はてなキーワード: 引き起こしとは
あのさ、いい加減お前らで言い合うのやめてくんない?
そこ言い合いしたって何の得にもならないのはお互いわかってるでしょ
ここは一つ論点整理マンが今の状況を、お花畑なアイナナちゃんファンにも腸煮えくり返ってるうたプリオタクにも分かるように図解してあげよう
これは運営の対応が悪い。パクリならパクリでさっさと認めればいい。
うたプリの某○花さんだって、ジャニから衣装パクった事実はないってすぐ言ったでしょ?
それで騒動が沈静化するのはうたプリの例からして明らかなんだから、さっさと対応したらいい。
→これも運営が悪い。そもそも簡単にバレるようなところに自分のチラ裏置くな。
これはお花畑ファンだってそうじゃない人だって反吐が出るでしょう。
一部のうたプリオタクが某○松さんの曲についての自己語りで作品私物化されたように思ってるのと同じような思いだろ、察しろ。
→これも運営が悪い。危機管理能力なさすぎ。これを擁護するお花畑ファンもいないだろ。
以上のことからして運営が悪いことは明らかなので、さっさと運営は謝罪しろ。別にここの疑惑が全部白だったとしても、こんだけ混乱を生み出したことに謝罪は必要。
そんで、お花畑ファンはさっさとその口縫い付けろ。これ以上頭の悪いアイナナファンが多いと思われる前にさっさと界隈から消えてくれ。
運営アンチの皮被ったうたプリオタクは一度自分のツイートを全部見直せ。アンチ臭が漏れ出てるぞ。あわよくば、この騒動でアイナナ潰したいんだろ?そうじゃなきゃ本当にツイート見直せ。余計なところまで攻撃して煽るな。それをしたらお前らもお花畑と同類だ。
好き放題言わせてもらえば、お前ら同じ穴の狢だぞ。臭いものに触れたら同類だ。
お花畑の奴らも何言ってんのか理解できないし、それを上から正論叩きつけて「目を覚まさせてあげてるんだから感謝しなさい」とか言いながらクソ空リプ投げてんのも理解できない。それただのインターネットお節介マンな。全く実にならない。
自分の記事も含め、この件は全くもって不毛な争いを引き起こしてるからさっさと運営は謝罪しろ。
アテクシはアイナナひいては運営の為に、作品の為に、ファンの為にとか言ってる奴が居たらそれは詭弁だ。
作品の為に人を煽って騒動拡大する意味ないだろ。こう言ったらアテクシどもは「煽ってない」って言うけど頭に水掛けたら?騒動全く関係ない人から見たら明らかに煽ってることは確かだぜ?
要は、身体的なハンディについて、本人が努力してどうにかする(それこそメガネのような補助具から、義手義足、車いすなど)という考え方がある一方で、「バリアフリー」って考え方もあるじゃないですか。社会の方がバリアとなっている関門を積極的に下げることで、ハンディがハンディではなくなるという考え方。階段の横にはエレベーターを設置しましょう、とか。つまり社会全体でハンディの一部を背負うという考え方がある。
では、精神的なハンディについては、どうなんだろうなと。本人の自助努力(カウンセリング、投薬治療なども含め)が全てなんでしょうか。知的なハンディについては、社会福祉の一貫で社会が負担を一部肩代わりすることもされるけれども、精神的に多大な問題を引き起こしそうなハンディ…境界性人格障害だとかサイコパスとか、そこまでいかなくてもADHD、アスペルガー症候群、そういったハンディに対して社会はどれだけ負担をしているのか、するべきなのかとちょっと思ったということです。そのせいで問題が起きたとして、それは100%本人に責任を帰すべきなのでしょうか?
前者の場合、社会が「一部を負担する」という関わり方ができるのに、後者の場合は、責任能力の「有無」みたいな、0か1かという極端な判断のされ方をする。でも、ハンディってそういうものじゃないということがだいぶ分かってきた現代において、精神的なハンディに対する法の在り方は時代に即しているんだろうか、と思ったわけです。
シン・ゴジラを観てきた。
実際にゴジラが現れたら、本当にこんな後手後手の対応に回るんだろうなというリアル感。
自衛隊が本気で攻撃しても倒せないという、お約束の展開をリアルに描くことで生まれる絶望感。
すごく面白かった。
ところでシン・ゴジラの評価として、エヴァっぽいという声をちらほら聞く。
オーどこに目をつけているんだいキミタチィ。
なぜそれが分からないのか、分かろうとしないのか。
と思うので思うところを書く。
エヴァと言えば言わずもがな、『セカイ系』と呼ばれたジャンルの最高峰である、と言われている。
セカイ系の特徴には諸説あるが、概ね、世界の命運がごく少数の登場人物の意思決定によって左右される物語だとされている。
時として世界の命運を左右するのは、数奇なめぐりあわせのために巻き込まれた、覚悟も力もない少年少女であったりする。
そこで生まれるドラマを描くのがセカイ系というジャンルである。
シン・ゴジラはこのようなセカイ系の特徴を徹底的に排した物語構成を行っている。
ゴジラと戦うのは民主主義の手続きによって選ばれた、国民の代表たる政府関係者と自衛隊である。
何を決定するにも会議を行い、議事録が残り、行動するには法的根拠が必要で、無いなら法案を作るという、民主政治のプロセスが正統に実行されている。
また、ゴジラは確かに脅威ではあるが、セカイを滅ぼす存在ではない。
自衛隊の装備で傷をつけられずとも、米軍の空爆でならダメージを与えられる。
それを使えないのはヒトの都合である。
第2、第3形態のゴジラを自衛隊が攻撃できなかったのは、ひとえに憲法9条下における自衛隊の不自由な運用のためである。
第4形態のゴジラに核を撃ち込めないのは、ゴジラが東京のど真ん中にいるからであって、要するに今まで都市のインフラに投資した金がもったいない、というだけの理由である。
