竹島:あの頃は人間扱いしてくれなかった。エベレストに登らされたとき、この仕事を請けたのは失敗だと思いました。
この時の『Mの活劇』の撮影について、Mのスタントである竹島秋雄はこう語ります。
竹島:監督のこだわりと言えば聞こえはいいですが、どちらかというとワガママでしょうね。たった十数秒のシーンのために、わざわざ実際に登る必要はなかった。
監督:初期の『Mの活劇』はショート作品だったので、とにかくインパクトが大事だと考えていました。
この制作スタイルはシーズンごとに落ち着き、起承転結を意識した構成になっていきます。
監督:脚本が完成しないんです。大まかなプロットは複数あって、ストックも常にあります。しかし、それを物語として構築する作業にとても時間がかかりました。
脚本家:1話ごとの放送時間が延びたのが主な原因でしょう。通常、こういう作業には複数の脚本家がチームを組んでやるのですが、元はショート作品だった『Mの活劇』では監督との二人三脚なんです。
そうして完成しても、予期せぬ障害が発生したことも珍しくありません。
監督:意図せず時事ネタになってしまった時は頭を抱えました。編集も終わってた段階だったので、かなりショックでしたね。
そう苦笑しながら、お蔵入りとなった台本と記録媒体を我々に見せてくれた。
監督:この話自体が、当時放送できなかったフィルムを探すって話だから皮肉なもんです。
そのストーリーとは、諸事情で封印された「幻のエピソード」を現スタッフたちが追い求めるというもの。
なんとかフィルムは見つかるのだが、火の不始末によって燃えてしまう。
中身を見ることなく、結局は「幻のエピソード」となってしまうという展開でしたが、このシーンが問題視されました。
監督:現実で、とあるスタジオがマジで火事になっちゃって、不謹慎だからって放送局に拒否されましたよ。
脚本家:そこまではいかずとも、周りで話題になっていることと制作中のテーマが似てしまうなんてのはよくありました。
監督:こちらとしては乗っかっているつもりはないし、そういう風に思われたくもないから時期をズラしたりしてるのに、なぜか再燃して結局はカブるという。
そうした予定外から生まれる急ピッチ制作は、作品の質にも表れます。
テーマが前のめりすぎたり、尻切れトンボなエピソードが出来ました。
監督:枚挙に暇がないけど、くどいというか説教臭いというか。主張がセリフに落とし込めていない感じが今でもする。
脚本家:特に試行錯誤していた中期は、その傾向が強い気がしますね。
他にも課題はありました。
役者たちとの連携が上手くとれず、現場では何度か不和も起きたといいます。
それが世間に認知されたのは、出演者の一人が書いた暴露本でした。
「それ面白い?」
「少なくとも眠くはならん」
皆は口々に「えー」と声を洩らす。
これを持ってきた時、既に年を越していたのが問題だった。
時計の短針は1の数字を指しており、食べるタイミングとしては完全に手遅れだ。
「別に年を越した後に食ってもいいんじゃないかって思うんだよね。“年越し蕎麦”って呼ばれてるんだからさ。年を越す前に食べるか、後に食べるかなんて、この名前だけじゃ確定しない」
そんなこと言い出したら年越し蕎麦自体、どうしても食わなきゃダメってもんじゃない。
しかし出された以上、食わないわけにもいかないので、俺たちは番組を尻目に麺をすするしかなかった。
岬に誰が 早く飛べるか賭けてみて
吸ってたあとで 身震いしてたら
朝まで笑っていたね
ぼくが一番 不気味だって言ったね
DRUG LACE 2019
DRUG LACE 2019
白い細いパイプ うなるようにすする
肺臓深く 吸い込んでみる
テレビ画面が切り替わり、曲が途中で中断される。
番組を熱心に観ていたウサクは、リモコンの主に睨みを利かせた。
視線の先にいたのは俺の弟だ。
「古臭いとはなんだ。この歌の偉大さが分からないのか。今よりも無秩序な、ドラッグの定義も取り締まりも甘かった時代、社会の様相とドラッグは一つの象徴であり、その激動で生きていく人々の葛藤と渇望が……」
こうなるとウサクの話は長いし、疲れる。
それはここにいる皆が分かっていたため、俺たちはすぐさま二人の間に入った。
「ウサク、歴史の大切さは分かるが、年末の音楽特番で省みる必要はないだろう」
「弟くんも、チャンネル替えるなら断りを入れたほうがいい」
「でも俺たちの部屋にあるテレビだよ」
「だったら長男の俺には少なくとも何か言うべきだろう。そもそもテレビだって俺たちが買ったわけじゃないし、自分たちの部屋にあるってだけだ」
だが、正直なところ俺たちもチャンネルを替えようと思い始めていた。
仲間たちで寄り集まっても、このまま音楽を垂れ流していたのでは全滅は免れない。
「よし、じゃあ二人の意見を尊重して、折衷案のドキュメンタリー番組を観よう」
「担当者さん。俺たちは難しいことを何一つ言っていない。機械を、ムカイさんを使い捨てるような真似はやめてくださいっていう、すごくシンプルな話なんです」
「見え透いたこと言わないでください。ムカイさんは他社から借りてきた、派遣のアンドロイドなんでしょう。そのムカイさんにリーダーの役職を与え、その割に権限は譲らない。何かあったときのスケープゴートにする気マンマンじゃないか」
「それは私の決定ではなく、上が……」
「その“ウエ”って奴が言ったら、オマエは何でも従うのか。一体、何を“タントウ”しているんだ」
交渉を俺たちに任せていたムカイさんが、ここにきて饒舌になった。
どうやら担当者の取り繕い方に苛立ち、我慢ができなくなったらしい。
「ワレは……いや“ワレワレ”は貢献してきた。人間たちができない仕事や、やりたくない仕事も区別なくやった。なのに、人間ならば当然ともいえる要求すら受け入れられないのか」
ムカイさんが口元をガクガクと動かす度、担当者の顔が歪んでいく。
「そんな要求、通るわけがないでしょう。機械を人間と同等の待遇になんて……」
「それを決めるのは“ウエ”なんだろう? オマエは言われたことを大人しく実行すればいい。ここにいる、その他の機械と同じようにな」
ムカイさんは新型のAIでも真似できないような、渾身の皮肉を言った。
それが止めとなり、平静を保とうと必死だった担当者の中で“何か”が切れてしまったようだ。
幻聴だとは思うが、嘘じゃない。
本当に、その時「プツリ」という音が聞こえたんだ。
「そんなこと! 私が一番分かってるんですよ!」
担当者の叫びは、それほどまでに俺たちを驚愕させる音圧だった。
担当者は今まで溜め込んでいたのだろうか。
「『ラボハテ』の内定を貰ったのは幸運だと思いました。大企業ですからね」
実際、最初は順調だったらしい。
しかし時が流れるにつれ、彼は自身の成長と、技術開発の進歩がどんどん離れていっていることに気がついた。
無能はもちろん、凡人では追いつけないほどの距離感が生まれていた。
「一人雇うのにだって年間数百万。福利厚生なども加味すれば、もっとかかるでしょう。その費用を開発にあてた方がいい……なんて自分で考え出したら潮時です」
それでも辞めたくない場合、『ラボハテ』は会社員を簡単に切り捨てたりはしない。
「『ラボハテ』は障害者向けに精密な義体を取り扱っていることでも有名ですが、それを推し進められるのは身体障害者を多く雇っているからでしょう」
「言い方悪いぞ、カジマ」
「いいえ、あながち間違ってもいません。私には同僚がいるのですが、彼は1年前に両目を義眼に変えました」
「え、まさか……」
当人いわく「事故で失明したから作ってもらった」らしいが、彼は疑念を振り払うことができなかった。
「本当にただの偶然かもしれません。でも同僚は以前、『ラボハテ』を辞めるかどうかで悩んでいて、そのことについて私とよく話し合っていたんです。そうなってからは、おくびにも出さないのが不気味でたまりませんでした」
『AIムール』の話が持ち上がり、異動の希望者を募っていたのだ。
「二つ返事で受けましたよ。事実上の左遷ですが、あそこでビクビクしているよりはマシだと思いましたから」
けれども、あくまでマシってだけだ。
そこで担当者となった彼は、ますます自分の無力さを思い知らされる。
「もしかしたら、この『AIムール』という会社は、いらない社員を自主的にやめさせるって意図もあるのかもしれません」
その点については俺も何も言えない。
だけど、それはそれとしてムカイさんの現状をどうにかすべきなのは変わらない。
「オマエラ、もういい」
しかし、そう言葉を続ける前に、今度はムカイさんが俺たちを制止した。
「いや、でも……」
「どうせ無意味だ。ならば、さっさと辞めるに限る」
こうしてムカイさんは『AIムール』を去り、俺たちは不本意な学びを得たまま職場体験を終えた。
それから数週間後、『AIムール』は相変わらず俺たちの学校近くに構えている。
タイナイが自分のブログで今回の件を書いてはみたものの、大した話題にはならなかった。
それでも多少の変化はあった。
あの一件後すぐ、あの担当者が俺たちの意見を具申してくれたようだ。
「即却下されたらしいがな」
それどころか、学生に現場をいいようにされた責任を問われて『AIムール』を辞めることになったらしい。
そんな簡単に辞めさせられるなんて、あの担当者もムカイさんと同じ“スペアの頭”だったってことか。
