はてなキーワード: リスペクトとは
脳がアップデートされてる人って、
父親も母親も育児なんてしなくて良くて全部保育園丸投げで当然、保育士はそれに文句つけず安月給で死ぬほど働け、って考えの人?
それに同意しない奴はOSが古いと言われるのなら、古いOSでいいわ。
育児真理教というか、「育児の最終的な責任者は保育士でも教師でも国でもなく親である」って事すら否定する人多いよね。
保育園が育児全部やってくれない、小学校はもっと育児やってくれない、何でやってくれないの?って人ばかり。
んでいやお前がやれよ、と言われると何で私がやらなきゃいけないの!って発狂。
親なんだからやらなきゃいけないの当たり前だろ、やりたくないなら税金を頼るのではなく正当な対価を自腹で払って他人に頼むべきだし、
その他人に対するリスペクトも忘れちゃいけないだろ、ってのは「古い考え」らしい。
育児は保育士なり教師やり国なりがやるもので、自分は本来やらなくていい、金も出さなくて良くて税金でやるべきもの、
本来はそれが正しいのに現状は間違ってる、と思ってるんだよな。彼ら。
子供は全部親から引き離して施設で育てればいい、ってのと変わらんよな。
いや親としての権利とか、自分が気が向いた時に気が向いた育児だけはやる権利は欲しがるんだから、それ以下か。
子供を児童福祉施設にぶち込んで、でも親権は放棄しないで、子供が大きくなって働ける歳になると働かせて給料奪う為に引き取る糞親って多いらしいけど
さて少し出遅れた話題になってしまうが、デレステの月末ガチャについての話題
とうとう4周目のSSRが実装され始めたことは既に話題になっている
納得いかないPも沢山いるようだが限定に関してはもはややむを得ない部分はあるように思ってる
「プラチナスカウトチケット」が登場した以上、1年以上前の限定アイドルは5000円払えば年三回確実に
ゲットできる状況になったが故に、トップクラスに人気のあるアイドルは1年サイクルで限定を出さなければ
利益を上げることが出来なくなった以上必然と言わざるを得なくなったからである
今回私が話題にするのは限定SSRではなく限定SRになった」アイドルの方である
もしかしたら人によっては偉く身勝手なことを言っているかもしれないためそのことを踏まえたうえで
私は和久井留美のPであり昨年のキャラバンからやがて来るであろう和久井留美のSSRのために
(丁度そのあたりから恒常SSRにボイス未実装で非ランカーのアイドルが実装され始めた)
血と汗を流してジュエルを貯めていた
一時期端末がついてこれずにプレイが音飛びだらけでできなかった時でさえログインだけはして
ログボだけは稼ぐようにしていた
声付きの恒常二周目や9月の恒常全員声付きアイドルといった逆境にもめげず黙々とジュエルを貯めまくった
コミュ4がきていないキャラがSSRになりやすいという不確定情報のみを信じて
そして今回まさかの恒常SSRではなく限定SR(それも既存絵という手抜き)という形で訪れたのである
ここ半年くらいは限定SRも声付きアイドルだっただけに完全に裏をかかれた感はあった
同じ和久井留美Pは手放しに喜んでたため水を差すようで申し訳ないが、とても私は喜ぶ気になんてなれなかった
今このタイミングでSRが来たということは次回の総選挙(4月)までにSSRがくるのはほぼ絶望的になったからである
ただでさえ選挙がデレステと合同になったことでボイス未実装のアイドルが50番以内に入るのが狭き門になった状況下で
「デレステのみのユーザーに最低限の認知をさせるために必要不可欠なSSR」がなければもはや死刑宣告を受けたも同然だからである
もちろんSSRだけが全てではないだろうし選挙は来年で終わることもないだろうとは思うがミリシタが出来た後にグリマスのサービスが
終了した経緯を考えるとモバマスの方のサービスがあとどのくらい続くかといった問題が発生してくる(もし総選挙がデレステオンリーになった場合
運営がガチャブ等で力添えをしたアイドル以外のボイス未実装が勝ち上がるのは完全に不可能になるだろう)
そうすると多くの全圏外ボイス未実装の担当Pにとっては来年ランクインできるかどうかというのはその後の展開も踏まえたうえで
色々と死活問題になってくることは言うまでもないわけで
とはいえ他の担当Pからしてみたら「いくら一部に熱狂的なPがいるとはいえ所詮は総選挙全圏外が何を贅沢言ってやがるんだ」とか
「うちの担当アイドルなんてSR1枚しかないのにふざけんな」って思う人も居るかもしれない
少し上で書いた通り「SSRが次の総選挙までに来なければその後の展開踏まえて厄介なことになる」のは和久井留美だけではないわけだから
しかしながら以前は「総選挙50位未満」の内訳は解らなかったが、今はpixivの投稿数や同人本の数あるいはキャラソートの結果やデレステの
「担当の称号」を名乗っている人の数等で全圏外の中でも大体の人気順は把握できる
(例えば、pixiv一つとったって、調べたところ全圏外、SSR未実装の中で投稿数1000超えてるのは10月3日現在和久井留美のみ
勿論pixivだけが人気の指標ではないだろうが、これではあまりにも居たたまれない)
何より運営が「無料ガチャ終了」「ヘイト上等での4周目突入限定」のこのタイミングで限定SRに抜擢したということは
「和久井留美にある程度以上の引きがある」と認めているようなものだから尚更納得のいくものではない(最悪、和久井Pの強みである
結局何が言いたいのかというと和久井留美のSSRが実装されないことについて運営側から「引きがない」と思ってるのなら、自分の考えは
皆様が思ってるように「分不相応の贅沢」に相当するのはいうまでもなく、こちら側としても諦めがつくし「今後も頑張ってアピールしてこう」
という気にだってなる。しかしながら「一定の引きがある」と運営が認知したうえで冷遇してるわけだから諦めがつかないのである
(その上で和久井留美のコミュ4が「努力が報われた~」的な内容だからさらに茶化されてるように思えてならない)
これでは(一定の需要を認めた上で)デレステ運営が和久井留美を露骨に嫌っているかあるいはSSRを実装したことで和久井留美が人気が出たら
今後の運営の計画の中で何かしらの不都合が生じるかのどちらかとしか思えない(被害妄想と思われるかもしれないがそれならそれで
運営に問い合わせたら相応に納得のいく返答は返ってくると思うので問い合わせてみようと思ってる)
そしてもう一つ、運営の問い合わせにそれと同時に「もし次もデレステと同時開催するのなら、次回以降の総選挙は1位から183位まで
誰に何票入ったのかをきっちり公表してほしい」というのを要望しようと思ってる
以前は「下位のアイドルの名誉のため」伏せていたと思われるが、今となってはこれは建前としか思えずもしかしたら運営が
「51位以下を伏せておいたほうが誰を50番以内にするかである程度都合いいように誘導できる」ように思えてならないからだ。
また、自分の担当含むボイス未実装の担当アイドルの立場からしたって今自分の担当アイドルがのど位置に居るか分かったほうが、
今後の目標が立てやすくなるだろうし、ここまで来て自分の担当が思ってた以上に不人気だからといった理由で担当降りるなんて人は
もはやほとんどいないだろう
上記に書いた通りランキングには出なくても別の指標をすり合わせたら大体の位置は把握できるし何よりこれだけ長い間声がつかなかった
不遇に耐えてきた人たちに今さら「不人気」程度で担当Pを辞めるような薄っぺらい人間なんて居ないように思うからだ
今回の一件で「担当Pとは何なのか?」ということについても色々考える機会も出来た
「運営のやり方に無条件で従って担当アイドルの出番があればほめちぎる」本来それに越したことはないわけだし、
真っ当な愛し方でありそして模範的なプロデュースの仕方だと思うから
しかし悲しいかな、時として運営のやり方に納得できずに今回の私のように解釈違い等も含めて「物言い」を
付ける人だってところどころで出てくると思うし実際ここ最近を振り返ってもケースは違えど何件か発生したことは確かである
ただその「物言い」を付けた人たちだって形こそ違えど「担当アイドルを愛している」からこそ納得いかないことについて
自分の立場が不利になること上等できっちり物申してるわけでその人たちを「P失格」「同担として恥ずかしい」と
担当を愛し「デレステというコンテンツ」をよりよいものにしたいからこそ出てくることだってあるわけだし
担当である前に1ユーザーであるわけだから(プロデュースしてお金をもらってるわけでない以上そこだけは
きっちり分別付けとく必要はある)、傍から見て多少のわがままな意見だったとしても、他の担当Pや
その担当アイドルをあからさまに傷つけるような発言でない限り許容するくらいの気持ちをもつことが、
結局は他の担当アイドルをリスペクトする気持ちにだってつながるように思ってる
実際彼女を追っかけてる人の多くは、むしろ萌えオタクに媚びず自分の好みを押し通す姿勢や大物相手でも物怖じしない態度にリスペクトを感じて惹き込まれる。
それくらい強い思想性とバランス感覚をもったキャラクターだよ。
今どきの女子が嫌悪感を抱かない程度の露出やビジュアルテイストが計算しつくされているのもある。
バーチャルの内輪で群れるよりはリアル世界の人間とつながってグローバルに露出していこうという意識高めの方向性もVtuberの中では異質。
中の人の思慮深さとコミュ力は異様に高い一方で、愛嬌あるポンコツキャラとAI設定の徹底ぶりにプロ意識も感じられる。
そういった諸要素を鑑みると、ある意味ラブライブがウケた構造と似てるように個人的には思うね。
だから女性にもファン層が結構いる。女性にも慕われ尊敬されるタイプ。ファンイベントでも確認済み。
Vtuberで萌えオタク方面の性的消費カルチャーに迎合したキャラとして見せようとしてるのは、どっちかというとシロとかミライアカリあたりで、
https://anond.hatelabo.jp/20180930210657
観戦していたものです。
このような厳しい環境の増田で、あなた方の論戦は例外的に上手くいった方だと思われます。過去の議論の多くは大抵は数レスで空中分解してしまいました。今回の稀な成果はギリギリの緊張のなかでもお互いへのリスペクトを保ち続けた甲斐があってのことでしょう。二人とも本当におつかれさまでした。
ハリポタのスピンオフ?シリーズの新作で、ヴォルデモート卿の愛蛇、ナギニが、アジア系女性が呪いによって姿を変えられたものであったことが判明
↓
ハリポタワールドではアジア系の存在感は薄い。やっとアジアが出てきたと思ったら極悪人の奴隷役!と炎上
↓
作者のJKR「ナギニという名前はインドネシアの神話(注:インドと間違ったと思われる)に出てくる半身蛇半身人間の神様から取った。アジア系女優が演じるのは妥当。良い一日を」
↓
・これはオリエンタリズムだ!
