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はてなキーワード: 長崎出身とは

2024-09-20

長崎出身女友達ができた

つい最近長崎出身女友達ができた。

で、俺と俺の友人と彼女の三人でさっきまで飲んできたんだよ。

これが結構面白かった。彼女は俺のドイツ人友達に会うのは初めてだったんだけど、最初からすぐに打ち解けて、あっという間に仲良しになってた。

その友達、めちゃくちゃ日本語ペラペラなんだよね。それで彼女に「長崎って、カステラのところやろ?」って聞くと、彼女もすぐに「そうですそうです!」って笑顔で答えてさ、今度は彼女が「ドイツバームクーヘンですよね!?」って返して、それに友人も「せやで!」って答えてさ。

なんとなく俺も話に乗っかって、「カステラバームクーヘンも一緒じゃね?」って言ったんだよね。正直、そんなに違いがわからんし。

そしたら「全然うから!」「全然ちゃうわ!!」って二人同時にツッコんできてさ、ビール吹いたw

二人の反応がシンクロしすぎてて、まじで面白かったんだよなぁ。

そんな感じで、飲んで騒いでさっき帰ってきて、今すぐ寝て忘れる前に日記代わりに書いてるんだけど、もう限界に近いわw

酔ってるとこうやって頭に浮かんだこと書きたくなるんだよねw 明日になったら読み返して恥ずかしいんだろうけど、まぁそん時に消せばいいし。

大学って面白いわ。

2024-06-25

anond:20240620195747

長崎出身だけど無理して盛り込み過ぎでお年寄りでもこんな喋り方じゃないだろ

鶴瓶グルーみたいにしたかったんだろうけど人称と語尾ぐらいにしとけばいいのに

2023-12-29

1年振り返って長崎県出身者の活躍が異常

紅白MISIA福山がトリとなっているがこのペアがもう4年連続

紅白だとさだまさしデビュー50周年とか純烈新メンバー長崎出身 とかは知らん

役所広司は元々国内俳優では間違いなくtop of top存在だが、カンヌ国際映画祭男優賞を獲得。TVでもVIVANTに出演

女優youtube登録者ランキングを見ると1位こそ本田翼だが、2位が仲里依紗3位が川口春奈長崎出身者2人となっている。

「silent」が終了してちょうど1年だが、川口現在CM出演本数ランキング1位、2023レコード大賞司会。

まあ2021には紅白司会もしてるのでその時も「トリ2人+司会」が長崎出身者かよと思ったが

・とってつけたようだが垣根涼介直木賞を受賞

人口規模の問題だが川口出身地五島市は「舞い上がれ」と「ばからもん」が立て続けに放送され近年は移住先として有名になっているが人口3.2万人。吉永小百合が36年ぶりにスキンケアCMじゃないんだよ。

ましてや仲の出身地東彼杵郡なんて人口7500人の自治体だぞ?

あと書いてるうちに判明したが来年1月期の月9長崎舞台って、去年は「17歳帝国」もあったが急にフィルムコミッション機能してるみたいなのなんなの?

地元から気づいてるだけでちゃん検証すれば他の地方の県もそんなもんなのか?

まあなんでもいいか佐賀新幹線を通してくださいお願いしま

2023-08-06

広島長崎平和教育ような都道府県固有の教育

広島長崎出身の人と核兵器の話になると、トラウマのように顔面蒼白になる

平和教育が叩き込まれているのが分かるよね

新潟小学生の頃から年に数回は必ず拉致問題について聞かされる

万景峰号など歴史的経緯もあり朝鮮半島新潟関係が深い一方で、北朝鮮話題に関しては気軽に発言できない雰囲気がある

北海道沖縄民族教育とか徹底してそう

他の都道府県でもケンミンSHOWでは絶対に触れられない内容の教育ってあるの?

