2019-11-10

[] #80-4「人は簡単に変われる」

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そうして数日後、セミナーがまた開かれる時がきた。

「前は話をマトモに聞いていなかったから、今日ちゃんと聞いてみようと思う」

もはや弟は本を返品するかどうかという段階ではなく、なんならサインでも書いてもらおうって勢いだ。

「それにしても、兄貴までセミナーに来るとは思わなかったよ。あんまり良く思ってなかったのに」

「まあ、目につく部分だけで決め打ちするのもどうかと思ってな。実際にちゃん咀嚼してから批判することにした」

批判前提かよ」

そうは言ってみたものの、自分がどう立ち回るかは決めかねたままだった。

弟が何を拠り所にして物事を考え、生きていけばいいのかなんて俺が決められることじゃない。

そう頭では理解しつつも、今の弟に対する不安感は漠然と胸に残り続けていた。

しかし、この感覚を公正に言語化できない内は、俺が弟に忠告できることはないに等しい。

この場に来ていない両親も口には出さないが、たぶん似た感じだろう。

弟に何かを言おうとして、結局は何も言わないという仕草を数回ほど見たことがある。

自分の子供が、たまたま遭遇した自己啓発にのめり込んでいるんだ。

心配なのは当然だ。

それでも理性と親心狭間で揺れ動き、自分の子供に下手な忠告が言えない、といったところか。

セミナー確認しに来なかったのも、場合によっては耐えられる自信がなかったからかもしれない。


会場に来てから10分ほど経ったとき、壇上に一人の男が現れた。

「みなさん、こんにちははじめましての方は、はじめまして。セイコウです」

あれがあの本の筆者か。

俺のクラスメートにはタイナイっていう意識の高い奴がいるが、それの進化系みたいな物腰だ。

格好は無地の服を着ているだけでシンプルだが、色合いが強くて、しか上下を揃えているから逆に目立つ。

「今回も様々な話をしていきたいと思いますが、その前にまず思考クリアにするため、みんなで頭の体操しましょう」

「あ、『誰でも出来る自己改革』に書いてあるやつだ!」

書いている奴が同じだから当たり前だろうに、なぜか弟はそのことが嬉しそうだ。

「目を瞑って、呼吸を整えましょう。リラックスして、精神統一

弟含め、会場にいる人間たちは言われたとおりに実行した。

俺は気乗りしなかったが、一人だけ目を開けたままじゃ目立ってしまう。

仕方なく細目にして、こっそり周りを観察することにした。

「さあ、自分自身をイメージして、喋らせてみましょう。そして耳を傾けて」

男の言ってることは、意味が分かるようで、イマイチからない。

だが周りの反応を見る限り、そう思っているのは俺だけらしい。

自分を変えるために必要なのは、まず今の自分を知ることです。そして今の自分が何を求め、何が不満なのか洗い出していきましょう」

自問自答しろって言いたいのだろうか。

理屈は分からなくもないが、何だか変な感じだ。

「それが自分にとってどれほど負担であるかを、ひとつひとつ数値化してみましょう。それで高いと思ったのならば、それはあなた方にとって必要のないものです」

そんな調子で、男はゆったりとした口調で色々と語っていく。

お腹が空けば食べ物必要ですよね。その食べ物は、できれば美味しいもののほうがいいでしょう? そして美味しいものとは、あなたにとって好物でもあるはず」

だが、その内実はシンプルだ。

この男は、とどのつまり自分」としか言っていないのである

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