もし東京が壊滅しようと、京都に首都機能を移転し大阪が経済の中心となって、日本という国はつつがなく回っていくだろう。
日本が滅ぶとしたら、劇中で指摘されている通り、株価、円、国債などの暴落によるデフォルトである。
日本の滅亡すらヒトの側の都合で起こる。
滅ぼさないのだ。
そんなセカイを滅ぼさないゴジラと、対策チームは不眠不休で戦っているのである。
なぜなら、誰もセカイを救う力なんて持っていないから。
普通の秀才の集まりだから、不眠不休で対策を立てても、勝てるか分からないのである。
できるだけ多くの協力者を募り、政府の研究機関や民間企業に情報提供し、他国へのコネを活用して、ゴジラを倒す作戦を立てるのである。
それが、セカイを救う力なんて持っていない、普通の日本人達のリアルだから。
なんのために戦っているかと言えば、仕事として、国民の生命と財産を守るために戦っているのである。
避難すれば命は助かるが、それは今までの生活を全て捨てることを意味する。
「簡単に言うなよなぁ」
とボヤかせるのだ。
だから、劇中の所々に見られる、主人公の演説も、ドラマ的な演出もなく淡々と行われる。
聴衆の歓声も、勝鬨の声も上がらない。
作戦決行直前の演説も、演説の内容は重大であるが、その光景はまるで中小企業の社長が朝礼で社員に演説するかのような様子である。
こうして観ると、シン・ゴジラは全然エヴァっぽくないということが分かると思う。
ゴジラが現れようが暴れようが、セカイは盤石だ。
それを倒すのにも、優れたリーダーの英断の下、日本の科学力、工業力、軍事力を集結すれば可能なのだ。
冗談みたいなIQの天才もいらないし、自己犠牲の特攻も必要ない。
国を守る覚悟のなってない、思春期の少年少女の出番など、どこにもない。
庵野はどうしてエヴァの映画を作るのを放って、これを撮ったんだろうか。
少年少女の意思決定が、そのまま人類の滅亡を引き起こしたりする。
そういう話の持つ面白さは、そういう面白さとして存在するが、きっと庵野はもう飽きたんじゃないだろうか?
それより、ヒトの社会の営みの豊かさ、力強さに惹かれてるじゃないだろうか?
そう言いたいんじゃないだろうか?
物語の全編から、もうセカイ系なんてやめよう、エヴァみたいな物語なんて作るのやめよう、というメッセージが伝わってくる。
そりゃ同じ人が作ってるんだから、同じような演出になるのは当然だろう。
上っ面ばかり見て、どうこう言われて、庵野も気の毒だね。
http://anond.hatelabo.jp/20160806101421
どうやって暴露をLGBT団体が止めるんだ?暴露自体はZ君の性格からなる行動が引き起こしたことだろ?
LGBT団体がゲイであることを知ってしまったら、隠しておいてあげましょうって啓蒙するのか?
ちがうよ、ただZ君はA君のあまり公にしたくない事実をばら撒いてしまった。(しかも本人の視野の中で)
本当に済まないと思ってバラすにしても本人に断りもなく言うか?
唐突にバラされて、ごめんと書いていても、バラされた側はたまったもんじゃないな。
今回の件は、少し要素を取り除いて言えば、Z君本人が人の秘密を勝手にバラして当人を自殺に追いやった。対人関係の問題だな。
反論として、Z君は本当に秘密の共有が苦しかったのだと言うのなら、やはり本人に断りなく勝手に喋ったという行動が問題となる。
そして、そこにLGBT問題やら、もしかすると将来弁護士になるような人間が友人一人の秘密を守れるほどの芯の強さもないって言われて批判されてんだ
最近は男もスネ毛やら腕毛やら処理しないといけない風潮を感じるため、仕方なく処理してるんだがこれがまあ面倒くさい。
ヒゲを毎日剃るのは仕方ないとして、その他全身の毛も1か月くらいで大分伸びてくる。
男の場合は気が向いたときに刈ればいいわけだけど、女はヘタしたら毎日この全身の毛を剃り続けているんだよなと。
延々と生えてくる毛を延々と刈り続けるという、いわば賽の河原とも思えるような生産性の無い不毛な作業(ここ笑うところ)に対して
貴重な脳のリソースを割かなければならないのは労働生産性の低下を引き起こし、さらに言えば人類としての損失につながるわけで。
化粧品会社だか広告会社だかは分からないが、己の利益のために世の中の女を洗脳してムダ毛処理をしなければ恥ずかしいという不要な風潮を作り出して
ムダ毛処理をする機械として生きなければならないアレを生み出したソレは上手く言えないけど単純に言って何かヤバいのではないだろうか?
確かに私はムダ毛の無い綺麗なお姉さんは好きだ。だがその風潮が社会進出を拒むための弊害となっているのであれば
もはや社会進出などしなくていいからムダ毛処理をした綺麗なお姉さんであってほしい。
そんなことを思いながら私は今日もケツ毛を刈る。
血税3兆円がムダに!?総務官僚が引き起こした、マイナンバーという名の「人災」 カードが発行できない、届かない… | 賢者の知恵 | 現代ビジネス [講談社]
ものすごい記事である。なにしろ、冒頭のマイナンバーカード発行に関するトラブルに関する部分以外に正しい箇所が一つも無い。((天下りの規模、とかの不確定情報を除く。))
専門家どころか、マイナンバー関連のニュースを普通に追ってきていればそんなことは言わないような基礎的な部分から間違っている。
住基ネットとは2000億円を超える巨額の税金を投入しながらほとんど普及せず、しかも情報漏洩など数々の問題を起こした天下の大愚策
現在発行されている住民票はすべて住基ネットを介して処理されている。普及しなかったと言えるのは住基カードである。
ひょっとして住基ネットを住基カードを使うためのシステムだとでも思っているのだろうか?
