はてなキーワード: 転覆とは
さかくら総本家さんでの大物販市、ボークス秋葉原ホビー天国さんでの夏祭り
作中で武蔵含む様々な船を暴走させたのはRATtと呼ばれるネズミに似た生物です。
でもRATtは、かわいそうな奴らなのです。
7話のように船が転覆して取り残されるようなことがあっても、生存率を高めるための研究だったのでしょうね。。。
(そして、沈没していた潜水艇に取り残されたRATt達が生き延びていたので、きっと成功していたのでしょう)
本来は人に希望を与えるための研究が、大きな災害をもたらしてしまった。
そういう観点で見ると、ハイスクール・フリートはSFチックな世界観を持っている作品ともいえます。
さあ、本日はここまでです!それではまた次の機会に!
https://anond.hatelabo.jp/20170712073958
ここでも言われてるが道理が通ろうがなんだろうが「死んで償う」という発想がでるのは
お家のため、殿のため、一族のため、であるならばいかなる非合法的な手段も取るし判断もする
豪族が出来て
天皇が出来て
武家が出来て
幕府が出来て
戦国が出来て
徳川が治めて
鎖国して
尊王攘夷をして
明治政府が出来て
太平洋戦争して
負けて
バブルがはじけて
既得権益だけ残り
潰れ保護され
外資が買い取り
またロジカルシンキングが輸入されて
競合はそれを遅まきながらマネし
おかげで景気が回復し始めてる
外敵のいない政治は
未だに儒教で回ってる
いや、1度だけあった
今では朝日が扇動したからだとか陸軍が悪いとか言ってごまかすが
なんてことはない
これを客観的に受け入れないことには
もうね
全部儒教のせいなんですよ
「年功序列」
これ立派な宗教ですよ
実際に行動することはない
主役になる気はゼロで
これ全部DNAのせいですよ
この滅私奉公の精神とGHQが輸入したシステムとバブルが絶妙にマッチした成果が
これこそが儒教の真の姿ですよ
日本人はみんな管理されたい欲求と奴隷根性がその血に刻み込まれてる
「仕組み」よりも「真か否か」よりも「誰が言ったか」の方だ大事で
あなたの人生の主役は天皇でもなければお上でもないし世間でもないし将軍や会社でもない
というと、途端に不安になって何かに縋りたくなるのがDNAのせいなんだよな
みんなこう考える
日本人はみんな蟻です
日本は、重大な危機を迎えている。戦後自虐史観が日本の伝統的な人間観を追いやり、竹島や尖閣地域には隣国の軍隊が違法な占領を我が物顔で続け、英霊たちの魂はますます穢されている。行き過ぎた人権論者たちは、自堕落で無責任な貧しい市民やマイノリティを過剰に保護し、公然と善良な一般市民たちの自由を奪おうとしている。
その一方で、在日朝鮮人のスパイが民進党からそれほど遠くない所に隠れて反日転覆工作をたくらんでおり、安倍政権の関係者たちへのネガティブキャンペーンを繰り返している。もちろん神社本庁もだ。リクルート事件級のスキャンダルが迫りつつある。
「老人に回す福祉は予算無理だから切り捨て、若い世代にお金を回す」
というペーパーが出て賑わせている。
割りを食いまくった氷河期世代の人たちは
このペーパーをよくやった!よく言ってくれた!と見る向きが多いように思う。
もちろん政府が転覆すれば大きく変わるだろうが、現実的には考えにくい。
実際は10年、20年という時間のうちに、
社会のマインドが「老人は切り捨てて若いやつが生き残ることに最適化されるべし」
に変化していく。
そのころ僕ら氷河期世代は60代になっている。
就職の時に大きなダメージを受けて、そのまま訓練が積めず歳をとり、
そして、老齢期では見捨てるというマインドが一般的になる。どこまでも絶望的だ。
僕らの老後に重くのしかかるものであると認識しなければならない。
社会の中核を担えている今のうちに、
僕らは僕らの生き残る道を探しておかないと大変なことになりそうだ。
何年か前までは毎日のように新聞記事を読み漁っていた。1日5時間かける日もあった。真面目に読んで整理してとやるとそれくらいかかる。
きっかけはイラク戦争前に大量破壊兵器があるという証拠もないのに攻撃が始まり占領後結局なかったこと。
戦争は結局話し合いが決裂したらいつ起こってもおかしくないというものでしかない。かつて核開発を放棄した例で、リビアのカダフィ大佐がいた。北朝鮮もこの件に関心を寄せていたらしい。どんな交換条件が米などから提示され、カダフィ大佐はどう今後の自分の安全を守るつもりかを知りたかったのだろう。
