はてなキーワード: 上善如水とは
でブコメとかでは
「1合700円とか、せいぜい1000円の酒」 → 「合」でなく「升」が正しい。これを間違えている元記事もひどいが、それを指摘しない本記事もひどい。「一升瓶でなく居酒屋の値段だろ」というが、相場を知らんのか。
とか書かれてる
相場感でいうと、酒の値段はここ40年くらいそんなに変わってない
鬼殺しみたいな合成酒と呼ばれるものなら、今でも一升600円位で飲める
昔は、日本酒級別制度というのがあって、特級/一級酒/二級酒とか呼んだ
その二級酒というのは、特級/一級に「該当しないもの」なので
そりゃ酷いのも売られていた
酔えるだけで飲めたもんじゃないって感じ
そのイメージを引きずってる古い人は添加された日本酒を嫌う傾向にある
wikipediaにも記載があるが、移行期には「特撰」「上撰」「佳撰」などの酒も売られた
覚えてる人もいるかと思う
いまでは、日本酒の分類は、「純米、吟醸、本醸造、合成清酒」「生原酒、火入れ、雫吊り、ひやおろし」などの感じで行われている
「合成清酒」はアルコールに糖類、有機酸、アミノ酸などを加えて、清酒のような風味にしたアルコール飲料で、最近のは味の調整がきちんとしていて以外に飲める
70%以下を「本醸造酒」
60%以下を「吟醸酒」
50%以下を「大吟醸酒」
「純米」がつくと、米と水だけで作っている
生と火入れの違いは
加熱して酵母菌の数を減らし、熟成の度合いを抑えるかどうかにある
二回の火入れをしたものは熟成が抑えられ味の変化が起こりにくく保管しやすい
生原酒は、この火入れを行わない酒で、搾りたての風味を損なわずに飲めるのが売りとなるが味の変化が早い
・買ってすぐに飲む
・開けて一週間後に飲む
・開けてひと月後に飲む
・未開封でひと月眠らせて飲む
それぞれで風味が変わるのが生原酒
温度変化はそのまま味に直結するので、管理の悪い居酒屋や、転売屋などから買うと、逆に火入れよりもまずい酒を飲む羽目になる
「袋吊り」「雫取り」などとつくものは、ろ過だけでなく「絞り」も行わない酒で
主に品評会などに出される類の酒となる
「袋吊り無濾過生原酒」として流通するものは、まぁ蔵で上位に入る酒と思って良い
適切に管理された火入れ酒は、生原酒に劣らない風味を持ってることもある
有名な上善如水がヒットしたことで、「飲みやすい酒」が全国的に作られるようになった
この2つをして、落ちていた日本酒の人気が復活していくことになる
生原酒などは、本来神に捧げる酒(奉納される酒)で、地元でしか飲めない酒だった
「おいしい酒」と「残念な酒」があり、選び方を間違えると、おいしい酒にありつけない
などと書かれているが
そんなことはない
この辺はワインと一緒だ
甘口は単に重いことを指し、本当に甘いわけでもないというのは知っておいた方が良いだろう
呑み口が甘い酒を飲みたい場合、淡麗辛口の酒を飲む方が甘く感じることもある
それで選んでくれる程度の知識を持つ酒屋で買うべきだ
高い酒とは?となってくる
コレもまた有名な獺祭の「磨きその先へ」が大体四合で4万くらい
この値段は何であろうかと
もちろん、酒蔵の技術の粋を集めた、みたいなことも関係はするが
大概においては、酒米の削り具合が影響する
ちなみに、磨き二割三分で77%を取り除いている
完全に好みの問題ではあるが
芋焼酎のように人を選ばない
ぶっちゃけ、米残ってないんじゃないの?と思ったりもするが
まぁ、削れているのだろう
合成清酒で、一升が700円~1000円くらい
蔵の上位酒とかで、一升が4/5000円くらい
雫取りとかで、一升が10000円くらい(というより、四合で5000円という方がいいか)
たまに美味しいお酒を飲みたいって人は
信頼できる酒屋で四合5000円くらいの酒を買って
ちょっと口に合わなくても、1週間くらいで好みの味になることもある
