はてなキーワード: 朝廷とは
『こののち、後白河法皇は義経を重んじ、頼朝追討の命令を下したが、これに失敗すると、頼朝はその責任を追及し、逆に義経追討の命令を得た。さらに頼朝は義経をかくまっていた奥州藤原氏を滅ぼそうと朝廷に追討の命令を希望したが、法皇がそれを拒否すると、1189(文治5)年に頼朝は追討の命令を待たず、大軍をもって奥州藤原氏を滅ぼした。ここに全国を平定し、その後、法皇死後の1192(建久3)年に頼朝は念願の征夷大将軍に任じられた。』
” 頼朝の悪人っぷりがこれでもか!?というぐらい強調されています。”
” あいつは自分の野望を実現するため、ときには法皇に逆らって圧力をかけたり、朝廷の命令を無視して独断専行する奴だった、ということを言いたげな記述です。”
悪人っぷり? あいつは野望実現のため独断専行するやつだったと言いたげ??
私にはとてもそうは、そこまでとは読めないのですが、...敢えてのミスリードなのですか?
http://anond.hatelabo.jp/20170604204919
日本史の教科書をいくら見ても本当のところは理解できないんですよ。
なぜ北条家が坂東武士の頂点に立ち、鎌倉幕府を頼朝が作ったにも関わらず、北条がその後の支配権を握り続けたのか。そして戦国時代に「後北条家」が、北条家と特に関係がないのに成立し、関東の盟主足り得たか。源氏とは、北条とは何か。
北条は、坂東平氏の家柄である。坂東平氏とは、桓武天皇の血を引く、関東にやってきた平氏の総称であり、その五世である平将門が新皇を自称して、朝廷に対して関東の支配権を主張して反乱を起こし、敗れた後に祟りを起こして神となったことで、関東に決定的な影響力を及ぼすようになった。
平将門は神である。そこを間違えてはいけない。平将門の怨念とされるものは畏敬の対象として、現代人に対しても深く印象づけられているが、関東ではほぼすべての神社が平将門を祀っていたほどに力があった。坂東武士たちにとっては、平将門は実際に神であり、朝廷に反旗を翻し関東に独立した政権を、坂東平氏が頂点となって打ち立てることは坂東武士の念願であった。平忠常というそのへんの平氏が関東で反乱を起こしただけで一大ムーブメントになってしまうぐらい、平氏が関東を支配し朝廷から独立するという夢は坂東武士の間に広がっていた。元記事に書かれている関東の有力豪族、千葉氏、上総氏は、平忠常の子孫とされている。
そこにやってきたのが源頼朝である。源頼朝は清和源氏の事実上の嫡流である。清和源氏、桓武平氏といった用語を知らない人のために説明すると、天皇家は偉いわけだが、子孫がいつまでも皇族だと皇族が際限なく増えてしまい、現代で言う宮内庁の予算が際限なく増えてしまうので、どこかで平民になってもらわなければならない。平民になる時に、皇族には名字がないので、名字を与える必要がある。その時に、源、平の名字が与えられた。天皇の血を引くスゴイ人たち、という意味が源、平という姓には込められている。清和源氏は清和天皇の子孫で源姓を名乗った人たち、桓武平氏は桓武天皇の子孫で平姓を名乗った人たちである。
たとえば足利も、徳川も、本姓は源である。源尊氏、源家康が本名だ。なぜ足利とか徳川というかと言えば、源が増えすぎて区別の必要が出てきたというのもあるが、源というスゴイ名字を出すのは気が引けたから、という要素が大きいように思う。本当の名字は避け、住んでる所を名字にする、といったことをして、木曽義仲とか、足利尊氏とか、あるいは自分ででっち上げた徳川という名字を使った家康のような人もいる。これを説明するには、武士にとって本名にいかに大切であったか述べなければならないが、面倒だ。武士の下の名前は諱(忌み名、呼んではいけない名前)とされていたということを考えれば、上の名前もそれなりに大事だということはわかると思う。(そして信長様~とか秀吉様~とか言っている時代劇が全部嘘っぱちだということも分かるだろう)
平忠常の乱を平定しようとした、桓武平氏嫡流の平直方は、乱の平定に失敗するが、清和源氏の事実上の嫡流である源頼義を婿に迎え、領地であった鎌倉を譲り渡す。この時、鎌倉は坂東の源氏の拠点であると同時に、平氏と源氏の嫡流が交わった聖地という意味が生じた。そこから八幡太郎義家が生まれ、源氏の声望が高まり、その嫡流である頼朝を権威づけていく。
ここまでくれば、坂東平氏である北条家が頼朝を婿にとり、鎌倉を本拠地に据えた意味が分かるだろう。平家と源氏が交わり、鎌倉を拠点とするというのは故実に則った神聖な儀式なのだ。ちなみに、北条家が坂東平氏の由緒正しい血筋だというのはおそらく自称であり、フィクションである。だが坂東武士は将門の祟りの方が怖いので、血筋の細かい所は気にしないのだ。
鎌倉に作られた幕府は初めから天皇を中心とする朝廷と対立関係にあり、承久の乱で勝利することで朝廷の上位に立ち、皇位継承を操作するまでになった。それはなぜかといえば、平将門が朝廷からの独立を志向していたからである。平将門の怨念が実際に実を結んだのが鎌倉幕府である。頼朝の下で働いた北条、梶原、三浦、和田、千葉、熊谷などは、みな坂東平氏である。そして役割を終えた源氏はどこかに消えて、坂東平氏、北条家による支配が行われた。
そして戦国時代、後北条家の話になるが、後北条家は伊勢新九郎盛時、北条早雲によって立ち上げられる。伊勢氏は室町幕府の政所執事の家柄で、ものすごく偉い。ちなみに桓武平氏である。
室町幕府というのは北条家に牛耳られた鎌倉幕府を倒して出来た政権である。鎌倉幕府内の源氏で最高の血筋だった足利が鎌倉幕府を倒し、北条家はほぼ滅亡してしまう。そして源氏である足利は京都に朝廷とベッタリの幕府を作った。平氏による独立志向の関東の幕府から180度の転換である。
史実ではものすごく偉かった伊勢新九郎盛時であるが、実家が室町幕府の偉い家柄で、関東を牛耳りに来たというのは、いかにも坂東武士には都合が悪い。仕方ないので、先祖を辿れば同じ坂東平氏という縁にあやかって、北条の名を名乗ることにした。ちなみに名乗ったのは息子の氏綱の代である。そこで、おそらく後北条家のプロパガンダによって、歴史改変が行われ、謎の素浪人北条早雲が、下克上の嚆矢となり関東に覇を唱えたという、我々のよく知るストーリーが現れる。よく調べると、全てデタラメである。
これにより、なぜ後北条家が秀吉と争い、滅亡への道を歩んだかも分かるだろう。秀吉は関白、天皇の代理人である。天皇と対抗する存在である坂東武士にとって、秀吉に降ることは、平将門の祟りを招きかねない決断であった。そのため、天下の趨勢が決しても、徳川や伊達の援軍が得られなくても、単身で秀吉と抗い、滅びたのである。それだけ将門の祟りへの畏れや、坂東武士の誇り、天皇家という存在に対する対抗心が強かったのだ。
平将門は武士の始まりであり、武士のスピリットを体現する存在である。武士は武装し土地を守り、権力に抵抗する存在であると同時に、一族で争い、殺し合う存在である。その構図は徳川家康が武士を飼いならすことでご破産になり、そこにあった本質は見えにくくなってしまっているが、武士を知りたければまず平将門を見て欲しい。
http://anond.hatelabo.jp/20170604204919
1183(寿永2)年、義仲軍は京都に入り、食糧不足もあって狼藉を続けた。京都にとどまった後白河法皇は後鳥羽天皇を即位させ、寿永二年の宣旨で頼朝の東国での支配権を認めるとともに、義仲軍の乱暴ぶりを口実にして頼朝の上京を要請するなど、政治力の強化につとめた。しかし、頼朝は東国の支配を固めるために鎌倉を動かず、かわりに弟の範頼・義経が上京し、1184(元暦元)年、二人は義仲を打ち破った。
義仲が京都で乱暴狼藉を働いたという記述があるのは、意外にもこの教科書だけでした。
兵糧不足のまま進撃して首都を占領しても、どうせ軍規が乱れて略奪しまくるぞというのは、日中戦争における南京事件(南京大虐殺)のことを言いたいのかなと思いましたが、それは深読みのしすぎかもしれませんね。どうなんでしょう?
