はてなキーワード: 風土とは
・治安が悪い
・闇が深い
・田舎の悪い所が残っている
・治安が悪い
男が見ず知らずの若い女性を襲う事件は大体「大阪」か「兵庫」とついている
他地域は知り合いや家族内の事件であったり、繁華街での事件が多いのに対し、女子大生などが見知らぬ男に襲われる事件は大体「大阪・兵庫」
しかも住んでいると分かるが、第一報以降明らかに報道されなくなる事件も多い
犯人が一般的な人間なら普通に報道されるが、アンタッチャブルな属性を持っていた場合報道されないということだ
アンタッチャブルな方々が多すぎる地域柄、自衛だけではどうしようもなかっただろう事件も多く、住民全体に諦めムードが漂っている
とにかく金払いが悪い。隙あらば値下げ交渉をしたり、払わなくて良い理由を考える風土が強い
他地域ではみっともない、恥ずかしいと言われるレベルが許されている。場合によっては賢いと称賛されている
JR西日本が車庫入れをミスした社員に、やり直した時間は業務時間に入らないと主張して減給処分し、訴えられたのがいい例
他地方のJR関係者からは「そんな罰金は聞いたことがない」と言われるようなことをする。JRに限らず地域の考えがそうなっている。それが阪神地区
・闇が深い
一般の人間に対する金払いが悪い一方、ワケアリの人間や外国籍の人間には異様に金払いが良いというアンバランスさがある
歴史的に面倒くさいバックグラウンドを持つ相手や、揉めると面倒くさい相手には金を握らせて大人しくしてもらうというメソッドが定着している
つまり、普通に生きていると何かと理由をつけて金払いを渋られる一方で、その金がアンタッチャブルな人間に流れていく構図が出来上がってしまっている
他地域に引っ越すとお金周りが比較的きちんとしていることに驚くことになる
他地域も金回りが黒いところがあるって?阪神地区とは比べ物にならない。住めば分かる
・田舎の悪いところが残っている
東京に次ぐ第二の都会という顔をしているが、この辺の古臭さは比べものにならない
東京から大阪に転勤になった人が色々緩くて住みやすいと思うのは、要はこの辺の意識の低さが関係している
臓器移植のために育てられた人間の子どもから大人になるまでの記憶を綴る。
確かに美しい小説だ。子供から大人になるにつれて、見える世界は広がっていく。たとえそれがどれほど酷なものであろうとも、子供たちはそれを受け入れねばならない。語り手は振り返り、ひとつの出来事を大切に手の中で壊れやすい卵を計るように並べている。
読者も少しずつ、まるで語り手と一緒に育っていったかのように、事の真相を知らされていく。細やかな、性格を端的に示すエピソードをミルフィーユのように繊細に重ね、誰もが持つ幼いころの記憶を登場人物とシンクロさせる手際は見事と言っていい。主役三人の性格の違いとそれによっておこる対立の見事さは、この小説をSFというよりも性格劇に分類したくなるほどだ。夢中になってはまる本とは違うけれど、読む価値はとてもある。
しかしながら、感情の描写や文章のリズムがうますぎるあまり、根幹のSF的設定が、ふと荒っぽい夾雑物にまで見えてきてしまう瞬間がないでもない。細密な建造物を支える、太すぎる柱にたとえればいいのだろうか。
そもそも臓器移植のためだったら、人間を育てるんじゃなくて臓器だけ培養すればいい。
どうも舞台となっている世界の技術水準や、テクノロジーが社会に与えるインパクトの細部の詰め方が幾分甘い。
かつて仕えた主人が第二次世界大戦中に対独協力者で、それを理由に戦後に没落したため、その屋敷を買った米国人に仕えることになった執事の話だ。カズオ・イシグロの本領である、決定的な本音や事実を意図的にあるいは無意識に隠したまま語り続ける居心地の悪さ、気持ちの悪さがいかんなく発揮されている。
熟読すると面白いが、何があったかは作中では基本的には明確に語られているのもいい。
かつてはほのかな思いを寄せていた同僚であった女中頭からも、今となっては過去の人とみなされており、最後に自分の人生って何だったんだという悔恨にさいなまれるシーンは最高だ。
かつての美しいイギリスの風土と、失われた執事の美徳/悪徳について。感情に蓋をしがちで、行動原理が自分の「したいこと」ではなく「なさなければならないこと」になっているひとにおすすめしたい。面白かったので英国のメイドや執事の本を何冊か読んだ。
長崎出身で現在はイギリスの片田舎に住む悦子(語り手)の所へ娘のニキがロンドンから訪ねてくるところから始まる。ニキが言及する悦子の生涯を、ニキからのまた聞きや、写真の印象だけから詩にしようとする詩人が出てくるのだけれども、なんだか作者自身が創作する自分のことを批判的に見ている姿が透けてみえる。全体として、シングルマザーとしての苦しみが複数語られている。
これは褒め言葉としていうのだけれど、読んでいてずっと不穏な感覚をぬぐうことができず、いいようのない気持ちの悪さがある。たぶんその正体は登場人物の会話が互いの自己主張に終わっていて、基本的に相手の話を全然聞いていないところにあるのだろう。会話の形をしているのに、対話になっていない。むしろ並行する独白だ。映画の脚本のお手本的でもある。
最初のうちは、この違和感は終戦直後の日本人ならこんなあからさまな会話なんてしないだろうからにも思われた。しかし、明治の文豪の名作だって、会話が人工的であることも少なくはない。ただ、この作品ほどのひどい噛み合わなさはまれな気がする。少なくともあちらでは噛み合わせようという努力はしている。
台詞で説明したり議論したりする手法は、大抵は粗削りというか不器用な印象を与えるので好まないのだが、この場合コミュニケーション不全というか、相互理解の失敗の雰囲気をよく伝えていて、効果的だった。
情けないかつての画家の話。老いて第一線を退いた後も、自分はまだ影響力があると思いこんではいたが、世間は自分の存在などすっかり忘れている。自分のしてきたことなど、大したことではなかったのではないか、それどころか完全な誤りだったのでは。歴史によってそう裁かれることに怯えている。老人にとって、今までのお前の人生は何だったのか、と問うことほど残酷なことはあるまい。
そのくせ、隠しようのない自己満足と防衛がどこまでも続いており、かつては地位のあった老人はどこまでのその虚飾から自由になれない。計算したうえでのことかどうかわからないが、この翻訳は日本経済新聞の「私の履歴書」の文体にそっくりだと思ってしまうのは、私のやっかみであろうか。
よく、入り組んだ官僚機構をカフカ的というけれども、どっちかといえばこの作品みたいなのがカフカ的な気がする。過去というか記憶が曖昧で、自分がそもそも何をしたいのかわからず、その場の判断だけで物語全体が動いており、映画なんかでは必須の究極の目的・ゴールも曖昧だ。「夜想曲集」所収の旅する芸術家のあるある話がベースになった作品と同じにおいがする(この短篇集は切り口の優れた良き英国の短編集といった趣だ)。
すべての事件が宙ぶらりんのままにされて進み、星新一のショートショートでその場限りの対応しかしない軽薄な男を主役としたこんな作品があった覚えがあったことを思い出したが、読んだときにはどうしてもタイトルが思い出せなかった。それは結局「未来いそっぷ」に収録された「熱中」であるとわかるんだが、一番満たされていないのはきっと読者だ。
カズオ・イシグロのテーマのひとつ、コミュニケーション不全が前面に出ているだけでなく、筒井康隆「虚人たち」を思わせるような、自分が何者であるかわかっていないのにさほど気にしていない空疎さがあり、何かを風刺しただけではないのだろうが、それはまだ読み取れず。
