はてなキーワード: 過呼吸とは
さほどひどいいじめではない。たぶん大して理由もない。相手の虫の居所が良くないときにちょっと無視されたり、部活で叱咤激励の皮を被った罵倒を浴びせられたり。その程度だ。世の中にはもっとひどい目に遭っている人がたくさんいる。
しかしそのいじめは、当時の私にとっては世界に否定されたと同義であった。だって、私にはそのコミュニティにしか居場所がなかったのだ。なのに、そこからはじき出される。いらない、死ねと言われているんだと思った。
結果として、私は部活で使う体育館に足を踏み入れるだけで過呼吸を起こすようになったし、人と関わることが怖くなった。それは中学を卒業してからもずっと続いた。特に、高校生活は灰色だ。保健室で、口にハンカチを当ててゼーゼーヒーヒーいっていた記憶しかない。
自分は誰からも嫌われる、この世にいらない人間なのだと思った。その気持ちは大学生になっても、社会人になっても、ずーっと消えなかった。
社会人になって、すぐの頃。仕事がうまくこなせなくて、同期や先輩とのコミュニケーションも上手にできなくて、私は自己否定がやめられなくなった。過呼吸を通り越して不眠症になり、やがて抑うつといわれる状態になってしまった。
入ったばかりの会社を休職した。人生ではじめて心療内科に通った。さほど医者に助けられたとは思えないけれど、とにかくいろんなことを考えた。
私の人生にはなんの希望もない。親ですら私を見て、こんなに困っている。苦しい思いをして生きるくらいならもう死にたい。どうせ誰にも求められていない。
はじめは、そんな感じ。だけどだんだん、私は腹が立ってきた。自分にではない。世界のほうに、だ。
私をこんな風に生んだ親が憎い。私をこんな風に育てた親類や先生が憎い。私をいじめた奴らなんか特に憎い。死んでしまえと思う。私の人生がめちゃくちゃになってしまったのは私のせいじゃない。好きでこんな風になったんじゃない。世界が悪い。世界が、世界が、世界が……。
ああ私はずっと怒っていたのだな、と、正常ではない頭で薄ぼんやりと思った。考えてみればいじめなんて、いじめられている側からすればひどく理不尽な理由で起こるものだ。どういうわけか私はその理不尽に、無理やり理由をつけて自分を納得させ、怒りを抑え込んでいたらしい。タンブラーにそのときの気持ちを書き殴っている。読み返すとあまりにも憎しみがむき出しで、気分が悪くなる。でも、それほどまでに怒っていたのだ。そしてそれに気づかずにこれまで生きてきた。病気になるわけである。
散々怒って泣いて、一ヶ月後、私はひとまず正常に戻った。
そのあとも何度か危うい橋を渡り、薬でどうこうするだけでは根本的な解決にはならないと思い至り、現在はカウンセリングに通っている。
いままで書いてきたような話を洗いざらい聞いてもらって、なんだかずいぶんと楽になった。こんがらがった感情を解いていく中で思うのは、私はやっぱり怒っていて、多分一生怒り、憎み続けるのだろうなということである。
それも、いいんだよ、と先生は言った。許せないことは許せないことでいいんだよ、と。私にはそれが正しいアドバイスなのかどうかが分からない。全部許せるのが本当はいちばんいいんじゃないかと思う。
でも、許さない。
タイトルが全てです。
おとなしく従おうと思います。
以下はただの感情を宥めるための吐き出しです。
疲れて頭が回らないので推敲などはしていません。
再読すらしていない書きっぱなしなので読みづらいです。
キチガイの勘違いや被害妄想がたくさん含まれているので真に受けないでください。
1.経過
父は素面のときは過保護なだけの良い父親でしたが、酒を飲むと意味もなく独り言で暴言を吐き、大きな音を立てて扉を閉めるような人でした。
また、私は発達障害者なので、私のコミュニケーション能力などに原因があったのかもしれません。
しかし、小学生の頃には担任に発達障害を疑われていたので、当時から難有りの子供だったのだと思います)
変わったところはある家庭ですが、毒親とか虐待とかまではいかない微妙なラインだと自己認識しています。
(※母に、子供は日本語が通じなくて怖いから幼少期はネグレクトしていたと近年告白されましたが、単にほったらかして一人で遊ばせていた程度のことだと捉えています。
私の世話は父が主にしていたようなうっすらとした記憶はあります)
(※家族親戚一同からは地元就職を暗に望まれていましたが、運良く東京配属に滑り込めました。)
就職直後は実家から解放された喜びもあり、調子が良かったのですが(躁転なので本当は良くない)、
生来の不安性や情緒不安定さ、発達障害などのためか、次第に生活や業務に困難を抱えるようになりました。
一時期、プレッシャーの大きく、長時間労働を伴う業務に付いたこともあり、
それがとどめとなってか、
結果として最終的には重度の鬱状態に陥りました。
診断は双極性障害の2型です。
上手くコントロールできなくなりました。
復職と失敗を繰り返した結果、
現在は会社の方から1年以上の長期の休職命令がおりたところです。
2.実家の現状
私が上京する少し前に、母は精神疾患により長期の入院となりました。
なお、この時に初めて私は母が学生時代から精神を患っており、独身時代に入院歴もあったことを知りました。
それまではずっと、母に癇癪を起こさせるのは私がキチガイだからなのだと信じていました。
(※母の疾患に関する詳細は省きます)
父は、平時は非常に優秀且つ良き父親でしたが、先述した様に、些か酒癖が悪いです。
般若面のような顔をして暴言を吐く父と二人で食事をするのは、正直少ししんどかったです。
また、無自覚ながらも高圧的なところが有りました。
彼の過保護さは抑圧と表裏一体でした。
(部活で帰りが遅くなったからって、酔った父から数分間暴力を受けたこともありましたが、いつ思い出してもちょっとよく意味が分かりません)
(そもそも何故か私は部活動自体が禁じられていましたが、流れとゴリ押しで入部しました。部活動はとても楽しかったです)
我が家では、父>母>私という明確なヒエラルキーがありました。
(遅くなりましたが、私は一人っ子です)
ただし、ストレスの発散方向は、
父→母→私で固定されていたので、
直接父からストレスの発散としての不機嫌さを向けられたことは少ないです。
もっとも、父の不機嫌さを受けることにより母のヒステリーは悪化したため、
そのヒステリーを受ける私の精神的ダメージは結局増大するのですが。
また、父はもともと精神疾患者を迷惑がり、下に見ているところがありました。
(なんで母と結婚したんだ?)
