はてなキーワード: キック・アスとは
https://anond.hatelabo.jp/20180214020955(「同性婚に反対する理由は論理的根拠が無いと思う」)
私は同性婚に反対だ。
昨今、同性同士の婚姻を制度的に認めようとする、怪しからぬ動きがある。
確かに、男だけが女性と結婚でき、女が結婚できるのは男性だけなのは、不公平と言えよう。
しかし、女性と結婚できる権利は、男性の確固とした既得権益である。
そして、既得権者である私は、この不平等が是正されて欲しいとは全く思わない。
私が見当違いのことを言っているとお思いだろうか。女性がこのことを不公平だなどと思うはずがない、と。
しかし、虚心に見比べてみてほしい。
優しく、美しくて、柔らかくて、清潔で、スベスベして、良い匂いのするのが、女性。
ガサツで、醜く、ゴツゴツガサガサして、汚らしく、指の背とか変な所に毛が生えてて、臭いのが、男性。
そのいずれが好ましいかを。友人としてならいざ知らず、性愛の対象として男性を好むものは少ないはずだ。
無論、男性を好む男性がいるように、男性を好む女性も、皆無ではあるまい、しかし本来それは圧倒的少数のはずだ。
そう、私は、レズビアンは本来マイノリティではないと言っている。女性が女性を好むのは、ごく自然なことなのである。
その証拠に、多くの女性は、花や、ぬいぐるみや、包装を開いたばかりの石鹸のような、優しく、美しくて、ふわふわスベスベして、清潔で、良い匂いのするものを好むではないか。
男性諸君、私の言葉を疑うなら、女性の立場に身を置いてみればよろしい。
私は想像する。
もし私が自分の妻や恋人の立場だったとしたら、私と結婚したり子供を作ったり親しく触れ合いたいなどと思うだろうか?
断固として否である。
鏡の中の私とキスすることを想像するだけで吐き気を催すし、さらにその先のことを強制されるなら、舌を噛んで死ぬことを選ぶだろう。
我々のパートナーは、これほどの苦痛と不快と屈辱を一見平然と受け入れているのだ。感謝などと言う言葉ではもはや言い尽くせない。
男が獲物や給料を持ち帰り、社会的経済的に優位を保てていた時代は、とっくに終わっているということを。
その状況で、両性からパートナーを選べるとしたら、いったい誰が男性など選ぶというのか。
たちどころに世の女性は全て、モテる女性たちに独占されてしまうではないか。
同性婚に賛成する男性諸氏は、そのことを理解しているのだろうか。
他方で、女性たちはこう囁いてくるかもしれない、
『否とよ、多くの女性は男性を好むものだ。そのような心配は当たらない』と。
しかし諸兄、このような耳に快い言葉にこそ、よくよく用心を払うべきなのだ。
空手形に踊らされてはならない。
これは我々を欺き油断させるための、危険な罠というべきである。
このような甘言に乗せられたら最後、彼女たちは我々にとっての全て、すなわち全女性を、瞬く間に掠め取ってしまうだろう。
そのようなことは火を見るよりも明らかではないか。
彼女たちを注意深く観察するが良い。
女性たちが如何に男性を遠ざけ、女性同士で固まろうと腐心しているかを。
もし法的社会的に同性婚が認められたら、我々男性はどうなるか?