ちなみに、元記事の「添加」は、醸造アルコールですらなく、乳酸菌の話で
みたいに言われたりするやつ
自分のことを「通」だと思いたい人に歓迎される傾向にある情報で
と謳っている
蔵の人は、当然に好みが出るだろうし、既存客は嫌うかもしれないとまで言っていた
毎年味も変わると
その年の米、その年の水で造った酒は、本来の意味でその年その土地の酒といえるのではないかと
日本酒会のような場で語りを聞いたのだが、それ自体は悪くはないと思った
実際飲んでみると「和の月」は好みが分かれるだろうなとも思った
これは乳酸添加したら不味いという話ではない
1/4
夜中の1時に目がバキバキに覚めて、しばし悶々としてから無性に鶏皮を食いたくなった。コンビニのホットスナックも深夜は枯れてるし、といって冷食で妥協したくもなかった。おれは鶏皮のパリパリ感が好きだ。
もう今じゃなきゃいけない、どうしようもなく鶏皮の口だったんでGoogleマップを開いてみた。駅前のトリキが5時までやってるらしい。あと10分だけスマホポチポチしてダラダラしようとタイマーをつけて、30分くらい経ってから家を出た。
友達いない上に飲めないから居酒屋なんて入ることはなくて少し緊張したけれど、数グループの団体以外に会社員風の男や学生っぽい若者の一人客もまばらにいた。騒がしすぎないし、静かすぎる事もなくて程よい。
オーダーがタブレットなのがかまいたちの動画で学んだ鳥貴族の美点だ。今はどこもそうなんだろうか。なんだか口にするのが恥ずかしいような頼み方でも、機械越しならそれもやわらぐ。と思っていたら席に通されて一杯目の飲み物は口頭で聞かれた。見栄を張ってアルコールにするか、0.5秒の間に悩みまくってジンジャーエールにした。坊や、ここにミルクはないぜギャハハハみたいな西部劇の酒場の画が浮かんだ。
当初の目的を思えば鶏皮チップスに大量の鶏皮串だけ頼めば良かったのだけど、それも何だか気恥ずかしかった。夜中に陰気なガキが一人で来てソフトドリンクを頼む。どうせ変な客だろうし、これ以上人目を気にすることもない。そもそも店員だって一々気に留めないと思う。せいぜいアイツウケると2秒間の話題になって終わりだろう。それでも居酒屋エアプなりにバランスを考えて一応キャベツとか頼んでみる。おかわりする予定もないのに。
タレのモモや一度も食べたことのなかったぼんじりを適当に放り込んでフィニッシュ。鶏皮は材料の不足で一人5皿までとなっていて、なんだ10本までしか食えないのかと落胆した。が、他にも割と頼んでいたので様子見で3皿にしておいた。
早々に来たキャベツと鶏皮チップスをボリボリ食いながら注文履歴を見ると、8品で3000円弱くらいだった。安いと言いつつそんくらいはすんだなと思った。それともおれが食いすぎなのか。学生の夜食には贅沢だ。
鶏皮チップスは結構硬くて、風味もおれの思い描いていた鶏皮と何かニアピンですれ違うような感じがした。衣の味が強く、といって塩味は控えめで片栗粉?の主張が強めな気がした。まあでも控え目にやってくる鶏皮の味は確かに喜ばしかった。キャベツもゴマ油っぽい感じを想定していたら割とサッパリした感じだった。想像とのギャップに戸惑いつつ、これも悪くないなと思った。おかわりするなら特に。
話し相手もおらず、と言ってバクバク食い続けても一瞬で手持ち無沙汰になりそうだったので、ややポリシーに反するがスマホポチポチしながら食うことにした。
呟きもまばらなTLを何度も更新したり、頭に浮かんだ言葉を検索してはタブを閉じる。片手間に鶏皮チップスをセーブしつつキャベツを平らげ、焼き鳥が届いた頃にジンジャーエールが無くなりかけた。
二杯目をどうするかぼんじりを食いながら考える。なるほど、ぼんじりとは骨が混じっているのか。イヤ異物混入か?と不安になってスマホで調べる。そういものなのか。まあこれならももでいいかなという感じだった。勉強にはなった。安チェーンのぼんじりなんて脂っこいだけと耳にしたことがあったがそんな印象はさほどなかった。