また、これは下記の引用部分になりますが、頼朝が初めて上京したタイミングがいつだったかを明記しているのは、この教科書だけだと思います。
(この点はとりわけ山川の『詳説日本史』が最悪です。頼朝が西国での平家追討の仕事をすべて弟の範頼・義経らにやらせ、自分はその間ずっと鎌倉にひきこもって地盤を固めていたという基本的事項すらも把握できない書き方がされているんです。)
「頼朝は挙兵以来、北条氏や三浦氏などの東国の武士たちと主従関係を結んで、彼らを御家人として組織した。そして1180(治承4)年、御家人の統率と軍事警察を担当する侍所を設けて、有力御家人の和田義盛を別当(長官)に据えた。さらに1184(元暦元)年、一般政務をつかさどる公文所(のち政所)と問注所を開設し、実務に優れた下級官人らを側近にして職務を分担させるなど、支配機構の整備を進めた。
頼朝は後白河法皇の要請を受け、範頼と義経に平家追討を命じ、1185(文治元)年、長門の壇ノ浦で平氏を滅亡させた。後白河法皇は頼朝の権力拡大を恐れて義経を重用し、頼朝の追討を命じたが失敗した。逆に頼朝は、親鎌倉派の公卿・九条兼実(藤原兼実)らを朝廷の重要政務を担当する議奏につかせ、反鎌倉派の貴族を追放し、義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた。さらに1189(文治5)年、頼朝は義経をかくまったことを口実に藤原秀衡の子の泰衡を攻め、奥州藤原氏を滅ぼした。こうして頼朝は東国や西国の多数の武士を御家人として組織しながら、主に東国の支配を確立していった。
1190(建久元)年、頼朝は挙兵後はじめて京都に入り、右近衛大将に任命され、後白河法皇没後の1192(建久3)年には、法皇の反対で就任できなかった征夷大将軍に任命され、名実ともに鎌倉幕府が成立した。」
当然ながら『詳説日本史』にも、侍所、政所、問注所、地頭というキーワードは出てきます。しかし、治承・寿永の乱とは別項に記述されているため、時系列が分かりづらくなっています。
それに比べて、この教科書は歴史の流れの中にキーワードを配置しています。だから、時系列に即してこれらの言葉の意味を理解することができるはずです。
結びが「名実ともに鎌倉幕府が成立した」という記述になっているのも、味わい深いです。
鎌倉幕府の成立が何年かという論争を垣間見ることができます。名目的には1192年に幕府が成立したと言えるが、実質的にはそれ以前から幕府の政治機構ができあがっていたというニュアンスを含ませているのでしょう。
あとは、上記引用中の「義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた」という記述が最高にクールです。
一般には1185年、義経の捜索を名目にして守護・地頭が設置されたとされていますし、国ごとに置かれた役職が地頭ではなく守護だと暗記している人が多いんじゃないでしょうか?
例えば山川の『詳説日本史』はそうなっています。それによると、頼朝は1185年に「諸国には守護を、荘園や公領には地頭を任命する権利」を獲得したとされています。守護は「おもに東国出身の有力御家人」から選ばれて「原則として各国に一人ずつ」任命され、「大犯三箇条などの職務を任とし」て国内の御家人を指揮統率し、とくに東国では在庁官人を支配することで「地方行政官としての役割も果たし」ました。いっぽう、地頭は「御家人のなかから任命され、任務は年貢の徴収・納入と土地の官吏および治安維持」です。「頼朝は主人として御家人に対し、おもに地頭に任命することによって先祖伝来の所領の支配を保障したり(本領安堵)、新たな領地を与えたりした(新恩給与)」わけですが、このことが御恩と奉公の関係となって封建制度の基礎となりました。
ところが、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)によると、ここの説明がこれとまったく異なります。私が先に引用した項では、1185年の出来事として守護の設置には言及せず、地頭の設置だけが記述されています。しかもその"地頭"は国ごとに置かれたものだとされているのです。
私は最初にこれを読んだとき、わけが分からなくて混乱しました。それでがんばって自力で調べてみて(独学なので苦労したナァ)ようやく理解できたのですが、1185年の文治の勅許で守護・地頭が置かれたとする『吾妻鏡』の記述には疑いがあり、実はこれがかつて学者の間でも論争になったテーマだったらしいのです。
1960年に石母田正が新説を発表したのですが、おおざっぱに言うと、新説では、この時点で置かれたものが守護・地頭ではなく、地頭(国地頭)だったとしています。それはわれわれが普通一般に知っている地頭(荘郷地頭)とは異なり、一国を統括する強大な権限を持つ存在です。この国地頭はすぐに廃止され消滅しましたが、守護の前身となりました。
三省堂の教科書は、次項でそのことが説明されています。頼朝がはじめは国ごとに"地頭"を派遣して荘園・国衙領のいずれからも兵糧米を徴収させていたこと、そのやり方がひどすぎたから反発を招いて、以後は"地頭"に代わるものとして守護を置いた、という記述になっています。またこれに続いて、頼朝は「荘郷地頭と呼ばれる地頭を任命し」、平氏没官領や謀反人の所領跡で「年貢・公事の徴収、治安維持に当たらせた」としています。
このように、三省堂の教科書では、「国地頭」と「荘郷地頭」をはっきりと区別しているのです。
実教出版もこの新説を採用しています。こちらも合わせて読んでおくと、国地頭のことが大変よく分かります。東京出版は本文の記述が旧説に拠っていますけど、欄外では国地頭が惣追捕使とならび、守護の前身として存在していた話をちょこっと説明しています。これらの教科書は「国地頭」論争の成果を取り入れており、学問的に誠実だと思います。
それに対して山川の『詳説日本史』は旧説を採用し、1185年に守護・地頭の設置が認められたとする断定的な記述になっています。これが他の教科書とのあいだに無用な矛盾を生じさせているのです。私と同じようにこの点につまづいて、困惑してしまった高校生が少なからずいるんじゃないでしょうか。
なお、山川の参考書『詳説日本史研究』にもこの新説の紹介はありません。同社『日本史B用語集』には「国地頭」という用語が掲載されていて、そこでは一応説明がされているんですが、あたかも国地頭が荘郷地頭の前身だったと思わせるような記述です。
地頭(じとう)⑪:1185年、頼朝の要請で後白河法皇は諸国の公領・荘園に地頭を設置することを認めた。当初は1国単位に荘園公領を支配する国地頭を設置したが、まもなく平家一族の所領として没収された平家没官領と謀反人跡地に限定した荘郷地頭となった。しかし、公家・寺社の強い反対で、一時縮小、承久の乱後に全国化した。任務は土地管理、年貢・兵糧米の徴収、治安維持など。
ですが三省堂・実教出版・東京書籍の教科書によると、国地頭はむしろ守護へと発展的解消を遂げたという記述なんですから、『日本史B用語集』のこの説明とはやはり若干の矛盾が生じています。
「国地頭」を教科書に載せている上記の主要3社の文脈に従うなら、この用語を独立の項目として取り扱うか、せめて「地頭」の項目じゃなく「守護」の項目にいれて取り扱うべきじゃないでしょうか。
(追記 これはインターネット上の情報なので私は未確認ですが、現在は『詳説日本史』にも国地頭が掲載されているそうです。近年改訂されたんでしょうか。
予防線を張っておくと、私は高校で日本史Bを履修しなかったし、大学も理系に進みました。教科書を読んだのは興味本位にすぎません。
はじめに書いたとおり、最新版の教科書を持ってません。今回はてブでバズっていてびっくりしましたが、筆者は歴史学の専門家でも何でもないことをお断りしておきます。
再追記。id:HRYKtbykさん、確認をしてくださり感謝です。)
(追記2
複数の教科書を読み比べすることで、『詳説日本史』を読むだけでは見えないポイントが浮かび上がってきます。
『詳説日本史』では、前九年合戦・後三年合戦のところで、「これらの戦いを通じて源氏は東国武士団との主従関係を強め、武家の棟梁としての地位を固めていった」とあります。これが後の頼朝挙兵につながるわけですが、それは時代を経てからのことだから、教科書のページが離れすぎていて、この関連が把握しづらくなっています。
ここで例えば山川出版社『新日本史B 改訂版』(日B 018)のような他の教科書と読み比べてみると、『詳説日本史』がこの簡潔な一文を通して伝えたかったことを理解することができるのです。(上述参照)
つぎは例えば、貫高制・石高制を見てみましょう。
『詳説日本史』によると、戦国大名の性格は次のように説明されています。戦国大名は「新たに征服した土地などで検地をしばしばおこなっ」て、それにより「農民に対する直接支配」を強化しました。そして国人や地侍を取り込むため、貫高制を導入しました。これは戦国大名が彼らを「貫高という基準で統一的に把握」して軍役を課す制度でした。それでここからすこし時代を下り、別のページで豊臣秀吉の太閤検地を説明しています。太閤検地により石高制が確立しました。それは「荘園制のもとで一つの土地に何人もの権利が重なりあっていた状態を整理」し、「一地一作人」を原則とするものです。農民は「自分の田畑の所有権を法的に認められることになった」わけです。
このような記述だけでも表層的な理解はできると思いますが、実教出版『日本史B 新訂版』(日B 014)は、貫高制について「荘園の複雑な土地制度は貫高に組み込まれ、大名の統一的な国内政治を推進」するものとしています。『詳説日本史』ではせいぜい石高制と荘園制の関係しか分からないでしょうが、本書はこのように貫高制と荘園制の関係を明示しているのです。
