はてなキーワード: 担い手とは
経済的な不平等の問題はいまや公的な議論の最前線であり、その原因は多面的だ。日本においても世代・家庭・男女・所得間など様々な格差があり、それぞれに異なる原因がある。これらの格差を打開する為には、多面的な対応が必要である。従って私は、日本の格差是正の為に三つの政策を提案する。
一つ目の提案は、年金の給付方式に積立方式を追加する事だ。この政策の目的は、年金の世代間格差を緩和する事だ。現在年金は、既に受給が始まっている世代は納付額より受給額が多い一方で、将来的に受給額が納付額を下回りかねない状況にある。この不平等を解決する為には、国の年金を受け取る退職者が、賦課方式と積立方式のどちらでも受け取れる様にするべきだ。これにより、納付額が受給額を下回る事が無くなり、受給額の世代間格差が緩和される。少子化が進んだドイツでは類似したリースター制度が実施されたが、日本でも同様に制度改編を実施するべきだ。
二つ目の提案は、母親を対象とする児童手当の確立だ。この政策の目的は、育児環境の格差と、男女間の給与格差を是正する事だ。教育費や保育施設利用費の支援を行う事で、家庭間の教育格差や環境格差を緩和する。さらに母親を対象に支給する事で、男女間の給与格差を緩和する。日本は先進国の中で育児に対するGDP比支出が最も低く、育児における環境格差が大きい。東大の進学率と両親の収入が相関を示すという調査もある。男女の地位格差も先進国の中では大きい。これらの格差は、今後の社会保障を安定させる為にも、是正する必要がある。将来世代の担い手は、社会全体で積極的に支援するべきだ。
三つ目の提案は、累進課税の累進度の引き上げだ。この政策の目的は、前述した社会保障制度の財源を確保する事と、低所得者と高所得者の格差を是正する事だ。日本は上位一パーセントの所得階層所得割合が10%を超えている。応能分配の法則から見れば、現在の状況は不平等だ。累進度を引き上げれば、高所得者層の富は低所得者へ社会保障として再分配が可能となる。従って、累進度は引き上げるべきである。
これら三つの政策により、現在の世代・家庭・男女・所得間の格差を是正する。同時に、将来の担い手である児童の支援を行う事で、財政健全化を図る。これを持って、さらなる格差是正に向けた社会保障の拡充を目指すのである。
(979字)
日本の政治はダメと言いながら叩くのは自民と希望で、海外よりレベルの低い他の野党は批判しないところや
民主主義が根付いていない!といいながら、高齢者の医療は無駄だから削減しろ!等、海外の左派の理想とは真逆のことを言ってるのも気になる
それから少子高齢化問題は今さら言う話じゃない、今子供が出来ても税の担い手になるのは20年後なので
対策をしたからと言って先進国並みのレートにしかならず、少子高齢化の構造に変わりは起きない
あとネットのサービスならアメリカ以外の先進国はだいたい二番煎じばかりだが、アメリカに住んでるってことでいいのだろうか?
メルカリを叩くがe-bayだって同じろうな問題で叩かれまくっていたはずだが・・・アマゾンも詐欺の温床だったし?
道徳なき商売というのも、Facebookやナップスターがどうやって出来上がったか、AMAZONのベゾスがどれだけ自分本位の戦略で他者を抑圧してきたかとか
国際競争力というのもアホみたいな話で、大企業の凋落はアメリカでも顕著で、ものづくり系や小売は苦戦している
日本はインターネット産業の掘り起こしができなかったことが問題なのであり、大企業の凋落は日本固有の失敗ではない
最近にはじまったことではないが、Yahoo!ニュースの各記事へのコメント(ヤフコメ)がいよいよ暴力的な色彩を帯びてきており恐ろしい。
「殺せ!」という言葉があまりに普通に使われており、あまつさえその表現の残虐さを競うような状況である。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171009-00000020-asahi-soci
(※削除された後用のアーカイブ https://archive.is/0x5RH )
高速道路上での死亡事故についての報道で、ある運転者が事故の原因となっていたかもしれないことが取材でわかったとの内容。
事故自体はとても痛ましいものであるが、この記事に対するヤフコメが異常である。
要約すればとにかく「殺せ!殺せ!」と。
*******
kur*****
sup*****
念のため強調するが、まだ逮捕もされていない者に対しての「殺せ!」である。
報道機関(この場合朝日新聞)が報じたことだけを根拠に、いや、その根拠以上のことを勝手に見出して
極刑を指示(殺せ!)し、あるいは残虐な私刑を勝手に検討(殺せ!)する。
fum*****
aps*****
轢くだけじゃダメ。
100km/hの衝撃を教えてあげないと。
bas*****
一瞬で死んじゃうから
kur*****
顔写真付き実名報道、高速道路における引きずり殺しの刑にしたいくらいだ!
容疑者よ、出てこい!
nas*****
業務上過失致死なんかでなく、
もっと重い罪はないのか?
市中引き回しにして、苦しませながら同じ目に遭わせるべき!
