はてなキーワード: 私たちとは
音声の品質が悪く、ところどころうまく聞き取れなかったところがあった。その箇所は●●●と表記した。
anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用〜
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
anond:20220805230307 Part4 〜キャンセル・カルチャー批判〜
anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てたキャンセル・カルチャー批判のメカニズム〜
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=9613s
2:40:13~2:45:40
私いくつか頂いていて割とまとまらないというか散発的な感じなので、すごく短くお答えしたいと思います。
最初に「日本政府のジェンダー・バッシングの背景に宗教団体のロビー活動がありますか」ということなんですけど、
これはあります。詳しいことは、っていうかご存知の方はご存知だと思いますけど、
先週末かな、にモンタナの山口さんと富山の斉藤さんが、これ出していいのかな、
どっかで、延々と何か全部で見ると4時間か何かの番組でお話になっているので、そちらを見ていただければいいと思うんですが、
ジェンダー・バッシングの背景に宗教団体は確実にあります。統一教会はちょっと新しくって、
もともとあったのは、どちらかというと日本会議系だったりとか、そっちにいたんですけれども、
それと関係して「今日出てきたABORの背後に●●●主義がありますか」ということですが、
ただ問題はいろんな議論が直接、原理主義とか宗教から出てきているかどうかではなくて、
そういうところと結びつくようになってきている、ていうところのほうがジェンダー系では大きな問題だ、
ということはお伝えしておきたいなと思います。
次ですが、
「フェミ科研裁判と同じく京都地裁で係争中の呉座勇一さんも学問の自由●●●を求める裁判をされています」ということなんですが、
私は呉座さんの裁判は労働争議だと思っているので、学問の自由ではないんじゃないかなぁと思います。
ちょっとわかんないんですけど私も、きちんと法律の専門家じゃないので、
他の●●●の裁判をはっきりきちんと見ているわけではないんですが、労働争議ということではないかなというふうに思ってはいます。
学問の自由っていうのは、研究者だったら何を言っても大丈夫ということではなくて、例えばある人が、
この場合は「女性蔑視が問題になっていますが、学問の自由は守られるべきだと思われますか」っていうのがあるんですが、
ここすごく大事なところなんですけど、
あるいは非常に女性蔑視的であったりとか、
あるいはそれを超えて性暴力に至るようなことがあったりとかていうときに、
それは当然、性暴力って考えたらわかると思うんですけど、学問の自由では守られないです。
今言ったような、今おっしゃていただけたような、あるコミュニティの中の、学問コミュニティの中の手続きであるとか、
そこで積み重ねられてきた知見に則って、どういうような議論するか何を考えるか、
例えばすごく離れた領域っていうのを考えてみると、何でもいいんですけど、理論物理学の研究者がいて、
その研究者が非常に女性差別的なあるいは人種差別的なことを言ってそれが問題になった。
「いや学問の自由だよ」と言われたら学問の自由じゃないんですよ。
その人が女性差別的なことに言ったりとか人種差別的なことを言ったりとかっていうのは、
それは学問とは全く関係ないということなので、それは学問の自由では守られない。
そこら辺ちょっと、この件がそうだということではないんですが、
学問の自由っていうのが適用されるのは、そういう意味では結構狭いことになるので、
そこはちょっと注意したほうがいいんじゃないかなというふうには思いました。
次なんですが、「キャンセル・カルチャーという言葉を初めて聞いたんですが」、
何か今回のフェミ科研裁判とどう関係があるのかというご質問かなと思ったんですが、
一つは●●●さんもおっしゃってくださったように基本的には、その今●●●さんがおっしゃったこととも関係するんですが、
今回はすごく大事なんですね、この文脈では学問の自由は非常に大事なんですが、
学問の自由っていうのをとりあえず出しておけばいいということではなくて、
一体学問の自由っていうのが何を守ろうとしているのかとか、どういうふうに使われようとしているのかとかていうのを、
1回1回読み解いていく必要がある。
それを忘れて学問の自由なんだよという話をしていると結構足を掬われるって話を、
日本語圏はそもそもさっき「学問と見られていない」とおっしゃっていたのは、ほんとそのとおりだと思うんですけど、
そもそも日本語圏では学問の自由以前に、例えばジェンダーとかセクシュアリティとかそういう問題に関しては、
気にしようとも思っていない人たちが圧倒的に多いんですけど、でもその人たちが「気にしたほうがいいよ」って言われた瞬間に、
「学問の自由」って言い出す可能性は逆に言うとめちゃくちゃ高いと私は思っていて、すでに言い出している人たちはいっぱいいます。
なのでそこはやっぱり気を付けた方がいいよね、っていうふうに私は思いますし、
そのことっていうのは、例えば今回この学問の自由が大事だっていうのと、
それからある特定の別の学問の自由の使われ方に問題があるっていうのを、
同じ地平の上で、だけど、こっちは大事でこっちはまずいということを言えるような、
私たちが言説上の力をつけておかないと、ふらふらと引っ張られる可能性があって、それは非常に危険だってふうに思ってます。
一つの講演に対し、知る限りこの増田を含め三つの文字起こしが乱立している。
先行文字起こしが二つがあるなか、あえてもう一つを公開したのは以下の理由のためである。
なお、作業自体は滝本の文字起こしの公開前、Togetterまとめの文字起こしが中途で止まっている時から始めていた。
石畑隆氏版文字起こし(https://note.com/philo_radi/n/ne2da785c938c)が加わって乱立四つとなった。
質疑応答部がなく、またここではカットしたフィラーや言い誤りの訂正等も比較的再現されている。
小見出しを適宜挟んでいるところはここと近い。
公開先のnoteの組版の方がはてな匿名ダイアリーより読みやすい人はいるかもしれない。
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https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=3920s
Sara Ahmed, "You Are Opressing Us!"
