はてなキーワード: 瑕疵とは
20代の頃はエロゲが本当に好きで楽しくて、プレーする時間も無いのに毎月新作を10本以上は買い、ほぼ毎日プレーしていた。
だからずっと、"生身の彼女"なんていうのは二次元に対する裏切りであり、どうせ自分には縁のないものと諦めていた。いや考えてすらいなかったんだと思う。
ここ数年は仕事が忙しくなり、負いたくも無い責任も負うようになり、どっしり腰を据えてエロゲをプレーする気力も時間もなく、「未開封で積まれた新作」がさすがに邪魔に思えてきたこともあって様々な二次元系のものを売却処分した。さすがに全部を捨てるほど世捨て人になったわけでもないので何度かの選別をくぐり抜けてもなお手元に残しておきたいと思ったのは残したが、ソシャゲでSSRが数枚余裕で引けるぐらいの額にはなった。
すっかり片付いた部屋を見て、気付いてしまった。二次元は飽きたら、後には何も残してはくれなかった。
その時、その時点では楽しんだコンテンツも、数年の時を経てしまうとどうしても色褪せてしまう。
思い出は美しいが、その思い出で自分は一体何を得たんだろうか。
ただ消費することしかできないオタクが、消費することすら疎んでしまった今、何ができるんだろうか。
そんなことを考えている内に、10年ほど一人暮らしをして初めて「寂しい」と感じた。
自分は異性は当然として同性ですら友達と呼べるほどの人間関係がなく、親兄弟ですら同じ空間にいると苦痛を感じ、部屋に一人でいたいと思うタイプなのでこれは本当に驚きであり不思議だった。寂しいと思った瞬間でさえも、きっと他人がいたらそれだけで萎縮し苦痛を感じていたに違いないのにだ。
そして改めて自分の現状を省みて「ああ、國府田マリ子のおっかけコピペはネタじゃなかったんだ」。
コピペの人ほどアクティブなオタクだったわけではないが、どうせこちらの相手は二次元だ。主人公以外と結ばれる事も無ければ劣化することもない。供給がある限り滅びることはない。そう信じていた。
子どもの頃は、普通に結婚して、普通に子どもを産んで、育てて、普通に歳をとって、普通に死んでいくのが普通の人生なんだとなんとなく思ってたけど、そんな普通の人生を送るためには、とてつもない努力が必要だったんだなと最近になってやっと気づきました。(手遅れ)
人並みに普通で居たいと思っていたはずなのに「普通」からずっと目を逸らし続け、いつの間にか自分の思う「普通」と「世間が求める普通」のギャップがあまりに大きくなっていた。
周りを見れば年下の同僚ですら左手にはみんな指輪が光っている。ちょっとした雑談で出るのは子の卒業や入園、あるいは出産といった話ばかりだ。
異性に対してそう積極的にも見えない人だってもちろんそうだ。もっと言えば、仕事ぶりがあまり好ましくない人だって妻がいて、子供がいる。
彼らはちゃんと育てた親に対して恩を返し、妻を娶り子を育てることで社会に対する責任を果たしている。
翻って、自分は何をしていたんだろう。
別に結婚し子を産み育てることだけが人生ではないし、国民の三大義務を履行しているんだから文句を言われる筋合いはないが、「親以外の誰からも人として愛して貰えなかった」が今の自分の事実だ。彼らは少なくとも赤の他人から「この人となら子を為して家庭を作っても良い」レベルで愛して貰ってる。
血の繋がった家族ですら毎日顔を合わせれば飽きてくるし不満も出る。なのにそれを赤の他人同士で、互いに折り合いを付け一つの家庭を作るという努力を愛情の名の下に成功させている。
学園恋愛ものエロゲなんて腐るほどやってきた、クラナドが人生なのはそれなりに認めるしクラナドはエロゲじゃないは何度でも言う、だけど自分は現実の人間から愛される努力も、他人を愛することの意味すら理解できていなかった。
自分が守ってきたのは童貞なんかじゃない。他人と関わるために自分を変えたくないという糞の役にも立たないプライドでしかなかった。
「三十路を過ぎれば魔法使いになれる」は決して大袈裟な言葉じゃない。
これまでの人生に於いて、その性格や信条で何からの瑕疵を抱えていると思われても致し方のない存在。
人間のカテゴリではあっても戦士や騎士ではなく、怪しげな術を使う存在としての「魔法使い」。
不可思議な力で以て20代の間に様々な恋愛を経験する「世の普通の人々」こそ魔法使いに思えてならないが、端的に言えば男性はいつだって誰だってセクロスしたいと思うんだから相手に好かれる努力を重ね、学び、成長していくのが「普通」らしい。
それをどうせ自分には縁がないとスルーしてきた以上、全ての責が自分にあるのは否定しようがない。
そんな「社会で生きていくために必要だけど誰も教えてくれない秘密のルール」は義務教育期間に周知しておけと言いたいが「普通」の人はそれこそ周囲の友人・知人から学び、互いに高めあっていっていたんだろう。自分が文字通り、次元の向こうへ現を抜かしている間に。
二次元は心の隙間を埋めて癒してくれるが、温もりは与えてくれなかった。
(4/21 20:13追記)
Twitterに書くには長すぎる、blogに書くにはキモすぎる、よって慣れない増田を使ったのだけど意外に反応あって驚きました。投稿する時間まで見計らって準備したネタがスルーされたのに、脊髄反射で書いたネタが1000RTされたときの心境です。書いてる内容はネタじゃないですよ、信じる信じないは別として。だから空想と言われてしまうのは、自分が空想の存在並にあり得ないものだということを突き付けられている感じがしますね。本当に魔法使わせて下さい。
進化論は完璧には程遠いが今はこう考えるのがまだまともだとか。
資本主義は最悪のシステムだが他のシステムと比べたら一番マシだって話有るよね。
これにたいして、進化論に瑕疵があるから進化論は全否定するとか、
挙句にインテリジェンスなんとか理論だのスパゲッティ・モンスター説を唱える人ってバカだと思うよね。
ホリエモンってそういう感じじゃねえの?
https://newspicks.com/news/1443660/
で、それについて皆がすごいすごいそのとおりだという。
よく言ってくれたと褒め称える。
みんなさ、そこまではわかってると思わない?
でもなんだかんだいって今それが他の仕組みよりはましだって言ってんでしょ。
そんなに駄目だダメだというなら何か新しい仕組みの提案してくださいよ。
少なくともドワンゴの会長はなんかよくわからんことやったでしょ?
ホリエモンさんはそこんところどうなの?
そうなった時に、ヒッチハイクしろだの、俺はこうしてきただののすげえ非効率だったり一部の人しか成り立たない話するよね。
ただの自慢じゃん。
そういう話に対して、ホリエモンと同じことをできる奴が賛成するのはいいよ。
でもさ、できねえやつさ、ホリエモンを褒め称えながら結局みんなと一緒に就活するよね。
むなしくならねえ?
NewsPicksのコメント見てもさ、もう就活終わってそれについて真剣に考える必要が無いおっさんがさ。
で、それにたいしてLikesがたくさん付いてるよね。
あのさ。
ホリエモンの話聞いて何か役に立った?