この視点を最もわかりやすく記述しているのが、三省堂『日本史B 改訂版』(日B 015)です。本書は貫高制、石高制、荘園制の全部を一つの項目に入れて記述しています。それによると、秀吉は太閤検地を行い、「戦国大名の貫高制にかわって、それを発展させて全国に広げた石高制」を導入、その結果「荘園制を完全に崩壊させ」ました。このポイントを把握しておけば、中世から近世への社会の変化を、土地の一元的支配の確立、荘園制の衰退・消滅という視点で見ることができます。本書の特徴は、貫高制・石高制をともにこの視点から語っていることと、しかもそれが荘園制を「完全に崩壊させ」たと言い切っていることです。
ちなみに、東京書籍『日本史B』(日B 004)では、石高制を「近世封建制の体制原理」と書いています。これがまったく新しい制度であることを強調しつつ、近世という言葉を使ってその射程を江戸時代にまで広げているのです。)
はてなブックマークの人気記事だったので開いてみたのですが、驚くほど中身のない記事でした。
『詳説日本史』を引用するなり参照するなりして、具体的にどこがどうすごいかを語ってほしかったです。
僕も10代の頃はあれが本当に理解できなかった。けど今ならああいう教科書が作り続けられる理由がよくわかる。物事を語るにあたって、中立を維持しようとするとなると、事実しか語れなくなるのである。
ストーリーというものは、基本的には何らかの価値観を元に構築されるものである。日本民族がいかに優れているかという視点で歴史を分析すると、それは右翼的な記述にならざるをえないし、平等であろうとすれば、それは左翼的な価値観を元に記述せざるをえなくなる。
客観的な記述がされている、左右に偏向していない、中立だからすごいゾ、という感想には呆れ果てました。
いったい全体、どこが情熱的ですか? 教科書を読み返さず、いい加減な記憶をもとに語っても、多分これくらいのことは言えると思います。
クソ記事を読んでしまい、あんまりにもムシャクシャしたので、私が自分で『詳説日本史』を引っ張りだしてきて調べました。
例えば「源平の騒乱」という項目は、次のように記述されています。
平清盛が後白河法皇を幽閉し、1180年に孫の安徳天皇を位につけると、地方の武士団や中央の貴族・大寺院のなかには、平氏の専制政治に対する不満がうずまき始めた。この情勢を見た後白河法皇の皇子以仁王と、畿内に基盤を持つ源氏の源頼政は、平氏打倒の兵をあげ、挙兵を呼びかける王の命令(令旨)は諸国の武士に伝えられた。
これに応じて、園城寺(三井寺)や興福寺などの僧兵が立ち上がり、ついで伊豆に流されていた源頼朝や信濃の木曾谷にいた源義仲をはじめ、各地の武士団が挙兵して、ついに内乱は全国的に広がり、5年にわたって騒乱が続いた(治承・寿永の乱)。
平氏は都は福原(現・神戸市)へと移したが、まもなく京都にもどし、畿内を中心とする支配を固めてこれらの組織に対抗した。
しかし、畿内・西国を中心とする養和の飢饉や、清盛の死などで平家の基盤は弱体化し、1183年(寿永2)年、平氏は北陸で義仲に敗北すると、安徳天皇を報じて西国に都落ちした。やがて、頼朝の命を受けた弟の源範頼・義経らの軍に攻められ、ついに1185年に長門の壇の浦で滅亡した。
この一連の内乱の行末に大きな影響をおよぼしたのは地方の武士団の動きで、彼らは国司や荘園領主に対抗して新たに所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、その政治体制を求めていた。
ここには明らかに編者の歴史観と、因果関係の説明が詰め込まれています。
まず、平清盛が後白河天皇を幽閉したこと、安徳天皇を即位させたことは、この教科書では「平氏の専制政治」と評されています。
当時の人たちがそう感じていたのか、それとも教科書の編者がこの評価を下しているのか、どちらなのか判然としませんけど、ともかく本書はこの評価にもとづいて記述がされています。
次に、この「平氏の専制政治」が地方の武士団や中央の貴族・大寺院の不満につながって、 以仁王と源頼政はそういう情勢を見たので挙兵したと書かれています。
これはまさしく因果関係に言及しているわけです。
このように、教科書は単なる事実の羅列ではありません。歴史に対する評価や因果関係がしっかりと述べられているのです。
そこにどういう学問的な裏付けがあるか、歴史学に無知な私はよく知らないです。あのブログ記事ではそのへんの話を説明していると思ったのですけど、まったくの期待外れでしたね。
なお、この教科書とおなじ編者がつくった参考書『詳説日本史研究』(山川出版社)によると、次のように説明されています。
治承・寿永の乱は、一般には源氏と平氏の戦いといわれている。しかし歴史学的にみた場合、この全国的な動乱を単に源氏と平氏の勢力争いとみるのは正しい理解ではない。以仁王の挙兵以降、軍事行動を起こすものが相次いだ。美濃・近江・河内の源氏、若狭・越前・加賀の在庁官人、豪族では伊予の河野氏・肥後の菊池氏らである。彼らはあくまでも平氏の施政に反発したのであって、はじめから源氏、とくに源頼朝に味方したわけではない。彼らの背後には在地領主層があり、在地領主たちは自己の要求を実現するために各地で立ち上がったのである。
彼らの動向をまとめあげ、武家の棟梁となる機会は頼朝以外の人、例えば源義仲・源行家、あるいは平宗盛にも与えられていた。頼朝が内乱に終息をもたらし得たのは、彼こそが在地領主層の要望に最もよく答えたからである。この意味で幕府の成立は、時代の画期ととらえることができる。
教科書である『詳説日本史』では、これがたった一文にまとめられているのです。
この一連の内乱の行末に大きな影響をおよぼしたのは地方の武士団の動きで、彼らは国司や荘園領主に対抗して新たに所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、その政治体制を求めていた。
こういう史観が妥当なのかというのは、私にはちょっと分からないんですが、この点を強烈にプッシュしているのが『詳説日本史』の特徴と言えるでしょう。
他の教科書を読んでみても、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)を除き、この史観はあまりプッシュされていないと感じました。
【参考文献】
(このエントリは上記7冊を参照しています。いずれも平成22年ごろ購入。)
伊豆に流されていた源義朝の子・源頼朝も、妻・北条政子の父北条時政とともに挙兵して南関東を掌握し、10月には源氏の根拠地・鎌倉に入った。頼朝は父祖以来の結びつきを背景に、三浦、千葉、上総氏などの有力な東国武士と主従関係を結んで御家人とし
頼朝の挙兵が、東国武士との「父祖以来の結びつき」を背景にしていたものだったということは、他の教科書ではなかなか分からないと思います。
三浦、千葉、上総という武士の名前が沢山出てくるのもおもしろいですね。(三浦氏の名前が出てくる教科書は多いですが、それはこの時点ではなく幕府成立後、十三人の合議制か、宝治合戦のときに唐突に登場します。)
[寿永二年十月宣旨から義仲滅亡までの]この間、鎌倉の頼朝は没収した平氏の所領(平氏没官領)を法皇より与えられ、経済基盤を固めていった。また御家人を統制する侍所を設置し、その長官である別当には和田義盛を任命した。これに加えて、行政・裁判制度を整えるための公文所(のちに政所)・問注所がおかれ、その長官にはそれぞれ京から招かれた朝廷の役人である大江広元・三善康信が就任した。前後して、義経軍らは一の谷・屋島で平氏を追い、1185(文治元)年に壇ノ浦で平氏を滅ぼした。
[]は引用者註。
この教科書の特徴は、幕府の政治機構の形成過程を、治承・寿永の乱の進行に併記していることです。
鎌倉幕府の成立が1192年(いいくに)なのか、1185年(いいはこ)なのかという論争は、世間でよく知られているぐらい有名になりました。どちらが正しいかは諸説あるとしても、ただ一つ言えることは、どこかの時点でいきなり幕府が完成したというわけではありません。治承・寿永の乱が続いていた期間に、徐々に幕府の政治機構が形成されたのです。この教科書はその史観が反映されています。
北条時政の援助によって挙兵した頼朝は、東国武士たちに支持されて、富士川の戦いで平氏を破ったが、その後は鎌倉にとどまって、東国の地盤を固めることに専念した。これに対して平清盛は一時、都を福原(神戸市)に移して態勢を立てなおそうとしたが、まもなく京都に戻り、1181(養和元)年に病死した。一方、義仲は1183(寿永2)年、北陸方面から急進撃して、平氏一門を京都から追い出した。しかし、義仲は後白河法皇と対立したので、法皇は同年、頼朝に東海・東山両道(東国)の支配権を認め、義仲追討を命じた。頼朝は弟の範頼・義経らを上京させて、義仲を討たせた。範頼・義経はさらに平氏追討に向かい、1185(文治元)年、長門の壇ノ浦で平氏一門を滅ぼした。
この教科書は歴史用語の詰めこみを回避しているようで、内容は簡単、文章としても平易です。
上記引用でも分かるとおり、「頼朝に東海・東山両道(東国)の支配権を認め」という記述があるくせに、寿永二年十月宣旨というキーワードがありません。治承・寿永の乱、一の谷、屋島の戦いなどは年表に記載されていますが、本文中に記載なし。養和の飢饉、平氏が都落ちに安徳天皇を伴ったことも言及なし。
というわけで受験生には不向きですが、他の教科書にはない特色もあります。
鎌倉将軍に尽くして家人となった武士のことを、鎌倉御家人といった。鎌倉御家人になる目的は、将軍に面接して(見参)、先祖伝来の所領を承認してもらい(本領安堵)、さらに勲功のあった者は新たな所領を恩賞としてうける(新恩給与)ことにあった。
教科書の中では唯一、桐原書店だけが「見参」を掲載しています。これは鎌倉幕府の権威の構造がどういったものであったかを知るための手がかりになるかも。
(他の教科書ではこの用語がないどころか、「将軍に面接して」という説明も省かれています)
["新恩給与"についての註]
土地そのものよりも土地に対する一定の支配権と、それにともなう収益権を与えられるのが普通で、そのおもなものが地頭職であった。
これは「職の体系」のことを言っています。他の教科書とは違って、地頭をあえて「地頭職」と見なす視点を紹介し、その意味するところを簡潔に説明しているのがすごい!