しかし、そんな住基ネットのカード発行が'15年末に終了することが決定。総務官僚は住基ネット利権がなくなることを回避すべく、起死回生の一計を案じる必要が出てきた。そこで考え出されたのが、住基ネットのシステムを活用して新しくマイナンバーのシステムを構築するというものだったのです
住基カードが終了することが決まったのは、後継であるマイナンバーカードの発行が決まったからである。時系列が全く間違っている。
簡単に分かることとして、マイナンバーカードという後継なしに住基カードを廃止した場合、電子申請による確定申告などが出来なくなるわけである。マイナンバーカードの発行が遅れたことで一番問題だったのは、次の確定申告に間に合うかどうかという点であった。
マイナンバーとはそもそも住基ネットの「住民基本台帳番号」を直接使うのは危険だからワンクッション置こうという趣旨で作られたものである。
「住基ネットが使われていない」という間違った前提があるのでそんな発想になるのだろう。
なお、会社勤めの人は会社にマイナンバーを提出したので分かっていると思うが、マイナンバーは徴税管理に使われる。
こちらと読み比べるのも味わい深い。
血税1兆円をドブに捨てた「住基ネット」〜元祖マイナンバー、あれはいったい何だったのか? 【怒りのレポート】 | 賢者の知恵 | 現代ビジネス [講談社]
相模原市の事件を受けて、様々な意見が出ていて、いろいろと考えさせられています。
とくに「重度の障害を持つ方に対するケアワーカーの陰性感情」についての議論には、様々な方向から風が吹き荒れているようにも感じました。
そこで私は、今回の事件を受けて「感情労働」とケアワーカーのメンタルヘルスについて、少し整理してみようと思いました。
(様々な論点があると思います。犯人の病理などについては僕には分かりかねる部分が多すぎるので言及は避けます)
感情労働(Emotional Labour)とは 1983 年アメリカの社会学者A.R.ホックシールドにより提唱された概念です。[1]
感情労働は――肉体労働や頭脳労働と同様にーーその「感情」が賃金と引き替えに売られるのです。
言い換えれば、感情労働を行う労働者は「上手にその感情を管理し、それを提供し、自らの感情と引き換えに雇用者から賃金を得ている」とも言えるでしょう。
この感情労働を行う労働者としてホックシールドは,客室乗務員、さらに教師や看護師なども例として取り上げていました。
さて、私自身も経験がありますが、重度の障害を持つ方に対し、長期間の日常生活ケアを行っていると「穴を掘っては埋める」作業を毎日しているような気持ちになることがあります。
そんなときに患者(あるいは利用者の場合もありますが、ここでは患者と統一して表記します)に対して陰性感情がムクムクと湧いてきます。
これは、患者自身が強烈なストレスや混乱の中にいて、言い様のない攻撃性を援助者に向けていることとも関連します。
患者が抱えるストレスや混乱と同じような感情を看護者は感じてしまうのです。
「なんで、言うことを聞かないんだ!」「どうして、噛みつくの!」「何度言ったらわかるの!」と心のなかで大きな声で叫んだことは数えきれないほどです。
ケアする人とされる人の間にはーーもちろん、その関係に限ったことではありませんがーー「感情の対称性」があります。
(逆に考えれば、「自分自身の感情から患者の感じていることを推察することができる」ともいえます。)
こうした無意識プロセスを理解をすることは自身の感情をコントロールするために役に立ちます。
しかしながら、このことに一人で気がつくことは、かなり困難であると私は考えます。
感情労働の概念や、感情の対称性について、ストレスマネジメントについての十分な教育や、あるいはスーパーバイザーを交えたデブリーフィングセッションを行っていく必要があると思うのです。でも、現実には、そうしたことはケアワーカーの間では殆ど行われていません。
積み重ねられた陰性感情は、罪悪感や攻撃性、無力感に変化していきます。学習された無力感は自尊感情の低下や自己効力感の低下も引き起こします。
そして、それらはある日、まるで波が引くようにものすごい力で『反転』することがあるのです。
また、前述までと矛盾するようですが、近年の研究では「感情労働は一概にメンタルヘルスに対して悪影響となるものではなく、顧客やスタッフとの相互関係から職場にとって良い影響も与えうる」ともいわれるようになってきています。その肯定的な側面として達成感の向上や患者とのつながり感覚を強めること、職務満足感を高めることなどが述べられているのです。
「よくコントロールされること」「よいものとして認知されるようにすること」が大切なのだと私は思うのです。
介護労働者の待遇改善などの労働衛生管理については各所で述べられている通りだと私も思います。
しかし、ケアワーカーのメンタルヘルスに関しては金銭面だけでは解決できないものもあると私は考えているのです。
私は、今回の事件そのものや犯人に対して、ある種の憎らしさや強烈な嫌悪感を感じています。
当然、許されることではありません。
ただ、私は同時に、どうして今回のような凶行に至ったのかにとても興味があるのです。
自分自身が、同僚が、家族が、被害者・加害者にならないようにするために。
社会としてどうしていくべきか。
ケアワーカーのメンタルヘルスに関してはどう捉えたらよいのか。
わたしたちがコントロールできることとコントロール出来ないことはなにか。
リエゾンなどに携わる専門職が率先し、十分な議論を行い、実施可能な具体策を挙げていけるといいなあと僕は思ったり考えたりしています。
武井麻子先生は『感情と看護』[2]の中で、Winnicottを引用しています。(P.263)
「ウィニコットは、無慈悲にも自分を怒らせる赤ん坊をケアする母親について、このようなことをいっています。
母親は赤ん坊を憎むことを、それをどうこうすることなく容認できなければならない。母親は赤ん坊に対して憎しみを表現することはできない。[中略]母親に関して最も注目すべきことは、自分の赤ん坊によって大いに傷つけられながら、子どもに報復しないで大いに憎むことができる能力、そして後日にあるかもしれない報酬を待つ彼女の能力である。
同じようなことが看護師にもいえるのではないでしょうか。自分を傷つける者(それは患者であるかもしれませんし、そうでないかもしれません)を憎むことを看護師は容認しなければならないのです。」
<参考文献>
[1] A. R. Hochschild, 室伏亜希と石川准, 管理される心―感情が商品になるとき. 2000.
[2] 武井麻子, 感情と看護―人とのかかわりを職業とすることの意味 (シリーズ ケアをひらく). 2001.
[3] パム・スミス, 武井麻子と前田泰樹, 感情労働としての看護. 2000.