コメント欄の流れをよく見てみると、ある「殺せ!」という内容の投稿に呼応するように「殺せ!」という投稿が連なっていく。
日本が法治国家であり、自らがその担い手であるという意識は見られず、あたかも娯楽のように、おびただしい「殺せ!」が積み重ねられる。
冷静なコメントもあるが、当たり前のように過激な意見が支持され、埋もれていく。
悲観的予言をするならば、いつかこの殺意はコメント欄を飛び出し「魔女狩り」は起こるであろう。
ヤフコメは、すでに殺意をかき立て、正当化し、増幅させる役割を果たしている。
このような惨状を放置しているヤフージャパンの社会的責任はどうなるのだろうか。
そして我々の社会は。
CDが売れないというニュースを見るたびに、今はライブや物販で稼ぐ時代だという話が出てくる。それはまあわかるんだが、そこでブコメしているはてなーがそんなにライブに行っているようには思えないのだ。ストリーミングを利用していそうにもない。無論CDなんて買うわきゃない。そんで口々に言うのは「JASRACガー」。違うだろ。お前ら音楽にカネ使わないだろ。昔話に盛り上がってばかりで新しいものへの好奇心が衰えただけだろ。やらない言い訳にJASRACを使うなよ。ヤマハ音楽教室がどれだけ音楽文化を支えていても、肝心の聞き手にお前らなろうとしないじゃないか。賢らぶるはてなーは音楽文化を冷笑してるじゃないか。
聞きたい音楽が今ないのなら自分たちで作っていけよ。1人1人が文化の担い手だと知れよ。それが21世紀の文化になっていくんだよ。
まぁ中小企業に限らずよくある話だわな。ボーナスとか、そのほかのベースが下げられるからってやつ。
で、住宅手当とか諸々5万円超が「主たる家計の担い手」にしか支給されない手当らしい。
なので、同じ家に住んでる人が、1円でも多く所得を得ていると、その手当は無くなるそうだ。
16年度、ついに私の所得金額がパートナーのそれを超えた。1万円ぐらい。
なのでパートナーはもう「主たる家計の担い手」では無いらしい。
なんだそれ。
10年働いてるのに、下手したら新卒で手当てもらってる連中より額面少なくなるんじゃないか。
ちなみに手当がなくなった後でも、「主たる家計の担い手」に戻ると復活するらしい。
なんなんだよ。
そうじゃないんだよなあ。
経験不足で人並み外れたコミュ障に起因した童貞なんてむしろ上客で赤子の手をひねるかの如くちぎっては投げやすいのかと思いきや、ただ童貞という記号だけでdisられ、そしてその空気が許容されるこの世界そのものに愛想が尽きた。
別に誰だって好きで童貞になんてなるわけじゃない。「趣味は?」と聞かれて「特に…」と答える童貞の気持ちはよく分かる。正直に答えたところでどうせ返ってくる反応は「へー、すごーい(隠しきれない嫌悪が表情に出る)」や「………(ドン引き)」だからだ。社会不適合の童貞が抱く他人への不信と恐怖を理解しろとは言わないが、女性が理解できる無難な趣味を答えてそこから会話を盛り上げるなんて言う高等テクができるイケメンが風俗に行くわけがない。
何とかなけなしの勇気を振り絞り、初めて他人に肌を晒した童貞ですらdisられてしまう、この世界はあまりに理不尽だ。
童貞に気を遣えなんて言ってるんじゃ無い。ただ、童貞に夢を売る仕事の担い手が童貞はコミュ障多すぎwwwとdisる姿を見て、夢を見ようとは思わない。童貞なんてよく喋る札束だと言われた方がまだマシだ。
今回の件をうけて、腐女子の側は一方的に被害者とか、弱者という立場を維持するのだけでなく、
自分たちの慣習を、腐女子コミュニティの外の人たちにもわかるような形で
また、腐女子だけでなく、コミュニティ独自のローカルルール抱えてるオタコミュニティの人々は
今回の件は、他山の石となるんじゃなかろうか
・まず、主張自体への支持について述べるなら、私自身の立場はこの中で選ぶのならBが近い。しかしBそのものではない。AとCについても一定の妥当性のある主張だと思う。
・Dの主張にはいろいろ誤解がある。著作権の枠組みで主張をするのであれば「無許可な転載」は確かに問題だが、著作権上、正当な「引用」は許可を求める必要はないし、求めるべきでもない。また親告罪云々という話も「転載」と「引用」の違いが把握できていないものと思われる。
著作権法基準(A)の人が、ローカルな慣習(C)のありようを把握していなければ、両者の対立はどこまでいっても平行線である。この人達にずっと不満がたまり続けるので、互いの正当性を主張し続けて炎上は終わらない。また、基準Dのような勘違いを含んだことを言うひとも大量発生していて、これを基準Aの世界にいるひとからすれば「バカじゃねーの」という感じになるし、そう発言してしまう。基準Bの世界にいるひとも人によっては「それはちょっと、落ち着いて整理しましょうか」とたしなめる。なので、またしても火がよく燃える。これが今回の炎上の基本的なメカニズムだと思う。
炎上は「誰かが決定的に間違っている」から続くのではなく、「ある立場の人からみると、別の立場の人のやっていることが極めて無作法に見える」ということによって起こり、その行為が「別の立場から見たときには実は何の問題もない」場合に、火が消えるタイミングというのは失われてしまう。
・基準Bの態度を採用することは、全体的に見通しがよく相対的に中庸な温度感のある態度だということになるだろうし、この立場を表明している人は、おおむね良識的に火消しをしているという感じだと思う。
・基準Bは、基準Aないし基準Cのみで完結して争っている人々の立場より、バランスのとれたものであろうとしているのは確かだろう。しかし、私は別の基準Eが必要だと思う立場である。
