はてなキーワード: セルとは
当初イエイヌはヒトであれば誰でも良いということを言っていました。結果的には「別れた大切な人を待ち続ける」ことになるのですが、ヒトであればよいと思っているという設定は、不憫さを誘うためものだった思います。イルカ・アシカについても芸の報酬をねだるのは(三人も引いていたし)どこかグロテスクさを感じました。ホテルのぬいぐるみが売り切れる描写は、リョコウバトが孤独になっていくさまを強調したものでしょう。確かにドラマとして悲劇・罪悪感が押し出されているわけではないですが、全編に渡ってそういう表現がある点で、そこには何らかの狙いがあるように感じます。深く考えていないということはないと思います。
これは誤読していました。単にご都合主義的ということではなく、内面世界の反映を問題としているのですね。しかしサーバルとカラカルが急にパワーアップしたように見えるシーンは、最終回での戦闘だけだと思います。カラカルが「本気だすわよ」といってサーバルが”野生解放”をする。”野生解放”はけもフレ1でセルリアンハンターらが行っていますが、「最初から野生解放で行くぞ」の言い方から察するに、疲れる・コントロールできないなど常時その状態ではいられない事情があると考えられます。戦闘も終盤で2対2になったので解放したというのは筋の通る展開ではないでしょうか。他方、フウチョウについてはおっしゃるとおりで、異論はありません。加えて最後でのかばんちゃんの告白も、いままでサーバルとの関係が積み重なっているようには見えないので、強い思いが伝わりあの反応を引き出した、という見方をするしかなく、貴方の論に叶うものでしょう。しかしそうすると、けもフレ2は全体としてはリアリティラインは低くはなかった、ということになりませんか。けもフレ1の紙飛行機や石橋の下に落としたりは納得感が高かったのはわかりますが、けもフレ2での内面世界の漏出は最終盤で起こったということでしょう。ところで、ケムリクサにおいてもリアリティラインは低くなっていったと考えています。ケムリクサは”優しい世界”でもないです。視聴者は同監督ということで同様のものを期待したはずですが、ギャップが大きく評価を下げたという感じはありません。もちろん悪意を見出している人もいません。
思うんですけど、そもそも「悪意をもって作られた創作」というものは過去あったのでしょうか。いえ差別的ヘイト創作はもちろんありますが、それは攻撃するターゲットが他にいるケースであって、今回は視聴者やキャラクターを攻撃する意図を疑われているわけでしょう。商業的メリット以前に、悪意を想定する時点でもう、どこか常軌を逸しているように思えます。俺は実は監督交代の顛末に明るくなくてツイッターのTLにもその関連は流れてこないのですが、一連の感想ブログなどを追っていくなかで、俺にはなにか見えていないエネルギーがあるのではと思うようになりました。一般の視聴者の間で凄まじい義憤が渦巻いていて、極めて高い同調圧力が生み出されていて、それが感想や批評の論理さえ捻じ曲げている。ナイーブな仮説ですが、そんな疑念を持っています。
たつき監督の作劇は、たつき監督の技術によって成り立ってるので、監督が抜けると再現が難しくなる、というのが考えられます。
よく言われる、たつき監督の「優しい世界」ですが、これは脚本技術的に高度なものです。ドラマを作る時に、普通の作劇では対立構造や誤解などを利用します。逆に言うと、たつき的な、悪意がなく素直なキャラだけで、面白いドラマを作るのは、高い作劇技術が必要になります。
この論点は目ウロコでした。そういえばtogetterで吉崎さんの出したプロットから、たつき監督が「トゲ」を抜いた、というエピソードが紹介されていました。俺は結果をみて、なるほど! と思ったのですが、ああいうことを狙ってやっていくのは唯の視聴者が思う以上に難しいのでしょう。けもフレ1ではサーバルがかばんちゃんの表情を覗き込むシーンが多かったように思います。けもフレ2になってキャラクターの造形は表情豊かになりましたが、キュルルちゃんを探偵二人が誘拐した騒動で、キャラクターを体ごと大きく動くのが難しかったのでしょう、ギクシャクした感じが出てしまっていました。たつき監督にしかできない演出は確かにあったと感じています。作劇においてもそれがあって、避けるために得意な方向性に変えた(結果、戻った)という説は納得できそうです。(追記・たつき監督の「素直なキャラだけで面白いドラマ」を作る作劇技術、というトピックはとてもおもしろそうです。優しい世界説はメジャーですが、けもフレ1の作劇技術を解説した記事は見たことがありません。いつか語ってくれないかな〜〜という図々しいオネダリ)
もともと文章書くのが下手な上に思ったまま書いたので読みにくいけどごめん
ネタバレあり
バトルファイトでジョーカーが勝利した場合(=ジョーカー以外のアンデッドが封印された場合)世界の破滅が始まるって設定で、最後の一人になってしまった始(=ジョーカー)と世界を助けるために、アンデッドになりかけてた剣崎もジョーカーになることで世界の破滅を止めたのが15年くらい前。
ずっと会えないけど、剣崎が始の写真集を持って元気に旅してる姿を聞けるドラマCDが4年前(もう4年前!?)。
つまりここまでブレイドは最終回を変えずに来たわけよ(ディケイドはしらん)。
ドラマCDだって剣崎と始の決意と覚悟を無駄にしないようにしてた。だから2人は想いあってても会えないし、悲しいけどそれがブレイドの結末というか結果の後の世界線だったわけよ
今回2人がバトルファイトから解放されて嫌なわけじゃないけど嫌な気持ちも少しある
嫌な気持ちがその2人の決意はなんだったの?っていう夢オチに近い感覚と、なんでジオウで?ってとこかな
剣崎と始が会えないのはつらい。これはオタクの気持ちだけどブレイド最終回見た人ならそう思うと思うんよ。あんなん泣くやん。剣崎が緑の血を流したとこからもう生きていけんわ。つらすぎ。
でもそれが剣崎が選ばざるを得なかったというかこれしかなかったから選んだ結果やったんよ。セルゲームでこれしか思いつかないって言ってセルと瞬間移動した悟空みたいな。それはちょっと違うか。
だからこそオタクはそれを受け入れたしドラマCDでその決意がまだ続いてるのが悲しいけど嬉しくなったのよ。
なんでジオウでってのが、本編で大量のダークローチであふれてて本当に世界が終わってしまう絶望感みたいなのを剣崎が全て背負って止めたのに、新しいフォームでどうにかなってしまったのが剣崎と始の15年間はなんだったんだ…ってなったとこかな。徒労感というか。
この3人に救われたと考えればいいのかもしれないけれど、ゲストで解決してもらったっていうのが…もちろん本編の地続きストーリーはすごい嬉しかった(ディ…)。でもやっぱりブレイドの問題はブレイドの人たちで解決してほしかったなっていうわがままがある。これは俺たちの問題なんだって剣崎が言ってたけど、本当にそうなんだよなって思った。
2人が救われたのは嬉しいけど、一視聴者として大好きだったブレイドという話の結末が終わってしまったのが悲しい
まって!?本当になんで終わってしまったん…永遠に見続けていた外苑のシーン……森のシーン……ティターン回のレモン……tbkさんとmrmtさんの❤️と♠️の指輪(それは違う)
2人がジョーカーである限り終わらないと思っていたブレイドが終わった日
ツイッター見たら最終回!2人が救われた!って喜んでるツイートめっちゃ見るんだけど、いや確かに救われたのは嬉しいけど、でも、でも…って感じ。始が銀杏並木で剣崎の幻影を見た後の表情、明らかにちゃんと前を向いてるやん。最終回の時点では2人の問題はジョーカーだから会えないってとこだけやと思う(記憶曖昧)し、ドラマCDでもそこは増えなかったと思う(記憶曖昧)
2人の悲しみ付け足しすぎてない…?いや記憶違いだったら恥ずかしいからあんま言及せんとこ
ブレイドという作品と結末が本当に好きだったから受け入れられないのかな
ツイッターでエンディングが4つに増えたって書かれてて救われた。違う世界線で考えればいいのね。私は最終回→ドラマCDの世界が好きだけど、2人が解放される世界もあってもいい。納得。
イエイヌの顛末は悲劇的で、罪悪感を…キュルルちゃんは抱かなかったけど、視聴者は感じることになったと思います。いかがですか。
