はてなキーワード: 師弟とは
クリスマスが週末という曜日の並びから、「ひょっとしたら9連休になるんじゃないか」という期待をよそに、月曜もしっかり働いってやっと今日から冬休みになったのだが、別段帰省の予定もなかったので、ひとつ映画でも観ようと、「クリード チャンプを継ぐ男」を見てきたら、わりと良かったので見所を紹介しようと思う。
ネタバレ上等で書いてるわけではないが、それでもほんのりネタバレはしちゃうかもしれないので、観る気満々のひとは読まないほうが良いかもしれない。
巷の映画紹介で紹介されてる程度に物語のあらすじを紹介すると、かつてロッキーと死闘を繰り広げた伝説の王者、アポロ・クリードの隠し子、アドニスが、自らの情熱を注ぐ夢として、ボクシングの道を選び、トレーナーを頼むため、すでにボクシングの世界から遠ざかっていたロッキーの店の門をたたく。初めは拒むロッキーだが、やがてアドニスとともに頂点を目指すというおはなし。
さて、このアドニスだが、とにかく周囲からの愛されっぷりがハンパない。
隠し子ということもあり、出自こそ施設だが、その後引き取られた家庭で良い教育を受け、投資銀行の社員になり、会社からは高級車で「家族2人で住むには広すぎじゃないの?」というような家に帰ってくる。
良い家で育ち、良い教育を受けた2世のお坊ちゃんなのだが、じゃあいけ好かない奴なのかというと、これが思わず可愛がりたくなる様な素直な良い奴で、まず自分を施設から引き取ったアポロ夫人、メリーアンに愛され、すったもんだでボクシングの道を志してからも、ロッキーは実の息子の様に愛情を注ぐ。物語中盤では恋人も現れ、終いには色眼鏡で見ていた様なストリートキッズたちまで彼を応援する始末。
彼は彼で、学のないロッキーを案じて、息子のごとく的確で愛に溢れたアドバイスまでする。
彼を包む環境そのものが豊かな愛で包まれており、妙にほっこりした気持ちにさせられる。
一方、彼が挑むチャンピオン、リッキー・コンランは、リバプールの港湾労働者の息子で、あまり良い教育を受けた風でないので、対戦前に相手を口汚く罵ったりするし、トレーナーとの関係も「こいつあんまり愛されてねーなー・・・」という気の毒な感じで、見ていて切なくなってくる。
黒人の方のアドニスの方が、良い教育を受け豊かな愛もあふれる世界で育った良い奴で、白人のチャンプが、下流から腕一本でのし上がったのに粗野でトレーナーにもいまいち愛されてない、という感じで、白人が主人公になりがちなアメリカ映画にあって、バックグラウンドの逆転現象がおきている。
物語の視点も偉大な父の名前を巡る2代目の苦悩だったりして、「下層からののし上がり」ではなく「恵まれた奴にもそれなりに大変な事はある」という方向からのストーリーになっている。
この映画は、無名のライアン・クーグラーの情熱に、シルベスター・スタローンが応えて、ロッキーシリーズを託したという。
その若造の脚本にのって出てくるロッキーのジジイっぷりといったら。
スタローンも真面目にやっていて、そのヨボヨボぶりは物語が進むにつれどんどん加速していき、絵面がNHKドキュメンタリーかよという感じになってくる。
中盤では、人種を巡るちょっとしたやりとりがあるんだが、そのピリッとした空気でまた、スタローンがボケることボケること。
スタローンを見て感じる「凄い人だけど、この人ひょっとしたらバカなんじゃないかなぁ」というイメージを飄々とやってしまう。
よくぞまあスタローンもこれを「よしやろうぜ」って言ったなと思う。
見所3:ボクシングシーンの迫力
ロッキーシリーズでは、どうしてもボクシングのシーンがスローモーになり勝ちなきがするのだが、今回はピチピチの若手が主人公ということもあって、なかなかのスピード感。
敵役のチャンプを演じるアンソニー・べリューは実際に英国チャンピオンでもあるボクサーという事で、迫力あるボクシングシーンとなっている。
画的にも、派手に血が舞う感じで、痛さが伝わってくる。
気になる点を挙げるとすれば、主人公アドニスは魅力的だが、どうしても「ロッキーの愛弟子」感が強い事か。
スタローンとしては2もやるぜといったとか言わないとかで、そうなってくると、「ロッキーのとこの子アドニス」が、ロッキーのジジイ圧を乗り越えて、本当に物語全体を支配する魅力ある主人公として独り立ちできるかがポイントのように思う。
そんな感じで、ちょいちょい「おっ」と思う見所もあり、全体としても派手な盛り上がりにこそ欠けるもが、親子愛、師弟愛を感じつつ、しっかりスポ根ものの感動が伝わってくる良い映画だとおもう。
年末にやる事が決まっていない諸兄、スターウォーズの盛り上がりについていけない方などは、こちらもどうだろうかと思う次第であります。
夫婦同姓の強制が合憲だという、にわかに信じられないような最高裁判決が出ました。
「夫婦同姓」という制度は、江戸時代の武家文化が、とりわけ明治期以降に広められたものであり、古来の文化ではありません。氏は職業の家柄を表しているわけで、武士ならば武家の氏、商家ならば屋号、職人も師弟で名を世襲し、農家はその土地を表していたものです。江戸時代は、公的には氏を名乗ることは武士の特権でしたが、既に姓の通称が一般的には広まっていたようだと思われます。
江戸時代の段階でも武家の特権に憧れる人々は多かったでしょうが、明治維新で「四民平等」が施行されたのを機に、皆が「武家並み」を目指したものであることは想像に容易いでしょう。
江戸時代の政治、社会統制は、武家一般の信仰である儒教に基づいて行われてきました。儒教では、男尊女卑ですし、年長者を敬えだとか、先祖を尊べだとか、そういった「道徳」があります。こうした儒教の教義も、江戸時代以降には社会に浸透させられ、それが未だに「日本文化」だと信じこまれてしまっています。
氏は職業柄を表しているものです。ですから、現代の、「夫婦共働き」や、職業のいわば個人主義化の時代にあっては、夫婦同姓の強制というのは江戸時代からの儒教信仰の帰結でしかなく、合理性を欠いています。また言うまでもなく、「信仰の自由」に反しています。日本の、いわゆる「ガラパゴス」「鎖国」、閉じ籠り根性の表れだといえましょう。
「女性の活躍」などと誰かさんが言っていますけれど、まったくもって口ばっかりで、言行不一致ですよね。これからはとくに、労働者の実人口の減少を少しでも抑える必要があるはずなのに、結婚や妊娠や出産といったできごとのたびに就労から疎外されるような社会慣行が根強いのが現実です。
「日本古来の文化」と声高に叫ぶ人がいるようですが、そのほとんどは信仰です。しかも江戸時代以降の、ながくて数百年程度のものでしかありません。誇りが無いから、こうしたプロパガンダ、信仰にすがるのでしょうね。到底目覚めそうにないようですから、私は哀しいし、絶望的です。