2023-07-08

anond:20230708012636

長崎出身やけど別に気にならん

要はそん土地の味やろ

口に合わんなら出てけばよかやん

2023-06-01

anond:20230601135745

たし🦀

長崎出身の人がリンガーハットちゃんぽん旨いって言ってた。

俺はマルちゃんの「フライパンでお手軽!チャンポン 2人前」が好き。

ぷりぷりのエビイカゲソきくらげ入れて。

2023-04-09

福砂屋カステラ

学生時代長崎出身友達から

カステラ福砂屋だぞ。長崎しか売ってない。

お土産に買うなら福砂屋とネジネジ。あとビワゼリー

教育されてきた。確かにうまかった。

最近になって近所にデパートの催物でも買えて

買って帰るとやっぱり美味い。

通販やってるのかなと見てみたらオンラインショップもある。

福砂屋うまい

カステラうまい

牛乳と食べるとうまい

コーヒー牛乳と食べてもうまい

下の紙にくっついたザラメうまい

2023-01-04

カズオ・イシグロ大体読んだけど好きかわからなくなった

わたしを離さないで」(2005)

臓器移植のために育てられた人間の子どもから大人になるまでの記憶を綴る。

かに美しい小説だ。子供から大人になるにつれて、見える世界は広がっていく。たとえそれがどれほど酷なものであろうとも、子供たちはそれを受け入れねばならない。語り手は振り返り、ひとつ出来事を大切に手の中で壊れやすい卵を計るように並べている。

読者も少しずつ、まるで語り手と一緒に育っていったかのように、事の真相を知らされていく。細やかな、性格を端的に示すエピソードミルフィーユのように繊細に重ね、誰もが持つ幼いころの記憶登場人物シンクロさせる手際は見事と言っていい。主役三人の性格の違いとそれによっておこる対立の見事さは、この小説SFというよりも性格劇に分類したくなるほどだ。夢中になってはまる本とは違うけれど、読む価値はとてもある。

しかしながら、感情描写文章リズムがうますぎるあまり、根幹のSF的設定が、ふと荒っぽい夾雑物にまで見えてきてしまう瞬間がないでもない。細密な建造物を支える、太すぎる柱にたとえればいいのだろうか。

そもそも臓器移植のためだったら、人間を育てるんじゃなくて臓器だけ培養すればいい。

どうも舞台となっている世界技術水準や、テクノロジー社会に与えるインパクトの細部の詰め方が幾分甘い。

日の名残り」(1989)

かつて仕えた主人が第二次世界大戦中に対独協力者で、それを理由戦後に没落したため、その屋敷を買った米国人に仕えることになった執事の話だ。カズオ・イシグロ本領である、決定的な本音事実意図的にあるいは無意識に隠したまま語り続ける居心地の悪さ、気持ちの悪さがいかんなく発揮されている。

熟読すると面白いが、何があったかは作中では基本的には明確に語られているのもいい。

かつてはほのかな思いを寄せていた同僚であった女中からも、今となっては過去の人とみなされており、最後自分人生って何だったんだという悔恨にさいなまれるシーンは最高だ。

かつての美しいイギリス風土と、失われた執事美徳悪徳について。感情に蓋をしがちで、行動原理自分の「したいこと」ではなく「なさなければならないこと」になっているひとにおすすめしたい。面白かったので英国メイド執事の本を何冊か読んだ。

遠い山なみの光」(1982)

長崎出身現在イギリスの片田舎に住む悦子(語り手)の所へ娘のニキがロンドンから訪ねてくるところから始まる。ニキが言及する悦子の生涯を、ニキからのまた聞きや、写真の印象だけから詩にしようとする詩人が出てくるのだけれども、なんだか作者自身創作する自分のことを批判的に見ている姿が透けてみえる。全体として、シングルマザーとしての苦しみが複数語られている。