・アジアは東アジア、南アジア、いろいろあるんだよ!ひとまとめにすんな。インドネシア神話からとったなら南アジア人でないとおかしいだろ!なんで韓国系女優?
・インドネシアではなくインド神話では?元ネタのナーガは邪神ではなく良い神様なのにナギニのような極悪キャラにするのもおかしい!文化へのリスペクトがない!
という感じ
undertale のキャラデザやゲーム性が気にくわないとか、VA-11 Hall-A は話が中々面白いとか、そう言う細かい話ではない。
とにかく、あの「懐かしく優しいドット絵の世界」みたいな表現に反吐が出るのだ。
あの水準のドット絵、ファミコンの末期~SFCくらいの解像度のあれは、懐かしい・手触りのある・人間的な・暖かみのある技術なんかじゃない。
あれは、当時最新の技術を駆使した美麗なコンピュータグラフィックスに他ならず、プレーヤーである我々はあの映像の先に、マジカントの不思議な風景や恐ろしい幽霊屋敷の内装、ネオ・コーベシティの猥雑な町並みを見ていたのだ。
その表現を押し広げ、美しく「リアル」で目を見張るグラフィックを実現するために、先人達がどれだけの情熱を傾けていたか。
その結果描かれたのは、現在から見れば陳腐で安っぽいドットの集積に他ならないが、当時の我々はそのキャラクターの大きさ(一定以上のキャラクターを破綻無く描ける事がどんなに凄いことだったかを憶えているだろうか?)に、色数の多さに、わずかにアニメーションする背景に目を見張ったのだ。
それがなんだ。容量も演算能力もメモリも当時とは比べものにはならない現在に、当時の制約の結果をまるで意図的な・意味のある表現であるかのように再現というかコピーし、わざわざ読みにくいガタガタのフォントや何が描いてあるか解らない自室の絵を出し、あまつさえリスペクトなどとほざく。リスペクトというなら、当時制作者が描きたくても描けず、プレーヤーが見たいと思っても見れなかった地平を見せてくれ。
ウルフェンシュタインから最新のあれやそれまで、FPSは見事なまでに進化している。和製RPGやテキストアドヴェンチャーが立ち止まってしまったのは、景気後退や少子化や諸々の影響であって、衣鉢を継ぐならその先を見せてくれ。
そして繰り返すが、我々が熱狂した「美しい」、「緻密な」、「リアルな」、「まるで映画のような」、グラフィックや表現を、「暖かみがある」・「現在の綺麗すぎるCGでは失われた」等と言って侮辱するのはやめろ!
俺達の愛した文化は、最新鋭のデジタルアートだったのだ。てめえ等の似非懐古趣味のオナニーツールじゃねえ。
クソくらえだ。
お爺さんだったわけじゃないのに思い出話が大昔の話ばっかし。
というのも全盛期が10年以上前に終わってる人なんだよね。
指導はやってたけど完全に切り替えるんじゃなくて
選手生命をきちんと終わらせることができずに最後までいった感じ。
なんかあの格闘技ブーム時代のスターってそういう人が多いよね。
五味やらマッハやらがまだやってる(そんなにいいポジションでも無いのに)っていうのがびっくりするもん。
なんかなんとも言えないけど、興行のダメダメさのせいで日本の格闘技ブームが滅びたのはいろんな人の人生狂わせたよね。
基本的に自分は「ポルノとしての性的消費」と「芸術表現としての性描写」には質的に差異があるという立場を取っている。
ラノベやBLなどのポルノは対象の人格をリスペクトするだけのものがなく、都合のいい世界の中でお人形遊びしている(そこに暴力性、差別性などがある)。芸術表現として許容される性描写は深い人間理解と同時に理解不十分というせめぎ合いの中で生まれる(個々人の人格のアンビヴァレンツ、曖昧さ、捉えきれない無限性。もちろん古典では雑な性描写もあるが、今回は女性の人権が拡大した現代の話)。
ラノベやBLによくある都合のいい男性描写女性描写自体が他者の尊厳に対する暴力であり(テンプレキャラクター化とでもいうか)、それを象徴するかのような下手で誇張された表紙は刺激の強いグロテスクな表現だ。ただし、これはポルノ商品に限らず通俗的な「物語」全般に常に含まれる問題でもある。今回ラノベやBLが取り上げられているのは、ポルノ商品はこういった暴力がより際立ちやすいという性質を持っているため。行き過ぎたポルノ商品は芸術表現としては到底擁護不可能であり、全年齢向けで平積みするのは不適切だと考え、適切なゾーニングを求める。
ポルノ商品も社会には需要があるので表現や出版自体を規制することは権力の暴走でもあり絶対に許されるものではない。しかし行き過ぎた暴力を自由として認めることは同時に他の誰かの自由を侵害することにもなり、そこに闘争状態が生じる。だから適切なゾーニングをして被害を受ける人の数を減らすよう努力し、穏やかに棲み分けられるようにしようという話をしている。ゾーニングされてもポルノ商品を求める人は問題なく購入できるし、同時にポルノ商品を求めない人たちはポルノ商品によって無差別な暴力を受けることをゾーニングによって回避することができる。デメリットは購入者にほんの一手間余計な手続き(のれんをくぐるなど)を要求するということがある。想像力の豊かな人はゾーニングが表現規制の引き金になってしまうと危惧するが、それは権力を監視することによって回避するしかないだろう(そういった監視が面倒だという議論はあってもいいが、個人的にはまったく感心しない)。
また、「ポルノとしての性的消費」と「芸術表現としての性描写」を明確に区別することが困難であるという議論はあるだろう。まず間違いなくパラドックスが生じる。完全な境界線を引くことはできない。グレーゾーンは常にある。しかし完全な区別ができないからといって、不完全な区別まで不可能というわけではない。その辺りは政治の問題になってくる。全か無かの話ではなく、程度問題になる。だから冷静で建設的な議論が必要だ。
オタクが「こいつ話にならないな」と思うのは勝手だが、こういう考えの人間もいるということだし、社会の一員として生きて行くということは、こういう考えの人間とも折りあっていかなければならないということだ。フェミニストの言い分が100%通ることもないだろうし、オタクの言い分が100%通ることもないだろう。完全に論破して終わりではなく、妥協点をどこに見つけるかという議論が必要だと思われる。
昨日のツイッターでスーツアクターを巡るツイートがよくRTで流れて来た。
(参考:https://togetter.com/li/1265833)
この話の流れは
日テレ朝のワイド番組でジャニーズのタレントがスーツアクターに弟子入りして修行。
上手い事演じられたのか、感極まってヘルメットを脱いでしまった模様を放送したところに特撮ヒーローに造詣がある視聴者がスーツアクターに対するリスペクトが皆無だと批判。
スーツアクターが台本にないにも関わらず自らヘルメットを脱ぐのは、見ている子供の夢を壊す行為であり言語道断だ
感極まってしまった上での行為で、かつスーツアクターとしての心得をタレントが把握していなかったのではないか。もしくはその模様を放送した日テレの責任である
個人的にはいわゆる特撮ヒーローやゆるキャラに「中の人などいないルール」はある程度理解は示せるものの、結局は「中の人はいるものだ」と言う意識で見ている。
また、タレントとしても多忙な中で長期に渡って修行した結果の達成感での行為なら分からなくもないが、スーツアクターが何者かと言うところへの想像力が欠如していた故の行為とも取れる。
さて。この二つの対立構造をややこしくしているのが「罵声」だと思っている。
特撮側は「スーツアクターに微塵の理解の無いジャニタレ」と「世の中ジャニーズ無罪がまかり通ると思っているファン」と言い放ち
タレント側は、よく分からないけど気味の悪いオタクがわめき散らし、タレントを批判していて気分が悪い、としている。
もちろん互いに理解のある意見も散見されるものの、特に画像や短いツイートで罵る類のものには相手を理解しようとする意思は皆無だ。とにかく相手側を罵声で殴り倒し続け、相手が黙れば「論破」でこちら側の勝ち、と言う無益な戦いが繰り広げられている。
もはやSNSでの「炎上」は劣情や差別意識の塊にまみれ見るに堪えないものばかりで、日本の学校教育において議論を学ぶ機会が希薄だった結果がこれらから滲み出ているのでは、とさえ思える。
「「Kimonoは『人種差別主義』『帝国主義』」芸術イベントで理不尽な日本批判 https://www.sankei.com/west/news/180905/wst1809050009-n1.html
読めばすぐ分かることだが、ライターの方はボストン美術館に寄せられた批判に対しておっそろしく頓珍漢な反論を行っている。
事件は当時有名になったから、ご存じの方も多いと思うが、教科書なんかにも載ってるモネの「ラ・ジャポネーズ」の絵の前で着物を着せるイベントを企画したら、アジア系の人からクレームがきた、というものだ。これは、当時大変盛んだった Cultural appropriation(文化の盗用/文化簒奪)やという視点に基づく批判の典型である。つまり、「弱者であったアジアの文化を、強者だった西欧人が真似して楽しむ、というのは、西欧がアジアから簒奪してきた歴史への反省や異文化に対する敬意を欠いた尊大な振る舞いである」という主張だ。日本でも、近年ようやく「ステレオタイプな異文化理解やその模倣が、異文化に対する敬意を欠いた失礼な振る舞いになる」ということにいくらかコンセンサスが生まれつつあるが、自国内で異文化と日常的にふれあう経験が少ないせいか、これを重要な問題と理解することがなかなか日本人には難しいようだ。