形式的には「妻の姓にも合わせられる」といっても、それは養子婿のような形態に合わせた制度です。実際にはほとんどの事例で、夫の姓に合わせられています。
氏名というのは根源的なアイデンティティですが、そのアイデンティティを奪うということが未だに正当化されているわけです。そして、奪う側に「差別している」「加害している」という自覚が無いことがほとんどですし、さらには奪われる側にまで喜んで差別される人がいるというのも残念ながら事実です。
「選択的夫婦別姓」という案は極めて light な案です。「奪いたくない」「奪われたくない」という意思のある人だけが改姓を避けるのですから。
師匠付きの編集さんに原稿チェックしてもらってからデビューってケースが多い。
面倒見がよい藤田和日郎のところはデビューしやすい、って話はよく聞く。
売れっ子先生であるほど、たくさんの編集さんが来るから、自分にあった人を選びやすい。
だから、東村アキコのアシスタントはもうそれだけで恵まれてるわけ。
天下のNHKに出演するような師匠の元で、好きな編集より取り見取りなわけよ。
完全時給制。未払いはなし、時間給。
だから、子供の面倒をみるのも時給が出るから喜んでやってるわけ。
そりゃ金もらって遊ぶだけなら楽だわな。
世間のお母さんみんなやりたいわ。
それ以前にも危機は何度も訪れていて、初めは私も泣きじゃくっていたけれど、
しまいには「早く離婚すればいいのに」と思うようになっていた。
つまるところ父親は、離婚の危機が訪れようと、子どもに泣かれようと、妻に愛想を尽かされようと、
浮気をやめることができなかったのだ。
父親は仕事のよくできる人で、子供たちにも優しかった。だからそれなりに好きだったのだけれど、
同じ女だからというのもあるかもしれないが、私は完全に母親寄りだった。
家の中の死角になるような場所で縮こまって泣いている母親を何度も見て、悔しさとも憐れみともつかない感情を抱いていた。
欲望に負け、信じている人を裏切るという最も下劣な行為を繰り返す父を憎みさえしていた。
そして、母親を憐れむのと同時に、私はこんなことをする男とは一緒になるまい、と固く決意したのである。
★★★
時は流れ、そういったゴタゴタによる傷も大分癒えてきた、と感じるようになった。
そんな今、
私は恋をしている。たぶん今までで一番、溺れてしまっている。
頭が切れて、自分に絶対の自信を持っていて、何より人生を全力で楽しんでいる人。
自分にないものをたくさん持っているその人を好きになるのに、時間はかからなかった。
最初は師弟関係のような感じで、仕事の悩みを聞いてもらったり、仕事に関することを教えてもらうだけだった。
しかし、親しさが増すにつれ、私の気持ちがあちらに伝わってしまったのだろうか、
あれよあれよという間に、「そういうこと」をする仲になってしまった。
とはいえ愛の言葉を囁かれたりするわけではなく、これは都合のいい女ってやつなのだろうか、と不安に思いながらも、
彼に抱きしめてもらえる幸せの方が大きくて、そのままズルズルと関係を続けてしまった。
ある日、隣で寝ている私に向かって、彼は爆弾を放った。
●●とは、彼が私とそういう関係になる前に分かれていたはずの彼女の名前だ。
私は混乱しながらも彼を問い詰め、衝撃の事実が発覚した。
さらに、私の他にも定期的に会ってそういうことをする女が3人ほどいるということ。
彼は、わかってると思ってた、と言った。
信じられなかった。
さらに信じがたいことに、私は今も、その男との関係をやめられないでいる。
かつて私をさんざん苦しめた「浮気」の片棒を担いでいる、と分かっていながらも。
私は、憎かった父親と同じ過ちを犯しているのだ、と感じていながらも。
私は彼が、どうしようもないくらいに好きなのだ。誰よりも。だから仕方ない、そう自分に言い訳をして。
人間は欲望の前には無力だ。つくづく、そう感じる。
欲望に負け、過ちを繰り返す、そんな特性が刻み込まれているのだろう。
この状態を抜け出したいとは思っている、けれど、
どうにもならないことってあるんだよ、と
あの日の私に向かって手を合わせている、そんな今。
グラフィックデザインの文脈でよく語られるデザイン史は、バウハウスから始まって、グーテンベルクの活版印刷、雑誌時代のエディトリアルデザイン、広告コミュニケーション、テクノロジーとの融合というものだ。また別軸で、グラフィックデザイナーの職能として、工業化社会における機械製品の美学的側面を整えるという歴史があった。まさにテクノロジーの隆盛と歩んできたデザインである。生活を便利にする機械製品(電話や洗濯機など)は生まれ、パーソナルコンピューターは普及した。そして、グラフィックデザインをするためのツールや思想は世の中に溢れ、誰でもグラフィックデザインの勉強ができ、誰でもデザインを作れ、誰でもそういう成果物に対して口出しできるようになった。
いつからか、総合的な計画であるはずのデザイン行為の中から「美学的側面」のみが取り出されて、それに対しての褒賞制度が整えられたのだ。日本で言えば、たとえばJAGDAの褒賞制度。特にグラフィックデザイン業界におけるそれら褒賞制度は、そのほとんどが美学的側面の評価しかしていないので、それがビジネスを支えるツールとして、実際的に機能的であるかどうか定量的に計測されていないだろうし、主催者も応募者もそういう側面でしか見てなくて、内輪で楽しく賞を送り合っている構図がよく想像される。その外に居る人がどれだけ社会に対してインパクトのある仕事(例えば新しいムーブメントを起こしたり、技術や生活基盤を進歩させたりなど)をしても評価はされないのだ。格好良くないという一言で、彼らのコミュニティから排除される。いつまでもはびこる師弟制度、ごますりが必要なコミュニティ入会の現状。
デザイナーではない人はそもそも「上位の概念としてのデザイン」に対するリテラシーがないので、デザイン=格好良くてお洒落な見た目をつくること、という短絡的な思考でしかデザインを評価できない。つまり、受賞した人間はいいものを作っていると。しかし褒賞制度がそもそも歪んでいるので、受賞者がビジネスや社会のライフサイクル的な側面に目を向けられる人間かどうかという評価の視点が抜け落ちてしまっている。僕はこういったデザイナー達を「グラフィックアーティスト」と呼んでいる。決して「デザイナー」ではない。
本来的にビジネスと協調すべきデザイン活動が、それを無視した褒賞制度によって、奇抜なことをするデザイナーこそ優秀であるという歪んだ理解が社会に溢れてしまった。そういうデザイナーたちがつくり上げるものには、機能的側面が欠落してしまうことが多いと思う。デザインの機能的側面が考慮されないデザインは、はたしてデザインと呼べるのか。社会をより進歩させ得る力があるのだろうか。