そのあと何か自分のやるべきこと変わりそう?
なんかさ、就活をまじめにやってるやつをみて、あいつらより俺の方が問題点わかってて賢くなった、程度の意味のない優越感得られただけじゃない?
結局将来なにが変わるのか?
・・・みたいなことを考えねえの?
ホリエモンおよびその取り巻きのおっさんにも問題あるけどさ。いまこれ観客の質の悪さの話をしてんのよ。
役に立たない話されてるのにほめてるって自覚あるの?ないの?
割合で言うと、ホリエモンの話に賛同して実際ホリエモンがいうような形で会社に依存せず自立できるやつって多分5%くらいだと思うんよ。
そいつらがホリエモンを褒めるのは正しいよ。本人もそうするつもりなんだろうしな。
でもさ、残りの95%。
お前ら、ホリエモンに何求めてんの?
ちゃんと考えながら話聞いてる?
お前らは、結局就活するんだろ?
愚痴すらもホリエモンにアウトソースして、お前らはいったい何をするの?なあ。
俺な、ホリエモンは投資家であって社会評論家じゃねえと思うんだよ。
いろんなカネになるビジネスにちゃっかり入り込んでいろいろ投資してるよな。
ライブドアの時より儲けてんじゃねえのって思うわ。
それはそれで本当にすげえ人だなと思うんだよ。
でもさ、もうお金儲けだけやっててくんねえかなとも思う。
あともうとにかく有料会員の世界に入ってって、
『私が大好きなアニメを見れなくなった理由』(1/2)
割と実話マンガ pic.twitter.com/3vf1UJhaHe— みこと/micorun (@micorun) 2016年3月1日
『私が大好きなアニメを見れなくなった理由』(2/2) pic.twitter.com/Ggt0NoBMu5— みこと/micorun (@micorun) 2016年3月1日
最近話題になったこの漫画・ツイートに対して、他人の批判に流されて好きじゃなくなるなんて下らないし、作者が流されやすいだけではという突っ込みが多いように見受けられる。
その可能性は高いが、そこまで強烈に他人の批判の影響を受けたというのは、その批判内容が的を得ており、それに気付かされて魔法が解けてしまったという可能性もある。
どうやら、このほぼ実体験ネタ漫画の元ネタの作品はアニメ・劇場版の某アイドル作品らしい。
実際あの作品は「よく分からないけど今が最高」モードで勢いで見ないと楽しめない作品だ。間違っても神とか名作というのは難しい。
比較的冷静な人だとファンですら多くが「ライブシーンと雰囲気はいいけどストーリーはクソだからな~」と言ってたりする。
劇場版に関してはファンによる内容への批判長文が大きく話題になったこともあった。
おまけにアニメ1期2期は海外ドラマ盗作問題がついて回っており、これには熱心な盲目信者ですら閉口して言及しようとしないことが多い。
そんな瑕疵だらけの作品なので、「今が最高」モードになるスイッチをOFFにされたら万事休す、評価する所が見付からなくなった、となるのも不思議ではない。
基本的には好きな物を否定されたら根拠がなくとも「そんなことはない!」と反論したくなるものだろう。
しかし、そうならずにショックで萎れるように興味を失ってしまったのはあの作品に反論できる要素がなかったからという可能性がある。
逆にいえば漫画の作者は凡百のあのアニメのファンよりも賢しかったために批判を聞いて内容の拙さに気付かされてしまい、ショックでそうならざるを得なかったのかもしれない。
私には好きな人がいた。それは中学と高校という多感な時期を一緒に過ごした同級生だった。
私と彼女は中高一貫の女子校で出会った。こう書くと百合だと思われるだろうが、あくまで私の性癖はヘテロであり、好きの感情は友情の域を超えないのだが、確かに私は彼女に憧れていたし、好きだった。
初めて彼女に出会ったのは中学一年で、彼女は隣のクラスだった。同じ部活動の子を経て知り合った。彼女はすらりとした身長で、絵と文章が上手な少女だった。文科系の遊びが好きだった私はすぐに友達になりたいと思った。しかし、人見知りで内気な彼女は話しかけてもろくに反応がなく、あまり接する機会もないまま学年が一つ上がった。
中学2年になって、私は彼女と同じクラスになった。驚いた。まさかこんな奇跡が起こるなんて思ってもみなかった。しかも、彼女と仲のよかった子は全員別のクラスで、彼女は一人で昼食を食べていた。
チャンスだと思った。
私も親しい友人が全員別のクラスになってしまったため、一人で昼食を食べていた。私は彼女に声をかけようか悩んだ。中学一年の時一度話しかけた時にすげない反応をされたことが怖くてなかなか声をかけることができなかったのだ。それでも私はある日勇気を振り絞って言った。一緒にお昼を食べませんか、と。震える声で言った。私の不安をよそに、彼女はあっさり承諾してくれた。それから彼女と一緒に昼食を食べるようになり、どんどん彼女と親しくなり、ついには放課後の習い事まで一緒に通うようになった。
彼女は演劇部の花形で先輩後輩問わず大勢からファンレターをたくさんもらっていた。そのころ流行っていた文章投稿サイトでは常にランキングの上位にいた。出会い系に電話してのこのこやってきた男を眺めるといった衝撃的な遊びをやったりもしていた。まさに、私にできないことを平然とやってのけるッ、そこにシビれるあこがれるゥ!といった感じだった。
それに反して私は実に平凡だった。何のとりえもない、誰にも顧みられることのない地味な存在。満たされない承認欲求を持て余した私には彼女はあまりにも私の欲しいものをすべて持っていた。純粋に彼女が羨ましかった。彼女は常に求められていた。輝いていた。本当に平凡だった私はそんな彼女に一番近しい存在になれたようで有頂天になった。
しかし、だんだん私は物足りなくなっていった。私の彼女に対する感情と、彼女の私に対する感情がイコールでないことに気付いてしまったのだ。
というのも彼女は常に孤独感に苛まれており、さびしい、とか、どうせ私は一人なんだ、とかそんなことばかりを言い、私からしてみれば一緒にいる私はなんなんだ!?という思いにならざるを得なかったのだ。私からみれば彼女の周りは常に彼女を気にする人で溢れていたし彼女は確かに私を含め大勢の人から愛されていた。しかし孤独感なんてものはとどのつまり本人の感じ方次第で、客観視にはなんの価値もないということを解するには当時の私はあまりにも幼く、彼女の状況に寄り添ってあげられず彼女に対する感情をどんどんこじらせていってしまった。
とにかくネガティブな発言をし続ける彼女を否定し、私の望む彼女を彼女に押し付けた。押し付け続けた。まるで彼女の管理者であるかのように傍若無人に振舞った。さびしいだと言えば、何を馬鹿なことをあなたの周りにはこんなに人がいるのに甘えるなと言い、孤独だと言えば、あなたより孤独な人なんていくらでもいる被害者ぶるなと言った。ある時などは、彼女がひどく品のない替え歌を歌ったことがあった。私はそんな歌を彼女に歌ってほしくなかった。再三歌うのを止めてくれと彼女に言ったが彼女はやめなかった。私はついに彼女を平手打ちした。彼女の眼鏡が飛んだ。その後どうして関係を修復したのかまったく記憶にない。だが、飛んで行った眼鏡のことは今でも鮮烈に覚えている。
