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はてなキーワード: 認知的不協和とは

2022-02-19

全然納得できてない

読みづらいけど自分用なので許して

実写映画に対して鬱憤を募らせていることを、一緒に見に行く予定の友人に告げるかどうかで悩んでいる。

というのも公開が決まった当初は私も映画制作好意的だったためだ。実写化される方のコンテンツ(O)も実写キャストの方(S)も私は大好きだったので、この2つがコラボすることを単純に喜んだ。公開したら何度も映画館に通おうという話もした。ちなみに友人はSのファンで、Oのことは多分知らない。

しかし私が悩んでいる理由は、あの時喜んでいたくせに今更愚痴を言って許されるのか、という認知的不協和に苛まれいるからではない。

私の葛藤の一番の理由は、このままではSを完全に嫌いになってしまいそうであり、今の私の雑駁アンチスレ状態な心情を整理せずそのまま友人に伝えたら確実に友人は悲しみ、我々の間にも軋轢が生まれしまうからである

なのでもし友人に本心を告げるのならば、身も蓋もない愚痴で友人を傷つけることがないようになるべく正当性のある批判をできるように不満の要点を絞らなければいけないし、隠し通す場合絶対に友人に悟られず気を遣わせないように、そして単に私がこじらせクソ解釈女なだけの問題であると思ってもらえるように(友人がOを知らないのを良いことに)、問題点を整理していこうと思う。

ひとつ、この間解禁された予告動画について。予告動画によって、二者のコラボが決まったとき何となく抱いていた「これってOがダシに使われてるのでは…?」という危惧確信に変わってしまった。これでも当時は、「実写映画化なんて結局儲けたいの一点に尽きるんだから利益を重視した企画なのはしょうがないよね」とは思っていた。(あらゆる実写映画が建前で使う「ファンの幅を広げる」「世界観再現」というきれい事は儲けたいという意図を少しでも隠すための詭弁に感じる)

なのであのAベックス様(両者のスポンサー)が「人気なOとSをくっつければ売れるに決まってるよね!」という安易な発想に至るのも無理はないし、「全くしょーがねぇなAベックスは……まあ不況だしこういう突飛な案にも飛びついちゃうよね」で済む話なのである

しかし今回、これはもう看過できないぞと思ったのが、予告の半分がSが意気込みを語る時間に費やされているという事実であった。これはもう確実に彼らをageるための映画以外の何物でもないじゃないかと私はひどく落胆した。

それに、それぞれの意気込みシーンでもデカ個人名と小さく目立たないキャラ名と、表記上でも明らかにSメインの画面構成になっている。

そりゃ実写化の時に俳優さんの豪華さ()がピックアップされるのは知ってるしそれはこの際もう仕方の無いことなんだろうけど、それにしてもひどすぎやしないか。Oはアイドル活躍するための入れ物ではない。

前売り券についてくる特典のグッズの配色も、Sのアイドルとしてのメンバーカラーになっている。Oの6人にはイメージカラーがあるのだが、それはもう完全無視なのである。9人組なのに主演が6人の作品ねじ込むからこういう事になるのだ。

これを前提にすると、これまでかろうじて許せていたあらゆる点が気になって仕方なくなる。

まずそもそも一卵性双生児(×6)であるという絶対的な前提が踏みにじられている。現実再現することは無理だと開き直るにしてももう少し何か策はあっただろうに。(数年前の別企業とのコラボでは某俳優さんがCGで6人に分裂していた。こういう飛び抜けた演出東宝配給でやるくらいの気概が欲しかった)

設定を全然気にしていないのは、はじめからSを売り込むのだけが目的だったということに他ならない。出来ないと分かってるので始めからやりません!はあまりにもOを軽視しすぎではないか。色の付いたパーカーを着せておけば役作りOKではないのだ。アニメの実写はコスプレだと言われがちだがこれはコスプレですらないと思う。パーカーを着て適当ウィッグを付けたら誰にでも出来る。レイヤーですらない、その辺にいるアニメオタクだ。2015年池袋じゃないんだから

配役もどうだろうか。キャラクターとメンバー性格マッチしていれば確かに納得出来るのだが、それを前提にしているということはもう端からSのファンしか対象にしていないということではないのか。

しかも、全てのキャラではないが、キャラの方がキャストに利用されてんなという描写や設定があった。Sのメンバーの特技や個性をOのキャラクターの要素と無理やり結びつけているのだ。これはその対象が私の好きなキャラクターだったから誇張されて見えてしまっただけかもしれないのだが。

(Oはコラボが非常に多く、余所で色々な職業や役柄を演じているのである特徴だけが取り沙汰されるというのは確かによくある。公式ゲームでもそういう風潮があるので理解はできる。しかし今回のはSありきのOなのでどうしても利用された感が拭えないのである)

キャラ改編とも言えるくらいの逸脱は、「ああもうこれは別の作品なんだ」と思わせてくれるのでこの際怒る気にもなれない。そしてそれはシナリオ上仕方の無いことなんだと思うことにした。Sをageるというシナリオのための。

あと、まだ予告やちょっとした映像しか見ていないのでなんとも言えないが、某メンバーの演技が無理すぎて無理になった。私は彼のことを本当に嫌いになりそうである。もとより私は彼にルックス以外の良さを何一つ見出していなかったのだが、今回見た目という武装を剥ぎ取って眺めた時(なんせみな同じ容姿という設定なので)、彼になんの魅力も感じられないどころか日毎に憤りが増すばかりになってしまった。演技が本当にひどいのである

(映画化が決まった当初、私は友人に「彼は解釈違いだわ」と冗談交じりに言っていたのだが、冗談ではなくなってしまった。)

そのメンバードラマ経験もあるしなんならグループ内では俳優枠みたいな扱いなのだが、私から見たら2パターンしか引き出しがない。顔面に物を言わせたクール()な演技か、とりあえず凄んで狂気を見せる演技の2つである。今回のキャラクターはそのどちらでもないので私はついに別の引き出しを開けてくれるのだとばかり思っていたが、予告を見る限りではその2つが巧みに使い分けられているだけだった。あえて役作りをせず自分の引き出しにあるものを使って演じる役者さんがいるのは確かだが、彼の場合はそのレベルにすら立っていないと思う。出来なくてもせめて表面上はもう少しキャラのこと考えてくれてもいいのにと思った。どんな演技をしたってもと原作キャラクターにピッタリハマるなんてことは決してないけど、だとしてももう少し研究してくれよ。

これでもまだ、本編を見ればきっと何か認識が変わるかもしれないという望みがある。百聞は一見しかずなので実際に見なければ何も言えない。根拠の無い誹謗中傷になってしまう。しかし現時点でSの中の人ネタがあることが確定しているので本当に憂鬱である

見なければいいではないかと思うかもしれないがどちらも好きなので(Sのことは無理になりかけているけど)見ておきたいのである

例えばロケ地アニメ舞台と同じ場所が使われているだろうからその様子を確認したいし、小道具舞台装置などの詳細も気になる。シナリオ大元原作リスペクトしたものらしいのでそこもチェックしたいのだ。

なのでSをPRするためにキャラや設定がズタズタにされているのはしょうがないのだと割り切って、どこかひとつでもOを感じられる部分を見いだせたら良いのだと思うことにした。