[4]Huynh, T., Alderson, M., Thompson, M. (2008)Emotional labour underlying caring: An evolutionary concept analysis. Journal of Advanced Nursing, 64(2), pp.195-208
VR+風俗嬢=VR風俗:アニメキャラとSEXしたいという夢を現実にするために
人類の「アニメキャラとSEXしたい」という欲求は、これまで様々な方法で発露されてきた。一番原始的な方法は、マンガ(エロ同人誌)を描くというものだった。マンガは高度な道具を必要としないため、敷居が低く裾野が広いという特徴があるが全く没入感がないという欠点がある。マンガの発展形として、高性能PCの普及によって3Dアニメが発展した。その中でも、3DCGをアニメ調に見せる技術がアニメキャラ再現に果たした役割は大きく、それまで全く別物と思われていた3DCGとアニメ絵が融合することが可能になったが、画面の中で完結するという本質的な問題を解決するには至らなかった。
アニメキャラとのSEXを視覚ではなく聴覚で捉えようとした分野が音声作品である。とくに、催眠音声は人間の無意識に働きかけ五感すべてに完璧に没入させることが可能と思われていたので一過性のブームを引き起こしたが、結果としては催眠術はよく訓練された猛者だけが「最悪(社会的に)死ぬ」ことを覚悟したうえで享受できる秘術とされ、誰もが気軽に体験できるものではなかった。音声を使った臨場感あふれる手法として、バイノーラル音声が登場したが耳かきと耳舐め以外の行為では、バイノーラルの強みである臨場感を活かすことができずエロボイスドラマを超えてリアリティを感じることはできなかった。
アニメを現実にしようとするこれらの試みの他にも、現実をアニメに近づけようとする試みが有る。最も単純なアイデアであるがアニコス(アニメコスプレ)と呼ばれるAVジャンルがその典型である。初期のものは女優に衣装を着せただけの簡単なものだったが、「コスプレイヤー(コミケでケツ出すお姉さん)」という概念の浸透に伴ってウィッグ・メイク技術・衣装ディティール・小物などアニメキャラになりきってSEXするという技術の進歩が見られた。しかし、コスプレはどんなに「リアリティ」を追求しても、(特に顔の造形が)アニメキャラにならず「コスプレイヤー」にしかならないという大きな欠点をもつ。この欠点に注目して改良を試みたのが「着ぐるみ」というジャンルであるが、顔だけプラスティックで不気味であることや大きさが不釣り合いになってしまいアニメキャラを実現するには至らなかった。顔だけでなく全身が「人工の人間」というアイデアは等身大ラブドール(ダッチワイフ)に見ることができるものの、ダイナミックな動きというSEXの本質が欠けているために一部の愛好者(マグロ好、死姦マニア、人形愛)以外には受け入れられなかった。
これまでの2つのながれ(アニメキャラ→現実、現実→アニメキャラ)を統一する可能性を秘めているのが、VRである。VRはこれまで問題だった没入感をユーザ与えることができるが、「映像を見る」ことが目的であったために、SEXの相手となる対象が実在しなかった。これまでVRを用いたアニメキャラとのSEX方法として知られているものは、VR+オナホ(手動or電動)、VR+ラブドール(手動)という原始的な方法が主流のようだ。ネット上では「五感をPCに接続してSEX」待望論もあるが、すぐに実現できそうにない。ユーザがアニメキャラを感じる「五感」のうち、視覚と聴覚を除く三つ(臭覚・触覚・味覚)は「未定義(人間のそれならなんでもよい)」であることを仮定すると、実際の人間にVRでアニメキャラを「投影」してSEXすれば既存の技術を用いて低コストでアニメキャラのSEXが実現できそうだといえる。
一言で言うと:風俗嬢を前にして、ユーザはVRヘッドセットをかぶり風俗嬢の動きに連動したVR内のアニメキャラとセックスする。
ARマーカを風俗嬢の関節等につけて、それをユーザの頭につけたWebカメラで読み取る。欠点は指の動きなど細部とユーザの影になっている部分のマーカがよみとれないこと。
風俗嬢及びユーザを俯瞰できる位置に3dセンサを設置して、両者の位置を割り出す。欠点は2名が重なった時の認識が不安定になること。利点は「くぱあ」が認識できること。
この技術は風俗のオプションとして提供されるだろう。そうすれば、VR機材以外の全ては揃っているので小さな投資で人類の夢を叶えることができる。
明日早いのでここまで。
(これで科研費とれね〜かな〜)
自分を他人のように、静止画で捉えて、他の人や「理想像」と比較評価することです。
重大なことに、自己を評価するということは、見ているのはどんなに「今の」自分だと思ったところで、結果であって、過去でしかありません。
そうして自分の評価だけを追い求めると、人は今を生き未来に向かって生きる力を失うのです。
プライドを持てないときに、逆の自己評価、自分は駄目だという自己嫌悪が起きます。
それを引き起こしたのが他人だと感じると、「屈辱」感が起き、相手への怒りや憎悪が起きます。
全てが、「人間として善か悪か」という生き方、その中で自分にダメ出しをしたのが始まりです。
人に接する時に、「明るく喋っている自分の姿」を思い描く。恋人に会いたいという気持ちの中に、「その人を愛している自分の姿」がある。
それは、理性より深いところで、「自己を評価して生きる」姿勢が塊のように存在しているものです。
それを追い求めるべきもののように映し出したとしても、実はそれは自己への自信に導くものではないという自覚を持って下さい。
逆にそれが、自己嫌悪を始めとする破壊的感情を生み出した大元だと。
そうして静止画のような「姿」を追い求める気持ちが減るにつれて、「本当に自分がしたいこと」が見えてきます。
ある自分に「なる」のではなく、今なにを「する」かです。
「幸福」について、仕事の成功とか、結婚とか、友達に囲まれた暮らしとか、「イメージ」で考えるのも同様に無益です。
「こうあれれば」という硬直した姿を捨てた時、人間の多様性は愕然とするほどのものであることを感じると思います。
生まれた環境も、持って生まれた才能も容貌も、家柄の有利不利も。
その中で、何10万人に一人という恵まれた星の下で生まれたアイドルのような人と自分を比較するのは全くの無意味というものです。
瞑想とは何か?