個人的に、この「文化の盗用」論に100%賛同するわけではない。特に、あまりにも過敏な反応は、逆に内なる差別性の表明、あるいは強者の驕りではないかと思う場合すらある。少なくとも、モネの絵の前でその真似をしたくらいで目をつり上げるほど怒る必要はないと思う。それは、「真似をする」行為がリスペクトを意味しもするという風に感じられるからだ。
しかしながら、「相手の真似をする」という行為は、一方で相手を侮蔑したり揶揄したりするときにも行われることも考えておくべきだ。大人しく着物を羽織ってる程度ならまだしも、そのまま椅子に腰掛けたら? その程度なら問題ないだろうか。では、たとえば撮影した写真に滑稽なタイトルを付けてSNSにアップすることは? あるいは、その着物を羽織ったままわざわざ眼鏡をかけ首からカメラをぶら下げる真似をしだしたら? どの時点からそれは「アウト」なのか。もちろん「リスペクトのない行為はダメです」とは言えるだろう。だが、残念ながら「内なるリスペクト」とやらを検証する方法はない。リスペクトを言い訳にすれば何をしてもいいのか。あるいは、結局、みている日本人の「お気持ち」だけが判断規準になるのだろうか。そんな明文化できない規準を我々はいちいち振りかざすべきなのだろうか。
それよりも、単純に「少なくともそういうこと(文化の盗用と疑われること)は軽々しくやっちゃだめ。少なくともダメだと言われたらすぐやめましょう。」というあたりが、今のところ落としどころになっている。今のアメリカでの「文化の盗用論」というのは、おおむねそういう風に理解しておいたらよろしいと思う。
以上の話を踏まえれば、御年73歳のこのコラムのライターの「分かっていなさ」「恥ずかしさ」がよく分かると思う。この方が引用した3人の批判者の主張はこのイベントが「アジア人に対する人種差別主義」であり、ステレオタイプが抱く「異国情緒」を楽しむ低俗なイベントであり、そして「帝国主義」的であるというものだった。そして、ライターの方はこれを「日本批判」と捉えたらしいがとんでもない誤解で、明らかに事実はその反対なのである。彼女らの主張は、「文化の盗用」と見えるイベントを企画したボストン美術館の姿勢自体に「アジア人に対する人種差別」があり、モネの絵のような「ステレオタイプ」なヨーロッパの東洋のとらえ方に基づく流行(=ジャポニズム)を今また模倣することは、かつての西欧の帝国主義の無邪気な肯定にすらなっている、ということである。そこには、日本に対する一欠片の批判の意図もなく、彼女らはむしろ「西欧帝国主義のおもちゃにされている(と彼女らが信じる)アジアと日本文化の尊厳」を守るべく、ボストン美術館に対して声を上げているわけだ。(かれらが掲げるプラカードも、体験する来館者に対して「あなたが着物をきてキュートで異国的に見えたとしても、それは差別じゃないの。美術館のイベントでなければね!(It's not racist if you look cute・exotic in it. Besides MFA support this!)」という、美術館批判の趣旨の言葉である。)
ネットに残る写真に写る方々が中国系アメリカ人なのか、日系なのかは知らないが、彼女らの出自などというつまらないことで邪推し、彼女らが「日本を批判しているに違いない」と思い込んでヒートアップして美術館に手紙まで送ったこのライターの方の行為は、相当差別的で恥ずかしい。
しかしながらもっと恥ずかしいのは、「文化の盗用」のような、現代の「差別」をめぐるごく基本的なワードや議論を全く知ることなく、このような稚拙な内容のコラムをそのまま掲載してしまった産経記者のあきれるような無知である。こういうところで「所詮は二流新聞」とあなどられることになる。それがイヤなら、産経は好き嫌いをせず、あおり記事ばかり書かせる練習をするのでなく、記者にもっときちんと勉強をさせるべきだと思う。できればライターや読者にも。
なお、参考までに、事件当時も似たような方々が大量に湧いていたらしい。こういうのなんて言うんだろう。セルフ釣り?(参考:https://togetter.com/li/845708)
某日某動画配信サイトでマクロスデルタ映画公開記念としてマクロスシリーズ作品(超時空要塞マクロス、マクロスII、マクロスプラス、マクロス7、マクロスゼロ、マクロスフロンティア)が公開されていた。マクロスをちゃんと見たことがなかったのでマクロスII以外全部見たところ、めちゃくちゃ面白かったのでネタバレ全開で感想を書く。
なお、IIを見なかった理由は特にない(ビジュアルに惹かれなかったからだっけ?)
(2018/9/3 修正。感謝 b:id:dynamicsoar)
さすがに80年代のSF作品なので、今から見ると古臭いだろうなと覚悟していたのだが、正直なところストーリーは一番面白かったかもしれない。
外宇宙より流れ着いた高度テクノロジーを回収し、マクロスとして改修したところ、機関が暴走して地球から冥王星までワープしてしまう。 しかも開発拠点となっていた土地も、街ごとすべてマクロスと共に移動してしまう。 そして孤立無援のなか民間人を抱えたマクロスは、絶望的な戦力差のゼントラーディー軍と対峙することになる。
民間人の街を含む生活圏ごと宇宙空間に放り出される、という SF 設定がまず素晴らしい。地球を遠く離れ、マクロスに依存して生きることになる市民と、市民を抱え込みながら作戦を実行しなければならない統合軍という、対立を設定したことで生まれたドラマの重みが他の作品に無い魅力だった。マクロス艦内に街を作る流れとか、マクロスが主砲発射のため変形すると道が割れ家が崩壊し市民に甚大な被害が出るというジレンマが、作品がただのヒーロー物となるのを防いでおり実に良い。最初の数話はずっと、マクロス艦内の(一条とミンメイの)サバイバル生活や、統合軍の武力を軽蔑する一条の話であり、マクロスという作品は戦闘が全てではないということを描いているし、ロボットアニメなのに一条が統合軍に参加するまでにも紆余曲折あって一筋縄ではいかないという序盤の展開の遅さも、今から見れば一条の若者らしさが強調されているように感じる。
またゼントラーディー軍とプロトカルチャーという一つの設定から、圧倒的戦力差があるのにゼントラーディー軍がマクロスを殲滅しない理由、逆にマクロスが基幹艦隊に対抗できる理由が自然に説明されている。プロトカルチャーとは何か、なぜ敵は様子見をしているのか、その謎が作品全体の軸となっていて最後(27話)まで楽しく見れた。
個人的には早瀬少佐を陰ながら応援していたのだが、ミンメイが強すぎて三角形がほぼ直線に見えてしまうのが問題だと思う。早瀬少佐ほとんど最後まで片思いじゃないか。
まあ一条は三角関係にピリオドを打ったのでよしとしたい。しかし主人公の一条光は本当に等身大の若者として描かれている。いい雰囲気だったミンメイには袖にされるし、それまでの経験からエースパイロットとなるけど、あっさりマックスに絶対エースの座を奪われるし、超人的なところがない。この等身大の恋愛が、作品にいい意味で青くささを与えているのだろう。
世界一カッコいい兵器である戦闘機が、さらにスタイリッシュなロボットにも変形するのだ!!!最高以外のなにものでもないではないか!!!!!!
...... ふう。
某小説家によると、自動車などと違って、飛行機というのはデザインがそのまま性能に直結するため、極限まで無駄が排除された存在であるらしい。飛行機の美しさ・カッコよさというのは機能美であると。つまり戦闘機であるバルキリーは必然レベルでカッコよく、その戦闘機が変形するバトロイドはカッコよくないはずがないのだ。
バルキリーの外見以外の話をすると、基本モードがファイターであることが徹底されているのがよかった。人型ロボットが高機動戦闘に不向きなことなんて自明なので、ヒットアンドウェイはファイター、飛翔体迎撃や地上行動はバトロイド、水平移動やランディングはガウォークという役割分担がはっきりしていたのもグッドポイント。
【懺悔】はじめはガウォーク形態を、ノーズに手足が付いていてなんか不恰好だと思っていました。全話見終わってようやくガウォークのカッコよさに気がつきました。いまではファイター >> ガウォーク > バトロイド の順で好きです。不当にガウォークを貶めてしまい申し訳ありませんでした。
正直、歌にこんなにバリエーションがあるとは思っていなかった。
しかしこのストック数があったおかげであの伝説の最終決戦(ミンメイアタック)が実現したのだと思うと、マクロスと歌は不可分なのだと実感する。
「私の彼はパイロット」と映画版だけど「愛・おぼえていますか」がマクロスを象徴する曲だと思う。
最高。ミュンを中心とした三角関係とむせかえるような戦闘機野郎臭にクラクラした。また電子歌姫、AIの暴走、有人戦闘機は無人戦闘機に勝てないなどの描写は未来予測として見事だった。
冒頭の強烈なドッグファイト、ステルス機 YF-21 のお目見え、YF-19 の超マニューバと1話から戦闘機づくし(後退翼前進翼!!)!さらに地面効果やチャフグレネードといったマニア向けの細かい描写まできっちり!トドメとばかりにミサイル増しまし、サーカス全開!ファンタスティック!!!最高の戦闘機アニメだった!!!