「誰かがノー・プラットフォームにされたと言うためのプラットフォームを与えられ続けたり、あるいは口を封じられたことについて延々と話をしていたりする時、そこにはいつもパフォーマティブな矛盾がある。しかしそれだけではない。そこであなたが目にするのは、権力のメカニズムなのだ。」
「自分がすでに抱いている信念を裏付ける証拠を求める欲望は、時に、その証拠を生み出すための挑発や威嚇につながることがある。
侮辱的な言語行為が次々と述べられるのは、侮辱され気分を害してほしいという欲望があり、他者が気分を害するせいで『われわれの自由』が制限されるのだという証拠を望んでいるから、である。」
この枠組みを非常に早い時期に的確に指摘したのが、イギリスのフェミニストとして知られるSara Ahmedです。
2015年のブログ記事でAhmedは、ガーディアン紙に掲載された、これ別の書簡なんですがこれも公開書簡です、
「個人に対する検閲や口封じを許すことはできない」というタイトルの公開書簡を取り上げます。
トランスジェンダーについてあるいはセックスワークについて特定の批判的見解を持つフェミニストたちが、
大学で沈黙させられているというふうに主張するものでした。ちょっとここ分かりにくいんですけど、
2015年の英国のこの文脈では、沈黙させられているというふうに主張しているフェミニストたちというのは、
階級的にもそれからジェンダー・モダリティという点でも、いわば多数派の側になります。
Ahmedは、公開書簡で取り上げられている例というのが実際には、特定の見解を理由にした検閲だったりノー・プラットフォーミング、
ノー・プラットフォーミングっていうのはイギリスの運動なんですけど、
イギリスの学生運動の中で採用されてきた戦略で、非常に危険で受け入れ難いと見なされた見解とか信念、それこそネオナチとかです、
そういうものを公開する機会そのものを提供しない、そういうのがノー・プラットフォーミングといわれるんですが、
ただAhmedは、この公開書簡で取り上げられている例が実際には、
そういう検閲とかノー・プラットフォーミングには当たっていなかったということを、事実を確認した上で、
にもかかわらずこれをあえて、キャンセル、検閲、口封じ、ノー・プラットフォーミングという形で主張することで、
これAhmedの引用なんですが、
「誰かがノー・プラットフォームにされたと言うために
そういう発言をするためのプラットフォームというのを実際には与えられ続けていたり、
あるいは口を封じられたことについて延々と話をしていたりする時に、そこにはいつもパフォーマティブな矛盾がある。
しかしそれだけではない。そこであなたが目にしているのは、権力のメカニズムなのだ。」。
検閲され口を封じられたはずの側がより力を獲得する、そういう目的のためにされていると。
だからこそ、検閲され口を封じられること、言い換えればキャンセルされることというのは、ここではむしろ求められている。
キャンセルされたいんですね、どっちかっていうと。
次の引用ですが、
「自分がすでに抱いている信念を裏付ける証拠を求める希望は、時に、その証拠を生み出すための挑発や威嚇につながることがある。
侮辱的な」、これoffensiveですね、「侮辱的な言語行為が次々となされるのは、侮辱され気分を害してほしいという欲望があり、
他者が気分を害するせいで『われわれの自由』が制限されるのだというその証拠を望んでいるから、なのである。」。
だからキャンセルされると、そのキャンセルされた人ということでどんどん力が集まって、むしろキャンセルされたい。
キャンセルされるために、より侮辱的な、よりoffensiveな言葉が発せられるという、そういう仕組みができてるというのが、
Ahmedの見立てなんですね。
「この書簡は、フェミニストの発言は自由になされるべきで、健康で活発な民主主義のしるしである討議や対話を可能にするものだ、と考えている。しかし、トランフォビアや反トランスの発言を、ハッピーなダイバーシティの食卓で自由に表明してよいような、ただのありふれた観点として扱うことはできない。食卓を囲んでいる誰かが、別の誰かを抹消するべきだと、意図的あるいは事実上主張しているときに、対話などしようがない。あなたを会話から抹消したがっている誰かと「討議や対話」をするとしたら、「討議や対話」はそれ自体が抹消のテクニックになる。特定の討議や対話を拒絶することこそが、したがって、生き延びる鍵となる戦略になりうるのである」
学問あるいは言論の自由というものを支点とした、抑圧側と被抑圧側の逆転の構図、
表現を変えるのであれば、抑圧されて周縁化されてきた側からの異議申し立てを封じるための口実、
今日の報告では、90年代からこの図式が少しずつ洗練されつつ引き継がれた様子っていうのをざくっと見てきたわけですが、
その図式が現時点で到達しているのが、自由が侵害された口を封じられたという主張が、
実は封じられることもなく自由に繰り返され拡散されることで、力をさらに獲得している、
クリックとアルゴリズムの時代のキャンセル・カルチャーというパワーメカニズムだ、ということになります。
だからこそ私たちは、国家や強力な組織、経済あるいは社会規範の要請などから、学問の自由というものを守ると同時に、
現代の今2022年時点の学問の自由というのが、もろ刃の剣であること、学問の自由の特定の利用には警戒すべきであるということを、
忘れてはならないと思います。
最後にこういう自由の濫用というものをサバイブするためにAhmedが提唱した戦略を引用して、私の報告を終わりにしたいと思います。
健康で活発な民主主義のしるしである討議や対話を可能にするものだ、というふうに考えている。
ハッピーなダイバーシティの食卓で自由に表明してよいような、ただのありふれた観点として扱うことはできない。
食卓を囲んでいる誰かが、別の誰かを抹消すべきだと、意図的あるいは事実上主張しているときに、そこに対話など存在しようがない。
あなたを会話から抹消したがっている誰かと「討議あるいは対話」をするとしたら、
特定の討議や対話を拒絶することこそが、したがって、生き延びる鍵となる戦略になりうるのである」。
ありがとうございました。
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
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anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=3428s
57:08~1:05:19
抑圧側と被抑圧側との逆転の構図
抑圧側と被抑圧側とのこのような逆転の構図というのは、2010年代にはオルト・ライトと呼ばれる新興右派、
あるいはそれとも重なるミソジニーに満ちたオンラインの男性主義の主張などにおいて、幅広く利用されるようになっていきます。
もちろんマイノリティを、かぎかっこ付きの「私たち」の外部にある敵というふうに認定する、
その敵の攻撃から身を守らなくてはいけないという形で、当該のマイノリティへの抑圧や暴力を正当化していくっていう、
その形というのはもちろんその以前から、
例えば排外主義において、あるいはモラル・パニックにおいて広く見られてきたものではあります。
9.11の同時多発テロの後、対テロ戦争期の欧米各国におけるイスラムフォビアの暴力っていうのはこういうものだったわけですし、
あるいは70年代80年代に、同性愛者とりわけゲイ・バイセクシャル男性というのを、
当時は性的捕食者、セクシャル・プレデターっていうんですけれども、性的捕食者あるいはHIVウイルスの拡散元として、
非常に激しくバッシングしたのが英米のモラル・パニックっていうのになるんですが、これなんかがすぐ念頭に浮かぶと。
じゃあそのオルト・ライト勢力やオンライン・ミソジニー・アカウント群を巻き込んだ、2010年代の特徴っていうのは何かっていうと、
これ単にマイノリティ側を、自分たちを脅かす敵なんだというふうに認定するだけではなくって、
マジョリティ側が力のある側が、自分たちを「差別されている」「抑圧されている」、あるいは「自由を侵害されている」という形で、
はっきりと、私たちこそが「被害者である」「被抑圧者である」という形で、語り始める点にあると言えるかもしれません。
そういう語りのこの後もいろいろ出てくると思うんですが、
今のところ最新の形がいわゆる「キャンセル・カルチャー批判」というものになります。
- CAMBRIDGE DICTIONARY
- MERRIAM-WEBSTER
キャンセル・カルチャーという語が急激に知られるようになってきたのは、
2010年代後半のことで、したがってだから、数年なんですよね、
キャンセル・カルチャーの意味とか語法も、現時点で完全に固まってるとは言い難いところがあります。
実際、例えば辞書の定義を見ても、Cambridge Dictionaryだと、
「社会あるいは集団、とりわけソーシャルメディアにおいて、自分を傷つけ侮辱すること」、offendという言葉ですが、