結果カダフィ大佐は数年後の"アラブの春"の一連の政府転覆のさなか潜伏場所がばれ自国民になぶり殺しにされた。北朝鮮も当時核開発の放棄をするべきではないとの論説を出していたはず。アラブの春と同じことが北朝鮮で起これば止めようがない。政治とは参加する人が動かすものだ。そもそも我々は日本語ではまともな情報を得ることすら難しい(それが僕が新聞を読み見込まなくなった理由だ)。またこの国には発言権を大きくするために使える力が特にないのだ。政治家も国際会議で何もできないなら黙っていろと言われたらそれ以上何も言えずに帰ってくるのではないだろうか。
一部のリアリストに言わせると、我々リアリストの理論では日本が核武装しない理由が説明できないが、日本が存在するのもまたリアルなので理論を修正しないとということらしい(内容は知らないがそれでネオクラシカルリアリズム:新古典派現実主義みたいなのができたのだと聞いた)
また最近ふと考えた。個人主義は、人間はどうしても矛盾してしまうというような問題も、各個人の問題として向き合わないとダメなのではないかと。リベラルも個人の自由を求めているんだから結局は個人主義だからそれをやらないとと。保守派というのは、そもそも人間の限界を認めているからこそ、古くから続いている制度や風習に価値を認めているわけで。
ヘーゲルやそれを批判的に発展させたというマルクスやレーニンの主義は、理性に全幅の信頼を置いていたが失敗した。サルトルが最後まで擁護していたというがその後はもういないらしい。つまり人間の理性はどうせ間違えるという考えの人ばかりがこの世界にいる。
みな自分の間違えが明らかになって修正の必要があれば修正するという人ばかりだろうか?批判されれば耳を貸すだろうか?
そんなことはない。人間の幸せは信じたいこと信じたいように信じることなんだという様に最近考えるようになった。悪いのはやつらだと言い続ければ、自分の信じることが間違っていてもその考えをしばらくは延命できる。ミサイルが頭上に降ってくるまでは。
前の戦争を体験した人は一巡して消えつつある。80年周期で世界は激動気を繰り返すという説がある。太平洋戦争勃発が1941年。その80年後は2021年。
人間は結局おろかだし、おろかであるということを認めるのも辛いことだ。リベラルは個人の辛さをわやらげる社会でないとと言うだろう。また人モノ金の動きは早すぎて保守をやるにはもう世界は狭すぎるようだ。
日本人は戦前から海外から見れば、一見おとなしいが怒りだすと手がつけられなく、何をしでかすか分からない人々という評価が続いている。また中に入って観察した人も、良い面もあるけど、本当の事を言ってはいけないというやり方をどうにかしたほうがいうのを聞く。
そもそも男性のほうが女性よりもリスクを好むから、新規探索性が高いんだよ。新規探索性が高いというのは、即ち「発明家に向いている」という話で、革新的な発明を男性がしているのは当たり前の話。新規探索性の高い人は、農耕などの地道で退屈な作業には向いてない(そういうのは、安定志向の強い人が好む仕事。)故に発明家は農耕に向いていない。だから、「発明した数」を能力の指標とするのは、偏りが大きすぎる。故に、これは性質の話であって、能力の話ではない。
そもそも、文化的に女性蔑視が強かった時代には、女性が活躍できる条件が揃ってなかったりとか、その時代に話を限定するなら、女性の偉人は少なくて、むしろ居なくて当たり前。
もし世の中が転覆して女尊男卑が当たり前の世の中になったとしたら、男性の偉人なんて現われっこない。そういう条件がイーブンになって、初めて能力差の話をしようぜ。
それから、男性のほうが新規探索性が高いと言ったけど、新規探索性の高い人ほど、安定志向は低いから、例えば新規探索性の高い人が事業を起こしてそれがヒットしたとして、軌道に乗った後はまともな経営にならない。そういう人には安定志向の強いパートナーが必要。ちなみに、女性は男性より、安定志向が強い。これはあくまで傾向の話であって、新規探索性の強い女性も、安定志向の強い男性も、もちろん存在する(そもそも、新規探索性の高い人自体が、世の中的に少数派。)
ちなみに男女の能力差については、統計的な結論が出ていて、男性は天辺から最下層までの能力差が激しく開いているのに対して、女性は天辺から最下層の能力差がそれほど大きくない。
故に、トッププロ同士で争わせたら、男性が勝つのは当たり前だけれども、最下層同士で争わせると、当たり前に女性が勝つ。平均すると、どっちも大して変わらない。
正直、男性と女性とどっちが優れているか?なんて、コンプレックス丸出しの、ナンセンスな論議だと思うがね。性差なんかどうでもいいから「人類全体で何ができるか」を考えようぜ。
1984というと一般には全体主義的監視社会という観点で語られがちであるが、実のところ、かの世界でテレスクリーンによる監視を受けているのは全体の20%にも満たない中上層階級だけである
では残りの80%――プロレと呼ばれる労働者階級――はどうしているのか