あとはごく普通のタレももをごく普通に平らげ、残すは鶏皮だけだ。他のもので腹を満たし、最後に好物を残すことで好きなもので腹一杯になった感を出す。よくやる戦法だ。
さてドリンクをどうするか。6串の鶏皮(塩)を見て、不意にこれはアルコールなんじゃないかと思った。
唐揚げにビール、刺身に日本酒、焼き鳥だってアルコールだろう。現物を目前にして、借り物の感覚が肉薄してくる。
一杯目はソフトドリンクで、腹にモノも溜まってる。過去何度かの経験から、これはまだ大丈夫なパターンではないかと思った。
メニューを開いてみる。どれもアルコールの含有量が書いてある親切設計だ。メガジョッキに向かう好奇心を抑えて富美男のレモンサワーを選んだ。
レモンサワーの素のおまけでついてそうなタンブラーがすぐさま運ばれてくる。そして念願の鶏皮串を頬張る。
恐る恐るレモンサワーで流し込んでみる。妙にしっくりくる感じがした。
キンキンに冷えてるからだろうか。塩味で舌がやられているのだろうか。はたまた馴染んでいるのか。あのアルコールのツンとしたイヤな風味を感じない。口の中のアルコール感が不快感に到達する手前で喉に流れていく。ゴクッと飲み下せる。
これならイケるからと言われて99.99もほろよいもバドのシャンディガフも上善如水も飲んで騙されてきたけれど、こんな事は初めてかもしれない。
別にジュースでいいといえばそんな気もした。そっちの方が美味しく食べられるような気もした。
美味しさとはまた別に、ジュースよりもしっくり来る感じもした。
腹も膨れてきて、最後の一串をほぼ水まで薄まったレモンサワーの残滓で流し込む。3皿にしておいて良かった。
1時間経たないくらいだろうか。喋る訳でもなく、チビチビやる訳でもなく、一人でただ食べるだけだと早い。寂しさはなくて、ただただ一瞬だったなとだけ思った。
会計を済ませると、ドアが開かない。押戸なのか引き戸なのか、はたまた出入り口を間違っているのか。軽く脳内で慌てていると店員が少し手こずりつつ開けてくれた。立て付けが悪いようだ。最後の最後で少し気恥ずかしかった。
帰り道の一服が妙にうまかった。くどいラーメンを食った後と良い勝負だ。キャッチのオニサンマッサージドに少し水を差されたような気になった。でも鶏皮は食えた。
おれは天性の下戸だけど、ビールに合う味とかワインに合う味みたいな感覚は分かる。他人の感想をインプットしたからかプリミティブなものかは知らんけど。
たまにそういうアテに合わせて飲んでみると、やっぱりアルコールの風味は不味いなって思う。上善如水ですらこれを飲みやすいんなんて大嘘をつくなと思ったし、多分本当に飲めないんだと思う。
ただ餃子に合わせてビール飲んだ時だけはちょっと美味しいなって思った。
それはドロヘドロ読んで無性にマネしたくなった時だから、そういう追体験をしているというシチュエーション込みで楽しんでいたのも大いにあったかもしれない。まあそれでも烏龍茶なりコーラなりの方が良いと思ったけど。
付き合い程度に飲めたらいいかなとは思ってたけど、まあ飲めないなら飲めないであんな毒水飲まんほうがええわな。
でも人類を誘惑してやまない娯楽を楽しめないのも悔しいからタバコ吸ってる。
人類が育んだ素晴らしい文化なんてもんじゃなくて、単に人間の脳をハックするだけの嗜好品だという人もいるだろうけれど、おれはそういう話はどうでもいい。
セブンスターはココアの香りがするというけれど、おれはそれが未だに分からない。あくまでタバコの風味としての話だし、砂糖を舐めたような甘さがある訳ではないのだろうけど。
昔一瞬だけ本当にココアそのものの香りを感じた事があったけれど、あれは錯覚だったんだろうか。