イエイヌのエピソードは、悲劇として描かれてますが、あれは「別れた大切な人を待ち続ける」ことの悲劇であって、「人間に歪められたイエイヌという生き物」の悲劇については、制作者は描いてないと思うのですね。
そこに自覚的であるならば、同じく人間に歪められた生き物である、イルカ、アシカについても、悲劇性を描くはずですが、そういう描写は特にないので。
リアリティラインについて、個人的にはけもフレ1,2ともに同じ程度のレベルだと感じています。短納期のプレッシャーや3D制作に慣れてなかったなど、脚本・演出の連携不足、未熟としがらみで説明できる範囲ではないでしょうか。
確かに、けもフレ1にも、曖昧なところはありますね、そこは贔屓が入ってたかもしれません。
その上で、ここでのリアリティランは、内面と世界の繋がりに関する部分です。
たとえば、けもフレ1のラストは、大雑把に要約すれば「友情パワーでセルリアンに勝つ」なわけですが、具体的にどう勝つかは、サーバルが、かばんちゃんから学んだ紙飛行機の技を使う、等、現実としての筋、理屈があるわけです。
一方、けもフレ2のラストは、同じく「友情パワー」なんですが、サーバル・カラカルが友情に目覚めると、急に強くなって、苦戦してたセルリアンをあっさり倒したりしています。内面の世界が、そのまま現実に反映している。
フウチョウコンビは、キュルルの深層意識の声を代弁するキャラとして描かれていますが、彼らが、なぜキュルルの行く先々に現れるのか、キュルルに説教するのか、といった部分はなく、ここでも、内面と現実の距離が近くなっています。
内面と現実の距離が近い、という意味で、けもフレ2は、つまり、童話・ファンタジー的な世界観であると考えられます。それをここではリアリティラインが低いと表現しました(用語の使い方がまずかったかもです)。
追記・首肯したと書いておいてツッコミばかりですが💦 アプリ版のコンセプトに戻したのはどのような動機に基づくとお考えですか。現時点で悪意があったと考えてしまっている視聴者は「ワザワザ戻した意図」を邪推してしまうと思うんです。
現場の状況がわからない以上、動機については推測しかできません。悪意がなくても説明はつくというだけで、悪意がないという証明は難しいのです。
まず視点を変えて見ると、アプリ版のキャラを変更したのは、たつき監督達なわけで、たつき監督がいないなら元に戻す、というのは、普通に、そういう判断もあるでしょう。
次に、たつき監督の作劇は、たつき監督の技術によって成り立ってるので、監督が抜けると再現が難しくなる、というのが考えられます。
よく言われる、たつき監督の「優しい世界」ですが、これは脚本技術的に高度なものです。ドラマを作る時に、普通の作劇では対立構造や誤解などを利用します。逆に言うと、たつき的な、悪意がなく素直なキャラだけで、面白いドラマを作るのは、高い作劇技術が必要になります。他にもそういう点はあるでしょう。
1期のシナリオは、たつき監督と、吉崎観音さんが、話し合って作ったものであると考えられます。たつき監督が抜けたことで、たつき監督らしさが抜けたり、再現が難しくなったりして、結果、吉崎観音色が大きく出た=アプリ版に近付いた、という線が考えられます。
けものフレンズ2について1への「悪意」があると良く言われる。あるいは悪意ではなくとも、「1の優しさと相互認証に対して、孤独と自己肯定の物語を描こうとした(筆者要約)」(http://blog.livedoor.jp/fukukan2009/archives/52306934.html)といった意見がある。
確かに、そう受け取れる描写はあるのだが、その多くは、1と2の思想基盤の違いから来てるのではないかと思うのだ。
けもフレ1のジャパリパークは、人間がいなくなって長らく経つ世界で、動物たちが気ままに暮らしている世界である。「ヒト」というのもフレンズの一種であり、対等の存在として描かれる。
一方の、けもフレ2では、人間と動物の違い、人間が動物の上に立つモチーフが強調される。拍手とご褒美を要求するイルカしかり、イエイヌしかり。ここに居心地の悪さを感じるのは当たり前の話であり、「悪意」を見いだす人も多い。
これはしかし、けもフレ2が、けもフレ1を否定しているというよりかは、アプリ版等の大本のコンセプトに近い。今からなら漫画版が一番手に入りやすいだろうか。そのコンセプトは、昔風の「動物園」であり「飼育員と動物」「飼い主とペット」の友情物語である。飼い主とペットに上下関係はあるが、お互いそれに満足しており、飼い主は責任持って、ペットの世話を世話をし、ペットは飼い主を喜ばせ、芸をする。それはそれで、一つの関係だろう。
なぜ、それが、けもフレ1で変わったか。理由はいくつか考えられる。
大きな理由は、舞台が「人間がいなくなってる世界」だからだろう。人間の世話に答えて動物が人間を好きなのは良いとして、人間がいなくなってる世界で、それでも一方的に人間を崇める動物というのは、まぁ、あまり気分のいいものではない。
もう一つ。現代的な動物園は、見世物的な展示、ショーは避け、動物になるべく野生に近い生活をさせ、ありのままの生態を見せる方向へ進んでいる。フィクション上の動物園がどういうものであっても良いと思うが、現実の動物園とコラボ、協力する作品において、旧時代的な動物園を肯定したくない、というのもあっただろう。
けもフレ1は、サファリパークだったり、行動展示だったりする現代風の動物園、アプリ版、けもフレ2は、旧来の見世物的な展示をする動物園と言った具合だろう(参考:http://kemono-friendsch.com/archives/77528)。
けもフレ2は、おそらくは、アプリ版の「飼育員と動物」関係に基づいて話を作ろうとしたのだと思う。が、けもフレ1の続編という形も取ったため、前述の矛盾点が噴き出してしまっている。アプリ版の路線を復活させるならさせるで、どうすれば良いかを練るべきであった(それが許されない環境は多々ある)。
「人間がいないのに、人間を崇める動物」は、気持ち悪い。そこを敢えて描くなら、その悲劇性や罪悪感も描くべきだが、特にそれはない。多分これは「悪意」ではなく、「深く考えていなかった」ことだろう。
同様に「人間と対等な知的生物」としてのフレンズを描いた続編で、「人間に芸を披露して喜ぶフレンズ」を出すのは、えぐい。これも「悪意」ではなく以下略。
気持ちよいお話のセオリーの一つとして、内面世界と外部のシンクロというものがある。
主人公が悩んで心が暗い時は、夜だったり、雨が降ったりして、世界も暗くなる。
主人公が悩みを克服すると、夜が明けたり、空が晴れたりして、バトルで勝利したりする。
リアリティラインが低い作品の場合、深い理由がなく、そのまま内面が世界に反映する。
魔王が復活する時は、黒雲が渦巻いて雷が鳴ったりする。悩みを克服した主人公は、勢いで超パワーアップしたりする。
現実レベルが高い作品の場合、そうはいかないので、偶然で説明できる範囲のささやかなことであったり、なんらかの理由、必然性があったりする。
主人公が悩んでる時に、雨が降ってるのは、「たまたま」「偶然」の範囲であり、悩みが吹っ切れて、主人公がバトルで勝つ時は、「悩みのせいで今まで気づかなかったけど、あいつにはこんな弱点が」という閃きがあったりする。
けもフレ2では、カタカケフウチョウ、カンザシフウチョウが、内面の声を代弁しまくる。キュルルの「思い入れ」が、絵を通したり、通さなかったりして、直接、セルリアンに反映するらしい。これらの深い理由、解説等はない。
ホテルでは絶滅動物のリョコウバトのぬいぐるみが売り切れてたりする。「たまたまリョコウバトだけ売り切れだった」なら「作中現実としては偶然」で済むが、「レッサーパンダとオオアルマジロとリョコウバトが少なく、ハブはいっぱいある」までやると偶然では説明できなくなる。が、これも理由は特に語られない。
ここからわかるのは、けもフレ2は、リアリティラインが低めの、「ふわっとしたファンタジー・童話的な世界」であるということだ。
一方、けもフレ1は、作品内論理の整合性は、SF的に取っている部分が大きかった。ラッキービーストが人の声にだけ反応する、ジャパリカフェに、太陽電池がある等、SF的なガジェットがあり、崩壊世界の日常がどう維持されてるかが目配りされている。もちろん、作中で全部の設定を説明するわけにはいかないにせよ、目につく範囲での、あからさまな矛盾は減らし、それによって、「かばんちゃんの正体」と言った謎に緊張感が残った。