それについては、今の女性たちが、止むを得ず男性と結婚していることを思えば、考える余地はない。
女性を女性に独占されてあぶれてしまった男性たちは、互いに男性をパートナーに選ぶようになるはずだ。
あるいはその先には、めくるめく世界が待っているのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
といえば、まどマギ3話やがっこうぐらし1話(あとめぐねえ)が定番なんだろうが俺はあえてサムライフラメンコ7話を挙げたい。
キック・アス的な自主活動ヒーロー主人公が警察官と協力して街のちょっとした悪事(傘の置き引き等)を正していくハートフルBLヒーローアニメだと思って気楽に見ていたんだ。
序盤は結構面白かったのに、いきなり本物の怪人ギロチンゴリラが現れて首チョンパのグロシーンが入るわ、本物の悪の組織が現れてヒロイン達が小指を潰されるような拷問を受けるわ、捕まった戸松遥演じるヒロインがボロボロの姿で泣きながら歌い始めるわでドン引きし空いた口が塞がらなかった。
興味がある人はwikipediaでストーリー解説とキャラ紹介を見て欲しい。解説だけでヤバイ臭いが伝わってくるから。
個人的にこれと同時にやってたガリレイドンナがノイタミナ史上最低傑作だと思っている。
(追記)
皆さん面白いネタバレをありがとう。気になる物があったら見てみます。
よくあることが昨日もあったんだけど、
ダイエットをしようと思っていて(いまは小休止中)、糖質制限を始める前にラーメン二郎に食べ納めに行った。
これまで二郎に行った回数は片手で数えられるくらいで行く度に普通のラーメンしか食べないと心に誓うのだけど、
昨日は腹が減り過ぎて気づいたら肉ラーメンってボタンを押してた。こういうあとから後悔するってわかってることを毎回やってしまう。
チャーシューもいつもよりうまかったし、汗をかきながら完食してふらっと近くのTSUTAYAに行った。
お目当ての漫画最新作のレンタルは品切れで(先週くらいから毎日チェックしてる)、ちょっと暇だし気になってたDVDでも借りて帰るかと思って作品を選び始めた。
ニンニクヤサイアブラがたっぷり詰まった僕の胃袋がその悪魔の食べ物を消化しようと必死にしている頃だった。
お目当ての作品は新作ではないはずだけど、準新作かもしれないと思って一作借りるよりも5作借りた方がお得だっていう判断をそこでして(TSUTAYAは5作借りると1,000円)、
お目当て以外の物色も始めた。どうせなら外れも借りたくないし、自宅のAmazonプライムビデオで無料で見ることのできる作品も借りたくはない。
このあたりで屁が止まらなくなってた。ぶりぶりぶりぶりぶり。
熟考しながら3つ作品を選んだ頃には大腸あたりにお客が待ってたし、屁も相変わらず止まらないしでむしろそれを推進力にSFのコーナーとアクションのコーナーをいったり来たりしてた。
これは本格的にまずいなと思いながら、残り2作品を選ぶ猶予は残されているかどうか、ここで肛門の栓を開放するリスクはいかほどのものか、両者を天秤にかけながら最寄りの用の足せる個室を脳内で検索していた。
3作品借りても4作品借りても1,000円、「ええいならばもはや適当でよろしい!」と目についた名作っぽい作品をちょいちょいと選んでレジに行こうとしたら手元にDVDが6つある。
朦朧としながら内の1つを棚に戻しレジに向かう。幸いレジは空いていてすぐに会計ができたけど、カードを読み取る方向を間違ったり、レシートをきちんと折りたたもうとする店員に心の中で悪態を付きながら、
なんと頑張って5作品も選ぶ意味などなかったのだ。便意を催した時点で会計を済ませ、W.Cに向かっていればなんとスマートだったことか。何をしているんだ僕は。
TSUTAYAから歩いて1分ほどのところ、駅中の商業施設に目的地があるためそこまで足早に急ぐと清掃中でだれでもトイレしか使えないという。
大抵どこのトイレもそうだがひとつしかないその押しボタン式に開閉する扉のそこにちょうど男性が入るのを見届け、平静を装いながら清掃のおじさんに笑顔で返事をする。
幸いにも僕の前の男性客は便器に座り込んで自分の消化器官と対話するわけでもなくいそいそと出て来た。なんとか間に合いそうだと入れ替わりで個室に入り押しボタンを押して扉をしめようとするがうまく反応しない。
焦る。
ボタンと少し格闘して自動ドアが閉まるが早いか、ズボンを下ろすのが早いか(最早外の誰かと目が合おうが観念するしかない)
ちなみにお目当ての作品だった『キングスマン』はとっくに旧作だったし、あんまりおもしろくなかった。映像はおもしろかったけど監督も原作も『キック・アス』だと知って納得。
損をしたくないと思っていろいろ考えて生きてるつもりなんだけど、結局得をするわけでもないというかむしろちょっと損というか。それだけの話。
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20131015/1381840117
