はてなキーワード: ウイスキーとは
2年ほど前、近年のウイスキー高騰についていけず、自宅で様々な蒸留酒を試し始めた。
その中で少しお高いテキーラ(一本3.5k〜10kくらい)に手を出し、イメージを改めるに至った。
一口にテキーラといえど多種多様であり、奥が深く、ウイスキーやブランデーと同じゆっくり飲める味わい深い蒸留酒だと知った。
職場の人間に「どのような酒を好んで飲む?」と聞かれ、テキーラの名前も自然と挙げた時は、自分はこのお酒のことを好きになったのだなと感じた。
***
いつものように通販で買ったテキーラが届いた。段ボールを開くと折り込みチラシが入っていた。
通販で使っている酒屋がテキーラのイベントに協賛しているそうだ。
ググってみると、下記のようなことが書かれていた。
「マルガリータ」は世界で最も愛されているクラシックカクテルの一つであり、メキシコが誇る世界的なお酒、テキーラを使用する代表的なカクテルでもあります。
そのマルガリータを皆で楽しみ、祝うべく特別な日として、アメリカで毎年2月22日がNational Margaritadayとして定められ、2018年より日本でも同日を「マルガリータの日」に制定しました。
これまたググる。
日本におけるテキーラを中心としたメキシカンスピリッツの「正しい知識の普及」や「業界の発展」を目指すプロモーションユニット
家の外には私がかつて持っていたテキーラのイメージを払拭しようと奮闘して団体があることをここで知った。
こんなご時世だ。イベントへの参加はかなり悩んだが、感染対策を徹底していると書かれていたのでチケットを購入することにした。
開幕直後だと混雑も考えられたので、少し時間をズラして15時前に到着した。
会場はわが目を疑うほど混雑していた。
満員電車とまでは言わないが、年末のデパ地下、コミケ3日目くらい混んでいた。
そこではマスクを外し、手渡された酒を一気に煽る人々が散見された。
一瞬呆気に取られたあと、ここには居たくないなと考え、踵を返した。
一杯も飲むことはなかったが、チケット代5000円を惜しむ余裕はなかった。
良し悪しで語れる話ではないのでそこをどうこういうつもりはない。繁盛していて何よりだ。
ただ、普及や発展を目指す団体が開催したイベントで、苦手意識を抱いていた絵図を目の当たりにしてしまったことがショックだった。
これが目指す姿なのであれば、今後近づくことは決してない。
しかしイベントに参加することも、人から好きな酒を聞かれ「テキーラ」と答えることも、きっともうない。
***
悲しい出来事だったが、テキーラは素晴らしいお酒だと思います。
ブルーアガベを100%使用したテキーラをストレートで何種類か飲んでいただければ、一人で飲む酒も好きなタイプの酒飲みのQOLが少し上がるのではないでしょうか。
本気で言うとレッドデッドリデンプション2をやれ
まずは1階のカウンターでまずチェックイン。俺は騒がしいカウンターで飯を食う(別料金)
そして宿内に併設された風呂(別料金)に入る。風呂では何か凄みのある女性が来て体中を洗ってくれる(別料金)
部屋に戻ったらバルコニーに出る。でかい街限定だ。夜風を浴びながらタバコをすう(持ち込み)
疲れたらベッドにすわって缶詰を開ける(持ち込み)。食い終わったあとにゴミをぶん投げる表現がぱねえ
干し肉と一緒にバーボンやウイスキーをあける(持ち込み)。飲み終わった後にビンをぶん投げる正気じゃねえ
https://togetter.com/li/1843557
童顔なせいもあってか、年男にして30代に見られることがほぼないため、自分が実践していることをあげてみる。
結局口周りのトラブルの原因はほとんどひげ剃りによる乾燥・肌荒れなのである。
将来ひげが要らないなら、まずひげ剃りの手間を無くすのが時間のないおっさんには一番効果的。
自分の場合は池袋のクリニックで10回くらい医療レーザー当てたら青ひげが解消した。
基本的にネットで入手できるし、忙しいおっさんはなんかごちゃごちゃ塗るよりサプリ飲んで内面から改善したほうが続くと思う。
→幸い、いまのところハゲてない。髪のボリュームダウンも老けて見える一因である。
→L-システインは飲みすぎると白髪の原因になるため、本来の規定量の2/3飲んでる。
→(はてなーが嫌いな)DHCのタイムリリースタイプを飲んでいる。白髪にも良いと言われている。
→亜鉛が髪と下半身にめっちゃ効く、まじで精液増えてビビる。たぶん便通にも良い。
→マツキヨに売ってる。風呂上がりと出かける前に顔から首にかけて塗る。
個人的に塗るのはこれだけで良いと思う。
※この店主さんに思うことは無いです
※欄が変な感じなんよね
ワイン、ブランデー、ウイスキー、ビール、焼酎、ウォッカ、テキーラ
それぞれ、個々人からしたら「クソ不味い」となる安酒は普通に売られてる
日本の2017年の日本酒消費量は成人ひとりあたり5.40リットルだが
(https://www.nta.go.jp/about/organization/hiroshima/sake/syouhijoukyou/index3.htm 参考)
ワイン消費量は成人ひとりあたり2.94リットルだ(キリン調べ)
ところが、ワインは成功してて、日本酒はダメダメって感じの語り手が多い
それ、ワインも一緒じゃね?