奇妙だ。自分と他人の記憶の壁が溶けて無くなってしまったみたいな語りであり、語り手は身内だと感じるとちょっとしたことですぐに激昂したりすすり泣いたりして、いったいどういう人物なのかとらえどころがない。すべてが宙づりで半端なまま物語が終わる。語り手はどの街を訪れても、延々と同じことを繰り返すのだろうか。
両親に置いていかれたのはなぜか、そして母はどこに行ったのか。著者の中では一番残酷な話かもしれない。物理的な暴力よりもその結末が。地獄の寝取らせ小説であり、真理に近づこうとして全員が不幸になる。それでも、なお、愛そうと試みたし、愛されてはいたのだ。
息子が親父と同じ道ならぬ愛という過ちを犯しかけるのは残酷なユーモアがあふれているようでいて、ある種の試練であったのだろう。試練に打ち勝ったからと言って直接幸福になるわけではないのが皮肉でいい。
【追記】目の前に日本軍軍艦が停泊してるのにのんきにパーティーしている租界の人々って嫌なリアリティがあった。
忘却がテーマだが、P・K・ディックのようにアイデンティティが曖昧になっていく離人感よりも倫理的な面を問うているようだ。つまり戦争責任とか政治的で意図的な隠蔽とか。
国家が組織的に目を背ける行為と、個人がつらい過去を忘れることによって救われることの両方が描かれている。ファンタジーもある程度は書けるのがすごい一方で、見たくないものを見ようとしない描写や、自分のことばかりで会話が成り立たない場面は健在。
ファンタジーにしては「危険度」とか「スタミナ」の訳文がちょっと軽いかなとも思ったけれども(別に嫌だと感じるレベルではない)、これは現代の日本語としては普通に受け入れられてるのかな。
あと、サクソン人の穴を掘った(ホビットみたいな)家の描写があるんだけれど、これって実際にそうだったのかな? サクソン人の家とググっても出てこなかった。
ちなみにル・グインはこの作品を好まないらしく、ウィキペディアには両者の対話が引用されている。
彼のしようとしたことには敬意を払いますが、私には効き目がありませんでした。うまくいくはずがありません。どの作家も文学のジャンルの表層だけをうまく使えません。その深みはなおさらです。そのジャンルと同一化することを恐れるほど軽蔑している限りは。読んでいて痛ましく感じられました。まるで、高いロープから落下しながら聴衆にこんな風に叫んでいるみたいでした。「私は綱渡り芸人と呼んでもらえるのかな?」と。
ル・グインには私の本が好きか嫌いかを決める資格がありますが、私に関する限りは誤ったほうの肩を持っているようです。私は(註:作中では不可解で不気味な存在として現れた)妖精や竜の側に立っています。
イシグロ氏のご意見をうかがえてうれしく思います。同氏の「私の作品はファンタジーだと人々は思うでしょうか?」という質問に対する、私の明らかな早急な返答に傷つけるような内容があったことをお詫びします。
人工知能が太陽光に病気を回復させる効果があると思い込むことで起きる珍妙な話だ。
どう考えても不合理で奇妙な信念に従い、偶然によって祈りが叶えられる話で、しかも最後はただゴミ捨て場で朽ちていく。これは無神論者による宗教のパロディではないか? と勘ぐってしまう。無神論者からすれば、いかなるかたちであれ神を信じる人々は、誤った信念にすがり、存在しない相手に効果のない祈りをささげる哀れな人々だ。
カズオ・イシグロのSFは、SFが主食の人間からすると、不合理か古い知識に基づくように感じられる設定が多く感動すべきシーンもそこが気になってしまう。
たとえば、明らかに危険な能力向上処置を子どもにするような社会は、現代から相当な価値観の変遷があったはずだし、かなりの時間を経ていないと起こりえないだろうが、長い時間経過に伴うテクノロジーの発達については述べられていない。スマホさえ出てこない。
カズオ・イシグロのSF設定がときどきザルなのは、リアリティのレベルを小説よりSF風の映画・テレビドラマくらいにまで下げていて(下手をすれば寓話の絵本レベルまで)、それは脚本家でもあったからなんじゃないかって考えたんだけど、そこまでたくさん脚本を書いていたかまではわからなかった。
確かに技術的細部に立ち入らないので古くなりにくい一方で、そこが物足りなく感じられる。新しい技術だけをポンと現代に放り込んだ感じで、今と地続きな感じがして生活感があるのはいいけれど、技術によって完全に変容してしまった人類の心性がもっと欲しいと感じる。未来を描く意味はそこにあるんじゃないだろうか。
だいたい、フレーム問題未解決というか一般常識のインストールされてないスタンドアローンの親友ロボットなんて危険すぎるだろう。誰もアップデートされないスマホなんて使っていない。SFはどこまでリアリティのある技術を出すべきかという問題もないではないが、短編ならともかく長編でこのネタをこれをやるのは、平均的理系の知識を持つ読者にとってはかなりしんどい。
以上。読んだ順。
私が好きなのはカズオ・イシグロではなく「日の名残り」だった。
「わたしを離さないで」だけ既読、似た感想。この小説はSFというより寓話に近いと思う(増田も書いてた)。ドナー人権周りの描写も臓器を貰う側の葛藤も削ぎ落とし、搾取される者の命の輝きのみに焦点を絞ってる感じ
京都市バスの「運転士の給与民間並み」のツイについて、同和利権!とか言って喜んどるみなさんは結構なことですが、「これをなくしたのが維新」というのは大間違いなので気を付けましょう。
京都市の同和の利権構造に切り込んだといえば野中弘務です。氏は自身も被差別の出自だったことから、いわゆる同和ゴロに我慢ならず、京都府副知事時代にだいぶ手をつっこんだことで知られています。
また、2000年代以降は、村山祥栄という市会議員がかなり頑張りました。でも、あんま人気なくて、市政を掌握するには至らず、残念でした。
維新は大阪市のタブーに取り組んだのかもしれませんが、京都では存在感ないです。大阪と京都はかなり違う政治風土なので、気を付けましょう。
kiti
鉄道関連ニュースに対するコメントって鉄道業界の人間が業界内部視点での見解を一方的に主張してるように見受けられるものが結構ある。
たとえば今回の件は設備の不備であって復旧作業を一生懸命やっているからと批判を免れるものではない。
相対的に大多数であるはずの顧客感情に近いコメントでGood/Bad比率が同程度であることから、鉄道業界人がネットニュースのコメントに特段の注意を払っていることがよくわかる。
JR東海がということではなく他の鉄道業界にも通じるシンパシーというか、特殊な風土があるんじゃなかろうかと思っている。
元駅員の知人は「風通しの悪い業界」と言っていたし、自分達を客観的に評価できていないのかもしれません。
つまり、鉄道関連ニュースのGood/Bad比率はあまり参考にならないでしょう。
https://news.yahoo.co.jp/articles/bc55b71c28cbdd061d343a185cfdd37f4d3f2020/comments
最近、なぜ公務員が非効率だと叩かれ、また効率的に変われないかがよく分かってきた。
今回はその答えの一部を書いてみる。
(1)仕事の全ての基となる法律が難しく膨大で、法律に沿って作られる業務の全貌を誰も理解できない。
(2)業務マニュアルはあるのだが、膨大な業務の全てを網羅しようと
詳細過ぎる且つ難解な物となっており、ちょうど良いマニュアルがほとんど存在しない。
(3)指示はトップダウンが当然且つ反論はご法度が当たり前となっており、