初代の青々しい恋愛とは異なり、皆が古傷を抱えたちょっとスパイシーな恋愛だった。はじめからガルドの負けは決まっていたけどな。
シャロンのトランスするような曲(BGM)は、未来の音楽という感じで演出も含めて作品を唯一無二のものとしている。それに対してミュンの素朴な歌声が要所で差し込まれることで、全体としてメリハリがついて音楽性の幅を獲得している。つまりは菅野よう子さんすごい。
歌(というかバンド)に振ったストーリーなので戦闘描写が薄い(マクロスプラスの後に見たせい?)。バンドマンサクセスストーリー -- 熱気バサラ伝記 -- といった感じ。
サウンドパワーが出てからかなりファンタジー方面になっていくところは SF を期待していた身としては少しがっかり。面倒くさい SF 勢としては、違う次元から来たのにプロトデビルンが人間くさすぎるところがもにょる。とあるプロトデビルが「破壊美〜」とか美学を叫ぶけど、美学なんてもっとも文化に隷属しているものだろう。
ただ、移民船やマクロス艦(バトル7)の設定は、フロンティアへ繋がるマクロス世界を広げた良い設定だった。
バサラ --- ミレーヌ --- ガムリン のトライアングルだけど、バサラは何考えているのかわからないし、ミレーヌはお子ちゃまだし、ガムリンは奥手で死ぬ死ぬ詐欺だしあまり恋愛要素は無かった。というかあのよく叫ぶシビルはなんだったん? バサラのエゴ?
主人公が非戦闘員だから仕方がないのだけど、戦闘描写が薄い。バサラは戦わない設定なので、敵弾は避ける防ぐだけだし地味。基本的に、敵襲来→守備隊が壊滅→バサラ達が出てきて歌う→ガムリンが頑張る→もっと歌う→敵が逃げるのパターンでバンク処理が多いし、ファイター形態で戦うパイロットがほとんどいないのも残念。熱いドッグファイトが見たいのだ。
初代も当時のTVシリーズとしては驚きの楽曲数だったが、今作はバンドマンストーリーなのでフルアルバムが作れるくらい楽曲が生み出されている。バサラとミレーヌのツインボーカルなので、バサラの熱唱からミレーヌの透明感のあるバラードまでバラエティも豊か。特にミレーヌボーカルの曲が好き。
しかし楽曲は良いのだけど、演出が今ひとつのところがある。最終決戦など、バサラとミレーヌがそれぞれの持ち歌を歌う場合だ。それぞれ曲調が異なるのに交互で歌うので音の統一感が無くなっている。もっと DJ などのように統一感のあるミキシングをして欲しかった。
良かった。3DCG で作ったマクロスプラス。カーゴカルト的なストーリーは自然回帰にみせかけたマクロスだった。基本的にバルキリーに興奮するアニメだと思う。
果たしてサラは帰ってこれたのだろうか。後にシンの手記が出版されているのでシンは帰って来たのだろうが。特に三角無し。
3DCG になってダイナミックな絵作りができるようになったせいか、マクロスプラス並みのドッグファイトを見せてくれる。まだバルキリーが普及していない時代という理由からか、戦闘は基本的にファイター + ガウォーク形態でここぞ!というところでバトロイドに変形するのだが、そのメリハリが素晴らしい。
一番良かったのはフォッカーが初めてバトロイドに変形するシーン。ガキンガキンガキンとリアルタイムに変形するシーンは魂がふるえた。
マクロス7と歌ラッシュ比べると、サラの歌と鳥の人の歌程度なのであまり印象にない。むしろフロンティアでのランカのアイモの方が印象に残っている。
最高(2回目)。超時空要塞マクロスからマクロスゼロまでのまさに集大成。初代から久しく無かった、ゼントラーディー部隊の再登場、ミンメイアタック、マクロスアタック(旧名ダイダロスアタック)、娘娘、ミスマクロスなどなどものすごい初代リスペクト。加えて オズマが Firebomber のファンとか、マクロスゼロを劇中ドラマとして登場させるなど、過去のマクロスの引用や展開がさりげなく大量にありまさにマクロス集大成。
また SF 面も、ヴァジュラの生態やフォールド波など骨太設定がしっかりとしていて良かった。
SF 好きで、戦闘機好きで、ロマンス好きで、歌好きオタクは皆撃ち抜かれるのではないだろうか。
少しこれまでの三角関係を総括する。初代の三角関係のよくないところは、早瀬少佐よりもミンメイが強すぎるところにある。歌う姿がインパクトありすぎるのだ。逆にマクロス7はバサラは何もしないしガムリンはパッとしないので、盛り上がりに欠ける。
上記の悪かったところを念頭に置いた上に本作を見ると、ヒロインのシェリルとランカは両方ともトップアイドル(ベテランと新人)なのでその問題はない。どちらが好みかだけである(増田はシェリルに幸せになってほしい)。よってシリーズ中一番三角関係がくっきりしているし、どちらもタイプの異なるヒロインで初代のように片方が強すぎるというのはない(と思う)。
逆によくなかったところは三角関係に決着がつかないところ。アルトくんはっきりせいや!少女漫画風に見れば王子様のアルトをスターダムを駆け上がるランカ(主人公ポジ)が射止める流れだが、シェリルもそれはかわいそうな背景を背負っているので簡単には決着をつけられなかったのではないかと思う。なお個人的には、兄が二人もいて、友達(一部友人以上の愛を向けられる)もたくさんいるランカと、天涯孤独で唯一信頼していたマネージャーに裏切られ命に関わる病気を負いアルバムが投げ売りされるくらい人気がガタ落ちしたうえ、アルトと恋人になったと思いきや無意識に恋人としてのロールを演じられていただけという仕打ちを受けたシェリルでは差がありすぎるので、ランカはシェリルにアルトくんを譲ってあげてよと思う。
正直なところ少し不満がある。特に戦闘機の花である地上でのドッグファイトがほぼ無かったところが残念。
ただ、マクロスプラス以後の作品では、YF-19 以降のバルキリーの何をアップグレードするのか難しかったのだと思う。思うに現代で知られている戦闘技術はほぼプラスで描かれているので、プラス以上の何かを新たに作り出すのはそれこそ革新が必要だろう。実際マクロスゼロは時代設定を初代より前に置くことでこの問題を避けている。
それにプラスで、ゴースト X9 というシリーズ最強の敵を作ってしまい有人戦闘の可能性にリミットを設けてしまったこともある意味よく無かったのかもしれない。どれだけ高性能なバルキリーを出そうにも、それにゴーストの AI を組み込めばお手軽に最強になる。人の反射神経や視界などのセンシング能力が機械に勝つことはないのだ。
あとバルキリーでは無いけど、ケーニッヒ・モンスターがめちゃくちゃ渋い。重爆撃機のようなフォルムから恐竜みたいなデストロイド全て重量感があって良い。動きも武骨なデザイン通りの重い動きをして、背中の砲台から反応弾をドッカと撃ち出す。かっこうよすぎる。
女性ボーカル好きとして最高だった。12話の星間飛行ライブと15話のデュエット、そして最終話は4回は見直したぞ!
好きな曲がありすぎて書ききれないのだけど、12話は伝説だった。12話はそれ自体が星間飛行の PV と言っていよいだろう。あと What 'bout my star は印象に残るシーンが多かった。ランカの路上ライブバージョンではアカペラから入って、ギター、ドラムと段々と音色が増して行く構成が見事だし、15話の What 'bout my star のヒロインズによるデュエットはとにかく破壊力が高すぎる。途中で終わってしまうのが残念でならない。それから外せないのは最終話のメドレーだろう。最終話はシェリルとランカのリレーとデュエットなのだが、二人が歌い始めた時点で勝ち確定で、実質的にも最終話は冒頭からエンディングだった。特にこの最終話で印象に残ったのは、オープニング曲であるライオンを二人で歌うシーンと、シェリルが短いフレーズだけ歌う私の彼はパイロット。前者は演出の定番だが歌詞の内容もありやっぱり盛り上がるし、後者は歌の繋ぎとしての採用だがまさかシェリルが歌うとは思っていなかったのですごく上がった。
マクロス7のところで苦言を呈した音楽のミックスについてだが、この最終決戦は完璧だった。全体のテンポを崩すことなくシェリルとランカのそれぞれの持ち歌とそのほかの歌たちが見事にメドレーとして再構成されていた(まあその完成度のせいで冒頭からエンディング状態だったのだけど)。
個人的に声優に興味が無いため個人名をほとんど覚えていない中で、中島愛さんはランカの歌声の人として覚えた(ちなみにもう一人は皆口裕子さん。この人の声は耳に優しいのに耳を捉えて話さない魔性がある)。声優としてはすごくうまいとは思わないが、歌声が満点すぎる。とにかく歌が上手い。声質も綺麗なんだが、伸びのある声と聞き取りやすい音域でうっとりする。
某日某動画配信サイトでマクロスデルタ映画公開記念としてマクロスシリーズ作品(超時空要塞マクロス、マクロスII、マクロスプラス、マクロス7、マクロスゼロ、マクロスフロンティア)が公開されていた。
マクロスをちゃんと見たことがなかったのでマクロスII以外全部見たところ、めちゃくちゃ面白かったのでネタバレ全開で感想を書く。
なお、IIを見なかった理由は特にない(ビジュアルに惹かれなかったからだっけな?)