「俺たちのせいだな……」
「思い上がるなマスダ。ヤツはもとから、そのつもりだった。むしろ感謝していたぞ。“自分の尊厳を取り戻した”ってな」
「え、ムカイさん、知ってるの?」
ムカイさんによると、あの担当者は現在『256』で働いているんだとか。
「よく分からないがエージェントだとか何とか言ってたな。少なくとも『AIムール』にいた頃よりは、いい顔をしていた」
まあ、あそこは顧客からの悪評は絶えないが、給与と労働環境はいいから社員にとっては望むところだろう。
「ムカイさんは最近どうなの?」
「ワレは自宅待機だ」
「だったら久々に家に行ってもいいか? 弟のやつが、近頃ムカイさんを見ないってボヤいていたからさ」
「構わん。どうせオマエの弟は、来るなと言っても来るだろうからな」
望むと望まざるに拘わらず、周りは緩やかに変化していく。
それらの変化が良いのか悪いのか。
自分は順応できるのか、許容すべきなのか。
正直なところ良く分からない。
それでも言えることがあるならば、斜向かいには今もムカイさんが住んでいる。
今回の話で断言していいのは、そこくらいだろう。
「担当者と話したいなら、内線で呼ぼう」
ムカイさんを宥めながら、俺はクラスメートのタイナイに目配せをした。
「あ……ああ、分かった。呼んでくるよ」
しかし、タイナイが内線に向かおうとしたとき、近くにいたアンドロイドのエーゼロワンが作業の手を止めた。
どこかに移動しようとしているが、あっちは充電所じゃない。
「ブザーを鳴らすつもりだ! 警備ロボを呼ばれるぞ」
どうやら俺たちとムカイさんの動きを、異常事態だと感知したらしい。
出来る限り穏当にいこうって時に、そんなことされたら話がこじれる。
「ウサク止めるんだ! タカ派の力を見せてやれ!」
「タカ派じゃないし、貴様はタカ派をなんだと思って……まあ、その話は後にしよう」
ウサクは渋々といった具合に、エーゼロワンの前に立ち塞がった。
いつものように質問をすると、エーゼロワンは動きを止めて応答した。
それが終えると再び動き出そうとするが、同じ質問をする度に律儀に動きを止める。
これで時間稼ぎができると思った束の間、今度は監視ロボットがこっちに向かってきている。
「わー! 見て見て~!」
それにいち早く気づいたカジマは、監視ロボットの前で不自然におどけて見せた。
ロボットはそれを避けようと順路を変えるが、カジマは反復横とびでひたすら妨害し続ける。
「オマエラ……そこまでして戦うのが嫌なのか」
その様子にムカイさんは少し呆れているようだったが、おかげで冷静さを取り戻したようだ。
「戦うことに意味があるのは否定しないさ。でもムカイさんだって、戦うこと自体は好きじゃないだろ?」
そうじゃなかったら、“戦わない理由”を自らプログラムしたりしないだろう。
「それでも戦う必要があるのなら、暴れるんじゃなくてスマートに行こうぜ」
「ふっ、スマートか……オマエたちの慌てぶりを見ていると、確かに説得力があるな」
うん?
「『とりあえず来てくれ』とだけ言われましたが、何かありましたか」
俺たちはムカイさんと担当者の間に入ると、その旨を伝えた。
「つまり、こちらのムカイさんが、ご自身への待遇が不当だと……おっしゃるので?」
これまで淡々とした調子を崩さなかった担当者が、ここにきて初めて眉をひそめた。
機械が労働に異議を申し立てるなんて前代未聞だから、困惑するのも無理はないが。
「『256』に、ちゃんと支払っているのですが……」
「それってムカイさんに対する報酬じゃないっすよ」
「それって一定額までなら無料の食堂と、健康診断がついているようなものだろ」
「つまりヒトでいうなら福利厚生の範疇だ。仮に報酬だとしても、対価に見合っているとは思えないが」
「規格外の機体ですから、メンテナンスするとコンプライアンス違反になりますので」
「コンプライアンスを遵守するなら、それこそムカイさんに対する扱いが不当だろって話をしているんだ」
「いや、しかし彼は……」
俺たちが詰問するたび、担当者の顔がどんどん険しくなっていく。
困惑と嫌悪が入り混じったような、何ともいえない表情をしていた。
だからトラブルが発生した場合、その原因と是非は機械に求められるだろう。
ひとつの機械が起こした問題だとしても、人々は同社の製品全てに不信感を抱く。
それを解消するために全ての機械を作り直す、なんてのは大きな損失だ。
再発防止の強化にしたって新たなコストが発生するし、作業の効率性も落とす。
リスクヘッジのために、そこまでやるのは割に合わない。
この会社を作るだけでも莫大な金がかかっているだろうし、できれば余計な出費は避けたいはず。
「そのためにワレを“リーダー”に……“名ばかりの重役”にしたというわけか」
規格外の派遣アンドロイドであるムカイさんは、『AIムール』にとっては都合がいい存在だろう。
派遣させた『256』にとっても、今は亡きメーカーの中古品を管理しているだけ。
あわよくば処分したい位に考えているのかもしれない。
「うへえ、えげつな~」
酷いやり口に、しばらく沈黙していたクラスメートたちも思わず声を洩らした。
だが、それを最も酷いと感じているのは、当事者のムカイさんに他ならない。
「ヤツラめ、どこまでコケにすれば気が済むのだ!」
ムカイさんは声を荒げ、勢い良く立ち上がった。
次に繋がる行動も、誰の目から見ても明らかだった。
「タントウシャはどこだ! ワレをリーダーに任命した、あのタントウシャだ!」
今にも暴れだしそうな勢いだった。
ムカイさんは“戦わない理由”をプログラムすることで、戦闘行動を自主的に抑えている。
言い換えると、“戦う理由”があれば歯止めがきかないってことだ。
「ど、どうしよう、マスダ」
このままムカイさんを行かせるのはマズい。
いくら武装解除しているとはいえ、本来のスペックは戦闘用のそれだ。
「マスダの母さんを呼ぼう! 昔はムカイさんとよく喧嘩してたって聞いたぞ」
「それだ! 彼女なら止められる」
クラスメートたちはよほど混乱しているらしく、とんでもないことを提案してくる。
うちの母を荒事に介入させようとするなよ。
「バカなことを言うな。そんなことしたら、なおさら収拾がつかなくなるだろ」
そりゃあ、母ならムカイさんを止められるだろうが、それはあくまで“物理的な仲裁”だ。
それでは大事になるし、みんなも無事じゃあ済まない。
血もオイルも流させないことが肝要だ。
「ムカイさん、ちょっと待ってくれ」
俺は回り込んで、ムカイさんの進行を遮った。
「違う、これはお願いだ。ひとまず座ってくれ」
母とは和解したし、弟はムカイさんのことを気に入っている。
機械のやることは労働じゃないのだから、労基を守る必要もないってことだ。
それは労働力を搾取される社員を機械に置き換えているだけともいえたが、この会社は、この社会は事実上それが認められている。
人道に機械の通る道はない。
「ぬううう、納得いかんぞ! オレは人間によって生み出されたが、人間のために働きたいわけじゃない!」
ムカイさんにそのつもりがなくても、機械は人々のために作られていることは大前提だ。
そこを否定してしまうと、そもそも作らなければいいって話になってしまう。
さすがに、それをムカイさんに面と向かって言えるほどの胆力は俺にはないが。
「オマエたちは不服じゃないのか!? 人間たちよりも長く、多く働いているにも関わらず、マトモな見返りも敬意もないんだぞ!」
しかし、まるで反応がない。
専門的なことは分からないが、多分あのアンドロイドたちはAIが最適化されているのだろう。
見返りも敬意も欲しておらず、自分たちのやっていることに疑問を持つ余地がないよう設計されている。
だけど、少し妙だな。
言っていることの内容を理解できない場合でも、最低限「異常なし」って応答はするよう設計されているはずだが。
「やはりダメか……ワレが何を言っても、ヤツラはいつもあんな調子だ」
と思ったが、どうやら以前から反応していなかったらしい。
対応していないメーカーの機械音声には反応しないのかもしれない。
或いは、あえてムカイさんの声にだけ反応しないようプラグラムされているか。
「まったく、これだけ無視されるというのに、なぜワレはリーダーに任命されたんだ」
当人もその点については不可解だったらしい。
俺はこの時点で凡その見当はついていたが、言うべきかどうか悩んでいた。
どうしても憶測が混じるし、それを聞いたムカイさんがどういう行動にでるかも不安だ。
それに俺の考えていることは邪推でしかなく、何事もなく終わる可能性だってある。
「マスダ、他にも何かあるのか?」
ムカイさんが詰め寄ってくる。
こちらの躊躇いが態度に出ていたのだろう。
こうなったら、もう言うしかない。
まあ、どこかで会話の音声を拾われているかもしれないし、今さら気にしたって仕方ないか。
「多分……それはムカイさんを“名ばかりの重役”にしておきたいからさ」
「この会社のアンドロイドと、ムカイさんとの決定的な違いって何だと思う?」
「んん……AIか?」
「半分正解。厳密に言えば、“この会社が管轄していないアンドロイド”だってこと」
そんな立ち位置のアンドロイドにリーダーを任せる目的を考えるなら、導き出される答えはそこまで多くない。
「あー……」
さっきまで滑らかだった口は途端に摩擦を失い、みんな不規則にキョロキョロしだす。