現場から業務改善する風土が全くない。また、反論する者は目を付けられる。
(4)以上の状況からさらにデジタル化などの最新事例・新法は増えていく一方で、
勉強するためには業務外でやるしかなく、やる気のない職員は理解しないまま、対応もできないままとなる。
(5)そうすると結局最後は「自分さえ良ければ良い(自分に被害がなければ良い)」と個人主義になり、
組織でフォロー、カバーする意識は生まれず、組織力が上がらない。
また、本当に能力の高い職員は嫌気が差して組織を去ってしまう。
1つ1つ解説をしたいところだが、長くなりそうなので要点のみ書いてみた。
正直変えなきゃいけないところだらけで、手の打ちようがないというのが本音。
でも、一番はトップダウンを弱めるべきという点かな。
「永守会長に『さん』付けは厳禁」
「疲れ知らずの永守会長に『お疲れさまです』と言ってはならない」
日本電産の内部で、永守重信会長に社員が対応する際の作法を説く手引書を作成していたことがダイヤモンド編集部の取材で分かった。日本電産の人事部が作成したもので、毎年大量に入社する中途社員に向けたオリエンテーションで使われたという。
その内容は、永守氏に対する呼称、あいさつの方法、社内で出会った際の立ち振る舞い、電話やメールの受け方、食事会での作法まで多岐にわたり、異様なまでに細かなルールがある。
1973年の創業以降、ハードワークの社風を築いた永守氏。独自の経営哲学で競合企業の追随を許さない圧倒的スピード経営を実践してきたが、時に社員を罵倒する強烈な言動には批判もある。
永守氏は「叱られた社員は私に感謝する。これがパワハラというなら会社はここまで成長していない」と意に介さない様子だが、社員に過度な圧力を掛ける企業風土は、永守氏個人にとどまらず、同氏を取り巻く側近らが組織的に醸成した面もありそうだ。
ダイヤモンド編集部では、日本電産の人事部が作成した「永守会長対応マニュアル」を独自に入手した。次ページでは、その内部資料を公開する。中身は時代錯誤のビジネスマナーのオンパレード。社員に過度な負担を強いて人材を疲弊させる異様な企業風土が明らかになった。
うーん
創業者社長として日本のモーターを世界に定着させたのはすごい人だけど、
王朝化しすぎたのかなあ
M&Aしまくったのが一因にあるのは間違いない
なんだっけ。忘れないうちにメモ。
最近、ゴッホの絵画など芸術作品にトマトスープをかけたり、ウォーホルのアートカーに小麦粉をかけたりする気候変動対策を訴えながら過激な抗議活動が耳目を集めている。
ブクマもよくされているが、ほとんどが環境テロ、という認識で眉をひそめたコメントにあふれている。
もちろん許されない犯罪として国内外で報道されているわけだが、しかし、海外のメディアでは、テロという表現(ラベリング)は少なく、抗議団体が自称するCivil resistance(市民的抵抗)という表現を紹介していることが多い。正直、この種の活動で昔から有名なグリーンピースもそうだが、テロ呼ばわりされてもおかしくない運動ではあることは確かだが、報道はニュートラルに構えているのだろう。
そんなおり、斎藤幸平が、「ゴッホ名画にスープ投げ」を理解しないのは、日本人の想像力の欠如だ、と述べてブコメから総すかんを食らっていたのをみかけた。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/toyokeizai.net/articles/-/631285
しかしそもそも、テロという認識が日本では強いのはわかるけれど、実は欧米での反応というのはそれほど強くなく、むしろ彼らが自称するCivil resistanceへの一定の理解の上に立った報道も多く見受けられるように思える。
https://time.com/6234840/art-climate-protests-margaret-klein-salamon/
そして、よく考えると、そもそもテロまがいのデモというのは、現代の人権の歴史を振り返ると、一定程度、社会変革の不可避な副産物として、憲法などのシステムにビルトインしてきた経緯がある。典型的かつ最初の事例は、20世紀初頭の資本主義社会における労働環境を前提とした社会権。
https://artnewsjapan.com/news_criticism/article/508によると、世界的な環境活動家グループ「Extinction Rebellion」の共同創設者であり、ジャスト・ストップ・オイルの活動に加わっているサイモン・ブラムウェルは、アートニュースのインタビューで、若い活動家がこの抗議行動のスタイルを選択した理由を次のように説明する。
「これはアートの美しさを否定するのではなく、今の私たちの優先順位が絶対的におかしいということを言いたいのです。アートに美を見出し、ギャラリーを訪れる人たちがいる。にもかかわらず、消えつつある太古の森の美しさや、日々絶滅していく何百もの生物たちには目を向けないのです」
アートの美しさを否定しないといいつつ、美の概念の相対化というか、再構築といった意味では、形而上学的な禅問答である。
この説明を聞いて、素直に納得できる人の割合が多いか少ないか、という視点でみると、ヨーロッパに比べると恐らく日本人は少ないだろう。
アリストテレスの時代から愛だの美だの徳だのといったことをテーマに発展した形而上学から学問が枝分かれしてきた欧米と、近代以降のすでにたこつぼ化した個々のジャンルとして完成形をみた成果を受け取ってそれを解読して発展してきた日本では、こういう抽象的なテーマの抗議の趣旨を理解できるのは圧倒的に少ないだろうと想像できる。
これは、作品の美の価値が分かればわかるほど、スープをかける行動の意図もわかる、という構図でもあり、実際、被害を受けた美術館が環境問題の意義に言及するなどしている。作品に接したこともなく、それこそ「ウォーホル」だ、「ゴッホ」だと資産的な記号程度にしか理解していない人ほど抗議行動の意図自体を測りかね、なんじゃこの奇行は?という反応になっているようにみえる。
そういう意味では、当然、環境急進派の行動は、そもそも抗議の意図が分からない地域では成功しない(日本ではテロ以外の認識は生まれないだろうし、絶望的に無理だろう)。
しかし、欧米では、意外と功を奏しているのかもしれないと思える。感心はしないが、ああ、なるほどね、くらいの素養のある人は日本よりは多いだろう。
おおざっぱにいうと、日本人は経験から教訓を得て社会設計をしていくのが得意。いわば帰納法的な解決が染みついている。一方、欧米、ひろくラテン系言語圏含めて、日本人とは比べ物にならないほど、なにかにつけ演繹的な入り方をする。言葉の定義から始まり、指導原理を引き、タスクを明示する、という物事の進め方へのこだわりが強い(日本人の自分からみると)。
一方、構造化された概念、ルール化された行動原理(法)にのっとって行動する、という相互の信頼がないと不安なのが欧米社会。そこに、デモや過激な運動の機会に、自分たちが共有していない別の概念がオルタナティブとして提示されたときにみせる反応というのは、おのずと異なる。
そのもうひとつの理由が、市民的不服従という考え方や人々の認識の違い。
欧米では、恐らく日本人が想像している以上に、Civil resistanceというアプローチ自体の価値を社会変革のダイナミズムとして認めている。
それが今回の場合、限度を超えたものであり、法的に違法である、というときに、運動の趣旨は理解はするが違法である、という具合に飲み込みながら。