さすがに80年代のSF作品なので、今から見ると古臭いだろうなと覚悟していたのだが、正直なところストーリーは一番面白かったかもしれない。
外宇宙より流れ着いた高度テクノロジーを回収し、マクロスとして改修したところ、機関が暴走して地球から冥王星までワープしてしまう。 しかも開発拠点となっていた土地も、街ごとすべてマクロスと共に移動してしまう。 そして、孤立無援のなか民間人を抱えたマクロスは、絶望的な戦力差のゼントラーディー軍と対峙することになる。
民間人の街を含む生活圏ごと宇宙空間に放り出される、という SF 設定がまず素晴らしい。地球を遠く離れ、マクロスに依存して生きることになる市民と、市民を抱え込みながら作戦を実行しなければならない統合軍という、対立を設定したことで生まれたドラマの重みが他の作品に無い魅力だった。マクロス艦内に街を作る流れとか、マクロスが主砲発射のため変形すると道が割れ家が崩壊し市民に甚大な被害が出るというジレンマが、作品がただのヒーロー物となるのを防いでおり実に良い。最初の数話はずっと、マクロス艦内の(一条とミンメイの)サバイバル生活や、統合軍の武力を軽蔑する一条の話であり、マクロスという作品は戦闘が全てではないということを描いているし、ロボットアニメなのに一条が統合軍に参加するまでにも紆余曲折あって一筋縄ではいかないという序盤の展開の遅さも、今から見れば一条の若者らしさが強調されているように感じる。
また、ゼントラーディー軍とプロトカルチャーという一つの設定から、圧倒的戦力差があるのにゼントラーディー軍がマクロスを殲滅しない理由、逆にマクロスが基幹艦隊に対抗できる理由が自然に説明されている。プロトカルチャーとは何か、なぜ敵は様子見をしているのか、その謎が作品全体の軸となっていて、最後(27話)まで楽しく見れた。
個人的には早瀬少佐を陰ながら応援していたのだが、ミンメイが強すぎて三角形がほぼ直線に見えてしまうのが問題だと思う。早瀬少佐ほとんど最後まで片思いじゃないか。
まあ一条は三角関係にピリオドを打ったのでよしとしたい。しかし、主人公の一条光は本当に等身大の若者として描かれている。いい雰囲気だったミンメイには袖にされるし、それまでの経験からエースパイロットとなるけど、あっさりマックスに絶対エースの座を奪われるし、超人的なところがない。この等身大の恋愛が、作品にいい意味で青くささを与えているのだろう。
世界一カッコいい兵器である戦闘機が、さらにスタイリッシュなロボットにも変形するのだ!!!最高以外のなにものでもないではないか!!!!!!
...... ふう。
某小説家によると、自動車などと違って、飛行機というのはデザインがそのまま性能に直結するため、極限まで無駄が排除された存在であるらしい。飛行機の美しさ・カッコよさというのは機能美であると。つまり戦闘機であるバルキリーは必然レベルでカッコよく、その戦闘機が変形するバトロイドはカッコよくないはずがないのだ。
バルキリーの外見以外の話をすると、基本モードがファイターであることが徹底されているのがよかった。人型ロボットが高機動戦闘に不向きなことなんて自明なので、ヒットアンドウェアはファイター、飛翔体迎撃や地上行動はバトロイド、水平移動やランディングはガウォークという役割分担がはっきりしていたのもグッドポイント。
【懺悔】はじめはガウォーク形態を、ノーズに手足が付いていてなんか不恰好だと思っていました。全話見終わってようやくガウォークのカッコよさに気がつきました。いまではファイター >> ガウォーク > バトロイド の順で好きです。不当にガウォークを貶めてしまい申し訳ありませんでした。
正直、歌にこんなにバリエーションがあるとは思っていなかった。
しかしこのストック数があったおかげであの伝説の最終決戦(ミンメイアタック)が実現したのだと思うと、マクロスと歌は不可分なのだと実感する。
「私の彼はパイロット」と映画版だけど「愛・おぼえていますか」がマクロスを象徴する曲だと思う。
最高。ミュンを中心とした三角関係とむせかえるような戦闘機野郎臭にクラクラした。また電子歌姫、AIの暴走、有人戦闘機は無人戦闘機に勝てない、などの描写は未来予測として見事だった。
冒頭の強烈なドッグファイト、ステルス機 YF-21 のお目見え、YF-19 の超マニューバと1話から戦闘機づくし(後退翼!!)!さらに地面効果やチャフグレネードといったマニア向けの細かい描写まできっちり!トドメとばかりにミサイル増しまし、サーカス全開!ファンタスティック!!!最高の戦闘機アニメだった!!!
初代の青々しい恋愛とは異なり、皆が古傷を抱えたちょっとスパイシーな恋愛だった。はじめからガルドの負けは決まっていたけどな。
シャロンのトランスするような曲(BGM)は、未来の音楽という感じで演出も含めて作品を唯一無二のものとしている。それに対してミュンの素朴な歌声が要所で差し込まれることで、全体としてメリハリがついて音楽性の幅を獲得している。つまりは菅野よう子さんすごい。
歌(というかバンド)に振ったストーリーなので戦闘描写が薄い(マクロスプラスの後に見たせい?)。バンドマンサクセスストーリー -- 熱気バサラ伝記 -- といった感じ。
サウンドパワーが出てからかなりファンタジー方面になっていくところは SF を期待していた身としては少しがっかり。面倒くさい SF 勢としては、違う次元から来たのにプロトデビルンが人間くさすぎるところがもにょる。とあるプロトデビルが「破壊美〜」とか美学を叫ぶけど、美学なんてもっとも文化に隷属しているものだろう。
ただ、移民船やマクロス艦(バトル7)の設定は、フロンティアへ繋がるマクロス世界を広げた良い設定だった。
バサラ --- ミレーヌ --- ガムリン のトライアングルだけど、バサラは何考えているのかわからないし、ミレーヌはお子ちゃまだし、ガムリンは奥手で死ぬ死ぬ詐欺だしあまり恋愛要素は無かった。というかあのよく叫ぶシビルはなんだったん? バサラのエゴ?
主人公が非戦闘員だから仕方がないのだけど、戦闘描写が薄い。バサラは戦わない設定なので、敵弾は避ける防ぐだけだし地味。基本的に、敵襲来→守備隊が壊滅→バサラ達が出てきて歌う→ガムリンが頑張る→もっと歌う→敵が逃げるのパターンでバンク処理が多いし、ファイター形態で戦うパイロットがほとんどいないのも残念。熱いドッグファイトが見たいのだ。
初代も当時のTVシリーズとしては驚きの楽曲数だったが、今作はバンドマンストーリーなのでフルアルバムが作れるくらい楽曲が生み出されている。バサラとミレーヌのツインボーカルなので、バサラの熱唱からミレーヌの透明感のあるバラードまでバラエティも豊か。特にミレーヌボーカルの曲が好き。
しかし楽曲は良いのだけど、演出が今ひとつのところがある。最終決戦など、バサラとミレーヌがそれぞれの持ち歌を歌う場合だ。それぞれ曲調が異なるのに交互で歌うので音の統一感が無くなっている。もっと DJ などのように統一感のあるミキシングをして欲しかった。
良かった。3DCG で作ったマクロスプラス。カーゴカルト的なストーリーは自然回帰にみせかけたマクロスだった。基本的にバルキリーに興奮するアニメだと思う。
果たしてサラは帰ってこれたのだろうか。後にシンの手記が出版されているのでシンは帰って来たのだろうが。特に三角無し。
3DCG になってダイナミックな絵作りができるようになったせいか、マクロスプラス並みのドッグファイトを見せてくれる。まだバルキリーが普及していない時代という理由からか、戦闘は基本的にファイター + ガウォーク形態でここぞ!というところでバトロイドに変形するのだが、そのメリハリが素晴らしい。
一番良かったのはフォッカーが初めてバトロイドに変形するシーン。ガキンガキンガキンとリアルタイムに変形するシーンは魂がふるえた。
マクロス7と歌ラッシュ比べると、サラの歌と鳥の人の歌程度なのであまり印象にない。むしろフロンティアでのランカのアイモの方が印象に残っている。
最高(2回目)。超時空要塞マクロスからマクロスゼロまでのまさに集大成。初代から久しく無かった、ゼントラーディー部隊の再登場、ミンメイアタック、マクロスアタック(旧名ダイダロスアタック)、娘娘、ミスマクロスなどなどものすごい初代リスペクト。加えて オズマが Firebomber のファンとか、マクロスゼロを劇中ドラマとして登場させるなど、過去のマクロスの引用や展開がさりげなく大量にありまさにマクロス集大成。
また SF 面も、ヴァジュラの生態やフォールド波など骨太設定がしっかりとしていて良かった。
SF 好きで、戦闘機好きで、ロマンス好きで、歌好きオタクは皆撃ち抜かれるのではないだろうか。
少しこれまでの三角関係を総括する。初代の三角関係のよくないところは、早瀬少佐よりもミンメイが強すぎるところにある。歌う姿がインパクトありすぎるのだ。逆にマクロス7はバサラは何もしないしガムリンはパッとしないので、盛り上がりに欠ける。
上記の悪かったところを念頭に置いた上に本作を見ると、ヒロインのシェリルとランカは両方ともトップアイドル(ベテランと新人)なのでその問題はない。どちらが好みかだけである(増田はシェリルに幸せになってほしい)。よってシリーズ中一番三角関係がくっきりしているし、どちらもタイプの異なるヒロインで初代のように片方が強すぎるというのはない(と思う)。
逆によくなかったところは三角関係に決着がつかないところ。アルトくんはっきりせいや!少女漫画風に見れば王子様のアルトをスターダムを駆け上がるランカ(主人公ポジ)が射止める流れだが、シェリルもそれはかわいそうな背景を背負っているので簡単には決着をつけられなかったのではないかと思う。なお個人的には、兄が二人もいて、友達(一部友人以上の愛を向けられる)もたくさんいるランカと、天涯孤独で唯一信頼していたマネージャーに裏切られ命に関わる病気を負いアルバムが投げ売りされるくらい人気がガタ落ちしたうえ、アルトと恋人になったと思いきや無意識に恋人としてのロールを演じられていただけという仕打ちを受けたシェリルでは差がありすぎるので、ランカはシェリルにアルトくんを譲ってあげてよと思う。
正直なところ少し不満がある。特に戦闘機の花である地上でのドッグファイトがほぼ無かったところが残念。
ただ、マクロスプラス以後の作品では、YF-19 以降のバルキリーの何をアップグレードするのか難しかったのだと思う。思うに現代で知られている戦闘技術はほぼプラスで描かれているので、プラス以上の何かを新たに作り出すのはそれこそ革新が必要だろう。実際マクロスゼロは時代設定を初代より前に置くことでこの問題を避けている。
それにプラスで、ゴースト X9 というシリーズ最強の敵を作ってしまい有人戦闘の可能性にリミットを設けてしまったこともある意味よく無かったのかもしれない。どれだけ高性能なバルキリーを出そうにも、それにゴーストの AI を組み込めばお手軽に最強になる。人の反射神経や視界などのセンシング能力が機械に勝つことはないのだ。
あとバルキリーでは無いけど、ケーニッヒ・モンスターがめちゃくちゃ渋い。重爆撃機のようなフォルムから恐竜みたいなデストロイド全て重量感があって良い。動きも武骨なデザイン通りの重い動きをして、背中の砲台から反応弾をドッカと撃ち出す。かっこうよすぎる。
女性ボーカル好きとして最高だった。12話の星間飛行ライブと15話のデュエット、そして最終話は4回は見直したぞ!