焼酎は?
人々が普段消費するのは、度数の低いビールや、リキュール(サワー・ハイボール)だ
ウイスキーやワイン、ウォッカや焼酎の銘柄、どの程度知ってる?
知らんだろ?
だけど、日本酒は失敗してる事になってる
話してる奴らが日本酒を嫌いなだけなくせに、日本酒はダメなんだって顔真っ赤にしてな
確かに日本酒の底辺は合成清酒で、昭和の頃は悪酔いする不味い酒だった
昨今は味を調える技術が向上して合成清酒も悪くない酒になってるんだけど、昔の人は未だに飲まないって人も多い
酒屋では二級酒(今でいう火入れの普通酒)を一升瓶で売るってスタイルだった
これはしょうがなかった
ちょっとした温度変化で簡単に味が劣化する日本酒は地産地消されるのが普通で
注文したら翌日には商品が届くとか、きちんと温度管理されるとか、アホみたいなスペックの配送システムがなきゃ飲めない酒なんてごまんとある
ちな、ちょっと前の日本酒界隈では「佐川を使う所は外れ」とか言われてた
吟醸酒を並べ
蔵の新しい酒を飲ませてくれたりする
試飲会やら頒布会、サブスクとかをきちんとやれば好事家のネットワークで広まって
わざわざ交通機関を乗り継いで人が集まる
そういうリピーターは「而今飲ませろ」「十四代あるか?」なんて言わない
「今乗ってる一押しの蔵とかある?キリッと辛口で」みたいに聞く
若い奴?
店のイベントに参加してみろよ
すげぇ一杯いるぞ
なんか※欄の連中と、日本酒界隈の今、みたいな感覚は乖離がある気がする
もう1年以上前の話になるが、ウイスキー好きの叔父が死んだ。とにかくウイスキーが好きな人で、東京に出たまま故郷に帰らず、かといって結婚するでもなく酒ばかり飲んでいる変わり者だった。うちはあまり酒を飲まない家系だから盆や正月に集まると本当に浮いている人だった。酒癖だけは人一倍良くて、酔っ払っても機嫌が良くなるだけで人に迷惑を掛けるということがなかったから嫌われてはいなかったし、小さい子供たちからは酒を飲んでるときにお年玉をせびると気前がいいと人気だったくらいだけれど、何をしているんだかわからない一族のはぐれ者、というのが大人も子供も共通の認識だったと思う。葬式もコロナ禍の真っ只中だから親族で済ませたんだけど、叔父のスマホを拝借して連絡した「最近もやりとしていていた人たち」は叔父が通っていたバーの常連客達ばかりで、こいつらも香典と一緒に供え物としてウイスキーを送りつけてくるような変わり者ばかりで、四十九日には遺品整理で残った大量のウイスキーと仏壇の前に並んだお供え物のウイスキーは合わせて100本をゆうに超えていた。
そんなウイスキーの扱いに困った親族の矛先が俺だった。俺は親戚の中では珍しく酒に強かったから(それこそ未成年の頃から)よく叔父の酒の相手を任せられていたし、地元の大学ではなく東京の大学に一人暮らしで通っているというのも地元で暮らす親戚たちから見れば叔父との共通点だったんだと思う。そうして、「特に高級なものがあれば売っても構わないが、弔いだと思って気長に飲んでやってくれ」というものすごく無責任な言葉と共に俺のボロアパートには大量のウイスキーがやってきたわけだ。
ともあれ時間だけを持て余した貧乏学生には悪くない話であった。俺は丸一日かけて叔父のコレクションの目録を作り、叔父が通っていたというバーのマスターに連絡を取り、一部をマスターや他の常連客に市場の半値で売るという条件で全部査定してもらった。その結果、俺は十数本のウイスキーを売るだけで100万円を超える現金を手にすることができ、ちょっと税務署の方角が気になってしまった程だった。困ったのは残ったウイスキーだ。まだ1本あたり1万円を超えるボトルが大量にあったので売ろうと思えばいくらでも売れたのだが、そんなことをすれば当たり前だが残るのは今もネットで数千円で買える酒だけになってしまう。十分儲けさせてもらった負い目もあって、俺は残ったボトルを飲み干すことにした。
自分だけで飲んでいたら何年かかるかわかったものではないので友人を呼んで酒盛りをしたりしたのだが、叔父の好みがドライな方向に偏っていたせいで残ったコレクションはすこぶる評判が悪かった。だが評判が悪いからといって他の酒の持ち込みを許していたらいつまで立ってもウイスキーは減らないため、部屋にあるもの限定の無料の居酒屋を俺は開き続けた。当然客足はみるみるうちに遠のいていったのだが、最後まで残ったのがA子だった。