また別の観点では、現在多くの美術教育の現場にも問題があると思う。教育者自体が、旧来的なグラフィックデザインの文脈で育っているので、そのような視点でしかデザインを捉えておらず、結果的に美学的側面を整えることに教育の主眼が置かれてしまっている。デザインという手法が社会のコミュニケーションを活性化させ、より良い文化システムを構築し、ビジネスにおける利潤獲得のための手法であることが教育されていない。そうして、再び無能なグラフィックアーティストが量産されてゆくのだ。若いデザイナーの元で育ったほうが、明らかに的を射た考え方を獲得できるとおもう。
ここ数年、自分の生業であるグラフィックデザインはそろそろ終わるんじゃないかなと思ってる。コミュニティの思考が高齢化しているし、かと言って新しい考え方を積極的に取り込んで体質の健全化に取り組もうとしない。デザインをもっと価値のあるものにするためのデザイン領域を俺は見つけたからいいんだけど、変化せず進歩のないコミュニティに未来はないとだけは言っておきたい。
美しくあることは大事だと思う。美しいことは心を豊かにしてくれる。しかし、それ以外のもっと大事なことにも一緒に目を向けてほしいと思うのだ。
ある種の人々は言いようのない劣等感を感じている。というか、青春期、人々の多くは言いようのない劣等感を感じているように思う。それは書物で見る限り昔からのようだ。
「その劣等感はどこから来たのか?」とか「どんな理由で感じるのか?」という問いにはあまり意味はない。おそらくそれは青年が何者でもなくて何が出来るかもわからない不安感から生じているのだとは思うけれど、そんなことが分かったところで劣等感はなくならないからだ。正解でも不正解でも、あんまり意味がない。
十代でなんとかしないと、という焦りはこないだの青木君の小四なりすましの話に似ている。僕もそうだった。僕らの世代だと登大遊氏なんかが結構輝いてて、ああいう感じにならなきゃ、と思っていた節はある。十代の時になにか成し遂げないといけない、そのためには誰かに認めてもらわなければならないという焦りは、どれくらいの「大人」に理解してもらえることなのだろうか?
http://anond.hatelabo.jp/20141202220427
上の増田は嘆いているけれどその苦しさってそこまでユニークじゃない。「大人」の多くはその苦しみを経過して(乗り越えてとは言わない)大人になっているよ。
大人だってむかしは若者だったし若者だった以上にチンピラだった。Webの情報支援がなかった昔の若者はいまの若者以上に何も出来なくてずっとずっとボンクラだった。大人の多くは自己努力で青春だの成長だのしてきたつもりでいるから、上から目線で説教したりするかもしれかもしれないけれど、それって高度成長期があったせいであって別段昔の若者が優れてたわけじゃない。
断言する、昔の若者はボンクラだった。公平のために弁護すると、それは昔の若者の能力が低かったというよりも、さまざまな課題解決のためのフレームやマニュアルが共有化されていなかったせいだ。だからその時代、口コミや師弟関係や親族関係が重要だったしコミュ障は今よりずっとスポイルされてた。また、だからこそ「無鉄砲な行動力」が重要視されていた。体当たりでノウハウを積み重ねるというのが今よりずっと意味があったからだ。(なぜならそうして取得したノウハウは簡単には共有されないので差別化の原資になったからだ)。
今の若者はWebによる情報支援があり、さまざまな課題に関して極上のマニュアルを入手することが出来る。遭遇しうるありとあらゆる問題に対して、それを解決した先人がいて、おおよそどうすればいいのかわからないということがない。進学、就職、研究、技術的な学習、恋愛、人間関係、法律問題。様々なマニュアルや手記がWebにはある。少なくとも手がかりは存在する。
そのメリットがある半面、隣を走ってる同年代の姿もよく見えるようになって、それが劣等感レンズとして視界をゆがめている部分があるにせよ、それでもこの情報支援は大きい。今の若者は昔の若者の無意味に強気なボンクラさに比べて、様々なことを実にスマートにこなす。紳士だし慌てないし礼儀正しいし、誤解を恐れずに言えば「有能」だ。
それはおそらく、いわれのない劣等感にさいなまれている増田でさえ有能なんだ。
オタクがサブカルを敵視したのか、サブカルがオタクを差別したのか、はてなブックマークのコメント欄も白熱しており、ヤンキーも巻き込んで混然としています。
http://hatenanews.com/articles/201412/23089
だから、この記事に見られるようなオタクとサブカル、あるいはそれに加えてヤンキー同士の抗争というのも実は本質的ではない。本質は劣等感だ。
いわれのない劣等感がまず先だって存在し、その劣等感は消去できない。麻痺させるしかない。劣等感を麻痺させるいわば痛み止めとして、この種の抗争が存在する。ほとんどすべての人間は、無名の置換可能な消費単位でしかない。若者であればそれはなおさらだ。そんなことは当たり前なのだから、そこで劣等感を感じるべきではない。しかし青春期の自意識にとってはそうではないので、劣等感を感じるし、その劣等感を痛み止めするために、近しい場所にいる別の消費者を罵倒してるだけだ。
歳をとるとその過程で様々なケーススタディを経験するし、見聞する。若いころ、世界には才能ある人(100点)とクズ(0点)しかいないように思う。
もちろん年を取ったこの世界にも100点の人と0点の人はいる。でもそれ以外の点数の人々もいるってわかってくる。わかってくるっていうのは、例えば42点の人がいるということじゃない。そんなことは(理論的には)若者の時だってわかっていた。
わかるのは「42点の人と41点の人の間にある差」だ。そのわずか1点の差が、彼我の間の明暗を分けるというような例をたくさん目にすることになる。「1点の差の大きさ」が実感としてわかるようになる。そもそもある年代を100点で分割すれば、任意の社会人が自分の職場で見ることのできる人間の幅なんて5点差くらいしかないんだ。「俺の今いる会社にいるのは38点~43点」とかそんな感じ。しかしたかがその5点の間の距離が、越えがたく遠いということもわかる。新入社員39点が40点に成長するのはすごく大変だ。
そしてこの点数はジャンルや技能ごとに分かれていてその種類も百種類じゃ利かないってこともわかってくる。つまりどういうことかというと、人間ってのは恐ろしく膨大なパラメータで構成されていて、若いころ思ってたよりもその距離感は遠く、埋めがたく、複雑だってことだ。マクロに見てみれば確かに消費単位としての人間なんて似たようなものだけど、ミクロに見てみればAさんにできてBさんにはできない、って問題にあふれすぎている。卑近なことでいってみれば「議事録を手際よくまとめてコピーして事前に配布しておく」程度のことでさえ、人間と人間の間には差があって埋めがたい――それが中年になるとわかる。