けもフレ2単体で見た場合、リアリティライン低めの作品だと受け止められるのだが、リアリティラインが高めの1を見たあとに2を見ると、アラや問題が多く見えてくる。
ただ、けもフレ2は、全体的に伏線の回収がうまくいってないので、意図的にリアリティラインを低めに保とうとしたというよりは、設定について深く考えてなかったり、伏線を消化しきれなかったりして、そうなってしまってると考えられる。ここもまた「悪意」ではなく以下略。
イエイヌの報われなさっぷり、ビーストがホテルの下敷きになったことを誰も気にしてない等は、悪意として描くなら、もっと強調のさせ方、後への繋げ方があるはずなわけで、ストーリーとして処理しきれなかったと考えたほうがよさそうだ。
・かばんさんに何があったかはわからない、偉い人が作るだろうと
・かばんさんの経緯は知らないが、再会の喜びを描いた
サーバルがなぜ、記憶をなくしたっぽいのかも、かばんさんとの間に何があったのかも、監督自体知らされてないのなら、「それっぽい」シーンでお茶を濁すくらいしかできないだろう。
もちろん設定がないだけなら、他にやりようがあったかもだが、こういう状況だと設定がないまま、あーしろこーしろと言われた可能性が強い。ご愁傷様である。
自分が見た範囲では「けもフレ2」に見いだされる悪意は、1,2のコンセプトの差(およびそれに対する無策)、脚本・演出技術の未熟、現場のしがらみ、などで説明がつくものであった。
出来はいいんじゃない?知らんけど。
出来は悪い。
そこはたつき信者気持ち悪いと思っている人も含めて合意に達している。
ちなみに元増田がかっこいいと思ったアムールトラは対話ができない凶暴な存在として登場し、
が、制作陣の淡い願望だろう。
ホテルの崩壊(2期の商業的な失敗)程度で死に(消え)やしないかと。
もしくは、
2期を擁護しようと振る舞い、誹謗中傷され心が折れた通期ファン
うみのごきげん
ミライ … ヒト
キュルル … 素のヒト(過去のヒト)?
欲望によって消費する者達が居なければ2期も無かった
作られた作品群
セルリアン
ヒトの思いに反応して姿形を得るもの。
それは常に強く出口を探し求めているが故に、
受け取られるように…。
ビーストとセルリアンの違いは、純粋なファンを経るかどうかか。
海底火山
1期とは別の財源?
もし仮に、
10話制作中時点くらいまでに止んでいたのなら、12話の展開は、
ビーストとセルリアンとの化学反応によって黒オーラが消え(ここまでは描写がある)、
アムールトラはガレキの向こうに消えるのではなく、こちら側に残る…
という展開も予定していたのかもしれない。
最終話のエンディングに1期のオープニングを準備していたこと。
キュルルの願い通りアムールトラをも、ともだちとして対立は溶け、
その歌詞通りに「♪のけものはいない」と歌い上げたかった故だろう。
その現状を前に安易なハッピーエンド描く事ははあまりにも空々しく、
現実をそのまま反映するかのように、アムールトラはガレキの向こうに
そのまま残さざるを得ないと判断したのではなかろうか。
敗北を、厳しい現実を素直に認め、残酷なこの世界の姿をありのままに、
その通りに提示された訳だ。まさに鏡として。
(ヒトの造りしモノ)
人の作った道具=無機物+人の思い(弱い)
書かれた絵 =無機物+人の思い(強い)
ケムリクサでは悔しい思いをした。最終話の内容を推理することは十分可能だったはずだ。種が赤霧で成長しない。にもかかわらず離脱したあとニョキニョキ生えてくるミドリの木、「たぶん発芽まではうまくいく」。そして記憶の草にはロックが掛かっていた。このあたりを重く捉えていれば、メモを書き換えた「存在しない7人目の姉」を探して時間を浪費することもなかった(むしろ6人である証拠がたくさん集まってしまった)。2つの謎は有機的に絡み合い、シンプルだが残酷な起点に至るのだが、答えを観て「なるほど!」と思ったときに初めて、伏線が浮かび上がった。すべては目に留まっていたはずだったのにも関わらず、気が付かない。パズルのピースはすべて事前に提示されていた。アニメは小説ではないから、そういうもんかと軽く流しても気持ちよく観続けられるのが気楽だけれど、しかしそういう態度でいて失うものもある。りな達がブワッと消えて一人に戻るのはコミカルでまるで手品みたいだが、ここを見落とすと桃ちゃんを手放して覚醒する「りなむ」の含意をスルーしてしまう。ありとあらゆる表現に意味がありえるのだ。この意識でもって視聴しなければならなかった。
けものフレンズ2の最終話が目前だ。同じじゃないかでは済まない。次は全力で当てに行くぞ。
今期の監督はミスリードを狙ってくるということに気をつけなければならない。俺は伏線の管理はしっかりされていると判断している。前期の細かいところまでフォローされてる。かばんちゃんが「おうち」を知ってたのはスナネコが意味を教えたからだし、サーバルに与えた砂時計は図書館にあったものだろう。アライさんが命の恩人といったのは、掛けた橋で救われた経験を受けてのこと。今期はさらに異なるフレーバーが加わる。襲ってきたセルリアンをいきなり現れて一蹴して去っていった謎のフレンズはヒーローは味方でなく実は「ビースト」。誰彼構わず襲いかかり、フレンズに怖れられる強力なバーサーカーだった。アリツカゲラが再登場したと思ったら、サーバルとも初対面の反応でかばんちゃんとも面識が薄い、すなわち別個体だった。かばんちゃんから手渡された四角い筐体のラッキービーストは、「三人での旅、楽しかったよ」とつぶやいた後沈んでいった”あの”ラッキーさんか? そうかもしれないが、ひとつの端末に過ぎないって線が濃厚だ。居なくなったヒトを想いだして月を見上げるイエイヌのフレンズ… ならば人類は月に消えたのか? なんのことはない、ただの人工衛星だった。未発掘の伏線の絡み合いの中に、ミスリードが混ぜられている。注意して潜るとしよう。
今期最大の謎は「キュルルちゃんは何者か、どこから来たのか、どこへ行くのか」ということだ。ここに焦点を絞って推理する。
キュルルちゃん一行の旅路は「復路」だろうか。パークの廃墟の施設の中で目覚めたこども、キュルルちゃんは、カラカル・サーバルを連れて施設に戻る。「ボクは長い間ここで眠っていたみたいなんだ」。温かい「おうち」を思い浮かべ、「帰りたい」という。キュルルちゃんは自分が眠っていた岩の殻のようなものの中にあった自分の持ち物のスケッチブックを開く。最初の一ページ目には施設の前の池の様子が描かれていたーーただし、池のモニュメントは健在で周りには風景にない建物が建てられている。「ボクは獣じゃないよ、たぶん」というキュルルちゃんに対して、カラカルは「この子もヒトなんじゃない?」と言い切る。3人はモノレールの駅にたどり着く。キュルルちゃんは言う「ここ来たことあるような気がする、あの乗り物、多分ボクもあれに乗ってきたんだと思う」。ここまでの描写で、キュルルちゃんはパークに来た観光客で、何らかの理由で施設でコールドスリープし、いま目覚めた。そう読み取っていたが、よくよく考えると違和感がある。最初の1ページが池だったのはよく考えるとおかしい。
まっさらなスケッチブックを思い浮かべてみて。そこに旅の風景を絵に次々に描いていく。だけど突然に旅は中断してしまう。さてこのとき、最後に描いた絵はスケッチブックのどの位置にあるだろう? キュルルちゃんのスケッチブックには以前に描いてきたと示唆されるたくさんの絵があった(一連の絵の最後のページは破られていて、その先は白紙が続いている)。もしパーク内の施設に至る往路の過程で絵を描き連ねて来たというのなら、最後の絵の先は白紙のページが続くはずだ。最初のページにはならない。スケッチブックの表紙は裏表とも同じようなデザインだが、キュルルちゃんはページの片面にだけ絵を描いていたので逆さにめくっているという可能性はない。これにより、キュルルちゃん一行の今回の旅路は、実は、おうちに向かう復路ではなく、二度目の往路であるという推測が成り立つ。