教育は与えられず、ニュースピークにより思考の方法は奪われ、代わりに無害な娯楽(プロレフィードと呼ばれる)と党のプロパガンダが与えられる。そうして実際には党からひどい搾取を受けながらそれに疑問を抱くことはなく、二分間憎悪に熱狂し、B.Bを熱愛する
こうして政治的に去勢されたプロレは、もはや体制に脅威を与えうるものではないと見做され、永遠の窮乏と抑圧の中でほとんど"放し飼い"にされているのである
昨日のプロパガンダと今日のプロパガンダに齟齬があっても彼らは気にしない。より上位の階層であればそのような認知的不協和を解消するために二重思考を用いるのであるが、プロレはそんな面倒な(そして高度な)方策を用いるまでもない。彼らは今日与えられた"真実"を今日の真実としてただその中に生きている
このような社会では中層階級が立ち上がり下層階級と手を組んで社会を転覆することは起こりえない。立ち上がる可能性のある中層階級に釘を刺すために監視は行われているが、しかしそれは党の支配原理の中枢ではない
次に狙われるのは金正男の息子、漢卒だと噂されている。
曰く有名な大学を経てエリートコースを進み、民主主義を好んでいるという。
金正男同様、脱北者が作る暫定政府の若き指導者として担ぎ上げられることを金正恩は警戒しているらしい。
これだけでも下手な小説や映画を遥かに超える大河スペクタクル。
それを海を挟んだ特等席から見学できるのだから日本人は堪ったものではない。
三男が金正恩。
今回正男が暗殺されたが、残る正哲はどこに行ってしまったのか。
どうやら音楽やら趣味やらに没頭して政争には関心がなく、結果として正恩に後継者争いに影響なしと判断されて軟禁されている。
手元には1本のギターがあるだけ。
その時目覚めるのだ。
彼を支えるのは息を潜めていた反正恩派の幹部たちだ。
処刑された張成沢派の残党も金正男亡き今手を貸すかもしれない。
彼らは蜂起する。
好機は今と脱北者の暫定政府を中国の後押しのもと打ち立てるに違いない。
内外同時に起こった大きな流れに金正恩は抗いきれず、遂に北朝鮮に革命が起きるのだ。
そんな妄想をグッドモーニングのお天気お兄さんである依田さんを見つめながら歯を磨いているときにぼーっと考えていた。
今週もあと一日だ。
本来、三大命題の二つ目を書きたかったところだが、こちらの問題を先に論じさせてもらう。
この論考は以下のURLにたいする一人の若者からの反論である。
https://togetter.com/li/1080097
以上の新聞記事で、上野女史は「経済を犠牲にしてでも、平和国家として衰退すればいい」と主張している。
この主張にたいする批判等は、本職の社会学者に任せるとして、ここでは私の純粋なる反感について述べていきたい。
上野女史は無邪気にも、戦後日本を「平和国家」としてとらえている。
この考えはまったくの見識違いといわざるをえない。
そもそも、戦後日本の社会体制は1940年代の「総力戦」体制を「経済最優先」の形として再編したものである。
扶養控除、源泉徴収、終身雇用制、護送船団方式のすべてが元々「戦争を想定して」造られたものだ。
1950~60年代には、「高度経済成長」の美称の裏で、世界でも稀にみる学生運動、市民運動、社会不安が吹き荒れていた。
70~90年代にかけては、家庭や企業に社会体制のガタが入り、人々を「死へと誘う」システムへと変貌していった。
これが少年非行やいじめ、過労死などの狂気的な状況を引き起こした。
戦後日本とは、世界的にも稀にみるただの「ゆたかな社会」である。
まったく「平和」でも「民主的」でも「自由」でもなかった。ただただ「ゆたか」だっただけである。
しかも、「ゆたかな社会」は90年代~2011年にかけて完全に崩壊した。
最後に、原発事故とともに社会の安全神話が吹き飛んでしまった。
この事実について語らない者はすべて、今の時代にたいして不誠実である。
それはギデンズやバウマン、ジョッグ・ヤングなどを見てもらえば分かるが「流動的、効率的」である。
企業におけるセーフティーネットが「生産性や自己実現の神話」の名のもとに縮小され、
政府が担っていた安全保障は「構造改革」の名のもとに縮小され、
監視カメラやSNSの監視なしに、人々は安心して生きることができない。
不誠実な脳科学や認知神経科学、AI研究によって人間という「私」の特権性が失われ、
人々は常に失職と人間的尊厳の消失を心配するようになっている。
そして、このような多様な人々が同じ町で同じように暮らしている。
このように、後期近代社会とは
当たり前だったものがすべて崩れ去り、人間を永遠の虚無へと投げ出すのである。
このような状況では、人々は二つのレベルの不安を抱えることになる。
である。
