はてなキーワード: テレビアニメとは
特にタカヒロ三部作はリメイクした方が良いんじゃないかと思う。
クソゲーだったそらみずをエロい方向性で作ったOVAは大ヒットしたわけで
同じくタカヒロ作品で姉ちゃんとしようよもそれなりにヒットしてる。
原作が漫画のエロアニメはそれなりに売り上げるしシリーズ化もした。
エロゲーの方も飛田もとい比良坂先生の夜勤病棟もヒットしたじゃないか。
もうそろそろ許されてもいい頃だと思う。
テレビアニメは失敗した、じゃあ次にしなくちゃいけない事は黒歴史化して、
つよきすorこんにゃくはアニメ化してない、じゃなくてアニメ化は失敗したけど
AIRだってKanonだってリメイクして大ヒットしたじゃない。
ありがちっちゃありがちかなあと思ったけど。
2倍速で見てちょうどいいテンポだった。
あとOPED歌が両方よかった。
個人的に好きだったのはOPのサビあたりのたぬきに切りつけ→爆破シーンと、
野崎くんとちよちゃんの足元がアップになって、歩く歩幅の違い的な演出があったところ。
序盤のワクワク感はかなりよかった。
中盤から後半にかけてが残念だった。
序盤のノリで丁寧に作り直してほしい。
ちょっと話それるけど、タイムスリップした人間がたまたま歴史に詳しいとかも本当都合良すぎるからやめて欲しい。
全体的に竜頭蛇尾。
TARITARIやらグラスリップやら凪の明日からやらあたりで凋落したと思ってたピーエーワークスの本気を久しぶりに見た。
作画も声もよかったけど、終盤の展開がやっぱり多少無理矢理感があったのと、もともと一発ネタ的な意味合いが大きかったから、30分1クールやるのはちょっとダレた気がする。
EDの歌がよかった。
商業主義の昨今でここまでいろいろやりまくったのはほんとすごいと思う。
そのくせ最後はなんだかんだでうまくまとめてたし。
DTBと星空めておってことで見ることにした@昔はエロゲーマー
メインのストーリーが投げっぱで終わったのは残念だったけど、中途半端にメインとサブの話を混ぜたり、ノリが前半と後半で変わるよりはよかったと思う。
肩の力を抜いて毎回楽しんで見れた。
もうゆーたとりっかがくっついてどうこうって話だったから、
俺の好きなでこさまペアがあんまり見れなかったのが寂しかった。
でもにせさまーの回はかなりよかった。最高。
原作やろうと思って見なくなった。
最初は面白いかなと思ったけどさすがにワンパターンすぎて飽きた。
富野節に耐えられなかった。
軍にいるのに好き勝手する主人公と、行き当たりばったりなストーリーに耐えられなかった。
マンネリ。
久弥直樹ってことで期待しすぎたのもある
オリジナルアニメを見ることの方が多い。
原作あれば原作は読んだけどアニメは見てないってのも結構ある。
クロスアンジュとゆうきゆうなは勇者であるが面白そうかなあと思ってるけど、さすがに話数が溜まりすぎてなかなか手が出せない。
特に後者はタカヒロのアカメのがっかり感があるから最後まで見るのが少しこわい。
参考にしたのはWikipediaの2014年のテレビアニメ。
今年もそろそろ終わる。
俺は来年40歳になる。10年前に何してたっけ?どんなことがあったけ?20年前は?
思い出そうとしてみたが、覚えていることはあまりなかった。
そこで大好きなウィキペディアを開いてみたら、おもしろかった。
西暦をたたけばその年に起こった出来事や流行ったものごと、世相がまとめられている。
すげえな。
「おっ」とか「へー」とか「なにそれ」と思った出来事で100年を振り返ってみる。
2014年の10年前と2015年の10年前。
1614年と1615年までさかのぼれば、それぞれ大阪冬の陣と夏の陣までいけるのだが、400年はけっこうしんどい。
とりあえず100年。
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・自衛隊イラク派遣の陸上自衛隊本隊第一陣がイラクのサマワに入る
・関西電力美浜原子力発電所(福井県)で蒸気漏れ事故が発生、作業員5人が死亡
・アテネ五輪(柔道の野村忠宏選手が五輪3大会連続で金メダル獲得)
・「新潟県中越地震」死者68名
2005年(平成17年)
・中部国際空港が開港
・アンゲラ・メルケルがドイツ首相に就任
・1年を通じて1899年以来初めて死亡数が出生数を上回る
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1994年(平成6年)
・関西国際空港が開港
・オリックスのイチローが史上初の1シーズン200本安打を記録
1995年(平成7年)
・警視庁の国松孝治長官狙撃事件(重傷)
・オウム真理教総本部前で村井秀夫幹部が刺殺される
・『新世紀エヴァンゲリオン』放送開始
・俺ハタチになる/この年はテレビばかり見ていた気がする。
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・中曽根首相が首相として戦後初の靖国神社参拝
1985年(昭和60年)
・東京都に新両国国技館が完成、横綱・北の湖が引退
・NTT(電電公社)とJTT(日本たばこ産業)が民営企業として発足
・豊田商事の詐欺事件についてマスコミが取材中、報道陣の前で永野一男会長が暴漢2人に刺殺される
・フジテレビで夕方のバラエティ番組『夕やけニャンニャン』が放送開始
・たこ八郎が水死
・阪神タイガースが日本シリーズで、西武ライオンズを破り4勝2敗で日本一
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1974年(昭和49年)
・永谷園が「あさげ」を発売
・日本赤軍がオランダ・ハーグにあるフランス大使館を占拠(ハーグ事件)
・ウォーターゲート事件でニクソン米大統領辞任
1975年(昭和50年)
・まるか食品が「ペヤングソースやきそば」を発売
・山陽新幹線博多まで開通
・広島東洋カープが初優勝
・イギリス保守党の党首にマーガレット・サッチャー選出
・沖縄国際海洋博覧会開幕
・俺が生まれた
……俺と同い年の人たち
・アンジェリーナ・ジョリー(女優)
・上原浩治(野球選手)
・高橋由伸(野球選手)
・俺(商店街で鮮魚店を経営)
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・本田技研工業が「S600」を発売
・日本人の海外観光渡航自由化。ただし年1度、所持金500USドルまでの制限付き
・東海道新幹線開業
・坂本九『明日があるさ』がヒット
1965年(昭和40年)
・淀橋浄水場廃止
・中国で文化大革命が始まる
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1954年(昭和29年)
・日本の高度経済成長期が始まったとされる年
・NHKが大阪と名古屋でテレビジョン放送開始
・ニッポン放送開局
・琉球放送(RBC)開局
・遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」が米国の水爆実験によって発生した多量の放射性降下物を浴びる
・洞爺丸事故
・加藤芳郎の4コマ漫画『まっぴら君』が毎日新聞夕刊で連載開始→2001年終了
1955年(昭和30年)
・武田薬品工業が総合感冒薬「ベンザ」を発売。
・ワルシャワ条約機構結成、冷戦激化
・広辞苑初版発行(岩波書店)
・後楽園遊園地が完成