好きな曲がありすぎて書ききれないのだけど、12話は伝説だった。12話はそれ自体が星間飛行の PV と言っていよいだろう。あと What 'bout my star は印象に残るシーンが多かった。ランカの路上ライブバージョンではアカペラから入って、ギター、ドラムと段々と音色が増して行く構成が見事だし、15話の What 'bout my star のヒロインズによるデュエットはとにかく破壊力が高すぎる。途中で終わってしまうのが残念でならない。それから外せないのは最終話のメドレーだろう。最終話はシェリルとランカのリレーとデュエットなのだが、二人が歌い始めた時点で勝ち確定で、実質的にも最終話は冒頭からエンディングだった。特にこの最終話で印象に残ったのは、オープニング曲であるライオンを二人で歌うシーンと、シェリルが短いフレーズだけ歌う私の彼はパイロット。前者は演出の定番だが歌詞の内容もありやっぱり盛り上がるし、後者は歌の繋ぎとしての採用だがまさかシェリルが歌うとは思っていなかったのですごく上がった。
マクロス7のところで苦言を呈した音楽のミックスについてだが、この最終決戦は完璧だった。全体のテンポを崩すことなくシェリルとランカのそれぞれの持ち歌とそのほかの歌たちが見事にメドレーとして再構成されていた(まあその完成度のせいで冒頭からエンディング状態だったのだけど)。
個人的に声優に興味が無いため個人名をほとんど覚えていない中で、中島愛さんはランカの歌声の人として覚えた(ちなみにもう一人は皆口裕子さん。この人の声は耳に優しいのに耳を捉えて話さない魔性がある)。声優としてはすごくうまいとは思わないが、歌声が満点すぎる。とにかく歌が上手い。声質も綺麗なんだが、伸びのある声と聞き取りやすい音域でうっとりする。
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というわけで、マクロスシリーズめちゃくちゃ面白かったのでおすすめ。初めて見るなら、超時空要塞マクロスの Permalink | 記事への反応(0) | 00:32
某日某動画配信サイトでマクロスデルタ映画公開記念としてマクロスシリーズ作品(超時空要塞マクロス、マクロスII、マクロスプラス、マクロス7、マクロスゼロ、マクロスフロンティア)が公開されていた。
マクロスをちゃんと見たことがなかったのでマクロスII以外全部見たところ、めちゃくちゃ面白かったのでネタバレ全開で感想を書く。
なお、IIを見なかった理由は特にない(ビジュアルに惹かれなかったからだっけな?)
さすがに80年代のSF作品なので、今から見ると古臭いだろうなと覚悟していたのだが、正直なところストーリーは一番面白かったかもしれない。
外宇宙より流れ着いた高度テクノロジーを回収し、マクロスとして改修したところ、機関が暴走して地球から冥王星までワープしてしまう。 しかも開発拠点となっていた土地も、街ごとすべてマクロスと共に移動してしまう。 そして、孤立無援のなか民間人を抱えたマクロスは、絶望的な戦力差のゼントラーディー軍と対峙することになる。
民間人の街を含む生活圏ごと宇宙空間に放り出される、という SF 設定がまず素晴らしい。地球を遠く離れ、マクロスに依存して生きることになる市民と、市民を抱え込みながら作戦を実行しなければならない統合軍という、対立を設定したことで生まれたドラマの重みが他の作品に無い魅力だった。マクロス艦内に街を作る流れとか、マクロスが主砲発射のため変形すると道が割れ家が崩壊し市民に甚大な被害が出るというジレンマが、作品がただのヒーロー物となるのを防いでおり実に良い。最初の数話はずっと、マクロス艦内の(一条とミンメイの)サバイバル生活や、統合軍の武力を軽蔑する一条の話であり、マクロスという作品は戦闘が全てではないということを描いているし、ロボットアニメなのに一条が統合軍に参加するまでにも紆余曲折あって一筋縄ではいかないという序盤の展開の遅さも、今から見れば一条の若者らしさが強調されているように感じる。
また、ゼントラーディー軍とプロトカルチャーという一つの設定から、圧倒的戦力差があるのにゼントラーディー軍がマクロスを殲滅しない理由、逆にマクロスが基幹艦隊に対抗できる理由が自然に説明されている。プロトカルチャーとは何か、なぜ敵は様子見をしているのか、その謎が作品全体の軸となっていて、最後(27話)まで楽しく見れた。
個人的には早瀬少佐を陰ながら応援していたのだが、ミンメイが強すぎて三角形がほぼ直線に見えてしまうのが問題だと思う。早瀬少佐ほとんど最後まで片思いじゃないか。
まあ一条は三角関係にピリオドを打ったのでよしとしたい。しかし、主人公の一条光は本当に等身大の若者として描かれている。いい雰囲気だったミンメイには袖にされるし、それまでの経験からエースパイロットとなるけど、あっさりマックスに絶対エースの座を奪われるし、超人的なところがない。この等身大の恋愛が、作品にいい意味で青くささを与えているのだろう。
世界一カッコいい兵器である戦闘機が、さらにスタイリッシュなロボットにも変形するのだ!!!最高以外のなにものでもないではないか!!!!!!
...... ふう。
某物書きによると、自動車などと違って、飛行機というのはデザインがそのまま性能に直結するため、極限まで無駄が排除された存在であるらしい。飛行機の美しさ・カッコよさというのは機能美であると。つまり戦闘機であるバルキリーは必然レベルでカッコよく、その戦闘機が変形するバトロイドはカッコよくないはずがないのだ。
バルキリーの外見以外の話をすると、基本モードがファイターであることが徹底されているのがよかった。人型ロボットが高機動戦闘に不向きなことなんて自明なので、ヒットアンドウェアはファイター、飛翔体迎撃や地上行動はバトロイド、水平移動やランディングはガウォークという役割分担がはっきりしていたのもグッドポイント。
【懺悔】はじめはガウォーク形態を、ノーズに手足が付いていてなんか不恰好だと思っていました。全話見終わってようやくガウォークのカッコよさに気がつきました。いまではファイター >> ガウォーク > バトロイド の順で好きです。不当にガウォークを貶めてしまい申し訳ありませんでした。
正直、歌にこんなにバリエーションがあるとは思っていなかった。
しかしこのストック数があったおかげであの伝説の最終決戦(ミンメイアタック)が実現したのだと思うと、マクロスと歌は不可分なのだと実感する。
「私の彼はパイロット」と映画版だけど「愛・おぼえていますか」がマクロスを象徴する曲だと思う。
最高。ミュンを中心とした三角関係とむせかえるような戦闘機野郎臭にクラクラした。また電子歌姫、AIの暴走、有人戦闘機は無人戦闘機に勝てない、などの描写は未来予測として見事だった。
冒頭の強烈なドッグファイト、ステルス機 YF-21 のお目見え、YF-19 の超マニューバと1話から戦闘機づくし(後退翼!!)!さらに地面効果やチャフグレネードといったマニア向けの細かい描写まできっちり!トドメとばかりにミサイル増しまし、サーカス全開!ファンタスティック!!!最高の戦闘機アニメだった!!!
初代の青々しい恋愛とは異なり、皆が古傷を抱えたちょっとスパイシーな恋愛だった。はじめからガルドの負けは決まっていたけどな。
シャロンのトランスするような曲(BGM)は、未来の音楽という感じで演出も含めて作品を唯一無二のものとしている。それに対してミュンの素朴な歌声が要所で差し込まれることで、全体としてメリハリがついて音楽性の幅を獲得している。つまりは菅野よう子さんすごい。
歌(というかバンド)に振ったストーリーなので戦闘描写が薄い(マクロスプラスの後に見たせい?)。バンドマンサクセスストーリー -- 熱気バサラ伝記 -- といった感じ。
サウンドパワーが出てからかなりファンタジー方面になっていくところは SF を期待していた身としては少しがっかり。面倒くさい SF 勢としては、違う次元から来たのにプロトデビルンが人間くさすぎるところがもにょる。とあるプロトデビルが「破壊美〜」とか美学を叫ぶけど、美学なんてもっとも文化に隷属しているものだろう。
ただ、移民船やマクロス艦(バトル7)の設定は、フロンティアへ繋がるマクロス世界を広げた良い設定だった。
バサラ --- ミレーヌ --- ガムリン のトライアングルだけど、バサラは何考えているのかわからないし、ミレーヌはお子ちゃまだし、ガムリンは奥手で死ぬ死ぬ詐欺だしあまり恋愛要素は無かった。というかあのよく叫ぶシビルはなんだったん? バサラのエゴ?