基準Eは、明文化されていない慣習を、きちんと取扱可能にすべきだという方法である。明文化するなりプログラム的に制御するという方法だ。以下に、なぜそのような立場を採用するべきかを述べる。
法がどうであれ、運用の水準で、実質的に慣習法を作り上げるということはいくらでもできるということはよくある。そして、ローカルな場にいる人たちは、その場の慣習があたかも普遍的に適用可能な「常識」であるかのような主張をはじめることが多い。だが、そうローカルな商慣習や、コミュニティ内の慣習は多くの場合、炎上の温床となってしまう。今回の件だけでなく慣習と法の間での齟齬が「炎上」を生んだことは数多くあった。
「様々な慣習に対して、可能であるのならば配慮すべきである」という主張は正しいと思う。可能であるのならば配慮するに越したことはない。
しかし「様々な慣習に対して、常に配慮すべきである」という主張は、どうか。わたしは難しいのではないか、と思う。単純にそれは人間にとって不可能なことを要請しているように思うからだ。
たとえば今回、火の手があがったのは、801界隈だったわけだけれども、オタク界隈どころかゲーマー界隈に限っても「同人ゲーマー界隈」「格闘ゲーマー界隈」「シューター界隈」「MMO界隈」「東方界隈」「レトロゲーマー界隈」など、細かなコミュニティがそれぞれの慣習をもっていて、自分が属していない界隈での慣習がどうなっているかというのは正直なところ把握しきれない。「私はオタク界隈のほぼ全てのコミュニティの慣習について把握しています」と自信をもって言えるという個人はいないだろう。まあ、それでもオタクコミュニティ界隈のことであれば、長くオタクをやってる人なら「ああ、これだったら何とかさんに聞いとけば温度感わかるっしょ」という人脈による解決はできなくはない。
ただ、それが、もっと遠い界隈のことになってくると、限界が出て来る。芸術・コンテンツまわりでも、現代芸術とかならまだしも、古典芸能の世界でのセンシティヴな話題とか言われても、細かなことはさっぱりわからない自信がある。手芸とかもわからないし、動物園のこともわからないし、外食産業のこともわからない。わからないことがいっぱいある。
で、まったく知らない界隈に飛び込んで、そこで見つけたものをよかれと思って引用しようとしたら、当事者からいきなり激怒されるなどしたら、私はビビる。めっちゃビビる。超うろたえる。
そんで、まあ、たぶんゴメンナサイすると思うけど、なぜキレられたのか、理解が追いつかないだろう。正直、ぜんぜんわからんと思う。小心者なので、とりあえず反射的にゴメンナサイをするでしょう。
「よく知らないものに言及しない」というのが重要だという人もいる。まあ、特にやる気がないなら、あんまりセンシティブそうなものには言及しないほうがいいかもしれない。
ただし「よく知らないものを知る」ということ自体は、世の中に多様な人々がいるということの相互理解をすすめる上では実は非常に重要なことでもある。たとえばLGBTや人種の問題というのは、言及の仕方についてしょっちゅう諍いが起こっているが、まったく言及されないよりも「善意に基づく無理解」のような言及は、議論をよびながらも、なされていったほうがいいだろう(まあ、場合によっては無視されたほうがマシということは少なからずあるにはあるだろうが)。
私としては、「同じ文脈を共有しない人にも、慣習上、重要な点を共有できるようにする仕組みづくり」を行っていくしかないと思う。
その仕組みづくりにはいくつかの段階があるだろう。
以上。STEPと書いてあるが、コレ全部やれという話ではない。まあ全部やれたらすごいとは思う。
もっとも、慣習によっては標準化が難しかったり、明文化しないことによってこそ意味をもっているような慣習などもあるだろう。そういうものを取り扱うのは確かに難しいが、すべての慣習が取扱い不可能ということもないだろう。
明文化できる慣習は、明文化して、可能な限りで、コミュニティの外部にいる第三者にも把握可能な形にするというのは、決して無意味なことではないと思う。お互いの不幸な行き違いをなくす基本的な方法だとも思う。
もちろん行き違いをなくすという方法自体を、腐女子コミュニティがいままで模索してこなかったとは思わない。
腐女子コミュニティ内部にいる人達同士ですら、行き違いはあったのだろうし、そのなかでの行き違いをなくすために、R-18タグは付けることで「ひっそりとやってます」ということを暗に伝えるという慣習が成立したのだろうと思う。その慣習の成立はとても重要なことだったと思う。
少なくとも腐女子コミュニティの内部では、この慣習はかなり機能していたはずだ。
そして、今回の事件はその慣習が、実は一般的な著作権法の枠組みと整合的なわけではないということによって起こってしまった。コミュニティが大きくなれば大きくなるほど、考慮すべき文脈の多様性は広がってくるのだから、近年の腐女子コミュニティの拡大とともに、こういった事件が何かしらの形で起こることはありえたことだろうとは思う。
それにもう一点付け加えておけば、私は「【基準B】:法的問題はない。しかし、当事者たちにとってセンシティブなことへの配慮が足りなかったという点で、研究倫理上の問題はある。」という態度だけを強調することは、一見、配慮をうたっているようでいて、そこまで素晴らしい態度というわけでもないと思う。
基本的には、この論理だけを強調せざるを得ないシーンというのは「対話することが難しいほど弱っている人たち」とか「西洋文化基準でもって踏み込むべきでもない人たち」、「複雑すぎる背景をもっているので相手に明文化とかをそこまで期待すべきでもない人たち」に対する場合ではないだろうか。