人生の多くを占める活動である仕事にふさわしい「対価」が支払われなくなってしまった。
一方、ただ一日中、パソコンを見つめて投資とやらというギャンブルをするだけでも「対価」を得られる人々もいる。
「不当な地位にいる!」
「ふさわしい金額、敬意をもらっていない!」
という相対的剥奪感を抱かせる。
また、後期近代の社会はいわゆる「コミュ力」の高い人々が成功する。
軽薄に仕事にたいする敬意なく、強者に追従する人々が「評価」され、グローバルエリートとして出世していく。
そして、仕事に真面目ながらも報われない弱者は常に「自己批判」と「変革」を迫られる。
二極化する現実に人々は「私は人間らしい扱いを受けていない」という存在論的不安を抱かせる。
そして、人々はつねに不平不満をもらすのだ。
「私はこうなれたのに……」
「私もこうしたかった……」
ここでは深く述べないが、この可能性としての私=‹他我›にたいする深い怒りの感情が現代の社会不安の核心にあるように思う。
上野女史は「みんな貧しくなる」ことによって、この怒りを無くせるなんて無邪気にも思っている。しかし、それは不可能である。
この感情こそが永遠の虚無において、私を生きることのできる唯一の鍵だからである。
――常に人々に嫉妬を抱かせながら、その嫉妬を用いて欲望を加速させる。そして、その嫉妬を全身に受ける者は高笑いしつづける。
このような後期近代のグロテスクさに最初に抗議をあげたのが赤木智弘だった。
彼はある論考で「夢は戦争」とドゥルーズ的な集団自殺の理論を主張した。
今や「戦争」こそが「富裕層」を富ませ、「貧困層」を殺すことを知っているからだ。
加藤智大、植松聖などの社会的自殺者は、情報として処理され資本となる。
そして、情報となった「自殺」は「貧困層」による社会転覆の不可能性を解き、
後期近代において、「自殺」こそが「富裕層」へのもっとも積極的な「支援行為」なのだ。
防ぎようのない「天災」によって、
この瞬間を心の底から待ち望む。
109が崩壊し、秋葉原が灰塵に帰し、大手町のサーバーがダウンし
白金の御婦人たちが焼け出され、お台場の子どもたちが押しつぶされるとき、
そのときに来るのが、
東のいう変質したファシズムなのか
知ったことではない。
相対的剥奪感や存在論的不安に晒されることなく嗤いたいのである。
そして、私は嗤いながら確信する。
攻めあぐねるモレツ帝国に対して、テイジー同盟も有効な反撃ができているわけではなかった。
建前では彼らは全知的生命に自由な冬眠をもたらすことを国是としていたが、
赤道地帯の縦深を突破して、モレツ帝国の中枢に迫るだけの国力に欠けていたのだ。
皮肉にもゆいいつモレツ帝国転覆の可能性があるのは、帝国赤道派遣軍の反乱であった。
そして、リゲイーン赤道要塞で起こった反乱は未曾有の規模にふくれあがった。
しかも、半年間動かなかった。彼らが何をしていたのかと言えば。
寝てた。
心配そうなテイジー同盟の軍使に反乱軍の司令官は快活に答えた。
物心がついてから初めての冬眠を経験した兵士たちは清々しい気持ちで北へ向かった。
半年間の待機にはテイジー同盟と交渉して補給を受ける目的もあった。
反乱軍の司令官はテイジー同盟の指導者たちが冬眠から覚めるのを待ったのだ。
鏡の国において禁じられた行為が、それぞれ特権となるのであった。
彼らは一昼夜の奮闘の末に壊滅した。
テイジー同盟軍が増田アースの反対側でおこなった助攻勢がもっと大規模であれば、
違った結果が得られたかもしれない。
壮士去って復た還らず。
日米中ロ、どこも北にいったん「戦闘で勝つ」ことはできるかもしれない。でも「戦争に勝つ」ことができるかね? マッカーサーは一度、北朝鮮に「戦争で勝とう」としたわけだが、それでどういうことになったか知らないわけじゃないよね。北相手に「戦争に勝つ」ってのは、国際政治も含めた全体の中で「勝つ」ということでなくてはならない。その意味であの国に「勝てるから攻め込もう」という国があるかね。
そして戦中戦後に大量に発生するだろう難民、それにまぎれたゲリラ、テロリスト、そして不安定な管理の下にある核ミサイル発射の危機…そのどれ一つとっても、実行された時点で、実行された側の政治主導者は、危険な戦争に自国民を巻き込んだ見通しの甘さを激烈に批判されるだろうね。それだけのリスクを冒して得られるメリットを示せなければ、戦争自体が継続できないのでは。だが、一体どんなメリットが示せるだろうか? ……事前に「北の脅威」を過剰に宣伝して「脅威の排除」をメリットと国民が感じるようにする? なるほどそれは一つの手だ。だがその宣伝は同時に、北からの「反撃リスク」を実際以上に高い効果のあるものと感じさせるという意味では、結局宣伝の効果は相殺されるのではないだろうか。イラクの時のように「大量破壊兵器があるから」とやる? 残念ながら「ある」と本人らが宣伝しまくってる現状を見ても、それが戦争へのモチベーションとして働くよりは、抑止力として働く効果の方が大きそうだね。