その種の格差ってのはもちろん絶望でもあるんだけど、一方で解脱というか、いいことでもある。
少なくとも「世界は才能ある人(100点)とクズ(0点)でできている」みたいに乱暴で便利で安易な絶望には向かわないですむようになる。
世界を二種類で塗り分けるってのはずいぶん簡単で、その若い絶望は手抜きだったんだな、ってわかるようになるんだ。
若者はまだケーススタディが足りてないから「俺は0点だ!世界はクソだ!」とか叫ぶけれど、ちゃんと観察を続ければ(たとえば)自分は28点だってのがわかってくる。もちろん自分が28点しかないってのは、そりゃたしかにがっかりするけれど、27点の人との間にある圧倒的なアドバンテージも同時にわかってくる。それが解れば、28点全部を放り出して「俺は0点だ!」なんて思いもしなくなる。
それに遠いとはいえ29点の方向もわかるようになる。29点になる為の1点を100分割して28・01点のためになら多少歩くことだってできる。これはなにも努力至上主義みたいな話ではなくて、どちらかというと、真っ暗で見たことも聞いたこともない砂漠に放り出された時、地図を持ってるのと持ってないのとでは大違いだ、という話に近い。努力をしなきゃならん、すべきだ、という話ではなくて、自分に何が出来て何ができないか(=自分の点数もわからない)で生きていくのは、生死にかかわるほど不便だってのももちろんだけど、ただわからないというそれだけで死ぬほど不安で不幸なことだって話だ。
そんなわけで、ここでいう若さ特有の劣等感は嵐みたいなもので中年になれば消える。すくなくともどっかの職場で働いて自分の姿が見えてくれば薄れていく。1点の差を乗り越えるためにグダグダ数年を過ごせば、懐かしくなる程度には過去になる。そこだけは、おっさんとして、安心してもいいんだよ、と言いたい。
ギャンブルに例えるのはあれだが、まあ、研究なんてある意味どれもギャンブルみたいなものなので正しいとも思うけども。
① 怪しいデータを無視して論文を完成させる → すれば莫大な予算と名声、仮に不正データが露呈してもコリゲンダム程度かな?
に関しては、まず、ほとんどの人が勘違いと言うか正しく理解してないと思うんだけど、
今回のSTAPに関して、笹井さん主導で実験を行ったものでは無いし、理研でこの時点では確実に小保方氏がSTAPに関しては一番の研究者だったわけだ(それが虚構であるのは別として)
笹井さんにしてみれば小保方氏の論理を聞いた上で小保方氏のデータを見る、と言うことしか出来ないわけで、
少なくとも論文執筆の時点では100%の確信を持ってたと思うが。
STAPの実験に関しても、1からずっと理研でやっていたならともかく、
もう論文を投稿したことも在るような事の確認研究程度しかやってないみたいだし(それも実際やってたかどうかすら疑問なところだけど)。
「師弟関係」みたいな表現されるけど、単に一人の研究者同士の付き合いでしか無いと思うんだが。
ただ、小保方氏があまりに論文執筆に無能だったから笹井さんが論文を各部分を手伝った、というだけで。
だから、この時点で笹井さんにとって見れば別にギャンブルでも何でも無いと思うが。
ユニットリーダーまでに昇格させたのは多少ギャンブル要素があるかもしれないが、「女」を無駄にある程度のポストに就かせるのは日本全体的に行われてる愚行だし、
得にこの時は同時に他の女もユニットリーダーになってるので広報的にも二人同時の女ユニットリーダー誕生はある意味必須で丁度良いタイミングだった、程度だろう。
① 全て虚構でしたと言って謝罪する → 論文共著者および理研CDBの権威は失墜、Natureおよび姉妹紙からは出禁、研究費獲得もかなり厳しい。
しかし駒沢&下村など過去の例を考えれば、少なくとも小保方以外は科学者として退場というレベルの厳しい責任追及はない。
② 些細な取り違えであり現象自体はリアルフェノメノン → ウソをつき通せればフェードアウトできる。無理ならみんな終わり。
まず、1の場合でもCDBの権威失墜、にはならない。そんなこと言ったら東大も京大も今頃潰れてる。
研究費については小保方氏はもう追放だが、笹井さん自身が今後一切の獲得が無理か、といえばそんなレベルではない。
2の様な感覚はありえない。それ程バカな人間があそこまでは行けない。
従って別に彼自信が2に賭けたわけではない。実際、3月の時点で辞表を提出してるわけで、
それが「リアルフェノメノン」であっても何も意味がないことくらいは研究者なら誰でも分かる話。
あんたみたいな人が理解できてないだけ。
少なくとも私はあの会見で自信が揺らぎ、「あれ、やっぱりSTAP現象自体はリアルフェノメノンなのかな。いやいやそんなわけあるかい。
こんなことをいうが、実際研究者達は誰もそんなことを感じてない。
論文は明らかに不正があったのは明らかになった結果、今は自分ではどうしようもない、と言った印象。
早く上が処分してあげれば良いのに、というかそれしかないのに、といった。
上にも書いたが本人は辞表を出していたし、周りの人も、彼の今後を考えたら辞めさせて他で再出発するしか無い、と言った声が多かったにも関わらず
「保守」を名乗ったり、さらには「右翼」だとか「皇国主義者」だとかいわれたりする人たちをみていると、「本当に天皇を崇敬しているのか?」と思える人が少なくない。
天皇は、とても穏やかで柔和だ。
それに比べると、彼らの中には、攻撃的で高圧的、威圧的な人が少なくない。街宣車で大騒ぎしたりするのにしてもそうだし、官邸周辺でのデモ活動を「テロ」呼ばわりするのにしてもやはり、そうだ。
理屈の上ではきっと、彼らは、天皇陛下に代わって、天皇陛下を護衛する「親衛隊」のたぐいであるつもりなのだろう。だが、私からすると、例えば、師弟にしても親子にしてもそうだが、敬愛する方の性格に似ても似つかない子弟なんて不肖だと思える。
さて、日本の、少なくとも江戸時代以降の社会文化というのは、中国儒教の影響を受けた、国家的大家族主義だ。家父長主義、「家制度」ともいわれる。そのため、「俺がなんとかしてやる」というパターナリズム(父性主義)の傾向が強く、社会全体が共依存気質をもっている。それはいまでも、政治家にしても、妻子をもつ世帯主の男にしても、そういう傾向がある。彼らはしばしば悩みを抱え込んで死ぬことすら、少なくない。