所有権が重層的に重なりあっていたというのは、中世の土地支配の構造を知るうえで一番大切なポイントだと思います。
なお、山川出版の『日本史B用語集』には「職の体系」という用語は不掲載で、かわりに「職」の項でそれを説明しています。
職(しき)②:一般に職務に伴う土地からの収益とその職務自体を指す。荘園の場合、有力者への寄進が何回も積み重なり、下記のような複雑な職の改装秩序を生じた。
この説明は悪くないと思いますが、桐原書店は「土地そのものよりも土地に対する一定の支配権と、それにともなう収益権」のことと明記しているので、その方が的確です。
しかも、いかんせん、『日本史B用語集』は「職」の用語説明を「院政期の社会と文化」のページに掲載しているので、これと鎌倉時代の地頭職との関連が全然分からないです。そして「鎌倉幕府の成立」のページにある「地頭職」の用語説明は、次のようになっています。
地頭職(じとうしき)⑤:職とは役職に伴う権益の意味。地頭職は御家人が地頭に任命されて認められた兵糧米の徴収や免田(給田)経営などの権利。
これは間違っていませんけど、この説明を読んで、重層的な土地支配の構造があったことを理解できますか? 絶対に不可能ですよね?
せめて「職」「地頭職」という用語同士を紐付けて相互参照させてほしいです。ふざけんなってかんじです。
さて、桐原書店の教科書に話をもどすと、欄外にこういう豆知識も載っています。
幕府とは、近衛府の唐名であるが、転じて近衛大将の居館のことをいった。のちには近衛大将とは関係なく、武家政権を意味する語となった。頼朝は1190年に上洛し、右近衛大将に任ぜられたが、まもなく辞任した。
Aについては南北朝時代の武将とする説もあり(伝・藤原隆信筆,京都神護寺蔵)、Bも注目されるようになった(山梨・甲斐善光寺蔵)。
とてもユニークですね。受験には使えないかもしれませんが、知っておいて損はないです。
網野善彦の著作『東と西の語る日本の歴史』に、たしかこの話があったと思います。
他の教科書には載ってませんが、ピンポイントで東大入試に出題されました。
源氏と鎌倉の関係は、源頼信のころに源氏の氏神となった石清水八幡宮を、前九年合戦の際、子の頼義が相模国由比郷に勘請して鶴岡若宮(八幡宮の前身)を建設したことから始まった。鎌倉は前面に海をもち、三方を山にかこまれた要害の地で、切通によって外部と結ばれていた。
鎌倉という土地をこれだけ情熱的に語っているのは、東京書籍の教科書だけです。
上記引用とはまた別に、「コラム 武家の都鎌倉と経済流通」というのも掲載されています。
東大入試では、「院政時代から鎌倉時代にかけての京都と鎌倉の都市の発展」について論述させる問題が出されたことがありますが(1990年)、この教科書はその答案を書くうえで非常に役立つものだと思います。
こののち、後白河法皇は義経を重んじ、頼朝追討の命令を下したが、これに失敗すると、頼朝はその責任を追及し、逆に義経追討の命令を得た。さらに頼朝は義経をかくまっていた奥州藤原氏を滅ぼそうと朝廷に追討の命令を希望したが、法皇がそれを拒否すると、1189(文治5)年に頼朝は追討の命令を待たず、大軍をもって奥州藤原氏を滅ぼした。ここに全国を平定し、その後、法皇死後の1192(建久3)年に頼朝は念願の征夷大将軍に任じられた。
頼朝の悪人っぷりがこれでもか!?というぐらい強調されています。
あいつは自分の野望を実現するため、ときには法皇に逆らって圧力をかけたり、朝廷の命令を無視して独断専行する奴だった、ということを言いたげな記述です。
それはともかく、奥州藤原氏を守ろうとした法皇・朝廷側と、それを潰そうとした頼朝の厳しい対立がわかるのは、この教科書だけでしょうね。
両者のぴりぴりした緊張関係が伝わってきます。
関西にある政権が東北地方を使って、関東独立の動きを牽制するというのは、日本の歴史において繰り返し出てくるパターンなので、この視点を漏らさず記述しているところはアッパレ。
平氏は安徳天皇を奉じて西国に落ちていったが、後白河法皇は京都にとどまり、新たに後鳥羽天皇をたてて政権を維持した。法皇は義仲には平家追討を命じるいっぽう、頼朝には上京をうながして、京都の義仲に対抗させ、武士たちをたがいに牽制させて政局の主導権をにぎろうとした。しかし頼朝は、東国の安定に意をそそいでみずからは鎌倉を動かず、弟の範頼・義経を上京させて、1184(元暦元)年、義仲を討たせ、源氏一族の長となった。ついで義経らは、その当時勢力を回復して都にせまっていた平氏を一の谷・屋島などの合戦でやぶり、さらに翌1185(文治元)年にはこれを長門の壇ノ浦に追いつめて滅亡させた。
この時代に2人の天皇が同時に存在していたとする視点を取り入れているのがナイス。
都落ちした平氏はそのままあっけなく滅んだわけじゃなくて、京都にいる天皇とは違う天皇を奉じて勢力を盛り返していたのです。
どちらの天皇が正統かというのは、つまるところ結果論にすぎません。この教科書はそんな歴史観に基づいて書かれています。
ちなみに、この教科書の編者は、大半が関西の教育機関に属する人たちみたいです。後白河法皇や平氏を主軸にした書き方は、編者の関西びいきが反映した結果なんでしょうか。(笑)
例えば奥州合戦について、「奥州進撃のために頼朝は東国だけでなく西国の武士もひとまず鎌倉に動員し、これを機会に国ごとに御家人組織の整備をいっそうすすめた」とあります。さらに西国の御家人が東国の御家人とどう違うかを説明しているのもおもしろく、この教科書の関西中心っぽい史観は独特です。
三一権実諍論(さんいちごんじつ の そうろん)は、平安時代初期の弘仁年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗の僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄(767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。「一三権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などとも。
目次 [非表示]
1 概要
2 平安初期の仏教界
2.1 法相宗と徳一
3 論争の経緯
3.1 論争の発端について
4.2 南都教団への対抗
4.3 中傷者徳一に対する怒り
4.4 蝦夷征討との関係
5 その後
6 注・出典
7 関連項目
8 参考文献
「三一権実諍論」の「三一」とは、三乗と一乗の教えのことであり、「権実」の諍論とは、どちらが「権」(方便。真実を理解させるための手がかりとなる仮の考え)で、どちらが「実」(真実の考え)であるかを争ったことを言う。一乗・三乗の「乗」とは衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物であり、天台宗の根本経典である『法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗は一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、小乗(声聞乗・縁覚乗)・大乗(菩薩乗)の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとし、定性の二乗と仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこそ真実であると主張した。このように三乗・一乗のいずれが真かをめぐり真っ向から対立する意見の衝突が行われた。
ただし、徳一と最澄の論争は三乗と一乗の争いのみに留まらず、教判論(数ある経典の中で釈尊の考え方に最も近いものを問う)における法華経の正統性を問うたものでもあるから「法華権実論争」と呼ぶべきとの考えもある[1]。この論争の間、最澄は『守護国界章』『法華秀句』など大部の著作を執筆しており、これは徳一からの批判への反論の書として書かれたものである。一方の徳一側の著書は、真言宗の空海(774年 - 835年)への論難である『真言宗未決文』以外現存していないため、詳細は不明である。しかし、徳一の主張は最澄側の批判書に引用される形で部分的に残存しており、ある程度の復元が可能である。
いずれにしろ論争は著作の応酬という形式で行われ、実際に両者が顔を合わせて激論を交わしたということではない。
奈良時代に興隆したのは、法相宗や華厳宗・律宗などの南都六宗である。本来、南都六宗は教学を論ずる宗派で、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて日本に伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。天台宗は後述の如く最澄によって平安時代初期に伝えられたため、日本への伝来順は逆となったわけである。
この時代の日本における仏教は中国と同様、鎮護国家の思想の下、国家の管理下で統制されており、年ごとに一定数の得度を許可する年分度者の制度が施行され、原則として私度僧は認められていなかった。このことは逆に仏僧と国家権力が容易に結びつく原因ともなる。実際、奈良時代には玄昉(? - 746年)や道鏡(700年 - 772年)など、天皇の側近として政治分野に介入する僧侶も現れていた。桓武天皇(737年 - 806年)が平城京から長岡京・平安京に遷都した背景には、政治への介入著しい南都仏教寺院の影響を避ける目的もあったとされる。新王朝の建設を意識していた桓武天皇にとって、新たな鎮護国家の宗教として最澄の天台宗に注目・支援することで従前の南都仏教を牽制する意図もあった。