最初の往路をなぞるように、旅をする。ケンキュウセンター(廃墟の施設をそう呼ぼう。モノレールの次の駅は「アズアエン」だが、列車の行き先表示が切り替わるときに表れた直前の駅の表示が「ケンキュウセンター」だった)を出て池を描き、花畑に囲まれた風車を描き、竹林の中で公園の施設を、海に浮かぶ観光施設、闇夜に輝く蟻塚、ジャングルの奥で玉座に座るゴリラのフレンズ、荒野をかけるなんだかよくわからない影、ステージでショーをする5人のアイドルたち。最後に、観覧車のある遊園地の風景。絵に描かれた風景を順に追う道のりで、キュルルちゃん一行は最後にジャパリホテルにたどりついた。ホテルの窓からは今は水没した観覧車が見えていた。ホテルの支配人によると、”うみのごきげん”が悪くなったときに、遊園地は水没してしまったらしい。ホテルも半分は水浸しである(ところでホテルの最上階にはヘリポートがある)。
つまりこういうことではないか。観光客だった女の子はケンキュウセンターの池を描くために新しいスケッチブックを開き、モノレールに乗ってパークを旅した。しかしセルリアンが止められなくなる流れで、観光客はまず退避しなくてはならなくなり、ホテルでヘリに乗り込む。セルリアンは宙に浮くものがいる。離陸時に襲われてヘリの飛行能力に障害が出て、荷を軽くするために物を捨てなければならなくなった、女の子はスケッチブックから最後に描いた家族の絵だけをちぎり、バッグもろとも泣く泣く海へ投げ捨てた。時がたって、防水のスケッチブック(今期の11話より。スケッチブックは海に落ちても平気だった)は海流に乗って海底火山へたどり着く。海底火山からは大量のセルリウムとサンドスターが流出している。サンドスターに包まれたスケッチブックは溶岩に飲み込まれ、そこで海底火山が大噴火する。噴石となった岩は遠くサバンナちほーのケンキュウセンターに落下し、廃墟となりかけていた施設にとどめを刺す。
この仮説を裏付ける証拠がある。一話のケンキュウセンターの描写でキュルルちゃんの居た岩の卵のようなものの周りには同じように前面が破壊された同じ大きさの卵のような物が並べてあった。これらをコールドスリープ装置と捉えてしまっていたが、これがミスリード。並べてある方はよくよく見ると表面がツルツルで、サンバイザーのような覆いがあり、中には椅子が備え付けてあった。いわゆるゴンドラのような見た目だ。キュルルちゃんの岩はそれと異なり、表面がゴツゴツしていて、中はサンドスターと思しきキューブで満たされていて、そして床が砕けている。ゴンドラの方は台座に載っている。この二種類はじつは違うものなのだ。暗い施設のなかで岩の卵は陽の光で照らされていた。つまり、天井は空いている。ケンキュウセンターは遊具の研究施設だった。コールドスリープではなく。噴石としてケンキュウセンターに落下した岩の卵は殻が崩れ落ちる時を待つ… なかでフレンズ化→飢えて死亡→フレンズ化→飢えて死亡… を繰り返しながら。まあそれは残酷だが、あるいはサンドスターは空気に触れて初めて機能する、のようなことがあるかもしれない。
以上が仮説「スケッチブックちゃん説」である。研究施設やスケッチブックのめくり方などを伏線としての帰結としてフィットしていて、破られた最後のページに説明がつけられた。キュルルちゃんは絵をフレンズに渡すとき、丁寧にページを切り取る。最後のページが破られていたのは火急の状況下で焦っていたからです。皆さん納得できましたか? ボクはできません。なぜなら「ペパプが5人いる」から。
一連の絵の中でライブステージで描かれたものを思い出してほしい。そこにはステージで歌う五人のペンギンアイドル、ペパプが描かれていた。しかし前期のペパプ復活祭ライブの話によると、初代ペパプは4人、二代目は3人、三代目が5人になった。三代目を結成したフレンズ、プリンセスは以前に居なかった五人目であることを気にしていたんだった。だからパークに来ていた観光客がペパプを見ていたとして、その人数が5人なのはおかしい。かつて観光客で賑わったジャパリパークは廃園し、パークガイドのミライさんも職員を引き連れパークを去った。時が流れ、彼女が遺した帽子にサンドスターが降り注ぎ、かばんちゃんが生まれた。そんな時代になって初めてペパプは5人になった。実はペパプはコピーバンドだという可能性はありうる。開演時代にはオリジナルたる5人のペンギンアイドルがいて、閉園後に彼女らをパクってペパプが結成された、でもコピーバンドを人数減らしてやる意味があるだろうか? あるいは初代ペパプは5人だったということもありうる。プリンセスがパークの異変の中で夭逝し、だがその後の4人で長い期間頑張っていたので後世の記録には4人として残った。期せずしてプリンセスが救われる結果になりましたね。でもこの仮説、理屈は通るが、当たっていたとしても些末すぎて、説明されないだろうことが予想される。
時代に幅のある絵の内容。これを説明するうまい理屈はないだろうか。キュルルちゃんは過去の世界から来たのではないか。前期でミライさんが説明した、山頂のサンドスターロウ・フィルタリング装置の「四神」は説明の感じからすると、パーク職員が作ったものではないらしい。四神を作った古代人がそのサンドスター制御技術を応用してタイムトリップ装置を作った。これがケンキュウセンターの岩塊である。キュルルちゃんはそれに乗って過去からやって来た。しかし… なんのために? かばんちゃん一行は四神の位置を直すことでフィルタの機能を正常化した。だが海底火山から漏出するセルリウムを制御する装置は、おそらくあったのだろうが機能をなくしてしまっている。もし四神的装置の修理のために過去からキュルルちゃんを派遣したとすると、かばんちゃんの奮闘のときに何もしなかったのはおかしいし、未来を幻視できるレベルの古代文明が、将来の位置のズレを考慮して装置を保全するつもりなら、修理要員を派遣する前にまず固定装置を充実させるべきだろう。というかキュルルちゃんはエンジニアには見えない。年齢が低いし、そも記憶を失ってしまっているではないか。ならばキュルルちゃんは未来から来た。しかし… なんのために? 考古学者にも見えないので、パンフなどの資料を読んで好奇心をそそられたキュルルちゃんがタイムトリップしてきた線は考えられるが、タイムマシンのセキュリティが気になる。強固に利用者が制限されているなら、キュルルちゃんはどうやってセキュリティを突破したのかということが引っかかるし、逆にガードがゆるいなら、なぜ一人しか来ないのかが疑問になる。並行世界から来た可能性はどうだ。しかし… なんのために? 絵に描かれていたペパプは楽しそうで、パークの様子には廃墟感はまったくない。なぜわざわざ廃墟の方の世界線に移動してくるのだ? 納得行く説明はつけられそうにない。
うまくいかないが、一連の絵は風景を実際に目で見たものではない、というアイデアはまだ活かせると思う。ジャパリパークの世界に、エリアを超えて通信する無線技術はなかった。そういうものがもしあったなら、かばんちゃんがキョウシュウエリアを出立するときに、ボスが先の情報を教えてくれただろう。イエイヌが見上げた月を背後に人工衛星が浮かんでいた。この衛星は最近に打ち上げられたものだとしたらどうだろう。これを使って、ある職員がパーク内のラッキービーストネットワークに侵入し、パーク内の写真を入手した。父のディスプレイの映る写真を見て、幼い娘はスケッチブックに絵を描いた。写真に今昔が入り混じっているのはそのためである。この想像は面白いが、写真があの道のり上に並んでいたことが解せない。ネットワークから引き上げたパークの風景写真を見ていたなら、それは時系列に並ぶか、ランダムになっているかするのではないか。なんでケンキュウセンターを起点とした特定のルートにそった並びになる? だめだ。わからない。
しかしわかることもある。けものフレンズ2はイエイヌの物語でもあった。探偵の二人、センちゃんとアルマーさんはイエイヌの命を受けてヒトを捜索していた。捜査が強引なところもあってイエイヌは悪の黒幕のように描写をされたことがあった。キュルルちゃんとイエイヌちゃんのストーリーラインは二人が邂逅することで交わり、しかし結局二人は別れてしまう。別れは両者の納得したものではあったがすれ違い感は強かった。これが「おうちにおかえり」回である。最終話のタイトルは「ただいま」だ。イエイヌはキュルルちゃんの元へ向かうかばんちゃん一行に加わってはいないが、ポッと出のゲストフレンズではない。
イエイヌはキュルルちゃんを見送ったあと、夜空を見上げ、ひとりドアを開けて自室に戻った。ドアには耳を模した飾りがついており、まごうことなきイエイヌのための部屋であることが明示される。このシーンは驚いた。これは一体全体、どういうわけだよ? 「イエイヌの自室にドアノブがある」だと?