SがOを演じていると思うからいけないのであって、Sのキラキラムービーだと思えばなんとか乗り切れそうである。二者を切り離せるか否かは私の認識問題である

この思いを友人に伝える場合でも、Sage要素が強いのは良くないよね、くらいの批判に留めておこうと思う。あとはもう脳みそドロドロお花畑になるしかない。Sが好きな友人の前でSの愚痴を言いたくはない。


……といってもまだ完全に納得できていないので取り留めもない思いを書いて憂さを晴らしておく。

・グッズがここぞとばかりに高額転売されてる上に検索ワードにSのメンバー個人名が入っていて非常に悲しかった。そもそも転売するなよという話だし、実写化に乗じて転売するのも姑息だし、それを買うやつもどうかしてる。みんなまとめて滅びよ

・「私は楽しみだけどね」みたいなツイート

・「O界隈の人がJ界隈に来てくれて嬉しい〜」みたいなツイート

・お前は役作り以前の問題だ。本人じゃん

・彼の本質筋肉ではない

・誰も童貞に見えない

・彼はもっと自意識過剰自己愛に満ちている

・彼はアラサーではない

・彼はハーフではない

・誰も3.5等身じゃない

主題歌ダサい

かわいい限界クソニート感がない

親孝行してそう

・働いてそう

時間有意義に使ってそう

あと今回の実写化に際して自分の中で様々なモヤモヤが生まれていく中で、根本的なことをないがしろにしていたことに気づいた。

すなわち、Oは実際に存在しているのになぜ実写化する必要があるのか、ということだ。確かにOは二次創作的なものだが、Oの原作から時間的な繋がりがあるという点でパラレルではなく同一世界を描いている。そして昭和から令和を彼ら(作中のあらゆるキャラ)はゆっくり時間をかけながら生きているのであり、Oは彼らの人生の一部分を切り抜いたノンフィクション風のフィクションなのである。つまりOは、キャラクターたちが自分と同じ名前の役を演じてアニメというコンテンツを成り立たせているものなのである。さっきも書いたが彼らは様々な企業コンテンツコラボしており、本人たちがファッションショーに出たこだってある。私は彼らのハイタッチ会に行ったし、彼らが声優さんたちとイベントに出ているところをこの目で確認している。

実際にキャラクターたちは存在しているのだがら、わざわざ実写化する必要はない。そもそもアニメというコンテンツで既に実写化されているようなものなのだから

この疑問に対してどう考えればいいのかと悩んだが、この実写映画化もまた二次創作なのだという理解に落ち着いた。

思えばこの世の中には、実在人物任意の設定を借りただけで中身は全然違う人物活躍する作品横溢しているではないか武将しか文豪しかり……。もともとの武将文豪ファンの方にも色々な立場の人がいるとは思うが、多くはその二次的な創作物賛同しているではないか。彼らは「○○は入れ物ではない!」などと激昂することもないであろう。その寛容の態度を私も見習おう。

Oはそもそも二次創作みたいなものだが、この度再度二次創作される。これは多分シェイクスピア歴史上の人物を用いて作った戯曲をどこかの劇団アレンジして演じるみたいなことだ。この度の実写化もそういうことなのだ。

はぁ……

2022-01-17

anond:20220117001754

俺は別に寂しいとか感じないタイプ人類からな。

だって考えてみ?

自分の辿ってきた人生、吸収してきた知識思想、そういった複雑で多岐に渡る情報体系までまるっと含めた「自分」を一番理解しているのは、どうあがいたって自分しかいないんだよ。

他人というのは自分未満の理解者にしかならず、そもそも理解してくれる気があるかどうかすら分からず、だいたい人間ってのは自分のことで精一杯なもんだ。

そんな中で俺に関心を持ってもらおうと思うのは詮無きことではないか

偶然にも機会があって人と交わりその中に賑わいと安寧を得られたらそれは幸運だが、それを当たり前と思ったり、その中に居続けたいと思うのは、なんか違うだろ。

孤独というとネガティブ言葉と感じるが、もともと人間が個であり孤であることはデフォなんだよ。

人間社会的生物~なんて修辞をそのまま受け取ってちゃ現実との不一致から認知的不協和に陥るのがオチ

2022-01-16

ブースター接種したい先進国vsさせたくないWHO

この認知的不協和のせいで本日お餅5個も食べちゃいました。

WHOソースにアレコレ言ってる人は大勢いるし、誰かは説明してると思うんだけどそれなりの著名人で知らんかね。

出来れば日本語がいいです。

2021-12-20

公的機関への批判」を「他者への茶化し」にすり替えリベラルはてなブクマカ

ぶっし

@bussi_poke

ヴィーガン給食

https://twitter.com/bussi_poke/status/1471355524088500224

冗談のつもりでもヴィーガンへの偏見助長するとか引リツで言われて、確かにな〜とか色々考えてたのにファンネルめっちゃ飛んできてヴィーガン怖すぎてワンワン部屋の隅で泣いてる

https://twitter.com/bussi_poke/status/1471730815231217668

SIVA

@sivaprod

内輪ノリ面白がるために公共の場他者の在り様を茶化しておいて批判されたら被害者ぶってみせるいつものあれ。「”オタク”ってひとくくりにするな」というが、するよ。こういうのこそが”オタク”が”オタクである所以なんだもの

https://twitter.com/sivaprod/status/1472524096269619201


上記のSIVA氏ツイートに対して、はてブでは有名なリベラル系のブクマカによる賛同コメントが支持を集めてホットエントリに入っている

だが、ちょっと考えてもみればめちゃくちゃなことを言っているのに気が付かないのか?

もはや、リベラルはてなブクマカにまともなリテラシーを期待できないのか…?

いか?ことの発端のぶっし氏の元ツイにある文章は「ヴィーガン給食」だ。批判されているのは「ヴィーガン給食」だ。学校給食という公的機関への批判だ。

ヴィーガン給食」採り入れた公立小学校 みんなで食べられ、みんながおいしい

https://globe.asahi.com/article/14475497

ヴィーガン給食」導入した公立学校、絶賛するマスコミに疑問 栄養学的な問題個人思想押し付けは許されるのか?

https://www.buzzfeed.com/jp/yasumimorito/vegan-school-lunch

上記リンク先にあるように各方面批判を呼んでいる東京都公立小学校の「ヴィーガン給食」に対する批判ひとつが元ツイの画像だ。

その「ヴィーガン給食」への批判が、ヴィーガンへの偏見助長すると拡大解釈されて、さらファンネルみたいに攻撃されたとぶっし氏がツイートした結果

元々のツイートにある学校給食という「公的機関への批判」を、単なる「他者の在り様を茶化した」とすり替えているのが上記のSIVA氏のツイートだ。

いいのか?その理屈が通るんだったら、行政警察など公的機関への批判を「他者の在り様を茶化した」とすり替えるのも可能だがいいのか?