A子はいつの間にか俺よりウイスキーに詳しくなっており、仲間内で唯一俺の部屋の徒歩圏内に住んでいたということもあって、勝手にウイスキーの山をひっくり返してはあれもあったこれもあったと毎日のように一人で俺の部屋に飲みに来ては、覚えたばかりのウイスキーのうんちくを俺に語るようになっていた。暇を持て余した男と女が毎日二人っきりで酒を飲んでいれば肉体関係に至ったことは想像に難くないと思うのだけれど、俺とA子は最後まで恋人同士になることはなかった。俺はなんだか叔父が生き返ったような気持ちで酒に付き合っていたし(A子と叔父を重ねて見ていることに気づいたとき、俺は叔父のことを思ったより慕っていたんだなと気づいた)、A子から見た俺も、好きな酒をたらふく飲んで気持ちよくなった後についでに気持ちよくなる相手という感じだったと思う。それでも、酒の魔力かセックスの魔力か、泥酔して肌を重ねていくうちに俺達はとても親密な関係を築いていった。同性の友達よりずっと深く、恋人ほど依存しない、そういう関係だった。俺達は毎日のように酒の力を借りて自分の思いを何でも恥ずかしげもなく話し、肌を重ねながらお互いのことを受け入れていった。そんな関係が半年ほども続いたある日、それは突然に終わった。彼女が消えたのだ。
彼女の希死念慮のことを、俺はずっと知っていた。だが何もしなかった。ただアルコールを摂取してそれを分解するように、彼女の話を聞いて、飲み込んで、それで終わりだった。俺は彼女の話すことを全て受け入れてはいたけれど、彼女のことは受け入れてなかったんだと思う。彼女の抱えていた漠然とした絶望を俺は理解できたけれど、彼女を受け入れる勇気はなかったから。
彼女の消息が判明した後もわからないことはたくさんあった。わかったことは彼女が遺書を書いていて、その内容が死ぬことにしたこと、その前に好きだったウイスキーの蒸留所を見てくることにしたことだけだった。俺は彼女の親の顔を見ることも、俺と彼女のことを伝えることもしなかった。そうすることが正しいのかわからなかったし、今更そうして彼女を受け入れることが彼女に対する不義理に思えたからだ。だからこれ以上のことは何もわからない。わかっていることは部屋に残った大量のウイスキーを、叔父がそうしていたように一人で飲むことになったというだけだ。もうすぐ、彼女の好きだったウイスキーを作るための麦に花が咲く。
「ドライブ・マイ・カー」を見に行きました。広島ロケということと、何か凄い賞をとったということで、広島在住でミーハーの私は遅ればせながら見に行ったのでした。
原作が村上春樹ということは分かっていたのですが、序盤から村上春樹感が強すぎて笑ってしまいました。
決して村上春樹が嫌いな訳ではないのだけど、私の乏しいイメージ通りの村上春樹すぎたので。村上春樹の誇張したモノマネだと思っていたものが、割と本人のまんまだったというか。
ピロートークが詩的すぎて何言ってるか分からないが、相手もそれを理解して詩的に返す
ピロートークだけではなく、二人で話す場面は基本的に詩的なことばっか言う
ということなんですが。別に馬鹿にしてる訳ではなく、私の教養とか感受性とか経験の乏しさ故に、表面的な部分しか拾えていないんだと思う。
大して村上春樹を読んできた訳ではないけれど、私自身に性的な経験が無さすぎて、村上春樹に触れるとどうしても、「すぐセックスするじゃん!隙あらばセックスじゃん!」って心の中で照れながらツッコミを入れてしまい、集中できなくなってしまう。
ドライブシーンなんかとても良かった。
運転手役の女優さんが格好良くて、色気があって最高だった。ドライブシーンに関しては、詩的なやり取りとか、ちょっと儀式的な言動も自然に受け入れられたし。まあそれは主人公と運転手がセックスしなかったからなのかもしれないけど。
あとユナさんもソーキュートだったし。稚拙な表現だけど、ユナさんの手話はおまじないみたいで、表情と手だけで声を出すよりも感情を伝えていて、ユナさんが話してるときには相手に魔法をかけてるように感じて、とても良かった。もちろんセックスもしなかったし。
村上春樹に触れると、すぐセックスを連呼したくなってしまう自分がいる。もし私に少しでも経験があったならば、セックスの呪縛に縛られずにこの映画を見ることが出来たのだろうか、悔しい。
2023/1/2 part5を全体的に修正。出身会社について追記。
前職を辞めて1年以上が経った。そろそろ事業会社で働いてみようと決心したところで、キャリアの棚卸しをしてみようと思った。
私は、新卒で人材広告の営業会社に入った。その次は転職支援の仕事をしていた。いずれも管理職になって、いくつかのチームをマネジメントする立場になり、二番目の会社を数年後に退職してからは個人事業主になって、ひょんなことから地方自治体(市役所)に転職した。
そこを辞めてからは、幾ばくかの退職金を元手に、フリーランスをしながら自由な毎日を送っていた。今でも個人でコンサルの仕事を請けたりする。学生時代を懐かしんで、マクドナルドのクルーに応募して働いてみたりもした。