一言でいうならば、「“いま・ここ”に全神経を研ぎ澄ます」ということになるだろうか。
人類は、過去を省みて言動を改め、未来を想像して予め備えるという能力を武器に、
あらゆる動物との生存競争に打ち勝ってきた。しかし、それは弱点を抱え込むことも意味した。
または、来るか来ないかわからない未来に必要以上に恐れを抱いてしまうこと。
これらは、“いま・ここ”ですべきことを疎かにしてまで、
偏執的に過去・未来に拘ってしまうこととなり、生きやすさを毀損する。
程度が過ぎれば、うつや不安障害などの精神疾患もありうるだろう。
瞑想は、通常ならば受け流してしまうような、かすかな音・感触を今一度大切にすること。
そのことによって、人間は改めてリアルな“いま・ここ”を取り戻し、
かつ、本当に取り組むべき人生を取り戻すのだ。
また、現在はストレス社会といわれている。ストレスは交感神経と副交感神経の
バランスを乱し、下痢を引き起こす。また長時間労働による食生活も乱れも、
それをより一層助長するだろう。
通勤電車といった閉鎖空間での腹痛は、他に例えようのない苦痛であろう。
しかし、よく考えてほしい。それは本当にリアルな苦痛なのだろうか?
起こるかどうかはっきりしない未来への不安によって引き起こされた苦痛ではないだろうか?
その脳が作り出したにすぎない苦痛が、さらにストレスを引き起こし、
そうならば、答えは一つである。瞑想である。“いま・ここ”に神経と研ぎ澄まし、
有りもしない過去や未来の想起を受け流すことによって不安を解消し、
思ってもいないところからふとボールが投げられる。考える間もなくそれを受け取ってしまう。そしてそのボールを知らずにとんでもないところに投げ込んでしまう。そんな経験はないだろうか?僕にはある。あれは、中学生の頃のことだった。
僕の実家は田舎で、バスは数時間に一本しかないようなところだった。その日僕は下校時刻のバスを乗り逃してしまい、仕方なしに歩いて帰っていた。次のバスを待つのと歩いて家まで向かうのと、時間的にそう大差はなかったのだ。夏の暑い中、日に照らされてじりじりと肌が焼ける中、たちまちに空が曇って夕立が降ってきた。ずいぶんひどい勢いで振ってきたその夕立から逃げるため、僕は走って最寄りのバス停まで向かった。そのバス停には屋根があったのだ。
バス停にたどり着いた頃にはすっかりずぶぬれてしまっていたが、このまま夕立が降り続けるなら、ここでバスを待った方がいいだろう。そう判断して、僕は短くはない時間をここで過ごすことを決めた。
そう思っていると、雨音に紛れて小さな走る足音が聞こえてきた。誰だろう?そう思ったときにはもう足音はバス停へと駆け込んできていた。その足音の主は、同級生の女の子だった。彼女もずぶぬれで、夏服のブラウスが軽く透けている。そんな姿にドキッとしながら、僕は彼女にお互い災難だね、と声をかけた。
でも、彼女は何も答えない。あれ、特別仲良くはないけど普通に話すクラスメイトなのに、なんで何も答えないんだろう?そう思って彼女をよく見ると、雨にずぶぬれた顔の目元には涙があふれていたのだ。なんで?僕の頭は疑問でパンクしそうになりながら、体をふくのに使っていたハンカチを思わず彼女に差し出していた。このときハンカチを差し出していなければ、この後のこともちょっと違った形になっていたかもしれない。
彼女はハンカチを受け取ると小さな声でありがとうと言った。一体どうしたの?僕は彼女のことも考えず自分の疑問のためだけに、そんなことを訊いてしまった。彼女はしばらく躊躇っていたけれど、僕が渡したハンカチを見つめた後、ぽつりと答えた。「好きな人と別れてきたの」と。
その答えを聞いて、僕は彼女に尋ねたことを後悔した。そうだ、こんな土砂降りの中で女の子が泣いていて、その理由が重たくないはずがない。僕はとんでもないボールを受け取ってしまった、そう思った。けれども、ここでこのボールを投げだすことの方が彼女にとってひどいことかもしれない。そう思って、彼女の話を聞くことにした。
僕があまり質問しなくても、彼女はぽつぽつと話を続けた。それはコップに満杯になった水が揺れるたびにわずかに零れるような、そんな話し方だった。
彼女は年上の人と内緒で付き合ってて、でも両親に知られてしまって大反対を受け、そのことを素直に年上の彼氏に相談しようとしたけれど、でも自分と彼氏のことを考えたら何も言わずに別れるのが正解だと思って、別れを告げてきた、そう彼女は言った。
僕はどう言っていいかわからなかったけど、辛かったね、とだけ口にした。彼女も、うん、とうなずいた。ここで終わらせておけばよかったのに、僕は余計なことを口にした。でもそれは何も理由を聞けずに別れを告げられた彼氏も辛いと思うよ、別れたくないなら素直に相談するといいよ、と。
彼女はびっくりした顔をしていたけれど、何かを決心した目をした。そして、うん、本当は別れたくない、だから頑張ってみるよ、と言った。僕もそれを聞いて、頑張れ、と励ました。
そうして雨が止んだ頃、バスが来た。僕はバスに乗り、彼女は雨の止んだ中を歩いて帰った。
彼女が学校に来なくなり、校内には噂が駆け巡った。彼女は先生と付き合っていたのだと。最初のうちは真偽不明だったその噂も、とある男性教師が突然学校を辞めることになり、本当のことだったのだとみんながざわめいた。
僕はその噂と、あの夕立の中で彼女に訊いた話を思い出して、怖くなった。この顛末を引き起こしたのは、僕のあの余計な言葉だったのかもしれないと。
彼女のことはすぐに学校内のタブーになった。彼女が学校に来なくなったのも、不登校なのか、転校したのか、それすら誰も知らない。少なくとも、卒業アルバムに彼女の姿はなかった。
僕はあの時言った言葉を、今でも後悔している。僕があんな励まし方をしなければ、彼女の秘密は公になることはなく、卒業アルバムからすらも忘れられてしまうことはなかったのではないかと。
そしてその後悔を、今まで誰にも話したことはない。でも、心の中に澱み続けているこの後悔を吐き出したくてここに書いた。
http://anond.hatelabo.jp/20160605113308
まずこの作品の伝えたいテーマのひとつが「野性」って概念は幻想であるってことなんだよ。
これは元増田もわかっていて、そこが表現されていないと不満に感じたんだと思うんだけど、実は描写されている。
この事は後に触れるとして、まずは
>肉食動物の野生状態の描写が「凶暴」一辺倒であるかのように描かれ。
についてのフォロー。
そもそも「野性」ってなに?