これは褒め言葉としていうのだけれど、読んでいてずっと不穏な感覚をぬぐうことができず、いいようのない気持ちの悪さがある。たぶんその正体は登場人物の会話が互いの自己主張に終わっていて、基本的相手の話を全然聞いていないところにあるのだろう。会話の形をしているのに、対話になっていない。むしろ並行する独白だ。映画脚本のお手本的でもある。

最初のうちは、この違和感終戦直後日本人ならこんなあからさまな会話なんてしないだろうからにも思われた。しかし、明治文豪の名作だって、会話が人工的であることも少なくはない。ただ、この作品ほどのひどい噛み合わなさはまれな気がする。少なくともあちらでは噛み合わせようという努力はしている。

台詞説明したり議論したりする手法は、大抵は粗削りというか不器用な印象を与えるので好まないのだが、この場合コミュニケーション不全というか、相互理解の失敗の雰囲気をよく伝えていて、効果的だった。

浮世の画家」(1986)

情けないかつての画家の話。老い第一線を退いた後も、自分はまだ影響力があると思いこんではいたが、世間自分存在などすっかり忘れている。自分のしてきたことなど、大したことではなかったのではないか、それどころか完全な誤りだったのでは。歴史によってそう裁かれることに怯えている。老人にとって、今までのお前の人生は何だったのか、と問うことほど残酷なことはあるまい。

そのくせ、隠しようのない自己満足防衛がどこまでも続いており、かつては地位のあった老人はどこまでのその虚飾から自由になれない。計算したうえでのことかどうかわからないが、この翻訳日本経済新聞の「私の履歴書」の文体そっくりだと思ってしまうのは、私のやっかみであろうか。

やはりカズオ・イシグロ真骨頂は情けのない自己弁護にある。

充たされざる者」(1995)

よく、入り組んだ官僚機構カフカ的というけれども、どっちかといえばこの作品みたいなのがカフカ的な気がする。過去というか記憶曖昧で、自分そもそも何をしたいのかわからず、その場の判断だけで物語全体が動いており、映画なんかでは必須の究極の目的・ゴールも曖昧だ。「夜想曲集」所収の旅する芸術家あるある話がベースになった作品と同じにおいがする(この短篇集は切り口の優れた良き英国短編集といった趣だ)。

すべての事件が宙ぶらりんのままにされて進み、星新一ショートショートでその場限りの対応しかしない軽薄な男を主役としたこんな作品があった覚えがあったことを思い出したが、読んだときにはどうしてもタイトルが思い出せなかった。それは結局「未来そっぷ」に収録された「熱中」であるとわかるんだが、一番満たされていないのはきっと読者だ。

カズオ・イシグロテーマひとつコミュニケーション不全が前面に出ているだけでなく、筒井康隆虚人たち」を思わせるような、自分が何者であるかわかっていないのにさほど気にしていない空疎さがあり、何かを風刺しただけではないのだろうが、それはまだ読み取れず。

奇妙だ。自分他人記憶の壁が溶けて無くなってしまったみたいな語りであり、語り手は身内だと感じるとちょっとしたことですぐに激昂したりすすり泣いたりして、いったいどういう人物なのかとらえどころがない。すべてが宙づりで半端なまま物語が終わる。語り手はどの街を訪れても、延々と同じことを繰り返すのだろうか。

わたしたちが孤児だったころ」(2000)

両親に置いていかれたのはなぜか、そして母はどこに行ったのか。著者の中では一番残酷な話かもしれない。物理的な暴力よりもその結末が。地獄の寝取らせ小説であり、真理に近づこうとして全員が不幸になる。それでも、なお、愛そうと試みたし、愛されてはいたのだ。

息子が親父と同じ道ならぬ愛という過ちを犯しかけるのは残酷ユーモアがあふれているようでいて、ある種の試練であったのだろう。試練に打ち勝ったからと言って直接幸福になるわけではないのが皮肉でいい。

追記】目の前に日本軍軍艦が停泊してるのにのんきにパーティーしている租界の人々って嫌なリアリティがあった。

忘れられた巨人」(2015)