人生の休息はたっぷり取ったし、そろそろ本気で再就職を目指そうかと考え始めたところ、職務経歴書を書かねばならないことに気が付いた次第だ。
なお、当日記のタイトルは、問題社員の正しい辞めさせ方(Amazonのページに飛びます)という本から拝借している。
名著だった。今回の日記の投稿に至ったのはキャリアの棚卸しが主な理由だが、この書籍にインスパイアされたこともある。
前職の説明をする。とある地方自治体の特定任期付き職員として、人事政策の立案と運用を担っていた。役職は部長級。人事~~と名の付く長ったらしい名前だ。
かつて個人事業主だった頃、それまでに培った人材広告の営業や、転職支援のスキルを活かして個人コンサルをしていたところを当時の市長に拾われた。この人は、私が勤めていた会社のひとつで上級管理職をしていた縁があった。
私以外にも、いろんな組織から多くの人間を市に引っ張っていた。みな幹部としての登用だった。それぞれが民間等での専門性を活かし、刷新的な業務に取り組んでいたのを覚えている。
ここに綴るのは、地方公務員の端くれとして〇年間、人事の仕事に携わった諸々の実例だ。
始めに言ってしまうと、私の仕事は政策立案の本流ではなかった。それよりも、できがよくない職員、いわゆる問題職員や無能職員と言われる者たちのトラブル処理や、彼ら彼女らへの指導――のみならず、退職勧告まで含めて担当していた。
当時の市長(私の任期の途中に退職)は、私をそのために採用したに違いないという確信がある。行政経営における中核的な人事施策は、当然ながらプロパー職員に担わせるべきだ。私は、公務員が慣れていない型の人事業務(いわゆる肩たたき系)の企画運営を行い、後の人間に引き継ぐために採用されたのだ。何か問題が起こっても、私は幹部職員で権限ある人間ということになり、責任を取ることも可能というわけだ。
前の会社においても、人事責任者として様々な人間に接してきた。その経験を当時の市長は買ったのだろう。かくして勤めることになった市町(K市とする)が抱えていた問題を解消するために動くことになった。
実際、当時のK市には労働関係の指標に問題があった。3年以内離職率だ。私が赴任する直前年度の3年以内離職率は、30%を超えていた。地方自治体は、同規模の民間企業に比べて恵まれた労働環境にあるというのに、この数字はちょっと高い印象がある。
辞めていく人間の大半が査定の低い者、トラブルを起こす者ばかりであればまだいい。だが実際には、将来のK市をしょって立つと期待された職員が半数を超えていた。特に若手だ。
せっかく、まちづくり活動に携わる職場や、霞が関や、県の本庁にある部署や、県内市町から1人ずつ出して組織される団体(〇〇合同機構や、〇〇事務処理組合など)を経験させたというのに、辞められては元も子もない。
「全くの嘘は書かない」
というものだ。どういう意味かというと、例えば「A」のことを「アルファベット」と表現することはあっても、全く別のBと言うことはない。A´みたいな表現はするかもしれない。
当日記は、胸の痛くなる描写を伴う。しかし、私自身が次の転職に向けて準備をするために行っているので、赤裸々な事実まで含めてきちんと振り返ってみようと思う。死人は出ないので安心してほしい。
次に、この日記を書いたきっかけについて。何となくお察しかもしれないが、△年前に雇止めの通告を受けた。任期はその年度の3月末までだという。
結果を出したにもかかわらず、任期を更新されないという裏切りを受けた。私はそのように感じている。
当自治体に配慮する道理はないものと考える。書いてもいいこと、書くべきことは何でも綴ってやるつもりだ。
形式的には地方公務員だったかもしれないが、本当は違う。私はあくまで民間側の人間であり、自治体の人事運営の一部をコンサルティングする立場としてアサインされた。しかし、業務委託(準委任契約)の立場ではできない(例えば職員への直接の命令や指導)ことが多いため、致し方なく特定任期付き職員として採用された。それだけのことだ。
尤もらしいことを書いたが計算もある。以前、はてな匿名ダイアリーで、元公務員である作者が、かつて勤めていた組織の内情を(おそらく)包み隠さずに綴った日記を何点か読んだことがある。その中には、当然官公庁の内部事情に関するものもあった。「それ書いたらあかんやろ、捕まるぞ」と直感的に感じたものもある。
その人の日記では死人が出ていた。当日記では誰も死なないし、たとえどんなに面白い話であろうと、亡くなった人間をネタにするつもりはない。
例の日記は、今でも増田に残っている。魚拓と比べて、投稿後に何かを隠した形跡もない。私がこれから書く内容も赤裸々なものだが、あの日記の暴露レベルをラーテルとすれば、当日記はチンチラのようなものだ。ラーテルとチンチラが戦ったとして、多くの場合はラーテルが勝つだろう。