「どこを見てるんだ」
ムカイさんの疑問に答えるのは、あまりにも荷が重過ぎると感じたのだろう。
話題を無理やり変えようとしている。
「……オマエラ、見くびっているのか?」
「え、いや、そんなことないよ。僕たちじゃ500キロなんて四人がかりでも……」
「そんなので話を逸らせると思っているのか?」
だが、やり方が露骨過ぎる。
「それともワレ相手なら、その程度でやりこめられると?」
ムカイさんの表情は変わらないが、プレッシャーはどんどん増していくのを感じる。
「さっさと説明しろ。なぜ人間にやったらブラックなのに、ワレワレ相手ならホワイトなんだ?」
「う、うーん……」
もはや答えなければ収まらない様子だが、クラスメートたちはそれで完全に怯んでしまったようだ。
うんうん唸るのが精一杯らしい。
「マスダ……」
話をするならば、ムカイさんと近所付き合いのある俺が適任、とでも言いたいのだろう。
お前らが好き勝手くっちゃべった結果だろうに、後始末は丸投げかよ。
「……はあ、俺が答えよう」
「むん? マスダ、お前が答えるのか」
「他にいないから、なあ」
しかし、自我を持ったアンドロイドであるムカイさん相手に、人間との待遇の違いを一体どう語ったものか。
踏み込まずに説明しても罷り通らないし、かといって踏み込めば爆発は必至。
探り探りやっていくしかない。
「ブラック企業が、ブラックといわれる最大の理由はな、労基っていうルールをちゃんと守ってないからなんだ」
「ローキ? よく知らんが、それを守らないことの何が問題なんだ?」
「ざっくりと言うなら、労働力を不当に扱っているから……かな」
自信なさげにそう返しつつ、クラスメートたちの顔色を窺ってみる。
「……」
しかし、うんともすんとも言いやしない。
俺も詳しくないんだから、せめて補足くらいしてほしいのだが。
「……」
そういうつもりなら、こっちもヤケになるぞ。
「だからワレワレ相手の場合はブラックじゃないというわけか。しかし、なぜローキが適用されないのだ?」
どうせ自分のボキャブラリーでは、いくら言葉を尽くしても角が立つ。
意を決し、俺はあえてオブラートを突き破ることにした。
「労基は人間のために作られたものだからさ。ムカイさんたちと同じでね」
「……つまり、ワレワレは人間のために働いても、人間よりも働いても、同等には扱われないと?」
そう洩らすムカイさんの表情は硬いままで、そこから感情らしい感情は読み取れない。
だけど俺は、何ともいえない居た堪れなさに襲われた。
「ワレワレの生産性によって得た財産は、人間に分配されるというのか!?」
「まあ……そうなるね。『相応の対価を』ってのも、ヒトの都合に合わせたものだから」
「そんなことがまかり通るのか!? ワレワレだって働いているんだぞ!」
「残念ながら、ムカイさんたちの“働き”は、“労働”とは認められていないんだよ……」
「気になったんだが、ムカイさんはどういう経緯でこの部署のリーダーに?」
イントネーションが独特だが、「タントウ」ってのは俺たちを部署に案内した“あの担当者”のことを言っているのだろうか。
「それって、あの暗そうな人?」
「えーと、活力がないというか、覇気がないというか……」
「ここの社員は皆そうだろう」
どうも、ここで働いている人間は、そのタントウみたいなのばかりのようだ。
『AIムール』は「AIが人間向けのサービスを如何に助けるか」という理念で設立されたようだが、この会社自体はむしろ逆だ。
ひたすら横でAIの作業を見せつけられ、己の職場での必要性を問いたくなってしまうような環境。
職場体験で来た俺たちですら精神が磨耗するのだから、ここの正社員は尚更だろう。
「あのタントウさんもクビになるか、自ら退職するか、時間の問題じゃないっすか」
俺はそれを軽く窘めようとするが、今回はタイナイまで話に追従してきた。
「実際、『AIムール』の方針自体、遠まわしに彼らを辞めさせようとしている節があるよね」
「おいおい、滅多なこと言うもんじゃない」
「いや、そこまで破天荒な話でもなかろう」
更にはウサクまで乗っかってきた。
皆どうしたっていうんだ。
「ウサク、何一緒に頷いているんだよ。お前、AIが人間の仕事を奪うとかいう言説には懐疑的だったじゃないか」
「別に全面的に否定していたわけじゃない。経済における自然淘汰として、そういう側面もあること自体は事実だからな」
「そうっすよ。機械に仕事を奪われるような人間は、その程度しかできないってことの裏返し」
それはAIやアンドロイドの優秀さを誉めるというよりは、人間の不甲斐なさを腐しているようだった。
思っていた以上に、『AIムール』は短期間で彼らを疲弊させ、価値観を侵食したらしい。
「人材は最も買い叩けないものでありながら、不安定で繊細だ。経営者目線で考えれば、それがコストに見合わないとなったときに彼らは金食い虫とみなされ駆除対象にもなりうる」
「AIは文句を言わないし、個人的な理由で転職したり、トラブって炎上の火種を作るリスクもないもんね」
俺はあわててフォローしようとする。
カジマたちの主張する内容がマズいからというよりは、“今この場で語っている”ということを危惧していた。
「待て待て、そうは言ってもエラーによるミスとかはあるだろ?」
「それはヒトだって同じじゃん。むしろAIは予測と対策が可能な分、ヒューマンエラーより扱いが楽だよ」
言ってることは側面的には事実だし、俺もそれ自体は否定できないからだ。
「なにより、人間にやったらブラック企業まっしぐらな行為も、AI相手なら驚きの白さなのが大きいっすよね」
そして力及ばず、いよいよカジマが口を滑らしてしまう。
俺は歪む口元を左手で覆い隠した。
仲間内の会話として、やや明け透けにモノを言っているだけなのだろう。
だが、この話の輪の中に“当事者”が居るってことを、もう少し考慮すべきだ。
「さっきから聞いていたが、どういう意味だ。なぜ人間にやったらブラックなのに、ワレワレ相手ならホワイトなんだ?」
とうとうムカイさんが口を開く。
さあ、七面倒くさいことになってきたぞ。
まさかとは思っていたが、やっぱりだ。
アメフト選手と相撲レスラーを足して、2で割らなかったような体躯だ。
もしも、ここで勢い良く振り向かれたり、抱えている荷物を落とされたりしたら大怪我は確実だろう。
「やあ、調子はどう?」
「ん?……よもやワレに聞いているのか?」
俺の予感は確信に変わる。
「うぬ……マスダ、の長男」
「そんな気はしてたけど、やっぱりムカイさんか」
「なぜ、こんなところにいるのだ?」
「それはこっちも聞きたいな」
俺の知り合いだと分かると、クラスメートたちも会話に参加し始めた。
「怖くて近づけなかったとは、オマエラも薄情なヤツだな」
「ははは……ムカイさんに指摘されると、なおのこと申し訳なくなるね」
AIも戦闘用に作られているはずだが、感情表現は人並みに豊かだ。
現在は武装解除され、『256』という会社が名義上ムカイさんを管理しているらしい。
しかし実質的に放逐状態で、俺の家の斜向かいで普通に生活している。
「ワレの戦闘プログラムをいじれる技術者が見つからなくてな。仕方なく、自ら“戦わない理由”を新たに規定することで抑えているのだ。そのせいで行動に大きなラグが生じてしまう」
「どれくらい?」
「平均0.2秒だ。以前は0.1もかからなかったというのに」
「いや、十分早いじゃん……」
「オマエラ基準で言われても慰めにすらならん。何をするにも戦闘用プログラムと紐付けられているから、その度に処理が発生するんだぞ。この煩わしさはシェア不可能だ」
とはいえ、現代社会に溶け込むためには色々と不便もあるらしい。
この『AIムール』で働いているのも、『256』に言い渡されて渋々やっているようだ。
なるほど、会社が未完全の状態にしては、アンドロイドだけ妙に揃いすぎていると思った。
足りない部分は、そうやって穴埋めしてたってわけか。
ムカイさんにチェックを必要としないのも、『AIムール』の管轄外かつ規格外だからだ。
下手にいじれば改造行為にあたるため、コンプライアンス的にマズいのだろう。
ただ、未だ疑問も残る。
そんな派遣アンドロイドに、なぜ『AIムール』はリーダーを任せているのだろうか。
いや、なんとなく分かるような気もするが、その“可能性”はあまり考えたくない。
「エーゼロワン」
翌日の仕事に慣れてきたこともあって、あっという間に終わった。
慣れが必要なほど難しいってわけでもないけれど、何もしない時間が増えてしまうのが厄介だ。
アンドロイドたちが黙々と作業をするシーンなんて数分見てれば飽きる。
「暇っすねえ~」
「そういう極端な対比は適切ではないな。それに、社員に碌な仕事を与えないのも一種のパワハラだ」
「とはいえ、俺たちは職場体験で来た学生だからな。大した仕事は与えられないんだろう」
まあ、そうは言ってみたものの、何を体験させられているのかは自分でも良く分かっていないのだが。
「せめて暇をつぶせる場所があればいいんすけどね~」
社内はまだ工事中の場所か、『関係者以外は立ち入り禁止』という札ばかりだ。
利用することはもちろん、覗くことすらできない状態だ。
AIの職場だから、人間向きの施設は優先順位が低いってことなのだろうか。
大企業の支社だから、食堂の飯だけは少し期待していたのだが、まさか出前だとは思わなかった。