例えば戦争をして多数の「家族」を死なせたのも、善いわけがない。家族を死なせるというのは、あきらかな悪だ。だから、本当の日本的・保守的な発想であれば、「死んでしまった者は還ってこないのだから、もうしかたがない。だが、仲間を死なせたのは悪いことだ」と、結果は受け入れざるをえないが、倫理道徳観は維持することになる。「確定した結果はしかたがない」という発想も、日本的特徴で、外国人からはしばしば不可解に思えるようだが。結果に対しても是が非でも許容しないという感情・意地がある人たちからすると不可解だろうし、行為であろうが結果であろうが固定実体的に善悪を下すひとたちからしても、不可解なのかもしれない。
家族を死なせてしまうのは、善いわけがない。戦争をして、殺しあいのために戦地に赴かせるのも(他人を殺させるのも、殺されるのも)善くないし、ましてや本土空襲で多数の家族が死ぬのも、善いわけがない。あの太平洋戦争でたくさんの人が戦地に行ったのは、本土の家族を護衛するため、しかたがなかったからだ。
死んでしまったものはしかたがない。だが、いま生きているものを死なせるのは善くない。
例えば、安倍晋三君が靖國神社に参拝しつつも「不戦の誓い」などといういささか奇異な妥協をしようとし、ところが自民党内では「靖國は不戦の誓いをするような場所ではない」とケチがついて党の運動方針からは撤回となったそうだ。はたして自民党のひとたちは、本当の「保守」なのだろうか? おそらく、いまの自民党は、真のこころざしのある者たちが降板したから、結果的に「極右化」、エセ・まがいものの「保守化」をしてしまったのではないか。それなのに、既成事実として自民党が多数派で政権を担ってきた、その母体があるがゆえに、まがいものの「保守」が政権を握ってしまっているのだろう。
なんだか、皮肉なことに、例えば社民党だとか共産党だとかの人命を強調する人たちのほうが、私には「保守的」にみえて滑稽だ。いや、実のところはおそらく、合議・話しあいというのが本当の日本文化で、それは言い換えればときに「民主主義」ともいうし、「コミュニズム」ともいうのかもしれない。
いまの日本ではいったい、なにが偉いのだろうか? 戦争にしても、原発にしても、自殺者が日常的に多数出ているのにしても、なぜなのだろうか。大切なものを見失っているのだと思う。カネと贅沢が偉いのだろうか。あるいは、世界の投資家にいい顔をするのが重要なのだろうか。
http://anond.hatelabo.jp/20131024133238
この手のタイプは一見熱心に部下を指導するデキる上司に見えるが
好きなだけ卑下できる部下が居てくれて内心安堵している。
「なんでこんなこともできないんだろう?」
とグチをこぼして快感を得るのが目的であり、実は本人の成長は願っていない。
「しょおがねぇなぁ~wやっぱ俺がいないとダメだろ?」
と、嬉し半分憎さ半分で仕事に取り掛かっているはず。
という構図に酔いしれているのだ。
聞く側は嫌味に聞こえないし、心配してもらえる。
「自分でやった方が早い病」の更にエスカレートしたバージョンだ。
その部下は別の意味で気に食わなかっただろう。
認めるとしたら自分の方法論に100%のっとった仕事術を再現する部下しか認めない。
その部下にも自主的に考えさせてやりゃいいのに、って思う。
その上で結果がうまくいかなくて助けを求めていればサポートしてやる。
新人教育は息の長い作業で、自分のやり方をトレースさせりゃいいわけじゃないってことを
自覚してほしい。
アニメなりドラマなりでよくある設定で、主人公とかの師匠格にあたるキャラクターが死ぬパターンあるじゃん。
戦闘中に死ぬとか病気に冒されて死ぬとか死に方はいろいろだけどとにかく死ぬわけだ。
で、もともと真面目に師弟関係やってた主人公であればもちろん師匠の死を受けて遺志を継ぐためにより厳しい修行するし、
それまであんまり真面目に師弟やってなかった主人公の場合、これを契機に人が変わったみたいになって修行に励む、みたいなのよくあるじゃん。
アレって現実でも必ず起こるもんかしらと思ってたけど全然そうじゃなかったね。
俺の場合、恩師が亡くなってそろそろ4年経つんだけど、自分でも引くくらいなんにもしてこなかった。
いや一応研究もどきはしたよ。名ばかりの論文書いたりちょろっと学会発表したりはした。でもそんだけ。
亡くなった直後は妙に悲壮感に駆られて、これからは立派な研究者になるんだ! とか思ってたはずなんだけどね。
存命中もロクなことしなくて呆れられてたけど、亡くなってからもなんといって心構えが変わったりしてない。
ファンレターもずいぶん長い間送りつづけていたし
連載雑誌はもちろんゲストで描いたイラストやインタビューなどが載っている雑誌も新旧含めてすべて所持
さらには単行本の巻末おまけなどから推測される師弟関係などの未確認情報もまとめて自分のブログに載せていた
師弟関係については、元アシの人から直接ブログにコメントがきて新しい情報が増えたり、匿名コメがきたりで楽しかった
そんなこんなしているうちに、Bと名乗る人物からメルフォに1通のメールがきた
「A先生の情報がこんなに詳しくのっているサイトは初めてでうれしいです。ぜひお友達になっていろいろお話しましょう!」
BというHNに見覚えがあった
一時期Aファン(といってもごくせまいコミュニティ)の間で話題になったブログの管理人だ
ブログで堂々と顔出ししていたこと(当時彼女は高校生だった)、Aとの結婚願望を隠さない等、いろいろな要素が相まってヲチ対象になっていた
しかしブログの文章そのものはおもしろく、自作のファンアートや漫画のレビューも好みで、私はひそかにブックマークして毎日通っていた
Aに会うためにAがネームに通っているファミレス(これは単行本のおまけページから推測したらしい)でアルバイトをはじめたこと
そしてAからメールで返信が来たらしいことを匂わす記事をアップしたあと、ついにブログは炎上
あっというまに閉鎖してしまった
5年も前、たった数か月間の出来事だったがすぐに思い出すことができた
Bの行動力とA先生に対する熱意がずっと心にひっかかっていて、自分もいつかファンブログをやろうと決意したからだ
「もしかして(当時のブログ名)のBさんですか? 当時よく通っていました」
思い切ってそう返信すると、やはりB本人だとの返信があった
私が当時のHNやブログ名まで覚えていたことに引いてしまわないかなと思ったが彼女はびっくりしたとはいいつつも、楽しくメールのやりとりをしてくれた
「実は私、昔A先生からメールがきて、写メもらったことあるんですよね。しかも先生の自撮りw」
と告白された
A先生、確かに若くてかわいい子には弱そうだもんな…と思いつつ、その写メも見せてもらった
その時、BとA先生は何通かメールのやりとりはしたものの、実際にAに会ったことやサインをもらったことはないらしい