ここ最近ずっと世間はてブも賑わせている国の統計改竄について批判したら「他者の在り様を茶化した」と言われるがよろしいか

内輪のノリを公共の場に広げたのは「ヴィーガン給食

さらに言えば、上記のSIVA氏のツイートは内輪のノリを公共の場に広げることを問題視しているが

そもそもの話、ヴィーガンどいう個人主義にすぎない内輪のノリを、学校教育という公共の場に広げたのは「ヴィーガン給食」だ。

内輪のノリを公共の場に広げて、そのノリを批判されたら被害者ぶるなって言うなら、そのまま「ヴィーガン給食」に返ってくるだろうが

内輪のノリを公共の場に広げることを問題視するなら、まず「ヴィーガン給食」を批判しなきゃ筋が通らないぜ

オタクへの偏見助長することに気が付かないリベラルはてなブクマカ

元のツイートをもう一度見てほしいんだけど、どこにオタクだと判断できる要素があるのか、ネットスラングを使えばオタクなら大概の人間オタクになるぜ

だというのに、オタク責任をおっかぶせているのがSIVA氏だ。

同日にホットエントリーに入っている、増田を見ると人生の悲哀を感じますね。

オタクプリキュア好き=犯罪者って事か

みたいな事言うと

たかお笑いでムキになるな、空気読め、被害妄想

みたいな事いわれるんだろうけどそういう所でずっと俺たちは迫害され続けてきたし誰かが言わなければ何も変わらないし言い続けるぞ

https://anond.hatelabo.jp/20211220115523

上記オタクへの偏見助長するような漫才問題視する増田エントリーに対して賛同コメントが集まっているが

その一方で上記のSIVA氏ツイートから連ツイでは勝手理屈定義オタク偏見まみれでバッシングしており、それに賛同するはてなブクマカ

他者他者と見ずに消費の対象しか見ないという選択をしたもの」を”オタク”と呼ぶべきではとも思う。他者ちゃん自分と同じ他者と見られるおとなの趣味者はファンでありマニアでありでいいんじゃないですか。

https://twitter.com/sivaprod/status/1472530582379044864

だってオタク自身ヒエラルキー意識だって知識の量や造詣の深さより「消費にどれだけ忠誠度が高いか」やん。

https://twitter.com/sivaprod/status/1472533141479112705

でもって”オタク”度の高さ比べが「チキンレースでどこまで幼稚なこと出来るか」だったりするやん。

https://twitter.com/sivaprod/status/1472537183315988480

両方のエントリー賛同してるブクマカに聞きたいんだけどさ、認知的不協和に気が付かないのか?お前たちに論理的思考回路はないんか?

リベラルはてなブクマカリテラシーどうなってんの…?

いか?整理するぞ

ヴィーガンという個人主義にすぎない内輪のノリを、学校給食という公共の場に広げた「ヴィーガン給食」が、各方面批判を呼んだ。

その批判の一つが上記画像ツイートであり、その画像ツイートに対して、ヴィーガンへの偏見助長すると拡大解釈されて攻撃されたとツイートした

その結果SIVA氏が、「公的機関への批判」を「内輪のノリ」「他者の在り様を茶化した」と矮小化して、勝手偏見オタク責任をおっかぶせた。

めちゃくちゃな理屈にも程があるでしょ

これに賛同するリベラルな人や、はてなブクマカリテラシーどうなってんの…?

2021-11-22

バルミューダフォンは成功する、おまいらは何もわかってない

なんでわかんないのかなって思うけど、説明します。

 

バルミューダフォンは高い、Snapdragon 765で10万円台とか中華スマホだったら3万円だぞ、とか、この値段だったらiPhone13mini買うわ!みたいな投稿がわんさか出て、なんでわかってないのかなと思った。

みんな、なんであの高価なiPhoneあんなに売れるかわかってる?Aプロセッサの性能がいいから?いやいや、普通の人はプロセッサが何使ってるかなんて見ない。スペックなんぞ気にするのは一部の人だ。私が言いたいのは、はてなとかITmediaとかインプレスとか見てるような人が購入の条件にすることと、普通の人は違うってことだ。

 

普通の人は、iPhoneは使いやすくてデザインが良くてカメラがいいから高くても買う。じゃあ実際に使いやすいのか。そんなことはない。指紋認証がついてないのでマスクからいちいち鼻出さなきゃならないし、デジタルコンテンツはいちいちSafariに戻ってログインして買わなきゃならないし、カーソル移動ひとつとっても裏技みたいな機能を使わなきゃできない。未だに充電コクタ独自のやつだ。iPhone全然ユーザー体験大事にしてなんかない。デザインだってでっかいノッチに分厚いレンズが野暮ったいし、カメラはたしかにいいけど、別に飛び抜けていいわけでもない。ギラギラ光る夜景を派手に撮るにはいいけど、そんなもんすぐに飽きるだろう。

 

iPhoneは「使いやすくてデザインが良くてカメラがいい」のではなく、「使いやすくてデザインが良くてカメラがいい」という物語を作るのに(特に日本で)成功したってだけのこと。大半の人はそれで買ってる。ちなみに私自身はOSサポートが長かったり、OSXとの連携が優れているので多少の欠点には目をつぶってiPhone使っている。でも大半の人は2年でスマホを交換して半額になるプログラムで買うからOSサポートなんて関係ない。Mac持ってる人だって少ないだろう。たんに「これ使っときゃ間違いない」という物語を信じているだけなんだよ。

 

バルミューダも実はそれをしてきた。バルミューダ最近出したものスピーカーが有る。Bluetoothでつなぐよくあるやつなんだけど、スピーカーが上を向いていて、アクリルランタンみたいなのが下についてて、LEDランプが音楽に合わせてピカピカ光る。そんだけのもの自分も聞いてみて、モノラルのフルレンジで音はそこそこいいけど別に飛び抜けていいわけじゃない。これが35,000円。どう考えても高い。中華メーカーが「令和最新版 ランタンスピーカー」とamazonで売ってても違和感ない程度のもんだ。でもレビューは絶賛でしっかり売れている。

 

コスパ悪いよね。でも買った人はクリエティブやANKERあたりが出している5000円くらいのスピーカー比較して、「音質たいして変わらんやんけ!」と怒ったりするような人じゃない。バルミューダ精魂込めて作ったのだからいいもんだ、という物語を買ってる人なんだ。バルミューダフォンも同様である

 

バルミューダフォンの売上見込みは30億円という。Softbankいくらで卸しているのか知らんけど、台数にして3万台くらい、国内シェアにして0.5%もない。国内スマホを使っていて、小さくて他の人と違うスマホがいいけど、中華Androidとかを買うのはちょっとやだ、いいものがほしい、と思ってる人に届けばこのくらいだろう。そして端末は「お返しプログラム」で買えばそんなに負担にもならない。第一これらの人はコスパがどうだスペックがどうだなんてことはほとんど気にしない。スマホ普通に動けばいいと思ってる。

 

そして重要なのは人間はこだわりのある高いものを買ったら、よっぽどその商品ダメダメ場合を除けば、かえって「これは高いからいいものに違いない」と思い込むことだ(認知的不協和という)。だから5万円くらいで出したらかえってダメなんだよ。バルミューダフォンを製造するのは京セラ。みんな知らないかもしれないけど、実は小ロット個性的な端末をしっかり作り込むのに長けたメーカーである国内メーカーとしっかり打ち合わせして、こだわりのあるスマホ相場より高めにだして、0.5%くらいの人に確実に届けて続けていく。さすがはバルミューダは手堅い連中だと思う。その後、おそらくワイヤレスイヤホンとかスマートディスプレイなんかの周辺機器も出してくるだろう。

 

こういう人をおまいらは「情弱」というのかもしれないけど、ウェブ記事を穴が空くほど読んだりベンチマークの数値を気にしてスマホ買うような層はメジャーじゃないんだ。おまいらが考えるようなことはバルミューダだって考えてる。彼らがやりたいのは最新最高のスマホを出すことでもなく、中華メーカーと手を握ってハイコスパマシンシェアを分捕ることでもない。個性があって、ちゃんとしっかり使えるという保証があって、ブランドがあって、そういうのをほしいと思ってる人をうまく掘り起こす物語を作りたいのだ。おそらく彼らはこれからスマホデジタル製品の中核に据えて地道に新製品を出して、それは多くはないけど確実に一部の人には使われていくだろう。バルミューダフォンはその意味成功する。おまいらは何もわかってない。

ただし、俺は買わないけど。

2021-11-03

anond:20211103160942

モテいかフェミ・反フェミなっちゃうんじゃないの?モテないのは相手のせいだorあんな奴らはこっちから願い下げだ、って認知的不協和を解消してるのでは。

2021-11-02

anond:20211101232942

一言で言うと「騙されてる」

やってたことが「保健所の削減→検査能力パンク」「病院廃止で稼働資源を減らす→看護師確保に苦労する」「雨ガッパ」「イソジン」。

彼らの苦労は全部彼らの政策帰結だろ。「野戦病院だって結局その後どうなったか報道では聞こえてこないけど?

