はてなキーワード: まだ子とは
私の場合、専業主婦じゃなくて、非正規雇用の友だちと話すのに気を使う。私は正社員で、このご時世に普通に給料もボーナスももらえてるんだが、非正規の連中はいわゆる不要不急の業界で、緊急事態宣言のときはほとんど無職状態だったような…。
たまたま向こうから「みんなどうしてる?」という近況伺いのLINEが来たので皆がどうしているかある程度分かったのだが、向こうの懐具合が読めないので、気楽に「会おうよ」とか言えない。でもみんな苦労してるだろうに、コロナ関係で忙しくしている友人(正社員)の心配をしていた。みんな何てイイ奴なんだと感動した。
ちなみにみんな独身もしくはバツイチ。一人だけバツが2回ついてて彼氏持ち。彼氏持ちがごくまれに惚気るが、空気を読むのが得意な子なので周りをうんざりさせるような言い方はしない。私を含め、正社員二人は年収とかに関することは絶対言わないようにしているが、皆で飲むなら本当は私とその子で全額負担すべきなんじゃないかと思う。自分がアルコールを飲まないので、たまに端数を返してもらえたりするんだが、そういう気遣いしなくて良いからと思う。
子持ちとそうでないのと両方いるけど、どっちが偉いみたいな感覚はない。もう子どもたちがずいぶん大きいから、「大変だなぁ」「羨ましいなぁ」という感覚がない。子持ちの連中もまだ子どもが小学生ぐらいの時に離婚して女手一つで育てているのでむしろそのことを尊敬する。
語り部となった老人はまだ子供だった当時、パーマを掛けた女性に石を投げはやしたてたそうだ。
それが許される時代だった。それでもこっそりと「闇パーマ」をかける女性はあとをたたなかった。
その記事を読んで、なんだか心が落ち着かなかった。
7月頭からリモートワークを再開して、そのまま夏休みに入った。
夏休みといっても旅行に行くわけでもないしネット配信のドラマをみるくらいしかすることもない。
なんだかくさくさして近場にある新しくオープンしたカフェに行ってみた。
朝なら空いてるかと思って早起きして行ったのだが、役所が近いせいか、道中思いの外たくさんの通勤者とすれ違った。
その人たちをぼんやり眺めながら、別にこの人たちは私に害を与えるために働いているわけではないのだなと思った。
通勤している人たちはコロナを蔓延させて私に感染させるために働いているわけではないし、家にいて自粛している人たちは私を守るために自粛しているわけではない。
テレビのニュースでは海水浴場でスキーのマスクみたいのをかぶった人たちが取材に答えて「このマスクをかぶっていれば安心です」と言っていて、バカなんじゃないかと思った。
まああの人たちはバカなのかもしれないけど、すべての人がバカなわけではない。
コロナが心配で、感染してしまったらどうしよう、嫌だなあと思いながら通勤している。それが自分の生活だから。
なんだかんだ言われながら夜も営業している飲み屋の店長とかもそんな感じなんだろう。
友人は5月の緊急事態宣言の始まる前に、感染が怖いからと自ら職場を辞めてしまった。
それ以来、ずっと家にこもったまま、週2回スーパーに買い物に行くだけの生活を続けている。
家族が協力的でないと腹を立て、自粛しない世間に腹を立て、情報が操作されていると腹を立て、ネットで情報を検索しては怯えている。
何が正しいのかなんて、80年くらいたった後にわかるんだろうな。当時の人々はなんて愚かだったんだって、未来の誰かが笑うんだろう。
まあその頃まで人類が生き延びていればの話だけど。
コロナ前よりずっと前の話なんだけど、当時ライブの半年前からチケット販売が始まるライブの発表があって、友人と一緒に行こうって約束して発表からすぐの一次先行でチケット2人分取ってたんだけど、ライブの1週間前に妊娠したから行けなくなった〜!といわゆるほぼドタキャンをされた。チケットはフォロワーを誘ったら同行してくれた。本当にありがたい。
たしかに妊娠したなら発覚したての数ヶ月でも数時間椅子の無いライブハウスは万一のこと考えると諦めるのは仕方ない。彼氏または旦那との間で予期せぬ妊娠してしまったとかなら急だし......って理由だったらまだ許せた。
彼女は既婚者で、前から妊活をしていた。子供をずっと欲しがっていたし、一回流産も経験していたのだけど独身の私に凄くメンタルの相談もしてた。だからライブに行くと言った時はまだ子供はいいのかな?って思ってた。何ヶ月かは聞いていないけどもし発覚が遅かったにしてもチケットを取ってから妊活に及んだのは確実になる。
ライブに行くと約束を最初にしてたのは私だし、今妊娠したらライブに行けなくなるって分かってるならもっと計画的に考えられないのかって逆算してまで思った私は性格悪いんかな〜〜〜〜。
先日書いた記事に色々とコメント(トラバいうんか?)がついていてなかなか楽しかった。
娘のうんちパンツがキツイとかこんなに赤裸々と「イヤでたまらない」気分を吐露するのは新鮮だった。夫を憎むネット垢の人達の気持ちが何となく分かった。
「ガイの子供はガイ」という「普通」ではちょっと考えられない無神経炸裂なご指摘もあれば、「病院及び児相を試してみたら?」という建設的なご意見も頂いた。
精神医療にはもう既に7歳の息子を除き家族皆でお世話になっている。
私は昔から考えすぎる性分だったので子供の頃は人生に絶望していたし今でもちょっとしたことでイライラが昂じるので「うつ」だという自覚はある。薬は嫌いなので飲んではいないが、俗に言う心理療法に通っている。
娘は8歳から児童精神科のお世話になっている。投薬なしの遊戯セラピーでどんぐりの孤児院を作っているらしい。
旦那と二人でカップルセラピーも試した。「合う」人に中々巡り会えなくてセラピー難民になったが。
病院に行けば即問題解決するものではなく、行くことで問題と取り組む機会が与えられるくらいなので色々と試行錯誤している。
別に増田で問題解決を求めていたわけではなかったが、コメントで「とりま病院へ。。。」とか「どこかに預けてみたら。。。」というご意見がちらほらあったのは興味深い。
助けになりたい。
と思って頂けることはウザいと同時に有り難いものだ。
「思春期女児を理解できない未熟な親」みたいなコメントもあったが、思春期もクソもない。娘のことは生まれた時から理解不可能だった。
「おっぱいがなければ生きていけない」オーラを出す孫娘を見て、私の母は羨ましそうに言った。「貴女はおっぱいが嫌いで口に含ませてもペッと吐き出されてがっかりした。」グラマラスな母や祖母とは違い、父の家系の女性に似て胸も尻もペラペラな私は「おっぱいでなかったらどうしよう。。。」と不安だったが、授乳は大きな問題もなくすんなりできたし、離乳も3歳を過ぎた頃には、「吸っても吸っても何もない。。。ぺっ」って感じで自主的に止めてくれた。徳川家康みたいに6歳まで吸われたらどうしよう。。。と思っていたのでホッとした。