・自由民主党と日本社会党の二大政党制(55年体制)が始まる→1993年崩壊
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1944年(昭和19年)
・全国の新聞で夕刊が廃止
・日本軍がインパール作戦を開始
・連合軍によるパリの解放
・東海道沖で東南海地震発生/マグニチュード7.9、死者・行方不明者1,223人、建物全壊36520件
1945年(昭和20年)
・ 2月 4日 ヤルタ会談(ルーズベルト、チャーチル、スターリン)
・ 2月14日 近衛文麿が昭和天皇に早期和平を提案(近衛上奏文)
・ 6月13日 大田実司令官が「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と打電した後自決
・ 6月23日 沖縄守備軍司令官牛島満が摩文仁司令部で自決/実質的な戦闘終結
・ 8月 6日 広島市へ原子爆弾投下
・ 8月 9日 ソ連軍が満州へ侵攻して対日参戦開始
・ 8月 9日 長崎市へ原子爆弾投下
・ 8月10日 御前会議(ポツダム宣言の受諾の可否について)
・ 8月27日 占領軍向け特殊慰安施設の第1号開業(小町園、東京大森)
・ 9月 2日 東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で、重光葵・梅津美治郎らが降伏文書調印(第二次世界大戦終結)
・ 9月25日 外国人記者2名が昭和天皇にインタビューを行う
・10月19日 駅名の表記が左書きに統一される
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1934年(昭和9年)
・日比谷映画劇場開場
・忠犬ハチ公銅像除幕式
・満鉄が大連―新京間で「特急あじあ号」の運転を開始
・東北地方で冷害が発生、凶作被害甚大
1935年(昭和10年)
・築地市場開場
・フランス人民戦線結成
・天理教本部が脱税で捜索
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1924年(大正13年)
・皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)と良子女王(後の香淳皇后)ご成婚
・日本でメートル法が採用
・阪神甲子園球場完成
・トーマス・マン『魔の山』
1925年(大正14年)
・イタリアのベニート・ムッソリーニが独裁宣言
・日ソ基本条約締結(日本はソ連を承認)
・治安維持法公布
・朝鮮総督府庁舎完成
・上海で五・三〇事件
・広東に国民政府が成立
・鈴木商店(後の味の素)設立
・芦ノ湖にブラックバスが放流
・娯楽雑誌『キング』創刊
……これ読んだ若い頃、スーパーのおさかなコーナーで働いてた。
まな板の上にレモン置いて帰ろうかと思ったな。
なつかしい。
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1914年(大正3年)
・孫文らが東京で中華革命党を結成
・サラエヴォ事件→オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに最後通牒
・『少年倶楽部』創刊
1915年(大正4年)
・第一次世界大戦:ドイツ海軍がイギリス周辺を交戦海域に指定して、Uボートによる無制限潜水艦戦が開始される
・サマセット・モーム『人間の絆』
・芥川龍之介『羅生門』
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数字と固有名詞と記憶と今がごっちゃになって、ちょっと気持ちいい。
自分がさかなクンと同い年なのは知っていたが、ぺヤングとも同い年とは知らなかった。
それと昭和、長いな。
明日も朝早いし、そろそろ寝る。
Kindle Paperwhite買ったので、いろいろラノベを読みたいのですが、みなさんの今まで読んだ中で、一番好きなラノベあったら教えてください
「ウィザード・バリスターズ-弁魔士セシル-The Beginning」
オリジナルテレビアニメのノベライズ版。アニメは不評だったようですが、僕はアニメも好きでした。ノベライズ版では、セシルの小学生の頃、なんでセシルのお母さんが死刑判決を受け、セシルが弁魔士を目指したのかか語られた、かなり悲しい物語です。アニメがつまんなかった人も、ノベライズ版は楽しめるのではないかと思います。
不思議なものが見える主人公が探偵事務所に入って、さらにいろいろな不思議な事件を担当する。という話で、なんかほんわかした優しい雰囲気の物語です。特別面白いというわけではないんですが、読んでいてほっこりするというかそんな感じですね。
アニメ化も決まっている作品で、主人公は、普段は大した能力はないが、最後は大活躍みたいな典型的なパターンですが、その典型的なパターンが楽しい作品です。
なんかただのお勧めラノベ紹介になってしまってますが、まだまだあまりラノベ読んでないんで、いろいろ教えていただけると幸いです
テレビアニメは、企業が複数社集まり製作委員会を作り、アニメを制作し、テレビ局に電波使用料を支払いアニメを放送し、Blu-ray・DVDの販売で利益回収をしている
しかし、よく言われるように、Blu-ray・DVDは高い。ただ、制作費は、聞くところによると、1話1000万。1クールアニメでも宣伝費を合わせると2億近い制作費がかかると言われている。
これを回収するためと考えると、Blu-ray・DVDの価格は妥当なものであり、決して高額といわけではない。
それでもやっぱり高い。そこで僕が提案したいのが、アニメの有料配信で利益を出すということ。
好きな作品の全話パックを作品を評価するという意味で購入するというのはありなのではないか。
販売側にも、もう少し有料配信に力を入れて頂いて、例えば全話パック購入者に、ネットラジオの特別回が聞けるとか、キャラソンのダウロードやイベント参加の応募が出来るなどの特典をつけたらどうか。
Blu-rayを売るのが一番の利益回収になるのかもしれないが、そもそもBlu-rayを家に置き並べるスペースも限られているし、あまりそういうものを家に置きたくない人も多いと思うので、そういう方面での利益回収を考えるべきではと思う。
煽りというレベルじゃなく、本当の意味での信者になってる。しかもその対象はテレビアニメ。
キルラキルでは動画の簡素な箇所が目立つ、がそれは別に良い。それは必要最低限でも良いと思う。しかし信者はなぜか「省エネの仕方が上手い」「効果的」「次回に神作画来るな」とか、不必要にほめだす。同じこと(簡素な作画)を嫌いな、もしくは興味ないアニメで見かけたら「作画崩壊wwwwwww」とか書いてるよね。その評価ライン、判断ラインが作品でバラバラすぎる。そして判断後の行動も好き嫌いの範疇を超えてる。
それ以上でもそれ以下でもない。
と見るとなぜか途端にジャンクフード擁護をはじめるのが昨今のいわゆるアニメオタク(ここでは「深夜アニメのファン層」とする)で、もう救いようが無い。
煽りというレベルじゃなく、本当の意味での信者になってる。しかもその対象はテレビアニメ。
キルラキルでは動画の簡素な箇所が目立つ、がそれは別に良い。それは必要最低限でも良いと思う。しかし信者はなぜか「省エネの仕方が上手い」「効果的」「次回に神作画来るな」とか、不必要にほめだす。同じこと(簡素な作画)を嫌いな、もしくは興味ないアニメで見かけたら「作画崩壊wwwwwww」とか書いてるよね。その評価ライン、判断ラインが作品でバラバラすぎる。そして判断後の行動も好き嫌いの範疇を超えてる。