高校に進学し彼女が学校を嫌がり登校日数ぎりぎりになった時も、私は彼女にとにかく頑張れと言い続けた。あなたには才能があるのだからもっと努力すべきだと。気の持ちようだと。疎外感なんてものは気のせいだ、無力感なんて欺瞞だ、あなたは恵まれているのだからと。
私の言葉が届かないのは彼女のなかで私の価値が低いからだと思った。なんとか私の中の彼女の存在くらいに、彼女の中での私の存在感を持たせたかった。彼女に私を認めて欲しかった。私がいるということを認めてほしかった。しかし中身のないハリボテをいくら繕おうとも全くの無駄で、結局私の想いは報われることはなくそのまま高校卒業となり私と彼女は別々の県に進学した。
遠い地に離れ離れになったが彼女と疎遠になるのが嫌で、私はなんとか彼女との接点を持ち続けようとした。そのころはまだSNSなどはなく、当時彼女がやっていたHPサイトの掲示板に時折書き込んだりメールしたりするだけだったが、とにかく頑張った。連絡すれば無視されることはなく返事はあった。一年に一度会うか会わないかだったが何とか連絡がつく状態を保ち続けた。彼女の住んでいるところの近くに住んでいた友人を紹介してより彼女の情報が入ってくる状況を作ったりもした。なりふりなど構っていられなかった。
そうしているうちにSNSが台頭してきた。もともと熱心にHPの更新を行っていた彼女はSNSでは非常に饒舌で、SNSさえあれば彼女の日々の暮らしや考えていることなどが詳細に知ることができた。
しかしSNSでの彼女はあくまでも昔のままで、いつも自分の不幸を嘆いていた。世間に毒を吐いていた。だんだん周りが結婚し、子供ができ始めた。彼女はずっと結婚願望があり、何人も彼氏が変わったが結婚には至らなかった。
そんなある日彼女がフェイスブックで幸せそうな同級生の投稿に嘲笑われている気がして辛いと言った。日々の生活に行き詰まりを感じていた私はそんな彼女に自分を重ね、そんなに自分を追い込まなくてもいいじゃないかと言いたくなった。ずっと彼女に辛辣なことしか言えなかったが、いまこそ辛さを分かち合えるかもしれないと思ったのだ。
確かに彼女たちは幸せそうで、あなたの望む幸せを持っているかもしれない。私はあなたの欲しがる幸せを幸せとは思わないので彼女たちをなんとも思わないけど、私の望む幸せを彼女たちが持っていたら妬ましいと思うだろう。でも、私の望む幸せはあなたにとってはどうでもいいことだから私の妬みなんて的外れだと思うでしょう。それとおなじで、誰もあなたを馬鹿になんてしていないよ、元気を出して、と。
彼女は怒った。
励ましが欲しいんじゃない。こんなものはチラ裏なんだからいちいち構うな。放っておけと。
壊滅的なすれ違い。私の言葉は一切彼女に届かない、この関係はすでに手遅れだ。そう悟った。いや、ずっと気付いていたけど見ない振りをしていた。彼女の感情に寄り添えない自分勝手な私は彼女にとって彼女の大切な人ではないということに。挽回はもう不可能だった。
彼女はSNS上では他の人には会いたいと頻繁に言っているのに、私に会いたいと言ったことはない。連絡するのは常に私から。誕生日にメッセージを送るのは私だけ。
正直疲れたのだと思う。私の努力なしには継続しない関係に。あまりにも些細なつながりにしがみつき、これは友情だと妄信していた。しかし、こんな関係は友情とは言えない。友情ではないことをずっと認めたくなかったが、私はついに諦めた。
私は怒った彼女にごめんと一言だけ言って彼女をフォローすることを止めた。見ているとやっぱりなにか言いたくなってしまうから。彼女も翌日私がフォロー解除したことに気付き私のフォローを解除した。解除後私について一言だけ、もう会うこともないから別にいい、とのエアリプがあった。完全に彼女との18年にも渡る縁が断たれた瞬間だった。
長い、本当に長い片思いだった。震える指先でフォロー解除ボタンを押したとき、ちょっと私が泣いたなんてきっと彼女は思いもしないだろう。
ただ、いま久しぶりにフォロー解除前後のやり取りを見直そうと彼女のアカウントをのぞいたらなんとブロックされていた。
フォロー解除後はしばらくブロックされていなかったし(未練がましくちょっとの間フォロー外から眺めていた)、フォロー解除後も特に彼女に対するエアリプをしたわけでもないので、少なくともどこかのタイミングで私に対して何かを思うタイミングがありそしてアクションを起こしたのだ。どうでもいい存在であればブロックなんてする必要などないのだから、私という存在が彼女に何かしらの瑕疵を与えることができたのかもしれないことを少しだけ喜んでしまった私は、本当に救いようがない。
一時期、ラブライバー界隈で話題になった劇場版ラブライブ!の批判記事があった。
それは、おりあそ氏による
「アイドルはなぜ魅力的なのか? あるいは、劇場版『ラブライブ!』はなぜ失敗作なのか。」http://oriaso.seesaa.net/article/421134088.html
である。
自分はTVアニメ第2期以来ラブライブ!という作品にうんざりしており、ほぼ既に内容に希望を抱くことを諦めた立場だった。
そのため、劇場版の内容を目の当たりにしても、2期の調子から続きを作ったらこんなものかという程度に軽くとらえていた。
批判記事についても早い段階で拝読の機会を得ており、概ね同意はしたのだが、批判へ寄せられた賛否両論の意見の軽さと2期以来の作品の現状の救いようのなさに呆れていたこともあり、あまり触れないようにしていた。しかし、ラブライブ!(以下ラブライブと表記)という作品が何と言おうとフィナーレを迎えようとしている今になって、少しは気分が落ち着いたこともあって改めて自分なりに読み解いたものを記しておこうかと思う。
彼の批判文の序盤はTV第1期から劇場版の終わりに至るまでの説明なので割愛。その直後の文章から批判と問題提起が始まる。
しかし、アニメ『ラブライブ!』のラストを飾るイベントが、このようなものであっていいはずがないのである。
問題点を明確化するために、3年前に現実世界で開催されたあるライブイベントと対比してみたい。それは「ゆび祭り ~アイドル臨時総会~」といって、普段はライバル同士である人気のアイドル10組が一堂に会し、次々にライブを行うというイベントであった。このイベントが話題となった最大の理由は、指原莉乃という当時AKB48で人気を急上昇させていたメンバーが自らプロデュースをしたことにある。つまり「ゆび祭り」は、μ'sが企画してライバルであるスクールアイドルを集めた、劇場版のクライマックスを飾ったあのお祭りと非常によく似たイベントだったと言えるだろう。
実は「ゆび祭り」は感動的なイベントであった。それは何故かというと、指原莉乃というアイドルの人生物語を象徴するイベントだったからである。もともと指原は故郷の大分県において、熱狂的なアイドルファンとして育った。モー娘の全盛期に小学生時代を過ごし、様々なグループのライブに通い詰める重度のアイドルオタクになったのだ。そしてアイドルへの憧れが高じて上京、自分自身がAKBのメンバーとなり、ブレイクを果たしてこのようなイベントを企画できるほどの地位に登りつめた。つまり「ゆび祭り」は、指原のアイドル愛が余すところなく表現されたイベントであり、アイドルオタクの成り上がりストーリーを体現したからこそ、感動的なイベントだったのである。