私が帰省したとき、父は明らかに母に精神的DVを振るっていました。
正直ドン引きしましたが、当時の私にはそれを真剣に諌める元気はなく、
(そもそも、あの人たちと真面目に会話しようとすると、平静を保っていられなくて怖くて、迂闊に行動できませんでした。
この頃にはもう、彼らの顔を見たり声を聞くだけでつらく、真顔を取り繕うのも厳しかったです)
現在も母の病状は芳しくなく、父の酒癖やDVもそのままだと思います。
入社直前に起きた母の入院に伴う様々なトラブルに起因する、過去最悪の鬱転の反動です。
あの三ヶ月間の私は、道を歩いているだけで唐突に泣き出すような奇人でした。
3.懸念事項
下記は、私が戻らなければならないことを前提として記します。
もっとも、父がそういうあらすじを書いた以上、ヒエラルキー下位の私は逆らえないのですが。
まず、精神疾患者を下に見ており、なおかつ精神疾患者にうんざりしている父の元に精神疾患者の私が戻ることで、
父は私には甘いのですが、それでもいずれ我慢の限界は来るでしょう。
次に、母の入院によって、父のストレスの発散先が私になる可能性があります。
正直この数年の母の精神疾患は、母のストレスの発散先である私の不在に加え、父からのDVによって悪化しているのではないかと私は考えております。
しかし、私が実家に戻ることで、おそらく日常の細やかなストレス解消は私の役割となるでしょう。
ただでさえ日常生活も厳しいような状態の私が、父のストレス発散対象に選ばれることでどうなるのか、考えたくもありません。
療養は諦めて、修行と思って己を鍛えて克服するしかないでしょう。
再び家を出るにはなんとしてでも私の精神疾患を治さなくてはいけないため、
無理してでも治ってしまったら雨降って地固まるですね。
3つ目に、母と日常的に接触しなければならないことが挙げられます。
私は主に母のストレス解消の役割を担っていたため、父よりも母と接触するほうが情緒不安定になりやすいです。
また、私は自分を母と似たような人間であると考えているため、母を見ていると私を見ているようで非常におぞましい気持ちになり、自己嫌悪で居た堪れなくなります。
父と会う場合にはその場はとりあえず我慢して、その後自室やトイレなどに籠もってから涙を流して受け流しますが、
母と会う場合にはそこまでの我慢もできず、その場で発作を起こしてしまうこともありました。
(なんで理由もないのに涙が止まらなくなるんでしょうか。正直、止めたくても止まってくれなくて非常に不便です)
あとなんか他にも色々あった気がするけど忘れました。
雑多なところで言えば
・今の主治医とかかりつけ薬局を信頼しているため、転院に不安がある
などがあります。
全体的に、今の私には言う権利もないような我儘ばかりですね。
ここまで書き殴ったら少し気分が晴れました。
先程、父と2時間くらい会話した結果、
5時間くらい泣いたり過呼吸したりを繰り返して収集がつかなかったので、
文章に吐き出せて良かったです。
肉体は疲れ果てました。
パニック発作がここまで悪化してるとは思わなかったので、今までこの症状に関して主治医に相談したことはありません。
流石にこの状態では色々と怖いので、主治医に頓服の精神安定剤など服用できないか聞いてみたいと思います。
主治医には実家に帰ること自体、避けたほうが懸命だと言われましたが……。
お金がないのは仕方がない。
カウンセリングとかで解決しないかな、と思って提案してみましたが、
・カウンセリングできる病状ではない
・傷を掘り起こすことで悪化する
のでやんわりと断られました。詰んでる。
実は以前に2回、父との通話中に我慢できずに泣いたことがありますが、
父は、私が父を恋しくて泣いてると勘違いしてくれたので丸く納まりました。
私は父が怖いです。
しばらく前に、母の蔵書の目立つところに
『「子供を殺してください」 という親たち』
が置かれていましたが、これが母によるなにかの意思表示、嫌味でないことを願うばかりです。
余談ですが、この話の最大の被害者は父です。
娘もどうなるか分からないと言うこの状況は流石に申し訳ないです。
私の将来の夢は、
解放されたあとはできる限り人に迷惑をかけないように一人で老いて死ぬことでしたが、
それも果たせそうにありません。
(ここで書かなくても良い父の身体のことを書くのは、
最後に。
初めて生活が少し楽しくなりました。
初めて泣かない日ができました。
挨拶をしてもしなくてもランダムで罵倒されることがないのは、とても快適でした。
残業帰りに近所のコンビニで買って歩きながら齧ったカロリーメイトも、美味しかったです。
東京、趣味に関するショップやイベント、コミュニティが豊富だし、
社会に馴染めない変わり者にも寛容なコミュニティが多く、居心地が良かったです。
私の様子を見ておすすめの心療内科をこっそり教えてくれるような友人、地元で巡り合うのは難しかったでしょう。
もしも今地元で、あるいは実家で息苦しい人がいて、万が一この部分だけでも読むことがあったら、
家を出る、都会に出るという選択肢があることに気づいてほしいです。
手遅れになってからでは遅いので、一刻も早く決断してください。
都会、楽しいです。
主旨も何もないメチャクチャな駄文を吐いてしまって申し訳ありません。
以上、乱文失礼いたしました。
追記(1223-1910)
誤解を産んでしまったならごめんなさい。
証明する方法がないのですが、黙っておくのも申し訳ないので、一応宣言だけしておきます。
彼氏や旦那がどうこうと言う文章をかけるような想像力はありません。
小学生の頃よく吐いてしまい、親に迎えに来てもらうことなんて当たり前で、点滴を打った回数も覚えきれないほどだった。