ならば「非人道的な政治体制の転覆」それ自体を目的とする? それほどの「正義」感と人類愛、人権意識の高い国(笑)がアメリカ以外にあるかなあ。そしてそのアメリカは……過去の経験というトラウマに襲われてる、その上イスラム原理主義と同様の泥沼戦争を継続中……ときたら、まあ手を出す気自体が起きないだろ。
結局あの国については、ゆるやかに崩壊を待ちつつうまくお隣の韓国に吸収してもらうのを待つ……くらいしか対応のしようがない。正直「戦争で北に勝つ」なんて、あなたのあげたどの国にとっても夢物語だ。あの国に勝ち、あの国を自分のいわば「領土」として引き取りたいと積極的に思う国はない。そして、勝ちたいと思わない限り戦争には勝てない。オレが言ってるのは最初からそういう話。あの国は当分あのままだ。それは、誰もあの国に「勝ちたくない/勝てない」からだよ。
文章として本当にいいものを書いたな、という手応えがあるときにいい反応は絶対にない。
マイナスかけるマイナスがわからない馬鹿にでもなったつもりで、趣旨も一貫しないような、主観をまき散らすだけの、「思う」連呼の小学生の作文みたいな稚拙な落書きを推敲一切無しで書き散らすと簡単につまらん説教がしたいアホが釣れる。
みんなただマウンティングがしたいだけなんだよね。
本当に興味があるとか感動したとかそういうものに対する反応を大きく取り上げるシステムになってないんだよ。
むしろ、誰にとってもクズでしかないものほど、クズを利用して相対的に自分を立派に見せたい承認欲求を吸い寄せる事で成立する仕組みになってる。
これはそもそもいいものを素直に褒める習慣のない日本人の性質の問題もあるのかも知れない、とは思う。
まあでもそれもたぶん程度問題だ。
自分は英語しか読めないが、英語話者の言論空間で繰り広げられる世界的なやりとりを眺めていても、多少の自制心は感じられるが、本当にしょうもないものほど無視出来ずに衆目が集まり、結果として逆にクズの存在感を高めてしまうだけという現象はそれなりに見られる。
日本の場合は、それをある意味で『薄める』効果を持った、「ほんの些細ないいものでもとにかく褒める」というカウンターの熱量が相対的に足りないだけだ。
他人に教えてあげたい新情報を盛り込み、読みやすさを考えてきちんと順を追って説明し、一読諒解でスッと頭に入って来るように文章を整えると、まあ、まず酔っぱらいの気まぐれくらいな無差別なクソレス以外は、トラバもブクマもつかない。
スッと読んでうむ、と納得して終われるように読者への配慮を怠らない事は、通常の作文技術で言えば必要不可欠の基礎技術に当たる。小学生の算数が覚束ない状態で高度な数学へ手を出そうとしても、計算間違いばかりで教科書を読み進めるのすら難しいのは誰にでも想像がつくことだ。
しかしこれがネットで発表するブログやSNSの記事となると、むしろそんなことをしない方が生存戦略としては正しいという現実になる。
読んですぐ、どころか読みながらすらすでに反論や混ぜっ返しを構想しつつ出しゃばる計画を企図し、吸った息を吐くようにそのままノータイムで書き込むなんてことは従来の文章の使い方としてなかったことだ。単なる口頭会話の置き換えのつもりで軽く見ている人もいるかも知れないが、文章には口から発する言葉と違って一息(一文章)で長々と演説が出来たり、本当のリアルタイムというにはタイムラグがあったり、それらに起因する割り込みや訂正の難しさがあったりして、現実としてこれらネット上の文字コミュニケーションは音声と文章、両方の悪いところだけを引き継いだような最悪のコミュニケーションツールになっている。
文章は、書き、読み、思い、反論でもそれを踏まえたまったく別の場所での言及や自説の開陳でも、それらステップの間にいくらでも考えを改めたり気づき直したりという猶予があるものだった。
だからこそ、文章術とはまずすんなりと理解させることに重点を置いていた。
スッと読んでうむと納得して、まとまった形で頭に残っているからこそ、検討も検証も出来る。わかりやすさとは頭に残り、こころに残り、読み手のその後の人生の中でじっくりと「対話」をしてもらうための絶対条件だったのだ。
感情や空気に流されがちな体面の問答と違い、ひとつの思想パッケージとして読み手の中に取り込み、そのあとでじっくりと自問自答という形で葛藤してもらうことこそが文章と言うメディアを用いた「対話」のやり方だった。
「逆に名文。」「むしろ名文。」?そんなありきたりの逆説は要らない。
後から折りに触れじんわりとその一行一行を噛み締めたり、何度も読み返したくなったりする深みがあるか?