「自分を傷つけたり侮辱したりするようなことを言った人を完全に拒絶したりとか、
あるいはその人への支持をやめたりする振る舞い方」、いうふうに定義している。
それに対して、もう一つ別の有名な辞書でMerriam-Websterなんかを見ると、
「不同意を表明したり社会的に圧力をかけたりする手段として、集団でキャンセル行為」、
このキャンセル行為というのは「公に、とりわけソーシャルメディアにおいて、特定の人や組織への支持を撤回すること」なんですが、
「集団でキャンセル行為を行う実践」っていうふうにしていて、だから重点がちょっと異なってるんですね。
またピュー・リサーチ・センターによる2020年時点の調査では、
リベラル寄りの人々は、
キャンセル・カルチャーというのは、ある人に自分の言動に対する責任を取らせるためのアクションと捉える傾向が強い。
それに対して保守派に寄っていく人ほど、
同じキャンセル・カルチャーを検閲であるというふうに捉える傾向があるということが明らかになってます。
つまりある人々が、差別的だったり暴力的だったりするなど社会的・文化的に問題があると思われる言動を、
放置しないために取るアクションだ、ってふうに考えているものが、
より保守的な別の人々にとっては、これがつまり「キャンセル・カルチャー批判」の文脈になるわけですけど、
そちらの人々にとっては、それが集団での圧力とか検閲とかっていう形で理解されている。
言い換えれば、「キャンセル・カルチャー批判」という形でのキャンセル・カルチャーってのは、そもそもの最初から、
しばしば多数派である鉤括弧付きの「私たち」の言動を、差別的とか抑圧的などと非難することで、
「私たち」の言動を検閲する抑圧する、あるいは「私たち」を差別する圧力というふうに定義することができる。
だから先ほどからお話ししている逆転の構図を含み込んだ用語っていうのが、キャンセル・カルチャーだと言えると思います。
「正義と開かれた議論についての書簡」(通称「ハーパーズ・レター」2020)
153の署名: ノーム・チョムスキー、サルマン・ラシュディ、マーガレット・アトウッドなど
「人種的、社会的正義を求める強力な抗議運動」や「とりわけ高等教育、報道、慈善事業、そして芸術活動など、社会におけるより一層の平等と包摂を求める声」というような「必要な過去の清算(reckoning)が、同時に、開かれた討議と差異に対する寛容さという規範を弱体化させ、それよりもイデオロギーの一致を求めるような、一連の新しい道徳的態度と政治的コミットメントを強化してしまっている」
保守派による「キャンセル・カルチャー批判」の事例というのは、とりわけ2020年代になってからはほとんど枚挙にいとまがない。
毎月のように何か出てくるんですが、ただ時間がないので、
ここでは学問の自由に関わる、そして最も知られた例の一つを挙げておきたいと思います。
何かというと、2020年に公開された「正義と開かれた議論についての書簡」というものです。
一般的にはハーパーズ・レターと呼ばれるんですが、その公開書簡なんですけども、
この公開書簡は、当時のトランプ大統領に代表される右派の動きというのは民主主義の脅威であるというふうに位置付ける一方で、
同時に右派はまずいと、だけど同時に左派の間にも異なる見解に対する不寛容がまん延しつつあるというふうにして、
ここの何か不寛容とかそういう表現が、先ほどちょっとお示ししたブッシュ・シニアのポリコレ評価と、
用語としてこう微妙に近似しているのは非常に興味深いところなんですが、
とにかくただこれだけ見ると何でもない主張に見えるんですけれども、
この公開書簡、例えばノーム・チョムスキーとか、サルマン・ラシュディ、マーガレット・アトウッドなど、
非常に有名な人たちを含む153名の研究者・作家・ジャーナリストが署名しているんですけども、
この公開書簡、何でもない、割とこう、どうでもいいというか普通のこと言ってるように見えるにもかかわらず、
公開されるとすぐに「キャンセル・カルチャー自体をキャンセルしようとする公開書簡である」っていう形で、
人種的・性的マイノリティを中心とする若い左派層から大きな批判を受けることになります。
キャンセル・カルチャーという用語は、それどころかキャンセルっていう用語も1回も使われてないんですね。
じゃ何で批判が来るのかっていうと、ここ(=スライド)にあるんですけども、
「とりわけ高等教育、報道、慈善事業、そして芸術活動など、社会におけるより一層の平等と包摂を求める声」というような
「必要な過去の清算」、この清算というのはReckoningという言葉を使うんですが、これが同時にそれは必要だと、
だけど同時にそれが「開かれた討議と差異に対する寛容さという規範を弱体化させ、それよりもイデオロギーの一致を求めるような、
一連の新しい道徳的態度と政治的コミットメントを強化してしまっている」というふうに言うと、
この表現が、とりわけBlack Lives Matterを通じて、
Racial Reckoningって人種的な過去の清算の盛り上がりを迎えていた英米両国においては、
人種主義への批判そのものを不寛容だと見なす「キャンセル・カルチャー批判」の文脈につながる書簡だというふうに受け止められた。
同時に、キャンパスにおけるポリティカル・コレクトネスの批判者として知られていた、
ハーヴェイ・ワインスタインの弁護を引き受けたことで、学生から抗議を受けてハーバード・ロースクールの学部長職を退くことになった、
この公開書簡の公開時にはトランス排除言説の支持者として知られていて、その言動に批判が集まっていた、
この公開書簡が「キャンセル・カルチャー批判」の一翼をなすものと受け取られた一因ではあったと思います。
この書簡は、先ほどもちょっと申し上げたように、例えば左派の代表的知識人と見られてきたチョムスキーが署名をしている。
同時に、ネオコンサバティブの論者である、例えばフランシス・フクヤマみたいな人も署名してるんですね。
つまり従来の分け方で言えば、まさに右も左もなく同意できる原則を語っているように見える。
にもかかわらず先ほどから申し上げているように、
実際には、より若手のマイノリティのライターとか研究者から強い批判が出る結果になった。何でか。
恐らくこれは、後者に当たるより若いマイノリティの人たちというのは、
近年では力のある地位にある人々が、自分たちの差別的・抑圧的な言説の責任を問われたときに、
その批判や糾弾を振り払うために使う枠組みになってしまっている、ということを感じ取っているのに対して、
フクヤマにしてもチョムスキーにしても、ある程度は地位が固まった偉い人たちっていうのは、
その事実をあまりきちんと把握できてなかった、いうことではないかと思います。
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anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=2904s
48:24~53:05
伝統的な大学制度における性差別、人種主義、同性愛嫌悪などに挑戦する改革側を、自由を抑圧する権力者として描き出す
ニューヨーク・タイムズ紙コラム「政治的正しさという覇権の高まり」(1990)
ジョージ・H・W・ブッシュ大統領(当時) ミシガン大学におけるスピーチ(1991 (自分の考えを口に出す自由を脅かす不寛容さとしてのポリティカル・コレクトネス)
報告タイトルにもなってるキャンセル・カルチャーというのは、まさにこの文脈で作り出され拡散されてきた用語です。
これは学問の自由だけに関わるものではなく、幅広く文化活動一般に関して使われていますが、
ただ2010年代、後半ですね特に、から急激に広まってきた「キャンセル・カルチャー批判」についてお話をする前に、
その文脈ていうかその前身とも言える、いわゆる「ポリティカル・コレクトネス」っていうものについて少し確認をしていきましょう。
ポリティカル・コレクトネスという語自体は、
元来共産党が打ち出す公式路線に過剰に忠実な思考や行動を指す、ある左派の間の内輪の自嘲的な用語として使われていたものです。
ところがこれアメリカの文脈ですが、古典学者であるアラン・ブルームによる1987年の『アメリカン・マインドの終焉』、
1990年ニューヨーク・タイムズのコラム「政治的正しさという覇権の高まり」、っていうここら辺を契機として、
各種メディアなどにおいて、ポリティカル・コレクトネスを巡る議論というのが沸き起こる。
1991年5月には、当時のジョージ・H・W・ブッシュ大統領、ブッシュ・シニアがミシガン大学におけるスピーチで、
「ポリティカル・コレクトネスというのは自分の考えを口に出す自由を脅かす不寛容さだ」というふうに言及するに至ると。
現在の日本でポリティカル・コレクトネスというと、
専らポップカルチャーでの表現みたいな、映画とか漫画とかそういうことをイメージされるかもしれませんが、
そもそもポリティカル・コレクトネスについての議論というのは、大学という場をその主要な舞台の一つとしていました。