中学生の頃に過敏性腸症候群で何時も無自覚にオナラをしてしまい、クラスメイトに遠巻きにされた。ファブリーズをかけられたこともある。
緊張するとお腹が痛くなり、運動神経がない(バレーのレシーブもできないレベルで)から体育が憂鬱で緊張するものになって、結果お腹が痛くなる。見学になったり保健室で休んだり。体育の先生には嫌われていたと思う。
3年生になると受験のストレスで体調を崩してしまった。自律神経がおかしくなった。3学期にはほぼ毎日早退。過呼吸をよく起こし、授業も受けられず先生には心配された。数少ない友達にも焦りから辛辣にあたってしまい、遊びに誘われることもなくなった。
受験は倍率2倍の高校に入学でき、さて新生活だと意気込んでいたけれど、膨大な課題につき寝るのは12時、7時からの朝学ための5時起き、満員電車のストレスのコンボで5月に意識を失ってしまった。救急車で運ばれ、一体何が原因なのかと色々質問されたが結局はなにもわからなかった。親に心療内科に連れて行ってもらったけど、何もわからず。その1年はただ眠って過ごした。次の年になったら復学できるように祈ることしかできなかった。
結果から言うと、復学はできなかった。それどころか体調はもっと悪化した。体がそわそわと落ち着かず、ずっと吐いていたし、海にいけと何度も何度も幻聴が聞こえた。行ったけど何もなかったが。
そして1番最悪だったのは夜中に外に出ることだった。記憶にはないけれど、親によると雨の日の深夜2時に大きな通りの1歩手前でぼうと立っていたらしい。もしかしたら車に轢かれていたのかもしれないと思うと今でもぞっとする。
これはさすがにおかしいと心療内科の先生に相談、即日保護入院が決まった。一応と頭のレントゲンを撮って、肉体的な病気ではないと診断される。
最初はずっとトイレで吐いて、歩き回らないと足が死んでしまいそうで、心臓が嫌に跳ねていた。落ち着きがなく、貰えないとは分かっていたけれど(一日2回4時間あけての薬だから)ナースステーションで何度も薬を強請った。
あとご飯が美味しくない。高齢者が多いから納得ではあるのだが、若い私はもっと洋食を出して欲しかった。しかも量が多くて食べ切れない。残したら食べた方がいいよと言われ、口に詰め込んだがすぐにトイレで吐いてしまった。
夜寝る頃になると相部屋の人がボソボソと呟き出す。お母さんごめんなさい、とか、なんでそんなことせないかんと、とか、あんたらが悪いから私はこうなったんだ、とか恨みつらみを一通り呟いて泣いていた。私は眠れなかった。
そんな生活にようやく慣れたのたとき仲良くなったのは自傷癖のある人(今後Aさんとする)と二重人格の人(今後Bさんとする)。どちらもいい人なんだけどBさんは被害妄想が酷く卑屈だった。
お見舞いに来た私の父(初対面)に突然「生きててごめんなさい」って言ったぐらい卑屈。3人で話している時に「私その話苦手なんでやめてくれませんか」とか言ってくるしAさんと話してたところ入ってきて「私の悪口ですよねすみません」って言って勘弁してくれって思った。「私年下の子を見ると嫌悪を感じるんですよね」私もその時精神的に不安定だったからしんどくて。私も年上の方と話すの苦手です、ぐらいしか言えなかった。とある日、ふいに裏人格が現れた。どうやら主人格のお兄さんらしい。暇すぎて何往復もしていた短い廊下で呼び止められ「こいつお前の社交性があって素直な性格嫌いだから」って言われてそうなんだ…とちょっとだけ傷ついた。
1ヶ月経ったころ、人数の関係で病室移動。アルコール依存症かつ躁鬱病の人、統合失調症の人、夫に自殺をきっかけに鬱になってしまった人と相部屋になった。色々身の上話をし合って、色んな人がいるんだなあと思った。
「今日は眠れなかった」は挨拶みたいなもので、決して不健康アピールではないのだと知った。
いきなり叫び始めて八つ当たりし始めたおばあさん、食後お腹痛くなったらしくて看護師さんに「ご飯に毒を盛りましたよね」とか言ってる人などもいた。
私はパーキンソンの症状が出て体の震えが止まらなくて常に視線が上を向いて口から泡が出そうになった。夜になっても眠れない時に看護師さんに言ったら「我慢出来るならしてほしい。皆そうだから」って言われた。あいにく土日を挟んでいたので、その2日間はその状態が続いた。出勤してきた主治医に症状が辛いから何とかしてくれと頼んだら「えっ、なんで」との反応。パーキンソンの薬はちゃんと出すように言ってあるとのこと。「あー、薬が切れてるみたいですね…ナースセンターにっと言っときますね」っていう明らかに病院側の過失だった。
特に謝られることもなく薬は出された。飲んだら治ったから、まぁ、よしとしよう。
入院して3ヶ月目、高校はどうするかのはなしに。さすがにこれ以上留年するのは…と思い通信制高校を探し始めた。
退院間近になると外泊や外出で外からの刺激を受けて大丈夫かどうかのテストをした。そこで何も無ければOK。私はポケモンの映画を見に行った。
退院してからはなるべく刺激を受けないように、テレビや動画を見ないようにと忠告された。眠たくて眠たくて、昼も夜もひたすらに寝ていた。
すると指で広げないと目が開かないという状況に。眼科に行ったけど、ドライアイの薬しか貰えなかった。
通信制高校は登校が楽そうなところを選んだ。暫くはゆったりとそこに通っていた。しかし今年の2月、悪夢をよく見るようになった。人を殺す、人が死ぬ、自分が殺される、など。しかもどれもがリアルで起きた時に感覚が残っていた。首が痛かったり、虫が肌を這いずる感覚があったり。
小学4年生からの記憶がなくなっていたのだ。朝起きると難しい漢字が読めない。上手く計算もできない。けれど記憶をなくしたのは3週間程度だった。よかった。