日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられている。白雉4年(653年)道昭(629年 - 700年)が入唐留学して玄奘三蔵(602年 - 664年)に師事し、帰国後飛鳥法興寺でこれを広めた。
徳一は一説には藤原仲麻呂(恵美押勝とも。706年 - 764年)の子といわれるが疑わしい[2]。はじめ興福寺および東大寺で修円に学び、20歳代の頃に東国へ下った。東国で布教に努め、筑波山中禅寺(茨城県つくば市)・会津恵日寺(福島県耶麻郡磐梯町)などを創建したという。
前述のごとく、徳一の著作はほとんど現存していないため、その生涯は不明な点が多い。
天台宗は法華円宗、天台法華宗などとも呼ばれ、隋の智顗(538年 - 597年)を開祖とする大乗仏教の宗派である。智顗は『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の天台三大部を著して、『法華経』を根本経典とし、五時八教(仏教の理解度の5段階に合わせて記された経典のうち、法華経を到達点とする)の教相判釈(経典成立論)を説く。
最澄ははじめ東大寺で具足戒を受けたが、比叡山に籠もり、12年間山林修業を行った。さらにそれまで日本に招来された大量の仏典を書写し研究する中で、南都六宗の背景にある天台教義の真髄を学ぶ必要を感じ始め、親交のあった和気氏を通じて桓武天皇に天台宗の学習ならびに経典の招来のための唐へ留学僧の派遣を願い出た。これを受け、桓武天皇は最澄本人が還学僧(短期留学の僧)として渡唐するように命じた。こうして延暦24年(805年)の遣唐使船で最澄は入唐を果たす。予定通り天台山にのぼり、台州龍興寺において道邃(天台宗第七祖。生没年不明)より天台教学を学び、円教(天台宗)の菩薩戒を受けて、翌年(806年)帰国した。
帰国後、最澄は桓武天皇に対し従来の六宗に加え、新たに法華宗を独立した宗派として公認されるよう奏請、天皇没後には年分度者の新しい割当を申請し、南都六宗と並んで天台宗の2名(遮那業・止観業各1名)を加えることを要請した。これらが朝廷に認められ、天台宗は正式に宗派として確立。これが日本における天台宗のはじまりである。最澄はさらに同じく入唐した空海に師事して、密教への理解を深める一方、六所宝塔院(比叡山寺(後の延暦寺)を中心とする)の造立計画を立て、弘仁5年(814年)には九州へ、同8年には東国へ赴くなど精力的に活動する。最澄の悲願は大乗戒壇の設立であり、大乗戒を授けた者を天台宗の菩薩僧と認め、12年間比叡山に籠って修行させるという構想によって、律宗の鑑真(688年 - 763年)がもたらした小乗戒の戒壇院を独占する南都仏教の既得権益との対立を深めていた。
論争の発端となったのは徳一が著した『仏性抄』であるとされる[3]。この書における一乗批判・法華経批判に対して最澄が著したのが『照権実鏡』であり、ここから両者の論争が始まった。
ただし、そもそも徳一が『仏性抄』で論難したのは中央仏教界の最澄ではなく、東国で活動していた道忠(生没年不明)とその教団であったとする説がある[4]。道忠は最澄が入唐前の延暦16年以降、あらゆる経典の写経を行った際、東国からはるばる駆けつけて2000巻もの助写をしたほど親交があり、東国における最澄の盟友的存在であった。道忠自身は鑑真の弟子で、律宗の僧侶であったが、戒壇が設けられた下野薬師寺との関連か[5]東国に住し、広く弟子を持つ僧侶であった。最澄が東国へ下った際には、すでに道忠は没した後で教団は広智(生没年不明)が率いる状態であったが、後に天台座主となった円澄(771年 - 836年)や円仁(794年 - 864年)・安慧(794年 - 868年)らは、もともと道忠の弟子もしくは孫弟子(広智の弟子)であり、道忠との縁から最澄に入門したなど、道忠は初期の天台教団の中で、非常に重要な役割を果たしていた存在であった[6]。
筑波山を開山し、会津を拠点とした徳一が標的としたのは、むしろ地理的に東国において布教を行っていた道忠教団であった可能性が高い。徳一の『仏性抄』の存在を最澄に知らせたのも道忠教団であったと見られる[7]が、異論もある[8]。
三一権実諍論に関する著作としては、
≪徳一側著作≫
『法華肝心』2巻
『法華権文』1巻
『中辺義鏡』20巻
『慧日羽足』3巻
『遮異見章』3巻
『義鏡要略』7巻?
『法相了義灯』11巻
『通破四教章』1巻
『照権実鏡』1巻
『依憑天台集』1巻
『守護国界章』9巻
『決権実論』1巻
『通六九証破比量文』1巻
『法華秀句』5巻
などが挙げられる[9]。論争の主要な流れとしては、
徳一の『仏性抄』(成立年不詳)に対し、最澄が『照権実鏡』(弘仁8年(817年)成立)で反論。
徳一の『中辺義鏡』『慧日羽足』に対し、最澄が『守護国界章』(弘仁9年(818年)成立)で反論。
最終的な結論として、最澄が『法華秀句』(弘仁12年(821年)成立)を著す。
となっている。なお諍論の前期において、最澄が『照権実鏡』で徳一の『仏性抄』を批判したのに対し、徳一の『中辺義鏡』では最澄の反論に全く答えていない。そのため『中辺義鏡』の批判対象としては、書名のみ残っている最澄の著書『一乗義集』ではないかとする説[10]、もしくは道忠教団によって書かれたと思われる『天台法華義』とでも称すべき書であったとする説がある[11]。続いて『守護国界章』下巻における三一権実論に対する徳一の反論として『遮異見章』『慧日羽足』が書かれたと思われ、それに対して最澄が『決権実論』で反論、結論の書として『法華秀句』を撰述したと見られる[12]。
一連の論争の内容は難解で、一乗・三乗の権実のみならず、教判論における法華経や天台三大部の正当性、天竺・震旦の先哲による教義解釈の是非など広範囲に及ぶ。しかし一方では、最澄の教法に対する価値論に対し徳一は仏法理解の先天的素質論を述べており、両者の論争の焦点があまり噛み合っておらず、議論そのものも詳細というよりは瑣末的であり、時折相手側への罵倒に近い表現も見られる(後述)など、すれ違いの印象も与えている。
天台宗側では『法華秀句』の成立をもって論争の終結とする(翌年に最澄は入寂)。論争の歴史を天竺や中国の仏教史まで遡って述べたもので、『法華秀句』の書名は、智顗による天台三大部の『法華文句』を意識したものと思われ、最澄の論争決着への決意が現れている。ただし、これは最澄側の一方的な論争打ち切りであり、徳一側からは決着がついていないとも言える[13]。なお徳一は天台宗のみならず密教に対しても問題視していたと見られ、真言宗の空海に対しても『真言宗未決文』で批判している(なお、これが徳一の著作として現存する唯一の史料である)。
下記は、取り立てて、最澄の書き物に怒りは表明されていないが、法相宗派の学者の何人かは、そのようにとらえているようである。その理由をあえて挙げるとすれば、次の事柄をあげられるが、これも、特にここに特記すべきほどのことではない。参考までに、法相宗派側の意見を以下に述べる。 最澄は、しばしば非常に激烈な表現を用いて論敵を攻撃しており、たとえば『守護国界章』において最澄は、非難の対象である徳一のことを「麁食者(そじきしゃ。粗末な食べ方をする者、半可通のこと)」「謗法者(ほうぼうしゃ。賢しらに法を曲げる者)」「北轅者(ほくえんしゃ。南に行こうとして牛車・馬車の轅(ながえ)を北に向ける者。方角もわきまえぬ者)」などの蔑称で呼び、本名の徳一で呼ぶことは一切ない。どちらかといえば秀才肌で生真面目な感のある[14]最澄が、これほどまでに攻撃的な姿勢で論争に臨んだ背景として、いくつかの原因が考えられる。
最澄は入唐求法から帰国する直前、越州に寄り、密教を龍興寺の順暁(密教の法灯においては傍流に属する。生没年不明)に学び、灌頂を受けている。帰国後も最澄の密教への関心は高く、自身より年少で僧としての地位も低いながら、正統的な密教を学んで帰国した空海に師事することになる。
最澄と同じく804年の遣唐使で入唐した空海は、真言八祖の一人恵果(746年 - 806年)から正統的な密教を学び、大量の経典・法具を携え、最澄よりやや遅れて大同元年(806年)に帰国していた。最澄は空海の招来した仏典を借り受けて密教を本格的に学びはじめ、弘仁3年(812年)には弟子の泰範(778年 - ?)らとともに空海の高雄山寺において灌頂を受け、正式に空海の弟子となっている。さらに泰範らを空海の下に派遣して密教の奥義を学ばせようとしていた。
しかし、弘仁4年(813年)最澄が『理趣釈経』(『理趣経』の解釈書)の借用を空海に申し出たところ、空海が密教の真髄は文章修行ではなく実践によってのみ得られるとして拒絶したため、両者の仲は悪化する。さらに最愛の弟子であった泰範が、最澄の再三の求めにもかかわらず比叡山への帰還を拒み、空海の下での修行を望んだことなどが重なり、両者は義絶するに至った。真言宗側では、これをさかんに吹聴するが、『理趣釈経』は、いわば、後世、淫靡宗教と結びついたものであり、空海がそれを見せたがらなかったのは、故あることであったようである。つまり、密輸入書物とも言えるものであり、かえって、見ないほうがよかったのではないかと思われている。
天台宗に密教の要素を取り入れ、新たな宗派としての地位を高めようとしていた最澄にとって、泰範・空海との訣別により孤立感が深まったことで、南都諸宗に対してより敵対的な姿勢に駆り立てられたともいわれる[15]。なお天台宗は最澄の死後、本格的に密教化することになる(→台密)。