「普段は何を頼むの?」
「やっぱピザが最強っしょ。もう少し安くなってほしいとは思うけど」
「ああいうデリバリーが高いのは、注文が殺到するのを防ぐためって側面もあるらしいぞ」
「ま、結局は費用対効果が~ところでしょ」
「リーダーのアンドロイドに、何か聞いてみたりしないんすか?」
「ええー……どうかな」
暇つぶしになるかどうか以前に、そもそもやりたくないって反応だ。
「ちょっと怖いんだよね……」
リーダーは、他のアンドロイドたちから十数メートル離れた場所で作業をしている。
遠くから見ても分かるほどに大きなボディで、人間には持てないであろう重さの荷物をいつも運んでいた。
どうにも近よりがたい雰囲気があったんだ。
「他のアンドロイドたちみたいに質問チェックしなくていいみたいだから、無理に関わる必要はないんじゃないか?」
「それが気になるんすよ。なんでリーダーのチェックはしなくていいのか……」
確かに、俺もその点は気になっていた。
リーダーなのだから、むしろ優先的にチェックするべきアンドロイドのはずだ。
運搬作業ばかりで、他のアンドロイドを統率している様子もないのも気になる。
「よし、聞いてこよう」
俺はフォーチュン・クッキーを平らげると、おもむろに席を立った。
「問題ない。占いには『思いがけない出会いが、水の流れを変える』と書かれていた」
「それは、良いとも悪いとも取れる書き方じゃないか?」
もちろん、フォーチュン・クッキーの占いなんて信じちゃいない。
大丈夫だと感じたのは、危険だったら担当もこんな場所を任せないだろうという、常識的判断からきている。
それに漠然とだが、あのリーダーを見たときから、俺の中では「もしかして」って思いが燻っていたんだ。
「ここが皆さんの部署です」
「わー、すごい……」
「本当にAI中心で働いているんだな」
そこでは十数体のアンドロイドが自律的に動いており、それぞれ何らかの部品を製造しているようだった。
横から覗く限り、かなり複雑で繊細な工程のようだが、各ロボットはスムーズに作業をこなしている。
「みなさんはガイドライン通りに、各AIの動きを逐次チェックしていってください」
「今さら聞くのもなんですが、そんな仕事を俺たち素人に任せて大丈夫なんですか?」
「むしろ適任です。我が社のAIは様々な事業で活躍することを想定しています。誰でも簡単にチェックできる設計でなければ扱いづらいので」
モニターはモニターでも、それだと“監査役”というより“商品の意見や感想を述べる人”って意味のモニターだ。
一応、俺たちは職場体験で来ているのだが、体よく利用する気まんまんだな。
「緊急の問題が発生した場合は、社内の内部通信で連絡をとるか、お近くのブザーを鳴らしてください。どちらも不可能な状態の場合は、この部署の“リーダー”に報告してください」
「リーダー?」
「はい、あそこにいます。あ、あとリーダーには他のアンドロイドのような質問チェックは必要はありません」
その方向に視線を向けると、一際大きいアンドロイドが、その身一つで荷物を運搬しているのが見えた。
明らかに他と規格が違っており、多分あれが“リーダー”なのだろう。
遠くからでも威圧感のある見た目をしているが、ムカイさんに似ているため個人的には親しみが持てる。
まあ、こんなところにいるはずがないので、ボディが似ているだけだとは思うが。
「エーゼロワン、異常はない?」
「異常なし……っと」
現場にいる人間は基本的に俺たちだけで、1時間毎にあの担当者が顔を出しに来る程度だ。
後は小型の監視ロボが、頼りなさげにフワフワ巡回飛行しているだけだった。
「うわっ、びっくりした! なんだ、監視ロボか……」
いや、この場合は“なさすぎた”というべきか。
「これで一通りチェックはしたかな。そっちは異常なかったか?」
「うん、みんな異常なしって答えてた」
「よし、じゃあ一時間後に、またチェックだ。くれぐれもアンドロイドたちの作業は邪魔するなよ」
「まあ、もし邪魔してしまっても、ちゃんと動きを修正できるから問題ないだろうけど」
薄々感じてはいたが、実際にやってみると非常に楽な仕事だった。
渡されたガイドラインに従ってアンドロイドたちに質問し、項目にチェックを入れていくだけ。
にも関わらず、俺たちの精神は磨耗していく。
「あいつら『異常なし』って答えてるけど本当に大丈夫なのか?」
なぜかっていうと、どのアンドロイドも同じ回答しかしてこないからだ。
「人に体調を尋ねて、『大丈夫、だいじょーぶだから』って答えられてるようなものだぞ」
「この会社は、それで本当に大丈夫なんだろう。それだけ自社のAIに自信があるんだ」
「まあ実際、優秀だよね」
アンドロイドたちは定期的に自己メンテナンスをしたり、充電とかも勝手にやっている。
自己修正できない場合は、自分の足でメンテナンスロボのもとへ向かうらしい。
「そりゃあ……あるんじゃないか?」
カジマの明け透けな疑問に、俺はなあなあで答えた。
俺たちの仕事量は非常に少なく、退屈なこと自体は否定できなかったからだ。
パンフレットを読むのに時間をかけすぎて、他の候補先を選ぶ余裕がなかったからだ。
まあ体験内容も楽そうだし、出来立ての社内を覗けるのは興味深い。
結果として悪くない選択だったとは思う。
後日、参加する生徒たちは『AIムール』社の受付前に集まった。
「お前らもここを選んだのか」
「そりゃあ、学校近くだしね。気になるよ」
「社会学は人間のためにあるものだが、そこにAIがどう関わっていくか気になったからな」
その中にはクラスメートのカジマとウサクもいた。
意図してはいないが、よく連れ立つメンバーで固まってしまったようだ。
「それにしても、味気ない見た目だよね。この会社」
カジマの言うとおり、建物のデザインは非常に飾り気のないものだった。
外装はまだ工事中の箇所があった状態とはいえ、それにつけてもシンプルである。
内装はまだ1階しか見れていないが、ここも外装と同じレベルだ。
特に力をいれるだろう1階で“これ”なのだから、他のフロアも同様であることは容易に想像がつく。
前向きに解釈するなら「一貫したデザイン」と評価できなくもないが、これはただ簡素なだけのように見える。
「うわっ、びっくりした!」
「“声をかけるなら、僕らがもっと離れていた時に”とおっしゃっていましたが、適切な距離ではありませんでしたか」
「いや、距離だとかそういうことじゃなくて……」
以前、タイナイに言われたことを覚えていたらしく、数メートル先から大声で話しかけてくる。
天然というか、意外と茶目っ気のあるタイプなんだろうか。
担当に促されるまま俺たちは社内を案内される。
その道中で利用できる部屋や施設、諸注意などを義務的に説明された。
「なあマスダ、あの人もAIだったりするのかな?」
それを聞いて、俺は口元を左手で覆い隠す。
タイナイがあまりにも真面目な顔で言うものだから、思わず表情筋が緩んでしまったんだ。
まあ、AI中心で働く会社なのだから、そういう邪推をしたくなるのも分からなくはないが。
「なんでそう言い切れるの?」
「例えば俺の母はサイボーグだが、AIにそれと全く同じボディを与えてみろ。ややこしいだろ」
そんな中、ヒトとAIの境界線を曖昧にしてしまうのはリスクが大きい。
それ位のことはラボハテなら分かっているはずで、支社の『AIムール』だって同じはずだ。
「そういえば、マスダの近所に住んでるムカイさんはロボットらしいけど、見た目も明らかに機械的だったね」
「細かいなあ……」
「うわっ、びっくりした!」
「俺は、お前の“びっくりした”って声でびっくりした」
「だ、だって、この人がいきなり近くに……」
実際は俺たちが近づいてきただけで、その人は最初からそこにいた。
タイナイは声をかけられるまで全く気づかなかったようだ。
「こ、声をかけるなら、僕らがもっと離れていた時にお願いできませんか」
「申し訳ございません。あなたのパーソナルスペースを把握していなかったので」
失礼な反応ではあるのだが、まあ無理もない。
その人は他のブースの担当者たちと比べて、覇気がまるで感じられなかったからだ。
「『AIムール』って、僕たちの学校近くに最近できた“アレ”ですよね?」
「その通りです」
俺はそのときになって初めて、あの建物が『AIムール』という会社名であることを知った。
タイナイは情報中毒(略して情中)だったため既に知っていたらしいが。
いや、この場合は俺が無関心すぎた、といった方が正確だろうか。
「パンフレットをどうぞ」
担当らしき人は淡々とした対応で、おもむろに小冊子を差し出してきた。
何だか変な感じだ。
他のブースでは皆すごい気概があったのに、ここの人は「別に誰もこなくていい」と言わんばかりに冷めている。
参加者は全然集まっていないようだったが、そのことに対する焦燥感はまるで感じられない。
受け取った小冊子は無線綴じになっているようで、背表紙にもタイトルが書かれている程に分厚い。
「まずは目を通していただければ」
しかし俺たちは担当の不気味さに気圧され、言われるままそれを読み込んだのだった。
そこに書かれていることによると、『AIムール』とは「AIが人間向けのサービスを如何に助けるか」という理念のもと設立された社会的企業らしい。
技術開発が進んだことで、今まで人間にしか出来なかった事業も請け負えるようになったんだとか。