記憶が戻った今も精神年齢は10歳な気がする。その頃から家族に、それこそ子供のように甘えるようになった。
それからはまた家でのんびりしたり登校したりしてゆったりと暮らしていた。開かない目のことが気がかりだったが。
しばらくすると6月になって、また幻聴が聞こえ始めた。今度はひたすらにしねしねしねと耳元で囁かれるような幻聴。
鬱が酷くなる。
それからは高い建物を見るとあそこから落ちたら死ぬかな、風呂に入ってるとここで寝たら溺れるのかな、睡眠導入剤をたくさん飲んだら眠るように息絶えるのかなとずっと死ぬパターンを妄想していた。
そこで現れたのはヒョウモントカゲモドキ。
ペットショップで一目惚れをした。元々爬虫類が大好きな私にとってその子はとても魅力的に感じた。親と相談して買ってもらい、毎日かごを眺めるようになった。すると生活が一変する。ヒョウモンに餌をあげるために、と義務感が湧いていたのか、今まで夜型だった生活から夜8時に寝て朝4時に起きるようになったのだ。毎日3食、十分な睡眠時間の確保など健康的な生活を送ることが出来た。
そうなると気になってくるのはやはり目が開かないこと。神経内科はどうだろうかと主治医に言われ、紹介状を書いてもらい行ってみた。結果は特に異常なし。それを主治医に報告すると、もしかしたら薬が悪いのかもしれない、とのこと。あまり主流じゃない副作用だから確信は持てないけれど、これ(薬の名前は忘れた)減らしますねと薬を出された。それから体調が悪くなった。吐いて寝込んで精神的に不安定になって泣き出して。1週間後に予約を入れたのでふらふらとしながらも病院へ。目は開かない、具合は悪い、最悪な状況だった。次の薬で良くならなかったら入院してもらいますね、と薬の量を増やして服用している。
それで今日に至るのだが、目は開くようになった。吐き気もない。ただ睡眠時間が狂ってるだけ。
これは入院しなくていいのだろうか。そう思う午前1時。
http://ericca.hatenablog.com/entry/2018/12/14/020000
このブログ主は私ではないのですが昨年に似たような被害にあってしまって結構ショックだったので記録します。。。
バス会社の時代の先輩で、奥さん(もバス会社の先輩)ともお子さんとも仲良くさせてもらってて
同期の女の子も交えて一緒にゴハンに行ったりした時期もあったりして
人としてすごく尊敬していたのです。が…
「鬱は甘えでしょ」「そんなんで鬱になるなら日本中鬱だらけ」「俺の方が何百倍も辛い、でも頑張ってる」
みたいなことを言われ、さらに
「あの頃(バス会社勤務時代)はまだ10代だったのに、もうBBAだな!(先輩は私の9歳上。。)」
「そんなんじゃいずれ捨てられるよ」
と言われ、極めつけに
「今奥さんと○○○○レスなんだ」「太ってる方が抱き心地よさそう(奥さんはスレンダー美人、私はデブス)」
と。
もう本当に本当に無理で。無理すぎて。
きもいとか通り越してもはや無理でした。
連絡を一切断たせてもらいました。
今でも連絡をとっていません。
先輩は私のことを人間ではなく女体として見ていたのが本当に無理なポイントでした。
勇気をもって話した病気のことや人生の説教はまだ、なんとか我慢できたけど
顔も見たくないし声も聞きたくないし
一生関わりたくありません。
パートナーがいるのを知ってて、なおかつ自分にもパートナーがいるのを知られている上で
呆れました。
(私と付き合っていることを知った上で)好き勝手言ったり
私に嫉妬させるような行動を(彼と飲み会に行った報告、彼からのホワイトデーのお返し報告など)わざととったり
連絡もすごくしつこくて、LINEやメールが来る度に過呼吸を起こすほど嫌悪感に襲われました。
その人とも今は連絡断たせてもらってます。
どちらも過去の事なので、今さらなにかどうこうするつもりはないですが
鬱病の一因には変わりないですし一生根に持つ予定です。
パートナーに対して後ろめたい行動をとる/とらせようとする人は無理です。
えらく評判だったので見に行ったが、画竜点睛を欠くとはこのことかという感じでした。
背景は美麗だしキャラもいい。笑いも含めながらテンポよく進むので飽きない。皆言うようにおっこに感情移入しながら見ることができた。あのシーンまでは。
両親の幻想や「両親は生きてると思う」というセリフから、おっこが両親の死を全く受け入れられていないことを全編を通して描いている。
それから過呼吸やフラッシュバックの描写(やたらとリアルでエグかったが)から、早急にカウンセリングが必要なレベルのトラウマを負っていたことも示していた。
だからてっきり俺は、客がトラックの運転手とわかった時、すなわち両親の死と心の傷にいきなり直面させられたときには、感情の爆発や失感情といったかなり酷い精神状態が描かれるのかと思っていた。
しかし実際は、おっこは取り乱しはしたものの、水領の車で落ち着く。このあたりから違和感が出始めた。
そして例のシーンである。トラック運転手に対して「花の湯温泉は誰でも受け入れる」とおっこが言うシーンだ。おいおいちょっとまてと。
あれは両親を亡くしたばかりの小学生としてではなく、若おかみとしてのセリフだ。一体どれだけ自分を押し殺せば、あの状況で、あの年齢の子が、あの相手に、あのセリフを言える?両親を殺されたと感じてもおかしくない相手に、両親を殺したことは許す、かつ客人として自分にもてなさせて下さいと言うようなものである。しかも彼には家族がいる、さらに言うなら彼が去ろうとしているのは「自分が辛いから」だ。そんな相手にに対しておっこのようなセリフを言える人がいるだろうか?