けれど私もファンレターいっぱい出してたのに返信はなかったわけで…かわいい子には返信するんだ…とやるせない気持ちになった
Bのブログが炎上した当時と違い、A先生の知名度は確実にあがっている
私がまとめなくても、だれかが情報をまとめてくれる
毎週買って切り抜きしていたAの連載も追いかけなくなった
を、ふと思い出したわけですよ。アニメでまおゆう9話の例のメイド姉演説聞いて。
これはメイド長の説教で言われていた「虫」というのが一体なんなのか、ということに対する一つの資料だ。
先に言っておくとメイド長の言う「虫」と、メイド姉の言う「虫」には微妙な齟齬があるということを前提にして話したい。あまり重要ではないのだけど、要するに師弟関係にある二人の思想家が言ってることは非常に近い所から非常に近いものを言っているが、そもそも別の話ですよ、程度のエクスキューズだと思って欲しい。
「虫」というのは、そして「人間」というのは、我々現実レイヤーの者にとってもかなり直接的に転写可能な概念である。
現実における彼らとは一体なんなのか。メイド姉の演説を聞いていて、ふと、「まおゆう」批判者よりもむしろ、「まおゆう」信者のほうにこそ「虫」は多いのではないか、と思ったのだ。
「自分の意志を他人に譲り渡して考えることを忘れた者は虫」とメイド姉は言う。
これを素直にとり、また元記事の文脈に即するならば、「自らの努力で自らの生活を改善しない存在は虫」と言うべきなのかもしれない。
だが、しかし、結局、勇者と魔王とメイド長が(あるいは、それに代わる存在が)いなければ農奴姉妹は脱走農奴姉妹でしかなく、メイド姉妹にはなれない。なれるはずがない。メイド長が言うように、乞食姉妹になるくらいが関の山だっただろう。
つまり、彼女は「自らの努力で自らの生活を改善できない存在」だったのだ。彼女はそれを「運命」と呼ぶ。メイド長はそれを「自分でつかめ」と言う。
「自分を、家族を守るため、石を投げることが必要であれば投げるべき。ただし、他人に言われたからという理由で石を投げるなら虫」
これを言い換えるとこうなる。
「自分の力で運命を掴めない存在は虫だと言う他人の言にそのまま乗るなら、そいつは虫」なのだ。
その上で元記事の文脈に乗ると、「人間は自らの努力で社会を(自らの生活を)改善することが出来る」というテーマに耐えられない人々は、だがそれ故に、実は「虫」ではないのである。
彼らが置かれた現実、そのテーマを根底から覆す現実とは、まさに、守らなければならない家族と自分に相当する。守らなければそのまま死ぬだけからだ。メイド姉の該当部分以降を鑑みれば、彼らは、逆説的に虫ではないからだ。
そしてメイド姉が「虫」と呼ぶのは、それにすら、無痛であることを選び、耐え切ってしまう者のことだ。
であれば、「虫」というその名は、まおゆうが示した希望の姿にうっかり感動してしまい、その光を盲目的に信じこんでしまった者にこそ相応しいのだろう。
もちろんまおゆう信者の、ましてやまおゆうを楽しんでいる一般ユーザーの全員がそうだとは言わない。だが、その一部には確実に「虫」がいる。そして彼ら「虫」の姿は、努力主義者、苦行主義者、意識の高い社畜、その他諸々の、現代の一部で積極的に害悪に貢献する立ち位置から発せられる言論とダブる所が無いとは、私にはとても言えない。
それに「耐えられない」と叫び、「ふざけるな」と憤る人々。
その姿は、石を投げる農民達の怒号に重なるのだ。
(鈴木敏夫のジブリ汗まみれ 2010年1月12日 庵野秀明ゲスト回その2 続き)
鈴木:何なんですか。
庵野:まあ、目標みたいなもんですかね。設定のひとつですよね、目標設定の。到達点じゃないんですよ、それがゴールではないんですよ。
鈴木:ゴールではないんだ。
鈴木:あ、そうなんだ。
庵野:人としては較べようがないんで、やっぱり作ってる作品になると思うんですけど。超える超えないっていうのは。そういうのは、何をもって超えるかとかそういうのはありますけど、まあ、なんだろう……意識ゼロじゃないですね。
鈴木:宮さんを仮想敵にしたのは、作品で言うと何やってたときなの?
鈴木:ほお。
庵野:ちょうど師弟対決とか世間で言われてたとき。『エヴァ』の前の映画(『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』)やってたときに『もののけ』がやってたんで。
鈴木:なるほど。
庵野:あのときは殆ど同時だったんで。興行では勝てる気はなかったですけど、中身では勝ちたいと思ってましたね。
鈴木:どうだったの。
庵野:……。
鈴木:まあ、そんなに簡単には言わないだろうけど。
庵野:まあ、言わんとこうと……。
庵野:それはもう過去の自分だったりするわけです。いまの『ヱヴァンゲリヲン』がそうですね。前の『エヴァンゲリオン』よりいいものを……いいものっていうか、いまの自分が入っている分。12年分を出して、別のものにしようと。「誰か」って最終的にスタッフになっちゃうんですけどね。スタッフが頑張ってるから自分も頑張らないとになりますね。
鈴木:後身の育成ってどう思ってるんですか。
鈴木:今度のね、米林(宏昌)ってのが面白いよ。いまのこの『(借りぐらしの)アリエッティ』やってるんだけど。シナリオは宮さん中心にやってるんだけど、コンテは全部自分でやってるから。だからいわゆる芝居は彼が、演出は。それでそのコンテ、宮さん見てないから。
鈴木:だいたい上手な人って、ふつう教えるのって苦手だよね。宮さんだって必ずしも上手じゃないもの。
庵野:そうですね。宮さん、何もないところで人に教えるのは難しいんじゃないですか。
鈴木:実際の作品作りながらだったら、ね、色々出来ると思いますけど。
庵野:そっちのほうがいいと思います。『エヴァンゲリオン』、テレビが終わって僕はボロボロで一回ガーッと落ちて、そこから跳ね上げてくれたのも宮さんのお陰で。
庵野:だったと思います、いま思えば。本当に引き篭もって、本当にあのときはこのまま生きててもしょうがないな、みたいなこと考えてたときに、電話一本くれて。「とにかく休め」と。半年ぐらい休んでも大丈夫だから、自分がそうだから(笑)。そういえば宮さん、3年くらい休んでたなあ、とか。あれでちょっと立ち直りましたね。やっぱりアニメが好きだったんですね。やっぱりアニメを作りたいなっていう風に戻ったんじゃないかと思いますね。
鈴木:宮さんのとこぜひ来て下さい。宮さん元気になるから。だって、庵野のこと好きだったものね、宮さん。いまでも本当によく話すよ。どうしてるって話を。
おわり
楽曲の話なのか録音の話なのか,作り手の話か聴き手の話か,
すっちゃかめっちゃかですが列挙して分類してみました.