2013年9月でテレビアニメ『ガッチャマンクラウズ』は終了したが、それに絡めて(上記URL)書かれたガッチャマンクラウズの描像に違和感を覚えたので、それをきっかけにして『ガッチャマンクラウズ』について私が考えたことを記しておきたい。尚、本稿は読者が『ガッチャマンクラウズ』を最後まで観ていることを前提に書かれている。
さて、上述したブログの筆者(以下Rootport氏)の見解を一言でまとめるなら、『ガッチャマンクラウズ』とは「社会秩序を守るタイプのヒーローが、秩序の破壊と変化を受け入れる物語」ということになるだろう。だが私は、寧ろそうでなかったからこそ『ガッチャマンクラウズ』は面白かったのであり、現代日本的ヒーロー像を書くことに成功したのではないかと考えている。つまり、『ガッチャマンクラウズ』に登場するヒーローたちは元々が「社会秩序を守るタイプのヒーロー」ではないのではないかということだ。Gメンバーは一ノ瀬はじめが加入するまで確かに襲来する宇宙人達から密かに地球を守っていたが、それは単にJ.Jの指揮下で仕事をこなしていただけであり、奉仕していたのは地球とは文字通り次元の異った高度な秩序である。社会秩序に「人間の理解すら及ばない高度な秩序」は含まないだろう。地球のガッチャマンたちがやらされていたのは全貌を見渡すことのできない「大きな」仕事の一部でしかない。それは結果として地球を守っていたのかもしれないが、積極的に「地球を守る」こととは明らかに違う。『ウルトラマン』が全宇宙的な秩序を守ると言いつつ地球準拠の正義に隷属しているのとは対称的だ。
だが、はじめが加入したことで、ガッチャマンの内実は明らかにそれまでとは異ったものとなる。敵として認識されていたMESSは無害化され、「本来は手出ししない」はずのローカルな事件へ次々と関与していくこととなるのだ。その中でGALAX開発者:爾乃美家 類と出会い、ベルク・カッツェとも関わってゆくこととなる。はじめは何を変えたのか?ガッチャマンたちの「社会秩序を守る」という規範意識か?いや、違う。彼女が齎したのは、そもそも彼らが持っていなかった視座、即ちJ.Jが体現する高度な秩序から離れたローカルな秩序への眼差しである。はじめはそれまでのGメンバーの誰もが実は見ていなかった足元に、持ち前の強引さと直観で目を向けさせた。はじめの出現とベルク・カッツェの暗躍を通して初めて彼らはローカルな秩序と結びついたのである。端的に言って、『ガッチャマンクラウズ』は「社会秩序を守るタイプのヒーローが、秩序の破壊と変化を受け入れる物語」ではない。変化を受け容れるのは神々の視座に安穏としていたヒーローたちの方で、ローカルな社会秩序=ネットはGALAXによって既に変化をはじめていた。自分たちの変化を受け容れたヒーローは、受け容れて初めてローカルな社会の変化を知りその実感を得るのである。自分が大したことないヤツだと思い知らされたからといって不貞腐れている場合ではない、自分の能力に怯えてうつうつしてる場合ではないと気づき、彼らはようやく立ち上がった。
はじめとベルク・カッツェは真逆の方向からそのことをGメンバーに知らしめる役目を負っていた。彼らはインターネットの正負両側面をそれぞれが体現していたのだ。はじめは世代や職業を越えた人々と繋がりが生むポジティヴな連帯を、ベルク・カッツェは猜疑心と加虐性を無限に増幅させて破壊を生み続けるネガティヴな連帯を象徴し、各々自らがその先頭に立つことで「流れ」を引き込もうとする。この両者は、決してバランスのとれた均衡の上で争っているのではない。はじめがネットツール:GALAXに依拠しながらもあくまで立川市内という極ローカルな連帯を核にしている一方、ベルク・カッツェはネット上にありふれた不満と破壊衝動をほんの少しつついてやるだけで、姿を見せることなく、文字通り「どこからでも」破滅の種子をばら撒くことができた。彼(彼女)が立川に拘ったのは、まさに憎むべきガッチャマンたちがそこを拠点としているからでしかない。この圧倒的に不利で不均衡に思える状況の中で、劇中唯一元来の意味でヒーロー的活躍をしていたのがはじめだ。彼女は一切ブレることのない精神の有り様でローカルな視座から遊離していたガッチャマンたちの視線を「足下」に惹きつけ、ネットの向こう側に存在する人々と結びつけた。これに対し、ベルク・カッツェは爾乃美家 類の能力:クラウズを奪ってネット内で辛うじて留まっていた憎悪と欲望を直接現実世界へと送り込んだ。両者が別々の形でネットと現実を接続させ、物語はクライマックスを迎える…