(続く)→ anond:20190318002745
1、2、4つ目はここ好きじゃなくてただの批判批判あるいは批評だからなあと思ったけど、忠犬イエイヌ(まわりの人はおいといて)の話が好きってのは普通にありなのかなと思った。
カルガモが好き→わかる
イルカとアシカがケンゼンエロい→わかるけどあいつらあざとさも合わせて質悪くない?11話で助けてくれたけど。
ペパプライブがよい→不満点もあるがまあわかる
一撃でやられるセルリアンが好き→初めて気付かされた。けものフレンズ2の典型的な雑さの一例なんだけど、雑にやられるの確かにかわいいかも。
リョコウバトとキュルルは同族(家族)がいなくて(かばんさんはノーカン?)寂しいもの仲間って視点もなるほどと思った。キュルルが旅を続けるならリョコウバトさん仲間にしてもいいんじゃないかと思ったけど、雑な脚本だからイエイヌ同様置いてっちゃうんだろうな。
一期は1話しか見てない状態でけもフレ2の1話、10話、11話を見た。色々と考えた結果、感謝したくなって忘備録も兼ねてこれを書くことにした。
ゴマちゃんやイエイヌなどネットでは脚本の被害者を救おうとする風潮がある。二期主人公すらリデザインののち、ともえちゃんという新しいキャラクターが誕生している始末だ。個人的には二期主人公よりともえちゃんのキャラデザの方が好きだ。
アニメ版と比べると、漫画版の二期主人公はあまり嫌われていない印象がある。二期が無くともアプリ版で存在していたカラカルを始めとする二期新キャラクターとは違って、アニメが初出でファーストインプレッションに失敗した二期主人公もある種脚本の被害者と言えるのだろう。
10話、11話通して見た感想として、脚本・構成が12話終了アニメにしてはひどいと思った。二期主人公は自分のおうちを探して、サーバルとカラカルに手伝ってもらうと1話を見て解釈した。けれど11話になっておうちは本当にあるのかという話を持ち出され、スケッチブックの中に本当に二期主人公のおうちの絵があるのかもわからない状態じゃないのかと思ってしまう。内容としては悪くないと思うが、残り1話でやる内容だろうか。11話ではスケッチブックは取り戻しても、二期主人公の描いた全フレンズの絵という敵たるセルリアンに渡ってはならないものの回収はできずに談笑するところで終わる。その間二期主人公は所在のわからないフレンズを探し続ける。おそらくライブを最終回にやる以上、もう少しやるべき内容はあったのではないだろうか。
また、フレンズとして登場したキャラクターがそのキャラクターである必要性がわからないところが一つあった。10話、11話冒頭のフウチョウコンビだ。11話では二期主人公に、「人間によって迷惑したもの(動物)もいるかもしれない」などと夢の中で揺さぶりをかけて退場する。10話でも暗い森の中で登場するなど物語として割と重要なポジションにいることは明確である。しかし、それがカタカケフウチョウとカンザシフウチョウでなければならない必要はないのではないかと思ってしまう。極楽鳥の由来は視聴後調べて、運搬のために足を取られた標本を見た人間によって天国にいるから足が必要ないと解釈されたことから天国の鳥と名付けられたと出てきた。精度の甘いネット検索ということもあり、フウチョウ全般を極楽鳥と指すと理解したが、フウチョウの中でカタカケ・カンザシが選ばれた理由としては11話の黒さ自慢を入れても甘い気がしてしまう。10話、11話にリョコウバトが出てきていることで、人類の犯した罪としてはリョコウバトの方に重さを感じてしまったのだ。コンテンツの看板たるサーバルはともかく、フウチョウコンビは入れたいからと我を通すべきポジションだろうか。元ネタのあるキャラクターが多くいる中でフウチョウコンビにするだけの理由は説明付けられるのか。
さてけもフレ2になぜ感謝したいのかとしては、シナリオの重要性を改めて考えることができたからである。出会った作品に対し自分だったらどんな表現をするかを考えたりする中でけもフレ2を視聴した。キャラデザ・声優が悪くない中でなぜここまで酷評されるのか。様々な解説動画を見ていくうちに、シナリオに対する表現や引き算の重要性に辿りついた。例えば11話では急な方向転換で車からフレンズが落ち、走って追いかけるそのフレンズを別のフレンズが手を差し伸べて助けるというシーンがある。ワンシーンとして入れてもいいかもしれないが、重要度は全く高くない。色んな書きたいものを詰め込んで構成不足等で終わるより、こうした必要性・重要性の低いシーンは創作上削るべきなのだと思い知らされた。一期の構成のどこがすごかったのかや二期はなぜ受けないのかの解説動画など創作をしようと考える上で非常に役に立っている。ありがとうけものフレンズ2。おかげで面白いものに少しでも近づける気がする。
無駄に長くなってしまったが、創作をする上で教材として良質なアニメでした。けものフレンズ2ありがとう。それだけです。
あと最終回の内容次第ではけものフレンズ2だけの謎を全て明かされる可能性があるから世間の評価が変わるかもしれない。二期主人公の正体や1話で眠っていたポッドの謎、フレンズ型セルリアンの強さなど2が終了し、二期主人公が主役でいるうちに解決しなければならないものはできれば知りたいし、単純にサーバルとカラカルは他のフレンズに比べてどのくらいの強さだとかそういうのを約23分からop・ed、ライブシーンを除いた時間でやってくれたら素直にすごいと思う。評価が駄作から現場が無茶振りをされた超低年齢向けアニメになれるかもしれない。そうなってもやっぱりけもフレ2は良い教材にできるから、やっぱり感謝することになるだろうな。キャラ萌え以外に面白いところを見つけられない自分を反省するかもしれないと思うから、全ての評定が下される最終回が待ち遠しいです。
題名の通りなんだけどさ。
ボーナスは年40万くらいかな。毎年変動が激しいけど平均するとそのくらい。
昇給はほぼない。
今は3人だから15000円もらってる。
それ以外の昇給は皆無。
今後も期待できない。
嫁はパートで月6万くらい。
子供は3人。
貯金はほぼ無い。
とは言っても、通帳には40万くらい入ってる。
趣味って訳ではなく金のため。
けど最近は電気系統がおかしくなってきて、ライトが急に消えたり、セルが回らないことがあったり、手に負えなくなってきた。
もちろん買い替える余力はない。
賃貸は市営で月3万円。
もちろんユーザー車検。
食材は業務用スーパーみたいな所で格安なのを買う。鶏肉100gで48円とか。
生命保険は入ってない。
旅行は年2回。
airbで泊ってる。子供料金なしが多くてホテルより割安。1泊1万円くらいで泊れる。
大きな公園で虫取りしたり、潮だまりで魚取ったり。遊園地とかは無理です。
友達は少なめ。
連絡を取り合うのは10人ほど。
広く浅くではなく、狭く深く。
もちろん友達にそんな期待はしてないけど、友人関係が財産って話もあるから一応書いた。
実家はある。
仕事も選ばなければあると思う。
でもさ…
これって詰んでない?って話。
まだ子供が小さいから何とかなってるけど、高校や大学とか無理じゃね?