「本能」ってなに?
社会から切り離されてジャングルでたった一人で育った人間の人格が「本来の人間」なのか?
そうじゃないだろう。
今自分達が生きている文化や環境を含めて、人間の人格というものは成り立っている。
そもそも野性(本能)と理性(社会性)は切り離せられないものなんだ。
たとえば精神障害で錯乱してしまったら、大通りで裸になったりウンコしたりしちゃうわけ。
でもそれはその人の「本来の」人格ではない。病気が治った後、その人に「あれが君の本性なんだね」って言える?無理でしょ。
ズートピアの野生化しちゃった人達は、薬物によって一時的に錯乱を引き起こした状態なわけ。
高次的な思考を司る脳みそが一時的に阻害されちゃったとかそういう症状であろうと推測できる。
そんな状態なので「肉食動物の野生状態の描写が「凶暴」一辺倒」は「野性」の描写ではないし、
むしろ「「野性」とは凶暴なものだ」と思い込んでいる観客へのカウンターになっている。
ニュースメディアはそれを(ニュース映えするので)「肉食動物の本能」として騒ぎ立てるが、それはあくまで異常な状態であって、その人の「本質」ではない。
偽りの「本性」だ。
そう、「「野性」とは凶暴なもの」に代表される思い込みを否定するのがズートピアのテーマであると言っても過言じゃない。
ズートピアでは人種差別やらフェミニズムやらのあるあるジョークが、山のように引用されている。
例えばエンディングで交わされるニックとジュディの会話。
日本でも男脳・女脳の本がベストセラーになったことがあったけど、その題名って「地図の読めない女性」みたいな感じだったよね。
統計だかでも、女性は三次元構造を脳内再生するのが苦手みたいな結果が出たとかどこかで読んだけど、そういう傾向があるにしても女性全員がそうだってわけじゃないし、現に女性もバンバン車を運転している。
((女性はコミュニケーション能力が高いので、男性の運転技術は自分よりも上だと持ち上げている/または男性よりも自分が楽をするために男性に運転をさせている結果である、という説もある))
でもこれ、劇中では否定されてたけど本当のことだよね?と思うなら、それは偏見に侵されている(かもしれない)。
上記と同様に変換してみよう。
アウト!!!アウトです。
「男性が痴漢するのは本能だから女性は我慢すべき」理論のあれこれははてなでも頻出しているけど、他の場所でもそうらしい。
男性は性欲を司る視床下部が女性より大きいから仕方ないよね……な、わけはない。
上に書いたように、人は理性と野性との混合体だ。社会に住んでいる以上、一般常識として女性を襲っちゃいけないということは知っているしやらない。
ダメだと言われてやるのは犯罪者と、そういう文化圏に住んでいる人たちだけだ。
そういう文化圏に住んでいても、相手の女性が嫌がることはしないという男性だっている。人は相手を慮る能力を「本能的に」備えているからだ。
性欲も他人への共感能力もどちらも同じく「本能的」な脳の機能だ。
人によって強かったり弱かったりする。犯罪者は我欲が強くてセーフできず罪を犯すし、倫理観の強さも遺伝的な部分が大きい。
でもそういった「本能」は本人の努力や周囲の理解によって乗り越えられる。
そんな世界がいいよね。というのがズートピアの掲げる「知恵」の力だ。
野性の「ありのまま」の自分なんて受け入れてもらえない。弾き出されてしまう。
だから生きやすい形に整えた街を動物たちは作り出した。つまり社会だ。
社会は人の集合だから、自分の願望と他人の願望が衝突することもある。
そこを折衝して生きていこうというのが理性であり知恵だ。
夢見がちな理想主義ではなく、地に足をつけて一緒に生きていこうという意思だ。
それすら理想にすぎないのかもしれないけど、ディズニーが子供に手渡す「知恵の武器」なら少しくらい甘味も混ぜないと吐き出されちゃうから、いい案配だと思うよ。
ニックとジュディが和解するシーンで、感極まったジュディがボロボロ落涙してしまった時のニックの一言。
これはストレートな事実なんでご存じの方も多いんじゃないだろうか。
よく職場でちょっと叱った程度で泣き出したとか、喧嘩では女性のほうが先に泣き出して何も言えなくなるからズルい、
精神的に軟弱で覚悟がないから泣くのだ、というように思う人も多いらしいですが、ホルモンの影響で女性は男性よりも泣きやすいという「本能的」な理由がある。
彼女たちにしても本当は敵の前で弱みを見せたくないし、泣いたら許してもらえると思って涙を流すわけではない。
ただ、身体的な反射なので仕方がないのだ。
ましてやジュディは様々なハードルを乗り越えてきたガチのリブで、精神的にもタフであろうとし続けてきた。
そんな彼女が決壊してしまい((ニックに対して心理的障壁を張る必要がなくなったという暗示))弱さを見せている状況で、差別的なジョークを放っても許し合える間柄になったという描写なわけ。
ジュディは「肉食本能」を偏見から非難したが、ニックは「涙腺」を分かったうえでジョークにした。
「本能」なんてそんな程度のもんさ、とお互いに許し合う。
偏見や差別を打ち砕くのには「相互理解」と「共感」が架け橋になるという強いメッセージが放たれている。
差別ジョークの引用はフェミニズム以外にも色々あるんだけど、二項対立でわかりやすかったので取り上げてみた。
> 社会差別、偏見モノのストーリーとして見ればよかったのかもしれない。
その通りですね。
それでも「野性」を解き放ちたいという人のために…………そう、秘密クラブがある。
なんだか「オバマさんが広島に来て、原爆の悲惨さを知ってもらえたら」だの
「日本って謝罪を求めない美しい国だよね」だのいう会話を最近立て続けに聞いた。
で、彼らは全員オバマと一緒に元捕虜が一名同行することが決定したことを知らなかった。
もちろん、ホワイトハウスが退役軍人に配慮したため、このような決定が成された。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160522-00000057-mai-int
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201605/CK2016052302000121.html