脚本もメチャクチャ粗いけど「熱いから細かいことは良いんだよ!」「古きよき大らかさw」とかアホかと。
少し補足します。なぜこれを書いたのかについてです。キルラキル、面白いですよ、それなりに。でも「それほどか?」って思います。ニコニコのランキングでも常に上位だし話題にもよく上がる。大体ほめられてる。でも、そこまでか?お前らそれでいいのか?これ、面白いけど「そこそこ」だろ?おかしなところ、作画にも演出にも、脚本にもあるだろ?それを熱に浮かれて、自分が惚れたから目をつぶるというのはおかしいと思う。
つまり僭越ですが、啓蒙したい、という気持ちです。「おれの意見に従え!」ってのは毛頭無いけどこの加熱ムードには一言いいたいのです。「面白いけど、まあそこそこ」。キルラキルに限らず冷静な評価がよりよい作品が出来る土壌になると思うのです。
あとやっぱり増田で書いてよかったと思いました。ネットジャンキーのやつらは自分に都合のいいものしか見ない、それ以外は排除する、自分に都合いい解釈しかしないというのを確信しました。
id:lotiontissue 逆張りがキモ過ぎる件
「じゃあ何ならいいの?」っていうのが散見されるけど「冷静な眼で作品を判断しろ」という話でなんで他の作品が必要なの?具体的な例を挙げてもそれを嫌いなバイアスで見て叩く材料にするのは眼に見えてるから書かないよ。お前らのいつもの手段だよね。
徹底した自己開示と執拗な自己解釈による独演を社会に提示した喪服の死神。
幼少の個人的出来事からネット右翼、アベノミクスまで論じ上げた喪服の被告人意見陳述は、他者による分析を拒む防壁として構築されたが、ひとつだけ、さらりと流されて違和感を放つ、セクシャリティのカムアウト。
陳述で同性愛を告白し、ボーイスラブ系二次創作での人気に執心したことを事件の発端とするも、彼はセクシャリティに関してだけは、言及を拒む。
自分が「手に入れたくて手に入れられなかったもの」について列挙しておきますと、上智大学の学歴、バスケマンガでの成功、ボーイズラブ系二次創作での人気の3つになります。
…
31年前に同性愛に目覚め、同じ年に母親から「お前は汚い顔だ」と言われ、26前に「聖闘士星矢」のテレビアニメを見たいとお願いして父親に殴り飛ばされ、24年前にバスケのユニフォームに対して異常なフェチシズムを抱くようになり、22年前にボーイズラブ系の二次創作同人誌を知ったという積年の経緯があります。
…
自分に対して理不尽な罰を科した「何か」に復讐を遂げて、その後に自分の人生を終わらせたいと無意識に考えていたのです。ただ「何か」の正体が見当もつかず、仕方なく自殺だけをしようと考えていた時に、その「何か」の代わりになるものが見つかってしまったのです。それが「黒子のバスケ」の作者の藤巻氏だったのです。ですから厳密には「自分が欲しかったもの」云々の話は、藤巻氏を標的として定めるきっかけにはなりましたが、動機の全てかと言われると違うのです。
「手に入れたくて手に入れられなかったもの」「何か」「自分が欲しかったもの」。
執拗な自己解釈を行う喪服が、ひたすらに言及を拒む「何か」は、すなわち、セクシャリティの肯定である。
喪服のまとめサイト的な自己ツッコミは、非モテ的自意識には向けられて、彼は饒舌にウェブ上に氾濫する非モテキモオタの類型コピーを演じて見せるが、一方で、自らのセクシャリティたる同性愛については、まるで《安価》が付けられていない。
本来なら最も語られるはずの内心、セクシャリティが鎮座する位置は、自らを汚物とみる自意識に代替されている。
動機について申し上げます。一連の事件を起こす以前から、自分の人生は汚くて醜くて無惨であると感じていました。それは挽回の可能性が全くないとも認識していました。
汚くて醜くて無惨、自らを汚物と信じた喪服。
もし彼が自身と違う肉体を持つ他者に性欲を向けること、例えば空想の中でオークに成り代わり女騎士を犯すことで充足できるセクシャリティなら、あるいは始めから性的な身体をもつと社会的に扱われている性別なら、自らの身体性が「汚くて醜くて無惨である」と信じながらも、少なくともはじめの一歩を踏み出すことはできただろう。
ヘテロセクシズムに覆われた社会において、セクシャル・マイノリティは「自分はセクシャルな存在である」と現実世界に足を踏み出せない限り、または誰かが手をさしのべてくれない限り、それがマイノリティとして否定された経験だったとしても、はじめの一歩を得られなければ“セクシャリティあるもの”として存立できない。
彼の「本当のセクシャリティ」は否定すらされなかったかもしれない。喪服は何の理由もなく、つまり、ホモ、オカマと罵られたのではなく、身体的なものをあるがままに、母親に汚い顔だと罵られた過去を呪った。それは純粋な身体性の否定であってホモフォビアとの遭遇ですらない。
ホモフォビアとの遭遇は、「ホモと笑われるのが辛かった」と、その苦しみを語ることで、自らを疎外されたマイノリティとして位置づける。
喪服の空想におけるセクシャリティは、思春期にボーイズラブによって徹底的に肯定された一方で、彼の現実のセクシャリティ、喪服が“手に入れたくて手に入れられなかった”身体性の肯定は、同性愛の自認と同時期に行われた“汚い顔”と身体的否定によって抑圧される。
自らを汚物と信じた喪服は、現実のセクシャリティ、それによって他者と繋がる身体性を否定して、汚物は誰かを愛することもできないと、性愛を禁じてすらいる。
自分は愛する人を失ったのではなく、愛する人が初めからいないのです。ここ15年くらい殺人事件や交通事故の被害者遺族が、自分たちの苦しみや悲しみや怒りをメディア上で訴えているのをよく見かけますが、自分に言わせれば、その遺族たちは自分よりずっと幸せです。遺族たちは不幸にも愛する人を失ってしまいましたが、失う前には愛する人が存在したではありませんか。自分には愛する人を失うことすらできません。
LGBT当事者の書籍として頻繁に持ち出される「ボクの彼氏はどこにいる? - 石川大我」と比較すれば、タイトルに違いが現れている。
今ではオープンリーゲイを公言する政治家である石川大我が、自分は人を愛するに足る存在であると信じることができた一方で、喪服の語る言葉は「愛する人が初めからいないのです」である。
愛する人がはじめから喪われている、すなわち、自らの性愛が喪に服しているからこその喪服の死神であり、一文字で暗喩された「喪」とは非モテを示す。
2000年代、2ちゃんねるやはてななど、ウェブ上で隆盛した「非モテ」とは、自らの身体性あるいは性価値に対する自己否定、キモいと罵られた汚物のような人間は誰かを愛するにも不足するという絶望を、自らに対して自己否定のレッテルを貼り付けることで自己肯定に転嫁する、クィアにも似た試みであるが、やがて、彼らにはじめから内包されていた自己否定によって自壊した。
あくまで非モテと呼ばれたことで、モテるか否か、恋愛関係にあるか否かという状態や能力について論じられてしまった非モテだが、彼ら非モテ、あるいは非リアといった類似物も含めて、彼らは「そうであること」に価値を見いだすのでは無く「そうでないこと」によって存立し、非モテを成り立たせていた人々は状態や能力を求める人間ではなく、藁にもすがる思いで自己否定のレッテルに飛びついた人々である。