そして相変わらず公立病院削減も止めず保健所増設もせず、でしょ?

彼らの努力は全て「科学合理的な拡大防止施策」にはほぼほぼ向かず、「やってる感の演出」に全力を割いてたわけ。テレビへの熱心な出演もその表れ。

でも問題本業首長としての公務だよね。彼らがどれだけそれを熱心にやっていたか、ということで維新首長の日程を確認してご覧。「公務なし」、どれだけあるか知っとるの?

まあ騙されたんですよ維新に入れた人らは。認知的不協和で認めたくないのはわかるけど、まあそれが現実

2021-10-15

anond:20211015094622

というか会社取締役の持ち物ではなく株主の持ち物なんだから、その辺は株主総会の合意が取れるかで方針が違わない?

モチベーションを上げなければならないというのはどこから来ているのだろう。最低賃金レベル仕事機械で置き換えるよりはまだ人間を使った方が費用対効果が高い程度の作業なので、モチベーションを上げなくても人員が入れ替わってもこなせるように効率化されている。

それでは身体を壊したりして非効率なら、福利厚生を充実させる方が先かな。賃金って上げたらちょっとやそっとの理由では下げられないし。だからこそ、安定した生活には一時金ではなく賃金の上昇が必要なのだけれど。

金でモチベーションを上げるなら、他にもボーナスとか、若い企業だと月間 MVP表彰という形で一時金を渡したりとかが常套手段で、賃金の上昇より低リスク効果が上がる施策が先に行われるかと。金以外では認知的不協和の低減圧力を利用するとか。

なんか「あるべき姿」と「職業としての責務」がごっちゃになっているように見えるので、分けた方が良いかも。自分の中での分類と、それぞれに対して使う言葉を分けることと。強い断定での表現を見たら、本当にそうか立ち返って眺めるのは文章を読むリテラシーだし、曖昧なことを断定しているのは人を騙そうとしている文章に見える。善意が基でも。

分かって無さそうなのが意見してきたのに、優しく書いてくれてありがとね。興味の中心がそこでは無かったのと本当に分かっていないのとで、いやこれは違うよなと思いつつそこはまあいいやで放言してしまった。

とりあえず増田最低賃金の被使用者でも自分賃金を上昇させたい人でもなく、あるべき姿を主張したって理解で良いのかな。だと良いなと思うし、その活動が身を結んでそれが当たり前になって、ちゃん制度として組み込まれると良いなと思うよ。

社員幸せ事業計画ちゃんと入れられて、みんなが豊かになって経済も回って、結果的会社利益にもなって。本当にそうなったら良い。

2021-09-19

小島一志という男(加筆)

 小島一志という格闘技ライターがいる。格闘技と言ってもほぼ極真専門といっていい。

 相当なお騒がせ人物である

 詳細はWikipediaやコジ苑というアンチwikiAmazon著作レビューでをご覧いただきたい。

 

 外部から眺めている彼らより少し近い場所にいたので、そんな立場から見た彼を語りたい。

 

 家高泰彦というライターがいる。

 『極真大乱』という著書をあらわし、何よりも小島大学時代同級生で一時期は仕事も一緒にしていた人物である現在は絶縁)。

 「小島は人の懐に入るのがうまい」と彼は書く。

 小島と直接関わりを持つきっかけをわたし自身を例として回想してみてもその印象は同じである

 

 小島瞬間湯沸かし器である。突然に激しく怒り出す。

 しかもそのスイッチがわからない。だから彼との会話は地雷原を歩くようなものだ。

 

 「俺を侮辱するな!」「俺を疑うな!」

 

 小島は怒ると大抵こういう風に言った。

 しか第三者として見てもどこが侮辱なのか、どこが疑いなのかさっぱりわからないことが大半である。怒られている当人には当然もっとからなかっただろう。

 猜疑心被害感情が強すぎるのである

 

 小島は何でもない一言を過度に悪く拡大解釈し、しか当人が言っていないことまで「言った」などと述べるのだ。

 怒った時の小島はきわめて横暴で独裁的、まさしく暴君言動であった。

 その一方で、1日も日を置くと、「あのとき感情的になりすぎた」などと反省の弁を述べることも多かった。

 当初は「困った人だが、きちんと反省謝罪もできるんだな」と思っていた。

 だが、あまりにもそのようなことが続くとさすがに異常に思えてくる。

 そしてこんな風にも思い始めた。

 これは共依存DVカップルなどによく見られるコミュニケーションパターンではないか

 

 そんな人間と長く関係が続くはずもない。あるものは自ら去り、あるものは切り捨てられた。

 わたしの時も同じであった。再三、理解不能な怒りを買ったあげくに切り捨てられたのである

 彼の会社である夢現舎には現在スタッフはおらず、息子との間でさえ険悪な仲のようであるが、それも当然であろう。最近では『大山倍達正伝』(新潮社)に協力したLeo氏が「0.1円も儲けさせたくはない」と発言しているのを見た。

 

 彼を称して"イタコ作家"と呼ぶ人もいる。

 その場に居合わせたわけでもなく、録音テープがあるわけでもないのに、あるシーンのやりとりや長台詞、心情、仕草まで詳細に記述するからである

 アンチはこれを称して作話捏造根拠ひとつとする場合が多い。

 

 しかし、おそらく小島にその自覚はあるまい。

 催眠ショーでよくあるのだが、「あなたは○○(歴史上の有名人)だ」という暗示をかけたら、被催眠者は顔つきも声色も、姿勢も変わってなりきった言動を行う。強い暗示にはそのような力があるのである

 彼のYouTubeチャンネルを見てほしい。大山倍達芦原英幸の語りを再現する時の様子を。

 すっかり本人になりきっていると思わないだろうか?