つまり、言及をする側からの一方的な配慮である。鬱でほんとに今にも死にそうな人とかに対しては確かにそういう形でのコミュニケーションしかできないから、そういう場合は仕方がない。
もちろん、言及をする側は可能な限り配慮すべきだ。しかし、だからといって、言及をする側だけに配慮を要求するというのは、言及される側を馬鹿にした話ではないだろうか。配慮は相互になされてよいと思うし、腐女子の方々は、一方的に配慮されるだけの弱者とかではないと思う。
多くの腐女子のお姉さまがたは、尊敬すべき人々であると思っている。ぜひとも腐女子コミュニティの今後の拡大にあたって、より受け入れられやすいコミュニティの形成をしていっていただければ幸いだと思う。
また、今回はたまたま腐女子のコミュニティと一般法との間の問題であったが、これは見えにくい慣習と一般法の間にズレがあるケースでは、似たような問題は何度も起こるタイプの話だとも思う。ローカルなライセンスのようなものが増えすぎたら、それもそれで面倒だということもあるとは思うが、何もないよりは、だいぶよいだろうとは思う。
「慣習は、法の前には下位の基準でしかない」という話についても簡単に触れておきたい。
基本的には法のほうが重要だとは私も思う。ただし、それは慣習と、法とのガチンコ対決が回避できないという事態が訪れた場合、法が優先するということであって、ガチンコ対決が回避可能な場合や、慣習が公序良俗に反するというわけでもない場合は、別に回避してやってけばいいのではないか、と思っている。
今回、腐女子コミュニティで「引用」に関わるルールが特殊な形で扱われていたが、もし腐女子コミュニティにおける「引用」ルールを、一般社会全体にまで拡大させようという動きにつながることがあるのならば、これは断固ととして反対する。
「引用」の自由は、研究にとって重要という以上に、自由な言論、政治、社会にとって重要なものだ。たとえば、それを政治的な言論(たとえばヘイトスピーチ)をやっている人たちが「引用」ルールの除外適用を求めてきたとしたら、それは素人の文章だったとしても、まったく受け入れられない。「公開した俺の政治的発言を引用しないでくれ」などありえない。それを引用して批判する自由を奪われれば、政治的なことについて公共の場で議論することに多大な支障が出るだろう。
今回の場合は(1)性的プライバシーの問題であるということ(2)腐女子コミュニティの内部で、そのコミュニティに属する人々の合意において特殊な「オープン/クローズ」概念が実効力をもった慣習である、という前提があって、はじめて「それは配慮しましょう」という話がありうるのであって、著作権における「引用」そのものを捻じ曲げるような話であってはならない。
この著作権における「引用」を捻じ曲げていいかどうか、というの話はすべての人にとっての言論の自由の確保という意味で、致命的に重要なポイントである。これを安易に捻じ曲げるような権利主張は極めて危ういとも思う。
STEP3、STEP4とかはアクションの担い手が限られるだろうとは思う。ただ、腐女子コミュニティもだいぶ拡大しているわけなので弁護士、研究者、経営者などの腐女子の方などが行動すれば決して不可能な話でもないのではなかろうか。
腐女子の人たちについて「二次創作やってる人たちはダブスタなんじゃねーの」問題。この件はダブスタとわかってて、恐縮しながらも、言うべきことは言おうという人と、なんもわかってない人が両方いると思う。
後者の人たちについては、わかってくださいね、というしかないと思う。自分たちだけが弱者で被害者という立場でないことは理解してほしいとしか。
#あと、二次創作でも「作者公認系」とかもあるので、全てがアウトというわけでもないだろうが、今回問題になったものがどっちだったかまでは調べていない。まあ、おそ松さんとかは、公式も問題にしないタイプだから、公式との関係では、まあどうといった問題もないのだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20170527202448
流通プラットフォームが変わるごとにちょっとずつ腐界隈の慣習と、
実態との関係性もちょっとずつ変質していっているという話だと思う。
その変化にあわせてぼんやりした慣習だと、運用に失敗しました、というのが今回の話なんだと思う。
オタ界隈は、かなり基盤技術の変化がはやいので、この変化に対応できるような基準が成立しないと、この手のことは何度も起こるのだろうなと思う。
概ねどの記事でもそうだが、「この世は弱肉強食である」とか書くと「適応云々~」だの「人間社会はああだこうだ~」というマウンティングをよく見かける(本人はこれで論破した気になってるのでマウンティングということにしておく)
しかし、現今社会、アベ政治であろうがミンス政治であろうが、そこにあるのは強きものが弱きものを搾取して成立する社会であり、これを弱肉強食と言わないでなんと呼べばよいのか、低偏差値の私にはわからぬ。
そもそもの話、所得層のピラミッドを建てれば少なき富裕層が多き貧困層から回収するシステムで経済システムは出来上がっており、これ自身が既に格差社会や弱肉強食を産まんとする力学が働くだろう。
そうでないとして、これを上流から下流へ流さんとする力は明らかに弱い。なぜか。
企業の内部留保はよく批判されるが、これは言ってしまえば企業の貯金である。
これを切り崩すなり他からなんとかするとして個人に分配するとしよう。個人は消費するだろうか?