この違法性というのは、実は重要な視点。それを理解するには、市民社会を根本から支える憲法など、法について考えないとわからない。
近代から現代へ20世紀に法の考え方が近代法が大きくバージョンアップした際に、社会権が組み込まれたのは、中学生で習う話。
日本の学校では昔から、社会権を生活保護など、上から目線な形で教えてきた傾向があった。
しかし、社会権のうち、争議権を思い出してみればわかるように、実際はボトムアップな契機をはらんでいる。
他者危害禁止の近代法の原則をはみ出した形で、ストやピケなど市民的な抵抗の暴力性を認める市民権が存在する。
考えてみれば、他者に損害を与え暴力的な行動をとっていい、というのが「労働」に関してのみ例外的に憲法に組み込まれている、というのは、よくよくなぜなのか歴史を知っておく必要がある。一歩間違えれば、革命のトリガーになりかねないボトムアップの暴力。これをあえて憲法に明記するのは、明記することでコントロールしたいという、上と下のせめぎ合いのようなものも感じる。しかし、なんだったらいつでも政府がおかしければ転覆して革命をおこせるんだぜ、と市民に思わせておく、オーナーシップ感覚を絶妙なバランスで持たせる機能を果たしているともいえる。
マルクスの時代、そしてワイマール憲法の時代、社会権を育んできた思想運動や社会の歴史のなかで、当時「労働」が最重要課題で、社会権の大きな柱として考えられたのは自然な流れだっただろう。抵抗の暴力は、労働問題を争うツールであるというのが20世紀だった。しかし、抵抗の暴力は資本主義社会のなかで、たまたま労働がキーワードになっただけであって市民社会としては、労働である必然性はない。20世紀には「環境」といったテーマはシステムにビルトインされなかったわけだけど、80年代後半にブルントラント委員会が「我ら共有の未来」といって今日のSDGの原型となるコンセプトを立ち上げたときに、労使間に代わる、世代間の闘争といったことがテーマになりうることはうすうす予測がついていたように思う。
なので、抵抗の暴力が労働問題ではなく、環境をめぐる世代問題だとしても、その新たなムーブメントの市民社会における意義が注目されるのも自然な流れだ。
ここで、はい違法です、はいテロです、といってしまうのは簡単だが、思考は停止する。
一方日本では。
「労働」というキーワードで戦後、日本ははじめて市民的不服従の権利を手にした。市民社会における抵抗という考え方に「労働」というコンセプトが、時代の要請でむすびついていた、というのは押さえておくべき文脈。
しかし、その権利の過激な行使は、1950年代から60年代、大衆の心を猛烈にイラつかせた。
日本の高度経済成長を支えた大手企業は、大規模な争議に悩まされた。
民間では、1960年の三井三池炭鉱紛争など半年を超える争議も珍しくなかった。しかし、ほぼ100%ユニオンショップで、従業員全員が労働組合員という会社組織風土のなかでは、会社は家族みたいなものであり、労使一体みたいなのが当たり前であり、60年をピークに民間の争議はピークアウトする。そのなかにあって、国鉄だけは年中行事のように、順法闘争やストライキを繰り返して市民生活に甚大な影響を及ぼし、会社のみならず社会的に損害を与えた。さらにベトナム戦争反対や成田闘争など、新左翼の政治闘争が加わっていくなかで、日本人のいら立ちは頂点に達していく。
国鉄やら共産党やら新左翼にひどい目にあわされた、という日本社会のこの経験というのは、争議だなんだといっても社会に迷惑をかけてはいけない、という教訓を強く残し、憲法に組み込まれた暴力的な契機をできるだけ抑制的にするべきだ、という認識が支配的になるきっかけだったんだろう。1973年の最高裁は、それまでリベラルと保守の裁判官の間で揺れ動いていた官公労組の争議権の是非について、完全に保守化の方向に舵をきり、封殺する結論に至る。公労協のスト権奪還スト(1975年)を時代の潮目に、公社の民営化路線が進められていく。争議権だかなんだが知らないが、憲法に書いてあったとしても、市民としては正直、うんざりしてしまったというところだろう。戦後、長い間、政治闘争の旗手として大きな存在だった総評、そしてその大半を国労が占めていた時代は終わる。
ということで「労働」をキーワードにせっかく手に入れた不服従の暴力は、迷惑をかけんじゃねーという市民社会常識を繰り返し強化する経験を重ねることにより、空洞化した。
その後の日本社会では、エスタブリッシュメントと化して長い間、社会運動の先頭に走っていた労組が今度は勢いを失うと、どういうことになるか。
例えば、正規雇用、非正規雇用のギャップみたいに新たな問題が浮上してきたとしても、ユニオンショップに非正規も入れてあげたほうがいいんじゃない?、という手続き的な、上から目線的な議論の仕方に収れんしてしまう。日本社会があまりにも保守化してしまって、そもそも争議という暴力的な手法は何のために憲法というシステムに組み込まれたのか、根本的な思想がわからなくなってしまっているようにも思える。言い換えると、憲法をさらにメタな視点からとらえる思想的な背景がさらに弱くなっている。
歴史を振り返ると、20世紀初頭、メタな視点があったからこそ、資本主義社会の現状と課題に即して、社会権という新しい権利が組み込まれたのだが、現行憲法を頂点とし、人権の普遍性や憲法の最高規範性を強調してしまうと、憲法の思想の根拠はと問われたときにフリーズしてしまう。日本では制憲者の意思の議論は起こらず、代わりに基本書読め、といってなぜか憲法学者に振られるのが定番。(制憲者があいまいなのも諸悪の根源かもしれないし、ステートに対するネイションのオーナーシップの違いとも思える。)
欧米の環境運動というのは、あるいはLGBTも同様だけど、恐らくそうじゃないんだと思う。
既存の規範に書いてないものであっても、新たなムーブメントの意味を真剣に見極めようとする思想文化があるんじゃないと思える。
そのムーブメントの暴力性を違法と認識しつつも、時代のダイナミズムとしてとらえようとする、というか。
繰り返すと、
・美の概念など、概念の構想力、概念について深く考えたがる文化の違い。
・憲法など国の根本的なシステムのアップデートするのに必要な社会のダイナミズムへの関心の低さ。
この二つをひとまとめにして、斎藤幸平氏のように想像力の欠如といってしまえるのかもしれないが、因数分解すると、社会設計をするのに基本的に重要な2つの能力、この二つには欧米社会と大きく差があるように思える。
amunku 草津市県内ワースト犯罪件数だったとこでしょ。犯罪どころか揉め事も多いのかって思っちゃうな
ndns 事の真偽は関係なく、極めて愚かな住民投票とその結果だからその街全体が嫌われるという当然の末路。地方とか田舎とかは関係ない。
mopo123 セクハラ温泉か。旅館が風呂に盗撮カメラ仕掛けたのもここだっけか?追記:細かな事情が分からんのは町民だって同じでしょ?その状態でリコールかけたんだから、町民の民度はそんなもんだよ
aki_minori 異物を排除する田舎の論理が悪い方向に出ちゃった感じ。ただ、断片的な情報だけでも、この町議の言ってることを丸のみはできないと思う。
hisa_ino たかが一町議をリコールまでして「今すぐ」辞めさせたい、というのが異常で引くわ。住民の意思なら次の選挙でいくらでも示せるんだし。要は町長の報復なわけでしょ。それに乗っかる町民もなあ…。
sisopt “個人の自由意志を舐め過ぎ”とかいうブコメは村社会の同調圧力を舐めすぎ。
zambia とりあえず消滅可能性都市から消滅都市へようこそ。それが町議の狙いでしょ?