この部分、ある意味では三次元アイドルへのアンチテーゼ的な役割が求められる二次元のアイドルアニメというジャンルの批評に実在アイドルのAKBを持ち出したきたことで一瞬、辟易した読者も多いことだろう。自分もその一人であったが、よく読んで考えれば、その意図も分かるものになっている。
実際、AKB指原がAKBとしてデビューする以前からアイドルオタクだったことは有名な話らしくいろいろとエピソードや写真が残っているようである。
そんなアイドルオタクが、一応トップアイドルとなり、事務所などの枠を超えて自分がリスペクトしてきたアイドルを集めて「ゆび祭り」という大きなお祭りを主催したことは確かに快挙である。
そして、この「ゆび祭り」というイベントのチケット代は指原の愛称「さしこ」にちなんで345円という特価であったらしい。自分の好きを極めて走ってきた上で積み重ねてきた成果を現在のアイドル達やアイドルオタクに還元するという意味で確かに素晴らしいイベントだったといえよう。
それに対して、劇場版ラブライブにおけるお祭りが比較されながら述べられているのが以下である。
では、アニメ『ラブライブ!』のストーリーを締めくくったあのお祭りは、どのような物語性を内包していたのだろうか。筆者の考えでは、残念ながら「どのような物語性もない」のである。あのお祭りでは、「スクールアイドル」がキーワードになっていた。しかし今までの『ラブライブ!』で、「スクールアイドルはいかにあるべきか」とか「スクールアイドルの未来」とかいったことが主題になったことは一度もない。穂乃果たちは、今まで他の(A-RISE以外の)スクールアイドルのことなんかちっとも考えてこなかったのである。最後の最後になっていきなり《スクールアイドルという問題》を提示されても、あまりにも唐突だと言わざるをえない。
指原には長年アイドルオタクとしてアイドルに憧れ続けてきた上でトップアイドルになり、先述のお祭りを主催したというプロセスがあるのだが、ここで述べられている通り、μ'sもとい穂乃果にはそんなプロセスはない。
廃校を阻止しようという目標が最初に生まれたが、スクールアイドルという手段は後付けであり、(スクール)アイドル活動は積み重ねてきて目的となるような価値としては弱いものだったといわざるをえない。TVアニメ第1期途中で廃校問題が有耶無耶になり、自分達はアイドル活動をこの9人でしたいんだという方向に物語は動いたのだが、それも行き当たりばったりで賛否両論であった。作中でもまだ比較的まともだった頃の矢澤にこに「穂乃果の(アイドルへの)好きはいい加減」と批判されている。
また、自分達のスクールアイドル活動には目を向けても、他のスクールアイドルに対して何らかの注目を向けたのは穂乃果にアイドル活動をさせるきっかけを作ったA-RISEくらいであり、それも主に廃校阻止や後のラブライブ出場&優勝という目標を達成するための当面の壁やライバルとして注目された程度に留まっているため、おりあそ氏の批判にある通り、指原のような他のアイドルへの想いが高じて開催につながったイベントと比較すると、劇場版で急に穂乃果やμ'sの「スクールアイドル」に対する想いが打ち出され、スクールアイドルを集めてイベントをやろうと言い出すのは唐突であり、付け焼き刃だとか行き当たりばったりといった表現で揶揄されても仕方がないものといえる。
一方で、そのイベントや発想自体は悪いものではない。スクールアイドル全員で楽しい大きなお祭りをしましょうというのはとても魅力的で素晴らしいものである。しかし、作品上仕方ない部分もあるとはいえ、「スクールアイドル」全体のお祭りへの想いを一旦は語り、イベントを開催してみたらμ'sしか目立っておらず、他はバックダンサーに近い扱いというのは、劇場版という大きなお祭りという面を考えてもどうにかならなかったのかとか、他のアイドルやファンへの還元の面でも現実のアイドルに大きく負けているのはどうなのだろうとか考えてしまう。
したがって、あのスクールアイドルのお祭りは作中における開催への過程や内容の意味だけでなく、ラブライブの劇場版というお祭りの観点でも説得力と盛り上がりに欠ける粗末なものだったといえるのではないだろうか。
今回の劇場版ラブライブ!でとにかく目につくのが、このように行き当たりばったりで物語の流れを無視したストーリーである。映画の前半では、脈絡の無い強引な展開でニューヨークに行くことになるが、そこで何かを得ることはなく、後半ではまったく無関係なストーリーが始まってしまう。後半のストーリーから逆算すれば、前半では「スクールアイドル」の問題が提示されていたり、μ's活動終了への伏線が描かれていたりしなければならないはずだが、そういったことは全然なく、ライブ場所を求めて街を探検したりアメリカ人と交流したりするだけである。また、ニューヨークで迷子になった穂乃果は、彷徨っているうちに一人の女性シンガーと出会い、ホテルまで連れ帰ってもらう。この女性シンガーにはいろいろと不思議な点があり、穂乃果以外のμ'sメンバーには見えないなどの設定があるため、「未来の穂乃果」だというのがネット上では最も有力な説である。この女性シンガーは帰国後にも一度穂乃果の前に現れるのだが、それっきりストーリーからは退場し、穂乃果に思い出されることもなく、謎も一切明らかにならない。映画のキーパーソンであるかのように登場しておきながら本筋にはちっとも絡まないというこのキャラクターは、何のために出てきたのか本当に謎なのである。他にも、映画冒頭で描かれる、穂乃果が水たまりを飛び越えるという過去エピソードがこの映画のストーリーに全然そぐわないなど、とにかくこの映画の脚本はいたるところが継ぎ接ぎだらけの雑なものであり、一貫したテーマがないので物語性を感じられない。「物語性がない」と言うと、『けいおん!』なんかの例を持ち出してくる人がいるかもしれないので予め書いておくと、『けいおん!』にはストーリーはない(大したことは起きない)が、物語性はある(一貫した主題がある)。それに対して劇場版『ラブライブ!』には、ストーリーはあるが物語性がないのである。
と、ここも個人的に意見の相違はないのではあるが、突っ込みたい点が何点かある。
そもそも行き当たりばったりで物語の流れを無視したストーリーというのは劇場版に限らず、第1期から指摘できる問題点であり、ラブライブというよりも花田十輝氏の脚本によく見られる傾向ともいえる部分である。その点を、恐らくブログ著者は第1期を評価したい立場であるために触れないでいるのだろうが、後々2期や劇場版でそれが起因して物語性やキャラクター性の破滅につながっていることは無視できない。