百万歩譲って客がトラック運転手だとわかり宿を飛び出した後、水領の車で両親の死を受け入れていたとしても、それに加えて、トラック運転手が両親を殺したのではないこと、さらにその人間の家族まで含めて世話するという2つの心理的ハードルをこえる必要がある。
いやいやさすがに無理あるでしょー。周りのキャラは「立派だ・・・!」とか言ってて音楽もこれでまとめようとしてる感じだしマジかー。
と思ってしまい興ざめだった。ここまでの心理描写は良かったのになー。
あと、「おっこは一人じゃない」というセリフが印象的に描かれており、かつその他の描写からも、「一人じゃない」ことが作品のテーマの一つのように思える。だけど実際はおっこが一番誰かにいてほしい時、すなわちトラック運転手(=トラウマ)と対面した時には、幽霊たちは見えず、宿の人間も出てこず、やっと会えたのがスピリチュアルな理由で駆け付けた、他の登場人物たちに比べて交流の少ない水領だ。これじゃ「一人じゃない」の説得力も薄れる。
完成度が高いだけにほんと残念だった。そもそも冒頭で両親が死んで、90分できれいにまとめあげるなんて無理なんだと思う。テーマが重すぎる。
『若おかみは小学生!』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨です。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向け。またこの作品は書籍版漫画版アニメ版あるけれど、それらは横に置いといて映画の話します。
これは120点っすな。点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」なので、「見れて大満足! もうちょいお布施したい」でした。
演出とは裏腹に内容的にはかなりヘビー(というのを見越して爽やかで明るい演出を用いていた)なので、児童文学原作でお子様向け痛快娯楽活劇とは言い切れないんですが、個人的にはクオリティさえ伴えば子供を思いテーマや悲しい作品でぶん殴ってもええやないか、いてもうたれ、子供ってのは子供なりに受け取るんだ派なので、クオリティでぶん殴ればいいと思います。ふるぼっこだドン。
この映画に関してはTwitterで児童労働がどうのこうのという話もちらりと耳にした程度で事前情報収集もなく見に行ったんですが、そういう物語じゃなかったですよ。
じゃあ、どういう物語だったかといいますと、大きく2つの柱が絡み合うストーリーでした。それは大きなテーマで言えば「喪失を乗り越える」と「自分自身と居場所を見つける」という話。
初っ端から重いですが、主人公である女子小学生・関織子(通称おっこ)は、本作冒頭の交通事故において両親を失います。もうこの時点で軽い話になりようがないわけですよ。にも関わらず事故被害のシーンはグロカットされ、葬儀とそれに続くドタバタのシーンも描写はされず、おっこは新生活の場であるところの、祖母の営む温泉旅館「春の屋旅館」へと向かいます。トランクひとつ持って別に落ち込むわけでもなく、ちょっと大変なだなあくらいの顔色で一人旅をして、到着し、新しい部屋(いままでのマンションとは違う昭和的な和室)を与えられ、転校して新しいクラスメイトに挨拶をして、ひょんなことから家業である温泉旅館を手伝うことになります。
『若おかみは小学生!』って言うタイトルだから当たり前ですが、こうして女子小学生おっこの若女将修行生活が始まるわけです。
「春の屋旅館」がある「花の湯温泉」は歴史のある温泉街で、古都然としたまちなみに浴衣姿の観光客が歩く割合賑やかで、カラフルな町です。この辺音楽や美術の演出とあいまって、しみじみと明るく暖かく描かれていて雰囲気良いですね。美術のレベルは高かったです。
でも、この明るく爽やかなあたりが(とうぜんそれは演出意図に沿ったものなんですが)、ある意味ホラーでもあるわけです。
小学生の児童にとって、両親を失うというのは、最愛の家族を失うということであるのみならず、加護者も生活基盤も導き手も失うということです。もう、それは世界の崩壊とかいうレベルでの悲哀なわけですよ。
にも関わらずおっこはそこまでの苦しさを見せない。両親を思い出してちょっとうつむくことはあっても、笑うし、日常生活を送るし、新しい出会いにも前向きでいる。それはよく考えればとてもとても異常なことなわけです。
異常なおっこの新生活は、やはり物語後半に向けて徐々に破綻してゆきます。「両親がまだ生存していて自分と一緒に暮らしている」という幻想を何度もみてしまうおっこは、あるシーンにおいて事故の原因となった(もちろん別のですが)大型トラックを見て、事故のフラッシュバックから過呼吸になってしまう。おっこは、両親の喪失という悲しみを乗り越えたわけではなくて、ただ単に今まで封印をして日常生活を演じていたに過ぎなかったわけです。
あらすじなんかにおいて本作は「主人公おっこの成長を描く」なんてサラリと書かれているわけですけれど、それは不誠実な欺瞞であって、おそらくおっこの身になってみれば、それは成長じゃなくて引きちぎられてバラバラにされてしまった自己の修復というサバイバルなわけです。失った何かから目を背けて、決定的な破綻をしないようにごまかしながら疾走するというのが、この物語の前半部分でした。