元捕虜はフィリピンで旧日本軍の捕虜となって足尾銅山で強制労働させられた94歳の男性だ。
彼は今回の訪問に当たって
「兵器は人を殺害するので、全ての兵器は嫌なものだ。しかし、戦争を引き起こしたのは米国ではなく、ドイツと日本だ」
「オバマ大統領は、中国や韓国に対し、日本軍の占領の苦しみからもっと早く救えなかったと謝るべきだ」と発言している。
このような思想を持っている元捕虜をわざわざオバマ大統領に同行させる意図は明白だろう。
結局のところ、今回の訪問でアメリカでは原爆正当化の意見が盛り上がっているし、
それに対して日本は何も抗議できず、ましてや我々は謝罪など求めないなどと、なぜか胸を張っている。
むしろ原爆正当化の格好の機会をセットアップしたということになるだろう。
さらにいえば、元捕虜に対して日本が謝罪しなければいけない、日本が降伏するのが遅かったのが悪かった、という議論さえ出てくるだろう。
僭越ながら「ひょっとして自分、"いい人"なのではないか……?」という考えを拭い去れずにいる者なのですが、
これがただの思い違いだったら大変恥ずかしいことになると思い、ここらで一つ白黒はっきりさせるためにも、どうか私の「いい人度」を判定してはいただけないでしょうか。
2016/05/16 12:06 追記
・ただの臆病者だという意見
仰るとおり、私はとても傷つきやすいタイプです。加害に対しても、被害に対してもです。
臆病者っていい人扱いされたがるよねという意見もありましたが……本当にその通りで、お恥ずかしい限りです。
私はおそらく、積極的に物事と関わることができないことに引け目を感じていて、
それでも、積極的に関わっていって加害や被害を引き起こしてしまう人よりはマシじゃないかという自負みたいなものもあって、
その部分だけでもせめてなんとか評価して欲しくて、このエントリを書いたのだと思います。
空気かもしれないけど、せめて空気として精一杯できることはしているよ、という意味で。
みなさんのコメントを見て「人畜無害」という言葉を思い出せました。私は「いい人」というよりはこちらの方が相応しいのかもしれません。
本当の「いい人」って一体何なのでしょうか?
パッと思い浮かばなかったから書かなかっただけで、別に人間に対しては厳しいとかそういうのではないです。
たとえば……「飲み会で一人入っていけなさそうな人を見つけたら率先して話しかける」とか、
「友人から貰ったプレゼントが一瞬で壊れてしまったけれど本人との会話ではまだ使っていることにしている」とか、
「人に質問するときは他人の時間を拘束しないよう出来るだけ要点を事前に纏めたメモを持って話す」とか、
「「○○で困っている」という話を聴くと、どうすればいいのか自分も気になって調べ始めてしまう」とか……
・いい人かどうか訊いてしまった時点でいい人ではないという意見
もちろんそのジレンマについては分かっています。なので、「僭越ながら拭い去れずにいる」「ここらで白黒はっきりさせるためにも」と書きました。
その上でも訊くなというのなら……「いい人」というのは難しいものですね。
今朝起きると、また耳鳴りが戻ってきていた。これには大いに絶望させられた。
レントゲンを取ると、左側の顎関節が短かった。
つまり、顎が落ちてくる前はこの長さ分を食いしばりにより押しこんでいたという事みたい。
そして、普段から歯を噛み合わせている事によって悪化させる一方だったのだろう。
骨と筋肉が現在の状態から落ち着けば、改善する可能性は大いにあるとの事。
あと、慣れてないからなのか、現在の顎の位置とか顔の筋肉の感じが違和感ありありなのだが、
これは全くもって正常な位置みたい。良かった。
とりあえずは就寝時マウスピースでの様子見となった。
希望は持てそう。
このブログを読んだ上でこれだけは言いたいと思って書きました。
どれだけ喚こうが、どれだけ叫ぼうが日本は死にません。自分が死ぬだけなのだということです
筆者の意見には否定的な反応が多いようですが、私は同情を覚えずにはいられない。
何故なら、私も筆者と同じような心境に陥っているからです
私の状況をお話しますと、学生時代に就活をしていましたが、内定を頂けず、現在は既卒での就活を再開しています。私は10社ではなく20社ほどに絞って就活をし、筆記テスト、グループディスカッション、一次面接、二次面接、ときには三次面接とくぐり抜け、10社最終面接にたどり着きました。そして、全て最終面接でお祈りをされることになりました。最終面接に10社辿り着けたということは、最低限の学力、コミュニケーション能力、理解力等は自分にはあるのでしょう。しかし何らかの理由で最終面接だけは通過できなかった。その理由は何なのか?フィードバックを頂いても、定まった答えは返って来ませんでした。自分の中でこれだ!と言った答えも見つからないままです
私が何を言いたいのか。
それはどれだけ勉強をしようが、コミュニケーション能力を磨こうが、インターンや自己分析、企業分析、OB訪問等の就活の準備をどれだけしようが、どれだけ○○をしようが落ちるときは落ちるということです。なので、まだ10社連続なら大丈夫。私のように落ち続けて既卒になった者もいます。生存競争において淘汰されるべき者はあなたのずっと下に存在します。
そういった感情論とは別に、筆者は日本の雇用問題に関して指摘をしている部分もあります。日本においては人材のミスマッチ率が非常に高く、そして雇用の満足度も低いという問題があります。日本はここ20年、経済成長を果たしておりません。諸外国と比べると、日本の物価はどんどん安くなっています。
日本のGDPが成長していない理由。それは雇用だけの問題ではないでしょう。生産性の低さ、消費の停滞、労働者数の減少、終身雇用によるチャレンジのなさ、ただパイを奪い合うだけの長時間労働・・・様々な問題があります。そもそも、GDPを指標にするということが古いのかもしれません。しかし、この企業と学生による化かし合いの新卒一括採用が雇用のミスマッチを引き起こし、満足度を低くしているのは間違いないでしょう。何がしたいのかも、何が向いているのかも明確に定まっていないまま、就職した最初の企業でうまくいく確率は低いとは思いませんか?