たとえば2期においても用いてプロジェクト開始初期から掲げていた「みんなで叶える物語」というキャッチフレーズ。それが本来はコンテンツ全てを統括する一つの物語性やコンセプトになるべきだったし、アニメ化以前は細かなキャラクター設定のブレはあっても、その点においてのブレはなかった。個性や事情を違えるキャラクターが集まった上で廃校阻止やアイドルになるといった目標を叶えること、また結果的に初期からそのコンセプトやキャラクターを支持してきたファンの思いを叶えるという意味にもつながってくることになる。
しかし、アニメにおいてその作中の物語性は破棄された。廃校阻止という目標がプロジェクトを束ねる大きなコンセプトの一つだったが、それは第1期で大会に出たわけでもなく他のアイドルと大々的に競ったわけでもなく達成される。その後μ'sは文化祭における穂乃果の件もあり活動休止となることもあり、せっかく大きな目標を達成できたのにカタルシスが弱い。
アニメラブライブに肯定的なファンの間では「アイドル活動で廃校阻止というコンセプト自体に無理があるから、1期でそれを消化したのは悪くない」という見方があるが、無理があることを簡単にあっさり達成・消化させてしまったたものをよしとする神経や論理にこそ無理があるように思える。
また、裏を返すと、大会に出ずとも廃校阻止につながるくらいにスクールアイドル活動の影響力や効果が大きいことを描写してしまったともいえる。さらに2期では、次に開催された大会に出場し、プロのアイドルを上回るとも言われていたA-RISEをも倒し優勝を達成してしまったのだから、その後のμ'sの人気や知名度は絶大なものとなっていただろう。少なくとも地元東京や関東地区では。
脈絡の無い強引な展開でニューヨークに行きライブを行い、間違いなく関東の空港である日本の空港に帰ってきたところでファンに出待ちされて知名度を得た自分達に驚くというシーンについてであるが、既に廃校阻止や大会優勝の時点で雑に考えてもかなりの人気と知名度を得ていたはずである。ましてや地元であり、さらに出迎えたファンは同年代であったから今さら驚くことではないはずだが、それに初めての体験であるように驚く描写を入れてしまったことで、劇場版やアニメラブライブという作品自体がどの場面においても何かを得ることはなく、いつもまったく無関係なストーリーが乱雑に入れられるだけの作品だと物語っているかのようである。
続いて、ブログではそのような内容や批判を受け入れるファンの態度についての批判が述べられている。
さて、劇場版『ラブライブ!』は以上のように脚本に重大な瑕疵を抱えているにも関わらず、この劇場版が良かったという人々の多くがこのことを大した問題ではなかったと考えているようだ。ここがポイントである。もし以上で挙げたようなことがそもそも物語上の瑕疵ではないと言うのなら、それは根本的なセンスの違いだからどうしようもない。しかしそうではなく、瑕疵だとは認めつつもそのことによってこの映画の価値が損なわれないと考える人々が多くいるという、その点にこそ本質的な問題がある。なぜなら、これほど重大な物語的欠陥を目にしておきながらそれを大した問題ではないと言うのは、「アイドルアニメなんだから可愛ければそれでいいじゃん」「百合さえあればなんでもいいじゃん」という物語性軽視の態度に他ならないと考えられるからである。
『ラブライブ!』はTVアニメ第1期以来2年半のあいだ爆発的に人気を拡大し、日本の二次元コンテンツを代表する作品の一つにまでなったが、残念ながらそれと同時に、物語性をひどく軽視するファンを増やしてしまったように思う。そういった人々は、μ'sを一方的かつ即物的に消費するだけであり、μ'sのメンバーに共感したり、あるいは彼女らから何かを学んだりしようとするチャネルを持たない。そしてそういった人々の消費態度は、実際に『ラブライブ!』の作品そのものに反映されるようになってしまった。その結果がこの劇場版における脚本の崩壊だと考えられるのである。
そもそも、「アイドルアニメなんだから可愛ければそれでいいじゃん」「百合さえあればなんでもいいじゃん」という擁護を持ち出すのも苦しい点がある。
何故かというと、このアニメラブライブの脚本家である花田十輝氏や監督の京極尚彦氏は自分たちが志向する物語性を作るために、キャラクター性やプロジェクトの大きなコンセプト(一貫した主題)を変更して犠牲にした経緯があるためである。(電撃ラブライブ!3学期http://www.amazon.co.jp/dp/B00BW8MRVY等参照)
いくら結果売上が出たとか人気が出たとはいっても、道理に背く大きな決断を下したからには内容に責任を負うべきである。自らが企画し原案から打ち立てた作品なら構わないだろうが、ラブライブは三社合同のプロジェクトであり、原案は公野櫻子氏であるため、彼らは作品の物語性の中枢部分に適当にメスを入れられる資格はない。つまり覚悟を持ってメスを入れてしまったのだから、それ相応の義務や責任を負わなければ話にならない。
本来あったキャラクター性や物語性を軽視した上で、打ち立てたストーリーに不備が生じ、それを擁護するために切り捨てたものを持ち出すというのは都合が良すぎるし、つまりストーリーコンセプトの変更やキャラクター性の変更の失敗を証明しているようなものである。
思春期以降の自分はとにかく自己否定だけしていたと言っても過言ではない
自分自身の中の警察のようなものがいて、何か日常生活を送っている上で瑕疵があったと判断すると
俺はクズだからしょうがないとかそういう言葉を自分自身に浴びせることで合理化していた
「自分が」失敗したな、という感じに主語が自分になるのではなく
「相手が」俺のことを死ねと思ったろうな、というように、主語を他者にすり替えることで想像の続く限り自己否定をするという思考の流れだった
それで精神の安定は保っていたのだが、痛みはあった
となっていて
とすると
となる
これでどうなるかというと
他者にペルソナが否定されることは紛れもない人格の全否定である - 1
ペルソナの中の自分は無価値であり、知られてはならない - 2
ペルソナの中の自分は無価値であるから、それを反映するペルソナも無価値である - 3
この考えは就職活動のときが特に致命的で、1により、常に自己を全否定される(=する)恐怖で碌な活動は出来ず
よくなんらかの挑戦をする前の自分を奮い立たせる考えとして「命まで取られることはない」という言葉があるが
人格の全否定なのだから命を取られる方がよっぽどましなくらいだった
となっていて
嫌な顔をされたのはこちらの言動がまずかったからだ、うまくいかなかったのは相応の結果だ
ということを、失敗を糧にできる人や、さほど気にしない人や、自分の人格とは切り分けて考えられる人や、あるいは気になった異性に対して執拗に図々しい人とか
どう考えても自分とは違う人について考えて気付き
調べると彼らにあって自分にないものは一般に自尊心と呼ばれるもので
それ系の自己啓発(見る人によっては胡散臭いかもしれないが)をネットで見て寝たら
それによってどう変わったかというと、自分の心は、何かの礎の上に成り立っているという感触を持つようになり、とりあえず自己否定はしなくなった
そもそも人付き合いがほとんど全滅しているので回避性人格障害、もといコミュ症がどうなったのかはイマイチ分からないが...