T-3don 草津のイメージ回復的には、大差で否決してようやくイーブン、くらいの状況だった思うが。ブランド価値を守るチャンスを住民自ら踏み潰した、と見なさざるを得ない。今後選択肢からは外れるなぁ。 news
dd369 グン○ーとは言いたくないけど言ってしまう。香港のように人権が通用しなくなった未開の地を女性は捨てた方がいい。 社会local
questiontime 個人的にはこれで草津温泉に行くことはなくなったけれど、この結果を見て草津を優先するのもいるんだろう。客がそんなのばかりになったら女性はもっと住みづらくなる。悪循環。
satromi 草津みたいな人が来る観光地でさえこれか。田舎は恐ろしい。
zyzy これは流石にちょっともう草津そのものを異常視せざるを得ないし「おかしいっていうなんてさべつぅなにかあるはずぅ」っていう権利は、こういう迫害をしない人だけが持っているからね。裁判回避やった時点でアウト 考え方
cotbormi 住民もクズだから逃げな。そんなクソ田舎捨てな。 これはひどい
kohgethu 田舎なんてどこもかしこも案件か。クソが。/そんな「男性だけが楽しめればいい」という考え方でやってると、本当に温泉街が寂れるぞ。
ustam 草津タウンこの…。旅行先、移住先から草津町は永遠に除外だな。町ごと地図から消えてなくなればいいのに。セクハラの有無はわからんし、実際虚偽の可能性もあるけど、裁判の結審を待たずにこのようなやり方は異常。
korilog 9割賛成はすげーな。性被害を訴えると町の9割が敵になる。やっぱり田舎は怖い。
wwakainkyo 町議会がおかしいだけと思ったら、草津町そのものがおかしいのか。草津温泉に行こうという気が失せるな。(中途半端な田舎だとよくある、地元有力者が根回ししたら決まる構図)
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASND66WZ6ND3UHNB00J.html
hammam 恥を知りなさい草津町民
shun_libra 議会はその自治体の民度を表すからなあ。こういうクソ動議が起きるような町じゃ、町民の男尊女卑志向も相当ヤバそう。
emt0 温泉に罪はないし、ここ最近の復活は素晴らしいが、これじゃお金落としに行く気が失せるわ。仕方ないが所詮は群馬の山奥のムラ社会か
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASMD261GBMD2UHNB00M.html
RCHeLEyl だよなぁ。これが通るなら草津で性犯罪被害に遭っても、加害者が「嘘だ!でたらめだ!」って言い張ってセカンドレイプを起こされ、社会的に排斥されかねない。
mkotatsu 事実はどうなんだかよく分からない問題だけど、ポスターやビラを見るだけでは、はてなの大好きそうな「田舎の嫌な所」のかたまりっぽい。その割に擁護コメがあるから余計に草津にはちょっと近寄らんとこ感
hevelo 野蛮なクソ田舎滅びてどうぞ
zyzy 草津はヤバい以外の感想が出ないのよなぁ。もう女性たちは全員逃げだせるようにしておいた方がよさそうなレベルで。 考え方
gomaberry 「小さな町だからリコールされた女性の人柄をみんな知ってるはずだから当然」という不自然なコメントがヤフコメに大量についていた。地元紙に同様の文面のチラシが折込されたそうだ。組織的犯行。あの群馬だもん。 ドリル優子慰安所中曽根中の人一太カルト下村
siiko どっちの主張が正しいかも分からないのにリコールを主導する町、賛成に丸付けちゃう住民
watapoco 行政も住民も気持ち悪すぎて絶対行かない場所になった。ちなみに気持ち悪さは性被害で告発されたことではなくその後の対応。
papercup140 田舎の議会は恐ろしい…。草津町民を責める気にはあまりならない。
mopo123 草津町民というセカンドレイプ民。覚えておこう。
napsucks 田舎に対する偏見が裏打ちを得て強化されていく。。。
domimimisoso 草津の真相がどうあれ、「田舎の女性議員は町長に密室セクハラやられても解任運動が恐くて声を上げられない」というメッセージを全国に放ったのは間違いない。
uunfo 草津温泉に入ったら何されるか分かったもんじゃないな
kyasarin123 さすが温泉街(ピンクコンパニオンとか)ですね。爺ィ連中の民度低すぎ!!
sykuma 東京の区議会でこんな事やったら秒で蒸発するレベルの炎上になるのにな。結局、地方は年寄りが堅持している昭和文化と心中していくしかないんだろうな。
daigo0117 田舎は外から入ってくる価値観に排他的だし、老人は新しい価値観を拒絶する。改革は難しいだろうな。。
ryun_ryun 田舎の人間は性格悪いからね。地方擁護派の俺としてもその点は擁護できない。
yuzuk45 大都市以外ではこれがこの国の意識のスタンダードだろう 女性地方政治
yuzumikan15 傍聴席にいたセクハラ男性たちって住民なんだよね?温泉好きでいろいろ行くけど草津温泉には絶対に行かない。
nenesan0102 ブコメにもあるけど、こんな場所なら女性たちが逃げ出して当然だと思う。
m_h そりゃ田舎(地方)から若い女が減るわってかんじですね!
