美的感覚」すらないんでしょうね。表面的に、「キレイ」なら、何でもいい。佐野研二郎。
そもそも本当にデザインを学んできたのでしょうか?疑わしくなってきました…。
皆様が5年後忘れていても、私は「佐野研二郎」という、愚劣な「デザイナー」という肩書きをした「搾取者」の名前を永遠に忘れません。
今は、「炎上」し、「祭り」状態かもしれません。
しかし、私は、もっともっと持続的に追求していかなければならない問題だと思います。
この多くの批判が消え、静寂になり、命を吹き返した頃に、
また愚劣な身内自慢とともに、高らかな搾取とクソデザインのオンパレードが、そっと始まる(reborn)ように思います。
絶対に許してはなりません。本当に。
結婚して家事が一人分が二人分になったってだけでなんでこんなに負担が増したのかずっと不思議だったんだけど、このエントリのブコメがズバリ答えだった。
はてなブックマーク - 「察して欲しい」という、原始的な欲求 雑誌VERYの広告から - スズコ、考える。
生活に関する身の回りのことを一人で暮らしてたらわかるはずなのに、なぜ夫婦で暮らすと口に出さなくては気づけなくなるのか。そこが察するのが苦手な人の甘えだと思う。
男女の「役割」がそうなってしまう社会への苛立ちとその社会を是としているどころかむしろ(無意識にも)当たり前と思っている旦那への苛立ちだろうな。。
これな。旦那は多分、自分では意識してないと思うけど、私がいることで「一人暮らししていた時には気にしていたこと」に無頓着になったんだと思う。エントリは「察して欲しいっていうけど、他人だから察することができないのは当たり前」みたいな話だけど、そんなレベルじゃない。どうしていい大人が、結婚した途端に「でっかい長男」になるんだろう。
セブンが好きで、惣菜買うときはだいたいセブンを利用しているのだけれど。
流石にいつもセブンじゃ飽きるなと思って、少し遠めのローソンまで赴いてみたわけよ。
そこで惣菜を物色するのだけれど、どうも食指が動かない。控えめに言って、まずそう。
結局ローソンでは何も買わずに、その日はいつものセブンの弁当を買って帰ったんだ。
自分はローソンの惣菜よりはセブンの方が味は好きだが、そこまでの差があるとは正直思わない。
だから、ローソンでなにも買う気になれなかった自分に対して、少し衝撃を覚えた。
セブンとローソンを決定的に分かつものは、(少なくとも僕にとっては)味ではない。だとすれば、それはいったいなんだろう。
その疑問は、馴染みのセブンに入った瞬間に、氷解した。
ズバリ、照明が違うのよ。
全部が全部そうかは僕には分からないが、セブンの照明の色は少し赤みがかっている。
赤というのは食欲を増進させる効果がある、というのはご存知の方も多いだろう。
家庭でも、ダイニングの照明はだいたい赤っぽい色だと相場が決まっている。
照明が、セブンの惣菜を美味しく見せているのだ(勿論、他の部分での企業努力もあると思う。セブンは見た目に対するこだわりが他のコンビニより強いと感じる)。
どこもだいたい、青みがかった、蛍光灯らしい色で光り輝いている。
クリーンなイメージを出すには良いかもしれないが、この色、食べものとは非常に相性が悪い。
結果、あまり美味しそうに見えない。そのイメージは固定され、いつしか「セブンが美味い」という風潮が生まれる。
と、つらつらと書き連ねたが、自分のなかではそんなふうに納得した、というだけの話です。
突然だけど、ビックリマンシールを集めるように、浮世絵を集めるようになってくれないかなと思う。
ビックリマンのなにがすごいって、ただただ美しいいからというだけでブームを作ったこと。
シールに遊び方があったというわけじゃない。
たしか「貼られたら貼りかえせ!」と書いてあったが、そんな遊びをしてるやつはいなかった。
コミックやアニメが展開したけれど、あくまでシールの人気にのっかっただけ。
今にして思うと、ビックリマンシールって、どうみても浮世絵の役者絵だと思う。
加えて、旧ビックリマンシールって、今の平板印刷じゃなくて、アキバ売られてるイルカの絵と同じシルクスクリーンだった。
インクの盛り上がりが気持ちいい、一種の版画だった。
余談だけど、浮世絵は大判が35×25だとして、ビックリマンシールが5×5cmとすると、大きさにして35倍。
ヘッドの封入率が約1/40 。
今売られている復刻浮世絵は、ヘッドシール以上に凝った細工がしてあるので、
35×40×30円=42000円
くらいまでは適正価格だと言えなくもない。
いや、4万もしちゃったら子供は買えないから、1枚1000円くらいじゃないと無理だけどさ。
特に現代木版画だと「限定○部」みたいな売り方してるけど、あれはやめたほうがいいと思う。
木版画って、ビックリマンシールと同じで、手にとって、生で見ないと美しさがわからない。
それでも、高級品として額にはめて壁に飾られたいのか?
それで本望なの?
でも、それって、希少だから貨幣価値が高まったというだけで、作品の芸術性が高まったわけではないでしょう?
手軽に聞けるウォークマンやラジカセが普及して、高級オーディオは衰退の一途を辿った。
結果は今の通り。
いい音を多くの人に届けていれば、そうやって品質をアピールしていけば、もしかしたら生き残れたかもしれないのに。
印刷技術が発達して、写真やディスプレイで見るぶんには区別がつかなくなった。
高級品として額に入れて紫外線をさけてアクリル板を挟んで飾ることを推奨するような売り方をする理由がわからない。
そもそも、市場は死んでる。
ネームバリューのある作家以外は、限定部数にしようがしまいが、ヤフオクでの値段は知っての通り。
財テクとして買うんだったら、絵なんかじゃなくて株券でも買うだろ。
常識的に考えて。
ビックリマンシールが廃れた原因が、公取委の指導でヘッドカードの封入率が上がり、レア度が下がったからという意見がある。
自分はそうは思わない。
レア度が下がったからではなくて、封入率が高くなったことで原価を圧迫して、シールのクオリティが低下したからだ。
流行りモノ好きが飽きたら、信者から搾り取るものがなくなったらそこで終了だ。
田中義剛が、
「発想の転換であえて少なく作る」
みたいなことを言っていたが、ぜんぜん同意できない。
ここ十年くらいは、
「品質がいいだけじゃ売れない」とかなんとかで、ブランディングが人気のように思う。