おっぱいが嫌いな赤ん坊だったことは流石に覚えていないが、子供の頃から「生きるのだるすぎ。。。死んでみたい」くらいに思っていた私には、3歳くらいから夜になると死ぬのがコワイとシクシク泣く娘が理解できなかった。喘息がちで息をするのが「痛い」思いをした私は、6−7歳位から「いきすることがこんなにキツイなら死んだ方がラクだろう」と思い始めていた。
暗くなると心細くなるのか、「眠ったら死んでしまうかもしれない」とか「寝てる間に何か楽しいことを逃してしまうかもしれない」とゴネる娘は、とにかく風呂に入りたがらず、歯ブラシもパジャマもちゃっちゃとしてくれず、おねんねタイムがバトルだった。寝付きも悪かった。学校も小学校中学年くらいまでは朝ごはん、お着替えのバトルを繰り広げた挙げ句、家をでる直前になって「行きたくない」と玄関先ですったもんだすることもあって「詰んだな。。。」となることもしばしばあった。
学校で先生に死ぬのがコワイと言って、カウンセリングを推められたこともあり、児童精神科に相談した。良い先生にあたったので遊戯療法を始めてかれこれ4年目になる。友達と遊びたくても「行きたくない」とは言わないのでかなり楽しいのだろう。
パンツにうんすじも困ったが、幼い頃から家具に性器をこすりつける癖があった。3−4歳の頃、お泊りに行くほど仲良いお友達の家でもやっていたそうだ。一番最初に気づいたのは生後1年目くらいだったと思う。授乳が終わって娘を膝にのせてうとうとしてたら脚にまたがって「これは。。。?交尾されてるのか?」と思ったことがあった。
またまた比較してしまうが。。。息子は「泣くな」と言ったこともないのに、2−3歳くらいから歯ぎしりをして涙を堪えたり、爪を噛んだりもしていたし、お風呂の時にちんをいじることはあっても「交尾されてる?」と感じたことはない。
娘が2−3歳くらいから爪を噛み始めた時は、こんな赤子でも爪かむのか。。。?!とびっくりした。育ってからは貧乏ゆすりや爪を噛むところは見なくなったが、娘の足の爪は伸びても手の爪は切る必要がないくらい短かったのでああ、噛んでるんだろうな。と思った。学齢期には家で宿題をしてると椅子と交尾することが目立つようになったが、そのことで娘に嫌悪感を抱いたことはない。
というのも、私も物心ついた頃から保育園のお昼寝が苦手で、退屈を紛らわせる為にすまた方式の自慰行為をしていたからかもしれない。小学校に上がってからは家の外で自慰をしたことはないが、先生にヒステリックに怒鳴られた時には自慰衝動を感じた。真面目で気弱で優しそうな若い先生で第一印象は好きだったのでショックだった。
自分にそういう経験があったので、娘の自慰行為に対してもああ『こんなことやってられない』と絶望感を感じてるのだろうな。と思っていた。
幼い頃は旦那も私も何も言わなかったが、友達の家でやっていた、と聞いてからは椅子と交尾している時は「椅子がダメになるから止めて。」と言って止めるようにした。注意するようになってからも長いこと続いていたけどいつの間にか見ないようになった。
前記事の整体の先生の話は興味深い。というだけでだからどうだ。という話でもない。人恋しい気持ち、不安、絶望、憤りを自分で慰めるとという「自慰」という言葉はよくできてると思う。
自分が経験したことは「理解」可能なので「何でやねん」と嫌悪感や批判的な感情も抱かないですむので気分がラクだし、寄り添うこともできる。保育園のお昼寝は大嫌いだったが、夜は早く寝たかったし、思春期以降は寝るのが大好きで授業中でも机につっぷして寝てた。6時間睡眠な娘は理解できない。
娘は今でも寝付き悪いし寝言が多い。数日前には夜中に「足が痛い。」と叫んでいた。
学校の成績は中の中くらいで先生や友達とも問題なくやっている。コロナの遠隔授業も課題も自分一人でちゃんと予定表を作って頑張ってこなしていた。
コロナで友達に会えないことや、先が見えないことがキツいと愚痴をこぼすこともあるが、ラインやインスタでなりに楽しくやってるようだ。
ここ2−3年「全て面倒みてあげなければならない」切迫感がないのはラクだが、喧嘩ばかりしていることがキツい。
前の記事でも書いたが息子に意地悪な気持ちになるのは予測できた。男の子のことは理解できない。と思っていたからだ。女同士分かりあえるはずの娘に対してこんなに嫌悪感を感じるとは意外で「自分はこんなはずではなかったのに」感がキツイ。事更にうんちパンツがキツイと書いたが、うんちの扱いは布おむつで慣れているハズだ。前回の記事に汚くて不愉快だ。という感想を頂いたので尾籠な話が嫌いな人はここで止めて欲しいのだが、私は生理用ナプキンが苦手で布を使っている。どんなにサラサラを謳われてもカユイ感じがして嫌いだ。あんなものでお尻を包まれるのはイヤだと思って布にした。おむつの洗濯は苦ではなかった。
娘がパンツについたうんちをまるで存在しない物であるかのように「パンツを変える必要はない」と頑なに抵抗することや、臭いを指摘する私に怒りを顕にすることがキツかった。憎悪すべきはパンツについた臭いうんちなので、ちゃっちゃとうんちを排除できたら良いのだが。。。メッセンジャーの私が憎悪されるのは余りにも理不尽だ。
初潮がきたらどんなことになるのだろう。お赤飯なんて炊いたらめちゃくちゃ怒られそうだ。
私は娘に自分の体や体から出る汗や臭いを嫌悪するような女性になってほしくない。
だから胸がふくらんできた彼女に「ママも大きなおっぱいがよかった」と言ってる。
12歳にもなったのだから自分が汚したものは自分で洗って欲しいのだが、彼女にしてみたら「私はまだ子供なのに何故全部自分でやらなければならないのか」と絶望的になり憤りを感じるらしい。
コメントで娘に無力感が伺われる。と言った人が居た。どこの誰か知らないが、娘のことをよく分かっておられると感じた。
「ママと仲良くできないのが悲しい。」発言はどこから出たのか。。。とつらつら考えていたらその晩の、直前の出来事を思い出した。
弟が「ママとお姉ちゃんが一緒じゃないとしっこに行かない」と言うので何があったのか聞いたら姉ちゃんと二人でコワイ動画を観た。という。
「そんなもん観てコワくなるならネットを使うな」みたいなことをイラ立った声で言ったら
娘が明らかにムスっとして何も言わず、息子に携帯で動画を見せ始めた。
「なるほど。そうやってカワイイ動画観たらコワい気持ちもどっかに行っちゃうね。流石はお姉ちゃん、いい考え」
と褒めたら彼女はびっくりしていた。
「ネットを使うな」という私への反抗心丸出しの行動だったので、私が怒らなかったのが意外だったのだろう。
私としては「コワくてトイレに行けなくなるようなもんは見るな。」という意図での発言だったのだが「いらんでモノをまた見せてくれて。。。」とイラついていたし、娘はむっとしてたし「キーキー煩いぞ。」と、戦闘態勢に入りかけていた。息子が一人でトイレに行けるなら万々歳なので苛立ちがどっかに行った。問題解決できるカシコイ娘は嫌いじゃない。
そんなこともあったからか、今朝、開口一番娘が
「ママ変わったね。今週まだ一回も喧嘩してない。まだ水曜日だから先が長いけど。意地悪なことを言いたい気持ちを頑張って我慢してる。」
と言ってきた。黙って弟に動画を見せてた時、むすっとしていたけど何も言わなかったのは頑張ったってことだろうな。と思った。