kaz_the_scum 日本の田舎っぽさを色濃く感じる。私にとって鹿児島の志布志はあの事件の土地というイメージしかないんだけど、温泉に行かない私にとって草津はこの事件で温泉から上書きされたわ。
iasna 田舎クソ恐ろしいな
ipinkcat 田舎ってダメなところを煮詰めたようなクソみたいなオヤジしかいないけど、草津町はクソの中のクソだな…。
Rinta いかにも田舎のえらい人たちと言う感じ。自民党はそーゆー人達の総本山だなと思う。
napsucks 面白いメタ構造。田舎に対する偏見が強化されるな。
skgctom 都会にこういう老害がいてもいずれは若者たちの声が高まり死に絶えるからいいが、地方だと老害の価値観に迎合した準老害だけが残って出世していき、そうでない有能な若者は地元を出て行くからな…
punkgame 田舎で大事なのは人間性や手腕よりも、家柄や権力。そしてそれを煽てておこぼれをもらう奴ら。この手の爺さんたちは非常に邪魔で早々に消えて頂きたいのだが、こいつらの子孫は若いくせにこれを引き継いでいるので、 30年経っても田舎が東京レベルになるのはまだ無理だと思う。
xorzx こんな地方は滅ぶべき。少子高齢化で20年後には半数の自治体が消える。
tokatongtong 草津っていうのはそういう場所だったのか。絶対行かねえ。
zyzy 草津から来たという男性がいたら警戒して距離をとり、警察に連絡する準備をしなければいけなくなるレベルに酷い。 考え方
kingate いや。これが普通の田舎だよ。よく知ってるよ。警察もグルになってることがほとんどだからね。警察ったって署長以外は基本地元の持ち上がりなんだし。糺す方法なんて強制移民以外無いよ。マジで。
gomaberry 草津は女性が行ってはいけない危険な町だな。県知事あの人だっけホラ、安倍晋三のツィッターの中の人だった例の…
takashi1982 草津に行くたびにこんな下品な議員や町長がいても温泉は素敵ですね嫌味を言い続けていきたいと思った。他界した曽祖母の町も同じで、田舎のそんなところが本当に嫌だと思っているので住めないよなぁ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/articles/dd949f8ef142ba996f362f990583c350a037de09
Unimmo セカンドレイプの町だとまでは言わないが、きわめて程度の低い町として、心から蔑んではいる。 田舎者
Gim 筆者の意見に反対だ。裁判で係争中なのだから、リコール自体を判決後にするのが、日本人の常識であり、草津の温泉街のドンの非常識を咎められない事が、正にセカンドレイプの町の称号に相応しいと言えよう。
RCHeLEyl 白カビ饅頭案件。1人しかいない女性議員の訴えを否定する文章を街中に張り出し、更に公の場で糾弾している。そういう風土のところだと、性犯罪被害を訴えてもセカンドレイプ食らって加害者勝ち。近づかない一択。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/gendai.media/articles/-/78575
hatarakutoshika 未開の地グンマーではこれが日常
nyama02 魔女狩りの話?群馬って中世だったんだ、ショック
taguch1 草津の人の知性は地に落ちたけど。まぁ裁判でやれ。税金でアホなことすんな。
xevra 何のエビデンスも付けずに一方的な中傷になっているのが怖い。「何のどういう行為が問題で、証拠はこれ」ってなってないと判断できないはずだが。田舎は恐ろしいわ
kyasarin123 草津よいとこ一度はおいで〜!行かねーよ!わー田舎住みたくねー
awkad 田舎バカにするなというが田舎じゃないとなかなかこれは成立しないからな。ここまでいかなくてもこういう空気は田舎にはある。だからそれが嫌な人間は都会へ行く。そうじゃない人が残りこういう空気が強くなる悪循環
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/sleeptreewinter/status/1335232610331631617
domimimisoso これから全国の田舎の町長は女性議員にセクハラやり放題です!っていうメッセージだね、こりゃ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/this.kiji.is/708288354939338752
昔は名門大卒が1人として入るような会社じゃ全然なくて地方Fラン私大とか東京の武闘派五流私大卒ばっかりだったけど、
やがて業界再編を経て社名も変わり、気づけば早慶卒だって珍しくなく一橋卒すら毎年入るように……
エリートがいなかったダメ会社時代に入社したモラル皆無のえせチンピラみたいな古参が課長~部長の椅子に座って権力持つようになり、
同時に会社の毛並みが良くなった影響で昔とは考えられない細やかでハイレベルな水準の仕事を当然に要求されるようになり……
結果的に新卒は、古参の粗野でエグい上司に抑圧されながら、昔じゃ考えられないくらい負担の大きい仕事をデフォでいきなりこなしていかなければならないというハードモードからスタートするはめになる。
(こういう会社って超有名なオフィビルに本社構えるほど図体でかくなって、コンプラ推進室とかいかにも大手らしい部署もちゃんと存在するのに、野良犬みたいな社員ばっかりだった時代のパワハラチンピラ風土は普通に残ってるんだよな。なぜか黙認されてんの)
古参連中なんて若手時代は二日酔いで寝坊したり、上司に対してガキ丸出しのワガママ言ってキレまくったり、先輩とゴルフ練習場で昼までサボってから働き始めてたりしてたくせにな。
だから就活する大学生はマジでこういう会社から逃げれるよう気をつけたほうがいい。
社員が千人以上いようが、売上一千億あろうが、保養所が立派だろうが、年収高くて福利厚生良かろうが、内実はチンピラ文化やデタラメがまかり通ってる
↑
温暖といわれているがその中途半端な温かさのせいで暖房設備が不充分なことが多く、冬は暖房無しで耐えなければならないことがたまにある。
おそらく公立学校で教室に暖房がない地域の北限だろう。冬の休み時間はみんな日の温かさを求めて窓に寄って日光浴してた。イグアナかよ。
西部だと遠州のからっ風と呼ばれる季節風(海風)が吹き、体感温度はさらに下がる。
そして県民のクズさだが西部(遠州)、中部(駿河)、東部・伊豆で方向性が全く異なる。
静岡県民の気質を表す言葉に「駿河乞食に遠州泥棒、伊豆の飢え死に」と言うものがある。
(参考: https://www.ssu.ac.jp/shizuoka-trivia/20211124/ )
西部の泥棒は生き延びるためならなんだってやるという気質で、「やらまいか精神」に繋がるところがある。起業家(特に製造業)が多い風土はこの精神性だろう。
このクズさは職人の気難しさを延長した方向というと理解しやすいだろう。
中部の物乞いは交渉によって生き延びようとする気質。大御所家康のお膝元として発展してきた商業都市の精神性だろう。