1980年代アメリカの大学では、女性学・アフリカ研究など新しい学部やプログラムの設立、
それからアファーマティブ・アクションの採用、それから大学におけるセクシャルハラスメントへの対応の開始、
それからコースとかカリキュラムの見直しなどが一気に進んでいくことになります。
これらは全部具体的な制度的変更なんですけれども、それと同時に大学における教育研究というものが暗黙の前提としてきた、
性差別・人種主義・ホモフォビアなどの検討と修正とを迫るものでもありました。
こういう変革への抵抗や反感というものを、単に大学という限られた場所における制度上の闘争という形で提示したら、
それはあんまりアメリカの広い一般大衆の興味を引くことはなかったかもしれない。
けれどもこれをアメリカ的価値の根幹に関わる、思想と言論の自由の危機として提示することで、
伝統的な大学制度の覇権に挑戦する改革側のほうをこそ、逆に自由を抑圧する権力者なのだというふうに描き出すことに成功します。
「この国土において不寛容さが増大していること、論争を解決するのに理性ではなく威嚇を用いる傾向が強まっていることに、私たちはみな警戒心をもつべきだ」。
実際に当時、先ほど申し上げたブッシュ・シニアのミシガン大学演説ではこういう言い方がされている。
「この国土において不寛容さが増大していること、論争を解決するのに理性ではなく威嚇を用いる傾向が強まっていることに、
1980年代から続く共和党政権なんですが、ブッシュ・シニア共和党政権は、
例えば女性の性と再生産に関わる健康と権利の獲得に向けた運動というのを、はっきり言って足踏みさせた政権です。
またHIV/AIDSの流行に対して同性愛嫌悪に満ちた対応で、LGBTコミュニティに深刻な打撃を与えてきた政権でもある。
人種主義に関して言えば、国内の人種差別問題というのも当然温存されていて、
このミシガン大学演説の翌年92年には、ロサンゼルスでの人種暴動というものが起きてる。
にもかかわらずこの演説では、政府共和党によるそういう長年に関わる差別や抑圧が一切問題にされないんですね。
この演説が暴力的な抑圧者だとして名指すのは、そういう差別とか抑圧を指摘して批判してきた側のその差別に対する不寛容、
その差別に対する不寛容が暴力だと抑圧だというふうに名指していく。
ポリティカル・コレクトネスという言説戦略
大学という特定の組織における性差別、人種主義、同性愛嫌悪などに対抗することを目的とした取り組みを、思想・言論への検閲であるかのように見せる
つまり右派が持ち出した「ポリティカル・コレクトネス」というのは、
大学という特定の組織におけるセクシズムやレイシズム、ホモフォビアなどに、対抗することを目的とした取り組みというのを、
逆にあたかもマッカーシー旋風の再来を思わせるかのような、思想・言論への検閲であるかのように見せる、
この枠組みは既存の体制に内在する差別や抑圧から人々の目をそらす、
むしろ多数派こそが「ポリティカル・コレクトネス」なる強権的な弾圧というものから、
思想・言論の自由を守って闘う被抑圧者なのだというふうに主張することに成功したわけなんですね。
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
2022.7.24 一般公開シンポジウム 「フェミ科研と学問の自由」
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI
長いため講演部Part1~Part5+質疑応答の6部に分割する。
分割の境界はスライドにある番号に従うが、副題は増田の判断である。
スライドはすべて図表のない文字ベースのものであったため、引用記法を用いて本文に組み込んだ。
講演部については、「女性スペースを守る会」が公開している文字起こしをベースに、
増田が誤字の修正や、句読点の変更、改行の追加などの編集を行った。
まず、江口聡先生による、8/9のブログ記事は必読だと考える。
加えて、講演に対する批判として書かれたものではないが、一般論として「キャンセル・カルチャー批判」的な立場で書かれたベンジャミン・クリッツァー先生の記事、
なども参考になる。これら2記事は、江口先生も講演に欠いている「ミルのタイプの言論の自由の擁護」として紹介されている。
また、あまり整理がされていないが、この講演に対するTwitter上の批判的な反応を一覧できるものとして、
他、法学の専門家による分析という点で他になく注目に値するものとして、
(あと、この書き起こしを編集している私自身も手前味噌ながら批判記事を書いている。「清水晶子先生の講演を読んで見る (1) 「学問の自由」の定義ってなんだろう」anond:20220809001101 )
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https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=2457s
40:57~48:23
清水さんは東京大学大学院総合文化研究科で教鞭を執られています。
研究関心としては非規範的な身体と性の政治、とりわけ身体の他者性、自己表象と生存の戦略、可視性を巡る問題などがあります。
最近は英語圏のフェミニズムおよびクィア理論史を改めて辿ることにも興味があるとのことです。
主な著作に、
Lying Bodies: Survival and Subversion in the Field of Vision、英語の本です、2008年、
「埋没した棘――現れないかもしれない複数性のクィア・ポリティクスのために」、2019年、
『フェミニズムってなんですか?』、2020年、などがあります。
清水晶子:
はい、ご紹介ありがとうございます、清水晶子です。もうそのまま入っていきますが、
本日は「学問の自由とキャンセル・カルチャー」というタイトルで報告をしたいと思います。
少し方向性が違うかもしれないんですが、よろしくお願いします。
学問の自由とは
「学問の自由という原則は、学術コミュニティの構成員、すなわち、研究者、教員や学生が、倫理的規則と国際的水準に関して学術コミュニティが定めた枠組みの中で、そして外部からの圧力を受けることなく、学術的活動を追求する自由と定義できる」
学問の自由というところからいきたいんですが、学問の自由とは何を指すのか。
政府なり場合によっては非常に強力な宗教だったり経済的な権力だったりというところからの圧力を受けることなく、
さらに言えば個々の研究者が、大学当局だったりとか大学の経営陣あるいは多数派の社会的通念・経済的な要請などからの
不当な干渉や抑圧を受けることなく、学問的良心と手続きとに従って真理を探究する自由、というふうに考えることができる。
例えば、1998年の国際大学協会声明「学問の自由、大学の自治と社会的責任」という文書があるんですが、これによると
「学問の自由という原則は、学術コミュニティの構成員、すなわち、研究者・教員・学生が、
倫理的規則と国際的水準に関して学術的コミュニティが定めた枠組みの中で、
そして外部からの圧力を受けることなく、学術的活動を追求する自由と定義できる」というふうにされています。
学問の自由というものの基本がここにあるというふうに考えると、フェミ科研裁判の文脈における学問の自由の主張というのは、
ある意味まさにここに相当するもの、王道の部分というふうに言うことができるというふうに思います。
「過激な性教育・ジェンダーフリー教育調査プロジェクトチーム」
残念ながら、日本でフェミニズムとかマイノリティの政治に関わる研究者にとって、
今言ったような意味での学問の自由というのは、必ずしも安定して保障されてきたものではない。
だからこそ、その必要性というのはしばしば痛感もされてきましたし、主張もされてきました。
2000年代前半のフェミニズム女性運動へのいわゆる「バックラッシュ」いうのがありまして、
ここでは与党自民党のプロジェクトチームにおいて、ジェンダーという語それ自体の使用に疑義が提示されたりしている。
2014年には、いわゆる「従軍慰安婦」問題を取り上げた広島大学の研究者の授業というのが、
先ほども産経新聞出てきましたけど、ここでも産経新聞ですが、産経新聞によって吊し上げにあって、
批判や抗議が大学に殺到し、日本科学者会議広島支部幹事会が学問の自由の侵害であるというふうにして、
産経新聞に抗議をする、声明を出すという事態になったりもする。
もちろんさらに記憶に新しいのは、2020年日本学術会議の会員任命拒否ですね。つまり当時の菅内閣総理大臣が、
日本学術会議が会員候補者として推薦した内の6名の任命を拒否した、というかしなかった件ですよね。
この任命拒否については、憲法23条の保障する学問の自由を脅かすものであるというふうにして、
2011年11月に、日弁連が「日本学術会議会員任命拒否の違法状態の是正を求める意見書」というものを総理大臣に提出をしていると。
この意味での学問の自由の重要性というのは、本日のシンポジウムのいわば前提になっているものだというふうに考えます。