最澄が論争相手とした徳一自身は、若年から東国に拠点を移して活動していた地方僧であったものの、彼が所属する法相宗自体は、当時の仏教界においては主流である南都六宗の中心であった。後世に天台宗の方が興隆していったため、三一権実諍論全体としては、新興宗派の総帥である最澄が、古い法相宗を代表する徳一を退けたという印象が残るが、実際には当時においては法相宗の方が主流派に属していたのであり、最澄はむしろ挑戦者であった[16]。前述のごとく年分度者の割当を勝ち取り、大乗戒壇の設立など、天台宗を確立して南都仏教に対抗しようとする最澄にとって、法相宗の理論家である徳一を説き伏せることは、天台宗の南都六宗への優位を示すことにも繋がるため、より攻撃的になったと、現代法相宗派の学者は考えている。
徳一の『仏性抄』は最澄にとって看過しがたい法華経批判の書であり、この法敵に猛反論しなければ自宗の存在意義そのものが危うくなる。しかしまた徳一にとっても、天台法華宗や密教の擡頭は、彼自身の属する法相宗にとっても、また従前の仏教体制秩序にとっても、異端なのであって、これを徹底的に論破しておく必要があった。徳一は『中辺義鏡』において法華教説や最澄に対して「凡人臆説」「顛狂人」「愚夫」などと悪し様に罵倒している[17]。最澄が『守護国界章』で徳一を「麁食者」「北轅者」と呼んだのはこれに呼応するものであり、互いに自宗派の存在意義をかけた真剣な論争であったがゆえに、ともに中傷めいた表現までもが用いられたともいえる。
宮原武夫(1933年-)は最澄と徳一の論争がここまで大きくなったのは、最澄が当時の朝廷が進めていた蝦夷征討に徳一が「非協力」的とみなしていた政治的問題にあったとする説を唱えている。
最澄が東国に下った際に活動の拠点としていたのは亡き道忠が活動の拠点としていた下野国と隣の上野国であったが、両国は当時朝廷が推奨していた蝦夷征討の兵站基地となっており、更に下野・上野両国から陸奥・出羽両国に対しては国司からの課役を逃れるための逃亡や朝廷による移住政策によって多くの人々が移り住んでいた[18]。蝦夷討伐には徳一の法相宗を含めた南都六宗や東国の鹿島神宮・香取神宮も征討の成功を祈願したり、寺院や神社を建立するなどの積極的な協力を行ってきた[19]。朝廷から天台宗の公認を得たばかりの最澄も東国における蝦夷征討を巡る様々な動きに直面して関心をもったと考えられ、この時の最澄の東国行きに随行した弟子の円仁(下野出身)も立石寺など東北から北関東にかけて多数の天台宗寺院が建立したと伝えられており、最澄とその門人は下野・上野両国を足掛かりに奥羽の人々に対する教化を進めようとしたとみられる[20]。
これに対して徳一の方は会津地方から越後方面への布教活動を進めており、蝦夷征討への協力や蝦夷がいる会津以北の奥羽への布教を示す史料は残されていない。宮原は最澄は『決権実論』の中で「北轅者常に迷ひて、分明の文を指さしめ、南、越の方に向はしむ」と記しているが、これは自分達や南都六宗と違い、蝦夷征討に対して祈祷<
園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗の総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。
開基(創立者)は大友与多王、本尊は弥勒菩薩である。日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。
なお一般には「三井寺(みいでら)」として知られるため、本文では「三井寺」の呼称を用いる。
目次 [非表示]
1 歴史
2 伽藍
3 黄不動
4 文化財
4.2 国宝
4.3 重要文化財
4.4 その他
5 御詠歌
7 交通
8 周辺
9 脚注
10 参考文献
11 関連項目
三井寺は7世紀に大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺は平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。
三井寺の起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子の大友皇子(弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱で大友皇子と敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。現在の三井寺には創建時に遡る遺物はほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期に遡る古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係も史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。
三井寺では、他宗で「管長」「別当」などと呼ばれる、一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)、三井寺初代長吏に就任し、その後の三井寺の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である。円珍は、弘仁5年(814年)、讃岐国那珂郡(香川県善通寺市)に生まれた。俗名は和気広雄、母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたる。幼時から学才を発揮し神童と呼ばれた広雄は、15歳で比叡山に登り、初代天台座主義真に入門。19歳の時に国家公認の正規の僧となり、円珍と改名した。その後、比叡山の規定に従って「十二年籠山行」(12年間、比叡山から下りずにひたすら修行する)を終えた後、大峯山や熊野三山を巡って厳しい修行をする。このことから三井寺は修験道とも深い繋がりを持っている。仁寿3年(853年)には唐へ留学して6年間、各地で修行。青龍寺の法全(はっせん)から密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)、円珍は多くの経巻、図像、法具を携えて日本へ帰国した。翌貞観元年(859年)、大友氏の氏寺であった三井寺に「唐院」(とういん)を設置。寺を整備して修行の道場とすると共に、唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵した。貞観8年(866年)、太政官から円珍に伝法の公験(くげん、証明書)が与えられた。顕教、密教に加えて修験道を兼学する円珍の伝法は、これによって政府の公認を得たわけであり、天台寺門宗ではこの時をもって開宗と見なしている。貞観10年(868年)、円珍は天台宗最高の地位である天台座主に就任。以後、没するまでの24年間、その地位にあった。
円珍の没後、比叡山は円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、両者は事あるごとに対立するようになった。円珍の没後1世紀あまりを経た正暦4年(993年)には、円仁派の僧たちが比叡山内にあった円珍派の房舎を打ち壊す騒動があり、両派の対立は決定的となり、円珍派は比叡山を下りて、三井寺に移った。比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し三井寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは永保元年(1081年)を始め、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。
三井寺は、平安時代には朝廷や貴族の尊崇を集め、中でも藤原道長、白河上皇らが深く帰依したことが知られている。これら勢力者からの寄進等による荘園多数を支配下におき、信州善光寺も荘園末寺として記録に著れる。中世以降は源氏など武家の信仰も集めた。源氏は、源頼義が三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代の尊崇が篤く、源頼政が平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。頼朝の意思を継いだ北条政子もこの方針を継承し、建保元年(1214年)に延暦寺に焼き払われた園城寺を大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京の御家人に命じて直ちに再建させている。しかし、園城寺で僧侶として育てられていた源頼家の子公暁が叔父である源実朝を暗殺するという事件を起こしたために、以後鎌倉幕府より一時冷遇を受ける。だが、北条時頼の信頼が厚かった隆弁が別当に就任すると再興され、続く南北朝の内乱でも北朝・足利氏を支持したことから、室町幕府の保護を受けた。両幕府のこの厚遇は、強力な権門である延暦寺の勢力を牽制するために園城寺に対して一定の支援をすることが必要であると考えられていたからだと言われている。
文禄4年(1595年)、三井寺は豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられている。三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、三井寺の本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺の祟りを恐れたためとも言われている。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在の三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである。