商人の狡猾さ、意地汚さというものの延長にある。京都のイケズにも通じるところがある。
伊豆はのんびりし過ぎてそのまま餓死してしまう、というふうに言われている。
が、自分はこれがちょっと違うと思う。伊豆の人間は謎のプライドの高さがありそれゆえ何もできないのだろうと思う。
このプライドの高さの由来は全く謎であり理解不能。しかも割と癇癪を起しやすい。
と同時に、容姿がどうのこうのってジェンダー論の本筋じゃないような気がするね。
ただ、世の中がどんなにかわっても、結局、男性が女性を評価する、という構図だけは大きく変わってこなかったとは思う。
男性視点だと、お姫様的な価値と嫁としての価値が伝統的な二大価値、かなと思う。単純化すればですよ、もちろん。
そこに、80年代、バブル期にキャリアという価値が新たに追加された。
キャリアウーマン価値は今再放送している東京ラブストーリーに象徴されるトレンディドラマにみられるように、女性にお姫様でも嫁でもない新たな価値を見いだせると夢と希望を持たせたものの、
結局男性社会を固持する組織風土が根強く、男性に伍して働くことが強制された挙句、ガラスの天井が待っていた。女性を失望させたのがこの40年。
男女雇用機会均等法で頂点に上り詰めたのはほんのごく一部。そもそも嫁価値も求められながら、職場では男性に伍して、という条件はあまりにもハンデだ。
一方、家族構造は戦後、大きく変化して、嫁的な価値は低下。強制的に嫁を教育し、家にそぐわなければ排除も辞さない、子供を産めないなら出ていけという、そんな社会ではなくなった。
なので、そんな時代を反映したおしんや、ふぞろいの林檎たちといったドラマはリアリティを失っていく。
日本社会は、この男性目線で最後に残ったこの価値も何かぼんやりとしたものになってしまったのではないか。テレビドラマの傾向をなんとなくみての感想だけど。
トレンディドラマは、お姫様価値+キャリア価値で、美男美女をおしゃれな職場に登場させて、視聴率をゲットしてきたが、うそっぽくなってしまった。
韓流ドラマはトレンディドラマの潮流を直球で引き継いで、朝鮮半島の男尊女卑の文化を背景に、お姫様価値を全面に打ち出してヒット。いまだにトレンディドラマ路線でいける。韓国では嫁的な価値がいまだに高いので、トレンディドラマにホームドラマをミックスさせたのが韓流となった。
しかし、日本の製作者(男性)からみると、トレンディドラマ自体が空々しいものになってしまって、方向性を見失っている気がしている。
そもそも、お姫様価値なんて、男性からすると嫁的な価値を得るためのジャンプ台のようなもので、嫁的な価値が低下した今、女性にあんまりお金をかける動機付けがなくなってしまった。
しかし、女性からすれば、キャリアもだめ、嫁的な価値も不要ということになれな、お姫様価値を磨く以外に、自分の価値を高めるすべがない(もちろん極論)。
そんな時代は、女性からすれば、不安なんじゃないだろうか。存在論的に、というか承認欲求的にというか。
そんな不安な時代だからこそ、お姫様価値にますます神経質になり、
という「恐怖」に結びつくんじゃないだろうか。
マジメな話、これに対してはちゃんと「NO!ふざけるな日本史根!」をぶつけていくべきだと思います。
今回の法改正によって下手をすれば無理な車道の走行によって路肩の段差でコケて死ぬパターンの自転車死亡事故の件数が増加します。
もしもそうなったとき、この法改正を肯定する論法はどうあっても「そもそも車道を走るのに値しない自転車にに乗っていたのが悪い」へと収束するでしょう。
なにせ氷河期世代論がそれに類似した自己責任論を突き進み、その再生が日本で何度も繰り返されているのですから、国家の風土的にそうなのです。
つまりそれは、「半端に遅いママチャリとか未だに使ってるやつが反社なだけじゃん」という結論になります。
自分が自転車を使わず、家族に自転車を使う子供などもおらず、自転車業界と何の関係もない人はこれに何の問題もないと思うかも知れないですし、むしろ称賛の声を上げる人も多いでしょう。
ですが、この未知を突き進めば確実に「自己責任論」はより強く日本に浸透していきます。
浸透した自己責任論の行き着く先は「能力がないくせに社会の中で生存権を主張しようとする奴が反社なだけじゃん」です。
これは氷河期の頃に日本中を襲った「社会に必要とされるレベルに能力がないなら、頼むから自殺してくれ。ナマポの申請なんてして生き伸びられてもお荷物だから死んでくれ」の再来を意味します。
そんな社会を目指したいですか?
正社員数が3000人オーバーの企業で働いているのだが、社内に資料室や図書室がない。転職する前は、今より大きいところにいたが、そこにはあった。だが、蔵書の管理や更新がされてない状態で、かつ、閲覧室が社員の憩いの場と化していて、在籍期間中に資料を見ている人間は私以外に一人も出会わなかった。
社内に資料を管理する施設や部署がないので、定期刊行の業界誌のようなものは各部署で購入した上で死蔵ないし捨てられている状態である。価格の高い業界年鑑的なものや民間シンクタンクが作る有料レポートのようなものは購入することがない。また、関連のある学術誌のようなものや、専門の学術書のようなものを社内で購入することもない。
社内にある書籍・学術情報を当たった上で、社会と業界の分析を行ってものごとを考えるということをする人間がそもそも非常に少ない。そのようなことをする人間は社外の図書館を使うか、あるいは難しいこと自体をコンサルにやらせればいいのだ、となる。
こうなってしまうと負の連鎖で、新しい人間が入ってきても、知的に骨の折れることができる環境がないし、社内の風土もそうなっていないので、自分の頭で考える人間が育たない。また少し違う視点で考えると、いまの会社や前所属レベルのところで書籍を購入しないのであれば、書籍雑誌の販売が落ちて、情報を作って売る側もしんどいのではないかと思う。
群馬大学のアカハラが文集で取り上げられているけど、OBとして個人的お気持ちをつらつら書きたいと思う。
自分は学生時代に非医学部の学生として服部教授の「性と死と家族の倫理学」という授業を履修しており、また2016年にアカハラを受けた学生とも顔見知りである。
個人情報や現在進行中の裁判にもある程度影響しそうな話も知っているので詳細は伏せながら書き連ねたい。
まず、非医学部の学生から見えた服部先生は「気難しくて厳しいけど、面白い先生」という印象であった。
倫理学という観点から自分の中にあった(授業で取り上げられたテーマについての)価値観を切り崩され、また、再確認する機会となった。
あの経験があったことで、より視野が広がり、弱者やジェンダーの問題について考えることが増えたように思う。
あと、授業中に正しいコンドームの付け方を教えてくれたのは結構役に立っている(セクハラのような雰囲気はなかった)
次に人から聞いた、医学部生視点の服部先生の印象であるが、概ね「『医療倫理』の授業に比べたら『性と死と家族の倫理学』の授業の先生は相当優しい」という意見であった。