自分がどれだけ汚物か、気持ち悪いか、失敗しているか、誰かの指摘に先んじて自己開示をし、誰に言われる前に自らを否定する、終わりなき自己否定のスパイラルは、非モテの名の下に集った人々に、わずかばかりの肯定を与えた。
自己否定のレッテルにより肯定される彼らの自意識の中核にあるものは、唯一、自らをキモいと思い込まざるを得なかった幼少期の経験に由来している。
しかし「生まれたときから罰を受けている」という感覚はとてもよく分かるのです。自分としてはその罰として誰かを愛することも、努力することも、好きなものを好きになることも、自由に生きることも、自立して生きることも許されなかったという感覚なのです。
…
幼少期、まだ子供の非モテたちに向けられたキモいという言葉は、思春期、セクシャリティが開花する時期を真っ黒に塗り潰す。
汚物に等しい人間は誰かを愛するにも不足するという絶望は、彼らのセクシャリティを現実を生きる他者に伝えることを禁じて、彼らの性愛は空想へと向けられていく。
本来ならば健全なセクシャリティが鎮座する位置は、自らを汚物とする自意識に取って代わられ、歪な自意識は癒やされること無く成長と共に発展し、ウェブ上で隆盛したモテない男に由来する数々のミームに乗っ取られた怨執甚だしい精神構造を完成させた一方で、耽美な世界を描いたボーイズラブ系二次創作を愛した喪服の死神。
現実では“自分のような汚い顔のキモブサメン”と自嘲して、空想では女性の世界の性愛に耽溺している。
喪服のチグハグなセクシャリティの表出には、彼の現実と空想、性の繋がりを感じさせない。
「何か」が欠落してしまっていた。
ウェブ上での自己開示および匿名の対話者からの反応を慰撫とする行為は、今や誰もが行っており、本来なら十分にウェブの中で機能して、現実世界で怨執を露呈する必要はない。
だが、喪服の自意識の歯車は、ウェブの言論歯車と噛み合わなかった。
喪服の自己対話は精緻であって、他者の解釈に先回りして応答し、全体としては分析をさせる余地を与えないほど堅牢であるも、彼の脳内にインストールされたウェブ言論と、彼自身の対話においては、歯車の噛み合わないチグハグさが漏れ出している。
このチグハグさは、喪服が扱ったネット用語に明瞭に現れている。
さらに自分は生まれてから一度も恋人がいたことがありません。その道のプロにお金を払うという手段を含めても性交すらしたことがありません。恋人いない歴=童貞歴=年齢です。自分はネットスラングで言うところの「魔法使い」です。
喪服が自らの性について語る言葉は徹底してウェブ上の異性愛社会で用いられる言葉であって、セクシャル・マイノリティの為に用いられる言葉は現れない。
自らを異性愛者の視点から「同性愛者」と規定し、異性愛者の非モテが用いた造語で「キモメン童貞魔法使いw」と自嘲し、「ボーイズラブ系の二次創作」と腐女子の言葉で性指向を空想している。
喪服の自己対話には、セクシャル・マイノリティが自らをセクシャル・マイノリティとして規定する言葉が、どこにもない。
というより、喪服がウェブで本心を語ろうとも、それに噛み合う言論の歯車はあっただろうか。
非モテから同性愛者を斥けてミソジニーとホモソーシャルの産物と断罪するセクシャリティ論。
女性たちのホモソーシャルであるボーイズラブ系二次創作の世界。
最後だけは、本当に、ひとつだけ、自己否定のトンネルのなか視野狭窄した彼が自らのセクシャリティの本心を発露して、肯定されうる場を見たならば、思春期から愛し続けたボーイズラブ系二次創作を介した他者による肯定だったのかもしれない。
しかし、喪服が創作するには、表現の原動力たる空想の世界は耽美であるも、空想と同一の肉体を持つ彼の身体性は汚物であって、空想と現実を繋ぐ彼の言語空間はウェブ上で構成された非モテミームに乗っ取られており、格差は恨みを募らせていく。
喪服が、セクシャリティの肯定を得るために行わなければならなかった努力。
本当なら、とても近しい接触によってなされるセクシャリティの肯定は、喪服においては、女性たちが作る社会における創作の表現に対する賞賛という、とても遠い彼方からの肯定の可能性が、ただひとつ、自己否定のトンネルに差す光として見えるのみ。
もしも努力の果てに肯定が得られたとしても、彼に与えられるのは二次元のベールを通した、空疎であたたかみの無い接触である。
喪服は、呪っただろう。
喪服が手に入れたくて手に入れられなかったセクシャリティの肯定を、可能性として見いだしたボーイズラブ系二次創作の賞賛を得る者を。
空想における愛情は、現実における怨執へと置き換わり、耽美な世界で肥大化した自我は、現実世界の自己表現を求めて、自走する。
喪服が見た光の絶望的な遠さは、彼が呪いを向ける対象への距離に変わった。
喪服に残された肯定的な表現手段は、呪いを振りまく脅迫状の郵送に変わった。
喪服が望んだ「何か」、口にすることすら拒んだ人の暖かみによるセクシャリティの肯定は、自己否定の結末として、無機質な統治権力による罰として具現化する。
恐らく重度のネット依存だった喪服の実生活、喪服が生きた思い出の中にも、彼のセクシャリティを、わずかにも肯定した「何か」は存在しなかったはずだ。
喪服は、斑目晴信がオタク濃度を感じたように、キモオタが秋葉原に得るしっくりと来るさまを感じ取ることが出来ただろうか。
喪服は、ボーイスラブ系二次創作を手に取るとき、美しい男を愛する女性の為に作られた空間に踏み入れた、汚物に等しい男を見る目に、何を感じ取っただろうか。
喪服は、自覚することはなかっただろう。
喪服は、徹底して、自らのセクシャリティを、完膚なき自己対話によって、自己疎外した。
執拗に繰り替えされる自己解釈は、彼が求めた「何か」の中核を、自らに気付かせないための自己防壁として機能する。
自己疎外された人々が、自らに自己否定のレッテルを貼り付けることで、健全な精神をギリギリのところで保った非モテの論理。
2000年代に爆発的に流行し、2010年代の始まりと共に終わった非モテは、童貞を中心とするヘテロセクシズムであり、同性愛者の喪服を救わなかった。
喪服が愛したボーイズラブは、あくまで女性のホモソーシャルの世界であって、男の喪服を救わなかった。
セクシャリティを否定された者たちが、自らを疎外されたマイノリティと位置付けて語るLGBTは、セクシャリティのはじめの一歩を踏みだせた者たちのための論理であって、非モテの喪服を救わなかった。
《身長×体重×年齢》と、身体性をコード化して他者と繋がる様式を持つゲイ社会は、身体性を否定された喪服を救わなかった。
身体性を否定された喪服がセクシャリティ育むべき思春期に愛したものは、空想における同性愛であり、彼を耽美な世界に誘い込み、彼の自我を肥大させて、現実を呪った。
「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開1(篠田博之) - 個人 - Yahoo!ニュース http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20140315-00033576/
「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開2(篠田博之) - 個人 - Yahoo!ニュース http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20140315-00033579/