前よりはマシになるんじゃないかと思っている
リソースが足りない。。。というのはどこの企業でもよく聞く話で、「リソース」が意味するものは「労働力」である。
仕事をしていると、やっかいな要求をしてくるお客様というのはいて、それがまた、絶妙に「やらなければいけない最大限のサービス」を「最低限の値段で」やれと要求してくる。
◆子供のころ
私はまあ、どこにでもいる「おとなしい生徒」だった。
先生は「やんちゃな生徒」「問題のある生徒」「意見を言ってくる父母」にどうしても時間を取られ、「普通の生徒」にかまっているヒマなどなくなる。
おとなしい生徒の目線は、非常に冷めている。「ああ、この人、忙しいんだな。。。」と思ったものだ。
意識してやっている訳ではないが、問題のある生徒達は、「やらなければいけない最大限のサービス」に対して最大限のリソースを割くように要求しているのだ。
しつこいようだが、その他の生徒は同様の”サービス”を受けていない。
◆大人になると
BtoBでサービスを提供する仕事をしていると、ゴネてくる厄介な企業に対してのみ優先的な対応を行うことしばしばである。
優しいお客さんの要求は「リソースが足りない」と、どうしても後回しになる。
◆老人になると
自分が老人になった時の事を考えると、ぞっとする。
もし自分が介護の現場で働いており、人出が足りないとしたら、問題のある老人につきっきりになる事だろう。
おとなしい老人への対応は、時間が足りないので、ルーチンをこなすのみで終わる。
自分が「おとなしい老人」になるだろうなというのは目に見えている。
◆うーん。。。
もちろん、人として豊かであろうとすると、誤差程度の瑕疵に全てクレームを付ける事はしないだろう。
そういった人は、クレーマーに比べていい縁にも恵まれる。。。と思う。
あくまで「受ける事ができるサービスの量」視点で考えると、こうして悲観的になる。
自分はまだ20代で、問題に対して一つづつ向き合い「サービスが偏らないように工夫する」意識を持って仕事しようとはしている。
ボロカスに怒られる事もあるが。。。
意識しながら仕事していく中で、いつか答えが見つかればいいと思う。
◆さいごに
老人ホームや学校に例えているので「お金さえあればいいサービスを受ける事ができる」という方法もある。
そんな力技が使えるほど、自分は裕福でいる事はできないと思う。
恋愛は難しいので、風俗で、「かっこいいですね」って言われるのにエネルギー注いでいる。
オシャレ本で勉強して、服やクツで調えて。筋トレとダイエットで体作って、肌の手入れを覚えたり、皮膚科行ったり。
恋愛本で女の扱い覚えて。
とにかく、雰囲気イケメンになる努力をして、風俗でほめてもらうことにシフトしている。
ちょっと頑張って雰囲気フツメンになっても、だ~れも見ない。多少、格好よくなったと男同士では言われるが、女は接点無し。
だが、風俗なら、当たり前だが、ほめてくれる。おっさんとの比較だから、まあフツメンまでならほめてくれるよ。
これが、思った以上に楽しい。
やっぱ、成果が出ない努力じゃないと続かないよ。
あと、ニコニコ生放送で、女実況者に受ける話題を仕入れて、コメント。
音楽だの、趣味だのを、その実況主より詳しくしらべて、そんでコメントすると、受ける。
あと、相手がどういう話で受けるのか、パターンも見えてくる。
実際、受けると、恋愛的な寂しさっていうか、体以外の部分もかなり満たされる。
恋愛で摂取できる栄養分を、これらの代替品で補えると、仕事にエネルギーを全フリできる。
仕事の成果は裏切らない。
Chromebookのレビュー記事を読んで、同じ機種を買ってほぼ同じ感想を持っている人がいるのだと思った。
http://dragoner-jp.blogspot.jp/2015/09/chromebook.html
自分はAsus Outletで、C200MAが14800円で売られている時に買った。箱が破損しているという注記があったが、届いたものは箱に傷ひとつなかった。たんに定価では売れなかったので、あたかも瑕疵があるかのように書いているのだろうか。
上記レビューに同じ。気軽でよい。テキスト入力機としてはこれで十分。
ちなみにタッチパッドの出来はかなりよい。Macbook Airより少し劣るが、慣れると、それほど変わらない。というか、かなり意識してMBAの使い心地に似せてある。
キーボードは打鍵感が浅く、カチャカチャとプラスチック音がするが、打ちづらいというほどでもない。
テキスト入力を含む事務作業程度ならとくに問題ない。2週間以上、Macbook Airを使わないでChromebookだけで生活しているが、それほど困ることはない。
バッテリの持ちは、よい。
よくわからない。Sublime Textに似たZedというエディタをChromeアプリとして入れているが、簡単なHTMLの編集程度であれば、これで事足りている。
オフライン環境で、なにかの拍子で再起動すると、まったく使えない。ログインすらできない。
Google Appsを使っていて、途中でネット接続が切れると、ローカルデータを保存する形で作業は継続できる。
しかし、何かの拍子で再起動がかかると、ログインができないので、いっさい使えない。ゲストとしてログインした場合、素のChromeが立ち上がるだけなので、Google Drive上の作業データはおろかアプリもいっさいない。
これを打開するためにUbuntuを入れてみたが、後述の理由で、それほど状況は変わらない。
SDカードをさして逐一作業データを保存するのでなければ、原則として、作業データはすべてGoogle Driveに置かれる。
便利だが、アカウントがブロックされたり乗っ取られたりした時のリスクは格段に跳ね上がる。
以下の記事を参考にして、Chromebookのデベロッパーモードを起動し、Croutonというものを入れると、Ubuntuは普通に使える。
https://www.linux.com/learn/tutorials/795730-how-to-easily-install-ubuntu-on-chromebook-with-crouton
Asus C200MAのRAMは2GBしかないので、ちょっとでも動作が軽くなるかと思ってUnityの代わりにLXDEを入れているが、ちょっとましだという程度。
Crouton経由でUbuntuを使うやり方だと、起動時に、ChromeOSにかえてUbuntuを選ぶことができない。したがって、オフライン環境下でUbuntuを急きょ使う、という使い方はできない。
デベロッパーモードだとChromebookはUSBブートをONにできるはずだが、C200MAではできなかった。なので、インストールせずにUSBブートでLinuxを使うことは、通常のやり方だとできないようになっているらしい。
これは出荷時のBIOS設定で、上記のような使い方をすべて禁止しているらしい。この問題を解決するため、ChromebookのBIOSが焼いてあるROMそのものを書き換えるスクリプトを公開している人がいる。
https://johnlewis.ie/custom-chromebook-firmware/rom-download/
が、なにかあったときに元に戻す方法を調べるのが面倒なので、自分はまだためしていない。だれかC200MAで試した人がいたら教えてほしい。
↓の為末大さんなる人に関するまとめ見てて思ったのだが、
世の中には、政策の是非を判断する時に、倫理を主軸に置いてしまっているが結構いるのだろうと思う。