主人公が非戦闘員だから仕方がないのだけど、戦闘描写が薄い。バサラは戦わない設定なので、敵弾は避ける防ぐだけだし地味。基本的に、敵襲来→守備隊が壊滅→バサラ達が出てきて歌う→ガムリンが頑張る→もっと歌う→敵が逃げるのパターンでバンク処理が多いし、ファイター形態で戦うパイロットがほとんどいないのも残念。熱いドッグファイトが見たいのだ。
初代も当時のTVシリーズとしては驚きの楽曲数だったが、今作はバンドマンストーリーなのでフルアルバムが作れるくらい楽曲が生み出されている。バサラとミレーヌのツインボーカルなので、バサラの熱唱からミレーヌの透明感のあるバラードまでバラエティも豊か。特にミレーヌボーカルの曲が好き。
しかし楽曲は良いのだけど、演出が今ひとつのところがある。最終決戦など、バサラとミレーヌがそれぞれの持ち歌を歌う場合だ。それぞれ曲調が異なるのに交互で歌うので音の統一感が無くなっている。もっと DJ などのように統一感のあるミキシングをして欲しかった。
良かった。3DCG で作ったマクロスプラス。カーゴカルト的なストーリーは自然回帰にみせかけたマクロスだった。基本的にバルキリーに興奮するアニメだと思う。
果たしてサラは帰ってこれたのだろうか。後にシンの手記が出版されているのでシンは帰って来たのだろうが。特に三角無し。
3DCG になってダイナミックな絵作りができるようになったせいか、マクロスプラス並みのドッグファイトを見せてくれる。まだバルキリーが普及していない時代という理由からか、戦闘は基本的にファイター + ガウォーク形態でここぞ!というところでバトロイドに変形するのだが、そのメリハリが素晴らしい。
一番良かったのはフォッカーが初めてバトロイドに変形するシーン。ガキンガキンガキンとリアルタイムに変形するシーンは魂がふるえた。
マクロス7と歌ラッシュ比べると、サラの歌と鳥の人の歌程度なのであまり印象にない。むしろフロンティアでのランカのアイモの方が印象に残っている。
最高(2回目)。超時空要塞マクロスからマクロスゼロまでのまさに集大成。初代から久しく無かった、ゼントラーディー部隊の再登場、ミンメイアタック、マクロスアタック(旧名ダイダロスアタック)、娘娘、ミスマクロスなどなどものすごい初代リスペクト。加えて オズマが Firebomber のファンとか、マクロスゼロを劇中ドラマとして登場させるなど、過去のマクロスの引用や展開がさりげなく大量にありまさにマクロス集大成。
また SF 面も、ヴァジュラの生態やフォールド波など骨太設定がしっかりとしていて良かった。
SF 好きで、戦闘機好きで、ロマンス好きで、歌好きオタクは皆撃ち抜かれるのではないだろうか。
少しこれまでの三角関係を総括する。初代の三角関係のよくないところは、早瀬少佐よりもミンメイが強すぎるところにある。これは早瀬少佐が堅い軍人でミンメイがアイドル歌手だということにあると思う。歌う姿がインパクトありすぎるのだ。逆にマクロス7はバサラは何もしないしガムリンはパッとしないので、盛り上がりに欠ける。
上記の悪かったところを念頭に置いた上に本作を見ると、ヒロインのシェリルとランカは両方ともトップアイドル(ベテランと新人)なのでその問題はない。どちらが好みかだけである(増田はシェリルに幸せになってほしい)。よってシリーズ中一番三角関係がくっきりしているし、どちらもタイプの異なるヒロインで初代のように片方が強すぎるというのはない(と思う)。
逆によくなかったところは三角関係に決着がつかないところ。アルトくんはっきりせいや!少女漫画風に見れば王子様のアルトをスターダムを駆け上がるランカ(主人公ポジ)が射止める流れだが、シェリルもそれはかわいそうな背景を背負っているので簡単には決着をつけられなかったのではないかと思う。なお個人的には、兄が二人もいて、友達(一部友人以上の愛を向けられる)もたくさんいるランカと、天涯孤独で唯一信頼していたマネージャーに裏切られ命に関わる病気を負いアルバムが投げ売りされるくらい人気がガタ落ちしたうえ、アルトと恋人になったと思いきや無意識に恋人としてのロールを演じられていただけという仕打ちを受けたシェリルでは差がありすぎるので、ランカはシェリルにアルトくんを譲ってあげてよと思う。
正直なところ少し不満がある。特に戦闘機の花である地上でのドッグファイトがほぼ無かったところが残念。
ただ、マクロスプラス以後の作品では、YF-19 以降のバルキリーの何をアップグレードするのか難しかったのだと思う。思うに現代で知られている戦闘技術はほぼプラスで描かれているので、プラス以上の何かを新たに作り出すのはそれこそ革新が必要だろう。実際マクロスゼロは時代設定を初代より前に置くことでこの問題を避けている。
それにプラスで、ゴースト X9 というシリーズ最強の敵を作ってしまい有人戦闘の可能性にリミットを設けてしまったこともある意味よく無かったのかもしれない。どれだけ高性能なバルキリーを出そうにも、それにゴーストの AI を組み込めばお手軽に最強になる。人の反射神経や視界などのセンシング能力が機械に勝つことはないのだ。
フロンティアでは、ゴーストを軍事的に封印し、バルキリーのバリエーションをブースターパックにより広げた。これは良い選択だと思う(スナイプについては思うところもあるが)。
あとバルキリーでは無いけど、ケーニッヒ・モンスターがめちゃくちゃ渋い。重爆撃機のようなフォルムから恐竜みたいなデストロイド全て重量感があって良い。動きも武骨なデザイン通りの重い動きをして、背中の砲台から反応弾をドッカと撃ち出す。かっこうよすぎる。
女性ボーカル好きとして最高だった。12話の星間飛行ライブと15話のデュエット、そして最終話は4回は見直したぞ!
好きな曲がありすぎて書ききれないのだけど、12話は伝説だった。12話はそれ自体が星間飛行の PV と言っていよいだろう。あと What 'bout my star は印象に残るシーンが多かった。ランカの路上ライブバージョンではアカペラから入って、ギター、ドラムと段々と音色が増して行く構成が見事だし、15話の What 'bout my star のヒロインズによるデュエットはとにかく破壊力が高すぎる。途中で終わってしまうのが残念でならない。それから外せないのは最終話のメドレーだろう。最終話はシェリルとランカのリレーとデュエットなのだが、二人が歌い始めた時点で勝ち確定で、実質的にも最終話は冒頭からエンディングだった。特にこの最終話で印象に残ったのは、オープニング曲であるライオンを二人で歌うシーンと、シェリルが短いフレーズだけ歌う私の彼はパイロット。前者は演出の定番だが歌詞の内容もありやっぱり盛り上がるし、後者は歌の繋ぎとしての採用だがまさかシェリルが歌うとは思っていなかったのですごく上がった。
マクロス7のところで苦言を呈した音楽のミックスについてだが、この最終決戦は完璧だった。全体のテンポを崩すことなくシェリルとランカのそれぞれの持ち歌とそのほかの歌たちが見事にメドレーとして再構成されていた(まあその完成度のせいで冒頭からエンディング状態だったのだけど)。
個人的に声優に興味が無いため個人名をほとんど覚えていない中で、中島愛さんはランカの歌声の人として覚えた(ちなみにもう一人は皆口裕子さん。この人の声は耳に優しいのに耳を捉えて話さない魔性がある)
長い
本人も書いているが本当に死ぬほど長い
ヨッピーさんの「死ぬほど長い」は、その長さに見合う情報量があり、
コンパクトにまとめようという意思はあるけれども仕方なくこの長さになったという感じだが
この増田はその逆。無駄に言葉を重ねて一文ごとの情報量を極端に希釈している。纏めようという意思がない
その辺ヨッピーさんはちゃんと事実は事実、観測は観測、推測は推測とわかるように前置きを付けたり、別建てで書いている
リスペクトというならこういう態度も吸収して書いてほしい
内容がどうこう以前に読んでいて疲れるのが先に来るってのは書き手にとっても損じゃないのかな
※ヨッピーさんから、入れると言った注釈が入っていないと指摘を受けたので、続きを書きました。
https://anond.hatelabo.jp/20180903013101
「独り言にて(ツイッター:@hitorigoto4me)」です。
ちょっと縁があり、2016年のPCデポ炎上の引き金になったヨッピーさんの記事への突っ込みを、筆者であるヨッピーさん本人にする機会がありました。
この文章はその記録です。
まず、ご協力頂いたヨッピーさんとケンヂさん、PCデポ広報のご担当の方に感謝の意を表したいと思います。
(ケンヂさんにはヨッピーさんからの問い合わせに対応して頂き、広報の方には個別案件のため回答できないという返答を頂きました。)
念の為書いておくのですが、私は本件について完全な第三者であり、この文章で行なっているのは本件についての批評であり、誰かを責めたり傷つけたりする意図はありません。
今回、私がヨッピーさんに求めたのは裏取りの協力だけ(断られましたが)で、記事の修正等は求めていません。
元の記事はこれです。
https://news.yahoo.co.jp/byline/yoppy/20160823-00061403/
多分みんな忘れていると思うので、この文章を読む前でも後でもいいですが、記事を読んでおくといいと思います。
記事に倣って、この文章では登場人物は肩書きがある人は肩書き、ない人は「さん」付けで書きます。
さて、非常に長い話なので、最初にインデックスを付けておきます。
誰に宛てた文章でもないのですが、多少は読みやすくしておこうと思います。
死ぬほど長いです。
簡単に自己紹介しておきますが、私はただの匿名ツイッターユーザーです。
リアルとは切り離しているので、フォロー、フォロワーに知り合いはいません。
PCデポ炎上をウォッチしていたら少し深入りしてしまった感じです。
ちなみに、ウォッチを始めたのはヨッピーさんの数日前くらいです。
すごくざっくりまとめますと、私の持っている問いは「8/20に認知症のお父さんを連れて行くという決定をしたのは誰だ」というものです。
8/20とは、ケンヂさんとお父さん、ヨッピーさんがPCデポ幕張インター店に契約書類を受け取りに行った時の事です。
あらましはヨッピーさんの記事を読んで頂くとして、PCデポ側が「連れて来い」と言ったのであれば色々おかしいんじゃないの、という話になりますし、ケンヂさんが連れて行く事を選択したのであれば、その事についてPCデポを責めるのはおかしいんじゃないのか、という事になります。
で、その意思決定に関わる部分が記事ではカットされており、「PCデポの要望」とだけ書かれています。
本当にそうなんでしょうか?