また、「医療倫理」の授業について、当時は「真面目に授業を聞いて、教授に噛みつかず、圧倒的量のレポートをこなせば単位はもらえる」という声が多数であったと思う。
噛みつく学生や変に拘りの強い学生、頭の硬い多浪生は単位を貰いずらく、また、生徒と先生が対立すると授業が進まないから険悪なムードが漂うことがあったと言う話も聞いた。
ちなみに、「医療倫理」授業は医学部生だけでなく、医学系の院生も必修に入っているため履修していた友人がいたが、その人曰く「医学部の学部生」以外にはゆるい評価である、とのことであった。
(個人的には「医療倫理」の授業では外部講師も招くことが多く、ジェンダーの観点で生き証人のような研究者が招かれていたのでモグリをしたかった)
記事にもある通り、単位が降りるのが厳しいため、病院実習が始まるまで(群大医学部では病院実習が始まると卒業まで難なくこなせるという風潮があった)の各学年におけるマイルストーンとなっていた授業の一つだった。
いずれにしても、当時の服部先生は賛否両論はあれど、個人的には一番もう一度授業を受けたい先生と思っていたので、どうしてこのようになってしまったのかという思いが強い。
あと、群大内で(学外に出ないものも含めて)やらかしが多いのは決まって医学部である(今回や前回のアカハラ、「私は学長です」事件・論文不正、附属病院であるが腹腔鏡の医療ミスなど)、という風潮があった。
そういった風潮は、(私が学生であった当時は)新入医学生が医学部の教授会に自己紹介を兼ねた一発芸を披露する必要があり、女子医学生も含めて一部は裸踊りに近いものを披露することがある、と聞いていたので、
醸されていったのだろう。そのような「昭和な雰囲気」が、医学部が不祥事の温床となる風土を作り出しているのだと思う。
医学部が大学としての稼ぎ頭であるのはわかるのだが、いちOBとしてちゃんとした風土改革が必要だと思う。他学部の方では「医学部だけ県立福祉大と合併すればいい」、「医学部以外宇都宮大学に合併すればいい」などといったジョークが出ることもあった。
そういったブラックジョークがなくなることを願う。
自分の身を守るため、名誉毀損や誹謗中傷にならないように、あえて肯定的なことと無難な伝聞や組織体制へのお気持ちしか書いていないから、擁護をするように読める文になってしまったけれど、書かれていない批判的なことが本当は知ってほしいことだってのは、読み取ってくれとは言わないけど、(立場を)理解してくれたら嬉しい。
群大の医学部は年齢差別が酷い、のような言説があるけど、むしろ医学部への再チャレンジが開かれたの大学だよ。
国立大医学部で編入制度のあるところがまず少数な中で、弘前大の20名についで15名受け入れている。
私に良くしてくた医学部の先輩複数名も編入組で、年齢もバラバラだった。
年齢差別裁判以後は変わったんじゃないかと思う(裁判以前を知らないからそこは語れない)
一発芸の話は私もドン引きしたし、当時は医学部に未練が残っていたけど、そんな気持ち一気に吹き飛んだよね。
今でも医療現場の人間関係の話聞く度に、医療職にならなくてよかったと思ってしまう。
ちなみに、私は授業中に(授業妨害にならないレベルで)噛み付いた側の学生だったけど、普通に(2ch文化のようなものではないちゃんとした)「論破」をしてくれたし、それによって下げられるようなこともなく良い成績で単位は貰えた。
そもそも「勝手にやってきて勝手に活動している、現地の人たちの意向とは違い、現地に寄り添っていない」かどうかも外部の想像だろう。(むしろそうあってほしい、という外部の願望が見える)
地元民ですがあの人たちは寄り添っていません。一部の人と目的が一致しているだけです。
沖縄の歴史や風土や宗教や生活を知っていたとしても、沖縄で生まれ育った人間と価値観を共有できる訳がないので、本当の意味で寄り添うのは不可能です。
何より内地の人は沖縄でやらかしても帰れる地元がありますよね?
「ヤバくなったら地元に逃げる」というナイチャーをたくさん見てきたので、内地からやってきた基地反対派もそういう目で見ています。
現地の人だって一枚岩じゃない、活動家に対して親和的な人もいるだろうし、反発を感じる人もいるだろう。それを外部が分かったように語ること自体が、現地の感情を蔑ろにしているんじゃないか。
一枚岩じゃないのは事実です。それが分かっているなら、最初の「外部の想像」というは「分かったように語る」ことじゃないですかね。
(悪い意味で)
じゃあなに貰えれば子供増えるねんって思った絶賛2歳育児中ますだが日記を書くよ
【前提】
•年齢共に20代後半
•娘2歳認可保育園
•世帯年収1000万程度
•祖父母隣県
なんとなく二人くらい子供を産むことを想定されてそうな世帯だけど、うちは子供は1人って決めてる。
国からの金銭的援助が増えれば産むかと言われると、多分産まない。クーポンは普通に嬉しい。
理由を一言で表すと、妊娠〜出産〜育児の一連の流れが現代にそぐわない につきる。
現代って、辛いことはそこそこ回避できるじゃ無いですか。嫌な人間関係は切っても問題ないし、仕事だって変えられる。リアルが嫌ならネット上で生きればいい。
制度が整ってないのが問題…とも言えるがそもそもそんな風土がないな〜って思う。
ますだもやるまで育児がこんな大変だとは思ってなかった。母親、もっと誇って良かったと思う。
【妊娠編】
私の場合悪阻がそこそこ重く、吐きまくっていた。二日酔いが休みなく90日ほど続いた。この休みなくってのが肝で1日なら我慢できるものも続くと相当精神にくる。治療法が無いのも最悪で、今でも人生で最も辛い時期だったと断言できる。
仕事も穴を開けてしまったりしてさらに落ち込む。これを子供を育てながらやるってのは考えられない。
妊婦検診もそこそこの頻度でやってきて、その度に休みの申請出して埋め合わせして。検診自体も性器に遠慮なく機材をぶち込まれる。普通に痛いし不愉快だけど、これも仕方ないことだ。
加えて妊娠糖尿病になったから血糖値管理にインスリン注射を毎日3回。こっちも別で検診ありだから会社を休まざるを得ない。食事だけが唯一の楽しみだがそれも奪われる。
【出産編】
いや痛ぇんだわ。無痛も効かないことがあるってなんだよ…あと産後も痛い。1ヶ月くらい出血し続ける。
【育児編】
1歳半で歩けるようになるまでが辛かった。特に最初の1ヶ月は、3時間ごとに授乳が必要。授乳の準備をしてると間2時間くらいしか自由な時間はなく、里帰りしてたにも関わらず寝たのか寝てないのかわからない状態が1ヶ月続く。酷い偏頭痛にも悩まされて、不調of不調。拷問だし人権はない。
職場復帰した後は、時短勤務による周囲からの冷ややかな目と、子どもの看病のための突発的な休暇が辛い。休暇って言ってもこっちは休めてないのに業務は逼迫する。周りもこちらも辛い。
仕事をそこそこちゃんとやってるので、噛み合わせの悪さはかなりしんどかった。共働きでどっちもバリバリ働いてるって人は、多子を望まなくなるな〜って印象がある。
【総括】
デジタル偏重な世の中なのに、身体に依存する出産はアナログなままで、不便さや不快さが我慢できる閾値を超えている。(勿論改善のしようもないし。)