消費せず、貯蓄するのは想像に難くない。
結局、法人対個人という枠で、どっちが貯金するんですか、というのが今の働き方改革含めての日本社会の問題なのだ。
では新たな問題だが、バランスのよい(良さは解釈によるが)社会に弱肉強食は成立し得ないのか。
これは世界的な食糧問題とも直結するが、総量の少ない中でバランスを求めてもそこにあるのは全貧困という絶望だけである。
倹しい暮らしなどと綺麗事はいくらでも吐けよう。しかし我々は、我々自身が、資本主義の門弟であり、快楽主義の権化であり、自由主義の体現である。
これを否定して誰が満足しようか。しない。
満足を求めて、争う未来が待っている。
総量を増やさぬ未来に平等な、あるいはそれに近しい幸福などありえない。
では総量を増やすにはどうすればよいのか?
コレを否定するならば、たとえば一極に富を集めるなどして集積することで、見かけ上の平等を実現するのが適当であろう。
国際化が進む日本でも、地方のように、歴史的な遺産の残る原風景も探せばまだまだある。これは韓国や台湾や中国も同様だ。大都会から続く現代都市は、必ずどこかで途切れる。
しかしそういう場所を通ると、必ず別のことにも気づく。それは、本来都市と無縁である地域にもかかわらず、ついこの間まで歴史的に価値のあったような場所が無秩序都市に変貌していることだ。田舎に分譲マンションが建設されていて、本来は学園都市と無縁である地域に大学キャンパスがドカドカ建ち、鉄道や道路は満員状態だ。
東アジアはよく「欧米や東南アジアのように未来志向なだけではなく、歴史もあって田舎もあってバランスが良い」ことを売りにしている。たしかに関西や中部や関東のように、都市の無秩序化対策にとことん取り組みつつ歴史的遺産をきっちり守る場所もある。どうも大都市圏方面ばかりそういう施策はあるのに、田舎のそれを蔑ろにしすぎだと思う。
日本は田舎が都会の何倍以上もあるが、田中角栄政権移行の画一的開発化に伴う開発もあって、もはや「田舎」は残っていない。つまり貴方たちが云う田舎はその地域の片隅にしか残っていない。北関東や東北にも歴史スポットはあるが過去の名残もあっても観光地化に適しているとはいえない。
日本の都市開発はやたら前時代的と言われる。しかし日本において「道路の便利な場所」なら大都市部にもある。例えば札幌と新潟だ。ではそれらを資源として活用しているだろうか?新潟市出身の親父の友人いわく帰省がてら訪問したら悲壮感がただよっててやばかったという話である。文化人はそんな場所で生まれやすい。
オタク文化の担い手の地方出身者の多さは、日本のポップカルチャーというものがいかに社会の暗さを世界に示したように見える。都市や中央の恩恵を受けず、そこで生まれた人間が学と徳を弁え、現地は都市ほど産業が少ないので自営業が多くなり、中には漫画や文学などの作家になってしまう。
こういう系列のクリエイターが首都圏から輩出することは少ない。まして都会の場合、かつて流行していたアングラ漫画とか、社会風刺もののような、どちらかというと現実風刺路線の、文化的な味がやや薄い作品ばかりだ。
私は少年少女漫画・小説の中で東京都市部・神奈川県の地元民が描いた作品がダサくなっていると思っている(あくまでも数字のみで見た考えで、作品ごとの評価は別)。とくに高校生を描いた物は、往年の不良漫画みたいに野暮になっている。同じ関東でも埼玉や北関東のものと比べても悪い意味で飽きやすい。高評価される作品も地方民・地方出身者が書いたものが主流。ギャルやヤンキーのようなダサいものは地方っぽいが、今のサブカル面は違う。
で、なぜ作品のレベルがばらついているというと、やはりそれは地方に行くほど仕事の数が少ないが、時間とお金にゆとりのある人が転入するために、作品作りへのゆとりが生まれやすいからではないか。そういう場所では、ありのままの地元を描くことが難しいが、空想ものの作品を生むにはうってつけの場所だ。
社会風刺と文化的なものが分離されていることが理想であるが、だったらそれがなぜ都会でも出来ないのか。広義の都会人の自分が言うのも説得力ないかもしれないが本当はこういったばらつきはないべきで社会風刺と娯楽ものの区別が明確になければ文化強国は持続しない。
http://izumojiro.hatenablog.com/entry/2017/02/27/194152
なるほど。たしかに今の時代、テレビから取得する情報よりもインターネットで得る情報のほうが価値があるかもしれない。
インターネットは情報の選択可能性を有している。インターネットにおいて、関心のない情報は見なくて済むし、気分を害するような記事やコンテンツも意図的に取り除くことができる。
Twitterを始めとしたSNSも、その強みの本質は情報の効率化だ。
気が合わない人のアカウントはブロックすればいい。馬が合う人とだけ相互フォローの関係を結んだ上で情報を共有する。無駄のない社会、素晴らしい。
では、ここでひとつ。知的好奇心を満たすという前提で、テレビは本当に必要ないのだろうか?