私が変わったのではなく、変わったのは娘の方だと思うのだが。。。
そういえば旦那も先ごろ似たようなことを言っていた。
と言われた。
「私が変わったのではなく君が『メガネがない。家が汚いから何がどこにあるか分からない』と他責口調で怒鳴ることがなくなったから私も下らないことでイライラしないだけだ。」
と言ったら「僕は今までそんなに怒鳴ってばかりいたのか。。。」と悲しそうだった。
旦那が「怒鳴ってばかりいるので私もイライラする」と言っても「僕は怒鳴ってなんかない」という不毛な会話を繰り返し、私達の話を聞いてた子供に「パパ、いつも怒鳴ってるよ」と横入りされても「そうかなあ。そんなつもりはないのに。おかしいな。」とトボケたことを言っている人だったのに。
娘にも
「娘やパパがきーきー怒鳴らないからママもイライラしないだけ。」
と言いたかったけど、それでは角が立つと思って
とだけ言っておいた。
けど、今から考えるとご指摘にもあったように自分が無力であるという重さに耐えられず逃避行動に耽り、イライラや不安が昂じて感情的に爆発し他責する傾向を示す娘や旦那には
「君が私にムッとしても怒鳴らないで我慢したら私も意地悪な気持ちになっても怒鳴る様なことはしないよ。私が変わったのは、君が変わったからだよ。」
と言えばよかった。と思ってる。
既に見えてる風景でも他者の視線が入ることで見え方が変わった気がする。どこの誰かは知らないが、増田さん、ありがとう。
あと、ネットは好き勝手に何でも言える自由な場所ではあるが見ず知らずの相手に「気持ち悪い」とか「頭も心も悪い」とか「飯も時間通りに食わせられない母親に子供を育てる資格はない」とかいう無神経な暴言を吐くのは止めておけ。リアルでもどんどん自己規制心が緩んでキレ散らかす困った老人になって孤独な最期を迎える可能性を大きくするだけだと思うよ。
不躾な増田達には、どうしても暴言を吐きたいのならせめて何故自分がそう感じるに至ったのか自省し、言語化する努力を見せろ。と言いたい。
ということで、長々と書き綴ったが、気持ちの整理がとりあえずついたのでおしまい。
見ず知らずの増田達よ。私の気分悪いお話にお付き合い下さり、コメント書く時間も費やしてくれて、ありがとう。
またどこかで会う日まで。
おっさんと若い女の恋愛云々の話が出ると必ず槍玉にあげられる「恋は雨上がりのように」。
(追記 女子高生は子供であり、若い女ではないという指摘があった。完全にその通りなので、記述を改めた。
ただ、指摘されるまでの自分と同じく18歳以上の若い女と女子高生を混同している人間が、おっさんと若い女の子恋愛の話の延長でこの作品に言及することはあるため、一文目については変更しない。)
あれが映画化したときは読んだこともないフェミからは叩かれ、同じように読んだこともないおっさんが俺たちにもまだ希望はある!と歓喜した。
原作を読めばわかるが、「恋は雨上がりのように」は確かにおっさんと女子高生の恋愛を描いている。それは間違いない。女子高生の美少女が、おっさんを好きになる。
しかし、ここで注意してほしいのは、恋雨はおっさんと女子高生の恋愛を描きつつ、それを結論として否定している作品であるということだ。「おっさんと女子高生が交際をすることは、真剣に考えれば考えるほど難しいものになる」というのがこの作品の二人の恋愛についての結論であると思う。
そして、真剣に考えた上で女子高生からの好意を断ったようなおっさんであるからこそ、女子高生はそのおっさんに好意を持ち、女の読者からも人気が出たのだ。
軽率に女子高生と真剣交際ができると思っているおっさんは、そもそも女子高生から好かれない。
女子高生から好かれるようなおっさんは、女子高生と付き合おうと思わない。
自分が「恋は雨上がりのように」を読んで得た知見だ。
mori99 自分が高校生の頃は中年と高校生の恋愛に特に感想はなかったが、自分が年を取って中年から見た高校生がいかに無防備で子供かがわかると、子供相手に恋愛が成立すると考える同年代はサイコパスか変態に思える
サイコパス・変態とまでは思わないが、「女子高生と一発ヤリてぇ〜」と思っているおっさんより「女子高生と真剣交際がしたい」と思っているおっさんの方が怖いのは確かだ。
memorystock あれは二人がくっつかない話なのは最初からわかるもんだが伝わっておらず最終話あたりで作者にマジギレクレームする読者が(おっさんに限らず)たくさんいたらしい。常に読解力絶滅者向けのプルーフが必要な世の中。
自分は、最初はくっつくのか!?と思って読んでいたので、読解力については何も言えない。ただ、個人的にあの作品のテーマが「恋愛」ではなく「夢」だと気がついた時点で、あの二人がくっつくのはテーマ的にもあり得ないかと思っていた。
lightly 高校生を「おっさんと若い女の恋愛」の文脈に乗せるのはキツいな。18歳以下は「若い女」ではなく「まだ子供」なので、会社の新人や後輩のケースとは分けて考えてほしい。問題点が変わってきてしまう
その通りだ。完全にその通りだ。女子高生と働いている若い女はまったく別種だった。記述を改めます。
息子は姉ちゃん大好きなので、僕に優しくするみたいに姉ちゃんにも優しくしなきゃ。姉ちゃんまだ子供やで。と諭されたりする。最近は虐げられてばかりなので流石にムカつくらしくママは僕の方が好きなんだ。とマウント取ったりもし始めた。アカンな。と思う。
緊急避妊薬を薬局で入手できる様にしろ━━。そう声を張り上げる人々がいる。(以下 推奨派と呼ぶ)
診断なしでの処方は悪用の危険あるだろ━━。そう反論する人々がいる。(以下 反対派と呼ぶ)
どちらも言いたい事はわかるが、伝え方と着眼点がお粗末なのは世間の殆どが気付いているだろう。
そもそもきちんと見るべきなのはそこではなくね?と筆者も思っている。
自粛期間中に中高生の妊娠が増え、必然的に堕胎の件数も跳ね上がった。
推奨派はこの様な現象を“望まぬ妊娠”と表現し、あたかも堕胎した母親が被害者かの如く哀れんでいる。実に不可思議な話だ。
自粛期間は暇だ。不要不急の外出は控えなくてはならない。デートで遊びに行くなど出来ない状況だ。
避妊をしない性交は妊娠を望む者が行うもの。そんな常識は中高生でもわかっている。
あえて汚い表現をさせてもらうと、ゴム無しのナマ中だ。この言葉を見て妊娠を連想しない方がどうかしている。
大人が思うほど中高生は無知ではない。彼らはきちんとわかっていた。避妊しない性交は妊娠に繋がる、と━━。
そうして彼らは性感染症などの様々な危険もわかった上で、避妊をせず、性交をし、妊娠をした。
問いたい。
いったいこれのどこに被害者がいる。哀れむべき箇所はどこだ。無知ではない中高生の妊娠は可哀想なのか。悲しいことなのか。
若さや未熟さを理由に擁護する方もいるだろう。しかし、若さや未熟さを言い訳にしてはいけない。
認めるべきなのだ。大人だからこそ、未成年の愚かさを認め、成長へと導くべきなのだ。
可哀想ね。まだ子供だからわからなかったのね。仕方ないわ。あなたは悪くないわ。