そういう意味で、おっこが若女将をやるというのは、児童労働とかそういうレイヤーの話ではないのです。両親を失って加護者も生活基盤も支えも失ってしまったおっこにとって「いまできるなにか」に必死に飛びついて自分を騙そうとしていたとも見ることができます。祖母である旅館の経営者(現女将)の後継者問題という、旅館側の都合があったにせよ、おっこが旅館の雑務に飛び込んで笑顔で充実していく背景にはそれがあるはずです。
事実おっこの若女将は雑誌に取り上げられて評判を呼ぶという広告的な価値はあったものの、従業員としてみたとき、お客さんに感情移入しすぎて夜闇の中に駆け出すなど(一般的な社会人の価値観からすれば)行き過ぎな面もありました。
でもそれも仕方がないと思うのです。両親という生活基盤を失ったおっこは、同時に目指すべき将来の自分像も失っています。「将来こういう自分になったらいいな」です。その空隙を、目の前に提出された安易な「若女将」で埋めてしまったわけですから、その意味では、おっこの若女将は労働としての若女将ではなく「若女将ごっこ」でもあって、つまりはある種の自分の居場所探しなわけです。
たとえおっこ自身がそれを言語化できるレベルで気づいてなかったとしても、まだ収入もなく住む場所も自分では決められない小学性にとって、他にできることなんて事実上ないじゃないですか。それはせめて居場所を獲得するという生存努力です。
おそらく祖母はそのおっこの悲痛に気がついていて、周囲が無責任に「若女将誕生!」とはしゃぐなかで、決して自分からは手伝え、継げとはいいませんでしたし、おっこの労働を危惧してた素振りも見えました。経営者として「子供に接客なんてさせられない!」と拒絶することもできたでしょうけれど、おっこから若女将をとりあげて、じゃあ不安定な彼女の精神に何をしてあげられるかと言えば何もない。だから黙認しかないわけです。
だいたい「自分自身と居場所を見つけるという話」なんてものは現代社会において、大学を卒業して就職して一年二年経った青年が、俺はどうやらこういう方面には我慢が効くがこういう方面は苦手だぞ、どうやらおれはこういう仕事とこういう人間関係の中でなら生きていけそうだ――みたいなのをやっとこさやるものなわけで。そんなものを、小学生が引きちぎられるような喪失を乗り越えるのと二正面作戦でやるのは無茶というものです。
そういう意味では、周囲の大人たちはもうちょいどうにかフォローしてやれなかったのかよ、とも感じるんですが、でも逆にそれこそ大人視点の傲慢な物言いであって、大人だろうが子供だろうがどんな人間でも自分自身の心の中の悲しみや未来とは、自分一人で向き合うしかないというのも一面の真実です。
おっこは画面上の軽やかさやおっちょこちょいさに隠されがちですが、実は誇り高い女の子です。特に自分が設定した自己目標に対しては愚直なまでに誠実です。だからこそ、宿泊客のために対立している真月に頭を下げて教えを請うこともします。その実直さが両親を失うという危地の中で彼女が孤立してしまった原因だし、それが巡って彼女の味方を増やす原因でもあったのは素敵だったと思います。
おっこは「喪失を乗り越えること」から逃避して、目の前のロールである若女将に飛びつき、そこで必死に働くことによって苦しかった過去をある意味塗りつぶそうとしたわけですが、その逃避が「自分自身と居場所を見つける」ことにつながってゆきます。
幾つかの出会いがあって、目指すべき未来のヒント、ロールモデルと出会います。たくさん登場人物がいるのですが特筆すべきなのは三人でしょう。
まずは旅館の女将である祖母。登場シーンは少ないのですが、彼女の個人人格と職業倫理が融合してしまったあの佇まいは、今は亡き母経由もふくめておっこの誠実さの根っこのように思います。職業倫理がついには人格化しちゃうって、昭和的な善人のあり方としてすごく共感できるんですけど、今の時代では流行らないのかもしれないと思ってちょっとホロリとしました。
二番目には、おっこの同級生、秋野真月(大旅館の跡取り娘、通称ピンフリ)でしょう。この娘は小学生女子なのですが、広い視野で旅館業と湯の花温泉京の未来を見つめていて、顧客に対して誠実であろうという、幼いながらある種の達人系キャラです(傲慢な物言いをする残念キャラでもあるのですが)。この娘と同年代として出会うことができた、ライバルとして対立したり和解したりできた、というのはおっこを取り巻く幸運の中でも格別のものでした。彼女との交友は、悲痛から逃げ出して飛びついた「若女将ごっこ」に、その内実の精神性を加えて「本当の若女将」へ進化させてくれたと思います。
(余談&劇中では語られませんが、温泉郷に住まう子供の中でも誰よりも本気で町の未来について抱え込んでしまってる真月の孤独にとって、その孤独の闇に現れて、自分の高さまで登ってくれると約束してくれたおっこの存在は、想像すると涙がこぼれるものが有ります。真月からみてもおっこは救いであったと思うし、そうだと良いなあ)
三番目は宿泊客である占い師・グローリー水領です。長い黒髪をたなびかせたこの宿泊客は、都心部に事務所を構える凄腕の女占い師なのですが、私生活での失意から「春の屋旅館」で飲んだくれ生活をしています。
抑制的な演出で描写される彼女の鬱屈をおっこはどうにかして励まそうと、浴衣を着たことのないという彼女の着付けを手伝います。浴衣初経験のそんな彼女の艶姿におっこが感嘆した感想が「格好いい!」でした。
ものすごくさり気ないシーンだったのですが、それはおっこが喪失していた「自立した憧れるべき大人の女性像」を見出した場面だったんじゃないでしょうか?