 小島思い込みが激しく、自己暗示にかかりやすい男である

 だから本当になりきってしまうのだ。

 イタコ気質である以上、イタコ作家は間違っていない。


 人間関係悪化すると、いままで許せていたものが許せなくなる。

 これはほとんどの人間がそうだろう。それにしても小島のそれは極端に過ぎる。


 投影性同一視というものがある。

 非常に難しく、自分も十全に理解しているとは言えない。だから説明はしない(ネットでわかりやす説明を見つけたら、それは大幅にはしょって簡略化したモデルであると言い切ってもいい)。

 だから概念よりも、症例や行動パターンを見てほしい。

 驚くほど小島に重なるのである

 特に代表的ものを上げよう。

 

現実に,または想像の中で,見捨てられることを避けようとするなりふり構わない努力

理想化とこき下ろしとの両極端を揺れ動くことによって特徴づけられる,不安定で激しい対人関係様式

 

 もう一つ、社会心理学認知的不協和理論というものがある。精神分析学では防衛機制において「合理化」といわれている概念にほぼ等しい。

 矛盾した言動や納得できない状況などに対して、それを正当化するために認知をゆがめ、自らを納得させるための理屈を作り出す。

 思い込みの激しい小島場合は、妄想物語を作り出すという形で表れる。

 だから小島自身は嘘をついているという自覚はないのではなかろうか。少なく見積もっても6割、多ければ8割ぐらいは本気で信じているように思える。

 これに被害感情の強さが結びついた時、極度の人の好き嫌いが生とも考えられる。

 なぜ小島はこのような人格を持つに至ったのであろうか?

 イタコ気質生来のものであろうが、それ以外は育成環境もかなり影響しているような気がする(なんとなくそう思うだけである、明確な根拠はない)。

 

 原田寛『最後の直弟子が語る 芦原英幸との八年間』によると芦原英幸がきわめて猜疑心の強い人物だったようだ。

 そして小島は芦原に心酔している。

 小島猜疑心被害感情の強さは芦原の悪影響ではなかろうか。



2022/6/30 加筆訂正

2021-09-18

anond:20210918102502

女叩きしてるのは弱者男性というのがそもそも認知の歪み

強者男性攻撃されても容認するけど弱者男性から攻撃は赦さないという、

一貫性のなさと認知的不協和を覆い隠すために無自覚にやってんだろうなあ

2021-07-20

小山田圭吾炎上と作者と作品は別という話

すげえ自分語り

小山田圭吾過去いじめ自慢が世界規模で炎上している。

元々エレクトロニカ好きな人には非常に有名な話で、「この人音楽めっちゃいいけど人間はそれ以上にカスだな…」というのはコーネリアスについて話せば一度はする話である

 

ただ、これまではコーネリアスの曲を聴いてからこの話を知るパターンが多かったので話を知った人がモヤモヤイライラして終わってはいたが、

今回は曲を知らない状態でこの話を知る人が多いのと、何より悪目立ち続きのオリンピック関連ということでもう何重にも炎上ブーストがかかっている。

正義の旗印がパチスロ演出が全部出た時ぐらい光っている。

 

さてここまで読むと、「小山田圭吾擁護か?」と思うだろう。

実はそうでもない。私は小山田圭吾という人間は心底好きではないが音楽は確実に良いと感じている。

そのため、単純に「いい作品を作るけどカスな人」という認知的不協和の塊みたいな概念について話したいだけだ。

 

この手の話のときに必ず上がるのが「作者と作品は別」という話だ。

これに関しては、私は「理想として別で考えておきたいが、現実として別けることが難しい」というスタンスである

 

なぜなら、芸術作品というのは例えばコンセプチュアルアートでもない限り作品のものを中心として捉えなければならないからだ。

その作品世界観に内包されるものけが語りうるもの作品評価として正当なものであり、

ここで「でもその人過去人殺してるんですよ」で作品単体の質が下がることはない。

人を殺している人の絵が下手に見えるというのはただのバイアスしか無く、

これがまかり通り始めると人種性別によって作品評価を上げ下げする輩が出始めるからだ。

 

しかし、人間というのはいたく不完全である

現実として「気にする」し、そういったエピソードを聞くと「良くなく見える」のだ。

これは我々が人間という生物である以上逃れられない現実である

人間である限り、感情無視した論理は全て現実無視した夢うつつ戯言しかない。

 

そこで私がどう考えたかというと、現実から正とするのではなく、

これを人間不具合として捉え現実だが正ではない出来事として捉えることで、

作品が良いのに人間カスときに感じる気持ち悪さは人間機能だが、社会が発展したこと不具合を引き起こす確率が高くなっている」

と考えることにした。

 

気持ち悪さを反射的に解消するのではなく、分析して理解することでじっくり気持ち悪さを分解して次のダメージを抑えることにしたという感じだ。

 

何故なら「悪い人が作るものは良くあってはならない」というのはそれはそれで現実逃避だからだ。

現実として、悪人にも正しいことはできるし、被害者やいい人でも間違ったことや悪いことはする。

その人の属性で行動の善悪が決定すると考えたり、気持ちいからという理由で無いことにしてしまうのははあまりにもルサンチマンをこじらせすぎている。

 

私は小山田圭吾作品メチャクチャ好きだが同時に彼という人間は全く好きではなく、

いつか本気の後悔と報いを受けてほしいな~とは思っていた。

なぜなら私はそもそもいじめ被害者であったためだ。そのため、高校ときにこのエピソードを知って大変狼狽したものである

願わくば人生に覆しようのない瑕疵がつき、その傷跡を残りの人生で眺め続ける羽目になりますようにと…。

 

しかし、改心までは願うべくもないが、今回は最大級の規模でそれが叶って多少溜飲が下がり、いつもより気持ちよくコーネリアスを聴けている。

 

まあ私も蟻塚の中から鷹が落ちるのを見て喜ぶ怠けた蟻のように、褒められた人間ではないということで一つモヤっとして欲しい。

2021-06-24

anond:20210624112558

あるっていっても遠い昔だったり極端な条件だったりする場合ほとんどだし、確率としても非常に低い。

矮小化しすぎ。似たようなことは至る所で蔓延ってるだろ。現実を見ろ。

矮小化し過ぎかどうかは基準をどこに採るか、誰のどのような認識問題にしているか次第。

それから恋愛とか結婚かに至ったとしてもその境遇を何とか受け入れようとするための認知の歪み(=認知的不協和理論である場合ほとんど。

それはその通りだけど、まるで「大半の恋愛結婚認知の歪みとは無縁」とでも言いたげだな。

そんなわけ無いだろ。

認知の歪みの程度と深刻度の相対的問題だ。

anond:20210624112054

あるっていっても遠い昔だったり極端な条件だったりする場合ほとんどだし、確率としても非常に低い。

矮小化しすぎ。似たようなことは至る所で蔓延ってるだろ。現実を見ろ。

それから恋愛とか結婚かに至ったとしてもその境遇を何とか受け入れようとするための認知の歪み(=認知的不協和理論である場合ほとんど。

それはその通りだけど、まるで「大半の恋愛結婚認知の歪みとは無縁」とでも言いたげだな。

anond:20210624104624

「あるけどダメ」の一言で終わり。

「ある」って言うと「じゃあいいのか!」って勘違いする奴がぞろそろ湧いてくるから、よほど時と場所相手を選ばないと「ある」って言うのも厳しいな。

それに、あるっていっても遠い昔だったり極端な条件だったりする場合ほとんどだし、確率としても非常に低い。それから恋愛とか結婚かに至ったとしてもその境遇を何とか受け入れようとするための認知の歪み(=認知的不協和理論である場合ほとんど。

それに比べて、そうでなかった場合にもたらされる不幸があまりにも大きすぎる。

エロコンテンツファンタジー世界にとどめておくべき。

2021-05-30

anond:20210530182308

INTPはデータが見つかるまで断定しないので「わからない」と正直に言うが、ISTJはわからないことを断定しないと認知的不協和に陥るのでこじつけたようなことを言う説

