あの男は頭の天辺から足の爪先まで、自己中心的な話しかしていないんだ。
そりゃあ、「自分を変える」ハウツーなのだから筋は通っている。
俺だって自分の都合を優先させることはあるから全否定はできない。
だが現実問題、その他の諸々を甘く見積もったり、そもそも無視しようってのはキツくないか。
自分次第でどうにかなることなんて、多いようで少ないんだから。
それが多いと思っているならば、ほぼ「好きに、楽に生きよう」と言っているのと同じだぞ。
そんなことを肯定的な表現で、色とりどりに飾り付けるのは欺瞞な気がする。
「自信を持つのです。あなたたちの成功も失敗も、全てはあなたたちのものなのですから」
これも良いセリフのように感じるが、言い換えれば「お前らが成功しようが失敗しようが、こっちは知ったこっちゃない」ってことだ。
「『よく学び、よく遊べ』…… いいですか、『よく学び、よく遊べ』です。 声に出すことでより効果があります。『よく学び、よく遊べ』!」
同じことを三回続けて言いやがった。
こうしてセミナーは小一時間ほどで終了したが、実際はそれよりも長かった気がする。
セミナー終了後、会場に陳列された関連書籍やグッズの前に受講者がゾロゾロ集まっていた。
金欠の弟はそこに並びはしなかったものの、以前に買わされた本を返す気は完全になくなっているようだ。
「『よく学び、よく遊べ』!」
「どうだった、兄貴。意外と悪くなかったでしょ?」
「んー、俺にはあまりピンとこないなあ……」
良くなさそうなものもポジティブに捉え、些細なことは気にするなとエネルギッシュに語る。
「俺、将来は“ああいう感じ”になれたらいいなあ」
とうとう、こんなことまで言い出した。
我が弟ながらチョロすぎだろ。
「1冊の本と、1時間のセミナーだけで、そこまで決めてしまっていいのか?」
その時になって、俺はようやく弟に直接的な忠告をした。
上手く言えないが、強い危機感を覚えたんだ。
「“ああいう感じ”になりたいというが、あれは人格を無責任に矯正して、体よくモノを売りつけているだけだぞ。誇れるような仕事じゃあない」
だが漠然とした危機感のまま意見したところで、それはイチャモンにしかならない。
弟の自我にまで踏み込めない以上、瑣末なことを指摘して屁理屈を捏ねても納得するわけがなかった。
「兄貴の考える“誇れるような仕事”が何なのかは知らないけどさ、犯罪でもないのに他人の仕事をなじるのはどうかと思うよ。自分が理解出来ないもの、気に入らないからものを否定するのは“誇れる事”じゃあないだろ」
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