朝鮮飴(ちょうせんあめ)は、熊本県の銘菓である。餅米と水飴と砂糖を独自の製法で捏ね合わせ、片栗粉を塗した求肥飴の一種である。
食感は餅に近い。
16世紀、園田屋の開祖、園田武衛門により作られた当初は長生飴と呼ばれていたが、文禄・慶長の役での朝鮮への出兵の際、
当時の城主・加藤清正の軍はこれを携行して篭城中の兵糧として役立てたことから、朝鮮飴と呼ぶ様になった。
江戸時代中期までこれは藩の買い上げで、製法は管理されて市販が許されていなかった。
代々の肥後藩主がこれを江戸幕府や朝廷への献上品、諸大名への贈答品として用いた。
当初は黒砂糖と玄米を使用した淡褐色の黒朝鮮飴しかなかったが、現在は白砂糖と精白米を用いた白朝鮮飴が大半を占めている。
1970年代前半には30軒以上が手がけて売上高の総計が10億円に達したが、1990年代後半には2-3億円に減少し、業者も園田屋など
数軒になっている。
特に、40年以上放映され、今なお毎日再放送されている「水戸黄門」は、その代表格である。
今回はそのストーリーがいかに非民主主義的、非現代的であるかを検証する。
水戸黄門の主人公である水戸光圀の一行は、「越後のちりめん問屋」と身分を詐称し諸国を漫遊しているが、その先々では必ず商人の不当な物価の値上げや、代官の課す重税に庶民が苦しめられている。それを聞いた一行が、屋根裏に潜入し、また色気を使って捜査し証拠をとる。そうして悪事を暴いた「越後のちりめん問屋」は、悪事を起こした者の怒りを買い、刀を交えることになる。最大の見どころであるチャンバラシーンのあと、権威の象徴である「印籠」を見せつけることで、「先の副将軍」である自身の正体を明かす。それを見た者はみな平伏し、悪事を働いた者は自分の過失を認め、登場した藩の者がその身柄を拘束する。最後は一件落着と一笑しまた旅を続ける、というのがストーリーの梗概である。
この作品には
という世界観が透けて見える。これについて持論を述べる。
まず、「権力者の悪は更に上の権力者にしか裁けない」という点について述べる。
本作の世界では、いつ来るかわからないような、国家から派遣された、さらに上の権力者にしか悪を懲らしめられないことになっている。水戸光圀はその土地の者でなく、また問題が解決した後は旅を続けてしまうため、対処療法的な解決しか行えない。地方にも自浄能力がなく、一回水戸光圀に問題を解決したあと、また同じような悪事や不正が起き続ける。地方はそれを解決する術を持たないため、水戸光圀が来るのを待っているだけである。住民の当事者意識と民主主義の原理が欠落した「他人任せ」の政治は、今日の日本の政治に通底するものがある。
また、ある放送では、朝廷の中納言の悪事を裁いた際、「私は徳川の家来ではないので従わない」と反発したが、更に上の役職である左大臣が登場し裁いたという回もあり、「権力者の悪は更に上の権力者にしか裁けない」という世界観をより強固なものにしている。
次に、「庶民は無力で虐げられる存在である」という点について述べる。
水戸光圀が「越後のちりめん問屋」と詐称しているにもかかわらず、庶民からは色々な苦情が持ちかけられる。旅する隠居にまで相談しなければならないほど、それほどまでに事態が悪化してしまっていることがわかる。作中ではこのように圧政や不正に苦しめられる庶民の姿がよく描写されるが、反対に実力行使に出ようとする庶民を水戸光圀が宥める場面は皆無である。先述した住民の他人任せの意識がここでも顕在化している。
欧州の市民革命においては、圧政に苦しんだ市民の流血によって民主主義が獲得されたが、日本においては明治以降の主権者の変更は市民革命ではなく、支配者同士の権力争いの結果に過ぎない。このように市民自らが流血し民主主義を獲得した経験がないことが、権力者任せの日本人の気質を形成しているのではないか。
そして、「権力者はどんな手段を用いても許される」という点について述べる。
苦情を持ち掛けられた水戸光圀の一行は、全員が証拠の裏付けのために捜査を行うことになる。しかし、その捜査方法も卑劣である。「越後のちりめん問屋」と身分を詐称した捜査は、当然警察権を保持する藩の奉行所の許可を得ていない。令状なしに現場や物的証拠を取り押さえるという、現在の「法の支配の原理」からはかけ離れたものであるが、作中では身分詐称や私人の警察権行使について議論されることは一切ない。奉行所は水戸光圀の一行のおかげで吐かされた自白を聞いた後に、身柄を連行するだけという、警察組織の体をなしていないものであるが、水戸光圀がこれを一喝するシーンもない。
なお、作中で水戸光圀は「先の副将軍」と自称しているが、居候の身であるはずの前任者が悪を裁くことについての是非も議論されていない。これは現在においても、我が国では一線を退いた者が強大な発言力を持ち続ける事例が、政財界ともに存在している。
「法の支配の原理」「地方自治の原理」「民主主義の原理」すべてが欠落したこのストーリーを、多くの高齢者が再放送を毎日視聴し続けている。これでは、日本の政治に対する認識を歪めるものであり、健全な民主主義国家としての市民意識が育たないことは当然である。
現役アイヌって変な言葉!言ってもクオーター。親世代では結構差別があったみたい。関東在住の自分には差別とかピンとこない。むしろ、なんとなく特別な存在的なものとして、自身にアイヌの血が流れていることを受け入れて育った。
貧しいシサムの家に生まれたばあちゃんは捨てられ、コタンの有力者のもとで育つ。そしたらそこの家の若者と駆け落ちしちゃった、みたいなドラマチックな展開があるんだけど、先祖のロマンス話は置いといて、そんな感じで自分のルーツにはそういう家があったこと、文化があったことを認識している。そんな立場から何点か
別に。
脅威とは感じない。ただ不愉快。韓国の人たちが同じようなこと言ったり旗燃やしたりしてたのと同じくらい不愉快。
全部の意見は追えてないと思うけど、時々話題になってるのは見た。
肯定する部分もあるし、できない部分もあるし。色々だなぁと思いながら見ている。
アイヌに対して沢山の人が意見を述べることは少ないし、そもそも国内では多民族性に対する議論が発生すること自体がマレなので、いいことだと思っている。そう、アイヌのアイデンティティはいままでほとんどのひとが「まるで存在しない」かのように扱ってきた、そのこと自体がひどい差別だと個人的に思っている。
これはマジでやめて欲しい
どちらかというと、イチカイシャジンとして。
こんなもん会社に届いたらクソめんどくせーわ。会社の文化によるだろうけど、カイシャインなんてみんながクリエイターとして誇りもってないと思う。そういう立場のひとらは「なんで民族性扱っちゃったんだろ、次回作ではやめよーぜ」的な圧力を生む。
個人的には偏見まるだしでも、ファンタジー全開でもいいからアイヌを扱うことはやめて欲しくない。
シュマリ読め。ゴールデンカムイ読め。和人とアイヌのケンカは朝廷の蝦夷征伐以来、我が国の伝統である(という歴史を知っていれば、普通死ねとか言わないと思う)
歴史関係で三国志が話題に昇った時、非常に地味だったという記憶がある。
何故なら、呉といえば大事な戦が孔明の引き立て役となった赤壁、周瑜が頑張った荊州南郡、呂蒙が頑張った樊城、陸遜が頑張った夷陵、孫権が大敗した合肥と
数えるほどしかなくて、その中でも孫権自身が直接赴いた戦争が合肥くらいで、
その上、張遼に始まって満寵や曹休(石亭でのやり返しは陸遜・周魴による)、王凌などにボコられて負けたくらいのエピソードしか持たない
戦争に行けば必ず負ける郭図のような人物だったらしい。
そのため、甘露寺での劉備との同盟といった正に英雄と呼べる場面もあるのに
張昭の家を放火したり陸遜を根拠なく憤死させたり二宮の変での優柔不断さが原因で呉の滅亡を早めたりと
対する曹操が徐州大虐殺、劉備が長坂で妻子を捨てて逃げた事なんかよりもずっとクズだし、
何よりも孫権は上二人の英雄に比べて戦争に強いイメージがなければ、政治家として優れてたかすら疑問だ。
何せ、これまで暗愚扱いされてきた劉禅は宦官政治で朝廷が腐敗したとしても少なくとも40年は国を維持してきたとして
良君として再評価されつつあるのに対して、
孫権は二宮の変や晩年の後継者選び等の老害ぶりを発揮したおかげで若い時の事績が霞む程の暗君ぶりや兄孫策の偉業を評価せず
皇帝即位後、父は皇号だったのに兄には王号しか与えなかった事からも孫権自身の人間性を物語るのに十分だ。
そのため、彼に関して三国時代の三人の名君の一人に挙げられるとこれまで評価されてきたが、筆者はそれには否としたい。
偶然三国時代に入ったため、たまたま呉国の君主だった孫権が英雄扱いされてしまっただけだろう。
暦が変わることになんの意味があるのだ。
それらの誤差(人が勝手に誤差と呼んでいるだけで、天体にはそんなこと言われる筋合いはない)をうるう年、うるう秒でごまかしている。
ちなみに現在西暦と呼ばれているものはグレゴリウス暦で、太陽暦はほかにもある。多くの国と地域でグレゴリウス暦が使われているのは、単に都合が良いからだ。
代わって日本。
百五十年前まで太陰暦(これも種類があって時々朝廷が変えていた)を使っていたではないか。維新後も皇暦、和暦、西暦を併用していて、田舎だと普通に太陰暦を使っていた。もう滅茶苦茶である。