2021-05-15

メモ選手応援したいがオリンピック続行はヤバいというジレンマ

これはある意味典型的認知的不協和なんだろうな。

あるいは、オリンピック続行に反対だが、選手応援したい、というジレンマ

全国的感染が急拡大する中、こうしたジレンマに悩んでいる人、多いと思う。

wikipediaによると以下。

認知的不協和とは、人が自身認知とは別の矛盾する認知を抱えた状態、またそのときに覚える不快感を表す社会心理学用語アメリカ心理学者レオンフェスティンガーによって提唱された。人はこれを解消するために、矛盾する認知定義を変更したり、過小評価したり、自身の態度や行動を変更すると考えられている。

オリンピックに反対であるがゆえに、応援もしない、さらには選手軽蔑する、という形で自分自身の内心の一貫性を持たせようとする心的な傾向は、まさに日的不協和典型例なんじゃないだろうか。

しかし、近代社会というのは、個々人の内心が一貫していることを求めるものでもなく、むしろ個人の好みと社会にとって正しいと思うことがぶつかり合うことを前提とした制度設計がなされている。

例としては、うなぎ大好物だが、乱獲は抑止すべきだ、とか、プラスチックは便利だがプラスチックごみ規制すべき等も思いつく。

自分欲求社会のありようが完全に一致しているひとはまずいないだろうし、ありとあらゆる社会問題は、自分なかに矛盾した形である、個々人の選好と個々人の描く社会の在り方(正しさ、善)を調整する営みなんだろう。

うなぎの例でわかるように、「したいこと」と「よいこと」が矛盾した認知的不協和というのはごく当たり前の心理状態であり、大好物という認知と乱獲防止への政策支持の不一致を解消する必要はない。

うなぎは好きで食べるけれども、乱獲防止政策に賛成という態度はあって当然のこと。むしろこの二重性がなければ、公共判断は成立しない。

うなぎを食べながら規制に反対する、というのも、認知的不協和の解消方法ひとつといえる。人々が矛盾を抱えたままで「正しいこと」に合意し、公共判断を下せるのは、とても合理的制度設計だ。

しかし、人間心理矛盾をなんとか解消

公共的な意思決定は、決して個々人の選好の集合や多数決ではない。

そう考えると、現代民主政が直接ではなく間接民主制なのか、納得がいく。

個人的には好きではないけど自分社会の在り方として正しいと思っていることを代表者が討議し、社会として選択する、という場が必要になる。

そうなると、意思決定者にも、討議に参加する代表者にも、欲望だけに囚われない、人間的にも理性的にも分別のあるマトモな人間であってもらいたい。

近代民主主義を築き上げた初期の人たち、例えばアメリカ建国者のひとりジェファーソンは、

公共的な討議の場を設定するためには、市民としては、そういう矛盾する認知を整理し、公共課題自分欲求から分けて考えることができる分裂症的気質こそ、民主政必要市民資質だと考え、他方、代表者議員)に必要資質アリストクラシー自然的貴族)と呼んだ。

しかし、一般市民としては、自分のなかの矛盾に耐えられない、というのが当たり前。

社会はこうあってほしい、という思いと、自分はこれが好きだ、という、ふたつの矛盾する認知に直面したとき

ふつうの人々は、自分内面を整理するために、どちらかの認知一貫性を持たせるよう、知らず知らずに認知修正してゆくことになる。

今回のオリンピックの例でいえば、特に運営側の闇の側面をいやというほど見せつけれられてきたので、人々のオリンピック嫌いが加速し、中止または延期の世論は7割以上になった。さらに、自分のなかでの論理的一貫性を保つために、選手にも賛同しない、という考えすら生まれてきたのは周知のとおり。

オリンピック選手に対するある種の攻撃的な感情は、こうして醸成されてゆく。

社会規範に合わせて自分に対して一貫性要求しがちな日本人特に自分欲求我慢するのはストレスなので、場合によっては、自分だけではなく、他人にも一貫性を強く要求するようになるからだ。

別の例を挙げれば、60年代セクト化が加速したサヨクの動きが典型例。

エスカレートした「総括」要求など。

また、原発反対するなら電気使うな、オリンピック反対するなら、テレビをみるな、といったよくある論法も、同じ認知一貫性他人に求める一例。

サヨクのみなさんは、極端に走り勝ちで、じゃあ電気をつかわない、といって原始人のような生活を始めたりもしてしまう。

自分のなかで一貫性を持たせようとして、あえてオリンピックをみない、応援しないといった姿勢を貫こうとする人も少なくないようだ。

まさにこれが心理学が扱う認知的不協和テーマなのだろう。

党派性それ自体は、個々人の選好が異なれば自然発生的なものだろうが、

それが過激化するのは、認知的不協和へのストレスのほかに、もうひとつ社会的な原因がありそうだ。

ますます両極化が進んでいき、相手方一貫性のなさを批判し合うようになるまでには、認知的不協和を解消しやす立場の人とと

そうではない人たちとの分断が背景としてあるのかもしれない。

認知的不協和を解消しにくい人々。解消しやすい人々。

コロナ対策では人流の抑制課題なので、パンデミックが始まった一年前、ステイホームが大きく取り上げられた。

しかし、ステイホームできない、したくない人たちの現実、そして経済再開を望む多くの圧力を前に、

次第に言葉の力は失われ、今では行政政治家も口にしなくなってしまった。

もっとも同時に、自粛警察あんまり姿をみなくなったのは喜ばしいこと。

ステイホームができる人と、できない人の立場の差。それを声高に叫べば叫ぶほど、軋轢を生み、社会の分断が加速する。

思い出すのはベトナム反戦運動ベトナム反戦真っ盛りの60年代アメリカブルーカラーと呼ばれる労働者階層が、ベトナム反戦に熱を上げる若者たち

反感を抱いたのは、自らは徴兵されず、安全場所から口だけ反戦を叫ぶやり方が気に食わなかったからだ。

コロナ禍でのステイホームムーブメントでも、それと似たような分断が生じたように思う。

自粛、在宅など社会に貢献できる人々と、ステイホームという形では絶対に貢献できず、むしろ足を引っ張ってしまうようにも見られてしま業界

それが特に浮き彫りになったのが、エッセンシャルワーカーというカテゴリからこぼれ落ちた飲食業界だ。

オリンピック選手もまた、一般人以上に、社会安全自己実現との間の認知的不協和に引き裂かれ、なおかつ、オリンピック反対派の標的にされるという意味では、深刻な犠牲者だろう。

以上の話は、人々のジレンマ構造的にとらえたらどうかな、という試みだけど、

自分自身が考えた正しさは、オリンピック賛成であれ、反対であれ、現在自分社会立場のなかで認知的不協和を解消しやすい形で論理化されたものであり、

自分自身党派性無自覚であってはいけない、

知らず知らずに自分の都合のいいように、正しさの論理的一貫性アピールされているに過ぎない。

しかし、そんなふうにと口でいうのは簡単だが、ふつうはそんな悟りを開いたようなことはいえないし、そんなもの誰とも共有されない。

重要なのは、こんなふうに構造化して達観する、というか、悟りを開け、ということじゃなくて、

相手立場を知る、という機会自体重要なんじゃないかな。

オリンピック観戦は選手の思いを知る絶好の機会。オリンピック反対がトーンダウンした、という論調もあるようだけど、

そうではなくて、自分的には反対は反対だけど、選手たちの置かれている立場もわかって、攻撃性が選手に向きにくくなったということだろう。

飲食でも、これまではタレコミにも怯え、苦しめられてきたけれど、最近は、ある意味、腹を括ったお店も多い。

タレコミも減ってきたという声もきかれる。

こうした寛容さは、行政飲食業界への不十分な手当が報道されたり、飲食の場で実感することで、人々の認知が再修正された結果だと思う。

人々の認知には多様性が生じるものの、異なる立場の姿が可視化されることによって、自分のなかで矛盾する二つの認知をよりクリアに整理することにつながる。

しかし、人々の寛容が進めば、自粛警察抑止力を期待した政策は効力を失う

こうして考えてみると、自粛要請ベースとした日本流政策は、人々の認知が多様になるとかえって不都合なのがわかる。だからこそ政権与党は、人々が同じ方向を向きやすタイミングを狙って、オリンピック直後の選挙を好機とみたりするのだろう。