忘却テーマだが、P・K・ディックのようにアイデンティティ曖昧になっていく離人感よりも倫理的な面を問うているようだ。つまり戦争責任とか政治的意図的隠蔽とか。

国家組織的に目を背ける行為と、個人がつらい過去を忘れることによって救われることの両方が描かれている。ファンタジーもある程度は書けるのがすごい一方で、見たくないものを見ようとしない描写や、自分のことばかりで会話が成り立たない場面は健在。

ファンタジーにしては「危険度」とか「スタミナ」の訳文がちょっといかなとも思ったけれども(別に嫌だと感じるレベルではない)、これは現代日本語としては普通に受け入れられてるのかな。

あと、サクソン人の穴を掘った(ホビットみたいな)家の描写があるんだけれど、これって実際にそうだったのかな? サクソン人の家とググっても出てこなかった。

ちなみにル・グインはこの作品を好まないらしく、ウィキペディアには両者の対話引用されている。

のしようとしたことには敬意を払いますが、私には効き目がありませんでした。うまくいくはずがありません。どの作家文学ジャンルの表層だけをうまく使えません。その深みはなおさらです。そのジャンルと同一化することを恐れるほど軽蔑している限りは。読んでいて痛ましく感じられました。まるで、高いロープから落下しながら聴衆にこんな風に叫んでいるみたいでした。「私は綱渡り芸人と呼んでもらえるのかな?」と。

ル・グインには私の本が好きか嫌いかを決める資格がありますが、私に関する限りは誤ったほうの肩を持っているようです。私は(註:作中では不可解で不気味な存在として現れた)妖精や竜の側に立っています

シグロ氏のご意見をうかがえてうれしく思います。同氏の「私の作品ファンタジーだと人々は思うでしょうか?」という質問に対する、私の明らかな早急な返答に傷つけるような内容があったことをお詫びします。

クララとお日さま」(2021)

人工知能太陽光病気回復させる効果があると思い込むことで起きる珍妙な話だ。

どう考えても不合理で奇妙な信念に従い、偶然によって祈りが叶えられる話で、しか最後はただゴミ捨て場で朽ちていく。これは無神論者による宗教パロディではないか? と勘ぐってしまう。無神論者からすれば、いかなるかたちであれ神を信じる人々は、誤った信念にすがり、存在しない相手効果のない祈りをささげる哀れな人々だ。

カズオ・イシグロSFは、SF主食人間からすると、不合理か古い知識に基づくように感じられる設定が多く感動すべきシーンもそこが気になってしまう。

たとえば、明らかに危険能力向上処置子どもにするような社会は、現代から相当な価値観の変遷があったはずだし、かなりの時間を経ていないと起こりえないだろうが、長い時間経過に伴うテクノロジーの発達については述べられていない。スマホさえ出てこない。

カズオ・イシグロSF設定がときどきザルなのはリアリティレベル小説よりSF風の映画テレビドラマくらいにまで下げていて(下手をすれば寓話絵本レベルまで)、それは脚本家でもあったからなんじゃないかって考えたんだけど、そこまでたくさん脚本を書いていたかまではわからなかった。

かに技術的細部に立ち入らないので古くなりにくい一方で、そこが物足りなく感じられる。新しい技術だけをポンと現代に放り込んだ感じで、今と地続きな感じがして生活感があるのはいいけれど、技術によって完全に変容してしまった人類の心性がもっと欲しいと感じる。未来を描く意味はそこにあるんじゃないだろうか。

だいたい、フレーム問題解決というか一般常識インストールされてないスタンドアローン親友ロボットなんて危険すぎるだろう。誰もアップデートされないスマホなんて使っていない。SFはどこまでリアリティのある技術を出すべきかという問題もないではないが、短編ならともかく長編でこのネタをこれをやるのは、平均的理系知識を持つ読者にとってはかなりしんどい