リンク先の記事の担い手は、テレビ無しで生活をした上で実感を語っているだけである。記事の書き手に罪はないので、それを言及するつもりはない。
ただ、教養や知識を蓄えようとするならテレビは必要不可欠なアイテムだと私は思う。
理由としては、テレビの情報にも価値はあるからである。むしろ、近頃はインターネットに掲載された中身の浅い記事やwikiよりも、NHKのドキュメンタリーや放送大学の講義のほうが体系化された智慧として有用性が高いように感じられる。
なぜなら、傾向としてインターネットの知識は皆一様に同じものを選択することになり、情報が共有できてしまう以上、その情報に価値がないからだ。
知人に大学講師が数人いるが、試しに話を聞いてみると、インターネットのニュース記事も読んでいれば、テレビ番組もしきりにチェックしている。もちろん熱心に本も読む。
あくまで私の周りの傾向なので、いやいやそれは違うだろと云う人もいるとは思う。
何はともあれ、私はテレビ不要論にはわりと辟易としている。これは個人の意見なので、どっちが正しいか悪いかという線引をすることがこの記事の目的ではない。
それでも、インターネットのほうが便利だという意見はげんなりするほど耳にする。一昔前よりもテレビの優先度が減ったことだけは確かだが、そこまで必要のないものだとも思えない。
15歳の息子を障害者施設入所中に事故で亡くしたことをめぐり、親が施設を相手取り逸失利益5000万円の賠償を求めているという。
「障害者だからといって差別しないで」という意見で、これは正論である。
しかしその差別の解消と、5000万円の賠償金は、イコールでつながるのか?
ただでさえ障害者施設など福祉施設はかぎられた予算で運営している状況だ。
それにこのようなリスクまでおうことが当然、ということになると、
足りないとされている保育園もそうだ。
リスクのことを考えるとまともな感覚の人は運営なんて考えないだろう。
健常者や障害者というのを問わず、私たちには逸失利益なんて権利を持っているのか?
こんなことでは日本はどんどん苦しくなることはあきらかだ。
男性保育士が女児のおむつ交換をするのは良くない、という話題にて、良くない、という意見を持つ要因とは何か考えた。
そこで、山田昌弘さんの『モテる構造―男の女の社会学』(ちくま新書、2016年、以下本書)の【第7章 ケアは女の役割か―男が触るといやらしい?】(p194-p203)で述べられている、ケアに関する男女の非対称性が関わってくると考えた。
本書は、【男性は人前で泣いてはいけない】をはじめとする性別の「らしさ規範」や女性における【できる女はモテないのか】問題をはじめとする「男女の非対称性」について分析・俯瞰した本である。
第7章は「ケア」における男女について書かれている。
介護従事者や保育士など、人の身体をケアする仕事についている大部分が女性であり、「女性が男性をケアしても許されるが、男性が女性をケアすることには心理的抵抗が伴う」という男女の非対称性が見られると書かれている。
次に、介護における性別の抵抗感に関する調査では、「男性から見た抵抗感:婿・嫁が最も高く、女性から見た抵抗感:"息子>娘"・"婿>嫁"・"若い男性介護士>若い女性介護士"・"中年男性の介護士>中年女性の介護士"」という結果になったことが書かれている(p.198【図表7-4 介護における性別の抵抗感】より一部抜粋)。よって、看護という多少専門的な分野であっても、男性であっても女性看護師の方が好まれ、女性の場合は、男性看護師は避けたい対象なのであるということが書かれている。
そして、「ケア」労働が本来持つ性格として、ケアが相手の気持ちを考えながら行う労働であること、そして、ケアは体に働きかけ相手を気持ちよくさせる労働であることから、前者が、ケアの担い手として女性がより好まれる理由であり、後者がケアの担い手として男性が避けられる理由なのであるとされている。そうして、二重のジェンダーにおける差異があるために、家庭内でも、家庭外でもケアの担い手が女性になりやすい理由なのであるともされている。
続いて、ケアの身体性に関連して、ケアは相手を身体的、精神的に気持ちよくさせる行動なのであり、言葉にしてしまえば、性的コミュニケーションと同じ意味を持っているため、身体的ケア行動は性行為を連想させてしまうという。よって、ケアでは、配偶者や恋人以外の家族や他人に裸を見られる恥ずかしさを減少させ、性行為を連想させないことがケアの現場では重要であり、女性がケアした方が、性行為が連想しにくいのであるという。しかし、父親が子どもの世話をするのが一般的ではなく、同性の間に親密関係がなかなか築けない文化であることを一因となって、男性はそうはいかないという。その上、性行為においては、男性が主導権を握るイメージが定着していることから、男性が、優しい手つきでにこにこしながら、女性を触って気持ちよくさせるということは、どうしても性行為を連想させてしまう、だからといって、男性がケアに向かないことや女性がケアして当然であることをを導きたいわけではなく、男性がケア労働に進出するためには、「恥ずかしさ」という感情を何らかの形で克服する必要があると結んでいる。