差別的・抑圧的な言説に対して政治的・経済的に力のない側、社会的少数派の側からなされる批判や異議申し立てを「学問の自由の侵害」とする言説
その前提をご確認いただいた上で、私の報告は少し角度を変えて、学問の自由という主張や枠組みがどう利用されているのか、
もう少し強く言うと、どう濫用されているのかでもいいかもしれないんですが、それを考えたいと思います。
今申し上げたように、従来はそして一般的には、学問の自由というのは、
国家とか、強力な宗教団体、経済団体、多数派の社会通念や経済的要請、などなどの圧力を受けることなく、
研究者の社会的通念と研究の手続きに則って真理を探究する自由を指す、というふうに理解されています。
力のある人たちとか多数派にとって都合が悪い、あるいはそこにとって利益にならないというだけの理由で、
研究教育を抑圧したり不当に妨げたりすることを困難にするはずのものです。
ところがこの学問の自由の主張が、全く逆のベクトルで利用されることがある。
すなわち差別的・抑圧的な考察や言説に対して、政治的・経済的に力のない側、社会的少数派の側からなされる批判や異議申し立てを、
これは「学問の自由の侵害」であるというふうにする言説、というのが見られるようになっている。
これは日本国憲法で保障される学問の自由からはかなりかけ離れたもので、何を言ってるんだというふうに思われるかもしれません。
けれども法的な解釈とは別のところで、こういう言説上の戦略というのが一定の効果を持ってきているのも事実です。
二面での闘い
結果として、フェミニストとして学問の自由を考えるにあたって、
私たちは一方では、フェミ科研裁判のように国家による学問の自由の明白な侵害というものと闘わなくてはいけない。
けれども同時にもう一方で、学問の自由というのが、差別的あるいは抑圧的な現状を追認し、
抑圧されてきた側からの異議申し立てを封じる目的で動員されるということに対して警戒をしなくてはならない。
学問の自由を巡っては、フェミニストには現在そういういわば両面での闘いというものが要請されている。
この現状は忘れるべきではないと思います。
実は今日、私からお伝えすべき論点はそこに尽いているので、ここで報告終わってもあんまり問題ないっていう感じなんですが、
ちょっとさすがにそれでは簡便過ぎるので、この後の時間を使って、
こういうタイプの、マイノリティの権利主張を抑圧する目的で動員される「学問の自由の侵害」という枠組み、
この言説というのが具体的にどう現れてきたのか、
これが非常に大きな論点になってきた英語圏の動きというのを中心に、簡単にまとめてご説明したいと思います。
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
【追記 なるほど……アタシの嫌いなものは投稿するな!と言っているように見えたんですね
投稿するなとは思ってませんよ!ただ「カプとして」だけでなく「腐向け作品として」ワンクッションや検索避けをきちんとつけてほしいということです。それだけだと納得してもらえないかと思ったので色々付け足してたらこんなに長く……】
お気持ちを表明したすぎてついにアカウントを作ってしまったので、お気持ち表明したいと思います。なるべくトゲトゲしくならないように努めるから、たくさんの人に見てほしい。
これネットで公言するとなんて言われるか、皆さん分かりますかね?
このあたりです。コイツ盛ってるやろと思われるかもだけど、実際に言われたことあります。
先に断言すると、少なくとも私はBLや腐が苦手なのとLGBTの人たちが苦手・嫌いなのかどうかは完全に別問題です。
そもそもBL・GLとは、男性同士・女性同士の恋愛模様を「題材とした作品の総称」です。「同性に恋愛感情を抱く人そのもの」のことではありません。余計なことかもしれませんが、言っちゃえばBLGL作品は必ずしも本当に同性愛を知る人が書いているとも限らないです。あくまで想像上の産物なんです。
分からない方々に向けてご説明すると、バ●やバ●ロマンとかで皆さん一度は嗅いだことがあるであろう「森林の香り」と、ガチの森林の匂い。全然違うけど、表面上同じようなもんに見せてますよね?これでなんとなくニュアンス掴んでいただけると嬉しいです。
私はBLで描かれる男性同士の恋愛描写を見るのが生理的に苦手なんです。見てしまった時には、テレビのチャンネル変えてたら恋愛ドラマのベッドシーンに遭遇した時みたいな……そんな感じの気持ちになります。でも、実際のLGBTの方々やその恋愛を軽蔑も差別もしていないです。むしろ、認められる世の中になったら素敵だと思います!
ただ、BLが苦手だと言うとすぐ差別者扱いされることの繰り返しなので、最近は段々あまり関わりたくないとは思い始めた日々です。
ここで若干気づいた方もおられるかもですが、BLと腐向けって、同じじゃね?って人。いますよね。腐女子さんの中にすらいると思います。「腐女子って呼び方嫌い。BL愛好家って呼んでほしい」って人見かけたことありますし。
私も昔はそうでした。なので総称して、BLが苦手と話していたんです。もちろん、誰かれ構わず話してたわけじゃありませんよ?
そんなある日……一次創作BL、いわゆる商業BLにお詳しい方にアドバイスを頂きました。
「BLが苦手と一括りにすると、オリジナルのBL作品と版権作品のキャラクターのBL創作が混同しちゃうから気をつけて」とのこと。目から鱗でしたね……
確かに、腐っているという表現は今のBLの受け入れられつつある現代には不快な表現かもしれません。しかし、商業BLもひっくるめてお好きな方でなければ「BL愛好家」とは言えないのかもしれません。まあ、このことについては後ほど。
私はBL自体どちらもNGですが、商業の方はそもそも見に行かなければ見かけることも少ない、配慮をなさっておられる界隈です。ただ、昨今の腐向け界隈は違います。長すぎましたがここからがやっと本題です。
先ほども書きましたが、ここ数年は腐女子への理解が進み、受け入れられつつあるからか、オープンに腐ァンアートを発信する人が増えています。昔は影の存在でしたから、世の中から受け入れられたのは喜ばしいことなんでしょう。
しかし、BLや腐向けが好きな人、好きでも苦手でもない人、苦手な人の3種類がいるとします。好きな人が自由を手に入れることのできた今、苦手な人が陰に追いやられつつあると思うのです。
腐女子もとい、二次創作BLのお好きな皆さん。胸に手を当てて思い出してみてください。オープンになりすぎていませんか?
腐向けイラストのサムネイルに、ワンクッション入れていますか?入れなくとも、腐注意の一言を添えずに投稿していませんか?後述しますが、カプではなく、腐向け創作自体を苦手とする人も存在します。
検索避けされた腐向けイラストに、キャラクターの名前をリプライしてしまっていませんか?検索やトレンドには、リプライでも出てきます。トレンド入りしたキャラクター名から、モブ男に組み敷かれる推しを見せつけられたこともあるので、おそらくそうだと思います。
ここから、あらゆる反…意見を想定して考えまくった自論を展開させていただきます。
1つは、散々言ってきた通りBL自体が苦手だからです。言うまでもなかったですかね?
「なんでBLだけクッション入れないといけないの?もう立派な王道ジャンルなんだから、他のものと混ぜてもいいと思う!」
と思った人もいるでしょう。
BLは、大好きな人もいれば、私のように受け入れられない人もいます。なので例えばパクチーだと思ってください。
「パクチーはなんで『この料理はパクチーが入っています』って書かないといけないの?もう話題の野菜なんだから、にんじんとか玉ねぎと同じ扱いして!」
と言われているような心境です。世の中には残念ながら「人を選ぶもの」は存在するのです。
もちろん私の言う「人を選ぶもの」は「同性愛者さん自体」ではなく「BLや腐向け創作」のことです。
そして2つ目の理由。これに該当する仲間がいればとても嬉しいので是非教えてほしいのですが、
「既存のキャラクターの性的指向・セクシュアリティを改変される」ことがめちゃくちゃに嫌なんです。自分の知るキャラクターの大切な部分を侵され、弄られてしまったような、表しようのない喪失感とショックを受けます。私の場合、推しているジャンルじゃなくても見られません。
ここで「でもそのキャラが異性愛者だとは限らないでしょ!もとから同性が好きな可能性もあるじゃん!」と言いたい人は少なからずいると思います。
まずはあえて勘違いされるであろう言い方をしますが、全ての版権キャラクターは公式からの言及がない限り、異性愛が普通だと思います。
「普通って何?普通とか普通じゃないとか差別だ!」と思うでしょう。
この「普通」とは、「ノーマル」ではなく「デフォルト」です。人間という生き物のデフォルト設定、と私は思ってます。
分かりますよね?お手元のスマホの着信音やら何やら、全部デフォルトの状態が決まっています。デフォルトのままでなければならない理由はありません。けど、何もない限りはデフォルトのままなんです……伝わりますかね?