セブンスターとピースの違いを当てようと思えば多分当てられるんだろうけど、この風味を求めてコレを吸ってるんだよ!というほどには感じていないのではないかと思う。
タバコもヤニクラに耐えながら吸い続けたし、アルコールとさほど耐性は変わらないような気がする。
風味を楽しんでるというより、タバコを吸うという体験を消費してるんだと思う。
他人からはかっこいいどころか時代錯誤な迷惑人間と思われるのだろうけど、おれにとってタバコを吸う所作は紛れもなくかっこいい。
映画スターが一服する姿のカッコよさをスクリーン越しにそのまま取り出したような気分になれる。その新鮮さは何度ライターを擦っても色褪せない。
上善如水って言わせようとしてるだろ
ほろ酔いでガチ酔いどころか嘔吐する。いやほろ酔いは飲んだことないんだけど、ビール一缶でそうなる。ちゃんとつまみも合わせてても、フラついて頭痛くなる悪い酔い方する。吐いちゃうというよりは、もっと悪化する前に手突っ込んで吐くんだけど。それでスッキリする。
弱いというか、飲めないと言って良い部類なんだと思う。アルコールの味も好きじゃないし。ガキの頃飲んでまっずと思ったのと全く同じ感想を今でも抱く。よく言われるフルーティーって表現も訳分からん。セブンスターを甘いと言うようなもんなのか。
上善如水とか、水みたいとか言われるようなのも飲んでみたけど、普通にダメだった。大嘘をつくな。水みたいなのが良いなら水飲めよ。
人生の楽しみの選択肢が一つ少ないのは諦めたけど、付き合い程度には飲めた方が良いんだろうなって思う。結婚式でシャンパン出された時も顔真っ赤になって気持ち悪くなっちゃったし。こんなんでも継続的に飲んでれば多少は慣れるものなのだろうか。肝臓は鍛えられないとか言うけどそれは別に良くて、気持ち悪くならない程度になれたら良いのだけど。
※この店主さんに思うことは無いです
※欄が変な感じなんよね
ワイン、ブランデー、ウイスキー、ビール、焼酎、ウォッカ、テキーラ
それぞれ、個々人からしたら「クソ不味い」となる安酒は普通に売られてる
日本の2017年の日本酒消費量は成人ひとりあたり5.40リットルだが
(https://www.nta.go.jp/about/organization/hiroshima/sake/syouhijoukyou/index3.htm 参考)
ワイン消費量は成人ひとりあたり2.94リットルだ(キリン調べ)
ところが、ワインは成功してて、日本酒はダメダメって感じの語り手が多い
それ、ワインも一緒じゃね?
焼酎は?
人々が普段消費するのは、度数の低いビールや、リキュール(サワー・ハイボール)だ
ウイスキーやワイン、ウォッカや焼酎の銘柄、どの程度知ってる?
知らんだろ?
だけど、日本酒は失敗してる事になってる
話してる奴らが日本酒を嫌いなだけなくせに、日本酒はダメなんだって顔真っ赤にしてな
確かに日本酒の底辺は合成清酒で、昭和の頃は悪酔いする不味い酒だった
昨今は味を調える技術が向上して合成清酒も悪くない酒になってるんだけど、昔の人は未だに飲まないって人も多い
酒屋では二級酒(今でいう火入れの普通酒)を一升瓶で売るってスタイルだった
これはしょうがなかった
ちょっとした温度変化で簡単に味が劣化する日本酒は地産地消されるのが普通で
注文したら翌日には商品が届くとか、きちんと温度管理されるとか、アホみたいなスペックの配送システムがなきゃ飲めない酒なんてごまんとある
ちな、ちょっと前の日本酒界隈では「佐川を使う所は外れ」とか言われてた
吟醸酒を並べ
蔵の新しい酒を飲ませてくれたりする
試飲会やら頒布会、サブスクとかをきちんとやれば好事家のネットワークで広まって
わざわざ交通機関を乗り継いで人が集まる
そういうリピーターは「而今飲ませろ」「十四代あるか?」なんて言わない
「今乗ってる一押しの蔵とかある?キリッと辛口で」みたいに聞く
若い奴?