高校の定期代とかどうやって出すん?
自転車置き場に不良のたまり場になっていたり、性犯罪者、薬中、アル中の方も。夜は雄たけびがよく聞こえてくる。
できれば今すぐにでも出たい。
このまま市営でも生活が厳しいのに、一般の賃貸なんて無理だよ。
老後の貯えなんて全くできないと思う。
前から分かってはいたんだけど「まあ何とかなるじゃない?」と思ってた訳。
周りがみんな同じ感じだから。
でも無理。どうにもならんよな。
皆はどんな感じなの?
イエイヌはキュルルちゃんとのやり取りの中で、このおうちには「ずっと昔」何人ものヒトが居た、彼らと一緒遊んでいたと言っていた。ある日居なくなった彼らを待ってずっとお留守番していたんだと。かつての経験をなぞるように、フライングディスクを投げるさまを指示したり、紅茶をよく飲んでいた、とも言ったりした。俺は今期9話を観たとき、なるほど、イエイヌは飼い犬だったんだな、と読み取った。博士曰く、サンドスターを奪われてフレンズ化が解かれたら、再びフレンズ化しても、前にフレンズだった時の記憶は戻らない(といっても少々の例外はある。ミライさんとともにいる先代サーバルの声を聞いて涙したり、ともに旅したかばんちゃんの後ろ姿を思い出したり)。しかし、フレンズ化したときに、どうぶつ時代の記憶がどうなるのかは明言されていない。飼い犬が飼い主が去ったあとにフレンズ化して、むかしを回想しているのだと、勝手にそう考えていた。だがこれはミスリードだった! 飼い犬だったならあるべきは犬小屋で、人間の手の位置にドアノブがある部屋が自室のはずがない。そのようなドアはヒトか… フレンズのためのドアだ。だから結論は明白だ。イエイヌのフレンズはヒトと共に暮らしていた。「ずっと昔」と言ったが、カラカルもサーバルがかばんちゃんと旅していた時期を「むかし」と表現している。フレンズの言う「むかし」はせいぜい10年・20年というオーダーではないか。この伏線はパークに割と最近までヒトがいたことを意味している。
三代目ペパプ結成の後にヒトがパークに来ていたとすると、どうなる? イエイヌはかばんちゃんを知っていたが、ヒトと再び会ったのはキュルルちゃんが初めてだったようだ。キュルルちゃんがパークに現れたときイエイヌはただちに探偵を派遣した。ペパプ復活後にヒトがパークに来ていたとすると、彼女をイエイヌが捕捉しなかった理由はなんだ? そのときにはイエイヌの村にはまだヒトが居たのだ。満足していたなら更に求める理由はない。つまり三代目ペパプ結成 → パークへのヒトの来訪 → イエイヌの村からヒトが消える → 十数年経過? → 今、という順になる。しかしペパプ結成後に村からヒトが居なくなったとするのは無理がある。当時パークではかばんちゃん率いるセルリアンハンターが巨大セルリアンを退治するという事件があって、そのときに四神のサンドフィルター装置を修理したのだった。それでセルリアンの騒動は一旦は収束したはずである。ふたたび大型セルリアンが出るようになったのはかばんちゃんが助手の博士らと共に研究するようになった、最近のはずだ。イエイヌは飼い犬ではない。考えてみてほしい。一緒に暮らしていたヒト同様の知性を持つ家族であるべきフレンズを放置して、当の飼い主だけが逃げなければならないのはどれほど切羽詰まった状況だろう。セルリアン強襲以外に考えられるのはもうひとつ、”うみのごきげん”の悪化、すなわち海底火山の噴火だ。遊園地が水没するほどの大災害、逃げられる人数が限られてる、だから家族であるフレンズを置いていかざるを得ない。その判断は… かなりキツイが、ありえないとは言い切れない。しかし安心してほしい。この結論もおかしいからだ。リョコウバトは以前にもジャパリホテルに来たことがあると言っていた。パーク中あらゆるところを旅するリョコウバト。前回の来訪が最近であるはずがない。リョコウバトは言っていた。「これほど変わったホテルは他にない」。ジャパリホテルの変わっているところはもちろん、支配人のオオミミギツネが売りにしているように、水没した風景が美しいというところだ。すなわちリョコウバトが前回ジャパリホテルを訪れたときにはすでにホテルは水没していた。海底火山の大噴火は最近ではない。飼い主だったヒトが消える理由はなくなった。すなわち前提が間違っているということだ。ヒトはパークに来ていないのだ。
…しかしここで推理は頓挫してしまっていた。時系列がバラバラだがルート上に並んだ絵(写真?)。しかしヒトはパークに来ていない… これら矛盾して見える伏線を結びつけるラストはどのようなものなのか… 本当に可能なのか? わからない。だが信じろ、木村監督を信じろ。
そうやってウンウンうなりながら過ごしていた休日だった。前置きが長くなったが、俺が支持する仮説はこれである。「ラッキービーストのフレンズ説」。
キュルルちゃんはヒト、これが最初から仕組まれた罠だ。キュルルちゃんはガイドするラッキービーストに、ヒトとして認識されている。だがラッキーさん達は何を基準にヒトを判定するのか。前期でかばんちゃんも初見からヒト扱いだった。かばんちゃんとキュルルちゃんの見た目上の共通点はなにか。帽子である。羽をつけた帽子を画像認識して、ラッキービーストはパークの客だと判断するのではないか。赤と青の羽をつけたかばんちゃんを暫定パークガイドとして認定したシーンを思い出してほしい。イエイヌはヒトを求めたが、アルマーさんによるとかばんちゃんでは駄目だと言っていたらしい。かばんちゃんはフレンズを命令対象ではなく対等の存在として扱うからだ、というのは聞こえの良い理屈だが、しかし現状の助手の博士と助手の博士の助手の扱いはほぼほぼ従僕である。ジャパリパークは実際には厳しい世界だった。パークの掟の元で自律するフレンズ達は親切ではあるがエゴイスティックに振る舞うことがある。危険なビーストもいる。フレンズたちと渡り合い、パークの長を従わせるためにはある程度強い態度をとっていく必要があったのだろう。イエイヌとかばんちゃんの相性は良いように思われる。なぜかばんちゃんでは満足できないのか。かばんちゃんは自分が「ヒト」そのものではなく「ヒトのフレンズ」だと公言していると思う。だがキュルルちゃんの情報はイエイヌの耳にどのように届いたのかを考えていて気がついた。キュルルちゃん本人は自分がヒトだとは実は一度も宣言してない。最初にそういったのはカラカルだった、カラカルは推測でそう言った。ロバはそれを聞いていた。カルガモも。うわさはパークに広がりやがてイエイヌの耳に届いただろう。パークにヒトが現れた、と。
キュルルちゃんは「おうちを探すためでなく、フレンズが好きだから絵を描いている」と言ったが、スケッチブックに元から描かれていた絵には、しかし奇妙にフレンズの姿がない。キュルルちゃん本人は楽しそうにしているフレンズを描くのが画風である。ジャングルの絵の中のゴリラは背中を向けてさえいる。画風の違いは何が原因か。ラッキービーストは有事でない限りフレンズと積極的にはかかわらない。ヒトをガイドする仕事や配給、各種設備の保守管理以外には。「生態系の維持が原則だからね」は前期最終話のラッキーさんのセリフである。最初の旅路での荒野の絵はなんだかわからない残像だった。残像でぶれて映るのはシャッター速度の遅いカメラの特徴である。ラッキービーストは高速で接近するフレンズを察知するセンサー、レーダーのようなものを備えている。メインカメラの性能に頼る必要はない。
あるラッキービーストは持ち場を離れ、ふたたび旅を始めた。かつての任地、ジャパリホテルへ向かって。風車の写真を撮った、竹林で公園の写真を撮った、ジャングルでゴリラの写真を撮った。シッポを振って歩いていくゆっくりとした旅の間に、いろいろなことが起こった。過剰に放出されたサンドスターの影響で気候が変わり、パークの荒廃が進み、海底火山が噴火しホテルが沈む。ペパプが再起し、かばんちゃん達が旅に出る… ようやく桟橋にたどり着くも、ホテルは海水の向こうだ。ラッキービーストは足を滑らせ、海に投げ出される。やがて海底火山に至り… サンドスターの温かい光に包まれる。ラッキービーストの旅の写真はランダムに吸い上げられて、スケッチブックとして顕現した。
以下の記事を受けて。
「けものフレンズ2」9話は過去最高に”優しすぎる世界”だった。 - けものつれづれ
https://ironyart.hatenablog.com/entry/2019/03/14/090915
3%のフレンズが愉快犯ではなく実在していたことに驚きつつ、その感想視点がイエイヌの扱いという一面からでしかなかったので、より多方面にわたる、わたしの9話に対するツッコミを書き記したいと思います。
いつ壊れたの?何が起きたの?ピエール瀧がやってきて壊してくれたの?2話でも同じ過ちを犯してたよね?