「黒子のバスケ」脅迫事件犯人の「自分語り」全文公開されたが、自重しない腐女子は黒バス脅迫犯を生んだ罪について真剣に考えた方が良い。
問題は彼がBLに入れ込みすぎた結果、脅迫を犯したという事実である。彼はこのように書いている。
31年前に同性愛に目覚め、同じ年に母親から「お前は汚い顔だ」と言われ、26前に「聖闘士星矢」のテレビアニメを見たいとお願いして父親に殴り飛ばされ、24年前にバスケのユニフォームに対して異常なフェチシズムを抱くようになり、22年前にボーイズラブ系の二次創作同人誌を知ったという積年の経緯があります。また、新宿につきましては、16年前に自殺をしようとしてJR新宿駅周辺を彷徨し、11年前にJR新大久保駅周辺を歩き回ったことがきっかけです。
喪服の死神は自らを同性愛者と語っているけども、これだって本当か疑わしい。おそらく自己愛性人格障害であって、同性愛というのはあくまで詐称か、BLに入れ込んだ自称腐男子程度のものではないだろうか。本当の同性愛者ならBLに入れ込むようなことはしないと思われる。
彼の自分語りから漏れ出る意識は肥大化して歪んだ自己愛であり、その結果として表れたのがBL愛好と詐称同性愛といったところか。
「22年前にボーイズラブ系の二次創作同人誌を知ったという積年の経緯」を記している。
いったい何の同人誌を知ったのか私には知る由もないが、ボーイズラブ系の二次創作同人誌の問題は、純粋に作品を楽しんでいる愛好者が、本来ならあり得ない視線(男性登場人物を性的に絡ませる)という嗜好にある。
一昔前までは腐女子の活動はアンダーグラウンドなものだった。検索避けや隠語を用いた隠れたやりとりをして、あくまで自分たちが特殊嗜好者であることを自覚した振る舞いをしていた、と記憶している。
ただ現在の腐女子はオープンにBL談義をすることも珍しくなくなったらしい。
この辺は「ゴキ腐リ」という言葉があるようで、pixiv百科事典なんかにも載っているようだ。
ゴキ腐リ (ごきぶり)とは【ピクシブ百科事典】 http://dic.pixiv.net/a/%E3%82%B4%E3%82%AD%E8%85%90%E3%83%AA
この解説でとくに興味深いのは、この項だ。
実際にはファンタジーであるBLは、『男性(もしくは元となる人物)の形状を模した異質なクリーチャー』を恋愛や性行に結びつけて楽しむ嗜好であり、現実の同性愛とは全く関係が無い。
まとめサイトでは、「同性愛者の為の作品」や「同性愛をテーマにした作品」は問題が無く、同性愛嫌悪の無い人や、実際の同性愛者の中にもBLを嫌う人がおり、BLを問題に感じる人もいることから、「BL=同性愛」ではない、『男性の形状を模した“何か”を当人達以外の人間が妄想の中で恋愛・性行に結び付けて楽しみ喜び興奮する嗜好』と解説されている。
BLは実際の同性愛とは違うし、同性愛者や、同性愛嫌悪のない人物にも気持ち悪がられている・・・とのことらしいが、この解説は直感的に正しいと理解できる。
喪服の死神が入れ込んでいたのはあくまでBLであって、本当の同性愛では無かった。一方で彼は自ら童貞やキモブサメンとオタク用語を使って自己解説している。
ここには非常に強い性愛のゆがみが見て取れる。
例えば純粋にバスケ漫画を好きで黒子のバスケを読んでいる人が、腐女子人気の増大により黒バスを読む際に同性愛者と思われるようになったら、通常なら強い憤りを感じる。
現在の腐女子がおおっぴらにBL談義をする風潮(ゴキ腐リと呼ぶらしいが・・・)が、喪服の死神のねじれを生み出したと。
彼が黒子のバスケをターゲットにしたのは、ボーイズラブ系二次創作が盛んだったからであり、実際の同性愛とは全く違う女の妄想を少年誌に持ち込む異常性が、喪服の死神の内面を作り上げた現実に対する文化的な自省について、腐女子たちは真剣に考えるべきだろう。
アニメイトやとらのあななど以前オタク男子しかいなかったスポットに多く見るようになった。
女性が働く事でその社会性、外向性の幅が広がりを見せ、ファッション性の高い
元々男性向けを扱うとらのあなと違って女性向けの商品を多く扱っているからでもあるが、
これまでアニメなどオタク性の高い店舗は基本的に男性の聖域であった部分が大きい。
にも拘らず昨今は男性よりも女性のオタクの方が目に見えて増えたものだ。
そういえば、アニメイトやとらのあな、メロンブックスの社員(バイトパート含む)は女性が増えたように見える。
ソフマップなどパソコン用品を扱うお店では男性層も多々見られるものの、実際扱う商品によっては
女性だけの店もよく見られるようになった。
その関係もあって女性のオタクが多くなったのではないかと思う。
そういえば、餃子の王将も以前は男性客で溢れていたのが、女性やカップルの入店を想定してやたらカジュアルな様相になったものだ。
ここ2~3年のアニメを見ても明らかな女性向けテレビアニメも増えて来ていると思う。
というより露骨な男性向けのえっちなアニメが減少してきてる様にも見える。
すぱそにとか妹ちょのような、もはやエロを通り越してお下劣の部類のアニメが多くなって、さりげないチラリズムにドキっとした
あの頃のアニメはもはや絶滅危惧種に思えるのは多分気のせいではないはず。
進撃の巨人の薄い本なんてその殆どがリヴァイとエレンばっかだし、黒バスなんてキセキの世代モノばっか。
当の昔に少年漫画は衰退したと言わんばかりにオタク女子の影響がどこかしこにも顕著になってきた今日この頃、本当は嘆くべきなんだろうけど実感が沸かないのさ。
主要論点でもなければ各論の話ではありますが、当該テレビドラマは表現が過激にすぎるし、放送時間帯からして様々な人に視聴可能性があり、実写で現実社会を舞台設定にしていることからイジメや誤解の原因になる可能性が高いものだと、私は思います。連続テレビドラマであっても毎話ごとに一本のコンテンツであって、いちいち毎話見続ける人ばかりではありませんから、「最後まで見てくれれば真意がわかります」というのは正当化する理由にはならないとも私は思っています。「あまり知られていないので啓発したい」という理由であっても、最初から最後まで見るのが想定されているような一本の映画などとは異なり、シリーズもののテレビドラマやテレビアニメなどでは一話単体で見られたときにどうなるか、という観点が必要です。
さてそれで、論点はそこではなくて、視聴率で測るのをやめたらどうか、という話ですが。
いわゆる民放で広告主がいるということになると、広告料を定め広告効果を測定するということが、少なくとも現在の業界では行われています。定量的に測定不可能だと、広告主を説得することが難しくなります。いまどきの企業は大概は、広告効果がないとやらない、カネにならないとやらない、と言います。費用対効果が適当でなければ経営者の責任問題にもなりますし、広告を打つ担当者や管理職の責任問題にもなります。そういうショボい社会ですので、「視聴率やめるべきだ」といった主張はずっと有力でありながら現実化していません。端的にいえば、いわゆる「民放」をやめて、視聴者がスポンサーになり、さらに言えば後払い方式にすればよいのかもしれませんが、それで売上が確保されるのかどうかというと、ショボい社会(ぶっちゃけて言えばみんなバカ)ですのでボランタリーに視聴料が払われてビジネスモデルとして成りたたたせることは難しいでしょうね。(それができるんだったら、例えば、ソフトウェアもプロプライエタリである必要はなく、Windowsなんかがデファクトスタンダードではなくなっているでしょう。強制徴収制度にしないとビジネスモデルとして成りたたないわけですよ。)。