「その政策が有効か無意味か。リスクはどうか」という観点ではなく、
「その政策は倫理的に正しいか間違っているか」という観点で判断してしまっているのだ、
と考えると、上記の記事で末為氏に噛みついている彼らの言動の多くが理解できてくる。
「自分の見解は論理的に正しい」ではなく「自分の見解は倫理的に正しい」と考えているから、
反対意見に相対した時、
「相手の論理に瑕疵がある」と考えず、「相手の倫理感がおかしい(相手は人格的に卑である)」という方向で物を考えてしまうのだ。
「負けだ」という人に噛みつきもするだろう。
悪への敗北も妥協も許されないだろう。
これは何も左翼に限ったところでもない。
第二次大戦時の日本の是非については、ネトウヨ仲間同士で対立がある部分ではある。
俺はナチスも日本も相当酷い事をやってたと判断してるし、その動機もアジア解放何かじゃなくて国益と軍部の組織の論理が主だっただろうとは考えているが、
一方連合国側も捕虜の虐殺したり民間人虐殺したりその後植民地を奪い返そうとしたりしてる分、
正義と悪の戦いなどではなく、ごく普通の国益と国益がぶつかった戦争に過ぎなかったと考えているが、
どうにもこの考え方が許せない人たちもいるわけだ。
彼らは政策を倫理的に正しいか間違っているかで考えてしまうので、
俺が「いや、日本は相当酷い事やってるだろう」とか書こうものなら、「証拠を出せ」の方向で戦闘モードに入ってしまう人が続出して、
政策決定プロセスのどこに瑕疵があったのかとか、誰のどこに計算違いがあったのかとか、その反省を踏まえて日本政府の仕組みのどこをどう変えるべきなのかとか、
「利害対立している勢力(主に中韓)の言う事を素直に真に受けてる馬鹿」
または
「他国の歓心を買う事が平和への道だと思っている脳みそお花畑野郎」
要するに、「頭が悪い」の方向で相手をバッシングしているのだ。
およそ政策を論じる時に、主義主張が異なる人と議論する時には、
ではなく
で考えるべきだと考える。
そうでなければ、為末氏の言う「変わるつもりのない相手とは話しても無駄」という状態になってしまう。
そういう点で、為末氏の言う事にも一抹の誤りがあると俺は思う。
相手に「悪」のレッテルを貼った瞬間から、妥協も議論もできなくなる。
それではだめなのだ。
そう考える事はできないだろうか。
政策について議論する時は、「悪」は封印するべき禁句なのではないだろうか。
「お前は馬鹿だ」は言っても良いが、「お前は悪だ」は言ってはならないのだ。
俺達は小市民であり一国民に過ぎないので、政策の結果は右も左も関係なく平等に受け取ることになる。
政策がどっちに振れようが、右翼と左翼で受け取る結果に大した違いは無い。
悪も善もあったものではない。
憲法的な判断、手続的な瑕疵は置いておいて反対派に感謝したいと思ったことがある。
それは憲法が「国を縛るもの」という、基本原則を知らしめることに一役買ったことだ。(もちろん原則なので、何事も公共の福祉のような例外もある。)
少なからず、学生で憲法の講義を履修するはずなのに、それを覚えてすらいない人間が沢山いる。
学生ですらそんな体たらくなので、法学を習う機会の少ない人々は推して知るべしだ。
しかし、反対派は言い方は何であれ声を挙げた。
個々の問題は別として、全体として一歩先に進むことができるはずだ。
願わくば、民主主義は手段でしかなく実現すべきは国民の自由と権利の保護であるという事が知れ渡ると良い。
最後に守るのは国民である、自分自身ということを心の何処かに置くだけだ。これさえあれば憲法の目指すものは分かったのも同然なはずだからだ。
インターネットは嘘を嘘として楽しむ場所なので、こんなことを言い出すのも野暮なのかもしれないが、
私は「騙されるのが嫌だ」「感動を返せ」とほざくバカに自衛のための武器をあげたい。
なぜなら増田とは地上に残された唯一博愛の地であり、敵に塩を送る礼儀をわきまえた唯一の匿名人種だからだ。
そのことが増田たちを誇り高くしている。
まず、見てすぐわかるタイプのがいる。いわゆる「初級おっさん」というやつだ。これはおっさんもわざわざ隠そうとしない。場合によってはラスト一行で男バレを自らやることもある。
これをもって「おっさん乙」などと得意げにコメント打つのは愚の骨頂、カモの所業である。
即バレなどおっさんにとっては前戯のようなもの。まだアナルには爪先すら触れていないのだ。
そんなおっさんが本気を出して騙しにかかった場合はどうだろう。
ぶっちゃけていえば、通常その真贋を看破するのは不可能に近い。人間、その気になればwikipediaと小手先と情報の非対称性でいくらでも人を騙せる。
難しいのは増田という場自体が「騙しやすさ」を底上げしていることだ。
増田は匿名サイトだ。そこに書いてある意見や発言は実名で発言する地位ないし度胸のないクズのたわごとと見なされており、まず真剣に読まれない。ゆえに「自分は◯◯だ」と言い張ればまず、多少瑕疵があったところで、わざわざ検証コストかけてまで反論しにくるやつはいない。今回の女音楽家風俗嬢事件のように、たまたま増田にそのスジに詳しい人物がいればいいが、いつもそうした専門家に恵まれるとはかぎらない。「女音楽家」が「女カバディ選手」だったら手の施しようがない。
だから基本的に増田の言うことはそのまま額面どおり信じられることとなる。
では騙されたくない人はどうすればいいのか。現状では三つの伝統的な対処法が存在する。
1. 増田をみるのをやめる。
一番健康的な対処法である。もともと読むに値しない記事が99.9999%を占めるので、全く読まなくなったところで人生になんら悪影響を及ぼさない。むしろ、増田を見なくなることが人生の良い側面が目につくようになり、精神衛生も向上することでご飯がおいしくなり、毎日がハッピーに、年毎の健康診断でも改善が見られるようになる。
しかし、タバコや大麻といっしょで、簡単に止められるなら最初から誰も苦労はしないのである。
2. 元増田が女性と自称する記事のコメントをすべて「おっさん乙」にする。
知性の敗北である。「高度に発展したおっさんは本当の処女と見分けがつかない」とするならば、常に一定割合で含まれるおっさんをバスターするために絨毯爆撃はそれなりに理にかなっている。リスクもない。
しかし、それであなたのプライドは満足するのだろうか? おっさんと処女をまとめて鏖殺する、そんなのがあなたの人生なのか? そのような雑でサイコパスじみた合理主義がベトナムで、アフガンで、イラクで、悲劇をひきおこしてきたのではなかったか? あなたはおっさんを敵視するあまり、ドローン以下の存在に堕落してしまっているのでは? おっさんと子どもたちの未来を奪う空爆に今こそNOを!(おっさんという文字列には NO WAR という語が含まれている)
いわゆる、深淵を覗くものはキャーのび太さんのエッチ! ってやつである。
みずからおっさんを演じることでおっさんの意志に沈潜し、同化し、その思考をトレースすることでおっさんを完璧にプロファイリングすることが可能となるのである。先ほど挙げた「初級おっさん」にもおっさんプリテンダー、おっさん検挙を最終目的とするおっさん潜入捜査官が含まれていると言われる。
もちろん、この手法には重大なリスクが伴う。やがて、マジモンのおっさんになってしまうかもしれない、という危険だ。そして、その罠にはまる若者は事実後を絶たないのである。虎穴はいらずんば虎児を得ず。おっさんを殺すためにはおっさんの力が必要なのだ。君にその覚悟はあるか?