私生活で辛いことがあっても他者に当たらず、それどころか宿泊先の幼い従業員おっこに気を使っておどけてまで見せる。グローリー水領はおっこ視点では「素敵な大人のお姉さん」です。その素敵な年上のお姉さんに、「可愛い」でも「素敵」でも「綺麗」でもなく「格好いい!」と小さく叫んだおっこに、少し泣けました。お洒落で(←女子小学視点では重要です)、颯爽としてて、自立をしてて、視線を合わせて話してくれる。そんなお姉さんはおっこにとってどれほど輝いて見えたことでしょう。暗闇の中で我武者羅に迷走していた、それでも笑顔だけは守っていたおっこにとって、それは小さな灯火で「未来の自分」「目指すべき形」です。
祖母の言う「誰も拒まない花の湯」、同級生真月のいう「客を癒やすレストスペース」、女占い師が自分の仕事を「他人を励ます仕事」だと評したこと。それらは全て本作テーマに重なるパラフレーズです。そしてそういう人々の輪の中に、自分も入っていける。癒やしたり癒やされたりしながら前へ進んでいくコミュニティの一員になる。「若女将」という「自分自身と居場所を見つける話」は、おっこにとっては生存努力であり逃避だったわけですが、それを誠実に、ごっこから実体にしていくのならば、結局逃げていた「両親の喪失という苦しみを越えていく」につながっていくのだ、という脚本はすごく良かったです。
ここまで触れてませんでしたけれど、おっこには霊感があるという設定で「春の屋旅館」にきてから騒々しい幽霊の少年やおませな幽霊の少女と出会い、励まされています。両親が今でも生存していて日常は壊れていないという幻想に悩まされていた頃おっこを支えていたこの幽霊たちですが、物語終盤でおっこから見えなくなってしまうという形で別れが示唆されます。
でもそれは、おっこが人間社会のなかで居場所を確立した――七つまでは神のうちといういわばまだ神様たちの一員であり神楽の主役でもあったおっこたちが、社会の中で着地して、痛みも悲しみも乗り越えていく季節がやってきたのだというエピソードです(おそらく魔女の宅急便の黒猫ジジが喋れなくなる、も同様の構造ですよね)。
見終わってから気づいたのですが、この作品の幽霊や鬼たちは、幼いおっこが空想したイマジナリーフレンズだとしても物語が成立するように設計されています。
おっこは自分の中の勇気やかしこさと一緒に自分の悲しみと戦った。「春の屋旅館」はその舞台であり、若女将はおっこが戦うための姿だった。
すべてのフィクションはファンタジーなので現実視点を持ち込みすぎるのは野暮というものなわけですが、今後おっこは中学に入学卒業して、大学はともかく高校くらいは出るはずで、一人前になるまで十年近い時間があります。(このお話のおっこは絶対旅館業一筋だと思うのとは別に一般化するのならば)そのなかで、旅館業から離れるかもしれない。現実に寄せて考えるならその可能性は高い。
でもそんなことはおっこの戦いとそこで得たものとは関係がないわけです。おっこは若女将というコスチュームや身分を手に入れたわけではなく、戦いの中で手に入れた人間関係と自分自身がある。将来どこでなにをしようと、おっこの手に入れたものが曇ることは二度とない。それがこの映画の中心であって、それは児童労働とかそういうのではなく、もっとパーソナルで尊いものだったと思います。
俺がめったに会えない旧友との飲み会に来ていたとき、彼女からヘルプの電話が来た。焦燥感や不安で過呼吸気味で、明言はしなかったが家に来て一緒にいてほしいという感じだった。彼女は一ヶ月ほど前に親を亡くしており、不安定になるのは理解はできた。
俺は飲み会は抜けられないことを伝えた。本当に久しぶりの再会で、飲み会は始まったばかりで、話すべきことが山ほどあったからだ。俺はマンションの常駐受付人(コンシェルジュというほど大層なものではないが、同様の存在)に一緒にいてもらって、過呼吸が続くようなら夜間病院に行くよう伝えてその電話を終えた。
終えたのだが、そこから鬼電がはじまった。ゆうに20回は着信があったと思う。俺はマンションの受付人に電話を代わってもらい、行けないので代わりにタクシーで病院へ連れて行ってほしいと伝えて、それ以降管理人からの電話のみ取り、彼女からの鬼電は取らなかった。
飲み会を終えて彼女のマンションへ向かった。点滴をしてもらっていくぶんか落ち着いた彼女と話した。「私は飲み会以下なのか」と、何かのセリフのようなことを聞かれたのを覚えている。俺はマンション受付人というこのようなときのためのサポートシステムを利用し病院へ送り届けたのに、ひどい言い方だと思ったのでそう伝えた。話は平行線だった。
俺はもう限界を感じ、恋人だからといって何から何までそのようにサポートを求められても困る、別れよう。と言って、別れてきた。
で、彼女と俺の共通の友人の間で、俺がまるで外道のごとく彼女を捨てたという設定になっていることを知り愕然としているのが今。俺は冷たいのか?外道なのか?
納得できない
どうしても吐き出さないと辛いので書く。
今年の4月から新しい職場で働きはじめた。仕事内容からして、一年間限定の職場だろうなという予感がしているが、そこそこ良いお給料をいただけるので、生活を立て直すことを第一の目的に就業を決めた。
この仕事に就くまでの5年近く、まともに働けたことがなかった。それ以前に働いていた職場がブラック企業で、高ストレス低給与、フルタイムにも関わらず一人暮らしだと貯金ができないレベル(手取り12万円)で、心身に変調をきたし退職。本来なら数か月休まなければいけないところ、一人暮らしのため収入を絶やすわけにもいかず、次の仕事に就くも短期離職を繰り返すという状態で、どんどん自分を追い込んでしまっていた。5年間、時間が止まったように生きていた。
ところが、今年に入ってから繋ぎで始めた派遣の仕事…これは一ヶ月だけの仕事だが、無遅刻無欠勤で終わることができた。当然のことだが、その手応えが「あれ?今年は少し調子が良いんじゃないか?」と思うきっかけになった。繋ぎの仕事が終わり、現在の仕事に就いた。ところが、新しい職場で働くにあたっての緊張感や未経験の仕事に飛び込む不安から、5日ほど欠勤してしまい「あぁ、またか」と自己嫌悪に陥ってしまった。今までの仕事は、毎月公休日以外に5日程度欠勤してしまう+遅刻するという状態が続くことがあり、それがきっかけで自己嫌悪になり、職場にも居づらくなり、退職のきっかけになったことが多々あった。しかし、今年はゴールデンウイーク明けから調子を取り戻し、何とか欠勤を月1回にまで抑えることができていた。普通に休まず仕事をしている人から見れば、「結局休んでるんじゃねえか」って思うかもしれないが、今までの自分にとって、これだけ欠勤をしないというのは本当に珍しいことで、これまでの自分に比べたら遥かに順調で上手くいっていると言って良い内容なのだ。