そんな甘やかした言葉を投げ掛けるべきではない。甘やかしは時として人間性を腐敗させる毒だ。
しっかりと愚かさを本人にも自覚させ、二度と繰り返さぬ様に学ばせるべきなのではないだろうか。
昨今 多用されている“望まぬ妊娠”というワード。それを見かけると憤怒を覚えさせられる。
本来“望まぬ妊娠”というものは性犯罪等の被害者に使う言葉だ。
何の了承も同意もなく、苦痛でしかない望まぬ行為を強いられ望まぬ傷を抱え望まぬ妊娠を“無理矢理させられた”人々の為の重く悲しい表現なはずだ。
それなのに、妊娠の危険も知りながら流されてお互い同意の上で性交をし妊娠をした人々に対しても“望まぬ妊娠”という表現を使っている。
望んで相手と性交をしておいて望んでない妊娠、とはいったいどういう事だ。勘違いも甚だしい。
もしこれが恋人同士でもお互いの同意ではなく無理矢理力任せに行われた性交だとしたら、それは立派な犯罪なので断固として相手を裁くべきだ。
だが、そういう“本当の望まぬ妊娠”をさせられた人はごく一部だろう。
殆どの中高生は彼氏や知り合いと“同意の上で”肉体関係を持ち、相手の要求に流され、あるいは自分の欲望に流され、その場だけの快楽を優先し妊娠に至ったのだと思う。
これのどこが哀れな望まぬ妊娠だ。
本当の被害者は“望まぬ”と両親に思われ堕胎させられた子供だ。
以上の理由から、望まぬ妊娠 という表現は安易に使うべきではない。
そして、愚かさ故に流され妊娠・軽率妊娠をした者を被害者の様に見るべきではない。
そこらへんの薬局で手軽に緊急避妊薬が購入できてしまったら危険だ。若い女性は知識がない・若い女性が悪用するかもしれない。
そういう意見をぶっぱなし女性から豪速球のヘイトを向けられた反対派がいた。
実にわかりやすい“女性だけの問題”だと考えている人間の思考だと思った。女の話は男の問題ではないという考えを令和の時代でも貫いているその頑固かつ進化してない思想は典型的な負の遺産だろう。
正直 薬局での販売を解禁したら緊急避妊薬の悪用は必ず増え、常備し乱用する人も多く存在してしまうと筆者も考えている。
世の中には正しい貞操観念を持たずに生きている人もいる。そしてそういう人種は意外にも多いのだ。
彼らは不特定多数の人間と関係を持つ・性交を娯楽の一種だと思い、罪悪感や倫理観など持ち合わせていない。もし持ち合わせていたとしても快楽には勝らない。
服用の危険性・安易に手を出すものではない、と知ってはいても、欲望に流され常用するだろう。
欲望のままに快楽を貪り、望んで性交をし、軽率妊娠をしたくないから薬で処理をする。
この前もそうして妊娠しなかったし、避妊しなくても良いや。どうせ薬飲めば良いのだから。ゴムなんか使わなくて良い。
その結果、どんな世の中になるのか。それは容易く想像できる。
避妊をしないという事はコンドームで性感染症も予防しないという事と同意。
緊急避妊薬を手軽に購入できてしまうと、日本の将来にも大きく影響を及ぼすのだ。
世の中そんな貞操観念が虫以下な人ばかりではない・一部の人種に焦点をあてすぎだ。と思う人もいるだろうが、上でも記した通り意外にもそういう一部の人種は多いのだ。
全世界に拡がっているあのウィルスすら最初は一つの国の一部の地域だけだった。(諸説あり)
本筋に戻すが、貞操観念がゆるい一部の人種に緊急避妊薬という欲望の金棒を与えてしまったら日本は性病大国と少子化大国となり、他国から大きく遅れをとるかもしれない。
それは避けたいと一国民として強く思う。
ここまでの個人的な意見を読んで、中には「一部のクソビッ●にヘイト向けてるだけじゃん」「そもそも男がしっかり避妊してくれたら良い話でしょう」「貞操観念がゆるいのは女だけとか差別」「結局 反対派の意見と同じで女が悪用するって言ってる」等と憤りを覚えた方もいらっしゃるかもしれない。
しかし、お気付きの方もいるかもしれないが、■緊急避妊薬の悪用 の話の中で、筆者は悪用の可能性とその理由について述べている時は“女性”という単語を使用していない。あくまでも“人種”と記しただけで、それが女性限定だとは言っていない。
上で述べた、反対派の人がぶっぱなした「若い女性は知識がない・若い女性が悪用するかもしれない」発言について真っ向から否定したいからだ。
筆者は緊急避妊薬を悪用するのは“そういう人種の”男女の両方であると考えている。
男は肉体関係のみの都合の良い女や不倫相手などに妊娠されたら面倒だからという理由等で女性に飲ませるかもしれない。
女はコンドーム無しで性交はしたいが妊娠はしたくないという理由等で自ら飲むかもしれない。
ここまで長々と語ってしまったので、簡潔に述べたいと思う。
女性は、妊娠をしたくないのなら軽率な性交をすべきではない。男や雰囲気に流される惨めさを捨て去り、自分を大切にしてほしい。避妊してくれない男を選ぶな。そんな男に肌を触らせてやるな。
大切に愛してくれる人とだけしっかりコンドームをつけて慎重に肌を重ねなさい。
男性は、万が一の時 責任を持つ覚悟がないのなら抱くな。欲望にのまれて避妊せず妊娠したら焦る等 言語道断。女性は道具ではない。大切にしたい愛してる人とだけ心を重ねながらコンドームをつけて行いなさい。
まずは性交というものの価値と伴う責任を、教育していくことが何より大切なのではないだろうか。
基礎教育がしっかりしていないと緊急避妊薬など何の意味もない。考え方・価値観・性交の重さを学ばない状態で薬を使ってもその場しのぎでしかない。薬によって責任から逃れた彼らはきっと同じ事を繰り返す。
ここまで日本の性教育が未発達なのは、性というものを何となくタブー視していたからなのだろう。
保健体育では受精等の“仕組み”は教えても、性交とはどうあるべきなのか・貞操観念の大切さ等は具体的に教えない。そうして出来上がった今の日本の性文化。タブー視した成れの果て……。嘆かわしい。
緊急避妊薬推奨派は口を揃えてこう言う。
━━やかましいここは日本だ。そんなに外国ではーと説きたいのなら、それこそ薬よりも先に外国並の性教育を取り入れることに専念しろ。日本国の現状を見て何を先に取り入れるべきなのか、その順序を間違えず考えてほしい。
個人的な吐露を読んでくださりありがとうございました。人それぞれ様々な意見をお持ちでしょうし、至らぬ文章と語彙力故 不快な思いをさせてしまったらすみません。
緊急避妊薬の販売そのものには反対はしていません。ただ、今の日本には早いので、悪用されない教育と価値観が整ってからの方が良いと思います。
━━終━━
エロの問題を社会に丸投げはやめてどうぞ
社会に丸投げする前にそれぞれのご家庭でセックスについて話し合おう
(自宅で寛ぐ母親の元にポルノ女優と男優が訪ねて来る。困惑する母親)
女優「あなたの息子さんが色々なデバイスでわたし達のことを観てるの」
女優「わたし達のビデオは大人向けなんだけど、あなたの息子さんはまだ子どもでしょ?」
女優「わたしたち(ポルノの中では)性同意の話とかしないものね。いきなり始めちゃうから」
女優「そう!」
ガシャン!