「この『AIムール』って会社自体、AIやロボットが中心で働いているのか」
「へえー、随分と意欲的なんだね」
そしてパンフレットを読んでいて最も納得したのが、『AIムール』の“大本”だ。
そこなら俺も知っている。
様々な事業を実験的にやることでも有名で、この『AIムール』もその一環なのだろう。
AI中心で仕事をやる会社なんて、先進的すぎて勇み足だと思ったが、あそこが関わっているのなら理解できる。
だが、それによって新たな疑問も浮上した。
「あの、すいません。職場体験とはどういった内容になるんでしょうか」
俺も気になっていた。
AIが働く職場なのに、そこで俺たちが短期的に働いたところで何を体験できるというのか。
「主にやっていただくことは、AIとコミニケーションをとって、その内容を報告していただくことです。その記録を基にAIに不備がないかなどを調べることができます」
なるほど、ある意味で納得した。
要はモニターが欲しいってことだ。
担当者の淡白な対応も、元々は募る気がなかったのなら説明がつく。
『AIムール』は最近うちの学校で“大きな支援”をしたから、学校側が気を利かして枠を用意したのだろう。
しかし、ひょんなことから、俺はあの建物に関心を持つ必要に迫られる。
「パトカーに真っ当な理由で乗りたくないかい? 警察なら、本物の銃を間近で見れるぞ」
初日は体育館に様々な仕事の代表者が集まって、各ブースで魅力をアピールしてくれる。
その中から俺たちは好きなものを選び、後日そこでの仕事を体験するって具合だ。
「ネットで炎上して困ったことはないかい? 消防署で火の消し方を訓練しよう!」
「我が社のスポンサードリンク飲んでみない? 病み付きになるよ!」
特に大手は貪欲で、企業の非売品グッズで釣ろうとするところまである。
「毎度のことながらよくやるよ、あの人たち」
昨今、人手不足を嘆く声は、いつもどこかしら聞こえてくる。
そんな中、有能かつ長く働いてくれる人材を確保することは大きな課題だ。
この職場体験は俺たちにとっては勿論、企業側にとっても意義のあるものなんだろう。
未来の正社員候補を学生の段階で吟味できるし、あわよくば唾をつけておける。
つまり、この学校の生徒たちは潜在的な人材、或いは顧客なんだ。
授業の一環だとしか思っていない俺たちより前のめりなのは当然なのである。
「広告の広告を、広告してみる仕事に興味はないかい? “え、これも広告だったの?”みたいな発見もたくさんあるよ!」
「どうやってエンジンが作られるか興味ないかい? エンジニアは現代社会の象徴だよ!」
それにつけても、そんな紹介の仕方でいいのかと思うようなところもチラホラ見受けられる。
しかし教師たちは誰も止めようとしないあたり、あらかじめ“熱心な説得”でもしたのだろうか。
健気な話だが、そういう担当者たちの涙ぐましい努力とは裏腹に、俺たち生徒は残酷だ。
「やはり食品開発は人気があるなあ。その他の部署との格差がすごいことになってるぞ。一応、同じ会社なのに」
「関心のないものや、退屈なものは身になりにくい。あれも合理的な判断だろう」
意識が高めの学校だが、それでも生徒は所詮ティーンエイジャーだ。
普段では体験できない、面白そうなところを選びたがる人間が大半である。
「で、マスダはどれにするか決めた?」
「いいや。だがバイトでできそうな仕事は嫌だな。給料が出ないから損した気分になる」
「まあ、一通り見て回ってから考えよう」
そんな中、クラスメートのタイナイと俺は未だ決めかねている状態だった。
「ほらほら! お前たちも早めに決めた方がいいぞ。選り好みをして結局は何も選べない、ってのは優柔不断の極みだ。そんな人間のもとに仕事や金は振ってこない」
クラスメートのタイナイたちが決めかねていると、見かねた担任教師が囃し立ててきた。
この人は声量がでかいというか、体育会系のノリを若干引きずってるので苦手だ。
「自分たちの将来に関わるかもしれないんですから、もう少し悩ませてくださいよ」
「それは結構だが、お前たちの悩みを世の中は待ってくれない! あまり時間をかけすぎると、“余り”しかなくなるぞ」
確かにそれは困る。
希望者が多すぎると対応しきれないというのもあるが、何より不人気ブースに誰もいないという状況を避けるためでもある。
せっかく準備していたのに、それを活かせないのはコストの無駄だし、わざわざ学校に呼んでおいて希望者ゼロでは角が立つ。
「そのツケがこっちに回ってくるんだから、ホントいい迷惑だよ」
「でも先生の言うことも一理ある。前回みたいな石ころ売りは御免だ」
どちらかの足は常に地面に設置している、いわゆる競歩スタイルだ。
「ん? なんだこれ……エーアイムール?」
「いや、“アイムール”って読むっぽい」
そうして目に留まったのが『AIムール』……“あの建物”に関するブースだった。
現代人の車離れが語られて久しいけれど、未だ俺はそれを首肯できるだけの機会に恵まれていない。
個人的な実感と現実の間に、大した距離があるようには思えなかったからだ。
ちょっと目を放した隙に、近所のスーパーマーケットはパーキングエリアになった。
小さいころに遊んでいた空き地は、いつの間にか車を停めていいことになっている。
子供たちの溜まり場がなくなったと同時に、猫の安息の地もなくなった。
猫からすれば、金属の塊が突如として喚き散らし、日陰は不規則に動きだすのだから戦々恐々だろう。
運転手や駐車場の管理人にとって子供や猫は邪魔な存在だろうが、こっちから言わせれば彼らこそ侵略者だ。
町中でPの文字を見ない日はなく、むしろその数は増えているようにすら見えた。
土地の隙間には駐車場ができて、そこには数台いつも構えている。
車離れなど気のせいだと言わんばかりだ。
まあ、それでも気のせいじゃないのだろう。
俺が知らないだけで、車離れの弊害も大局的にはあって、そのことを多分どこかの誰かは嘆いているに違いない。
世の中は流動的で、それは日々感じる表面的な変化とは別なんだと思う。
そして、俺の通う学校の周りでも、その“変化”は緩やかに起きようとしていた。
クラスでは最近、教室の窓から見える工事現場を眺め、それについて他愛のない会話をするのが日常になっていた。
「外から見る限り、完成間近ってところか」
「ふむ、今年中には完成らしい」
最初はまた駐車場でも作るのかと思ったが、実際はかなり大掛かりな様子だった。
教室から微かに聞こえた都会の喧騒は、ここ数ヶ月は工事の音ばかりだ。
「我も気になって職員に確認してみたが、どうやら既に話をつけているようだ」
クラスメートのウサクが言うには、最近うちの学校で“大きな支援”があったらしい。
目的や出所は判明していないが、十中八九あの建物に関することだろうと。
「なるほどな、教材や備品が妙にグレードアップしたとは思ったが、そういうことだったか」
そういえば食堂のメニューも、現代的というか健康志向のものが増えてたな。
「随分と手回しがいいというか、景気がいいというか。そこまでして建てて、いったい何をしたいんだろうな」
「それも調べてみたんだが……」
そう言ってウサクの言葉を遮るも、実際は調べる気は全くなかった。
近くでやってるから無視できないってだけで、個人的にはあまり興味がない出来事だ。
自分たちの身近に、またどうでもいいものが出来たって程度の認識であり、その変化に強い肯定も否定もない。
俺はそれを漠然と視界に入れるだけだ。
「スポーツセンターも見えなくなったなあ……」
「美術で風景画の授業がきたら、楽できなくなるなーって。描きやすそうだったろ、あのスポーツセンター」
「……といった感じで弟の奴、これくらいの大きさの本を1000円で買わされてやんの。返品しようと次のセミナーに出向いたら、言い包められる始末」
それを提起したことについて、俺の価値判断が含まれているのは否定しないが。
「なんだと! そんな自由気ままに生きたがる人間ばかりになったら、この社会は崩壊するぞ!」
「えー、確かに上等じゃないかもだけど、そこまで目くじら立てることっすか?」
「へえ、子供にそんな本を買わせるのか。ブログのネタに使わせてもらおうっと」
だが、俺がどう考えているかなんて、この際どうでもいい。
問題にならないことを問題にして、それを解答して喜ぶのは出題者だけだろう。
だが出題さえしておけば、後は各々で勝手に悩んで勝手に答えてくれる。
そうなった時点でしめたものだ。
そんな具合に、俺は周りの知り合いに話していった。
「言ってることは、とにかく“自分の好きなように、楽に生きよう”って感じでさ。しがらみとかガン無視だよ」
それを聞いた人は、また別の人に話すという連鎖が発生し、見知らぬ人たちにも伝播していく。
こうなったら、たちまち波紋は広がり、それが収まらない環境ができあがる。
数日後には、町中で毎日、どこかの誰かが某セミナーの是非について語っている状態になった。
「んー、そういうのに子供まで巻き込むのはどうなんでしょうね」
「だが成人してたらOKかっつうと、それはそれでどうかと思うぞ」
これが俺の狙いだった。
その流れまでコントロールすることはできないが、それは正直どちらでもいい。
「最近、あの自己改革セミナーやってるとこ見ないね。受講者も見かけなくなったし」