以上三つが伝統的対おっさん検挙手法であるが、年々高度化する知能犯であるおっさんに対して、いずれも決定打とはなりえていない。
そこで私は一つ新たな手法を提唱したい。名づけて「それ、AVで観たよね?」メソッドだ。
あなたが、増田で自称女を名乗る記事を発見したとしよう。文章も設定も物語も高度に練り上げられ真に迫っており、とても創作とは思えない。が、あなたの脳内では一目観た瞬間から「これはおっさん!これはおっさん!」という警報が鳴り響いている。
この直感の正しさを証明するために、あなたは以下の行動にでる。
まず、あなたは記事の設定を抽象化して抜き出す。「女音楽家」、「苦学したため金を稼ぐために風俗で働く」。
そして、その設定からそれっぽい検索ワードをひねりだし、DMM.comのサイトで検索にかける。
ヒットした候補のなかから記事の設定によくにた設定のAVを見つけよう。
「おっさんは自分の願望に基づいて女を創作する」――その習性を利用してやるのだ。なぜなら、おっさんの妄想の八割はAVに由来する。
そうやって、おっさんを割り出せたとして、あなたはそのおっさんをどうすればいいのか。
断罪するのか。弾劾するのか。無視するのか。むしろ擁護してやるのか。おっさんの嘘に加担するのか。
そう、真実の先には常に「あなた自身の真実」が投影されるのだ。
まもなく四十路を迎えるWebクリエイティブ関連の仕事をしております。昨今、五輪関連でクリエイティブの問題が多々取りざたされているので、思うところをつらつらと書きます。
この問題については、盗作疑惑が持ち上がる以前から、有識者から一般人まで、好きだの嫌いだの、良い悪いと倒錯(盗作ではなく)した意見・文句・罵詈雑言が飛び交っておりましたが、まず問題の整理として、いわゆる「有識者」視点からお話しておかなければいけないと感じた事を簡単にまとめます。
まず、デザインの質はどうだったかについてですが、結論から言うと一定程度のクオリティは持っていると言えます。
JOCや組織委員会の要求がどのようなものであったかについては文献が見当たりませんが、件の作品が発表された際の「パラリンピックとの並立」や「様々なメディアへの展開性」という選考基準に着目すれば、十分にそれを満たしていると言えます。また、図版的な面で言えば、黒・赤という色は白地を背景として視認性が非常に高く、かつシンプルな形状である事から、人間の認知作用的に受け入れやすい要素を持っています。キャンペーンロゴとして捉えるならば、第一の視認性・認識度は優れた機能性があると言えます。以上がクオリティにおけるプラス評価の点です。
次にマイナス評価として上げられるのが、過去の文脈からの逸脱です。詳しくはNaverまとめあたりに歴代ロゴがまとまってるのでご覧いただきながら読んでいただきたいのですが、バルセロナ・長野・シドニー・北京・バンクーバー・リオ・平昌に共通しているのは、「人間」がモチーフになっているということです。途中で切れているだろと突っ込まれると思いますが、この文脈はオリンピックの歴代ロゴの中で「スポーツイベントである」というアイデンティティを担保する大きなイニシアチブを持っています。これを逸脱するからには、それを代替するだけの文脈が必要になりますが、件の作品にある「亀倉雄策」と「鼓動(日の丸)」というモチーフではそれだけの強い文脈を感じられません。
上記の総合評価としては、「アリっちゃアリだね」という評価です。悪いとは決して言いません。
正直、分かりません。情報も錯綜し過ぎていて、どれが本当の情報か判断が付けられないので、パクリであるという明確な断言はできません。それに、展開例として上げられた書体や動画で展開していたテクスチャとしての分解要素などは「オリジナリティ」と呼べるものですし、それが仮にパクリ作品に擦り合わせられたものだとしても、その判別は難しいです。デザイナーは後から派生した要件もデザインの中にマージしていく事も仕事のうちですから。
これはもうリエージュ劇場ロゴとの「類似性」に尽きます。まず法的な論拠についてですが、先発作品は商標登録をされていなかったので、商標侵害という係争にはなりません。実際、訴訟となっているのは「著作権」の侵害についてです。「著作権」というのは、商標登録云々というのは一切関係がなく発生し、作られた作品が過去の作品に類似していた場合、過去の作品にその作家性等の支配権を有するというものです。具体的には「ベルヌ条約」という国際規程があり、条項ごとに各国が批准する形で国内法に継承されています。日本も批准しています。
次に、デザインの機能としての瑕疵が、過去作品に類似作品があるという時点で発生しているという点です。例えば、コーポレートロゴ等を制作する際に、ロゴにまつわる使用規定や細かなパラメータ(配色の具体的な数値等)、ステーショナリー類などの派生製品の制作指針をまとめますが、これを「ビジュアル・アイデンティティ」と言います。その名の通り「アイデンティティ」というくらいですから、そのデザインについては「自己同一性」が求められるわけです。簡単に言うと他のロゴマークなんかと誤認されないような工夫が必要ということです。
件の作品は、その色にもアイデンティティが込められていると思いますが、実際は白黒メディアで伝えられる場面もあり得ます。言いがかりっぽいかもしれませんが、仮にあの図式がモノクロ写真で撮影され、かつ「鼓動」の部分が何か遮蔽物で隠れてしまったとします。すると、リエージュ劇場のロゴとの判別は非常に難しくなります。つまり場合によってはその写真が印刷された情報が、リエージュ劇場の情報と誤認される可能性を否定できないわけです。この点について、このデザインには明確な瑕疵があります。
あまり一般には知られていないと思いますが、デザインの価格には業界団体がかなり具体的に指針を出しています。
内容としては、デザインの料金は「作業料」と「質」「経費」「量的指標」によって決める事が妥当ですというものです。
「量的指標」というのは曖昧ですが、デザインが利用される事業規模と捉えてもらえば大体合ってると思います。これは事業規模が大きなものはそのデザインに求められる様々な機能性や今回のような「展開性」などがより複雑になります。これについて担保するものと考えてください。その上で、以下の内容、特に事業規模の数字についてご覧下さい。
東京オリンピック 2020 計画書(150ページ)を熟読してみました。 | コラム | Web制作 株式会社ワンゴジュウゴ WAN55 (東京・千代田区) http://www.wan55.co.jp/column/detail/id=124
これらの全てを、このデザインが網羅するとは言いませんが、「東京オリンピック2020の収入計画」という項目、オリンピックというイベントに直接関わる事業、チケット売上とライセンシング(グッズ販売)に限って考えてもなんと911億円もあります。これを元に先のJAGDA早見表ではもう200億円以上ということで量的指数が上限いっぱいです。この表の上限でも1,200万以上と算出できます。
この金額が妥当かどうかというと、私はこのレベルのデザインを制作したことが無いので何とも言えませんが、しかし、オリンピック組織委員会が提示したデザイン費は、たったの100万円です。特別招待席のチケット(笑)も付いてますが。
オリンピックという世界規模のイベントのロゴですから、世界最高級のクオリティが求められるのですが、与えられた予算はたったの100万円です。それなりに自分の作品に対して責任を持つデザイナーであれば、この予算では受けられないと思います。ましてや、世界でも参加できる人間が300人くらいといわれているレギュレーションにあつまるデザイナーが、時間単価をどれくらいで換算すると思いますか。
以上の点から僕個人としてこのデザインは、予算と質が見事にマッチした、実に妥当なデザインだったのではないかと結論付けるに至ったわけです。