突然のポルノ俳優の来訪に気づいた少年は驚きのあまり皿を床に落とす
女優「はーい!マット」
母親「(落ち着いて、サンドラ) (どうしたらいいかわかっているでしょ)」
母親「(固まっている少年に向き直って)じゃあマットそろそろ話をしましょうか」
母親「ネットで見るものと現実のお付き合いがどう違うか。良いとか悪いとかではなくて (“No Judgement”) 」
ナレーション:ニュージーランドでは多くの若者がポルノでセックスを学んでいます。
ナレーション:“リアルが大事” 相談は政府のこちらのサイトまで
Keep It Real Online - Pornography
https://www.youtube.com/watch?v=6c3Edm8NdGs
https://www.keepitrealonline.govt.nz/
どんなにフィルタリングをしようが完全にエロから子どもを遠ざけることは不可能
であれば、子どもがフィクションのセックスに触れる前にちゃんと現実のセックスについて話あっておきましょう
内容はタイトルそのままで、アスペルガー向けになぜ彼や夫以外とセックスをしてはいけないのかを書いた本
私が物事を判断する基準は、自分が誰かを傷つけるかどうか、または相手に傷つけられるかどうかということです。
しかし、セックスに関して言えば、傷つけられるどころか気持ちがよくなり、快感を得られるなど、私の判断基準からすると、悪いことにはならないのです。
なぜ会ったばかりのよく知らない人とセックスをすることが悪いとされているのか、
理解できずにいました。
大人になったら、フィクションのセックス と 現実のセックス の区別が自然つくようになるという根拠のない無駄な期待は投げ捨てた方が良い
それぞれご家庭でちゃんと話し合いましょう
それ以外については、成人男性・成人女性として、子どもたちにどう振る舞いたいかという個人的な問題なので
( ↑ もちろん、その国の法律と利用するプラットフォームの規約に従っていることは前提ね)
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女も男もそれ以外もオタクも非オタクも読んでいってくれないか(anond:20200714091214)
転勤族の夫がいる子持ち専業主婦で、月額600円くらい?のネトフリの契約も夫が拒否したからできないくらいの経済状況
貧乏家庭というわけじゃないけど一馬力だからそこまで贅沢にはできない
転勤族だから正社員の就職は無理なのかな?っていうか夫の携わるプロジェクトが終わるまで就職は数年待った方がいいのかな?あれ?私って何年専業主婦やるんだろう?って思えてきた
YouTube見てたら少年革命家YouTuberのゆたぼんが出てきたのでじっくり動画を見た
動画の内容はどうであれゆたぼんはけっこうお金を稼いでいるようだ
コロナで企業の収益が下がったので広告費を削る会社が増えた。それでYouTuberの広告費の収益が下がったらしい。それでもゆたぼんはまだ子供なのに自分が読みたい漫画をばんばん買ったり、東京に遠征する旅費を稼げるくらいの利益はあるんだろう。
ゆたぼんは不登校という生き方が売りであり、学校の先生からゆたぼんに電話があっただけで動画が一本作れるような力がある。
ゆたぼんが正しいか、間違っているかはおいといてとにかくゆたぼんの生活は金になるのである。まぁゆたぼんもYouTuberとして再生回数あげる努力はしているのかもしれないが
とにかくゆたぼんが不登校であることやへずまりゅうと交流があることは収益につながるのである
一方わたしはというと、わたしが仮にYouTuberになったとしても全然面白くなくて全然お金が稼げないということに気づいて凹んでしまった。ゆたぼんはまだ子供なのにすごいなぁと思った
彼が正しいか、間違っているかはおいといて単純にあのとしでたくさんお金を稼いでえらいなあと思う
コロナで不登校が増えたこと、リモートの授業になったことがけっかとしてゆたぼんの「学校なんかいかなくてもいい」という主張の正しさを裏付けるような感じになっちゃって
時代がゆたぼんの味方してるなって感じた
社会に丸投げする前にそれぞれのご家庭でセックスについて話し合おう
(自宅で寛ぐ母親の元にポルノ女優と男優が訪ねて来る。困惑する母親)
女優「あなたの息子さんが色々なデバイスでわたし達のことを観てるの」
女優「わたし達のビデオは大人向けなんだけど、あなたの息子さんはまだ子どもでしょ?」
女優「わたしたち(ポルノの中では)性同意の話とかしないものね。いきなり始めちゃうから」
女優「そう!」
ガシャン!
突然のポルノ俳優の来訪に気づいた少年は驚きのあまり皿を床に落とす
女優「はーい!マット」
母親「(落ち着いて、サンドラ) (どうしたらいいかわかっているでしょ)」
母親「(固まっている少年に向き直って)じゃあマットそろそろ話をしましょうか」
母親「ネットで見るものと現実のお付き合いがどう違うか。良いとか悪いとかではなくて (“No Judgement”) 」
ナレーション:ニュージーランドでは多くの若者がポルノでセックスを学んでいます。
ナレーション:“リアルが大事” 相談は政府のこちらのサイトまで
Keep It Real Online - Pornography
https://www.youtube.com/watch?v=6c3Edm8NdGs
https://www.keepitrealonline.govt.nz/
であれば、子どもがフィクションのセックスに触れる前にちゃんと現実のセックスについて話あっておきましょう
内容はタイトルそのままで、アスペルガー向けになぜ彼や夫以外とセックスをしてはいけないのかを書いた本
私が物事を判断する基準は、自分が誰かを傷つけるかどうか、または相手に傷つけられるかどうかということです。
しかし、セックスに関して言えば、傷つけられるどころか気持ちがよくなり、快感を得られるなど、私の判断基準からすると、悪いことにはならないのです。
なぜ会ったばかりのよく知らない人とセックスをすることが悪いとされているのか、
理解できずにいました。
それ以外については、成人男性・成人女性として、子どもたちにどう振る舞いたいかという個人的な問題なので
( ↑ もちろん、その国の法律と利用するプラットフォームの規約に従っていることは前提ね)
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女も男もそれ以外もオタクも非オタクも読んでいってくれないか(anond:20200714091214)
初めてこういうものを書くので何から書き始めればいいのか良くわからないけれど、少し前の話をしたいと思います。
私はいわゆるノンセクシャルと呼ばれる性的指向を持つ人間です。
ノンセクシャルって何? という方のために説明させていただくと
非性愛(ひせいあい)とは、他者に対しての恋愛感情は有り得たとしても、恒久的に他人への性的欲求を持たないことをいう。 非性愛の性質を持っている人のことを非性愛者、またはノンセクシュアルという。略称としてノンセクともいう。
こんな感じです。人によって様々だとは思いますが、一応はこういう定義となっています。
それが私の性的指向です。
昔から、友達が誰かと性行為をしたと聞くたびに言い様のない不快感を覚えていました。友達からは、まだ子供なんだよ。とか、いつか本当に好きな人ができたらしたいと思えるようになるって、などという言葉をかけられることがほとんどでした。
そのときは私もまあそんなものなのかな、とそこまで真剣に考えるようなことはなかったです。
でも本当に好きな人ができて、そういった行為をしようってなったときにようやく何かがおかしいことに気がつきました。
好きな人に触れられているはずなのに、私が感じていたのは嫌悪感だけでした。彼が明確にそういった意図を持って私に触れていると思えば思うほど体は強ばりましたし、結局私の気分が悪くなってしまって最後まですることはできませんでした。
心配される方もいらっしゃると思うので明記しておきますが、彼が私にそういった行為を強要した事実はありません。2人で決めたことです。あと、過去に性的被害を受けたようなこともありません。
ただただ私が、相手が好きな人であったのにも関わらずセックスできなかった。それだけの話です。
今はそのことに不安感を覚えるようなことはなくなりましたが、当時の私はとても混乱していたのをよく覚えています。