店のイベントに参加してみろよ
すげぇ一杯いるぞ
なんか※欄の連中と、日本酒界隈の今、みたいな感覚は乖離がある気がする
25年前のおれよ。お前はよく頑張った。
お前のその経験は、お前の心を豊かにして、お前を優しい大人に育ててくれた。あの時よくそこで踏みとどまった。他の誰も知らないことだけど、おれが一番良く知っている。
だからおれが誰よりも褒めてやる。
家から一歩も家を出ず辞書を読むのが好きだったお前だからできたことだ。それが「柳に雪折れなし」という言葉だ。
この言葉が、世の中に負けまいとがむしゃらに理論武装してますます自分を追い込んでしまったお前を救ってくる。
流れに流されるでもなく流れを押し返すでもなく、受け入れて受け流す。柔軟なもののほうが剛直なものより耐える力があるということを知るんだ。
逆を返せば、剛直なものがいつ割れるかもわからない危うい存在であることも知る。いじめる側の人間も、実は弱い人間だということを知るんだ。
その後しばらくして、もう一つの言葉、「水は高きより低きに流れ」という言葉にも出会う。上善如水といったほうが馴染みがあるかもしれない。
物事は全て下へ下へと流れてくる。低きにいることは決して悪いことではないのだ。高くに上り詰めることに疑問をもっていたお前に、それが間違いではなかったことを気づかせてくれた言葉だ。
水はすごいぞ。
どんな姿にも形を変え、人の生活を豊かにする。その実、一度暴れ始めれば人の力ではどうすることもできないほどの力を持っている。
固く閉じこもる必要はない。そのことがむしろ自らを危うい存在に追い込んでいるとしたら、お前はもっといい加減でいいんだ。
それでもお前は、そのあともいやというほどの苦労をする。
あの頃のお前は選んでいるようで流される生き方をして後悔をしていた。良からぬ方向に知らず知らずのうちに進んでいたんだ。
でも心配するな。それがあったからこそ、お前は「中道」という言葉の意味を正しく理解することができる。「中道」とは、何事も偏りがないことが理想だということだ。あの頃のお前は、生まれた環境が特異だったせいで、この言葉を信じ普通でいよう努力していたはずだ。
ところで、平均台の上を歩くことを想像してみてほしい。両の手を閉じて歩くのと、広げて歩くのとではどちらがバランスを取りやすいだろうか。
当然手を広げたほうがバランスは取りやすいのだ。つまりは、狭い見識や経験ではバランスよく歩くことは難しいということだ。
極端な考えや生き方は悪いものではない。極端だと感じたら戻ってくればいいのだ。そうして極端な考えや生き方をしたもののみが、両の手を広く広げるかのように安定したバランスを養うことができるのだ。
誰に遠慮する必要もない。お前はもっと大胆に、もっといい加減に生きていいんだ。
他人は自分の都合に合わせて人を褒めてくるから気をつけろ。褒められなくても気にするな。褒められても喜ぶのはほどほどでいい。
つまらぬ衝動で人を傷つけてしまうだろう。それを許してもらえなくても気にするな。最善を尽くしたなら、あとは相手に事情があるんだ。
疲れたら休め。少しくらい逃げでもいい。それで力がたまったらまた頑張ればいい。
そうして頑張ったなら他でもないおれが褒めてやる。
大丈夫だ。諦めずに探していればいつか必ず見つけられる。
努力全てが実るとは限らないが、今のおれは少なくともお前の努力の結果でここに立っている。
心配するな。あの時のお前は今のおれにこれほどまでに愛されている。
フリースタイルラップはリズムに合わせて歌詞を即興で作るのだが、リズムに乗ると不思議と言葉が浮かんでくるそうだ。競技かるたもリズムをとってカルタを記憶するらしい。リズムにどんな意味があるのか?