「そりゃあ、最近“あんな調子”だったからな。この状況でやり続けるのはツラいだろう」
物議を醸したことで、あのセミナーをやっていた男や、その受講者の肩身は狭くなっていった。
実際の是非はともかく、その窮屈さに耐えられなくなれば萎縮していく。
風の便りで、あのセミナーは主戦場を変えて色々やっているらしいが、この町に来ることは二度とないだろうな。
「なんか追いやられたみたいで可哀想だな。別に悪いことしているわけでもないのに」
「じゃあ、誰が決めるんだよ」
「そんなの俺の方が知りたい」
もし知っていれば、こんな謀略に頼らなくて済んだ。
というより、身内が巻き込まれてなければ今回の件は無視していたに違いない。
あれの何がダメだったかなんて、俺だって本当のところは良く分かってないんだから。
「そういえば弟よ、あの本はどうするんだ? 返品は難しそうだが、持っておくのか? 捨てるのか?」
「捨てちゃダメだよ。中古ショップで売らなきゃ。100円もしないと思うけど、ハムカツの足しにはなる」
この頃には、弟の言動もすっかり元通りになっていた。
有り体に言えば「飽きた」ってことさ。
いずれこうなるんだったら、かかずらう必要はなかったかもしれない。
結果として、俺も「考えすぎていた」ってことなんだろう。
「じゃあ、その本を売った帰りに、あそこのハムカツを食うか」
「え、奢ってくれるの?」
「なんでだよ」
これが、この話の顛末だ。
だが、もし変わるのが簡単だったのなら、それは元に戻るのも簡単だってことだ。
「ひとまず見守ればよろしいのでは」
「自分の身内が良く分からないものに入れ込んでいて、何も言わないってわけにもいかないだろ」
「信仰心がなくとも、相容れずとも、敬虔であることは矛盾しません」
「弟はそういうレベルで放っておけないんだよ」
別に“ああいう”のが悪いとまでは言わないが、それの良い面だけ無闇に信じているのがマズいんだ。
サンタは良い子と悪い子を区別してプレゼントを配ったりはしないし、俺たちはプレゼントの中身を選択できない。
ああいう自己啓発に容易く食いついてしまっている弟が、そのギャップに耐えられるとは思えなかった。
あそこで語られたハウツーの効果が、実際どれほど効いているかなんて分からない。
多少は関係あるかもしれないが、他の様々な要因が絡み合って、たまたま運が良かっただけってこともあるだろう。
大した根拠もなく「こうすればいい」だとか「これのおかげだ」と吹聴し、他の人にも伝染させるのは危険だ。
「まともな六面サイコロは、三面を見ただけで全ての数字が分かる。だが、それが本当にちゃんとしたサイコロかを確認するには、結局は転がして見なきゃあ分からないんだ」
「えっと、ごめんなさい。その例えはよく分かりません」
「……つまり弟には、もう少し冷静になってほしいってことだよ」
弟は、あの自己啓発をどんどん吸収していっている。
「仮に弟くんがそれを信仰しているとして、直ちに問題というわけでもないでしょう」
絶対的な根拠があるわけじゃないが、あいつはどこかで躓くという予感があった。
今のままじゃあ、いずれ盛大な転び方をするだろう。
まだまだガキの弟が、周りをちゃんと見ないで走れば大抵そうなる。
弟にその危機感と、転んだときに耐えられるだけの柔軟さがあるかというと疑問だった。
「そうですねえ……対策をしたいとお考えなら、やれることはあるでしょうね」
「何か方法があるのか?」
俺の意志が伝わったのか、ここに来て教祖は“とある案”を匂わせた。
しかし匂わせておきながら、随分と歯切れが悪い。
「いや、そこまでではないんですが……私の立場で、こういうことを口添えしていいものか。明日は我が身かもしれませんし……」
強制的ではないが、あまり“良いやり方でもない”ってことなんだろう。
「とりあえず言えよ。それを実行するかは別の話なんだし」
「うーん、では言いますが、やるというのなら私の顔は思い出さないでくださいね」
そう断りを入れてきたが、教祖は語りだす。
「新興宗教の多くは最初の数年で躓きます。自己啓発が信仰体系の一種だとするならば、それらの過去を顧みて応用が可能でしょう」
だが、そのままズバリ答えを言ったりはせず、迂遠な言い回しでヒントを出した。
「つまり、どうすればいいんだ」
「『生活教』をやっている身として、これ以上は踏み込んで言えません」
あくまで俺自身が考えて、行動するかどうかを決めろってことらしい。
責任がとれないし、とりたくもないので、そういう体裁が欲しいのだろう。
更に、その中から俺が出来ることで限定するならば、必然的に答えも導き出される。
そして、それは予想外に単純なものであり、予想通り良いやり方でもなかった。
「はあ……」
両親がこの問題に口を挟みたがらないのも分かる。
つまり、問題だと思っている側と、思っていない側の溝が埋められないんだ。
そして残念ながら、俺も「実際のところ何が問題なのか」を客観的に説明できない。
こじつけることは可能だろうが、そんなやり方で弟を納得させるのは難しいだろう。
問題にならないことを無理やり問題にして、それを解答して喜ぶのは出題者だけだ。
あのセミナーや本で語られていることは大したものじゃないが、咎めるほどの“確かなもの”が俺にあるかは甚だ疑問だった。
結局、放っておくしかないのか。
「はあ……」
俺が何度目かの溜め息を吐いた時、近くでコロッケを食べていた男性が声をかけてきた。
「えっ」
「ちょっと気になりまして。私が知る限り、この肉屋にはいつも弟くんと来ていたでしょう、あなた」
俺は少し身構える。
こちらを知っているようだが、俺はその男性が誰か気づかなかったからだ。
「……ああ、失礼。いつもと違う格好なので分かりませんでしたか」
男性はコロッケを口で挟むと、携えていた鞄から白い羽織を取り出した。
「んん?……あっ!」
思い出す素振りを見せると男性は白い羽織を元に戻して、再びコロッケを食べ始める。
そいつは『生活教』とかいうのを掲げ、このあたりを中心に活動している新興宗教家だった。
信者の数は今や1000にも届く勢いらしいが、実際はそのほとんどが面白半分の輩で構成されている。
「普段は、そんな地味な格好をしてるのかよ」
「布教活動のときは目立つ必要があるから着ているだけですよ。それで……弟くんのことですが、今回いないのは偶然ですか?」
弟は野次馬根性で色々なことに首を突っ込むから、教祖にも顔をよく覚えられている。
そして今、兄の俺が一人で息を漏らしているから気がかりだったのだろう。
「仮に何かあったとして、あんたに言う筋合いはねえよ」
この教祖を面白半分に見ている奴もいるが、俺はその“半分”すらなかったからだ。
「まあ、プライバシーに関わることなら仕方ありませんが。そうでなければ、言うだけ言ってみても損はしませんよ」
「そこまでは分かりませんが、別の視点から物事を見ることで、意外な糸口が露わになるかもしれませんよ」
そう一笑に付そうとした時、俺はふと“引っかかり”を覚えた。
「いや……むしろ」
よくよく考えてみれば、あのセミナーは、この教祖がやっている布教活動と似ている。
ほぼ“信仰”なんだ、あれは。
明らかな違いは、ガワが宗教かどうかくらい。
「はあ……どうしても話したくないってわけでもないしな」
俺は一連の出来事を話した。
変なことを言ってきたら話を即中断できるよう、常に教祖の反応を窺いながら。
「ふーむ、確かに。一つの体系に基づいて教えるという点では、我が『生活教』とその自己啓発は本質的に近いかもしれません」
俺の指摘に不服だろうと思ったが、意外にもすんなり同意してきた。
「俺が言うのもなんだが、そこらへんの自己啓発と同じ扱いとか、お前はそれでいいのか?」
「生活教は他の教えをダメとは言いません。それが誰かにとって、より良い生活になるのなら」
そう教祖は語るが、とどのつまり俺のスタンスと大して変わらない。
他人が良いと思っているのなら、必要以上に意見できないってことだ。
「結局そんな穏当なことしか言えないのか」
「どの体系を支持するか、それ自体に善し悪しはありませんから。私が宗教から生活をアプローチしようとするのも、そういう理念があってのことです」
「理念だけは立派だがなあ……」
「まあ、心配になる気持ちは分かりますよ。体系が人を不幸にする側面も確かにありますから」
「別に、お前に分かって欲しくて話したわけじゃない」
これでは話し損だ。
あの男は頭の天辺から足の爪先まで、自己中心的な話しかしていないんだ。
そりゃあ、「自分を変える」ハウツーなのだから筋は通っている。
俺だって自分の都合を優先させることはあるから全否定はできない。
だが現実問題、その他の諸々を甘く見積もったり、そもそも無視しようってのはキツくないか。
自分次第でどうにかなることなんて、多いようで少ないんだから。
それが多いと思っているならば、ほぼ「好きに、楽に生きよう」と言っているのと同じだぞ。
そんなことを肯定的な表現で、色とりどりに飾り付けるのは欺瞞な気がする。
「自信を持つのです。あなたたちの成功も失敗も、全てはあなたたちのものなのですから」
これも良いセリフのように感じるが、言い換えれば「お前らが成功しようが失敗しようが、こっちは知ったこっちゃない」ってことだ。
「『よく学び、よく遊べ』…… いいですか、『よく学び、よく遊べ』です。 声に出すことでより効果があります。『よく学び、よく遊べ』!」
