2022-07-30

あったかもしれないもう一人の自分

街中で小さな子供連れの家族をみるたびに、「かわいいな」と思う反面、「自分には縁がなかったな」と言い聞かせている。

私は45歳で、彼女はもうすぐ40になる。

数年前、そろそろリミットだと思って、「子供をつくるかどうか」で話し合った。

私は幼少のころから病弱で、その原因のひとつは、両親からの適切な愛情不足だったと自己分析している。

小学校低学年ですでに希死念慮があった。

親に叱られたり兄弟いじめられたりすると、「自分がいなくなったらみんな悲しんでくれるかな」と布団のなかで泣いて、自分がいなくなることを想像した。

体育はしょっちゅう見学していたし、毎年、いろんな原因で入院した。

中学に入り、部活動をするようになってから身体も丈夫になったけれど、反面、殻にこもるようになった。

学校では明るくふるまっているけれど、家ではほとんど話をしなかった。

両親が共働きで遅くまで働いてた、という環境もあった。

兄弟もいたが、上は反抗期を迎えていたし、下は年が離れていた。

そして異性に逃げるようになった。

異性と話をするのは楽しかった。

同性みたいに下品だったりマウントの取り合いにならないので、幼少のころから女の子とは波長があった。

数の子関係をもって、30代の中盤で、今の彼女同棲した。

知らないだれかと一から恋愛することに疲れていたし、結局のところ、セックスパターンはそれほど多くはないのだ。

同棲してから浮気は一度もしたことがない。風俗も。(別にここで嘘をつく必要はない)

それまでは職も転々としていたけれど、彼女出会ってから定職についている。

子供を持ちたいと思ったことはなかった。

自分のようなつらい幼少期を送らせたくないし、そんなのは私ひとりでたくさんだと思っていた。

でも、他人をみると、「もう一人の自分」を想像してしまう。

ある程度の幸せな幼少期を送って、結婚して子供をつくっている、もう一人の自分

あったかもしれない自分

おそらくは、こういうのは誰にでもあるんだろう。

「あの大学に入っていたら」「あの会社に入っていたら」「あのプロジェクトに参加できていたら」、

あったかもしれないもう一人の自分想像すること。

それに縛られて身動きがとれないわけじゃない。

ただ、街中で子連れカップルを見たときに、ふと、男性のほうに自分を重ねて、女性のほうに彼女を重ねてしまうのだ。

もう45だし分かっている。人生は、死ぬまでの時間は、案外短いのだ。

目の前で選ばれた道を楽しむのが大事なのだ

彼女は、思春期いじめにあっており、それがトラウマで、今でも他人とのコミュニケーションが(特に世代女性とは)あまりうまくない。友達ほとんどいない。

から子供を産んでも、その後の付き合い(保育園でのママ同士とかの、そういう大人の付き合い)が心配だし自信がない、だから子供はいなくてもいい、と言った。

そうしてお互い、子供をつくらない選択肢をとった。

子供は授かるものなんだよ。神様が与えてくれる。だから子供の出生に対して責任もつとか、そんな大それたことは思わなくていい」と友達に言われたけれど、

子供ができて、その子が我々のように苦労したりつらい目にあうかもしれないと想像すると、どうしても簡単に進めない。

「一人産んだ。もう一人ほしい」と笑顔で言っている人たちが眩しい。

でも、その眩しさも、私たちが年をとればとるほど、薄れていくのだ。

でも、もう一人の自分は、きっと笑って子供を抱っこしているのだ。

他人子供をつくることに異論はない。生命誕生肯定できるだけの歴史をもっているのだろう。

そのことに対して「うらやましい」と純粋に思う。

紆余曲折もあっただろうけれど、でも、最終的に子供をつくるという選択肢を選べたことに対するあこがれは、やっぱりある

暗い気持ちでこれを書いていない。

ずっと言語化せずにもやもやしていたので、ここで書いてみた。

最後まで読んでくれて、ありがとう

なんだかんだ言って、悪くない人生を歩ませてもらっている。

  • こういう世俗個人主義のお遊びやってるから、子どもを増やすイスラム教に占拠されるんだけど。

    • お遊びをやらずに全員強制結婚+子供産ませるをやってた社会の帰結が現状なんだぞ。落ち着いて考えてみろ。

      • 認識が逆。 先進国は世俗化&自由恋愛の結果で少子化してるので、 イスラム教徒が今世紀後半から増えまくるよ。 https://assets.st-note.com/production/uploads/images/16244572/picture_pc_fd6da024bb3c0b22813d...

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