せいぜい「日本死ね」が大喜利的にバズワードになるだけじゃないか。
「日本死ね」はレトリックとして死なないものの死を願うという無常感、絶望感を含有した良い捨て台詞だと思うが、バズワードにはそういう文脈は考慮されない。ただ字面上同じであれば単に自分の気に入らない相手(普通に死ぬ、比喩になってない相手)を死ねと罵倒するのにも平気で使われる。
あくまでそれはただ大海原の表面が鳴動しているに過ぎない。船を転覆し浅瀬の生態系をかき乱す力はあるかも知れないが、人のこころの深いところを揺り動かし、大きな変化をもたらすような津波にはならない。…変な比喩だが。
自分のこころの深いところに入り込み、そこに不可逆な変化をもたらしてしまうようなものを読まなければ、書かなければ、知は停滞する。
まとまったものを読み、読み切った後に意識の中に残った断片あるいは芯のようなもの、それらの感触、反芻、自己言及的な葛藤を通して得られる新しい自分…
そういう一種のコース料理のようなひとつづきの体験が文章という表現に当たり前に付随するものとして認識されなくなっている。
いきなり俗な話になるが、これはエロゲーのシナリオを文章や物語として扱う層への違和感と似ている。
ひと文字いくらで量を書いてナンボなんて世界で書き増されるだけのテキストデータに芯や内容なんて生まれない。エロゲーのシナリオには「読み終わり」すらない。
ただカネを納得させる「量」と水増しを誤摩化すための「刺激」でエロシーンまでの間を前戯的に埋めているだけのものだ。さながら増田が、ネットでバズるブログやSNSの投稿が、文字として表された思想や人格を葛藤するよりもただ愉快な炎上を持続させるための刺激としての埋め草であるように。
ネットの言論空間というのは、本当に「脊髄反射」という言葉が相応しい。
文章の、言論の装いを纏ってはいるが、その実いっさい論者の芯の部分を経由していない、ごくごく皮相的な反発の応酬で成り立っている。
その場で読んで、その場で反発して、三日経てば何を読んだのか何が書いてあったのかその一節すら思い出せないようなインク(メモリ)のカスに右往左往して、白熱した議論かなにかを装いながらどんどん使われない脳味噌が退化していっている。
これがネットでだけならいいのかもしれない。使い分けが出来ているのなら良いのかも知れない。しかし実際のところ、刺激としての文字列に慣れた脳味噌はまとまりを、芯を感じる力を明らかに加速度的に低下させている。
『ズートピア』はオーウェルの小説『動物農場』のディズニー流のアップデートである。舞台こそ農場という本来動物がいるであろう場所から都市、街に移されて、動物たちの文明化もはるかに進んでいる。また、田舎と都会という多層的な背景を採用し、人間社会の複雑さがさらに反映され、戯画化されている。戯画化で思い出したが、古くから動物を擬人化させて描かれた物語は数多くあり、日本でも代表的なのはその名の通り、『鳥獣戯画』であろう。その中でも『動物農場』がモチーフとされていると断定できるのは、こと権力の逆転が物語の節目として描かれているところだ。さらに、『動物農場』の結末が、「動物主義」という思想を掲げながら搾取的な社会構造が生み出されたのは、人間とほとんど見分けがつかない"2本足で立って歩く豚"であることを考えると、もはや『ズートピア』は『動物農場』の続編的な作品ではないのかと思えるほどだ。
しかし、私が主に取り上げたいのは『ズートピア』と『動物農場』の相違そのものではない。『動物農場』のアップデートであるなら、そもそも『動物農場』という作品が生み出された背景がそうであったように、『ズートピア』もまた同様に"子供向け"に戯画化されたものではない、ということだ。つまり、ある一定のディズニー並びにハリウッド作品を観る際にどうしても想起してしまう"勧善懲悪"とも呼ばれる単純な力関係に留まる作品として論じてしまうのは、この作品が描いている(我々が住む"先進国"社会に酷似した)社会形態のを、グロテスクなものとして描いているという事実を見落としてしまう、ということだ。
「グロテスク」が具体的にどういう性質を指してるかは後に詳しく取り上げるとして、まずは『動物農場』との相似を洗い出そう。『動物農場』では既存の権力の持ち主である人間を打倒しようと農場内の長老である豚が呼びかけた後、その長老と同じ種である豚が主導となり人間の打倒と、権力の奪取を果たす。権力の逆転が描かれた後、そこからさらにその権力が腐敗し、かつての権力の持ち主と酷似していく様を描いている。『ズートピア』でも同様に、権力の持ち主である肉食獣を追放し、草食獣が権力を得る。しかし、その後の社会様相の腐敗として描かれるのは、『動物農場』のそれとは違うものである。この肉食獣が追放される背景は、砂川秀樹が「男色は近代社会化以前には受容されていた」という言説に対する反論として、近代社会以前から否定的に捉える見方があったことを挙げ、それが近代化社会以降にゲイに対する「病理フレーム」が形成されたことの背景にあるという指摘していたケースと酷似している。すなわち、ズートピアという街にあてはめるなら、冒頭の子ども劇において近代化・文明化というものを"進んだもの"とする言説が背景にあるからこそ、その言説が暗に導き出す"野生"というスティグマが、肉食獣という属性に表象として充てられた、というわけだ。草食獣であり小動物であるジュデイが警察官を、肉食獣の子どもが税の査察官を目指すということを、それぞれの属性と"相反するもの"への志向(だからこそ"自由"や"可能性"の提示となる)として挙げられていること自体に、すでにこの世界を形成する言説の中に、後に肉食獣が「病理フレーム」の中に収められることを暗示している。