同じことを三回続けて言いやがった。
こうしてセミナーは小一時間ほどで終了したが、実際はそれよりも長かった気がする。
セミナー終了後、会場に陳列された関連書籍やグッズの前に受講者がゾロゾロ集まっていた。
金欠の弟はそこに並びはしなかったものの、以前に買わされた本を返す気は完全になくなっているようだ。
「『よく学び、よく遊べ』!」
「どうだった、兄貴。意外と悪くなかったでしょ?」
「んー、俺にはあまりピンとこないなあ……」
良くなさそうなものもポジティブに捉え、些細なことは気にするなとエネルギッシュに語る。
「俺、将来は“ああいう感じ”になれたらいいなあ」
とうとう、こんなことまで言い出した。
我が弟ながらチョロすぎだろ。
「1冊の本と、1時間のセミナーだけで、そこまで決めてしまっていいのか?」
その時になって、俺はようやく弟に直接的な忠告をした。
上手く言えないが、強い危機感を覚えたんだ。
「“ああいう感じ”になりたいというが、あれは人格を無責任に矯正して、体よくモノを売りつけているだけだぞ。誇れるような仕事じゃあない」
だが漠然とした危機感のまま意見したところで、それはイチャモンにしかならない。
弟の自我にまで踏み込めない以上、瑣末なことを指摘して屁理屈を捏ねても納得するわけがなかった。
「兄貴の考える“誇れるような仕事”が何なのかは知らないけどさ、犯罪でもないのに他人の仕事をなじるのはどうかと思うよ。自分が理解出来ないもの、気に入らないからものを否定するのは“誇れる事”じゃあないだろ」
そうして数日後、セミナーがまた開かれる時がきた。
「前は話をマトモに聞いていなかったから、今日はちゃんと聞いてみようと思う」
もはや弟は本を返品するかどうかという段階ではなく、なんならサインでも書いてもらおうって勢いだ。
「それにしても、兄貴までセミナーに来るとは思わなかったよ。あんまり良く思ってなかったのに」
「まあ、目につく部分だけで決め打ちするのもどうかと思ってな。実際にちゃんと咀嚼してから批判することにした」
「批判前提かよ」
そうは言ってみたものの、自分がどう立ち回るかは決めかねたままだった。
弟が何を拠り所にして物事を考え、生きていけばいいのかなんて俺が決められることじゃない。
そう頭では理解しつつも、今の弟に対する不安感は漠然と胸に残り続けていた。
しかし、この感覚を公正に言語化できない内は、俺が弟に忠告できることはないに等しい。
この場に来ていない両親も口には出さないが、たぶん似た感じだろう。
弟に何かを言おうとして、結局は何も言わないという仕草を数回ほど見たことがある。
自分の子供が、たまたま遭遇した自己啓発にのめり込んでいるんだ。
それでも理性と親心の狭間で揺れ動き、自分の子供に下手な忠告が言えない、といったところか。
セミナーを確認しに来なかったのも、場合によっては耐えられる自信がなかったからかもしれない。
会場に来てから10分ほど経ったとき、壇上に一人の男が現れた。
「みなさん、こんにちは。はじめましての方は、はじめまして。セイコウです」
あれがあの本の筆者か。
俺のクラスメートにはタイナイっていう意識の高い奴がいるが、それの進化系みたいな物腰だ。
格好は無地の服を着ているだけでシンプルだが、色合いが強くて、しかも上下を揃えているから逆に目立つ。
「今回も様々な話をしていきたいと思いますが、その前にまず思考をクリアにするため、みんなで頭の体操をしましょう」
書いている奴が同じだから当たり前だろうに、なぜか弟はそのことが嬉しそうだ。
「目を瞑って、呼吸を整えましょう。リラックスして、精神統一」
弟含め、会場にいる人間たちは言われたとおりに実行した。
俺は気乗りしなかったが、一人だけ目を開けたままじゃ目立ってしまう。
仕方なく細目にして、こっそり周りを観察することにした。
「さあ、自分自身をイメージして、喋らせてみましょう。そして耳を傾けて」
男の言ってることは、意味が分かるようで、イマイチ分からない。
だが周りの反応を見る限り、そう思っているのは俺だけらしい。
「自分を変えるために必要なのは、まず今の自分を知ることです。そして今の自分が何を求め、何が不満なのか洗い出していきましょう」
自問自答しろって言いたいのだろうか。
「それが自分にとってどれほど負担であるかを、ひとつひとつ数値化してみましょう。それで高いと思ったのならば、それはあなた方にとって必要のないものです」
そんな調子で、男はゆったりとした口調で色々と語っていく。
「お腹が空けば食べ物が必要ですよね。その食べ物は、できれば美味しいもののほうがいいでしょう? そして美味しいものとは、あなたにとって好物でもあるはず」
だが、その内実はシンプルだ。
弟は丈夫なスポンジのようなもので、硬くてヘタれにくいが吸水性も抜群だった。
あっという間に弟は変わってしまい、俺はどう対応すればいいか分からなかった。
それは両親も同じだった。
「こら、服を裏返してカゴに入れないでって、いつも言ってるでしょ」
「ごめんなさい。俺は今とても自分を恥ずかしいと感じて、反省している。そして現在、母さんが怒っていることを理解する」
「……うぅん?」
「同じ失敗をせず、そのことを忘れないように、服を裏返してカゴに入れないことを書いた張り紙を、カゴの近くに貼ることで改善を図る」
「その喋り方は何……まさか、あなたも脳内にチップを埋め込んだの!? しかも粗悪なのを!」
「お前、何やってんだ。母さんの思考回路がショート寸前じゃないか」
弟は本に書かれていた「感情の分析と言語化」、「相手への共感」、「問題解決の提案」というハウツーを馬鹿真面目に再現していた。
「父さん、そのサイダー俺の……」
「父さんが謝っていることが分かった。俺は少しの怒りを感じつつも、それを気にしていない気持ちの方が強く、許すことを言葉にする」
「え……どういうことだ? つまり怒っているのか、怒っていないのか?」
それは両親だけではなく、飼っている猫に対しても変わらなかった。
「ほーら、キトゥンおいでー。俺はこの家の住人で、家主の次男。飼い主の弟でもある。君に敵意のない存在だよ~」
キトゥンが弟の言葉をどれだけ理解しているのかは分からないが、何かを察知しているようで尻尾が膨らんでいた。
唐突気味に、掻い摘んで語るだけなので、当然みんなは理解できない。
「分かるか、タオナケ。俺たちは『同じ人間であり、別の生き物』なんだ」
「私、よく分からないんだけど、それどういう意図で言ってるの?」
「それを説明しすぎると、タオナケの自我に踏み込みすぎる可能性がある」
「はー?」
「それでも言える事があるならば、世界に一つだけの花なんだよ。ナンバーワンとオンリーワンは表裏一体なのさ」
「マスダの例え話はいつも分かりにくいんだけど、いよいよ分からなくなってきたわ」
弟自身、あまり意味が分かっていなかったのだが、喋るとなぜか気分が高揚したため憚らなかった。
『誰でも出来る自己改革』を返品するため、弟は次のセミナーが開かれるのを待つことにした。
俺は未だ気づいていなかったが、その期間から異変は起きていたんだ。
「……どうせ返すんだし、せっかくだから読んでみるか」
「ふーん……」
弟は活字嫌いだったが、まるで絵本を読むような勢いでページを進めた。
「……へえ……ほーん……こーん」
資料を纏めている俺の近くで、弟は数秒ごとに感嘆の声を漏らす。
鬱陶しくて仕方がなかった。
この時点で、既にハマってしまったらしい。
とうとう、俺にまで本をススメてくる有様だった。
気乗りはしなかったが、ここで断ると更に鬱陶しくなる予感がする。
部屋で静かにすることを約束させ、俺は渋々読んでやることにした。
「……なんか、予想以上に“軽い”な」
その本は文体が明朗快活で、難しい単語や迂遠な言い回しがほとんどない。
まあ読みやすくはあるんだが、自己改革を謳う本にしては随分とユルいように思えた。
俺の借りてきた社会科学本が難解だったせいで、余計にそう感じたのだろうか。
「……はーん、“如何にも”って感じだ」
内容は、筆者独自のライフハックと、それに伴う持論を解説していくというもの。
それを終始、前向きな言葉を添えながら羅列していき、読者に語りかけるように書かれている。
「『テレビの音量とチャンネルを同じ数字に、マンション住まいなら階層も合わせる。一日に同じ数値を見続けることを意識し、心の安定化を図るのだ』……ははっ、意味が分からん」
しかし、書かれていることは全体的に安っぽい。
心理面のノウハウは迷信めいたものが多く、方法論は漠然としている。
尤もらしいことも散りばめているが、いずれも既に使い古された概念や、多少の知見があれば自ずと分かるようなことばかり。
わざわざ言語化するほどでもないのに、それを大袈裟な表現で覆い隠して、何か画期的な考えのように語って見せている。
「兄貴、このページの『よく学び、よく遊べ!』って良い言葉じゃない?」
「ああ、そうだな。良い言葉過ぎて、既にどこかで聞いた気がする」
何か良さげなことを書いてあるようで、その実は何も書いていない。
そんな感じの本だ。
まあ、弟みたいな奴がマトモに受け止めてしまう構成なのは理解できる。
「これで1000円ってのは、書いた奴はかなりの自信家だな。むしろ読む側が1000円を貰うべきなんじゃないか?」