本当にPCデポ側の要請だったとして、なんでケンヂさんは断らなかったんでしょうか?
人によっては些末な事と思うでしょう。
元々ヨッピーさんはケンヂさん側の人間として関わっているので、その時点で公平ではないわけですが、記事においては公平であってほしいものです。
いつものオモシロ記事ではなく、一企業を名指しで批判しようという記事なのですから。
さて、ヨッピーさんとやり取りをした結果、私の得た結論は「よく分からない」です。
記事には書いてありませんが、実は8/20のアポを取る時に揉めており、揉めている時の詳細なやり取りが分かりませんでした。
口論の末に「連れて来い」という話になったようなのですが、それでは何も分からないじゃないか、というのが素直な感想です。
そして揉めた理由が100%ケンヂさん側にあるため、それを全部カットしてあるのはどうなのよ、と思うわけです。
するとPCデポ側としてはお父さんに本人確認するしかないわけで、それってPCデポのせいなの?となるわけです。
加えて、ヨッピーさんは前日に揉めた事すら知らずに記事を書いたそうです。
経緯を知らずにPCデポ側を責める論調で記事を書くというのはアンフェアですし、正確でもないですから不適切です。
「社長との面談を直前で断られたこと、高齢者の父親を老人ホームから連れ出さなければいけなかったこと、最初に身分証の提示を求められたこと、T部長の態度などなどがケンヂさんを硬化させてしまった原因なのかなと思っております。」
このくだりは、よく言えば印象操作、言葉を選ばなければ、デマですね。
事実関係を整理すると、PCデポはそのえげつないサポート契約について批判されるのは当然としても、ケンヂさんの件については同情的にもなってしまうのです。
あらましは記事で、と書いておいて何ですが、記事に書かれていない事を含めて8/20にお店に行くまでの経緯を整理しておきます。
8/20は、本来はケンヂさんとPCデポの野島社長が和解を目指して面談を行うはずの日でした。
8/17に野島社長からケンヂさんに直接電話があり、ケンヂさんとケンヂさんの「協力者」に会うという約束をしていたためです。
この時野島社長はお父さん本人との面談を希望したそうですが、認知症のため不可能だとケンヂさんが答え、その結果ケンヂさんとの面談がセットされた、という流れです。
しかし、前日の8/19にテレビ朝日の「羽鳥慎一モーニングショー」でこの話題が取り上げられ、これについて、PCデポのT部長がケンヂさんにクレームを入れました。
8/20の面談まで、マスコミ対応や本件に関する情報発信はしないという約束だったためです。
ただ、これはT部長の勇み足っぽく、番組ではケンヂさんのインタビューやコメントなどはなかったと記憶しています。
ケンヂさんもツイッターで「その時は取材を受けておりません」と発言しています。
ともあれ、このタイミングで、ケンヂさんは社長との面談に「フリーライター」を連れて行くと伝えました。
T部長はこれに難色を示し、社長との面談がお流れとなりました。
同日(8/19)、その後改めてケンヂさんはT部長と電話でやり取りをしました(ここは記事に書かれていません)。
この内容が、お父さんの契約に関する書類を渡してほしいというものでした。
揉めつつも翌8/20に幕張インター店で受け渡しをする事になり、実際に行ったわけです。
そして8/20、店頭で起こった事はヨッピーさんの記事の通りです。
T部長はお父さんの身分証を求め、持っていないという事で口頭確認をし、お父さんは答えられませんでした。
結局一度老人ホームに戻り、お父さんの身分証を取ってきて再開し、和解する事なく話は終わったのです。
さて、ここで発生する疑問は5つあります。
基本的な話として、疑問を挟む余地なく、契約に関わる業務は本人確認が必要です。
少し厳密なところだと身分証が2点必要だとか、申告した所属先に確認の電話が行くとかもありますね。
今回の場合、お父さんは本人確認のために連れて行かれています。
しかし、お父さんが認知症を患っている事は双方分かっています。
そのため、息子であるケンヂさんを代理に立てる事の合理性はお互い理解していたと思われます。
ではなぜ、お父さんを連れて行く必要があったのでしょうか。
え、本当に?というのが私の率直な感想でした。
お父さんが認知症を患っている事は知っていたのですから、PCデポ側は代理を認めるのが当然だと思ったからです。
認知症のお父さんでは本人確認に通常より手間がかかる事が予想され、連れてきてもらうのもケンヂさんに大きな負担になります。
ケンヂさん一人の方がスムーズに事が運ぶのは想像に難くありません。
不思議な事に、記事内において、ケンヂさんは自分が代理になる事を主張していません。
ケンヂさんにとって、自身が代理として認められれば、お父さんを連れ出さなくてよいという代え難いメリットがあります。
なぜ、お父さんを連れてこいという要求をすんなり受け入れてしまったのでしょうか?
なぜ、お父さんの身分証を求められた際、自分の身分証で代わりにするよう求めなかったのでしょうか?
冷静に考えると、もっとシンプルに物事は進められたはずなんですが、考えうる限り最悪の展開が現実となったように見受けられます。
そりゃあ、背景と経緯が気になります。
この謎のヒントが2016/9/16のケンヂさんのツイートにありました。
(当日、車の免許証を持っていたのでは、という指摘に対して)
この内容は、ケンヂさんは自分一人で行く選択肢があったのを認識していた事を示しています。
「連れて行った次第」とあるので、示唆どころの話ではなく、ダイレクトに示しています。
もっとも、このツイートにはケンヂさんが身分証を提示したくないと考えた理由も示されており、理由自体は多くの人にとって一定の理解が得られるものではないかと思います。
一方で、「お父さんを連れ出す事」と天秤にかけた際、自分の都合を優先した事に変わりはありません。
であれば、店頭に連れて行った事によってお父さんが受けた屈辱は、ケンヂさんは自らの判断の結果として受け入れるべきではないかと思いました。
そしてこのような背景があるのであれば、きちんと記事に反映するべきだったのではないかと考えました。
また記事には「契約者は父親であるため、関係書類を渡すにはケンヂさんの身分証ではなく、父親の身分証が必要とのことです」とありましたが、このツイートによれば、ケンヂさんの身分証提示を拒否したのはPCデポ側ではなくケンヂさん自身です。
ケンヂさん本人がそう言っているのだから、これは記事が間違っているのではないか、と考えたのが今からおよそ23ヶ月前の事です。
当時はヨッピーさんに直接何か言うつもりはなく、ただアンフェアな中で物事が進んだのだなあ、という感想を持っただけでした。
そうこうしているうちに2年ほどが過ぎ、PCデポをウォッチしている間に色々ありましたが、本題とは関係のない話ばかりなので割愛します。
2018/7/17、ヨッピーさんが過去の記事を振り返る記事を書いていました。
そこでPCデポの記事を取り上げていたので、私はその記事をツイッターでシェアすると共に、前項の事をヨッピーさんは知っていたのだろうか、という内容をツイートしました。
7/24のことです。
最初はツイッターでのやり取りでしたが、途中からメールに切り替わっています。
ちなみにその時のヨッピーさんのコメントに「だいぶ事実誤認がありますな」というものがあったのですが、何が事実誤認だったのかは、未だに示されていません。
さて、ヨッピーさんとやり取りをする中で、色々と新情報が出てきました。
1については、あれ、ケンヂさんの一番近くで見ていたのに、なんで知らないの?
という感想を抱きました。
ただまあ、本人が知らなかったと言っている以上、それ以上のコメントはありません。
結局、お父さんを連れて行くようになったのはなぜなのか、連れて行ってなお、身分証の提示で揉めたのはなぜなのか。
一番シンプルな、ケンヂさんが一人で店頭に行って書類を受け取ってくるという展開が作れなかったのはなぜなのか。
その辺りの謎が全部ここに詰まっているわけです。
これについてはヨッピーさんも知らなかった、ないし覚えていなかった事で、ヨッピーさんがケンヂさんに改めてコンタクトを取り、コメントを貰って判明しました。
(ヨッピーさんはPCデポにはコンタクトを取っていません。PCデポには私がリクエストし、当然断られました)。
ケンヂさんの主張は以下の通りです。
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※3については、メールではケンヂさんが自分の身分証を見せれば書類を受け取れるのか、と確認したという話で、「父親を連れて行く必要はないのか」と確認したという話はありませんでした。
順番に整理しますと、まず、T部長は来店時に身分証を提示するようケンヂさんに求めました。
これは本人確認のためなので、当然です。
ところが、ケンヂさんは前回、前々回に解約した時には必要なかったのに、なぜ今回必要なのかと怒り、口論になったのです。
これは要するに本人確認をせずに契約書類を渡せという事ですので、明らかに不当な要求です。
ここでT部長はお父さんを連れてくるようには言っておらず、本人確認のためにケンヂさんに身分証を持って来るよう求めている点も見逃せません。
「以前に解約した時は必要なかったのに」というのも重要な事実で、過去の解約時、ケンヂさんは身分証を提示していないという事が分かります。
契約の事務手続きをやった事のある人なら分かると思いますが、本来あり得ない事です。
さて、口論になった後、なぜかT部長はケンヂさんの身分証を提示されても書類は渡せないと言い出しています。
最初に身分証を求めたのは、ケンヂさんに書類を渡すつもりだったからに他なりません(そうでなければ本人確認する必要がないため)。
いきなり主張が180度転換しています。
なぜかは分かりません。
最終的に、ケンヂさんの「父親本人が居れば書類を引き渡すということですね。身分証もいらないんですね」という確認にT部長が同意し、やり取りが終わっています(この台詞は上の要約にはありませんが、ヨッピーさんからのメールにあったものです)。
ケンヂさんが以前のツイートと全く違う証言をしているのが分かります。
ケンヂさんは「私一人で来るなら身分証明書を、本人が来るならいらないとの話でした。で、本人を連れていったのです。」と自分が連れて行く判断をしたとツイートしていました。