あと、地上波デジタルと双方向という話ですが、そもそも地上波デジタルと双方向化ということがもともと論理的必然性がないものです。地上波デジタル化という結論が先にありきで(剛力彩芽でもないが)ゴリ押しし、その言いわけとして「双方向性」を主張してきただけのことです。そしてなぜデジタルテレビのリモコンの四色ボタンなんかいまほとんど活用されていないかというと、そもそもテレビというのが受動的なメディアだから見られてきたということと、言いたいことがあってもそんなボタンじゃ使えねーということなのでしょう。だから、言いたいことはメールやツイートで送るわけでしょう。まあ昔から、テレビ番組の双方向といえば、電話、ファックス、ハガキでしたよね。
色々思うところがあったのでネタバレ気にせずぶちまけたくなって増田に投稿しようと思いました。
ぶちまけるので構成とかも誤字チェックも何もしないので色々見苦しいかったらすみません。
まず映画。
公開初日の都内の映画館で、平日とはいえ終業明けの時間であるにもかかわらず客は多く見ても50人程度。
そんな状況だから観る前から「ヤバくね?」って思ったけど金払って映画館入っているわけだし観たわけですよ。
紛れも無い糞映画でした。
新年一発目の映画でこんなものを1200円払って観てしまった俺。自分で自分に同情します。
唯一の救いは上映時間が1時間弱だったこと。90分とか120分とか、とてもじゃないけど耐えられる気がしない。
映画はとにかく酷かったので長くなるけど許して欲しい。
「こんなに終始荒れてるアニメも珍しいだろ…」というレベルの作画。
主人公?のセンターキャラ(島田さん)を中心に話が進むけど肝心の過去のトラウマが一切明かされず、感情移入できる余地無し。
これはテレビアニメへの伏線とも取れるが、映画単体としてみた場合、完全に意味不明なストーリーになってしまっている。
謎が明かされないまま他のキャラも何やら納得していきます。お話が進みます。どんどん取り残されていきます。
正確にはライブパート直前からだけど、荒れていた作画が突然安定する。
7000枚描いたらしく、確かに結構頑張っている。
でも分かる。
明らかにライブパートにリソースをぶっ込みまくったのが分かる。
全リソースの95%程度をライブパート含むラスト5分程度につぎ込んだんじゃないだろうか。
次にテレビアニメ。
個人的には映画ほど酷いとは思わなかった(映画は金払ってるのにな)。
作画も演技も映画よりは良くなってた。でも平均レベルよりはどうなんですかね…。
肝心のライブパートは映画と全く同じです。使い回しです。パンチラも修正ありません。
映画観てない人はセンターが島田さんだとわかった人は居るんでしょうか。
とかなんとか映画もテレビも他にも一杯言いたいことありすぎるんだけど、とにかく酷かったです。
面白くなかったです。本当に。
でもね、ライブあるなら行ってみようかなとは思った。
映画を観た時、声優の中村繪里子さんの「大腸のジェラシー」って動画を思い出したんですよ(ニコ動に今もあるんじゃないかな)。
アイドルマスターでヒロインの声を当てている人ですが、言っちゃ悪いけど本当に歌も踊りも下手くそな動画です。
イベントで歌って踊ってる様子なんだけど、音は合ってないわリズム取れてないわ、マイクに音乗ってないわ…。
イベント自体も客席はパイプ椅子っぽくて、カメラも明らかに安物で、そういうショボさも拍車かかって酷いわけです。
底辺さ満点の動画です。
でもこの動画が終わると他の動画にジャンプされるようになっていて、次の動画ではそんな中村さんがなんと武道館で歌っているわけです。
歌も踊りもしっかりしてて、堂々としてて、完全にアイドルなんですよ。
例のイベントの7年後の様子だけど、7年でこれだけ成長したんだなと凄く感動したわけです。
Wake Up, Girls!ではド新人を敢えて起用していることからも、「成長」を見せたいと思っているはずです。
で、実際、映画とアニメ第一話では既にその成長が俺でも分かるわけですよ。
演技だけ見ても映画よりテレビの方が明らかに「成長」しているんですよ、ハッキリと。
そういう成長をずっとそれを見守って行けたら中村さんの動画のような感動が得られるのかな…ってね。
先のことはわかんないけど、そんな可能性を垣間見たような気がする。
とは言え、映画もテレビアニメも「面白くなかった」という事実に変わりはなく、
今後の展開が面白くないと今ちょっとだけ芽生えているこの期待感もいつかは消えるでしょう。
消える時は消えるし、消えなかったら……その時はライブとかイベントとか行くかもね。
「世の中つまんねーなあ、テレビもネットも飽きたわ、ゲームも飽きた」
当たり前なんですがw
①運動中にアニメや落語や音楽などを聞くなり見るなりすると予想以上に楽しめる、笑の沸点が下がる。(多分アドレナリンがでるから?肉体がいじめられて、で、快楽をむさぼりたくなって、目の前のしょぼいテレビアニメでも楽しめる)
②運動すると寝つきがいい(運動してだいたい3時間くらいで気持ちよく眠れる。朝練した学生が午前中の授業寝ちゃうシステム)
③寝てる時に成長ホルモンがたくさん出るので寝る事での疲労回復しやすい(断裂した筋肉を補うために成長ホルモンがでる。大人でも普通にでる。子供の時のような気持ちよさがある)
男慣れしてる女に惚れてしまった。
背丈普通の痩せ型で、いつもベージュのストールを纏っている印象。
しょうゆ顔で豆腐のようにカロリー低そうな彼女をAさんとする。
正直暗そうな女だなとしか思っていなかったし、スタイルも貧相。ぜんぜんそそられなかった。
なんか冷え症で便秘気味の女なのだろう、と寒そうにストール巻いている彼女見て思った。
可もなく不可もない内容で。「旅行のお土産のお菓子うまかったっす」とかそんな。
そして11月某日、社内のエレベーター待ちしている時一緒になったので、
A「……見られてたんですか、お恥ずかしいww」
ここでエレベータが来たので、会話終了(中に人いた)。こういう隙間時間にちゃんと話振れる俺社会人として合格だと思う。
A「チッ」
俺「あ、観たんですか?どーですか?」
今度はこちらから探り入れてみた。
俺「Aさんはコミケとか行くんですか?腐ってる人なんですか?」
いつもそうなんだが、俺は聞くべきことじゃなく、聞きたいことを聞く。
A「いえ、私は行かないです……っていうか腐っているってどういうことですか?」
と猫かぶったA氏。詳しくヒアリングすると、
・腐女子ではない
・そういう友達が多いだけで、決してオタではない
A「もし増田さんが萌え系好きでも、べ、別に男の子だからいいと思います!」
どうやらAさんの周りにはオタ男子が多かったらしく、オタ趣味の許容範囲が広い模様。
そこで思った。
「相当男慣れしてるぞこの女」
別の日。
アニメトークを仕掛ける。
Aさんはあの花やピングドラムが好きらしい。いい趣味のような気がする
(両方とも観てないがなんとなくネットで高評価なのは知ってる)。
俺はDVD1枚だけ観て続き観る気失せたことを伝えたら、こら!とがっかりした表情で言われた。
その後ももにょもにょなんか言ってた。
その日の帰り近所のGEOに寄った。
ピングドラムは置いてなかった。
別の日。
Aさんがマスクして体調悪そうにしてた。その上どうやらチームで残業らしい。
労わりの言葉をかけたら、
とのこと。公衆の面前それ口にするか?