これらを踏まえて、男性保育士が女児のおむつ交換をするのは良くない、というのは、自分達が「ケアされる」時がやって来た際に「男性ではなく女性にケアしてほしい」と潜在的にあるいは無意識的に思うことや父親が世話することの延長として捉えられていないこと等に由来するのではないかと考えた。
クリエイトが以外でもそうだ
このとき、文化5を作るにあたって、最初の世代は他の文化を経験した人たちなわけだ
なので彼らは文化5で色々工夫するし、改善するし、文化5の良い面と悪い面を、他の文化との差分として知っている
インプリンティングされた常識が非常に枷になって、宗教じみてくる
それも当たり前で、彼らは文化5が好きだから文化5の担い手になるのだ
そこを変えようだなんて人は滅多に居ないだろう
第三世代の誰かが何かを変えようとした時、承認を求める先が第二世代になる
第二世代は答えを持っていないので、第三世代の改革を阻止することしか考えない
するとポスト第四世代は「古い体質で、変わろうとしない文化」という認識を持つ
ごく狭い領域で生き残ったり、彼らに権力が生じると延々とゾンビのように生き残ることになる
最近千代田線のホームにある行き先表示器が新しいものに交換されたんだけど、これがあまりにひどすぎて毎日本当に困っている。どうにかして欲しい。
コレ>http://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20160803_64-2.pdf
【ひどい点】
・これまでの行き先表示器より行き先を示す文字サイズが格段に小さくなって、遠くからでは全く読めなくなった。行き先表示器として致命的。
・表示器内に情報を詰め込みすぎて、何が何やらさっぱりわからない。これまでは基本的に「先発列車の時刻」「先発列車の行き先」「次発列車の時刻」「次発列車の行き先」の4つの要素しか表示されていなかったのが、新しい表示器ではこれらの要素に加えて「先発・次発の表示」「行き先のひらがな表示」「先発と次発の駅ナンバリング表示」「電車の現在位置」「お知らせの文字スクロール」が常に同じ画面上に表示されるようになった。基本4種類しか表示されていなかったのが常時11種類の表示になったわけで、情報が溢れすぎていてぱっと見の視認性が悪すぎる。
・さらに、上記の要素一つ一つを何故か角丸の枠で囲っているデザインにしてあるせいで、一つ一つの文字がより小さくなっていて非常に見辛い。
・これまでは文字自体がLEDで発光していたので見やすかったが、液晶画面になって文字が背景に埋もれて見辛くなった。枠の色や背景色もメトロの紺色をベースにしていて見辛い。なぜ見やすさより自社のテーマカラーを優先するのか理解に苦しむ。
オリンピックを見据えた多国語対応ということでこの表示器が導入されたみたいだけど、大多数の日本人利用者からすると以前のものよりはるかに見辛くなったように思う。1日何百万人もの目に触れるものをこんな見辛いものに変更するなんて正気の沙汰とは思えない。東京メトロは導入にあたってきちんとモニター調査なりを行なったのだろうか。
営団地下鉄のサインが導入された時は、大手町駅で長い時間かけてチェックと改善を行なった後に全駅に展開したというのをどこかで読んだことがある。一方、今回の表示器は2019年までに一気に全駅で取り替えを行うとのことだ。この差は一体なんなのだろう。公共交通の担い手としてはあまりに仕事が杜撰だと思う。はっきり言ってオリンピックのロゴなんかよりはるかに影響力のでかいデザインの話だと思うんだけど、どうにかならないもんだろうか。
そうだと思うよ。あまりにうるさく言われるものだから、認識がずれちゃってるんだな。
そもそも、少子化の原因は結婚数が減ったからで、それは無理に結婚しなくてもよくなったからだ。
女が社会進出すれば男に頼らず生きていける。男だって独身で不都合がなければ女を食わせる必要はない。
もし、少子化が絶対悪で、他の何を犠牲にしてでも解決すべき問題なら、簡単な話だ。
今すぐ女の雇用を引っぺがして、男にも圧力をかけて、結婚が当たり前だった時代に戻してやればいい。
もちろん、こんなのは現実的ではない。主張する人がいないわけじゃないが、広く支持を得るのは無理だ。
つまり、少子化対策の優先度は現状、あくまで個人の自由より低いものでしかない。
ずいぶん前にどこぞのイタリア人が言ってたが、それは少子化のせいにしておけば楽だからだろう。
内需が先細りして景気に悪影響があるだの、企業が傾くだの、大学が潰れるだの、
介護の担い手がいなくなるだの、いろんな問題をひとっところにまとめてしまえる。
そりゃ、少子化がそれらにいい影響を与えることはないだろう。
しかし、もっと大きな要素がある。不景気になったのは金融政策が適切でなかったからだ。
メーカーが傾いたのも少子化以前の問題で、海外メーカーと大して変わらん品質の割に、