そこまで大した内容を書くつもりはない。挑戦してみるのも悪くないと思えた。
当然ながら、職員個人については特定がされないように最大限配慮する。特定の危険があると判断した場合は該当箇所を削除する。では、以下に1章ずつ綴っていく。
初めに言っておかねばならない。この日記はとても長い。全部で5万字はあるため、気になったところだけ読んでいくやり方は大いにアリだと思う。
かなりざっくりとした目次は以下のとおりだ。
第一章 更生が期待できない問題職員について Part1の途中~3,5~6
思い出に残っている職員を1人だけ取り上げる。
結びにかえて Part10
では、さっそく第一章に入る。
この章では4人分、問題職員への対処例を述べたい。私が採用されてから退職するまでの間に接した事例になる。
A夫さんは当時、50代後半だった。まるで絵に書いたような昭和風の地方公務員であり、私が若い頃に聞いた「公務員はこんな感じ」を地で行く人物だった。今では絶滅危惧種だと言っていい。
・毎日5時になったら帰り支度を始める。朝は始業2~3分前に出勤する。たまに遅刻あり。
・主任~主査級(※民間で言うと平社員の最上位。ここまでは自動的に昇進する)。年収は8本ほど。
・仕事量は少ない。勤務時間中はのんびり過ごしている。電話や窓口には出ない。
・台風待機や他課の行事があると積極的に手を上げて参加する(時間外手当がほしい)
ここまではいい。業界的には許せる範囲だ。生産性の低い人間には違いないが、問題職員とまではいえない。
この年代になると、彼らが新人職員の頃に先輩が行っていた(よくない)行為をすっかりと踏襲している。出張の帰りに公用車で自宅に帰ったり、家のごみを市役所のごみステーションに放り込んだり、イベントで余った飲食物を箱単位で私物化したり、市の取引先の〇△メーカーから私物としての〇△を卸売価格以下(店頭価格の約4割。同種の横領の誘発を避けるため伏字)で購入したり、机の下に焼酎やウイスキーを隠し持っていたり……。
重ねて言うが、ここまではまだ許せる。働く組織によって文化や慣習は異なるものだ。彼らや彼らの先輩が今までずっとそうしてきて、それで通用してきたのであれば、それは組織の責任でもある。
それに、若い職員には年配の職員が不幸である様子は極力見せたくない。「自分たちも将来は……」という希望を持っていてほしい思いがある。ほかにも理由はあるが、当日記を読んでいるうちにご理解いただけると思う。
罪を犯したのだ。職場の飲み会の帰りに酔っぱらって気が大きくなった彼は、とある罪を犯した。現行犯逮捕されたA夫さんが翌日に暗い顔で上司に報告したのが、私が赴任してちょうど一か月の頃だった。
新年度の第一例目ということで、私は総務部や人事課の職員(特に幹部クラス)がどう対応するのか見るつもりでいた。人事課の隣にある面談室で、A夫さんと、総務系・人事系部署の役職者が何人かと、私が同席していた。みな、それぞれソファに座っている。
その時のA夫さんの印象は、以下のようだった――と書こうと思ったが、そこまでの価値もない。一言でいえばこうだ。
『反省の色がない』
夜中にコソコソと他人の所有物を盗んだにもかかわらず、ヘラヘラと笑いながら、「すいません」と首をブラブラさせるばかりだった。シャツその他の衣服はよれよれで、ネクタイは曲がっていて謎のシミがある。
面談後、私は単刀直入に人事課長ほか数名に尋ねた。「免職ですよね?」と。
それは、短い返答だった。「これから協議します。民間なら免職かもしれません」というものだ。
私は負けじと、あらかじめ調べておいた根拠を示した。人事院が発している「懲戒処分の指針について(平成12年3月31日職職―68)」というものだ。
国家公務員も地方公務員も、この通達に従って処分を決めるという。免職処分か否かで揉めて裁判になった場合も、裁判所はこれを基準として判決を下す。その中に、以下の文言がある。
(1) 放火
(2) 殺人
(3) 傷害
(中略)
A夫さんの場合は、(7)のアにあたる。免職処分にできるはずだ。だが、人事課よりも上の立場の人間(※その人は部長級で、私と同格だったが、新人だった頃の私に権限や権威などあろうはずもない)は、A夫さんを停職1ヵ月と減給で済ませるという。
ここが勝負どころだと思った。
私が最初に入った会社では、飲食店などをメインに、自社の求人広報誌に情報を載せてもらう飛び込み営業を十年近く続けた。その後に実績が認められて人事部署に異動となり、数多くの優秀な社員や問題社員と接してきた。次の会社でも、現場を経験後に人事畑に移っている。今、この経験を用いる時だ。でなければ私の立場は矮小のままである。職員からの信頼は得られない。