自粛要請は、政策決定(ルール)に従う形で自分自身の好みという認知的不協和を解消しようとする日本人メンタリティと、同じ社会構成員にも同じ一貫性要求したがる相互監視ムラ社会的なメンタリティが合わさって発揮して初めて効果的だといえるけれど、昨今のオリンピック運営のゴタゴタにみられるように、公共的なルール判断への人々の不信感が強まると、必ずしも政策決定者に都合のいいような仕方で人々が一丸となって、認知的不協和を解消してくれるとは限らなくなる。

ましてや大阪市市長さんのように、それを体現たかのように

感染者がいなければオリンピックもやっている。一生の思い出に残る行事実施したい

などと、都合のいい解釈認知的不協和の解消を政策決定者自らが行うとなれば、

人々は、ルールへ従うことの意味不明瞭になり、ああ、結局、好きなようにやっていいんだな、という思いを強め、相互監視機能せず、自分生活を変えることなコロナへの懸念自分認知のなかで両立させてゆくだけだ。

しかし、現実には、2020年4月に実現した日本人一丸となったステイホームは夢のまた夢だし、飲食業界は我慢限界をとっくに超えているしで、

人々はデルタ株猛威の現実にピンときておらず、人によって温度差のある、かなり適当自粛をしつつ、コロナから目を背けられる絶好の機会とばかりにオリンピックに夢中になっている。

自粛に頼った政策は、結局のところ、オリンピックへの賛否が開催とともに揺れ動いてきたことに典型的に表れているように、認知的不協和の解消の仕方に多様性が出てきた瞬間、崩れ去ってゆく。「コロナ心配、、、」といいつつ普段通りに暮らす人々であふれかえるだけだ。

本来政策というのは、そんな人々の認知世論)など無関係に、討議されるべきであるし、人々は討議の結果に対して法的な拘束力を受け入れるべきだ。

例えば、自分の考えと相反していても、オリンピック応援しているし、これからもしたいが、もし中止という政策決定がなされるならやむを得ない、

あるいは、オリンピック懸念しているが、もし続行という政策決定がなされるならやむを得ないという態度でいられるほどに、政策決定者への信頼が重要になる。

「ほらみろ五輪楽しんでいる奴らが増えただろ」などという次元政策を決めるべきではない。

しろ個人としては五輪は楽しんでいるけれども、政府には感染対策として中止するなら、中止を決定してもらいたい」という、ジェファーソン流にいえば分裂症的な市民判断を見極めたほうがいい。

しかし残念ながら、いまの政権にはそうした信頼が全くといっていいほどない。

いつどんな判断をするか、全くわからない。データは出さない。モニタリングもしない。事実に基づかず楽観論でしか答えない。

将来シナリオを示さない。予測分析を共有しないから、いつも唐突首相が何かを決心したかのように物事が決まって、人々がついていけなくなる。

ある意味ガバナンスの基本ともいえる、こうした事柄に目を背け、

政策への信頼を、世論(最大多数の認知)で推し量ろうとする、その姿勢こそが日本ガバナンスのガンだと思う。

2021-05-04

格差、ぐんぐん拡大中属性について語っている場合なのかな?

これから度を増してく格差に満ち満ちた社会のなかで、リベラルはどう振る舞うんだろうな

認知的不協和から発狂するしかない気がするよ、いまの延長で物事を捉えてしまうと

その時リベラルは、はてサは何を語るのか

単に先鋭化するのが7割ほど生じるのはまあ放っておくとして、

中には、それ以外の帰着をする人が出てくるだろうから、興味と期待を持って見ている

自分ネオリベなのでね、高みの見物)

2021-04-08

弱者男性」を救うべきではない理由

弱者男性」ってサイコパスみたいなもんだよな。実際、サイコパスもいるんだろう。

共感」というもの理解できるけど自分には共感性は持ち合わせてないから、相手の哀れみとか同情をいくらでもカツアゲできる。

ちょっとでも「かわいそう」だと思ったらもうおしまい。「お前、今かわいそうだと思ったな?俺がかわいそうならお前なんで救おうとしないんだ?俺を救わないお前は偽善者だ」といくらもつけこまれる。

典型的ヤクザ手法認知的不協和に陥ったら生理的に解消しようとしてしまうから、そうなったらもう洗脳の始まりだよ。

人間はどうしても一貫性を守ろうとする心理的な働きがあるのだけれども、「あれ?なんか自分のいってることがしっくりこないな」と感じたら、その小さな矛盾とか間違いを認めないことで守れる価値と払うコストを考えるべき。

前に、アメリカリベラル主義者大統領選挙後にトランプ主義者理解しようとトランプ主義者集会に参加し続け四年間付き合った結果、「トランプ主義者理解しようとする試みは全く無駄だった。すべきではない」という結論コラムを書いていたけど、それと一緒。

リベラルの「弱者男性理解しよう」という本当に何の利益もなく損害ばかりが残る地獄。全く見ないことにして、一切を無とするべき。

2021-04-07

男女の幸福度格差の正体と、それを解消する方法

俺はもっと家事をしたい。家事労働はヒトを幸せにする。掃除洗濯や修繕や調理を通じて、また、傾聴や会話やスキンシップを通じて、妻や子どもに尽くしたい。それこそがヒト(俺に限らない)の幸せに直結することだからだ。

幸福は「与えた」愛情で決まる

ヒトは群れで生活する動物だ。他の構成員ケアし、食べ物を分け合って一緒に食べることに幸せを感じる。これは本能だ。また、ヒトは子育てする動物だ。同じ性質を持った他の生物と同様、子育てに喜びを感じるようにあらかじめプログラムされている。

ベンジャミン・フランクリン効果(助けた相手のことを好きになるという認知的不協和)も無視できない。手がかかる子ほどかわいい、という結果は、手をかけたという事実が生むものだ。家族に尽くせばつくするほど、家族への愛着は深まる。

幸せというのは、受け取った愛情で決まるのではなく、与えた愛情で決まる。愛されているか幸福なのではなく、愛しているから、愛を表現しているか幸福なのだ。実際に手をかけて、家事をし、話をし、食卓を囲むことで、そのように愛情を行動に移した者の幸福度が上がる。家事はその担い手幸福にする。

男性家事育児事実上の制限を受けている

しか現実、俺の家事負担は小さい。週にわずか6回、土曜の昼食から月曜の朝食の調理(買い出しと後片付けを含む)を担当しているのと、家や家財や車や自転車などの修繕全般担当しているほかはすべて手伝い程度で、家事らしい家事は何も担当できていない。俺が長時間の賃労働に縛り付けられているためだ。