結論

以上。読んだ順。

私が好きなのはカズオ・イシグロではなく「日の名残り」だった。

追記

わたしを離さないで」だけ既読、似た感想。この小説SFというより寓話に近いと思う(増田も書いてた)。ドナー人権周りの描写も臓器を貰う側の葛藤も削ぎ落とし、搾取される者の命の輝きのみに焦点を絞ってる感じ

こちらのブコメがとても素敵だったので引用させていただきました。不都合がありましたらお知らせください。

2021-07-20

anond:20210718121157

ちゃんぽんの麺は蒸した麺というのを後で知ったんだけど、

蒸した麺をまた煮込んでいるからなのか、ぼそぼそして不味いよね。

リンガーハットちゃんぽん長崎出身の人が美味しいって言ってたと、

いたことが有るから、きっとそうなんだと思うんだけど、

俺はどうも好きになれない。

慣れ親しんだものが違うからなのかなあ。

何処かでほんとに美味しいと思えるようなちゃんぽんを食べてみたい。

でも本物がどういうものなのか分からいから無理なのかなぁ。

2021-03-14

皿うどんの麺が太すぎる

歯が欠けたという給食皿うどんの事だ。

適当に書いていたら長くなりすぎたので冒頭にまとめを書いておく

皿うどんにしては麺が太すぎる。揚げて調理するには向かない太さだ。

・長時間揚げれば麺はかなり硬くなる。見た目で区別するのは困難と思わわれるので食べた児童教員に落ち度はない。

埼玉学校皿うどん給食提供するのは無謀だったのではないか

長崎人の俺の感覚では揚げた皿うどんの麺とは細麺であり、皿うどんの細麺(通称パリパリ麺、炒麺チャーメン)とも呼ぶ)は素麺の様に細い代物だ。

朝日新聞記事写真を見たが、明らかに麺が太すぎる。

これは普通中華麺じゃないか

この太さだったら長崎でいう太麺(ちゃんぽん麺)の様に、揚げるのではなく炒めて調理すべき太さだ。

おそらく手間を減らす為に短時間だけ揚げて、炒めた麺と同じ様な食感にするという行程だったのだろうとは思う。

だが揚げるという調理法は意外に繊細なものだ。

一度に大量に揚げようとすると大抵温度が下がってしまう。

こういう時に温度が下がったので加熱して挽回しようとすると、油が適温になるまでに時間がかかってしまう。

まりトータルでの揚げ時間が長くなってしまうのだ。

実際、その朝日新聞記事によるとそれに近い状況だった様だ。

揚げるという調理法は端的に言えば、加熱した油を利用して食材から水分を抜き取る調理法だ。

加熱時間が長ければ長いほど食材からはそれだけ水分が失われていく事になる。

切ったじゃがいもを高温で短時間揚げればフライドポテト、低温から揚げ始めて少しずつ加熱しつつ長時間揚げれば堅ポテトフライドポテトという事だ。

ポテト風のフライドポテトならさほど問題ないだろうが、中華麺の様な食材場合かん水でコシが強くなっている事もあって非常に硬くなる。

なんで分かるかというと一度ちゃんぽん麺を揚げてうっかりカチカチにしてしまった経験があるからだ。

ワイヤーみたいな硬さと弾力になってしまい、とても食えたものではなかった(スープでふやかして無理やり食ったが)。

しかもパッと見た限りでは普段提供されている麺と区別がつかない可能性が高い。

焦げたりしていたならすぐ分かるだろうが揚げる温度を極端に高くしていない限り、色などは普段とさほど変わらなかったと思われる。

皿うどん野菜などもたっぷり入った餡がかかるので、余計に見た目では気づきにくかっただろう。

「見て気づかなかったのか?」「児童教員も不注意だった」といったニュアンスブコメがあったが、児童教員が食べる前に気づくのは難しかったと思う。

例えがローカルネタ申し訳ないが、よりより(麻花兒)を目隠した状態クッキーだと言われて噛み砕こうとしたような状況だったのだろう。

そりゃあ歯が欠けてもおかしくないし、そんなものを食わされた児童教員はただただ不幸だった。

児童にとっては給食や餡をかける麺料理トラウマになってもおかしくない出来事なので、そういった面のケアもしっかりやって欲しいと思う。