よって、何の言及もないキャラクターは原則的に同性愛者ではない、と考えることは、何もおかしくもないですし、差別や否定でもないと分かってほしい。
その方が、とある国際的に人気のあるジャンルの公式タグを見て回っていた時のこと。
「海外の腐女子は公式タグつけて腐イラスト出してんだし、私たちだって公式タグで腐イラスト出さない?」
( Д ) ゚ ゚
その方は思わず「腐向けが苦手な人もいるのでやめてほしいです」とやんわりコメントしたそう。すると
そ う い う 『 感 情 論 』
お分かりでしょうか?もはや腐女子の皆さんにとって、腐が苦手という意見は「感情論」でしかないのです。
「私だって苦手なカプありますし、見るとキレることもありますよ」
ここで問題なのは、その方の注意を「キレている」と認識しておられることもまあまあなのですが、その方の言う苦手は『誰と誰の創作BLが苦手だ』という意味ではなく『創作BLが苦手だ』という意味だという本質が伝わっていない点です。
例えると、「パスタ」と「スパゲティ」の違いみたいなもんですね。
ただ、この二人目の腐女子さんがいうことも事実。NL厨の皆さんも、きちんと検索避けやワンクッションをしましょう!カプ名はミュートしやすくなるので◎ですが、キャラクターの正式名称を付けるのはご法度ですよ!
腐向け創作が苦手と言えない世の中。苦手な人が黙って耐えるしかない世の中。このまま完全に確立していくのを止めたいです。
嫌なら見るな?はい。嫌だから見ないようにしてます。それでもたくさん見かける、嫌でも目に飛び込んでくるものには、せめてカーテンくらいつけてください。
それは同性愛にフタをするのかって?違います。「BL」「腐向け」という大きなジャンルの特殊性を、どうか自覚してください。
エロが苦手な人もいれば、グロが苦手な人もいる。なら、BLやGLが苦手な人がいて何が悪いのか?
LGBTとBL・GLを同化しないでほしい。それこそ偏見なんじゃないかと思います。自分達が差別されているのではなく、ましてや同性愛の方々が差別されているわけでもない。そもそも自分達が同性愛者さんと同じ視点にいると思わないでください。
この文章を読んで少しでも何かを感じてくださったなら、イラストのワンクッション、または「腐」と「カプ名」の二つの明記、そしてキャラクターの名称を添付やリプライしないこと……どうか実践してみてほしい。あなたの配慮で救われるオタクが確かに存在します。
あっ、でも一つ!
腐向けや腐女子さんを嫌っていることを公言し、過激で攻撃的な誹謗中傷をする、いわゆる「嫌腐」の人たち。この投稿は"決して"あなた方の味方をした文章ではありません。どんな理由であれ、人を侮辱し、自分の感情を投げつける行為はしてはいけないことです。あなた方の存在も、私や他の腐向けを苦手とする人々への偏見を生んでいる。暴れたいなら鍵をかけて、仲間内で暴れていてください。OK?
そうですあなたです。
最近の女性向けゲームは「原作でBLじゃないキャラクターをカップリングしたい」という腐女子さんの特性を狙って「BLとは断言しないが限りなくBLを意識した展開をしておきながら女性向けゲームを謳う」現象が非常に多いと思っています。多分勘違いじゃないです。某ゲームアプリはうっかり漏らしちゃいましたし。
あなた方には何の違いもないかもしれませんが、腐女子さんとそうでない人、ましてや苦手な人は大きすぎるほど違います。
お金をよりたくさん儲けたいのも分かりますが、あなた方がターゲットを欲張ることで、このトラップにひっかかり「好きなのに嫌い」の無限スパイラルに陥る女オタクもこの世で生きているのです。(私)
『推す』という感情は、苦手ならすぐ捨てて失くせるものではありません。オタクを舐めないでください。
ここまで書かせていただきましたが、話題になるならない限らず「これ私が書きました」と出ていくことは絶対しないつもりなので、なんかそんな感じの人が出てきたとしたら昨日の夕飯でも教えてあげといてください。
批判もたくさん出てくると思いますし、傷つくのもすごく怖いです。でも、人として悪いことを言っているわけではないと思いますし、伝わってほしいです。
とここで、腐女子腐女子言うなや!という方も多いことでしょうとも。まあ、最近は腐カプ化させることを『腐らせる』とも聞きますし、こっちからしたら腐らせられてる気持……失礼。何もありません。
私は実業高校出身なのですが、とある先生に教わったことがあります。
『人間に害をなす変化が「腐敗」で、逆に益をもたらすものを「発酵」と呼ぶ』
害は言い過ぎだと思いま……す…が、せめて歩み寄ってくださる方がいれば……
「統一教会」から「世界平和統一家庭連合」への名称変更を認めた時の担当大臣が話題になっていますが
江戸時代にありもしなかった偽史「江戸しぐさ」を文部科学省発行の道徳教材に掲載したのが,『私たちの道徳 小学五・六年生』
この時の文部科学大臣も下村博文氏でした。https://t.co/EvuZrl6QIR pic.twitter.com/BiCvLSlnO2— こなみひでお (@konamih) August 4, 2022
https://anond.hatelabo.jp/20220804004638
これを読んでいてふとそんなことを考えた
自分はチェンソーマンを読んでいるのでこの人が言うニュアンスは理解できる
ただ、指摘されたキャラクターが心がないように映る!っていうのは、作劇上キャラクターとして、そもそも人間ではない等々共感し得ないタイプのキャラなので、これに関しては藤本タツキが「あえてわざと」そうしている、という話ではある
だから、そう読めたというのは読み方として正しいし、作者の意図は感じられている状態になる。つまりこの人は漫画を読めていないわけじゃない
では、それを踏まえた上で、「なぜそれが不快なのか」というところになる
いや、そもそもこれ実はとても真っ当な感想で、だって藤本タツキはわざと不快になり違和感を持つようにそのキャラを作っている部分があるから、という理由になるからだ。
つまりこの疑問というのは、『じゃあ、なんで、わざわざこういう共感できないキャラを主人公として、さらに味方側にも配置したのか』というのが本質にある
この疑問にに関しては、藤本タツキはいろんなインタビューで語っているのだが、この作者の作品というものは基本的に世の中に対しての「怒り」駆動で出来ており、チェンソーマンはその「怒り」の原因に対してのヒーローだからだ。
ここで重要なのは「怒り」という感情を人間はどういう時に抱くかという問題で、それは大抵の場合は「理不尽」なのである
道理の通らない自分ではどうしようもない不幸や絶望的な状況、助けられない何かを見た時に人はそれに対して「怒り」を持つ。これが基本的な怒りの発露だ。
なので、ヒーローというものを私たちが想定した時にヒーローとはこの理不尽を打破してくれる存在になる
さて、ここで任意のヒーローを思い浮かべてほしいのだが、ヒーローというのは大抵においてある種の神的パワーを持つ存在として描かれる。これは前段の話を考えれば当たり前で「理不尽」に対抗するには理から外れた存在、「別の理不尽」で対抗するしかない
この場合「別の理不尽」というものは人間の理や感情に沿わないものなので、物語がインフレすればするほど、どんどんと理解の範疇外になっていき、共感がしづらくなっていく