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続きなんです系
曲作りのきっかけやヒントをいただきました系.
お題をいただきました系.
面白く可笑しく改変させていただきました系.
もう一度やらせていただきました系.
私好みに改変させていただきました系.
今風に改変させていただきました系.
音を素材としていただきました系.
がっつり参考にさせていただきました系.
こっそりいただきました系.
おいしい所取り出して作り直しました系.
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「この曲のソロがカッコいいので,ソロだけの曲に作り替えました!」とか
「汽車を待つ君の横で時計を気にしている僕の後日談を歌にしました!」とか?
http://anond.hatelabo.jp/20120103131444
http://anond.hatelabo.jp/20120103132230
しかも、博士課程+学振+育英会/JASSOの話題まで触れてもらえたのでうれしいです。
イヤミ抜きで、
音大・芸大に行って、高い楽器や衣装を用意して、師弟制度の中で頑張っても、将来が約束されない芸術家の卵や、
10代・20代で師弟制度に揉まれながら、借金を背負いながらも独立してる土木業や飲食業の人や、
不条理な文句に社内からも社外からもた叩かれて逃げ場のない企業人や、
そんな方々に比べて、
いろいろ借金を背負っているとはいえ、広義のサラリーマン職への就職を狙えるし、
http://anond.hatelabo.jp/20111106092420
大学選びのコツ。
この先、キビしくなっていく世の中で「学歴」っていうのは非常にコスパのいい資格で、その一方ある程度以上の
ものがないと「無いも同然」になりかねないものだと考えた方がいい。具体的にはマーチ-駅弁未満の特色のない大学とか入るだけ無駄。あと、美大・音大に行く奴は夢と心中する覚悟を持っとけ。文系院志望は更にだ。東大でも進路に自殺が見えてくる。
「偏差値」が重要なのではなく、大学名の肩書きが重要だってことは覚えておいた方がいい。
高校生だとピンと来ないだろうけど、最早「まともな暮らしがしたければ学歴は絶対必須」って世の中に突入してる。
「普通の暮らし」って高校生が思う以上にハードルが高い。親世代のようには我々生きてけないだろうから。
①進路が明確な場合
例えば「船乗りになりてえ」とか「教員!」とか言うなら、それぞれベストに近い大学があるのでそこに行こう。出来れば、その界隈最高峰の大学へ行こう。教員なら学芸大、船乗りなら海洋大学みたいな「就職超強い大学」が一個くらいはある。しかし、この場合覚えてほいて欲しいのは「現場作業員」ならそのレベルでも到達できるけど、「日本郵船で新航路を開拓してえ」とか「日本の教育制度を改革してやらあ!」みたいな野望は、この手の大学ではかなわない。自分が現場で働く人になりたいか、それとも指揮をし企画する人になりたいかは、十分考えて進路を決めよう。ぶっちゃけ、進路が決まっていれば大学の段階でそれが叶うか否かは8割くらい決まる。スゲー大事。超悩もう。
②進路があやふやな場合
文系なら、とにかく必死こいて偏差値の高いところ。具体的に言えば、私大なら早慶以上、国立なら旧帝以上に入ろう。
学習コスパが高いのは早慶。三教科で受かる割りには社会的評価が高い。ぶっちゃけ、底辺国立に入る実力があれば早稲田慶応なんて入れちゃう気が俺はしてるんだが、何故こんなに社会的評価が高いんだろうか。その辺りを勘案しても早慶はお得感があるな。デメリットは学費。高すぎだろクソが。
理系の場合は、自分の適性に見合ったところに行こう。若干就職は文系に比べて有利だ。ただ、大学生活が文系に比べてダルいと聞くので、好き嫌いで選んだ方がいいんじゃないかと思う。俺文系だから知らないけど。
大学の価値は「肩書き」以外に、「人脈」っつーものがスゲー多い。例えば、俺は早稲田の出で起業した人間だけど、大学のときの人脈がなければ起業なんてまったく覚束なかっただろうと思う。借金抱えて早稲田に通った甲斐はあったと思ってる。
ただ、貧乏人が私大に行くとカネの面で相応のリスクになることもあるので、そこは自己判断、自己責任。
んで、一定レベル以上の大学は、金持ちの師弟が非常に多く、また一流企業に勤める人間も多いので、人生通してかなり使える。スゲー便利。また、学閥っつーキモチ悪いコネクションも日本社会には蔓延ってるので、これもかなり使える。どこの企業に行っても、東大・早稲田・慶応の門会は大体ある。俺も外資含めて企業3つハシゴしたけど、全部あった。特に早稲田。ゴキブリかおまえら。
たいていの人は初めての就職活動が終わって内定者の学歴を見たときに「うわ…学歴って大事なもんだな・・・」と思うだろう。
東・東・東・ハ・慶・東・東・東…みたいな学歴って大企業だとフツーだからね。「俺低学歴ワロタ」って感覚になる人も多いと思う。俺そうだった。
③学びたいものがあるが、それは進路には特に結びつかない可能性が高い時
「文学やりてー」とか思ってるヤツ。俺もそうだったけど、コレ辛い。
特に、大学でやりたいことをやるには必然的に「院」って選択肢が浮上してくるが、やべーこれ詰むぞ?って感じになるよね。
俺も修士出だから結構怖かった。これ対策は、「やりたいことをとにかく必死にやる」。ことしかないと思う。
だってさ、大学って就職予備校じゃねーんだからやりたいことをきちんとやらないと意味が無い。
じゃあ、どうするかって例えば俺は文学を専攻したんだけど、そーいうの必死でやれば普通語学くらいつくだろってことだよね。
院試で英語使うしさ、TOEIC800とかまで最低でも伸びるだろうと。一生懸命勉強して、結果として付加価値をつけるしかないと思うんだよね。それでも、結構な高確率で就職詰むけどさ。個人的に、就職のことだけ考えて大学を選ぶのは薦めない。おもしろくねーし。大学選びは「やりたいこと」でいいと思う。ただ、その中で自分の付加価値を発見するなり習得するなりしてけないと、この先しんどいだろーな、と思うよ。それでもダメなら公務員試験。あれもやりゃ受かるし。Ⅰ種の難度は過大評価されすぎてると思う。やれば受かるレベル。ただ、その先の面接は「俺低学歴ワロタ」になるから早稲田・慶応辺りだと場所によって辛いが。
