思春期以降の自分はとにかく自己否定だけしていたと言っても過言ではない
自分自身の中の警察のようなものがいて、何か日常生活を送っている上で瑕疵があったと判断すると
俺はクズだからしょうがないとかそういう言葉を自分自身に浴びせることで合理化していた
「自分が」失敗したな、という感じに主語が自分になるのではなく
「相手が」俺のことを死ねと思ったろうな、というように、主語を他者にすり替えることで想像の続く限り自己否定をするという思考の流れだった
それで精神の安定は保っていたのだが、痛みはあった
となっていて
とすると
となる
これでどうなるかというと
他者にペルソナが否定されることは紛れもない人格の全否定である - 1
ペルソナの中の自分は無価値であり、知られてはならない - 2
ペルソナの中の自分は無価値であるから、それを反映するペルソナも無価値である - 3
この考えは就職活動のときが特に致命的で、1により、常に自己を全否定される(=する)恐怖で碌な活動は出来ず
よくなんらかの挑戦をする前の自分を奮い立たせる考えとして「命まで取られることはない」という言葉があるが
人格の全否定なのだから命を取られる方がよっぽどましなくらいだった
となっていて
嫌な顔をされたのはこちらの言動がまずかったからだ、うまくいかなかったのは相応の結果だ
ということを、失敗を糧にできる人や、さほど気にしない人や、自分の人格とは切り分けて考えられる人や、あるいは気になった異性に対して執拗に図々しい人とか
どう考えても自分とは違う人について考えて気付き
調べると彼らにあって自分にないものは一般に自尊心と呼ばれるもので
それ系の自己啓発(見る人によっては胡散臭いかもしれないが)をネットで見て寝たら
それによってどう変わったかというと、自分の心は、何かの礎の上に成り立っているという感触を持つようになり、とりあえず自己否定はしなくなった
そもそも人付き合いがほとんど全滅しているので回避性人格障害、もといコミュ症がどうなったのかはイマイチ分からないが...
前よりはマシになるんじゃないかと思っている