手を挙げた。次回のA夫さんの面談は、私が主担当となった。面談室のソファの中央に私が座り、右脇には人事課長、左脇にはそれに準ずる者がつく予定だ。後は結論と筋書を用意して、A夫さんをその方向にもっていくことになる。
その前に、市長に軽く相談したところ、「お前の好きにやってみろ。決着がついたら教えてくれ」とのこと。ならば好きにやらせてもらおうと思った。
(続く)
今、JAMESONというウイスキーを飲んでいる。このボトルは今年3月あたりに買ったもので、購入当初はよく飲んでいたが、6月辺りから完全に放置していた。アルコールが飛んで香りや味が変わってしまう事をおそれ、久々に飲んでみることにした。
グラスに注いで香りをかいでみると、何故かふわりと懐かしい香りがして、今年春の思い出が強く蘇った。暖かくなってきた春の陽気の日、先輩の下宿でこの酒を飲み、結局オールして、肌寒い朝に始発で家に帰った思い出。半年前の出来事なのに、それがまるで遠い青春のように懐かしく、強く思い出したのだ。
調べてみると、香りと記憶は強く結びついているらしい。ということは、ある一定期間同じボトルを飲み続けたら、その頃の思い出とウイスキーの香りを結びつけることができるのではないか。このとき、「ウイスキー思い出保存法」のコンセプトが誕生したのである。
「ウイスキー思い出保存法」の手法は至極簡単だ。何か思い出深いイベントがあったとき、適当なウイスキーのボトルを選んで飲むのである。大学サークルの合宿期間中、単位を落として絶望する夜、好きなあの子のSNSを偶然見つけて脳が破壊された時...。そんなときに適当なボトルを一本選んで、香りを味わい脳に思い出を定着させる。
あるボトルを飲み続けた期間が、そのまま思い出として記録される。例えば、1月から3月にかけて飲んだボトルであれば、その期間の思い出が記録されることになる。飲み方は何でも良いが、香りを強く感じる飲み方が望ましい。ストレートかトワイスアップがベストだ。
注意としては、最低でも1ヶ月は同じボトルを飲み続け、飲み方は極力変えないこと。これは、香りと思い出を結びつけるために重要だ。また、思い出を定着させたい期間が終わってから半年は、そのボトルを飲まないこと。間を開けないと、保存した思い出に別の記憶が混ざってしまう。あと、思い出を保存するボトルは、簡単に手に入るものがよい。レアなボトルに保存すると、せっかく保存した思い出を簡単に思い出せないくなる。
思い出の保存が済んだら、あとは好きな時に保存したボトルを味わえば良い。きっと大切な思い出が、あなたの脳裏にまるで津波のように押し寄せることだろう。
ちなみに、思い出を懐かしむ手段として音楽もよく使われる。とある曲をヘビロテしながら「ウイスキー思い出保存法」を実施すれば、より強く思い出を保存できるかもしれない。
このやり方は他の酒や飲み物でも応用できると思う。是非お試しあれ。
沢山書いたやで
・実名主義
80年代末まで偽名でも銀行口座が開けた。だから複数の社会的人格を持って経済活動する事ができた。
職場で旧姓を使い続けても問題無かった。1986年に米国でマネロン規制法、その後1990年までに国際的取決め、日本もそれに倣い口座の実名証明必須になり社会でも実名主義が当然になった。
MDMAが非合法化されたのは1991年頃(うろおぼえ)。クラブシーンやレイブパーティでは当たり前に使用されていた。
心臓発作を惹起する為に規制。m.o.v.e.のmotsuが所属していたMORE DEEPの曲には「エクスタシーをキメていた頃」というフレーズがある。
90年代のクラブではマリファナは普通に喫われており、自分は使わなくても中に居ると副流煙で景色がとろけてくる、肉体遊離感が起きるというのは当たり前だった。また自衛隊員も米兵経由で入手する者がおり、除隊後に北海道野生パカロロツアーとかアムステルダム飛びツアーなどを企てる人もいた。
・式場での結婚式
1970年代からブライダル産業が隆盛し一般化した。これ以前は神前式、キリスト教教会一般的。
団塊世代のロマンチックラブイデオロギーのため。この以前、地方では婚姻の自由は憲法上の絵に描いた餅であり、親が決めた相手と結婚して神前式を挙げるのが当たり前で共同体から排除されないための義務だった。
団塊世代はそこからの逃避の為にフォークソング等でキリスト教式を称揚し、そのニーズに答える産業が発展して定着した。
古い評論を読むと戦中派、戦前派が式場での披露宴に憤っている文章がよく出てくる。
1990年頃まで日本人の公共空間でのマナーは先進国ぶっちぎりで最低であり、酔って吐く、道にゴミや噛んだガムを捨てる、タンを吐くなど当たり前であった。終点近くの長距離列車車内はぶん投げたゴミだらけだった。
・外国で旅の恥をかき捨てない