そもそもなぜ埼玉学校給食皿うどんを出す必要があったのか? という点も疑問が残る。

これが長崎だったら分かるのだ。

パリパリ麺がその辺のスーパーに行けば売ってあるくらいなので、業者発注すれば給食必要な量の麺も容易く(そして価格比較的安く)確保できるだろう。

郷土料理なので食育がどうたらといった経緯で提供してもおかしくはない。

しかし件の小学校埼玉学校である

長崎の様にパリパリ麺を購入して済ませるという訳にはいかなかったのだろう。

なので調理担当者自分達の手で麺を揚げなければならなかった。

そして朝日新聞記事を読むに、どうも調理担当者は大量に麺を揚げる際に起こり得る状況(油の温度低下、長時間加熱による麺の硬化など)を想定していなかった様に思える。

この給食での皿うどん提供は見切り発車に近いものだったのではないか? という気がしてならないのだ。

おそらく試作品の段階では問題なかったのだろう。

しかし試作品の段階では少量の麺を揚げただけであり、大鍋やフライヤーで大量の麺を揚げた経験ほとんど無かった、或いは皆無だったのではないだろうか。

長崎ではメニューに困った時のお手軽料理というポジションでもある皿うどんだが、それはごく一般的パリパリ麺が市販されているからこそだ。

残り野菜豚肉などの食材適当に炒めて水溶き片栗粉でとろみをつけたら、パリパリ麺にぶっかけるだけなのでかなり楽なメニューなのだ

これが自分で麺を揚げなければならないのであれば、そんな手間のかかる料理を頻繁に作るはずがない。

長崎中華料理だって自分の店でパリパリ麺を揚げる店は少数派で、基本的には製麺から仕入れた物を使っている。

企画した人間長崎出身みたいな事情があるのか、単に給食に飽きがこないよう変化をつける必要があったのかは分からない。

しかリンガーハットの協力でもあるならともかく、埼玉で、さらには予算に制約もある給食皿うどん提供するのはかなり無謀だったのではないだろうか。

2021-02-09

上京した人に興味を失う

私は地方出身東京在住のアラサー女だ。

Twitterで、写真家ライターフォローして、その呟きを見るのが好きだ。

特に地方在住の人が好きだ。

夫の転勤に合わせて上京したけれど、地方が好きだった。だから、そういうところで頑張っている人が好きだ。

地方の海、山、飲食店

ここで人が暮らしているという実感が持てる写真文章がすごく好きだ。

ほとんどの人は地元や、地元の近くの地域暮らしている。(長崎出身の人が福岡、とか)

でも、そういう人の多くは、仕事軌道に乗ると上京してしまう。

フォロワー100人だった時は、地元のことを楽しそうにつぶやいていたのに、フォロワー1000人を超えたらnote上京宣言をする。

位置情報が、長崎大阪東京かになる。

そして東京の街の中に消えていく。気がする。

地方に住み、そこで血の通った文章を書いていた人が、東京で誰でもかけるような文章を書くようになる。

(それなのに、「心は長崎のままです!」といった地元大切アピールをする人もいる。)

去年バズった、日本全国の市町村全てを回った大学生岡山県出身広島県大学に通っていた。

今ひさしぶりに見たら、上京したらしい。

それを知った途端、色褪せてしまったような気がした。

まれも育ちも東京写真家ライターはそれはそれで好きだ。

でも、地方出身者のクリエイターにだけこういう感情を抱いてしまう。

東京はいいところだと思う。便利だし、このまま住み続けても不都合はない。

特に文化資本が充実している。

会社もたくさんある。写真を撮る人、文章を書く人にとっては都合がいい。

そして仲間もたくさんいる。

地方で一人でタウン誌仕事やってるより、ずっと刺激的なのかもしれない。

でも、「この人は、地元より、やはり東京という華やかな街を選んだんだな」と思うと、急に興味がなくなる。

フォローを外して久々にリツイートで見かけると、誰でも書ける文章、誰でも撮れる写真になっている。

(上京してから地元のこういうところが嫌いだった」と言う人には納得するが。)