『ズートピア』と『動物農場』でそれぞれ権力の腐敗の在り方が違うのは、『ズートピア』が主題として据えているのは、差別が未だ存在する社会においての振る舞いであり、また、そうした社会と対峙することの難しさであるからだ。だが一方で『動物農場』と共通しているのは、たとえ既存の社会構造の不当な点を糾弾したものであったとしても、新たに権力に座する者が、特定の属性を以てして社会的地位を不当に貶めたり、あるいはその逆に持ちあげたりすること。つまり、権力の立場にあるものが、いち個体が否応なしに複合的にまとうあらゆる属性の中から任意の属性を持ち出したり、あるいは見出したりして、それを根拠に権力側の良いように用いることそのものが社会の腐敗を招く、と指摘している点にある。こうしたケースは今日の"先進国"社会においても行われている。そのあらゆるケースの中でも、創業者であるウォルト・ディズニーが、かつて「赤狩り」と呼ばれたハリウッドにおける排除運動に加担していたという記憶を持つディズニーにとっては、なおのこと無縁ではないだろう。なぜなら、その赤狩りこそ、『動物農場』が受容されたのと同じ背景の中で起きた現象なのだから。つまり、『動物農場』が、"反スターリニズム、反ソ連"として受容された時代のイデオロギーの中に回収された結果招いた、「赤狩り」という別の形での全体主義化を経た後の問題提起をする為、違った様相の社会の変化を描く必要があったのだ。では、その必要とはいったいどういう形のものなのか。
まず、そもそもの『ズートピア』(原題も"Zootopia")というタイトルから振り返ってみたい。誰もがその語感から、動物園("Zoo")とユートピア("Utopia")を連想するこのタイトルと、それが充てられた都市の姿や本編内で取り上げられている問題とを照らし合わせると、この名前が一種のミスリードを引き起こそうとしていることは誰の目にも明らかだろう。しかし、このユートピアに対するミスリードを行おう、という意図が製作者側にあることを考えると、一方でユートピア思想そのものを全く信じていないであろう、という可能性が高いものとして浮かび上がってくる。つまり、この作品世界はそもそも、主人公にとっての、あるいはそれに感情移入するであろう観客が考える様なユートピアを描こうという意図の下では成り立っていない、と考えることも決してできなくはない。では、それなら反対にディストピアを描こうとしていた、とするのもまた違うだろう。それこそオーウェルが『動物農場』の後に出したディストピア小説『1984年』で問題としているような、監視カメラシステムを駆使した管理社会は決してネガティヴなものとしては描かれていないし、作中で市長と並び権力の象徴として現れる警察だって、最後にはジュディに味方する。ズートピアに張り巡らされている権力構造が、一様に悪しきものに還元されるものとして描かれていないところを見ると、『映画クレヨンしんちゃん モーレツ!オトナ帝国の逆襲』において大人たちが夢中になる昭和の街並みのように、ユートピアを模したディストピアを描いている、とするのものまた違う。では何を志向していたかといえば、ただひたすら身も蓋も無く、我々"先進国"における社会の現在の姿を炙り出すことにこそ本作の力点がおかれていたのではないだろうか。
オーウェルが『動物農場』で描いたようにユートピアへの志向がある種のディストピアを生み出し、また『1984年』でディストピアは一方で誰かにとってのユートピアであることを描いてきたこと、さらに言えば今までのディズニー作品やハリウッド作品が数多く生み出してきた作品へ寄せられた批判を鑑みれば、主人公ないし観客のユートピアを描くことで何かの可能性を見出そうとする、虚構の作家なら誰もが夢見る境地との決別こそが、今のディズニーが走っている地点ではないか、とすら思える。