はてなキーワード: 親密関係とは
プライドが高く、人を見下す夫が嫌い。
他責思考の夫が嫌い。
都合の悪いことからすぐ逃げる夫が嫌い。
嘘を平気でつく夫が嫌い。
外面だけは良い夫が嫌い。
酒癖の悪い夫が憎い。
泥酔して所持品を全部無くした事に苦言を呈すと「虫けらを見るような目で見た!ばかにしやがって!」と言い出す夫が憎い。
泥酔して家で暴れて手に負えず警察を呼ぶ事態になり、さすがに反省して断酒を約束したので関係を続け子どももできたのに、隠れて酒を飲んでいた夫が憎い。
頻繁に残業と嘘をつき酒を飲んだりパチンコをして、その分の給料が増えてないとあやしまれるからと借金して補填していた夫が憎い。
残業だと疑わず、遅くなった日も毎日できたてのご飯を出していた私に嘘をついて平気だった夫が憎い。
酒の件も借金の件も、出産直後にカミングアウトしてきた夫が憎い。
カミングアウトしてきた上で「自分らしく生きたいから離婚をしたい」と言ってきた夫が憎い。
紆余曲折ありその後家族としてまた頑張りたいと言ってきたのに、会社の後輩女性と親密関係だった夫が憎い。
家族円満な時も後輩女性に「離婚話は順調に進んでるから安心して」と言っていた夫が憎い。
不貞を頑なに認めない夫が憎い。
「不貞はないが、やり取りを見られた以上一緒にいられないから離婚しかない」とかぬかす夫が憎い。
本当に憎くて仕方がないから、お前の思い通りのタイミングで望み通りに離婚なんてしてあげない。
男性保育士が女児のおむつ交換をするのは良くない、という話題にて、良くない、という意見を持つ要因とは何か考えた。
そこで、山田昌弘さんの『モテる構造―男の女の社会学』(ちくま新書、2016年、以下本書)の【第7章 ケアは女の役割か―男が触るといやらしい?】(p194-p203)で述べられている、ケアに関する男女の非対称性が関わってくると考えた。
本書は、【男性は人前で泣いてはいけない】をはじめとする性別の「らしさ規範」や女性における【できる女はモテないのか】問題をはじめとする「男女の非対称性」について分析・俯瞰した本である。
第7章は「ケア」における男女について書かれている。
介護従事者や保育士など、人の身体をケアする仕事についている大部分が女性であり、「女性が男性をケアしても許されるが、男性が女性をケアすることには心理的抵抗が伴う」という男女の非対称性が見られると書かれている。
次に、介護における性別の抵抗感に関する調査では、「男性から見た抵抗感:婿・嫁が最も高く、女性から見た抵抗感:"息子>娘"・"婿>嫁"・"若い男性介護士>若い女性介護士"・"中年男性の介護士>中年女性の介護士"」という結果になったことが書かれている(p.198【図表7-4 介護における性別の抵抗感】より一部抜粋)。よって、看護という多少専門的な分野であっても、男性であっても女性看護師の方が好まれ、女性の場合は、男性看護師は避けたい対象なのであるということが書かれている。
そして、「ケア」労働が本来持つ性格として、ケアが相手の気持ちを考えながら行う労働であること、そして、ケアは体に働きかけ相手を気持ちよくさせる労働であることから、前者が、ケアの担い手として女性がより好まれる理由であり、後者がケアの担い手として男性が避けられる理由なのであるとされている。そうして、二重のジェンダーにおける差異があるために、家庭内でも、家庭外でもケアの担い手が女性になりやすい理由なのであるともされている。
続いて、ケアの身体性に関連して、ケアは相手を身体的、精神的に気持ちよくさせる行動なのであり、言葉にしてしまえば、性的コミュニケーションと同じ意味を持っているため、身体的ケア行動は性行為を連想させてしまうという。よって、ケアでは、配偶者や恋人以外の家族や他人に裸を見られる恥ずかしさを減少させ、性行為を連想させないことがケアの現場では重要であり、女性がケアした方が、性行為が連想しにくいのであるという。しかし、父親が子どもの世話をするのが一般的ではなく、同性の間に親密関係がなかなか築けない文化であることを一因となって、男性はそうはいかないという。その上、性行為においては、男性が主導権を握るイメージが定着していることから、男性が、優しい手つきでにこにこしながら、女性を触って気持ちよくさせるということは、どうしても性行為を連想させてしまう、だからといって、男性がケアに向かないことや女性がケアして当然であることをを導きたいわけではなく、男性がケア労働に進出するためには、「恥ずかしさ」という感情を何らかの形で克服する必要があると結んでいる。
これらを踏まえて、男性保育士が女児のおむつ交換をするのは良くない、というのは、自分達が「ケアされる」時がやって来た際に「男性ではなく女性にケアしてほしい」と潜在的にあるいは無意識的に思うことや父親が世話することの延長として捉えられていないこと等に由来するのではないかと考えた。