その謎をとくカギは「グルーヴ」にある。ブラックミュージックの理解で日本人がまず躓くのが「グルーヴ」という概念。それはただ機械的なリズムに乗ることではなく、体感とのシンクロが要求される。
この理解困難な概念に対するわかりやすい喩えが心拍という名の音楽だ。ケージの4分33秒が音楽になるなら心臓だって音楽になる。君は心臓や呼吸に音楽を感じるかい?環境音楽的ワークってやつだ。
その先駆けは現代音楽家Pauline Oliverosだ。いまや小学校の音楽の教科書にもその種のワークが載っている。ゆとり世代以降の人間なら記憶にある人も多いはず。
心臓のリズムを感じるには目を閉じて心を静かにする必要がある。一種の瞑想だ。心拍が分かったら今度はそれに合わせて身体を揺らしてみよう。揺らすと心拍が変わる?そこが難しい所で、
心拍に干渉しないまま身体を揺らしていく。この感じがまさにグルーヴなわけ。がむしゃらに即興演奏すると必ず体感に干渉してしまい体感が迷子になる。ムードをぶち壊したらセックスは台無しである。
つまり機械的にリズムに乗るだけでなく、体感とシンクロすることで自然にリズムが生まれてくるわけである。身体がそんなふうにできている。それがグルーヴ。ジャズにおけるスイングも同様だ。
グルーヴあるリズムはリズムマシンの作る厳密に一定なリズムからは若干のズレがある。そこに生演奏の味わい深さがあると言われるが、正確に言えばズレかたに体感が反映されているから味わい深く感じる。
リズムの一定さやズレ自体には別段深い意味はない。あくまでもリズムの一定性やズレはグルーヴの副産物にすぎない。「世界はリズムに満ちている」とは某音楽家の言葉だが、正確にはそれはグルーヴなのである。
音楽以外にも思考や会話にもグルーヴというものがある。相手のテンポを崩すようにワンテンポ遅れた返事や食い気味の返事を返すとかみ合わない感じがするだろう。
だからテンポについて行けない人間どうしで深く仲良くなるのは極めて難しい。世の中の「親友」の多くはテンポがかみ合わないのに誤魔化し誤魔化し仲良くしているように見える。
トークのテンポというのはつまるところ、その人なりの言語的体感とのシンクロの仕方である。単なる会話の速度ではない。早口でも会話のテンポが遅い人はいくらでもいる。
また、熟練すれば無理に話題のテンポを速くできるが、結局は自分のテンポで話すのが一番快適なことには変わりないわけである。けだし会話のテンポはほとんど先天的である。
.
一方、グルーヴには安定性という要素もある。ジャズでは「この人の演奏には安定したグルーヴがある」「安定したグルーヴにはノリやすい」「今回のセッションはグルーヴが安定しなかった」
などと言われる。グルーヴが安定しない現象は先ほどの心音が迷子になる現象と同じである。体感を見失って、形の上でしかリズムに乗れてない状態。それはどうしても演奏に現れ、バラバラでちぐはぐな印象を与えてしまう。
安定性はその人のメンタルを表している。気持ちが不安定ならグルーヴも不安定になる。熟練演奏者なら多少メンタルが不安定でも「いつもの体感」自体は出せる。
だけど、別の「普段にはない体感」が邪魔をしてきて、演奏に乱れが生じるわけだ。そんななか繊細な感覚をつかまえてグルーヴを表現するのは並大抵のことではない。
演奏家という仕事は一般人が考えるよりずっと鋼鉄のメンタルを要するのだ。
.
強いメンタルになりたいと誰もが憧れるが、その秘密は形状記憶性にある。本当に強いメンタルとは、ガッチガチのオリハルコンメンタルなどではなく、柔軟に形を変えてはすぐ元に戻る形状記憶性にある。
「上善如水」を知ってるか?上善は水のごとしと訓読する。最高の善を説いた老子の言葉だが、これは最強の心を説いた言葉でもある。
宮本武蔵も五輪書で「水を本として、心を水になす也」と言った。水はどんな器にも合わせて形を変える。そんな心を養えという意味だ。
柔軟に適応しすぐ平常心に戻る。その様子はグルーヴから説明することもできる。ハメ撮りの帝王こと村西とおるは、黒木香にほら貝を吹かせた。脇毛で有名なAV女優といえば若い人にも分かるだろう。
村西氏はセックスの快楽を演奏の乱れで表現したわけだ。どんな演奏にもグルーヴはある。人間は体感のリズムに同期することでリズミカルな運動ができるのである。
ところが快楽があるとうまく体感と同期できなくなり、演奏が乱れてしまう。そこをなんとかうまく演奏しようとするところにエロティシズムがある。
現代的に言えば「ローターつけてお散歩」だ。pixivの「平然」タグもこれに関係する。くやビク(悔しいけどビクンビクン)はもう古い。大和撫子は奥ゆかしく「平然プレイ」だ。
そしてこの快楽ゲージがあがっても平静を装う平然プレイにこそ、形状記憶メンタルの秘密がある。それはフリースタイルラップにしても同じことだ。
なぜラッパーはあのような無駄に攻撃的ともとれるラップバトルをするか?それは戦いのなかでも終止安定したリリックを紡ぎ、安定したライム(韻)を生み出し、
安定したフロウ(歌い方)を展開することを競っているわけである。そんな「動中に静あり」の文化を理解することなくただただ攻撃的なディスり合戦をやったところで何の意味もないのである。