かつて旅の恥はかき捨てで、特に海外での不行跡が酷く日本人旅行者(特に団体)は眉を顰められる存在だった。
遺跡に名前を彫ったり、腹巻で目抜き通りを歩いたり、コンダクターに痴漢行為をしたり、名跡で立ち小便したり、売春ツアーをしたり、現地女性に「ハウマッチ」と聞いたりもの凄かった。
これを西洋は宗教倫理の文化で日本は恥の文化、共同体の外では恥の羈束力は働かないからだ、と説明されていた。
電話には加入権というものがあり、契約時に設備負担金を払う必要があった。金額は7万円と高い。
この為に電話加入権を売買したり、質に入れるという商売があった。2003年頃から段階的に廃止された。
森内閣の「IT革命」まで自治体や省庁のホームページは夜には繋がらなかった。これは庁舎内のドメインコントローラWindowsNTサーバのIIS(インターネットインフォメーションサーバー)サービスでHPを提供していたため。
終業時間になるとサーバとルータの電源を落として帰っていた。サイトの作成は役人の趣味みたいな感じで作っていた。
1998年ごろまでLANを構築していないオフィスというのが結構あった。プリンタはパラレルポートで繋がれていたので、このパラレルケーブルを切り替える「プリンター切り替え器」というKVMのような装置が使われていた。
駅のトイレにはトイレットペーパーが無く、入口に100円の紙販売機があるのでそれを買っていた。
民営化したJRが紙の常置を始め、1990年代前半に他社も倣った。
90年代中頃まで路上駐車は当たり前に見逃されており、国道などの最左端は駐車車両で埋まっていた。駅近くでは駐車車両とタクシーの客待ちで二重駐車になっていた。
2000年頃から増える。警察が路上駐車取締強化してから10年ほど、駐車場が無いのに路上にとめると必ず検挙という無茶な状態が続いていた。
和室は必ず設定されており、末期には3畳の納戸だけが和室なんてケースもみられた。1990年代前半に無くなった風習。
家電量販店が増えて競合で出来るようになると消耗品以外の商品価格は隠され、店員と交渉で決めるという風になった。この為に店員は電卓を持ち歩き、電卓を叩いて値段を表示した。
客足が減る悪習なので1990年代頃に取りやめられた。
バブル後の都の財政難の打破を喧伝して都知事になった石原慎太郎(1999年~)は増収策として無断で道路にはみ出し設置されていた自販機と建物袖看板の道路使用料徴収を持ち出した。これまで自販機は当たり前に道路にはみ出して置かれていた。
これに対応して既存機の撤去とスリムタイプへの交換が進み、他県でもはみ出し設置にならないスリムタイプが標準となった。
以前は富士通系の親指シフト配列を好む人が居たり、電源のオンオフ、リセットなどの余計なキーが付いている配列があった(誤爆シャットダウン頻出)。
2006年ころに一世を風靡したネットブックでSSDが一般化したが、最初の数年の製品は数秒に一度ごと動作が止まるなど酷いものだった。
嘗ては電気電話水道など公共料金というのは各社の窓口か郵便局、銀行で「公共料金振込用紙」に書いて振り込むものだった。
当然平日3時までしかやっていない銀行に会社員が行けるわけがない。
そこで振り込みの為に仕事を中抜けするというのが黙認されていた。自動引落設定、コンビニ払いが一般化した1990年代後半頃に消滅。
18才は未成年で飲酒できないはずだが、大学生は成人したものと見做され飲酒は黙認されていた。
ゼミの飲み会で普通に教授も参加して飲んでいた。警察も何も言わなかった。
・線路を歩かない
都電やローカル線などでは近道の為に線路を歩いていく人が普通にいた。電車進来時に警笛を鳴らされるが線路わきに避けていればそれ以上の事は何も言われない。トンネルや鉄橋で出くわすと流石に怒鳴られるがそれだけ。ストの時は皆線路を歩いて行く。家の玄関が線路に向いている家も普通にあった。引っ越し作業は大変。
90年代中頃に写真撮影する鉄オタの事故が連続し、その後厳しくなっていった。
初代のスーパーカブの取扱説明書などには「ビールコップ一杯程度なら良いが、ウイスキーは酩酊するからダメ」と書かれている。
・小銭を所持しないで外出
1000円札の読み取り装置が一般化したのは1980年代中頃。それまでは鉄道の券売機でもバスでも小銭しか使えなかった。
この為、小銭の所持数が足りないとお金が払えないというのが当たり前だった。売店でガムなどを買って両替するのが必要だった。万券を両替する為に少額商品を買うのは喧嘩を売るのに等しく勇気が居る行為だった。常に所持している券種と小銭額の把握は必要だった。
1989年の消費税導入まで物の価格は全て10円刻みになっていて1円玉は公共料金以外殆ど使われていなかった。
・個室