家事だけではない。育児限定的だ。子どもの世話をしたり、子どもとともに食卓を囲んだり、さまざまな話をしたり、勉強料理スポーツを教えたり、宿題を手伝ったりといった、育児にかかわる時間の大半を賃労働に奪われている。これもまた、俺のヒトとしての幸福を大いに損なっている。

本邦の男女には世界一幸福格差女性幸福度が高く男性のそれは低い)がある。これを男性視点説明するなら、賃労働負担の大きさと、家事参加の少なさという両面が原因だ。とりわけ家事の少なさは重大だ。我が国男性世界一家事をしない。多くの男性幸せを賃労働に奪われているのだ。

男性が恒久的に時短勤務やパート勤務をする道は狭い

我が家結婚当初は、夫婦両方がフルタイムで働きつつ、平等家事を分担し、夫婦の両方が幸福を感じていた。だが子どもができて夫婦で話し合った結果、俺がフルタイム労働さら残業を増やして家計を支える中心となり、妻はパートタイム労働兼業主婦になることにした。

俺がパート主夫になる案も真剣検討したものの、却下せざるを得なかった。理由は、当時30代前半だった俺が昼間にパートまたは時短で働けて、家から近い職場がないことだった。ジェンダー平等を実感したのはこのときだ。オッサン兼業主夫になるのは非常に難しい。

結果、俺は大半の家事を妻に任せ、ごく一部しか担当できなくなってしまった。うちの場合家事全般について妻より俺のほうが得意であるあくま自己評価だが)にもかかわらず、だ。逆に、賃労働能力は俺よりも妻の方が高い(と俺は思う)にもかかわらず、彼女フルタイム労働を失った。

俺は、この国のジェンダー平等を恨んでいる。俺を賃労働に縛り付け、家事子育て(つまり俺の幸福)を奪ったからだ。

また、ほどよく分担できていれば、家事労働はそれをする者を幸福にする。だが、過分に割り当てられてしまえばそうも言えない。俺の妻はそれほど家事全般が得意でないにもかかわらず大半の家事負担しており、せっかくの家事労働の多くが単なる面倒なタスクになりがちだ。これは幸せなことではない。

ジェンダーギャップ労働問題に過ぎない

ジェンダーギャップ幸福格差不公平家事負担、結果としての男女の賃金格差などはすべて、要するに労働問題だ。男女で賃労働家事を公平に担当しにくい現行制度に原因がある。なので以下のようなことを強力に推進すれば、諸問題はすべて(少なくとも我が家が抱えているものはすべて)解決する。

意識アップデートでは男女平等は実現しない

俺は「意識アップデート」だの「意識改革」だのというものには期待していない。そんなものに期待していたら、ジェンダーギャップ永遠に解消しない。なぜならジェンダーギャップは、制度的な介入をせずに放置していれば自然に拡大していく性質を持っているからだ。

これは良い悪いの話ではない。生物としての自然本能と、適応の結果に過ぎない。

まず女性上昇婚志向がある。これは世界中のどんな社会にもあるものだそうなので、生物としての本能と言える。より多くの資源を獲得する能力を持つオスに魅力を感じることは、生物としてまったく自然だ。そして、ヒトのオスがそれに適応しようとするのもまた本能であり、生物としてまったく自然なことだ。

ただし社会全体でこの本能適応すればするほど、ジェンダーギャップは拡大する。女性上昇婚志向適応した男性たちは、すべての資源男性たちだけで独占し、資源へのアクセス権を女性から剥奪する。前世紀まで、まさにそのような社会世界中で構築された。

このようにヒトの本能ジェンダーギャップを拡大し固定化する方向に作用するため、ジェンダー平等自然に実現することはない。相手無意識下の本能だ。意識改革では解決できない。制度改革しか実現できないものだ。

クオータ制による解決

現実的な解は、強制的なクオータ制の導入だ。繰り返すが、意識本能は変えられない。だから制度を変えるのだ。クオータ制は、結果平等観点で厳格なものであればあるほどよい。

政治家企業役員はもちろん、あらゆる職種で男女比が1:1なるように枠を設け、罰則付きで厳格に運用する。外科医も、看護師も、消防士も、保育士も、研究者も、レジ係も、漁師も、助産師も、土木作業員も、歯科衛生士も、自衛官も、すべて男女同数にする。当然、仕事内容も拘束時間賃金男女平等にする。

当初は各職業における職能水準の低下が問題になるだろう。しかしそんなものは、ほんの20年か30年もすれば解消される。学齢期や新卒時を見ればわかるとおり、平均的な女性能力は平均的な男性のそれを上回っている。クオータ制の導入で一時的に起きる職能水準の低下の問題は、ほどなく時間解決するだろう。

労働家事労働も、男女がどちらか一方に押しつけることなく、平等負担し合う。夫婦のそれぞれが週に20〜30時間ほどずつ賃労働負担し、あとの時間生物として家族としての幸せを追求できる世の中になるのが理想だ。

夫は兼業主夫、妻も兼業主婦だ。

こうなるともはや、主婦主夫)という概念崩壊だ。だがそんな概念産業革命以降にでっち上げられたもので、男性を賃労働で使い倒すための便利な、そして非人道的ジェンダー・ロールだ。こんなものは徹底的に破壊し、すべてのヒトがヒトとしての幸福を追求できる社会を目指したい。

男女がともに幸福を追求できる世界を望む

最後にもう一度強調しておく。家事労働制限されることは、幸福制限されているに等しい。より多くの賃労働負担している者は、幸福度において劣後する。

しかし、現行の制度の中で各家庭が個別部分最適化を進めれば、多くの家庭では、夫は賃労働奴隷、妻は兼業主婦、という形をとることになる。これは不幸なことであり、制度のものを改めるべきである。そして、ここまで述べてきた制度改革の過半は、すでにアイスランドなど北欧諸国において実施されている。

で、こういう男女平等を目指す社会運動ってある? あったら参加したいんだけど。

2021-01-23

自分はのめりこんでいることに気づかないという話

説得は見込めない

認知的不協和の話

俺はのめりこんでいる(かもしれない)というメタ認知大事

これらこそ正解、これら以外は外れ、あっても実現の見込み無しという全か無か思考10ほどある認知のゆがみの一つ)

それ以外の選択肢は同じ人からは与えられない

妨げようとする仕組みや人間達、言葉やはったりなどはあるか確認してみよう

君のテーマは何なのか

おあつらえ向きのそれはどんなレールなのか

言葉にしてみよう

他で実現できるか、一般的にはどのような方法があるかこっそり調べてみよう

2021-01-22

東京人口が約930万人で、感染者数の累計が約9万人なので、0.97%

自分の周りに100人いたら、その中に感染者が1人いるかいないか

大阪人口が約270万人で、感染者数の累計が約4万人なので、1.48%

自分の周りに100人いたら、その中に感染者が1人はいるかも。

それくらいの割合なので、自称目覚めた人が「テレビで騒いでいる割に、自分の周りに感染者がいない。コロナ茶番」とか言っているの、ある意味仕方ないかなと思う。

報道から入ってくる情報と、自分認知ギャップがあって、

シンプル認知的不協和が起きて、自分安心できること(=コロナ茶番)を信じたい、ということだろう。

だけど、感染者は指数関数的に増えるから自称目覚めた人が「これは本当にやばいかも」と実感するくらいまで、周囲に感染者数が増えてきたら、そのときはもう手遅れになってしまうので、報道事実を言っていればいい。

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