米国の若者は18歳から28歳までに平均6.2回の転職を行っているそうです。もちろん、ここまでの転職回数を認めろと言っているのではありません。ただ、転職について、雇用主も雇用者もポジティブに考える事で良い結果をもたらすのではないかということです。何故なら、流動性の高さはマッチング率を高めるからです。新卒一括採用と流動性の低さはミスマッチ度合いを高くします。恋人だって何人とも付き合って結婚相手を決めるのに、どうして雇用は流動性が低くて満足できると思えるのでしょうか。
運が悪く負ける人になったのか、実力がなかったのか、それは分かりません。
ただ、そこにある事実は面接に落ち続けた人ということであり、内定を貰えなかった人であり、それは必ず存在し得る人なのです。
そして、誰が助けてくれるわけでもありません
誰も助けてくれなくても、家族がいるじゃないか!という意見。ごもっともです。これまで様々な面で経済的援助、精神的な援助をしてくださった両親。非常に感謝しております。しかし、こと両親の分からない範疇、自分で決めたいと考える物事において、両親という存在が必ずしもセーフティネットになるとは限りません。何社受けたの?いつ決まるの?就活してるの?もっと○○したら?いい企業に入れないんじゃないの?など、自分は考えて行動をしていても、必ず親という存在はプレッシャーをかけてくるのです。仮に僕が社会人の方々に聞いてきたことが正しいとしたら、中には全くアドバイスにならないようなアドバイスをしてくる場合もあります。
就活や人生で悩んでいる子供を抱えている親の方がご覧になっていたら、子供に声をかける前によく考えていただきたいです。あなたの言葉がプレッシャーになり、子供の心を壊してしまう可能性があることを十分に理解しておいたほうが良いと思います。私のような人間を生まなくてすむでしょう。
私は分からなくなるのです。自分がどう生きていけば良いのか。自分に何ができるのか。やりたかったことが出来ない人生。
もしかしたらそこでしか出来なかったであろうこと。先のみえない人生。
それは筆者も同じでしょう。その中でもがいて生きていくのです。
日本は死にません。死ぬ必要もありません。自分に何らかの責任があり、自分が自らの失敗を背負うだけなのです。
踏ん張る。駄目なら色々な方法を試す。変化する。それでも駄目だ。
それはもう筋金入りのものであり、新歓の時期にチラシを1枚も貰ったことがないという奇跡さえ引き起こしてしまうものだ。
勿論デートもしたことはない。
顔はでかく、目は細い。ちなみに毛深い。絶望かよ!
電車の鏡に映った亡霊のような自分を見ていると「顔の余白広すぎだろ」と思う。
化粧したら多少マシになるが、頭がでかすぎるのでちんちくりんである。
キンタローさんが出てきたときはあまりに自分に似ていて驚いた!
彼女は結婚したからすごいなあと思う。人間的魅力があるんだろうな。
自分を好きになれずツラいので、整形も考えている。
真剣に言うけど、鏡に映る自分を見てテンション下がるの結構辛い。
誰か抱いてくれ、としか言えないが、悲しいことにブスは身体まで不細工なのである。
お見合いパーティ?でも行こうかな
はー、地道に生きよう。
グリムノーツというソシャゲのプロデューサーと、まとめブログとして悪名轟かせる『はちま起稿』の管理者が会食したのが問題視されている。
どんなゲームだろうと試しに調べてみたところ、それなりに魅力的なゲームであるように思えた。
童話の世界を題材にしたファンタジーというのも、鉄板とはいえ悪くはないかもしれない。
しかしこのゲームのプロデューサーは悪魔であるまとめブログ管理者に魂を売った。その悪魔は社会に様々な災厄を引き起こしている。
例えばヘイトスピーチ。これが跋扈する理由としては様々な要因が考えられるが、その中にまとめブログの存在があると考えている。
まとめブログではアクセス数目当てとしてヘイトスピーチ、あるいはそれと親和性が非常に高い言説が掲載されることが多い。
また、まとめブログでヘイトスピーチ、あるいはそれを肯定する言説だけが提示されることで、読み手が「ヘイトスピーチは肯定されている」という認識を抱くことも考えられる。
その結果ヘイトスピーカーがまとめブログを通じ生みだされることも考えられる。
ヘイトスピーチは現代日本で問題視されていることは周知のとおりだ。タカ派として知られる安倍自民党ですらヘイトスピーチ対策を目的とする法案を提出した。
まとめブログによる災厄はヘイトスピーチだけではない。特定個人への誹謗中傷や著作権の侵害、ネットコミュニティの破壊といったものもそうである。
そのような中、様々な災厄を引き起こす『はちま起稿』に代表されるまとめブログに利する行為は何が何でも避けなければならない。
さて、『はちま起稿』に代表されるまとめブログとスク・エニ社とは懇意であるという説がある。
勿論ネットの与太話と切り捨てればそれまでである。しかしグリムノーツを肯定的に扱う記事を掲載したりしたことを踏まえると、与太話と切り捨てるべき話題ではないようにも思える。
もしまとめブログとスク・エニ社は懇意である場合、企業側には恐らく商品の宣伝効果が期待できるという思惑があるのだろう。
つまりまとめブログと懇意にする会社の製品を買うことは、宣伝効果を実証してしまうという点でまとめブログに利することにつながるのではなかろうか。
今回の事案に関しては、まだ不確定な部分も大きいため「まとめブログとスク・エニ社は懇意だ」ということは断言できない。
ただ、もし本当にまとめブログとスク・エニが懇意だった場合、スク・エニ社の製品を購入した己の行為もまとめブログを利する行為ということになるだろう。
スク・エニの場合、ここ最近買ったりしたことがある製品は以下の通りだ。
表題にある「まとめブログを利する愚かな人間」に、我が身も含まれることになってしまう。
己の愚かさへの憤りと、物の弾みで蛮行に及んだ罪悪感を強く感じる。