A「違ッ、さっきの言葉に対して言っただけで――」
その時まわりの人が一斉に笑った。///なA氏。
俺もなんで彼女が自分からそういう自虐ネタを振るのか意味がわからなかった。
そのこと思い出して、その日は一日中ニヤニヤしていた。
別の日。
たまたま帰りがAさんと一緒になり、予想外のシチュにドギマギしながら失礼なこと言ってみた。
俺「えっ、群馬出身なんですか?あの、グンマーなんですかwww」
A「どういう意味ですか?(怒)」
怒った目が良かった。突き刺すようなジト目で俺を見てる。大満足で帰った。
そんなこんなで俺は彼女のことを毎日考えるようになってしまったのだ。
彼女が他の男と仲良くしてるだけで軽くしねる。
Aさんとすれ違う時、俺の意識は遥か彼方ジュピターまで飛んでる。過剰なほどに意識してる。重症だ。
こういうケースは俺の過去何度かあって、俺は何度もそのチャンスを潰してきた。舞い上がって、
KYに拍車が掛かり、いくら謝っても返事がもらえなくなる。自爆装置抱えてるみたいなもんだ。今回もダメになりそうな予感がする。
信じられるか?俺33なんだぜ。友人は子持ちのパパなんだぜ。それなのに俺ときたら……。
多分大学生の頃からメンタリティ成長してない。未だに匿名ダイアリーに書き込んでる。わろえない。
へー。そうなんだ。
そういえば最近吹っ切れた顔でやり切った感だしてた。髪をひとまとめに結ったりして……いつも下ろしてるのに。
とりあえず忘年会には参加だとか。
そのあとは?そのあとはどーなの?
その後のことはその後のことだ。
彼女の事を冷静に考えてみて。
何が好きでどんなこと考えていてどんな風に接すると喜ぶのか。
また話しかけてみよう。
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20131015/1381840117
2013年9月でテレビアニメ『ガッチャマンクラウズ』は終了したが、それに絡めて(上記URL)書かれたガッチャマンクラウズの描像に違和感を覚えたので、それをきっかけにして『ガッチャマンクラウズ』について私が考えたことを記しておきたい。尚、本稿は読者が『ガッチャマンクラウズ』を最後まで観ていることを前提に書かれている。
さて、上述したブログの筆者(以下Rootport氏)の見解を一言でまとめるなら、『ガッチャマンクラウズ』とは「社会秩序を守るタイプのヒーローが、秩序の破壊と変化を受け入れる物語」ということになるだろう。だが私は、寧ろそうでなかったからこそ『ガッチャマンクラウズ』は面白かったのであり、現代日本的ヒーロー像を書くことに成功したのではないかと考えている。つまり、『ガッチャマンクラウズ』に登場するヒーローたちは元々が「社会秩序を守るタイプのヒーロー」ではないのではないかということだ。Gメンバーは一ノ瀬はじめが加入するまで確かに襲来する宇宙人達から密かに地球を守っていたが、それは単にJ.Jの指揮下で仕事をこなしていただけであり、奉仕していたのは地球とは文字通り次元の異った高度な秩序である。社会秩序に「人間の理解すら及ばない高度な秩序」は含まないだろう。地球のガッチャマンたちがやらされていたのは全貌を見渡すことのできない「大きな」仕事の一部でしかない。それは結果として地球を守っていたのかもしれないが、積極的に「地球を守る」こととは明らかに違う。『ウルトラマン』が全宇宙的な秩序を守ると言いつつ地球準拠の正義に隷属しているのとは対称的だ。
だが、はじめが加入したことで、ガッチャマンの内実は明らかにそれまでとは異ったものとなる。敵として認識されていたMESSは無害化され、「本来は手出ししない」はずのローカルな事件へ次々と関与していくこととなるのだ。その中でGALAX開発者:爾乃美家 類と出会い、ベルク・カッツェとも関わってゆくこととなる。はじめは何を変えたのか?ガッチャマンたちの「社会秩序を守る」という規範意識か?いや、違う。彼女が齎したのは、そもそも彼らが持っていなかった視座、即ちJ.Jが体現する高度な秩序から離れたローカルな秩序への眼差しである。はじめはそれまでのGメンバーの誰もが実は見ていなかった足元に、持ち前の強引さと直観で目を向けさせた。はじめの出現とベルク・カッツェの暗躍を通して初めて彼らはローカルな秩序と結びついたのである。端的に言って、『ガッチャマンクラウズ』は「社会秩序を守るタイプのヒーローが、秩序の破壊と変化を受け入れる物語」ではない。変化を受け容れるのは神々の視座に安穏としていたヒーローたちの方で、ローカルな社会秩序=ネットはGALAXによって既に変化をはじめていた。自分たちの変化を受け容れたヒーローは、受け容れて初めてローカルな社会の変化を知りその実感を得るのである。自分が大したことないヤツだと思い知らされたからといって不貞腐れている場合ではない、自分の能力に怯えてうつうつしてる場合ではないと気づき、彼らはようやく立ち上がった。
はじめとベルク・カッツェは真逆の方向からそのことをGメンバーに知らしめる役目を負っていた。彼らはインターネットの正負両側面をそれぞれが体現していたのだ。はじめは世代や職業を越えた人々と繋がりが生むポジティヴな連帯を、ベルク・カッツェは猜疑心と加虐性を無限に増幅させて破壊を生み続けるネガティヴな連帯を象徴し、各々自らがその先頭に立つことで「流れ」を引き込もうとする。この両者は、決してバランスのとれた均衡の上で争っているのではない。はじめがネットツール:GALAXに依拠しながらもあくまで立川市内という極ローカルな連帯を核にしている一方、ベルク・カッツェはネット上にありふれた不満と破壊衝動をほんの少しつついてやるだけで、姿を見せることなく、文字通り「どこからでも」破滅の種子をばら撒くことができた。彼(彼女)が立川に拘ったのは、まさに憎むべきガッチャマンたちがそこを拠点としているからでしかない。この圧倒的に不利で不均衡に思える状況の中で、劇中唯一元来の意味でヒーロー的活躍をしていたのがはじめだ。彼女は一切ブレることのない精神の有り様でローカルな視座から遊離していたガッチャマンたちの視線を「足下」に惹きつけ、ネットの向こう側に存在する人々と結びつけた。これに対し、ベルク・カッツェは爾乃美家 類の能力:クラウズを奪ってネット内で辛うじて留まっていた憎悪と欲望を直接現実世界へと送り込んだ。両者が別々の形でネットと現実を接続させ、物語はクライマックスを迎える…