世間ではセックスは当たり前のように、一種のコミュニケーションツールとして扱われています。私も年相応にそういったコンテンツに触れてきていました。
だからこそ余計に、それができない自分はおかしいのだと自分を責めるように気分が転換していたんだと思います。
結局その彼とは別れました。私が自分のことを正しく把握してなかったせいで、彼にまで迷惑をかけてしまって本当に申し訳なかったです。
そのあと私はネットで色々と性的指向について調べ始めました。そして、初めてノンセクシャルという言葉と出会いました。
私は漠然とした不安感からようやく解放されたような気がしました。私は自分のことをずっとおかしいと思っていたから。
LGBTQに関して、性別の名前を増やしすぎだと思う人もいるかもしれません。マイノリティのためにマジョリティが苦労する必要はないと思う人もいると思います。
それでも私は、自分の性的指向に名前がついたことに心の底から安心しました。自分と同じように考える人がいると知れただけで、自分を受け入れることができました。
自分が今まで手に入れてきた恋愛観にとらわれる必要はないのだとネットを通じて知ることができました。
長々と書きましたが、私はノンセクシャルという自分の性的指向を知って少し気持ちが楽になった、そういう話です。
男性は論理脳、女性は感情脳だとかいうエセ科学めいた言説は無視しろ
女性の方が成長期の発達が早い、これだけだ
それは"オタクのよくある典型的な例の一つ"ではあるが、"全てのオタクに当てはまる例"ではない
まあアニメ・漫画・ゲーム等を禁止されて、なおかつ山奥の分校みたいに極端に生徒数の少ない学校に通っていたら、
もしくは学校に通えないような状況であったなら、
元増田の言うように
>何にもハマれず、いっつも退屈してる人になる
というのもあり得るだろう
だが現実の多くの例においては、教室でアニメやゲームの話に興じるクラスメートが居るのだ
「あのゲームどこまでやった?」「〇〇が〇〇で超強え!」「それは〇〇を〇〇して〇〇するんだよ!」
というチンプンカンプンな会話を横でされながら
と心で唱えながら無言で登下校する毎日が続くわけだ
もちろん彼も親に「ゲームがほしい」「アニメが見たい」等の要求を言う
その時に「ごめんね、うちは貧乏だから我慢してね」ならまだ子供心に納得する余地があるのだが
https://anond.hatelabo.jp/20200611111647
苦しむことなく物事がスムーズに運び、家族や仲間や世間から認められて充実した毎日を過ごしたい?
苦しみもなく、悩みもなく?そんなの無理だよ。
というか、あなたは僕と同じだ。いや、俺は君と同じだ。俺が酔って書いた文章かと思ったよ。
両親に何不自由なく育てられたし、それなりの学歴もある。結婚したし、五体満足な子供が3人いて、都内のマンションは新築で買った。
(あなたは2人で、中古のマンションとかの、マウンティングでは決してない!)
俺の人生は、人から羨ましがられるような人生に見られるらしい。そういうことを言われたことある。
そういう奴らには「お前に何がわかるんだよ」と思ったけど、確かにそういう奴より
モテてた、カッコいい、学歴あり、結婚、子供いる。それなりの年収、とかではある。
いつになったら、幸せを感じられるのか…みたいな。
離婚しそうだし…
常に性欲あるし…
部署さえ変われれば。
あの人が居なくなりさえすれば。
俺を認めてくれる人が現れてくれれば。
妻が心を入れ替えてくれさえすれば。
いつか、いつか、いつか…
で、アンジャッシュの渡部建の不倫ニュース見て、昨日気づいたんだけど、渡部さんが言われているやつ。
たぶん、君もそうだ。
私と、あなたの脳のせいだ。
観たら絶対に自分は怒るだろうなと分かっている映画がある。原作の小説がとても好きで、映画化の際に「そこは変えちゃ駄目だろ」と思うような根底の部分にドひどい改変をされた映画だ。予告CM開始3秒でそれが分かったので公開当時は絶対観ないと決めていたし、観るような気分になる日が来るとは思ってもみなかった。
しかし最近、「公式との解釈違い」のような文言を用いて苦しむ人々をよくSNS上で目にするようになってその映画の存在を思い出し、いい機会だから観てみようかなと思った。何かコンテンツとの付き合い方における知見を得られるかもしれないし。原作版を大事に思いつつも、派生版も楽しんで愛せるような人間になれるならなりたいし……。
観た後では感情が大きく動いて今の気持ちを100%は思い出せないだろうから、観る前に今抱いている改変ポイントについての思いを書きとめておく。
(ひとつその映画について鑑賞前から確実に言える腹立たしい点は、原作者が亡くなった途端にその映画が作られ、「映像化は不可能と言われていた名作が遂に!」みたいな売り文句付きで世に出された事だ。映像化を何度も断ってきていた作者だから余計に……今までは作者が止めていた設定企画を、もう止める者がいない+追悼とか言える勢いから好き勝手にやっただけではないのかと思う。せめて存命中の公開なら「作者はこの映画化を了承したんだな」と思えたし、そうしたらきっと作者は何かしらのコメントを映画へ寄せるだろうから、それを見られればもうそれで良かった。原作レイプ(こんな言葉があったのを久々に思い出した)を通り越して屍姦みたいだ。大切な人の墓に立小便をされた気分だ。)
映画のタイトルは『悪童日記』と言う。原作の小説も同題だ(海外文学の中では普通によく知られてる方だと思うので、勿体ぶった言い方をしてしまって少し恥ずかしい)。
十年以上前、私は好きな作家がたまたま雑誌でこの本に言及するのを読んで、高校の夏休み中に手にとったそれに首ったけになり、ひと夏の間何度も何度も繰り返し読んで過ごした。だからこんな、映画を観るのに支障をきたすほどに思い入れが強くなってしまったんだと思う。
しかしそもそも映画化されたものをこき下ろしたい訳ではなく、映画を映画として楽しめる作品にするためには原作からの多少の改変もやむを得ないというのは充分承知の上だ。だからこの作品についての改変もなんとか納得したいという思いから、今自分は何に納得いっていないかを整理して考えたく、文章に起こしている。
(このカッコ内は余談なのでとばしてくれて構わないが個人的に、映画化された作品は映画→原作の順でふれた方が大抵の場合はどちらも楽しめるように感じる。原作→映画の順だとカットされた箇所や改変部分が気になってしまって映画を100%楽しめない事もままある。例えば私は『ジュラシック・パーク』に映画から先に入ったおかげでスピルバーグのあの映画をメチャクチャ最高不朽の名作だと思っているが、もしも原作の小説を先に読んでいてファンだったら、そこまで手放しで褒められたかは分からない。映画と原作では構成も人物もかなり別物だからだ。原作ではティムとレックスはティムの方がしっかり者の兄でレックスは足ばかり引っ張る幼い妹だし、Tレックスは二頭いて小さい方がかなりチャーミングだし、グラント博士は最初から子供に優しいし、ハモンドさんはかなり嫌な感じの爺さんでコンピーに集られて無残に死ぬのだ。)
改変箇所について書いていきたい。
映画の予告から分かる改変箇所は主に「父親の存在」「日記帳というアイテムの出自」だ。私はこれがこの物語においてかなり重要パーツだと思っているので、予告CM開始3秒で見られる改変にガタガタ白目をむき憤死する羽目になった。
原作の小説は主人公(双子の少年)の一人称「ぼくら」で書かれた日記の形式をとっている。彼らが母親に連れられて小さい町の祖母の家に疎開してくる所から話は始まる。詳しいあらすじが知りたい人は原作のwiki(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E7%AB%A5%E6%97%A5%E8%A8%98)でも見てくれ。ラストまでネタバレされてるから気をつけて。別にあらすじを知らなくてもこの文章を読むのに支障はないと思う。そういうふうに書けていることを願う。
父親云々の話に戻ろう。
主人公の家族について、母親は冒頭から登場するし、すぐに主人公たちを置いて行ってしまうがその後、他の男の赤ん坊を連れて二人の前に現れ、どうこうなるくだりがある。二人が母親に対して色々思いを抱いていることが分かるような描写もある。