最初からそうしろよwww・・・という当然のツッコミに、どうあらがおうというのか。
「キュルルー!」とか言ってる時点で見えてるだろ。遠目に発見しろよ。足元だったらせめて「あっ!」って言ってから見つけろ。
もうちょっと遅さを強調するカメラアングルと「間」を入れてから言わせたほうがおもしろかったのでは。
なんで「イエイヌ」って直接言わないのか、恐そうに紹介しちゃうのか、さらにはこれまで暴力的な手段も辞さなかったのか。せめて「視聴者のドキドキを高めるため」以外の、あとですっきり納得できる理由を用意しておくのが脚本の仕事では?
ご主人様をけなげに待つイエイヌとしては、強そうなオッドな黒縁おめめは合わないのでは?このデザインのイエイヌがアプリ時代からいたのだとしたら、この外観のキャラにこのエピソードがそぐわないのでは?
唐突やろ・・・。手に取ってすぐ退場しちゃうから余計視聴者が置いてけぼりになる。せめてその場ですぐ開けて食べてくれ。
天真爛漫なサーバルちゃんの割に、わかりやすいきっかけや手がかりもなしに、深い推測が走りすぎてない・・・?
電池アイコンにバッテンとかならまだ「お子様」視聴者にもわかりやすかったのでは・・・?お子様を無視するにしても、オトナ目線からもそもそもユニバーサルデザインにしとけよと思う。
遅い。でも食べるシーンがあって本当によかった。唐突なものを登場させたら、すぐ説明!
センちゃんたちは、なんで意味もなく敵対的なんですかね・・・?自分たちにも依頼主にも悪気はないのに、敵対する意味なくない・・・?
かわいい(´ω`)
「口にくわえて持ってくるのは不自然だから・・・かな・・・違和感あるけど・・・まあしょうがないのかな・・・」と、いうような妥協感を読者に与えないような工夫はできなかったのかな?
個人的には「カラカルは小学生の道徳教材に出てくるような(後に改心する)子なんだ」と理解したけど、顧客が求めていたものとは違うよね。そこは善意に解釈すれば、監督は承知の上のようだけど。
「ボクのほうこそ心配かけこそごめんね」だろそこは。しかももっと早いタイミングで。このあたり、とにかく登場人物たちの感情の流れがめちゃくちゃ。誰にも感情移入できない。
完全に道徳教材やNHK教育のちびっ子番組の流れ。でもな、オレらが求めているものとは違うんだ。
大胆すぎない?そういう提案はもうちょっと状況を飲み込んでからにしたら・・・?
いや、そういう優しさ持ってるなら、カラカルの話をもっと聞いてあげなよ・・・
イエイヌのセリフとの繋がりがご都合過ぎてひどい。「中にはその逆もいますけど」まではもっと普通のテンションで話した上で、遠吠えを聞いてから「あっ、噂をすれば!」と驚くべき。
侵入してくるんじゃないかと心配する視聴者をよそに平然としている。だったらもっともっと遠くの方で聞こえる程度の遠吠えにしてほしかった。
近くにいるならサーバルたちにも聞こえるやろ。サーバルに聞こえてないなら、少なくともいま家を出ちゃうキュルルのほうが危険やろ。せめてそういう疑問や不安について納得できる材料を視聴者にくれよ。せめて、遠吠えが複数回聞こえた上で、「サーバルたちが歩いて行った方向に移動しているようだ!」とか。そして、(とっても強いという話の)イエイヌをいっしょに来るように連れ出す、とか。
BGMも相まって、直前の緊張感がいったん解きほぐれてしまう。このシーンは、遠吠えよりも前に挟むべきだったのでは?
いや、善意に解釈すれば、サーバルが「カラカルがキュルルと仲直りするきっかけはないかなぁ・・・」と考えていたら思い出したと解釈できるけど、単純にトラクターまでたどり着いてから目で見て発見するほうが自然じゃろ?意味のない不自然さは罪やぞ。
イエイヌ擁護派多いけどワイはこのセリフは許さんよ。そして「キュルルの身の安全のために、敢えて思ってもないことを言っただけ」という擁護は通じない。逆に、そこまで言わせるなら、もっともっとせっぱ詰まった極限状況まで緊迫感を作っておかないとダメだ。
もっと警告らしい音出せ。
一撃でダメージ受けすぎやろ・・・。あそこまでボロボロにするならもっと格闘させろ。作画がしんどいならせめて「激しい格闘の末に・・・」と伝わるシーンを挟め。
あのさあ・・・。これまでのシリアス感はなんだったわけ?コミカルにしたいの?まさかずっとコミカルのつもりだったの?
強敵感の無さよ。ゴリラなどの精鋭揃いだった5話でもみんなで逃げ出したビーストなのに、カラカルとサーバルだけであっさり追い払えるの?少なくともセルリアンよりはるかに強い、ひょっとするとラスボス級かもという認識だったけど、今後ビーストの怖さをどう捉えたらいいの?