ドラゴンボールで悟空に共感できる人間、ワンピースでルフィに共感できる人間というのは部分的に理解や共感はできても、おそらくその思想丸ごと受け入れられる人は少ないだろう。これはワンパンマンとかだとより顕著になる。
つまり、ヒーローの文脈において僕らはヒーローそれ自体に「心や理がある」から共感しているわけではないのだ。そいつらが世の中のどうしようもない「理不尽」をぶったおしてくれるところに、スカッとしたくて見る部分がある
だから、この人の言説に乗るのであれば「ヒーローの心は基本フィクションだし、その敵もまたフィクションだよ」ということになる
これ自体はおかしなことでもなんでもなく、悟空に対してこいつやべえよなって思っている人はいっぱいいるし、ルフィに対して引いている人間はわりといる。多分Twitterで検索したらそこそこ出てくるくらいには。
なので、増田の不快感というのはわりと一般的なものだと思うし、そこに共感できないのは当たり前で、物語の優先度が違うから面白く思えないのはしょうがねえよなあってところだ。
ただ、もし、この増田がこれらのヒーローものを読んでいたとして、チェンソーマンより不快感を持たなかったのだとしたら、その差異はどこにあるのだろうか?というのは気になる
これに関しては、仮説というかおそらく「共感できる人の少なさ」と「読者が共感できそうになった人から死んでいく」というチェンソーマン特有の作劇の問題かもなあ
チェンソーマンの主題は前述した通り「世の中に対しての理不尽(恐怖)に対しての怒り」であり、その恐怖っていうものを前提として見せなければならない
だから共感できる理の側の人間は文字通り理不尽に殺されなければならない。そうしないと、理不尽がキャラとして出せないからだ
だから、そういった意味で「心がノンフィクションのキャラ(もしくは、ノンフィクションになったキャラ)は確実に死んでいく」ので、後に残るのは理不尽な奴しかいない
この共感キャラがドラゴンボールだと生き返るし(クリリンとかヤムチャとかブルマとか)、ワンピースでもわりと生き残ったり報われたりするので、不快感は少なくなる。また生き返らせる、生き残らせることができるのはこれらの作品がファンタジーだからだ。つまり、この場合「作品世界はフィクションで、生き残るキャラたちはノンフィクション(心がある)」になる
でも、藤本タツキは理が理不尽に侵されるというものに対しての怒り駆動なので前提として侵される瞬間をまっすぐに描くし、それを取り返しのつかないものとして描く
だって、理不尽に奪われたものは取返しつかないでしょ?リアルだと
藤本タツキの書くものはそういった意味で「作品世界はノンフィクション、生き残るキャラたちはフィクション」となるので、この違いが大きいのかなと思う
まあ、いずれにせよ増田の感じ方はもっともで個人の感想としては至極真っ当に合わなかったんだなあというのがあるので、問題ないと思うよ
○ご飯
朝:なし。昼:酒。夜:カリー。
○調子
サボって朝から酒のンデ寝てた。
辛い。明日…… イケるかなあ……
水着レイ様星1〜2のホーム会話で「右を見ても左を見てもカップルばかりだけど… みんなの目に、私たちは… どう… 映っているのかな…?」と言ってるのに対して
水着ツムギの星3ホーム会話で「あれ? この浜辺よく見たらカップルだらけじゃないですか… ということは私たちも… だとしても私は気にしませんよ!」と言ってて
プリコネを遊ぶ時に岸くんにすごく感情移入してるけど、ツムギに関する時だけは、心の置き場が迷子になってしまう。
リミテッドヴィーラのエピソードを今更読んでるんだけど、カタリナの鈍感さにもどかしくなる。
あそこまでのことしといてなお好きでいてくれてるんだから、そりゃもう一生好きなんだよ。
ユキが水着の用意をしてたので、自分も誘われるに決まってると思い込んで自分の水着も用意していたリンネ。
○ウマ娘
必然的に寮の部屋を空けることも多くなり、自然と部屋が汚れていくのを不快に思ったタキオンはカフェを部屋に呼び…… から始まる妄想で頭がいっぱいになり自分がこの場にいて良いのか悩んでしまいデジたんください。
同僚は、もともと「同じクラスになっても同じグループの友だちにはならんだろうな」と思う程度には価値観が違う人種ではある。
でも、「たまたま同じ会社で働いている人」ってだけなんだから、
必ずしも友だちみたいに仲良くする必要もないよね、最低限の礼儀と関係性があればOKだと思って働いてた。
今までは別にスキもキライもない人って思ってたんだけど、なんか最近はなにつくようになってきてしまった。
同僚は私よりも年下で、同じ職種の人なのだけれど、何か最近、急に私を意識してきてちょっぴり仕事がやりづらい。
社内で私たちと同じ職種の人はほとんどいないので、(同じ部署となるとなおさら)意識する対象が必然的に私になってしまうというのはあるのかもしれないけど、あんまりこっちを意識しないでほしい…って思ってしまう。
以前「某芸能オーディションを受けようと思ったけどスケジュールがあわなかったからやめた」みたいなことを言ってたし、
なんというか、目立ちたいタイプというか、スポットライトを浴びたいタイプなようで、いちいち面倒くさいのだ。
私は完全なる裏方タイプなので「目立ちたい」と特に公言してないけれど、恐らくその同僚が得たいもの(仕事の成功とか人望とか)を持っているんだと思う。
でも、最近は同僚もめきめき成長してきて、そのせいか、同僚の中で「この人に勝てる」とか「この人を追い抜ける!」という算段が立ってきたんだろうな。
何かにつけて比較されたり、勝とうとされてきたり、こちらのミスを大々的に指摘してきたりして結構面倒くさい。
いやミスは指摘してくれていいんだけど、その仕方も変わってきたというか。ねちっこくなってきた笑。
別に私は同僚の成長を願っているしフツウに教えたりもするし、
スキもキライもなく単純に私の存在がこの人の成長のきっかけになればとは思ってたけど、ちょっとだけ困っている。
いや、正直言うと困っているというよりは気にくわないっていう感情の方が近い。
私たちの仕事は個人の裁量が大きいところがあるので、他人と比べたところでどうにもならないし、
私は私、同僚は同僚のスキルや強みをそれぞれオリジナルで組み立てていくしかない。
特に私は根っから「他人は他人、自分は自分」タイプなせいか、比べられて、
勝手に勝敗をつけられるとうか、「自分の方が勝ってませんか!?」みたいな態度を取られるのが非常に面倒くさいのだ。
私は私で頑張り続けるだけだから…くらべないで…こっち見ないで…
で、何でこんなに困ってるかっていうと、それでハッキリ勝ってたらいんだけど、
同僚は自分が思っているよりはまだまだひよこチャンなので、ツメが甘いのだ。
勝てないんだよ…私には…まだ…申し訳ないが……
誰しも、成長の段階ってこういうものなのかなって思うし、
なんなら数年前は私もそうだったかもしれないから、生あたたかく見守るしかないんだけどさ。
ところでこの「「ちょうどいい」叩き先を見つけてくる」というのは、「自民擁護にみえるちょうどいい叩き先」を見つけてよく確認もせずにぶっ叩いてるはてなブックマーカーとかクソブコメ探し出して晒す私にも刺さるとおもうんだよな。私たちは無視されるべきかな?
