はてなキーワード: 人間論とは
そもそも異性とセックスして子供を作ることがそんなに特別な事なのか
細胞分裂だったら常日頃みんなやっているし自分が吐き出した二酸化炭素は植物に吸収されるし
トイレに流した排泄物は下水処理場で燃料や肥料に加工されてエネルギーになる
皆生きているだけで数多くの化学変化という形で多くの存在やエネルギーと関わっている中の一つでしかないのに
セックスと出産を特別視し過ぎなんだよ 究極的な事言っちゃえば今すぐ地球が爆発消滅しても宇宙は何事もなくこれからも動き続ける
生物としての形態より無生物がエネルギーの脈動を起こしていることの方がマジョリティなのに何で皆そんなに偉そうなの?
あんまりこの辺突き詰めるとオウムのサリン散布を正当化してしまうからこれ以上は言わないけどなんかネットで盛り上がる男女論非モテ論人間論そのものに違和感がある
短期間でも実際に動物を観察すれば気が付くことだが、動物は潜在的に食べられるもの、食べられそうなものでも、それまでに食べたことがなかったりましてや見たこともなければそれをすぐに食べ物と認識したり食べたそうな素振りを見せることはない。それが生きて動いていて、自分と同じくらいの大きさであればなおのこと、自分よりかなり小さいものでも一番最初に考えるのはそれが自分に危害を加えるかどうか、だ。食べたい、とか、食べられる、ではない。
一例として、犬や猫を飼ってる人なら誰でも自分の経験から知ってると思うが、彼らも食べられるものなら何でも食べるわけではない。市販のフードを与えてもまず見て、匂いを嗅いで、ちょっと触ってみて、結果自分がそれを食べ物だと認めなければ以後見向きもしないということはよくある。これは別にフードが既製品だからというわけではない。既製品のフードの中でも個犬個猫が食べ物と認めるものとそうでないものがあって、そうでないものは食べたくならないのだ。目前の有機物を食べ物と認識するというのは「飯食って生きてる生物である以上その欲望には絶対に抗えねえ」という類のものではないのである。
これは市販のフードだけでなく自然の中にいる動物でも同じことだ。飼い犬飼い猫の中には親犬猫から教えられたわけでもなく自分で遊んでいるうちに鳥や小動物の狩りを自習するものがいるが、彼らが自分の狩ったものを食べ物と認識する、食べたいと思うかはまた別の話である。狩りと同時にそれを食べることを自習する者もいるが、中には自分で狩ったものをいつまでたっても決して食べないものもいる。それが「自分の食糧である」と学習しなかったわけだ。「有機生命体だったら有機物で構成された生物はとりあえず1匹は試しに食ってみたい、と考えてしまうもの」であればこうはならない。
いろいろたくさんいる動物の中にはもちろん動くものを見れば反射的に跳びかかり同時にそれを口の中に入れてしまうような採餌方法のものも(たくさん)いるが、それらの動物が「食ってみたいという欲望」からそのように行動しているかははなはだ疑問であるし、どちらにしろ人間はあまりそのような動物には近くないだろう。さらに「何でも口に入れる系」の動物が跳びかかるのは凡そ自分の口に入るサイズの相手だ。それより大きいと自分がケガをする可能性が高くなるし、最悪自分の方が食べられる。長生きできそうにない。
初めて宇宙人(異星の有機物)と出会ったその日、人間の取る行動は、恐れ、身を隠し、恐怖から攻撃に移るというのが有機生命体としても自然であり、それは即ち今まで多くのSF作品にまさにそのように描かれているのである。その日初めて見た異星の有機物をとにかく一度食ってみたいという欲望など自然に湧いてくるものではなく、そのような欲望を前提として描かれる作品はファンタシーといえども著しく現実感を欠いた物になるであろう。少なくともそれは私たちの知る生命の実態と矛盾し、文化的なフェティシュとしか描かれ得ないのである。
とかく人はこと食い物とセックスのことになるとそれは生命本来の欲望であるという先入観で自分の文化的な価値観を正当化したり他人のそれを貶したりしがちであるが、多くの場合そこに正当性はない。食とセックスは本来的なものであるが「あなたの食」と「あなたのセックス」はそうではない。だから私は現実の生命から乖離した「イメージ」で語られる生命とその偏見に立脚した世界観・人間論には懐疑的な目を向けることにしている。フェティシュがフェティシュとして描かれているうちは良いが、そのフェティシュの立脚点が「有機生命体である以上その欲望には抗えねえ」ということになるとそこに少しザラリとしたものを感じる。
などというよしなしごとに思い至す感謝祭の夜である。一部ここに私が記したことに反感を覚える向きもあるであろうが、私が常に増田に書いている消化管末端より排出される未知の有機物の如きもののひとつである。水に流すなり抗いがたい食欲を覚えるなり、お好きなようにされるがよろしかろう。
相模原市の事件を受けて、様々な意見が出ていて、いろいろと考えさせられています。
とくに「重度の障害を持つ方に対するケアワーカーの陰性感情」についての議論には、様々な方向から風が吹き荒れているようにも感じました。
そこで私は、今回の事件を受けて「感情労働」とケアワーカーのメンタルヘルスについて、少し整理してみようと思いました。
(様々な論点があると思います。犯人の病理などについては僕には分かりかねる部分が多すぎるので言及は避けます)
感情労働(Emotional Labour)とは 1983 年アメリカの社会学者A.R.ホックシールドにより提唱された概念です。[1]
感情労働は――肉体労働や頭脳労働と同様にーーその「感情」が賃金と引き替えに売られるのです。
言い換えれば、感情労働を行う労働者は「上手にその感情を管理し、それを提供し、自らの感情と引き換えに雇用者から賃金を得ている」とも言えるでしょう。
この感情労働を行う労働者としてホックシールドは,客室乗務員、さらに教師や看護師なども例として取り上げていました。