さっき起きてたやん。倒すなら倒れるシーン挟めよ。
急すぎる。子供はもちろんふつうのオトナでも共感が追いつかない。(高尚な3%のオトナにしか刺さらない)
イエイヌちゃんのこれからが不憫すぎない・・・?せめて、せめて、イエイヌの心情変化やキュルル側の心情ももっと描いてあげて、「心にしみる別れ」をもっともっと演出してあげないと、急すぎるイエイヌの涙だけじゃ、とても報われない。
冷たすぎる。そりゃ大切なものだし失望するのはわかるけど、届けようとしてくれた善意に対する感謝の気持ちがあれば、そんな第一声は出てこないやろ・・・。ましてそっからギスギスし始めるなんて論外オブザ論外。せめてせめて、語尾や言い回しを少し変えるだけで、コミカルなケンカに仕上げることもできていた気もするが、そうはなっていない。
以上です。
全国のツタヤ店舗が次々に潰れているというブログ記事があった。
執拗なまでのTカード加入促進、個人情報取り扱い、ひまじんうんこ等のおかげで特にはてブ界隈ではツタヤの話と見るやオワコンとして叩いていい雰囲気が強い。
だが映画好きから言わせてもらえば、ツタヤの一部事業は間違いなく日本の宝であり、絶対になくなってほしくない。
(元ブログは音楽好きの方だが、自分は音楽には詳しくないため映画についてのみ書きます)
映画好きなら渋谷・新宿ツタヤの品揃えを実感した経験があるかどうかでツタヤへの評価は全く変わる。
あの2店舗はおそらく過去に日本で販売された映画ソフトのうちかなりの部分をカバーしており、
少なくとも映画に関しては裏ビデオとかで販売されてたものでないかぎり、見たいソフトはまあほぼほぼ見つかる。
とくに素晴らしいのは全国どこのツタヤからでも他店舗の取り寄せが一律料金で可能な点。
もちろん渋谷新宿ツタヤの在庫も一本500円(送込み)で取り寄せ可能。PPV方式の多くが一本400円なことを考えると高くは感じない。
これとは別に、ツタヤにはディスカスという定額レンタルサービスがある。
毎月8枚とか10枚とか希望するDVD・BDが送られてきて、観たら好きな時に郵送で返す(延滞料金はない)サービス。
こちらの品揃えは上記の店舗取り寄せより劣るが(VHSは対応していないなど)、それでもマイナー作のカバー率は高い。
過去に一度でもソフト化されており、権利の関係で再販が無理な作品の場合、ディスカスと店舗取り寄せが頼みの綱になる。
もう一つ、ツタヤは過去のカルト作・廃盤作品をリクエストすると注文生産としてDVDにしてくれるサービスをやっている。
B級ホラーなどのビデオスルー作品はもちろん、過去に一度だけ深夜放映されたがソフトに落ちなかったカルト作なんかを販売してくれている。
あと紛らわしいが、「発掘良品」というレンタル店舗向けの復刻シリーズも地味にいい。
たしかクストリッツァのアンダーグラウンドはこれで復刻されたんじゃなかったかな。
中古市場で数万円の高値がついてたのでレンタルできるのが本当にありがたかった。セル持ってたけどVHSだったし。
とりあえず、ツタヤはこれだけのことはやっている。
現状ほぼ利用していない人向けに書いたので販促くさくなったが、映画好きにとっても映画文化にとっても間違いなく宝だ。
重要なのは同業他社のように単に版権取って国内向けに販売するだけではなく、レンタル網を駆使して「新旧どちらも・全国どこでも・安く早く」を実現させている点だ。
映画好きの中学生が一枚5000円する国内盤をほいほい買えるか?と考えればツタヤの貴重さが分かる。
「でも今時ほとんどの映画はアマプラやネトフリで配信されてるでしょ?」
されてない。
例えば『KIDS』『現金に手を出すな』『死刑台のメロディ』『ミツバチのささやき』これら全て配信にはない。アマプラにもネトフリにもない。
少しでも映画が好きなら上記の名作群が配信されてないなんて信じられないだろう。だが残念ながら本当だ。海外資本企業の日本向けサービスなんてこんなもんだ。
マイナー作マイナー作と書いてきたが、要は最新作・超有名作以外の多くは国内配信には乗らないということだ。
実感としては観たい映画のうち配信にあるのは5割にも満たない。
特に古い邦画は壊滅的。70年代の特撮とかもすげー面白いのに全然ない。
勘違いしてほしくないんだが、これは極々一部のディープな映画オタクだけの話ではない。
現状の配信サービスには『アマデウス』も『プラトーン』もないんだぞ?配信だけでいいって正気か?と言ってる。
ちなみに上記の名作群は発掘良品のラインナップから適当に拾ってきたが、ディスク文化なんて昭和の遺物などと言い続けていると、
日本語版字幕や吹き替え付きのDVD/BDはやがて廃盤、市場から消えるだろう。そんな作品を海外企業がわざわざ日本向けに配信するだろうか。
供給が配信のみになったら残るのは腐った国内向けラインナップだけになる。
洋画ならまだ海外からソフトを輸入する手があるが、邦画や国産ドラマ、アニメなんかのうちカルトな人気だけはあるタイプの作品は一体どうなるのか。
米国ですら一部の作品以外は配信ではカバーされていない。そのため米アマ見れば普通にディスクで売られている。
米国内よりさらに配信状況が劣る日本で、配信だけでいいディスクは滅びろなんて意見がなぜ星を集めるのか理解に苦しむ。
かつて都市部にあった個人経営のレンタルビデオ店を軒並み潰しまくり、その在庫を引き継いで拡大していったのがツタヤなのは間違いない。
だからこそツタヤには文化の担い手としての責務がある。今のところ、復刻やレンタルを通してツタヤは何とか文化を繋ごうとしていると思っている。
アマプラやネトフリさえあればいい、CCCは悪だから潰れればいいと叩くのは簡単だが、
じゃあその配信がツタヤ並みのサービスを提供しているかと言えば現時点では間違いなくNOだし、今後充実していく期待も薄い。
ツタヤを叩くなと言いたいわけじゃない。ただ、実態をよく知ろうともせず潰れればいいという意見ばかりが多くなると、今なんとか保たれている貴重なものまで切り捨てられてしまう。
そうなったら個人的にだけではなく、将来的にかなり大きな損失になると思っている。
(ちなみにツタヤも映像配信サービスはあるが、ラインナップは他の国内配信サービスと同じくクソなので言及するまでもない。
たぶん配信権?みたいなものの関係なのか、セルよりずっと扱うレンジが狭い。
配信さえあればいいって人はクソみたいなラインナップしか見えないから、それで十分だと思っちゃうんだよな。知らぬ間に興味を限定されてる。)
文脈を読み解いていった結果、おそらく「カップリング」の略称だという結論に達した。
Google Trendsを見る限り「カップリング」という単語は年々使われなくなっているようだ。2010年10月に短期的なピークが見られるが。クロスカップリング反応(鈴木章、根岸栄一、リチャード・ヘック)がノーベル化学賞を受賞したためらしい。
CP対称性 = charge conjugation parity symmetry
複素射影空間 = Complex projective space
脳性麻痺 = Cerebral palsy
CP+ = Camera & Photo Imaging Show
明るさの単位 = Candlepower
コマーシャルペーパー = Commercial Paper
児童ポルノ = Child pornography
コードページ = Code Page
https://anond.hatelabo.jp/20190306020912
アニメーション同好会出身者は、今の世の中では雇わないほうがいい。以下、その理由を述べる。
アニメーション同好会がオタクじゃなくて、何がオタクだというのか。
オタクを入れたくないと思う採用担当者は、アニメーション同好会出身者かどうか慎重に見極めるべきである。
また美術部、文芸部、パソコン部なども基本的にはオタクである。
他の学校のアニメーション同好会はどんな感じか分からないが、15年ほど前のうちの高校のアニメーション同好会は文化祭でセル画を売っていた。
透明なセルと呼ばれるシートに、好きなアニメ、マンガの絵をトレースし、着色する。そして文化祭で売るのだ。
○朝食:ビジホ朝食
○調子
はややー。
そんなわけで、地獄のような出張が終わったのを祝うために、天井までガチャを回しました。
とはいっても、ほとんど貯めた石とチケットを使うだけで、課金したのは全体のほんの少し。
まあ社会人が辛い仕事終わって使う額にしては、かなり安いと思うので許してください。
目標は、僕の好きなキャラクタのロゼッタさんが好きなイオちゃんを手にいれることです。
そして、肝心のその結果は……
・Rキャラ
ペトラ、ツバサ、ソシエ(火)、ヘルエス(風)、ダーントandフライハイト、シャルロッテ(水)、アリーザ、ロザミア、メルゥ
カタリナ、フェリ、カイン
・SSR石
5個
6%を300回でこの数値はなかなか運がいいんじゃないかな。
その23個の中身も、今回PUのキャラクタと石が全部出ただけじゃなく、リミフェス限定のサプチケ不可キャラが三人に、サプチケ不可石が一つと、いい感じ。(とはいえ僕の火属性弱いから上限UPは生かしきれなさそうなのが残念。古戦場の奥義パでなら有効かも)