このツイートに対して、
もへもへさんはTwitterを使っています: 「いや、宗教関係者はいっさい政治参加が許されない国なんて、マジで先進国に存在しないよ。そんな弾圧国家はまじで、元東側の国くらいしかないんじゃないかな。 欧米みてればわかるけど「キリスト教○○連合」とか普通に存在するわけで。」 / Twitter https://twitter.com/gerogeroR/status/1552937633797394432
こんなブコメが人気を博している。
usurausura 「議員や政党が霊感商法や洗脳で被害者続出の組織と関わるなど許されない」という大前提から逃げて「支配や癒着呼ばわりは誇大」「宗教団体の政治活動全否定は暴論」と論点をそらし続けるネトウヨ有名人のサンプル ☆147
anmin7 こうまでして擁護する気にはなれねぇ。例に挙げてる宗教関係者は信者を洗脳して収奪したりはしてないだろ。話をすりかえてんじゃねぇ。 ☆44
aka85s “いや、宗教関係者はいっさい政治参加が許されない国なんて、マジで先進国に存在しないよ。”ならば堂々と宗教名を前面に出して政治参加すべき、それこそ統一教会党みたいな。素性を隠してるのが問題。こいつ頭悪い ☆21
まあ一見すると妥当なブコメに見えるかもしれない。「こいつ頭悪い」はちょっとどうかと思うが。しかしこのツイートには言及先がある。それがこれ。
まりなちゃんさんはTwitterを使っています: 「そんな難しい問題じゃないんだよ 憲法で定められた政教分離の原則を守って 国会議員は全ての宗教団体と手を切る 宗教団体の関係者は国会議員にさせない 国会議員が団体や企業からの献金を受け取ることを 禁止にすればいい たったこれだけのことだよ」 / Twitter https://twitter.com/t2PrW6hArJWQR5S/status/1552240648803061760
暴論だな。「宗教」と雑にくくってしまっている以上、もへもへの指摘は真っ当だし、よく確認せずに噛みついちゃったはてなブックマーカーは「ちょっと足りてない」よね。「あああああぁあああ”ぁああ””!!111!!自民擁護だぁあああ!!あぁあA!!!111ゆるせん!!1」。気持ちはわかるけどさ。(ただし税制上の優遇を受けている以上献金に制限があってもいいとは思う。ただ現ナマより選挙ボランティアや私設秘書が問題の根本じゃないかな。献金は現状でも名前が公開されるし)
もっともブクマにも気づいてる人は居るんだよな。はてなブックマークの希望の星だな。
id:WinterMute いや引用RT元見てブコメしようよ。引用元で「全ての宗教団体」と言ってるんだからこれは統一協会限定の話ではない。そういう「ちょうどいい」叩き先を見つけてくるのがコイツの手なんだから、無視するのが一番でしょ ☆108
ところでこの「「ちょうどいい」叩き先を見つけてくる」というのは、「自民擁護にみえるちょうどいい叩き先」を見つけてよく確認もせずにぶっ叩いてるはてなブックマーカーとかクソブコメ探し出して晒す私にも刺さるとおもうんだよな。私たちは無視されるべきかな?
……そうかもな。
本当に昔、韓国でSARSだったか、謎のウイルスが流行っていた時代。
駅を歩いていたら、向かいから来る人がなんとなく韓国人っぽかったので(あ、あの人韓国人だ。気を付けよ)と思った瞬間、その人が、私が(あ、あの人韓国人だ。気を付けよ)を思ったことが分かったらしく、表情が微妙に変化して、なんかしてきそうな気配を発した。嫌だなぁ、と思ったが、そしてすれ違った際、かなり演技がかった様子で「ゲホゲホ」と言われて、やっぱりな、と思った。
彼女にとって、いまの日本のマスコミとネットの様相は奇異に映るらしい。
テロリストの意を汲んで動かされているように見える、とのこと。
増田はこの状況をどう思うの、と聞かれた。
——…確かに、アメリカの人から見るとテロリストが世を動かしたように見えるかもしれないね。
もちろん受け入れても屈服したことになる。
友達に彼氏出来たこと言うの悩むなぁ…でも言わなかったらずっと「私たち一生彼氏いないもんね!」みたいなのに同調し続ける必要がある…
願わくばその子が彼女が彼氏作ってもらって報告してくれたら私も後出し出来るのに…
言いたくないのは絶対に「ヤったの?」って聞かれるしなんならどんな対位でやったかも聞かれそう
でも嘘はつきたくない
はぁ…悩むなぁ…
街中で小さな子供連れの家族をみるたびに、「かわいいな」と思う反面、「自分には縁がなかったな」と言い聞かせている。
*
私は45歳で、彼女はもうすぐ40になる。
数年前、そろそろリミットだと思って、「子供をつくるかどうか」で話し合った。
*
私は幼少のころから病弱で、その原因のひとつは、両親からの適切な愛情不足だったと自己分析している。
親に叱られたり兄弟にいじめられたりすると、「自分がいなくなったらみんな悲しんでくれるかな」と布団のなかで泣いて、自分がいなくなることを想像した。
体育はしょっちゅう見学していたし、毎年、いろんな原因で入院した。
中学に入り、部活動をするようになってからは身体も丈夫になったけれど、反面、殻にこもるようになった。
学校では明るくふるまっているけれど、家ではほとんど話をしなかった。
兄弟もいたが、上は反抗期を迎えていたし、下は年が離れていた。
そして異性に逃げるようになった。
*
異性と話をするのは楽しかった。
同性みたいに下品だったりマウントの取り合いにならないので、幼少のころから女の子とは波長があった。
多数の子と関係をもって、30代の中盤で、今の彼女と同棲した。
知らないだれかと一から恋愛することに疲れていたし、結局のところ、セックスのパターンはそれほど多くはないのだ。
同棲してから浮気は一度もしたことがない。風俗も。(別にここで嘘をつく必要はない)
それまでは職も転々としていたけれど、彼女に出会ってからは定職についている。
*
自分のようなつらい幼少期を送らせたくないし、そんなのは私ひとりでたくさんだと思っていた。
*
ある程度の幸せな幼少期を送って、結婚して子供をつくっている、もう一人の自分。
おそらくは、こういうのは誰にでもあるんだろう。
「あの大学に入っていたら」「あの会社に入っていたら」「あのプロジェクトに参加できていたら」、
それに縛られて身動きがとれないわけじゃない。
ただ、街中で子連れのカップルを見たときに、ふと、男性のほうに自分を重ねて、女性のほうに彼女を重ねてしまうのだ。
もう45だし分かっている。人生は、死ぬまでの時間は、案外短いのだ。
*
彼女は、思春期にいじめにあっており、それがトラウマで、今でも他人とのコミュニケーションが(特に同世代の女性とは)あまりうまくない。友達もほとんどいない。
だから子供を産んでも、その後の付き合い(保育園でのママ同士とかの、そういう大人の付き合い)が心配だし自信がない、だから子供はいなくてもいい、と言った。
「子供は授かるものなんだよ。神様が与えてくれる。だから子供の出生に対して責任をもつとか、そんな大それたことは思わなくていい」と友達に言われたけれど、
子供ができて、その子が我々のように苦労したりつらい目にあうかもしれないと想像すると、どうしても簡単に進めない。
「一人産んだ。もう一人ほしい」と笑顔で言っている人たちが眩しい。
でも、その眩しさも、私たちが年をとればとるほど、薄れていくのだ。
でも、もう一人の自分は、きっと笑って子供を抱っこしているのだ。
*
他人が子供をつくることに異論はない。生命の誕生を肯定できるだけの歴史をもっているのだろう。
そのことに対して「うらやましい」と純粋に思う。
紆余曲折もあっただろうけれど、でも、最終的に子供をつくるという選択肢を選べたことに対するあこがれは、やっぱりある。
*
暗い気持ちでこれを書いていない。
なんだかんだ言って、悪くない人生を歩ませてもらっている。