だとするなら、管理化・全体化社会の兆しとして表象される監視カメラとの関係、後半で肉食獣と草食獣とが分断されてしまったと言われる前から存在する、小動物と大型動物との"棲み分け"をあからさまに感じる都市デザイン(マジョリティとマイノリティの形成はマクロでいうところの都市デザイン、ミクロでいうところの建築様式という、物理的な段階からすでに反映されている)、朝礼時には着席を強要しながら、大型動物に合わせて設計されてるが為に、ジュディが座ると署長の顔すら見えないサイズ感の机とイスが、ジュディが"認められた"後も変更は行われず、それどころかジュディとニックに同じイスを共有させること(1人分の席に2人が座らされているのである)や、かつてジュディに偏見としかいいようがない対応をしてきたことに対して何も悪びれもしなければ、むしろジュディに対して冗談を飛ばすほどの親密さを示してみせる警察署長の態度、そして何より権力に対して何も批判的な態度を持てそうにない警察という組織が持つホモソーシャルな性格をあけすけもなく描いているのは、それらに対して作品内で明確な批判が行われないということの薄気味悪さも含めて呈示しているのではないか。
だとするなら、本作が「子供向け」であるが為に、権力に対して批判的な態度を伴っていない、とするのは、少々早計ではないだろうか。確かに、ディズニーは子どもを含めた幅広い年齢層の支持によって成り立っている。しかし、その中には子供と呼ばれる低い年齢層の観客もいれば、それこそ子供の頃からディズニーに触れ続けた高齢の観客だっている。そうした状況の中で、こと任意の年齢層の観客だけ取り出し、それにのみフォーカスをあてようとするのは、作品がもつ性質を見誤ることに繋がるおそれがある。「子ども向け作品だからしょうがない」とするのは、すでに子供の在り方を規定づけるものでしかないのみでなく、未だ巨大資本によって子供たちが社会へ"馴致"されるべきだとすることへの別の形での肯定にも繋がる。しかし一方で、ディズニーが「子供向け作品」の地位に就いていることも、決して無視していいものではない。ならば、なぜディズニーはずっと「子供向け作品」であり続けたかを問わねばなるまい。結論から述べれば、それは「グロテスク」だからである。
これまで述べた「グロテスク」の定義は、マサキチトセが自身の論考のタイトルに用いた『排除と忘却に支えられたグロテスクな世間体政治としての米国主流「LGBT運動」と同性婚推進運動の欺瞞』 http://ja.gimmeaqueereye.org/entry/23399 に依っているところが少なからずある。しかし、ここで取り上げたい「グロテスク」については、美術的観点からのものである。どういうことかというと、ディズニーがアニメ製作者としての名前を不動のものにしてからずっと追及してきたのは、デザインと動きの"かわいさ"である。"かわいい"とされるものは、その多くが直線的なイメージではなく、曲線的なイメージによって、硬質なものではなく、柔軟なイメージによって構成される。これらの美学の根本を辿れば、動物や植物をあしらった、古代ローマの美術様式の一つである、グロテスク様式に辿り着く。ツイッター上で「モフモフ」と公式アカウントで形容された『ズートピア』を形成する美的様式は、根本からして「グロテスク」なものなのだ。この2つの「グロテスク」がピタリと重なり合うのは言うまでもなく、主人公ジュディの造形や仕草であり、冒頭に警察を夢見る彼女に暴行を働いたキツネ、ギデオンがウサギが(警察官を目指すに値しない)弱者たる徴として挙げた「鼻をヒクヒク」させる動きが、権力関係が決定的に転覆される場面の直前に配置されていることからもわかる。
「かわいい」は弱者の徴である。それ故に、その「かわいい」を極めたディズニーは、今日のアメリカを象徴し、公的な権力からも寵愛を受ける地位を築き上げた。つまり、『ズートピア』は、その地位を利用しつつ、現在のアメリカをはじめとする先進諸国の社会形態の描く"多様性"の脆さと「グロテスク」さを描くことと、またそのヒントや問題は、明白に誰かに取り上げられているわけでなくとも、世界のいたるところにある、この2つを描くことを目論んでいたのではないだろうか。その一例として、コロンビアの女性シンガーであるシャキーラ演じるポップスター・ガゼルのモデルとなっている動物であるブラックバックは、オスにしか角が生えていないこと。つまり、ガゼルはトランスジェンダーのポップスターであるということが、作品内で明確に言及こそほとんどされていないが造形として現れていることから見ても、決して拭い去れるものではないと私は思う。
うちの小学校の先生は、よく「こんな男社会はなくなればいい」と小学校の時から叫んでいた。
日教組が強い自治体の中で、教員や公務員労組の力は強く、それが社民系の組合だったとは最近知った。
しかし、そいつらは、自分たちの間のものだけを改善し、そのために県民市民の権利を奪ったのは万死に値する。
この組合は、女性の社会進出に寄与した点もあるが、それ以上に上野千鶴子や福島瑞穂というどうしようもない逆差別主義者を生んだ。
差別は許せない行為だが、差別に遭おうとしている立場を利用して、自分たちの権利を拡張し、社会を崩したのは大きな間違えである。
この人たちは、公人の立場で、自分たちのイデオロギーとやらで国家を転覆させた輩。