介護が人不足なのは責任の割に収入が低いからで、それは元々無償労働だった時代を引きずってるからだ。
大学にしても、4年も通ってまともな就職先がないなら、潰れたってしょうがないだろ。
けど、それを回避するために、果たして何をしたらよかったのかはわからない。
何より、これからどう解決すればいいのかについても、意見がバラバラだ。
そんな時でも、とにかく少子化が悪い、今の若い世代が子供を産まないせいだーって言っときゃ、
とりあえず一致団結できるわけだ。
気休めなんだよ。要するにね。
労働力の担い手としての経済的価値や能力で人間を序列化する社会。そこでは、重度の障害者の生存は軽視され、究極的には否定されてしまいかねない。
障害者が軽視されるんじゃなくて、「健常者のくせに障害者よりも活躍できないゴミ」が軽視される世の中になるんですよね。
誰もあなたやホーキングやベートーヴェンをバカにしません。「きっと何者にもなれないお前たち」には、ためらわず罵倒します。クズだから。
しかし、これは障害者に対してだけのことではないだろう。生産性や労働能力に基づく人間の価値の序列化、人の存在意義を軽視・否定する論理・メカニズムは、徐々に拡大し、最終的には大多数の人を覆い尽くすに違いない。
こういう主張をする人間は概して「いずれ対象が広がりお前にも振りかかる」という論調をするが、そういう語り方でしか相手を説得できないなら、寛容な社会は滅ぶよ。序列化は合理的に、ロジックでなされるが、所詮誰かの感情にしか語るものがないなら、それは議論の俎上にも上がらず、事前に排除される。
こういう教授が東大にいるってのが、素晴らしいね。権力を持った障害者だという自覚がないんだろう。権力を持たない健常者は、あなたより劣るんですよ。明確にね。
なんでそうなるのやら。ポジショントークだというのはわかるけど、雑な声明過ぎて、微妙。
その程度の主張では人の心に届かぬ。底辺の健常者には響かぬ。
近頃増田で流行りのセックスレスについて、ホルモンとか子育ての負担とかいうのを無視して考えたら、
この仮説に行き着いてしまった。
最近は夫婦共稼ぎの家庭が増えたが、そうはいっても、夫婦両方がフルタイムという例は限られており、
家計は妻が管理し、夫は一定の額を渡されて、基本的に自分のものだけを買うというシステムになっている。
恋愛において、食事をおごったり、プレゼントを渡したりというのが関係の構築や維持に機能するのは、
他人の財布だからうれしいのであって、自分の財布から出たら、単なる無駄遣いだ。
こう言うと、セックスの対価みたいに聞こえてしまってアレだが、とにかくそういうことだ。
小遣い制の下では、男はパートナーのために身銭を切るという機会を奪われているといえる。
新宿がどうだ、原宿がどうだという、街単位での文化を語る人をネットでよく見かける。
どこに行ってもそんなに違うように思えない。
街なんて、それぞれ独立した施設が偶然近くに並んでいるだけのものだ、と思う。
自分は鉄道も通ってない山の中で育ち、ずっと引きこもってネットばっかりしていた。
ネットがあればどこにいようが変わらず、ニッチな情報もニッチな商品もなんでも手に入る、という感覚がある。世界は一つだ。
いまどき、住む場所によって文化レベルなんて変わらない。個人差の方がずっと大きい。
インターネットで何かの文化に触れて、それに興味を持つようになったら、誰でも文化の担い手だ。
都会に暮らしている今でも同じように考えている。
住む場所によって変わることがあるとしたら、特別な施設が必要なことをしたい場合だ。例えば劇場なんかは田舎にはないかもしれない。
ただ、そのような特別な施設では、個々に全く別々の用途があり、施設単体で十分思い入れを持てる。それらを街単位でくくる意義を見出せない。
○朝食:なし
○夕食:袋麺、パン四つ(カスタード、クロワッサン、明太チーズポテト、ソーセージとタマネギ)
○調子
むきゅー?
偉い人たちが出張アンド早めのゴールデンウィーク休暇で軒並み居なくなり、
僕が一番古株でかつ、一番仕様を理解していないといけない立場、という絶妙なポジションになってしまった。
そのせいでメンバの、水曜日、木曜日、来週の月曜日、金曜日の四日間のスケジュールを組むお仕事をした。
まあ、とりあえず水曜日と木曜日は単純作業を振って、そのうちに僕が色々準備をして……
と段取りを立てつつ、自分自身に振られてる作業をこなすのはどう考えても無理そうだったので、
自分に振られてる作業をバラして、適度にメンバに振れるようにして、となんか普段使わない頭の部位を使って、滅茶苦茶疲れた。
っていうか、作業工数の見積もりってどうやってすんの!? ってかなりテンパって、仕方ないから一つ自分で実際にやってみて時間計ったりしてた。
○ゴールデンウィークの予定
金、土、日。
火、水、木。
土、日。
と飛び石な感じ。
とりあえず、最初の三連休は、パンチラインとEVEのリメイクと新作ゲームをやることにして、
次の三連休は、ずーーーっと積みっぱなしの「吹雪の山荘」っていうリレー小説があって、