地方には、こういう人がずっといたいと思う魅力がないのか。そこで生きている人がたくさんいるのに。

多分、私自身が地元をあっさり離れた人間から、同じような人間に思うだけなんだろうけど。

同族嫌悪だな。

2018-08-03

anond:20180803165102

長崎出身で親戚にも普通に被爆者がいるけれど、ICBM addressというhacker slangにそんなに抵抗感無いなぁ。

動詞としてnukeを使うのもそんなに嫌じゃ無い私はもっと平和教育されるべきだったんだろうか。

2017-09-30

埼玉バーガーは泥が乗っているようにしか見えない

...という埼玉ディス。

モスバーガーご当地対決企画(埼玉vs長崎)のチラシを見た長崎出身の妻が、「長崎トルコライスでおいしそうだね。埼玉は泥がのっているのかなwww」と埼玉をディスっていた。

でも、埼玉バーガーは何をイメージしているんだろう、教えてエロい人。

2015-06-15

ちゃんぽん

今日ちょっと元気無いからごはんちゃんぽんか太麺の皿うどんが食べたいです。

今日ちょっと元気のなかけん、夜ごはんちゃんぽんか太麺の皿うどんの食べたかとさねえ)

もし、冷凍食品などでおすすめとかあったら教えてください。

長崎出身の方でなくても、ぜひ教えてください。

冷凍食品とかでなんかおすすめのあったら教えてくんしゃい

長崎んひとじゃなくてもぜんぜん良かけん)

私はちゃんぽん 皿うどん原理主義者ではないので、

皆さんが美味しいと思われるものでしたら、

積極的に試してみたいです。

(そがんうるさかほうじゃなかけん、なんでん食べてみたかとさね)

ちなみに細麺の皿うどんが食べたいと思うことはあまりありません。

(そいけどね、あんまり細麺は好かんとよ)

少しでもご意見がいただけたら、とても嬉しいです。

宜しくお願いいたします。

(なんでも教えてもらえたら嬉しか〜)