正体を明かし、それまで触れることのなかった他者を知ったガッチャマンたちは、その時はじめてヒーローになった。はじめて守りたいものを思い浮かべ、傷つきながら戦い、己の無力さを痛感するヒーローの入り口に立ったのだ。それまでの彼らは、与えられた力で全貌の知れない「高度な秩序」に奉仕するだけの傀儡だったとも言えよう。だが、各々の意志で翼を広げて立ち上がった彼らは、従うべき規範を越え、ローカルな秩序を守ることに全力を尽くす。しかし、立川を防衛するという一見ローカルな戦いは、爾乃美家類によってGALAXを通したグローバルなゲームと直接接続された。そのことによって、ローカルはグローバルな舞台となり、グローバルな力がローカルに及ぶ。暴走するクラウズとの戦闘に、Gメンバーとゲームの参加者達は勝利する…皮肉にも、そしてある意味当たり前のことだが、これはベルク・カッツェが行ったことと表裏一体である。いや、同じことだと言ってもいいだろう。彼が先に仕掛けたのは、まさに類が提案したゲームであり、参加の動機付けだけが異なっていたに過ぎない。だからこそはじめは「正義ってなんなんスかね~」と戦いの後で口遊む。彼女は理解しているのだ。理解しているからこそ、ベルク・カッツェとの対話を試みる。
ネットだけでも、人智を越えた力だけでもダメなのだ。戦いを終え、ようやく彼らは入り口に立った。ゲーミフィケーションが世界を救ったようでいて、実は違う。GALAXは、単体では無色透明なツールでしかない。そこに参加する者達がどのような動機を持っているのかによって、はじめにもカッツェにも成り得る。目指すべきは秩序を根底から覆す変革ではなく、既にある秩序の漸進的な「アップデート」なのだ。
『ガッチャマンクラウズ』は「ヒーローは最早必要なく、世界は我々の手に委ねられている」なんて呑気な話ではない。少し長く引用するが、Rootport氏によれば
『ガッチャマンクラウズ』では、誰もがスーパーヒーローに準ずるような力を手にした。『キックアス』のように「ヒーローになれるわけがない」と笑い飛ばすのではなく、ほんとうにヒーローにしてしまう。これは現実世界のメタファーと見なせるだろう。ネットが一般化して20年あまり。私たちは実際に、英雄に準ずるような力を手に入れてしまった。
名も無き個人でも、世界に影響を与えられる。匿名のままでも、世界に向けて発信できる。
ということらしい…言いたいことが沢山ある。まず、Rootport氏が言及している映画版『キック・アス』は「ヒーローになれるわけがない」と笑い飛ばしてなんかいない。力(スーパーパワーや金)のない者が現実でヒーローになろうとした時にどれだけの代償を払うのかを冷酷に示して見せている作品だ。勿論、コメディ的要素も色濃く入っているが、本質的には「力がなければ正義をなさなくても良いのか?」という問いに否を突きつけようとして、血塗れになる物語である。そして、コミック版の『キック・アス』は映画版を超え、ヒーローをある種の病気として扱い、その行き着く悲惨さと哀しさを描いてみせた。どちらもアメリカ特有のヴィジランテ文化に立脚したヒーローを解体し尽くしても尚、何が残るのかを問うている…大いに話が逸れた。話を戻すが、私達は一般化したネットによって「英雄に準じるような力」を手に入れてなんかいない。決していない。手に入れているのなら、ガッチャマンたちは必要なかっただろう。お役目御免で、そもそも出てこない。人々は手に入れた「英雄に準じるような力」でさっさとカッツェを撃退してしまえばよかったのだ。だが、それはできなかった。代わりに見せつけられたのは、匿名のままでは、名も無き個人のままではダメだということ。匿名でない誰かがインセンティブを与え、ゲームの動機付けを行わなければ動かない現実だ。匿名の誰かによって動かされたゲームが暴走し、手が付けられなくなる様だ。これは何も特別なことがわかったわけではない。ただ、ネットというツールの「当たり前」を見せられただけなのだから。『ガッチャマンクラウズ』は、寧ろ我々が「英雄に準じるような力」を手に入れたわけではないと戒めるような作品だと思っていたのだが…Rootport氏は「世界をアップデートする」をただのキャッチーな標語かなにかとして受け取ったのだろうか?
Rootport氏は細かい点(その実重要な)について気にしないのか気づかないのか、とにかくざっくりした区分けで語る傾向がある。ヒーローの系譜を何故か『マトリックス』から始め、『X-MEN』『スパイダーマン』『V for Vendetta』『まおゆう』『キック・アス』『ダークナイト』『タイガー&バニー』『サイコパス』を辿っていく。日本なの?アメリカなの?どっちなんだ。アメコミの方は何故映画ばかりで原作に言及しないのか。日本のアニメに触れるなら、何故大元の『科学忍者隊ガッチャマン』含めたヒーローアニメの系譜に触れないのか。ライダーや戦隊には何故触れないのか。その辺りが謎である。特にローカルなヒーローモノに触れないのは、『ガッチャマンクラウズ』が描いてみせた「現代日本のヒーロー像」がそれまでのものとどのように違うのかを明らかにできない点で致命的だ。寧ろ『ガッチャマンクラウズ』が彼の言うような作品なのだとしたら、『東のエデン』にこそ触れて比較すべきではないのか?…このRootport氏が諸作品を引用した部分について言いたいことはまだまだ山ほどあるのだが、虚しくなってきたのでこの辺にしておく。
Category:1990年のテレビアニメ - Wikipedia
総数:30作品
Category:1995年のテレビアニメ - Wikipedia
総数:42作品
Category:2000年のテレビアニメ - Wikipedia
総数:67作品
Category:2005年のテレビアニメ - Wikipedia
総数:127作品
Category:2010年のテレビアニメ - Wikipedia
総数:135作品
分類がなかなか難しく、かなり機械的にやってしまっているので、
「これは違うだろ」とか「これは入るだろ」とかあれば、脳内で足したり引いたりしてください。
あ、「テレビアニメ」のリストだから、元増田が好きな『秘境探検ファム&イーリー』(95年)が入ってないな…。
元増田がこのあたりの作品群を想定していたかどうかは分からないが。
全体的に見て、ファンタジーの比率は90年代からそれほど高くはないし、
2000年には偏りが見られるが、非召喚が少ないだけで、召喚が多いわけではない。
2001年にはゾイド、テイルズ、魔法戦士リウイ、RAVEなどがあるので、
前後の年を見てみると、