さて、私自身も経験がありますが、重度の障害を持つ方に対し、長期間の日常生活ケアを行っていると「穴を掘っては埋める」作業を毎日しているような気持ちになることがあります。
そんなときに患者(あるいは利用者の場合もありますが、ここでは患者と統一して表記します)に対して陰性感情がムクムクと湧いてきます。
これは、患者自身が強烈なストレスや混乱の中にいて、言い様のない攻撃性を援助者に向けていることとも関連します。
患者が抱えるストレスや混乱と同じような感情を看護者は感じてしまうのです。
「なんで、言うことを聞かないんだ!」「どうして、噛みつくの!」「何度言ったらわかるの!」と心のなかで大きな声で叫んだことは数えきれないほどです。
ケアする人とされる人の間にはーーもちろん、その関係に限ったことではありませんがーー「感情の対称性」があります。
(逆に考えれば、「自分自身の感情から患者の感じていることを推察することができる」ともいえます。)
こうした無意識プロセスを理解をすることは自身の感情をコントロールするために役に立ちます。
しかしながら、このことに一人で気がつくことは、かなり困難であると私は考えます。
感情労働の概念や、感情の対称性について、ストレスマネジメントについての十分な教育や、あるいはスーパーバイザーを交えたデブリーフィングセッションを行っていく必要があると思うのです。でも、現実には、そうしたことはケアワーカーの間では殆ど行われていません。
積み重ねられた陰性感情は、罪悪感や攻撃性、無力感に変化していきます。学習された無力感は自尊感情の低下や自己効力感の低下も引き起こします。
そして、それらはある日、まるで波が引くようにものすごい力で『反転』することがあるのです。
また、前述までと矛盾するようですが、近年の研究では「感情労働は一概にメンタルヘルスに対して悪影響となるものではなく、顧客やスタッフとの相互関係から職場にとって良い影響も与えうる」ともいわれるようになってきています。その肯定的な側面として達成感の向上や患者とのつながり感覚を強めること、職務満足感を高めることなどが述べられているのです。
「よくコントロールされること」「よいものとして認知されるようにすること」が大切なのだと私は思うのです。
介護労働者の待遇改善などの労働衛生管理については各所で述べられている通りだと私も思います。
しかし、ケアワーカーのメンタルヘルスに関しては金銭面だけでは解決できないものもあると私は考えているのです。
私は、今回の事件そのものや犯人に対して、ある種の憎らしさや強烈な嫌悪感を感じています。
当然、許されることではありません。
ただ、私は同時に、どうして今回のような凶行に至ったのかにとても興味があるのです。
自分自身が、同僚が、家族が、被害者・加害者にならないようにするために。
社会としてどうしていくべきか。
ケアワーカーのメンタルヘルスに関してはどう捉えたらよいのか。
わたしたちがコントロールできることとコントロール出来ないことはなにか。
リエゾンなどに携わる専門職が率先し、十分な議論を行い、実施可能な具体策を挙げていけるといいなあと僕は思ったり考えたりしています。
武井麻子先生は『感情と看護』[2]の中で、Winnicottを引用しています。(P.263)
「ウィニコットは、無慈悲にも自分を怒らせる赤ん坊をケアする母親について、このようなことをいっています。
母親は赤ん坊を憎むことを、それをどうこうすることなく容認できなければならない。母親は赤ん坊に対して憎しみを表現することはできない。[中略]母親に関して最も注目すべきことは、自分の赤ん坊によって大いに傷つけられながら、子どもに報復しないで大いに憎むことができる能力、そして後日にあるかもしれない報酬を待つ彼女の能力である。
同じようなことが看護師にもいえるのではないでしょうか。自分を傷つける者(それは患者であるかもしれませんし、そうでないかもしれません)を憎むことを看護師は容認しなければならないのです。」
<参考文献>
[1] A. R. Hochschild, 室伏亜希と石川准, 管理される心―感情が商品になるとき. 2000.
[2] 武井麻子, 感情と看護―人とのかかわりを職業とすることの意味 (シリーズ ケアをひらく). 2001.
[3] パム・スミス, 武井麻子と前田泰樹, 感情労働としての看護. 2000.
[4]Huynh, T., Alderson, M., Thompson, M. (2008)Emotional labour underlying caring: An evolutionary concept analysis. Journal of Advanced Nursing, 64(2), pp.195-208
陰気な人間がいる。
陽気な人間に、何故そんなに陽気でいられるのか、と問う。
陽気であることは、相対的にいいことである。と考えている、と答える。
陽気な人間は、自分が「善」であるという自信を持っているため、活動的になれるのである。
自信は、良い結果を生み出すが、ときには悪い結果も生みだす。
陰気な人間は、その悪い結果が、凄く気になるのだ。
陽気な人間は、悪い結果は、いい結果で補えると考えている。
陰気な人間は、悪い結果を出さないように考える。
ここで、陽気と陰気の差が分からなくなってきた。
おそらく、過去に自身が体験した結果から、結びついていくのだろうか。
ニワトリと卵どちらが先か、の話になってくる。
混乱してきたので、やりなおし。
そもそも、このような発想に至ったのは、
「明るい人の中に、自分の正しさを軸として、一元的な人間論を語る人がいる」
明るい人「何をそんなしょうもないことで悩んでいるんだ」
暗い人「…何で『しょうもない』と考えているのか?教えてくれ」
まあ、これに対する回答は難しいよね。
間違っても「それだよ、そう言う考え方がしょうもないんだよ」
この回答がなぜだめなのか、論理的に話せない俺に問題があるよなあ。