正体を明かし、それまで触れることのなかった他者を知ったガッチャマンたちは、その時はじめてヒーローになった。はじめて守りたいものを思い浮かべ、傷つきながら戦い、己の無力さを痛感するヒーローの入り口に立ったのだ。それまでの彼らは、与えられた力で全貌の知れない「高度な秩序」に奉仕するだけの傀儡だったとも言えよう。だが、各々の意志で翼を広げて立ち上がった彼らは、従うべき規範を越え、ローカルな秩序を守ることに全力を尽くす。しかし、立川を防衛するという一見ローカルな戦いは、爾乃美家類によってGALAXを通したグローバルなゲームと直接接続された。そのことによって、ローカルはグローバルな舞台となり、グローバルな力がローカルに及ぶ。暴走するクラウズとの戦闘に、Gメンバーとゲームの参加者達は勝利する…皮肉にも、そしてある意味当たり前のことだが、これはベルク・カッツェが行ったことと表裏一体である。いや、同じことだと言ってもいいだろう。彼が先に仕掛けたのは、まさに類が提案したゲームであり、参加の動機付けだけが異なっていたに過ぎない。だからこそはじめは「正義ってなんなんスかね~」と戦いの後で口遊む。彼女は理解しているのだ。理解しているからこそ、ベルク・カッツェとの対話を試みる。
ネットだけでも、人智を越えた力だけでもダメなのだ。戦いを終え、ようやく彼らは入り口に立った。ゲーミフィケーションが世界を救ったようでいて、実は違う。GALAXは、単体では無色透明なツールでしかない。そこに参加する者達がどのような動機を持っているのかによって、はじめにもカッツェにも成り得る。目指すべきは秩序を根底から覆す変革ではなく、既にある秩序の漸進的な「アップデート」なのだ。
『ガッチャマンクラウズ』は「ヒーローは最早必要なく、世界は我々の手に委ねられている」なんて呑気な話ではない。少し長く引用するが、Rootport氏によれば
『ガッチャマンクラウズ』では、誰もがスーパーヒーローに準ずるような力を手にした。『キックアス』のように「ヒーローになれるわけがない」と笑い飛ばすのではなく、ほんとうにヒーローにしてしまう。これは現実世界のメタファーと見なせるだろう。ネットが一般化して20年あまり。私たちは実際に、英雄に準ずるような力を手に入れてしまった。
名も無き個人でも、世界に影響を与えられる。匿名のままでも、世界に向けて発信できる。
ということらしい…言いたいことが沢山ある。まず、Rootport氏が言及している映画版『キック・アス』は「ヒーローになれるわけがない」と笑い飛ばしてなんかいない。力(スーパーパワーや金)のない者が現実でヒーローになろうとした時にどれだけの代償を払うのかを冷酷に示して見せている作品だ。勿論、コメディ的要素も色濃く入っているが、本質的には「力がなければ正義をなさなくても良いのか?」という問いに否を突きつけようとして、血塗れになる物語である。そして、コミック版の『キック・アス』は映画版を超え、ヒーローをある種の病気として扱い、その行き着く悲惨さと哀しさを描いてみせた。どちらもアメリカ特有のヴィジランテ文化に立脚したヒーローを解体し尽くしても尚、何が残るのかを問うている…大いに話が逸れた。話を戻すが、私達は一般化したネットによって「英雄に準じるような力」を手に入れてなんかいない。決していない。手に入れているのなら、ガッチャマンたちは必要なかっただろう。お役目御免で、そもそも出てこない。人々は手に入れた「英雄に準じるような力」でさっさとカッツェを撃退してしまえばよかったのだ。だが、それはできなかった。代わりに見せつけられたのは、匿名のままでは、名も無き個人のままではダメだということ。匿名でない誰かがインセンティブを与え、ゲームの動機付けを行わなければ動かない現実だ。匿名の誰かによって動かされたゲームが暴走し、手が付けられなくなる様だ。これは何も特別なことがわかったわけではない。ただ、ネットというツールの「当たり前」を見せられただけなのだから。『ガッチャマンクラウズ』は、寧ろ我々が「英雄に準じるような力」を手に入れたわけではないと戒めるような作品だと思っていたのだが…Rootport氏は「世界をアップデートする」をただのキャッチーな標語かなにかとして受け取ったのだろうか?
Rootport氏は細かい点(その実重要な)について気にしないのか気づかないのか、とにかくざっくりした区分けで語る傾向がある。ヒーローの系譜を何故か『マトリックス』から始め、『X-MEN』『スパイダーマン』『V for Vendetta』『まおゆう』『キック・アス』『ダークナイト』『タイガー&バニー』『サイコパス』を辿っていく。日本なの?アメリカなの?どっちなんだ。アメコミの方は何故映画ばかりで原作に言及しないのか。日本のアニメに触れるなら、何故大元の『科学忍者隊ガッチャマン』含めたヒーローアニメの系譜に触れないのか。ライダーや戦隊には何故触れないのか。その辺りが謎である。特にローカルなヒーローモノに触れないのは、『ガッチャマンクラウズ』が描いてみせた「現代日本のヒーロー像」がそれまでのものとどのように違うのかを明らかにできない点で致命的だ。寧ろ『ガッチャマンクラウズ』が彼の言うような作品なのだとしたら、『東のエデン』にこそ触れて比較すべきではないのか?…このRootport氏が諸作品を引用した部分について言いたいことはまだまだ山ほどあるのだが、虚しくなってきたのでこの辺にしておく。