和風の家の部屋割りは個室という概念が無い為、都会を除いて1960年代までの日本人はプライバシー空間というものが無い生活をしていた。個人あての手紙は親が勝手に開けて読んでいた。
・個人
家にプライバシーが無く、また会社もイエが準用される社会だった為に「社員のプライバシーに踏み込む」という感覚が余りなかった。
「会社以外の自分」も大事だと言い始めた団塊世代は「個人主義」と罵倒され、80年代世代は「新人類」と宇宙人扱いされた。
ウオークマンは街で個人的空間に浸るものだとして批判の対象になった。個人主義はそれ自体が罵倒文句だった。
全共闘運動はあらゆる権威を攻撃し、大学の知の権威というものも破壊した。この為その後大学教授というのは学生に対して尊敬されない状態が継続。やがて学生は脱政治化したが大学や学問には敬意が持たれず、特に文系では学生が誰も勉強せずレジャーランド化した。
90年前後の大学改革でICUや上智の比較文化など厳しいカリキュラムに注目が集まり、学生が勉強するという当たり前の状態が復活した。
この為に卒業年1994年頃を境に知識やモノの考え方で極端な程の違いがある。
・様々な塩製品
塩は国家専売品だったので専売公社の製造する塩以外の岩塩、ミネラル入り塩、胡椒入り塩などは製造販売禁止だった。塩の小売りには国の許可と標識の掲出が必要だった。
・「メイド喫茶」などの語
「メイド」は放送禁止用語だった。基本住込みで働く為、身分制や階級制の象徴のような職業であって、戦後の身分平等にそぐわないと見做された為。メイドは家政婦と言い換えられ、住込みでなく通勤が一般的な「雇用」となった。
一周回ってメイドの構造が過去帳入りした為に「メイド喫茶」などで使うのが問題視される事が無くなった。2005年頃。
・キャノーラ油
キャノーラ油の原料は菜種。
米国では菜種油を食用販売することが禁止されている。この菜種油の成分を調整して販売を認めさせたのがキャノーラ油。
米国で生産量が増加した後に日本に入ってきたので、一般化したのは1990年代。
過払い金などの広告が出来るようになったのは弁護士法が改正された2000年から。それまでは屋号や執務時間などの表示のみ。
1991年に大店法が改正されるまではデパートの閉店時間はPM6時、スーパーの閉店時間はPM7~8時というのが相場だった。更に定休日もあった。
基本的に地元の商工会の意見で決められていた(大店法の定めによる)。これの改正が商店街の全滅に繋がった。
・生ビール
ビールは酵母菌により発酵するが、発酵が進みすぎて飲み頃を過ぎると酸っぱくなってしまう。飲み頃に提供するのが生の地ビール。
この為ビン缶詰では熱で酵母を全て殺してから詰める必要がある。
1970年代末にサントリーがフィルターで酵母を除去する製法を開発。飲み屋への営業力を活かしてジョッキ生を広めた。この為初期は生=サントリーだった。後に各社が参入して生戦争が勃発。
だから地ビールの生はずっと昔からあったが、全国流通製品の生ビールはサントリー生が1970年代末、その他の各社は1984年ごろから。因みにサントリー生より生じゃないキリンラガーの方がずっと美味い。
バブル期の好景気期に端緒。残業上限規制が導入され36協定があっても残業上限40(80かも)時間/月の行政指導が主に大手企業に行われた。
それまで残業代はフルチャージだったが計算上打ち切るという慣行が発生。それらの会社はタダ働きしてると奇異の目で見られた。
これが平成不況時に残業代は基本支払われずに長時間労働という慣行に変化していく。当初の指導の対象外だった中小企業ではずっと残業代フルチャージだったがこれらにも悪習が伝播していった。
1990年から。1970年代にも導入が試行されたことがあるが全く普及せず直ぐに撤去された。例えば地下鉄では1974年開業の有楽町線池袋駅だけに自動改札機があり、同駅の入場だけにしか使われていなかった。これも後の1986年頃に一度撤去。札幌地下鉄などでは当初より継続して使われていたのと対照的。
1995年以降。それまでササニシキが絶大な人気だったが、冷害に弱く1993年冷夏で全国的な米の不作が発生、大騒動になった。
冷害に強いコシヒカリ系の後継種、あきたこまち、ひとめぼれが席巻するようになった。
駐車違反にバイクと車の別はないが、バイクの駐車違反は2006年まで摘発されていなかった。摘発を民間に委託してインセンティブを付加し原付まで摘発するようになると店舗に駐輪場が無い都心ではバイク移動が不可能になり、バイク市場が干上がる効果となった。
・大学生の専攻無し
学部でも一部以外では専攻は必ず取るものだったが、1990年代初頭の教育学部ゼロ免課程の流行や福祉大などの開学で専攻無しの学生が増加。1990年代後半から。