描写があるという事は、書き手である主人公の双子がそれを必要だと判断したという事だ。詳しくは後述するがこの日記はそういうルールの元で書かれている。主人公が無関心もしくは不必要だと判じたものは書かれず、必要なものだけが書かれる。例えば作中の時代設定は戦争中なのだがそれが一体いつの戦争なのか、年号や国名、地名や人名などの固有名詞はほとんど出てこない。<大きな町><小さな町><解放者たち>などの言葉でしか分からない。関わる人々も名前はなく、ほとんど代名詞や役職やあだ名などでしか呼ばれない。双子自身の名前も出てこない。彼らは大抵はあんた達、時に祖母からは雌犬の子などと呼ばれる。
「父親の不在・不干渉」が、この小説(というか作者であるアゴタ・クリストフの作品はわりとどれも)に通底するテーマのひとつだと私は思っている。そして出てこないということはそれは「書かない」という姿勢で主人公たちの無関心を示しているのだから、映画にも変にひっぱり出してほしくなかったのだ私は。しかも作品の根幹である日記に関する部分で。一原作ファンの気持ちを言わせてもらうならば。
以下は物語終盤のネタバレとなるので、知りたくない人は読まない方がいい。
原作の終盤、国境付近にある双子(主人公)の家に、国境を越え亡命したいという一人の男が訪れる。双子はその男が自分たちの父親だと気がつくが、父親は二人が自分の息子だとは気付かないまま、亡命の協力を頼みこむ。双子はそれを承諾する。国境までの間には地雷があちこちに埋まっているし、軍の見張りもある。双子は彼に地雷が埋まっていない道筋や、見張りの目の外れる時間帯などを教える。
亡命決行の日、父親は国境へたどり着く前に見事地雷を踏み抜いて死ぬ。すぐにその足跡の上を双子の片割れが辿り、その死骸も踏みつけて国境を越え、亡命を果たす。地雷は国境と平行して並べられている。一度爆発した地雷と国境を結ぶ線上にはもう地雷は無いので、先に一人立てるのが最も安全な亡命のやり方だ。
原作の小説ではこの場面がラストだ。一人は父親の死骸を踏み越え国境の向こう側へ渡り、一人は残ってそれを日記に記録する。父親殺しと、それまで一心同体のようだった双子の別離が同時に強く印象づけられて終わる。
それなのに映画ではどうして、別れる息子達に日記帳を与えるような父親像に変え、それを受けて日記を書く子供たちに設定したんだ? 原作では双子は自分たちの稼いだ金と自分たちの意志で紙と鉛筆を買い、自分たちの定めたルールの元で事実だけを、ただ必要と思われた事だけを淡々と記録し続ける。彼らは感傷や感情は不必要とし、そういったウェットなものが取り払われ切り詰められた文体はこの作品の特長の一つだ。彼らの考えのもと自発的に書かれていくその日記こそが『悪童日記』という作品となっているのだから、日記帳というアイテムとその経緯は何というかかなり……成り立ちの部分ではないのか? この作品の根幹において、重要な位置を占めるはずだ。
それが映画ではいきなり、別れる父親からの最後のプレゼントという陳腐でウェットなしろものとなる。双子は父の言いつけを守り日記を書き出す。制作側はそこに何の違いもないだろうと思ったのかもしれないが、違うのだ! と言わせてもらいたい。強く。
日記帳は、それにものを書き続けるということは、戦時下に父とも母とも別離し粗暴で抑圧的な祖母宅に身を寄せねばならなくなった主人公の双子が、初めて自分たちで選び獲得した、何かそれこそ父親や教師代わり(彼らは学校にも行かない)のような、「この世界で生き抜く上で己の力になり、時に導いてくれる(と彼らが信じ掴んだ)モノ」だ。繰り返しになるがそれを「彼ら自身が」、彼らの面している世界であるところの小さな町で、そこの文具店で「身銭を切って」獲得した点が肝心なのだ。この話は平たく言えば庇護されない子供たちが、彼らの対峙する厳しい世界の中で、自身の力で何とかやっていこうとする物語だからだ。
「父親から与えられた道具」では過ぎ去りし想い出のよすがであるばかりか(感傷は双子がつとめて日記から排除してきたものの一つだ)、それが上の者から与えられたという性質上、彼らにとってただの環境の一つに過ぎない。それでは全く意味が違ってしまう。そうでは無いのだ。彼らは道具がたまたま得られたから書くのでは無く、もちろん父親に言われたから書くのでも無い。書くことは彼らが生きるために必要で、だから彼らは道具を求め、書いた。「書くこと」自体彼らの周りには教えてくれる者がおらず、二人は一冊の聖書を使って独学で読み書きを学んでいった。
「彼らが巻き込まれるしかなかった環境に逆らって、初めて自分で望み獲得したモノ」であったはずなのだ、この日記帳は。「書く」という行為は。そういう意味合いがあったのだ、原作の中では……。
そしてこれは作者の生い立ちや創作の源泉とも重なることが多いので(この作品を含めた彼女の作品群は半ば私小説と呼べるものが多い)、私は映画でこんな改変をされた事について作者の気持ちを思うと、勝手にやり切れないものを感じてしまう。作者はもう亡くなっており、死者が尊重されないのは彼女の作風からするとむしろ合っている事なのかもしれないが……。
とりまとめて言えばまだ子供な上にただでさえ不自由が多い戦火の中、それが主人公たちにとっての武器であり糧であり強く生き抜くためのモノだった日記帳が、映画ではまるで父親から受け取った愛みたいなものに、ともすれば別れた父親を想って書かれているようにも受け取られるものにすり替えられてしまった。かなりアイデンティティぶっ潰れではないか? どうしてそんなことをしたんだ? この日記は彼らの「書く」という意志のもとの話でしかないのにその根本を摘み取り別な物に置き換えたのは何故? 映画を観れば何か納得できる答えは得られるだろうか。頼む、納得させてくれ! 煽りではなく心からそう思っている。
観たら本当にメチャクチャ怒り狂ってしまうかもしれないので心の準備をするためにいくつか映画レビューを読んだのだが、映画では日記帳にパラパラ漫画が描き込まれている描写があるという。パ……パラパラ漫画!? と二度目の憤死をした。あの全ての無駄を省き贅肉を削ぎ落としたような原作の文体、淡々と事実の記録しかしない所に物語的にも大きな意味が込められている事を知っているはずの制作側はどうしてそんな付け足しを? 主人公(ひいては作者)が定め、遵守してきたルールを踏みにじるような真似を……どうして……。
もちろん、映画化された事によって現代日本の読者からは想像もつかないような、主人公たちが生きた当時の暮らしの風土や感覚などを凄いリアリティで感じられる事などについては大変嬉しく思う。そういった映像表現についてはきっと素晴らしい映画であるだろうと感じられるのだ、予告からだけでも。
主人公の双子を演じる少年たちのビジュアルも、原作から受ける印象そのままと言っていい。もうそれだけでも十分以上のものだし、納得出来ない点があっても他に目を向けて感謝して観れば良いのだ……と思えるようになるまでに何年もかかってしまった。映画が公開されたのは2013年のことだ。
私は本当にこの映画を観て納得したいし、納得出来なくてもそれはそれで良かったと思えるようになりたいと本気で願っているが、どこまでまっさらな気持ちでこの映画を受け止められるかが分からない。願わくばこの物語に関する記憶を消して映画を観られたら、その後で初めて原作を読めるのなら、とても幸せなことだと思う……。でも、それは無理な話だ。
だから私はこれから記憶も思い入れも抱えたまま歯を食いしばってでも全部観て、自力で噛み砕いて納得するしかない。きっとそれはこの先の自分にとって有意義なことなんだろうが、こんな文章をジタバタ書いて整理しないと腹がキマらない位には苦しいものがあった。長くなってしまったが、読んでくれた方は本当にありがとう。
せめて映画ではラスト、父親はちゃんと地雷で惨たらしく死んで、主人公はその死骸を踏んづけてくれるんだろうなあ!? などとうるさく言いながら観ることにする。そういう観方でもしなかったら多分無理だ。その後言える感想があったら追記する。怒り狂っていたらすまない。
☆いきなり管を巻きまくってしまったが、小説『悪童日記』はマジの名作の上にアッと言う間に読めるので、気が向いたら是非読んでみてほしい。もし面白かったなら続き(『ふたりの証拠』、『第三の嘘』)もある。全三部作で、全て読むと分かる構成が本当に、本当に素晴らしいんだ。
https://anond.hatelabo.jp/20200530164357
https://anond.hatelabo.jp/20200531081711
彼らに触発されて、地方在住年収450万のリアルを教えます!!どどん!!