そんな混沌と暦が入り乱れてきた歴史を持つ日本で、いきなり西暦の節目を『祝え』というのは無理がある。
おせちも謎だ。
あの重箱には『昔ごちそうだったもの』がこれでもかと詰まっている。
かまぼこや田作りのどこかごちそうなのだ。寿司・ピザ・ジャンクフードの方がよっぽどうまい。
今でも地方に行くと『死ぬほど甘い料理を作るババア』がいる。人間国宝にすべきだろう。
初詣も謎だ。
お前は氏子なのか。この神社にどんな神様祀られてるか知ってるのか。絵馬に『にこまき』の百合絵を描く……のは許す。
落とし玉も謎だ。
老人が孫に年玉をやる姿は一見微笑ましいが、あれほど偽善的な光景はない。
社会保障の世代間格差は一億円程度。試算によって前後するが、とても年玉で埋められる額ではない。任侠映画でしか見たことのないような札束を孫に渡すべきである。
○参考人(鷹司信輔君) 私は神社本庁の鷹司として参りましたので、神社、神道のものの考えといたしましてこの点を申上げたいと思います。
この問題につきましては、是非日本の伝統を保有して行きたいと考えております。併し私共は決してキリスト紀元を排斥するものではございません。キリスト紀元の便利なところもございますので、現在のように元号式の年代表示法と、キリスト紀元法とを適宜に併用して行くのがよいと考えております。日本の元号は千三百何年の長い伝伝統を持つておりますのでありまして、それは国民の象徴と仰ぐ陛下の御名によりまして常に公布せられました。これは決して天皇主権などというような権力関係のものとは思われません。朝廷から兵馬の権も政治の権力も全く消え失せた時代にありましても、日本人は元号だけは朝廷の公布せられましたところに従つております。官公文書はもとより私人の往復文書、日記等何にでも元号を用いておりました。神社人も仏教徒も又キリスト教徒もこれを用いて怪しまなかつたのでございます。国民のあらゆる党派、教派の人々が如何なる対立関係に立つた場合でも、多くは元号だけは同一のものを用いておりました。このあたりに国民統合の象徴というような意義も感ぜられるのでございます。英国におきましては、公文書にエドワード七世第何年とかジヨージ六世三年とかいうように、君主の在位年限を以て年代を表示する方法が用いられておるようでございます。法学書や歴史文献におきましても、そのような年代表示法がキリスト紀元と併用されて用いられておる例が決して少くありません。その一般的な普及程度においては、大小の差こそあれ、これは日本の現行の一世一元の制と本質的には同様のものであろうと思われるのであります。英国では外交的文書や條約文書等は勿論キリスト紀元一本で君主の年号を用いないのでありますが、日本におきましても同様でよいと思います。外交文書には現在でも公式にキリスト紀元が用いられております。キリスト紀元を採用せねばならんからといつて必ずしも日本式の元号を廃止せねばならんとは考えられないのでございます。
我々神道人といたしましては、キリスト紀元による年代表示の方法が外交文書で用いられようと、学校の教科書や年表で用いられようと決してこれに反対するものではありません。我々の間におきましても年表的な場所では大いに利用しておるのでございますが、あらゆる場合にキリスト紀元一本に統一されて強制されるということは到底承服しがたいのでございます。キリスト紀元一本になるという法案は、必ずしも政教分離の憲法に反するものではないという理論は、理論としては成立ち得ると思います。政教分離の米国におきましてもキリスト紀元を用いております。又キリスト教に対してはむしろ反抗的でさえあつたナチス、ドイツでもキリスト紀元を用いておりましたし、又反宗教無神論者の指導下にあるソ連邦においてさえもキリスト紀元を用いられておるのであります。元号とか紀元というものは、少くとも近代国家においては政治的主権というような問題には直接的な関係を持つものではないと申せます。併しながら我が日本の国民感情を考えますと、決してドイツやソ連と同様には行かないと思うのであります。ドイツやソ連では、過去におきまして長いキリスト教文化の伝統がありましたので、国民はキリスト紀元を用いても、それがキリスト教という一宗教に特殊な関係を持つておるということを全く感じない程までになつておるのでございます。非キリスト教的な宗教教派が別段に存在しないからでありましよう。ところが我が日本におきましては、国民の圧倒的多数が神道と仏教に属しております。キリスト教徒は全日本人口のうちの僅々百分の一に過ぎんのでございます。ここで今後は一切キリスト紀元を用いる。少くとも公式文書ではキリスト紀元以外のものを用いてはならんということになると、神道人や仏教徒は何んだか、国家が特にキリスト教を支持しておるように感ずるでありましよう。これは法理論的に申すのではございません。感情の問題と申すべきでございましようが、政教分離の憲法の円滑なる連用という点から考えますと、このような感情問題も極めて愼重を要することと存じます。
今日では国家の公式文書に用いられるのと同様の元号が、神道人、仏教徒、キリスト教徒のいずれによりましても用いられておりますが、国家がキリスト紀元一本で行くことになりますと、神道や仏教では自然国家と別の年代表示法を持つことになりましよう。神社の祝祠などにキリスト紀元を用いたり、仏教寺院の墓碑銘にキリスト紀元を用いることは、我々宗教人として想像し得ないことでございます。現にこの問題が新聞紙上に報道せられますと、全国の神社人や氏子、崇敬者から随分と熱心な反対意見を申し送つて参つております。過去の東京新聞社の世論調査でも、現在のままの元号を存置するがいいという意見が、キリスト紀元一本の意見よりも二倍以上も多いということを報道しております。これはキリスト教文化の伝統が浅く、神道や仏教徒の多い日本の世論としては当然のことであろうと存じます。元号とキリスト紀元の便利、不便利の問題や法理上の問題や議論は多いここと存じますが、私は全国の神社、神道人を代表する宗教人の立場といたしまして、神道人も仏教徒もキリスト教徒も、如何なる敵宗派に属する人も極めて自然に受入れることのできる元号を存続させて頂きたいと切に希望するものでございます。日本人のあらゆる政派、教宗派の人々がひとしく国民統合の象徴として仰いで来た皇室と縁りの深い元号が将来も尚用いられて行くことを我々は希望するものであります。右のような考えを持つております。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/007/0804/00703020804008c.html
知らない人も多いのかもしれないが、伊勢の神宮に参詣することが全国的に定着したのは江戸時代以降のことだ。
そもそもは、伊勢の神宮は、皇祖神である天照大神の寝所に相当するもので、皇族ならばいざしらず、一般庶民が訪問するなんてもってのほかなのだ。神宮は皇族の家であり、皇族でない者にとっては他所様だ。近ごろ赤福の経営者が「外国人観光客が伊勢神宮に来るのは不本意だ」という主旨の発言をしていたが、そもそも、日本人であっても一般庶民が神宮に参詣してはいけなかったのである。
ところが、江戸時代に神宮が一般庶民に開放されて、一般庶民の訪問が可能になった。その背景には、国家という「家」意識があったのだろうし、また、一般庶民にとって皇族や将軍家などが憧憬の的だったことがあるのだろう。
そもそも江戸時代よりも前には、一般庶民の多くには移動の自由がなかった。特別な理由がなければ他所の土地に入れてもらえない。そして例えば奈良時代には朝廷に納税するために村代表が奈良まで行っていたが、荷物のすべてが納税品なので、帰り賃なんて持っているわけがなく、奈良で野垂れ死ぬかホームレス化するかという使い捨てだった。ということは、お伊勢参りが流行した江戸時代なんていうのは、経済的に成熟していて、しかも個人の観念が発達もし、だから観光旅行も流行ったのである。いまならば「一生に一度は地球一周旅行をしたい」なんて言う人がいるが、江戸時代の移動手段や科学技術レベルからすれば「一生に一度はお伊勢参り」という話なのである。お伊勢参りだとかおかげ横丁だとかいうのは、江戸時代にはもう資本主義市場経済が成熟していたことの表れだ。
さて、いまも「総氏神」と言って神宮の神札を一家にひとつ祀るという考え方を、そもそもの神宮司庁(伊勢)や神社本庁(東京)が流布している。その「総氏神」という発想はつまりは、天皇を頂点とする国家という家制度の思想の表れだ。一種の国家神道だとも言えるのかもしれない。
本来は、天皇家は私のようなパンピー(笑)とは異なる家・血族なのであるからして、庶民は、血族・産土神(自分の所属)を祀るのはもっともでも、神宮の神札を祀ったり、ましてやお伊勢参りをするなんて、きわめて奇異なことなのである。そもそも、失礼だと思う。私は純然たる保守なので、そう思う。一般国民なのに神宮の神札を祀るというのは、国全体を家ととらえた「家制度」をみているからなのだ。
しかし残念ながら、「保守」を自称する多くの人たちは、さかのぼってもせいぜい本居宣長くらいで、つまりは江戸時代くらいにしかさかのぼっていない。江戸時代なんて、日本史ではつい最近のことなのに。前述した通り、江戸時代にはもう資本主義市場経済が成熟していた。丁稚という「会社員」(笑)もいたし、江戸や京都や大坂などという大都会では個人の観念が定着していて「観光旅行をしたい」と言っていたわけなのだ。「保守」と言う割には明治や江戸くらいにしかさかのぼらないなんて、なにを日本古来の文化だと言うのだろうか。私にはわからない。