2015-02-22

一番良かったのは明治初期だよ

大審院歴代院長

歴代院長[編集]代 氏名 就任日 出身校及び備考

1 玉乃世履 1875年明治8年)5月12日 岩国藩代理

2 玉乃世履 1878年明治11年)9月13日

3 岸良兼養 1879年明治12年)10月25日 薩摩藩

4 玉乃世履 1881年明治14年)7月27日

5 尾崎忠治 1886年明治19年)8月12日 土佐藩

6 西成1890年明治23年)8月21日 府中藩

7 南部甕男 1891年明治24年)4月8日 土佐藩、院長心得

8 児島惟謙 1891年明治24年)5月6日 宇和島藩

9 名村泰蔵 1892年明治25年)8月24日 長崎出身、院長心得

10 三好退蔵 1893年明治26年)3月3日 慶應義塾

11 南部甕男 1896年明治29年)10月7日

12 横田国臣 1906年明治39年)7月3日 慶應義塾

13 富谷太郎 1921年大正10年)6月13日 司法省法学

14 平沼騏一郎 1921年大正10年)10月5日 帝国大学法科大学

15 横田秀雄 1923年大正12年)9月6日 帝国大学法科大学

16 牧野菊之助 1927年昭和2年)8月19日 帝国大学法科大学

17 和仁貞吉 1931年昭和6年)12月21日 帝国大学法科大学

18 林頼三郎 1935年昭和10年)5月13日 東京法学

19 池田二郎 1936年昭和11年)3月13日 東京帝国大学

20 泉二新熊 1939年昭和14年)2月15日 東京帝国大学

21 長島1941年昭和16年)1月31日 東京帝国大学

22 霜山精一 1944年昭和19年)9月15日 東京帝国大学

23 細野長良 1946年昭和21年2月8日 京都帝国大学

2007-05-03

Re: 気になる若者言葉

ええっ、「舌を動かすのをできるだけさぼっているような感じ」だからという理由でよい気持ちがしないの? それはおかしいよ。

たとえば僕は長崎出身なのだけれど、「れ」を「い」に置き換える方言の特性があって、「俺」を「おい」、「これ」を「こい」などと言っているうちに、ラ行が上手く発音できなくなってしまった。今は東京に住んでるけど頻繁に噛むし、なかなか直らないし、同じく長崎出身東京在住も「俺は慣れたけど決して言いやすくは無い」と言ってる。もしも「れ」を「い」に置き換えることが大阪弁並みに東京市民権を得ているんだったら、僕は迷わず言いやすい方言の方を選ぶよ。あと、長崎も含めてあまり発展していない地方では関東の喋り方を「すかした喋り」としてあまり快く思わない場合すら少なくないんだけど、だからといって関東人間がそういった地方に出向いた時に、本人にとっては舌の疲れる地方の喋りにわざわざ合わせることはしないでしょ。少なくとも表向き失礼にはならない程度に受け入れられていることがわかっている、自分にとって最も舌が疲れない関東の喋り方で話すはずだ。

状況に応じてその場で受け入れられる喋り方があって、その中から最も舌の疲れない言葉を使うのであれば、それに何の問題があるのかな。

そんなことより、言葉を取捨選択して会話をしていく中で、最も思考をする必要が無い刺激的でわかりやすい言葉ばかりを何度も何度も使いまわしてしまうことにこそ僕は疑問を感じる。君の挙げた言葉は、僕が見る限りは「あまり考えなくていい言葉」だ。確かに舌を動かすのをさぼっているかも知れないけどそういう理由で言葉を選ぶことは既に書いたように自然なことだし、それに「あまり考えなくていい言葉」の中には舌が疲れるものだって沢山ある。恐らく若者にとっては、多少舌がさぼれるとか疲れるとかそんなことより、思考を止めることの方が重要なはずだ。周囲に迎合するために同じ言葉を選択し、何度も刺激を味わうためにその言葉を繰り返す。自己を持たない若者はそうやって生きている。これこそが本当の問題なんじゃないかな。

繰り返すけど、舌がどうこうなんてのはその場で反発が発露するようなことでなければどうでもいいんだよ。

方言一般化の実例

anond:20070503041240

  • ――さ(「だ」と「だよ」の間くらいの表現?) 「これ? 漫画本さ」(気障表現の「さ」と違って下がり気味に発音)
    • 応用系?:――さね(「だね」?)

これも長崎で使う言葉だなあ。おとなりの佐賀は「さね」は使っても「さ」は使わないので、長崎人間が「さ」と言う時はまるで東京弁田舎から見たら方言なんだよ)の気障表現による「さ」のように聞こえて違和感を覚える、と言われたことがある。ちなみに長崎弁の「さね」は「さ↓ね↓」であって、別の地方のものと思われる「さ↑ね↓」とは発音が違う。そっちは群馬弁だと思われる。「さ」は書いてある通り下がり気味の発音。

ついでに他のも調べてみた

  • ――しょや?(微妙に確定的な確認とか) 「これでしょや?」
  • ――だべさ(「だよ」の強勢) 「カップ麺だべさー」

共に北海道弁だと思われる。

  • ――やよ(「だよ」と同じ? 関西弁由来?) 「そうなんやよ」

石川弁だと思われる。

  • めっさ

三重弁、もしくは宗像弁だと思われる。宗像弁って何だよ。

 
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