まずはスペック。
30歳男、既婚子供一人、地方在住、昨年の年収は470万くらいで手取りは390万ちょい。
博士号持ちの研究教育職。高校からJASSO奨学金を借りていて合計1000万円ほど。今は月4万くらいずつ返済している。
まだ子供が小さいので妻は専業主婦状態。貯金は出来ていないが、全体的な収支としては何とかプラマイゼロくらいで抑えている感じ。
世帯用の社宅で家賃2万、築50年の鉄筋コンクリート集合住宅、3LDK。わりと広くて部屋は持て余している。
さすがに古くて所々ボロがきてるけど当分引っ越すつもりは無い。家賃が安くて助かっている。
弁当は昨晩の残りもの+業務スーパーの冷凍のオクラ・ブロッコリー・ほうれん草など決まったもの。
ごはんに鮭フレークとか鳥そぼろをかけると「贅沢したな」と感じる。
子供が生まれたらほとんど誘われなくなったが、何だかんだで月1回くらい。
1回で4000ー5000円ほど。
自宅での晩酌は週に1日か2日くらい、妻と2人でビールを1缶飲む。
誕生日で5千円くらいのウィスキーを買ったので少しずつ飲んでいる。いいワインを買うのは年に2回くらい。
肉や魚はイオンで安いものを買う。野菜は地域の農産物直売所で安いものを買う。
コンビニは仕事に向かうときに朝ご飯におにぎりを買う。時々おやつも買う。比較的物価は安い場所だと思う。
大正義ユニクロ。ブランドとかは知らないし買わない。Tシャツ等消耗品的な衣服以外はここ数年ほとんど買っていない。
地方民なので車が無いと死ぬ。中古で買った50万の軽自動車と40万のコンパクトカーの2台持ち。任意保険も車両保険は付けない格安のもの。
家族での旅行はめったに行けませんが、仕事上の出張などでお金のかからない国内旅行は年5回くらい、海外旅行は年1回くらいあります。
Zaimというアプリで月ごとに1円単位で家計簿をつけている。
支出の内訳:水道光熱費2万円、通信料8千円、食費7万円、日用雑貨1万円、趣味娯楽3万円、医療費保険費1.5万円、車関係2万円、奨学金返済4万円などなど
という訳で、これが私の生活レベルです。
年収1000万、1600万増田さんと比べるとそりゃあ貧乏感がありますが、これでもこの地域だと年齢の割に稼いでいる方だと思っています。いやマジで。
同じ職場に、私より年齢が上で給料低い人はごろごろいますし、地域を見ても貧乏な暮らしをしている人が多いと感じています。
子供が大きくなればもっとお金がかかりますし奨学金の返済もずっと続くので、子供が大きくなってきたら妻も働く予定です。
ヘビーリスナーです。
4月30日深夜のオールナイトニッポンで岡村君は
最初の40分間は申し訳ない気持ちで反省、謝罪の言葉を何度も繰り返し
大変落ち込んでいた。ダイジョブカ・・
その後、結婚を機にオールナイトニッポンを辞めていた矢部君が登場、
矢部君はやさしいな。2010年に岡村君の頭がパカーンしてしまったような
2010年にも岡村君がヤバい状態のとき「休め」と言ったのは矢部君
だったと聞いたきがする。
矢部君はまだ子どもも小さいだろうに深夜の1時からの番組に現れ、
ヘビーリスナーにとっては、ラジオ最後の「ワーワー言うております。お時間です。さようなら」
は懐かしい思いがしたであろう。
岡村君も年を取り、いつのまにかお笑い界でも、その発言が大きくとらえられてしまう
岡村君にとって、オールナイトニッポンはとっても重要な場所なのだろう。
高校の同級生の話や正月に実家に帰ったときの話がよく出てくる。
普段であれば気を付けてトークしていたと思うが、コロナの影響で
よく反省してもらいたいが、
ラジオは続けてほしい。
将棋の場合だと、女流棋士は勉強会に参加させてもらえないという話。イベントなどで薄給でこき使われがちだったり、仕事掛け持ちで生活費を捻出しなければならないので、勉強時間が不足しがちとか。そんな訳でいつまでも女流は全体的に弱く、弱いという事実が一層「女に将棋を教えても無駄だ」という偏見が強化されていっている。
女性棋士と女流棋士はそもそも別物で、女流はプロの棋士よりも入段基準が低いというし。女性棋士は男性と同じ基準で選ばれる。
一方で囲碁の場合はプロの世界では男女の待遇差がないらしく、女性棋士でも男性棋士と互角に渡り合っている棋士はちょくちょくいる。
シェ・イーミン、仲邑菫(まだ子供だけど)、ヘイ・ジャァジャアなど、見た目と実力かね揃えている広告塔にうってつけ人材もいるし、あの藤沢秀行の孫、藤沢里菜もいる。女だからって冷遇するのは勿体ないんじゃないか、たぶん。
ただ、子供の囲碁を取り巻く環境はあんまり変わっていないというか、女児に不利だなと見ていて思う。女の子でも、強い子は強い、大会ベスト4の一人くらいは女子がいる感じ。だが、保護者の意識としては「女の子に勝負事なんて……」っていうのがまだ根強い。仲邑菫効果で女児の入門は増えたように見えるが、やはり高学年になると、男の子は碁キチでも暖かい目で放置されるが、女の子は進路選択を突き付けられて碁にかまけてはいられないように見える。
……という現実を見ると、強い女性棋士は出てくるものの一部の特別な存在みたいに思われちゃって、プロ棋士の半分が女性には当分ならないんじゃないかと思う。