これがマズかった。
「その言い方はないだろ。価値あるものを、価値があると思う人間が買う。健全な商売のあり方じゃないか」
それで余計に意固地になったのだろう。
少し前まで「紙くずを買わされた」って顔をしてたのに、この短期間で弟は完全に“出来上がって”しまったようだ。
「……まあ、買ったお前がそれでいいのなら、俺から言えることはこれ以上ないな」
この時、俺は「面倒くさい」と感じて、適当なことを言って話を切り上げた。
いま思えば、それもマズかった。
人はそう簡単に変われないとはいうけれど、弟から言わせれば楽勝らしい。
事の発端は数週間前、俺たち兄弟は課題のために最寄の図書館へ行ったんだ。
今日び資料集めをそこだけで済ませるってのもどうかと思うが、あながちバカにできるものでもない。
偏狭な馬面教師を満足させるのに、こういう場所にある本は都合が良いのさ。
「『社会科学における価値判断と、その真理妥当性』だ。著者は忘れたが、そんなことを言及している本があったはず」
「うげえ、テーマを聞いただけで吐きそう」
「慣れれば吐かないさ。或いは吐くこと自体に慣れる。船酔いと一緒でな」
「そこまでして乗りかかった船にいたくねーよ」
だが、そこで降りてしまえば、後で確実にコウカイするだろう。
少なくとも壊血病は避けられない。
「ところで、お前の船はどうなんだ。まさかテーマすら決めてないのか?」
「見くびるなよ。テーマは『この国が抱える借金を誰が払うべきか?』だ」
「ほう、如何にも大人が喜びそうなテーマだな。だが、お前的には“吐きそうな話”じゃないのか、それ」
しかし弟は学校も学年も違うので、教師は偏狭でもないし馬面でもない。
「弟よ、お前さっきから“ま”の段落ばかり探しているが、パソコンで調べたりしないのか?」
「必要ないよ。こういう本は『マンガで分かる~』で統一されてるんだから」
「……まあ、お前の課題だ。好きにするがいいさ」
弟は結局、目ぼしい本がなかったようだ。
或いは見つけたものの読む気力が失せたのか。
「トイレに行く」と図書室を出て行き、しばらく戻ってこなかった。
「本、借りたんだ」
「外国の本だから読み解くのに時間がかかりそうでな。翻訳の問題なのか、随分とクドい書き方をしてあるんだ」
「なんでもいいから、用が済んだなら早く帰ろうよ。あそこの肉屋でハムカツ食ってからね」
「お前の小遣い事情なんざ知らん」
急かす弟に促され、俺はゆるりと帰り支度をはじめる。
「バイトしてるんだしさ、ハムカツ位おごってくれてもいいじゃんか」
「お前にハムカツをおごるためにバイトしてるわけじゃ……ん?」
ふと弟の手元にある小さな本が目に留まった。
いつの間に借りたんだろうか。
「お前は、その本を借りるのか?」
「えーと……これは買ったんだ」
「なんだそりゃ」
俺たちが利用した図書館はビルに備え付けられた一角であり、他にも様々な施設が存在した。
間借りできる部屋もいくつかあり、そこで何らかのカルチャースクールだとかセミナーがよく開かれている。
つまり弟は本探しに飽きて、トイレに行くと言いながら辺りを散策していたんだ。
で、やっていたセミナーに体よく引き込まれ、挙句に講師の自著まで買わされた、と。
「いくらしたんだ、それ」
「……1000円」
「ハムカツを腹いっぱい、レモンソーダと一緒に味わえただろうな」
本のカバーは無地で飾りっ気がなく、淡白なフォントで『誰でも出来る自己改革』と書かれていた。
紙質は粗悪ではないようだが、安価なメモ帳よりはマシってレベルである。
こんなもの買わされる弟も情けないが、ガキ相手に売りつける方も大概だ。
「あ、でも近いうちにまたセミナーやるらしくて。その時に返してくれるらしいんだ」
「ふーん……ん?」
弟がそう言った時、俺はそのセミナーの言い知れない違和感を覚えた。
だが俺は自分の課題で手一杯だったのもあり、そのことを深く考えなかったんだ。
あの状況で、弟におごるのが癪だったってのも勿論ある。
「えー!?」
いま思えば、ハムカツ代を半分くらい出してやるべきだった。
それから連絡を取り続けて数週間が経った、ある日。
結婚相談所に近況報告をしにきていた。
「昨日、二人でデートみたいなことをしたんですよ」
デートの三日ほど前、そのことを相談してノウハウを授かっていた。
そして入念な下準備の甲斐もあって反応は上々、かなりの手ごたえを感じたという。
「ほう、やったじゃないですか!」
コンサルタントが喜んだのも束の間、タケモトさんが表情を曇らせて「ですが」と言葉を続ける。
「……きっぱりフラれました」
「いや、そこまでせっかちじゃないですって」
「では、どうして?」
タケモトさんは「そんなことこっちが知りたい」という顔をしながら、その時の状況を語りだした。
デートが終わりに近づいたとき、彼女が唐突に言ってきたらしい。
「……やっぱりダメ」
「え?」
「とき……なに?」
言っている意味が分からなかったが、自分は今フラれているということだけは確かだった。
デートでヘマはしていないはずだ。
「何がダメなんです? 言ってくれればオレも改善しますよ。どうかチャンスをください」
捉えどころのない答えではあったが、つまり何らかのハードルを跳び越えられなかったのだろう。
そうタケモトさんは思った。
思いつく限りの要素を羅列していくが、その度に彼女は首を振っていく。
「違います、私はそんなことにこだわりません」
「じゃあ、何なんです!?」
彼女が告げたのは、タケモトさんにとって最も理不尽なハードルだった。
学歴なら勉強すればいいし、収入なら貪欲に金を稼げばいいし、見た目なら美容整形に行けばいい。
しかし“ときめき”なんていう漠然とした要求は応えようがなかった。
「良い大学に行ってなくても、収入が心もとなくても、容姿が悪くても、それが気にならないほど好きになれる。多少の不安要素があっても、それでも一緒にいたい。そう思える相手がいいのです」
「いや、だから、それはどういう人間なんだよ」と思ったが、タケモトさんは声に出さなかった。
「それは……お気の毒に」
「『多少の不安要素はあれど、それでも一緒にいたいと思えるほど好きな相手』って何ですか。ある意味で史上最大の高望みですよ」
以前、コンサルタントは高望みの定義を「ハードルの“高さ”ではなく“数”」だと言っていた。
しかし今回は逆で、一つのハードルがあまりにも高く、形も歪だったせいで跳べないパターンだったようだ。
「自由恋愛時代の反動なのかもしれません。婚活の場においても強い恋慕やロマンスを求める人は一定数いるんですよ」
完走者の美談が跋扈し、人間の多様な要素に不毛な優先順位がつけられる。
「“結婚”という社会的なシステムで、そういう部分を何よりも追い求めるのって、矛盾していると思うのはオレだけですか?」
「ここで働いている身からすれば、矛盾していない人のほうが珍しいですからね……」
「今回は残念でしたね。運が悪かった……くらいの気持ちでいいと思いますよ」
「はあ……オレも選ぶ側の意識が芽生えてきましたよ」
「それは何より。で、相手に求める条件は?」
「条件を求めてこない人」
「それは……中々の高望みですね」
今でもタケモトさんが婚活をしているのかは知らない。
もちろん、個人の心構えが変わったところで物事はそう簡単に好転したりはしない。
亀が死ぬ気でやってもハードルは跳び越えられないし、居眠りしない兎に勝つなんて無理だ。
そのことが分からないタケモトさんではない。
だが案内してくれたコンサルタントの義理立てとして、とにかくパーティをつつがなく終了させようと思い直す。
そのためにやったのは、仕事で培ってきた対人スキルを応用することだった。
そつがない、つまらない接し方だ。
相手に好印象を与えることは難しいが、少なくとも自分の精神的負担は抑えられる。
期せずして、それはコンサルタントが最初に言っていた「気を張り過ぎない、見栄を張り過ぎない」状態に近かった。
チャンスをチャンスだと認識でき、それが手元にきても力みすぎない丁度いいコンディションである。
そしてチャンスは意外にも早く、そのお見合いパーティの終盤に訪れた。
対面した相手は、あまり着飾らないショートヘアーの女性だった。
学園でいうなら、クラスに密かなファンの多い地味っ子ってタイプらしい。
タケモトさんの喩え方はイマイチ分からなかったが、たぶん誉めているのだと思う。
とはいえ、最初の内は他の人と同様に接するつもりだったらしい。
コンサルタントに即席の消臭法を教えてもらっていたが、わずかに匂いが残っていたようだ。
「お、分かりますか?」
「ええ、私も同じものを吸っているので。紙タバコにありがちな匂いが少なくて、そこまで重たくないから吸いやすいんですよね」
「そうです、そうです。水タバコみたいなまろやかさがあるんですよ」
会話を続けていくと、タバコの銘柄以外の趣味嗜好も近いことが分かった。
ここに来て初めて、タケモトさんは心地よさを覚えた。
それら全てにストレスを感じないどころか、むしろ消えていくのを実感したという。
短絡的だが、運命の相手ってのはこんな感じなのかと思ったらしい。
「へー、割と近所じゃないですか。今まで出会ってなかったのが不思議ですね」
「いやあ、まったく本当ですよ」
「お時間となりました。みなさん席を離れてください」
なんとも時間が短く感じられた。