なんにせよ、高校生に大事なのは「何がしたいか」「どうなりたいか」の明確なビジョン。
高校一年生なら、とにかくこの将来のビジョンを作ることに専念したらいいと思う。目標が出来上がってれば結果なんてついてくるし。
俺の場合、小説大好き⇒文芸批評家になりてえ⇒早稲田だったけど。こんな冷静になれば「それ食ってけると思ってたん?」って夢でも、大学受かるくらいのモチベーションにはなる。それが大事。今の高校生さんだと、多分大学入試のモチベーションも捻出できないと思う。1年生なら東大まで十分射程距離に入るし、よく考えてよく選んで欲しい。俺この歳になっても「二浪までなら東大目指せばよかったな・・・真面目に数学やってりゃ…」って思うことがある。東大・京大・一橋辺りは入試難度が別格なんで、高校3年の秋から勉強しても受かる時は受かる早慶とは比較にならんほど、早いうちに進路決めたやつが有利。逆に言えば、「三年ありゃ東大は受かるんじゃね?」と俺は思ってる。受かったことねーけど。受けたことはある。落ちた。日本は何やるにせよマジで東大最強伝説なので、東大いけるんなら進路なんて一ミリも考えなくてもOKってフシはあるんだよな。
高校一年生で進路も全く見えてないんなら「とりあえず東大目指す」ってのは戦略としてかなりオススメ。「自分は東大なんてムリだな…」と思うなら、早慶狙いの三教科特化に切り替える手もあるけど、ぶっちゃけオススメしない。旧帝狙いとかなら東大狙いがミスった結果で受かるだろうから、一年生は目標を大きく持った方がいいと思うよ。
社会をよくするどころかむしろ犯罪者や悪意を増殖させている 悪意と自殺を誘発している 2chは社会の不幸生産装置
益となるものは何もない 政府が2chやヤクザを規制しなかったことで日本は悪に染まった 2chもヤクザも失敗作
学校でいくら善意を育成しても2chのせいで悪意に変わる 社会の癌 ここ10年の2chの成果はある意味犯罪レベル
健康な社会を破壊した 規制しなかった政府はクズ 学校行政は国民をいい方向に誘導してたが2chが邪魔した
なんのために偉い学者が教科書にいい文章まとめて教師が人生かけて国民を善導してたんかわからん ひろゆきは
見つけ次第処刑だな あんだけ国民善導してきてた政府が2chに無反応だったのはやばいな 学校行政が誘発してきた
善な風潮は死んだ 2chは悪。 何も誘発する気はなく 社会をカオスにするだけ 何かを誘発するだけの安定性も内容も
そなえていない みるとただ精神崩壊するだけ 実に悪質 学校行政失敗しといて公式のざんげも何もない 政府は死ぬべき
実社会はけっこう行政の論理でできてるのにそれが死滅してるのが悲惨 お前が失敗して国民を道連れにしたんだろうが
死ね ヤクザは最悪 弱者の心を踏みにじるだけ ヤクザの用意周到で超絶な悪意はやばい 善良者に有害 今の日本は2ch
の悪と中途半端な善が同居してるより最悪な風潮だろ 政府は失敗して復讐されるのを必死で防ごうとしてるだけで今何も
やってないからな。何も生み出そうとしてない あんだけ自分を信用させきった行政についていった者が一番かわいそうだが
戦前と同じ 敗戦した中高年のストレスを解消するためだけのクソ掲示板 犠牲になるのは若者 クソ中高年のストレス解消の
ために弱者をいじめのはけ口として誘導するようにしてるあたり最悪 経済戦争に失敗したならこんなところで暴
れずに自殺しろカス 若者に迷惑 厚生元事務次官が暗殺されたのがその証拠 自分でシコってその失敗を弱者にぶっかけてる
んだから暗殺されるわ ヤクザや2chがないと生きられないってことは日本人の本質が悪なんじゃね 日本の政府が善良な心
を生むなんてこと自体土台無理だったんだろ 2chのせいで、けっこう親子間、兄弟間、師弟間の喧嘩や殺人、自殺があった
んじゃないか 自分のためなら犯罪の誘発も辞さない政府の悪徳ぶりがすごい 日本=悪論はほぼ固まったといえる 政府も2c
hも悪の塊 日本人自体が悪。可能ならばどこまでもやるような人種。 こいつらに善も正義の観念もない 可能ならばなんでも
やるという本性がこの発展を可能にした ひたすら結果論で可能ならどんな隙間にでも入り込んで成し遂げるはず
美への惑溺はあるが真も正義も日本人の人生と関係ない 生き方自体がゴキブリ 戦後きまぐれで推進してきた学校行
政の割合素晴らしい教育もわずか2,30年で死亡した 日本人から善を引き出そうとする教育はあっさりと形骸化した
悪である日本人を善導するなんて土台無理な話だった 土台無理なことを企てて当然に失敗した行政の残骸である学校が虚し
い いまやこの社会デザインで実質は2chで悪を引き出そうとする始末 悲惨 今の行政は形骸で実質は悪なんで正論をぐだ
ぐだ言っても無効 法律を悪意で運用するような言い方でないと通じない もともと善を引き出すために整備した法律や常識論
で悪をなしてるのだから形容しがたい悲惨さ 善への道を封じ込めすぎて良心の呵責もない状態 行政官に善を引き出そうとす
る念力はない 善を引き出すために勉強したのに悪をやってる行政は一番悲惨 教育行政を受ければ心が善になるつまり善を引
き出そうとはしていたが失敗したから言い訳しているんだ 日本人を善導せんとした文科省の企ては完膚なきまでに失敗した
日本善導計画の失敗が戦後日本歴史上最も悲惨 善導できなかったのだから 今の日本の風景は善導意思がないからすっからかん
風景の1つ1つに本来の善導意思はない 死体の屍のようだ 善導に失敗したならただの馬鹿 司法も行政も学校も善導力はない
悪に勝てない 2chは悪導力が凄まじい 今はせいぜい悪を一定のところに封じてるだけだろ 善導意思まではない
善導を中止し、悪を一定のところに封じる政策で諦めたのが日本 この諦めは近年著しく推進されている 悪を封じればよいで
おわたのが日本 というよりむしろ2chなどで悪が死なないようにしてる始末 所詮生活意思しかないんだろ 善なぞやる気は
なかった 持続可能な悪だろ。日本人は 要するにお前は悪