ところが、今月に入ってから2日休んでしまった。原因は脱水症状と熱中症。元々夏に弱く、過去には自律神経を衰弱させて入院してしまった経験から、電気代度外視でエアコンや扇風機をつけたり、スポーツドリンクを常備するなど対処はしてきたが、7月に残業が多く疲れを感じていたせいか、体の調子をおかしくしてしまった。なかなか寝付けず、また頻尿で深夜に何度も起きてしまったことも原因の一つだったと思う。
今回吐き出したいことは、この「2日休んでしまった」ことがショックで、罪悪感が半端ないことである。5月、6月、7月と1日ずつ欠勤してしまってはいるが、今回の「2日欠勤してしまった」ことがとてもショックで、今ものすごく自己嫌悪に陥ってしまっている。派遣なので、働いた日数や時間が賃金に直結する以上、生活にも影響するのは十分承知しているが、それよりも何よりも「休んでしまった」ことがとてもショックなのである。これは、昔の自分が仕事を休んでしまった時に自己嫌悪になってしまった状態にとても似ていて、今年のはじめ頃に感じていた「調子の良さ」が無くなってきたのかな、とも思い始めている。
今後出勤を続けていけば、また自信を取り戻すことができると思うが(今までもそうだった)、とにかく体調が悪かろうが何だろうが、理由はどうあれ「欠勤する」「仕事を休む」ということに対しての過剰な罪悪感と精神的な圧迫が今でも続いていて、過呼吸を引き起こしそうになってしまう。
とにかく、この仕事を最後まで完走したい。仕事を休みたくない。でも、心と体が言うことを聞いてくれないことがある。だから、自分への被害は最小限に抑えたい。また明日から頑張ろう。昔の自分よりも、今の自分のほうが調子が良いし、きっと成長しているはずだから。このショックを乗り越えるのも、きっと成長の一つだから。しっかり休んだおかげで体調はもう戻っている。昔の自分なら、仕事への行き辛さから明日も欠勤してしまうだろう。でも今は違う。色んなことを自分に言い聞かせて、また明日から仕事を頑張りたい。
私の親は、今でいう「毒親」だったと思う。
小さいころから、母親が父親を嫌っていて、昼夜構わず目の前で喧嘩した。父親の声はほとんど聞こえなかったけど、母親の金切り声をよく覚えている。
父親の実家で祖父母と同居していたのだが、そちらとも母親はそりが合わなかったようで、空気はいつも良くない。
母親は、自分のペースや考えていることに合わせないと、その他の意見を総批判。吐き捨てるように批判してくる。
小学生の時、鉄棒の前回りが怖くて出来なくて、やれるまで帰るなと公園に置き去りにされた。夜暗くなるまでやらされたけど(一人で)怖くて出来なくて泣いていた。
母親から褒めてもらったことは覚えていない。けなされた(バカにされた)ことは覚えている。
そしてそんな状態の私をかばってはくれない父親。「お母さんは怖いな」くらいしか言わない。喧嘩せども最終的には言いなり。
喧嘩していた夜は、違う部屋に移って扉を閉めていてもうるさくて怖くて、布団をかぶって「早く終わって」と泣きながら耐えていた。
母親と違う意見を言うと、「~(持論)~じゃない。(当たり前でしょ)バカね」見下す視線付き。
歩くペースや乗る電車など、もう少しゆっくりでもいいじゃないと思いゆっくりしていると、母親はイライラするのか「グズなんだから」「ノロね(ノロマね)」と言ってくる。母親は悪びれもせずに言うが、言われるたび辛かった。
母親から聞く悪口に洗脳され、反抗期もあったせいか父親と祖母のことを邪険にした。母親のことも好きじゃなかったけど。
彼女から愛情を感じたことはない。自分の思いどおりにいかないから怒る。そうとしか思えない言動の数々。
そうした環境が嫌で、高校生の時一度バイト上がりに深夜まで友達と遊んでいたことがある(連絡はいれていたが「帰ってこい」の催促を無視していた)。
家に帰ったら母親に盛大に泣かれたが、私が「兄は遊んでてよくて、どうして私はダメなの」と問い詰めたら何も答えずに「出ていけ」とのこと。多分、兄があまり注意を受けずによく遊んでいること、普段から兄びいきの発言が多いのでイラついていた、それについて問いただしても納得のできる言葉をもらえなかったこと、その辺の複合的な心情が爆発したと思う。
「心配するから」の一言があれば謝るつもりだったが、何も答えてはもらえなかった。
母親は頭ごなしに意見をし、理由を説明しないことが多い。「なぜ?」と問うても「そうだから」と答えになっていないことが多い。
「好きなようにしていい」と私には言うくせに、母親には基本的に逆らわない父親。結局折れる。奴隷。
季節は冬、ラジオの早朝英会話教室みたいのを聞いていたことがあって、ラジオは両親の部屋にあったから聞きに行ってたが、寒いから布団に入れと両親それぞれに言われ、困ってどっちの布団にも入らなかった。その時ほど面倒なことはなかった。最初は良心からだったのかもしれないが、次第に相手に対抗してどっちの布団に入らせるかムキになっていた。くっだらない。
車の免許を持っていない母親は、車を運転することでの疲労や維持する費用やガソリン代のことをまるで考えない。父親は運転するのが好きだったのか、数時間程度なら休憩なしでぶっ続けで運転していた。それをこっちにも要求してきた。疲労感やあなたの足ではないからねとどんなに説明しても理解はしない。
私の出産の時、初孫で浮かれていたのか、次の日にさっそく病院へ。夕方の出産でお風呂にも入れていなく、前日までの長い陣痛で数日まともに眠れていなかったが、まぁ孫に会いたいだろうと12時に来るように言ったが10時に来た。来たら1階まで迎えに行くと言ったが(病院は1階が診察室で2階が病室。お見舞いは基本的に入院してる人が1階まで迎えに行く)そんな早くに来るとは思わなかったからちょうど風呂に入っていた。迎えに行くつもりだったから病室も教えていなかったがアクティブにずかずかと病室を聞いて上がってきていて(1階の受付はほぼ診察の人用でまぁ話しかけづらい雰囲気だったけどそんなの関係ない人なので)、風呂のあと仮眠したかったが叶わず、夜まで居座られ大して眠れず。病院の決まりで子供を抱けない、写真も近くで撮れないと知り露骨にがっかりし、ずっと私の病室で私の見ていないTVをひたすら見ていた。帰れ。
「普通は里帰り出産するでしょ?でもしなかったから、二週間くらい孫ちゃんとこっちおいでよ。行きと帰りは夫くんに車で送ってもらってさ」
その理屈はなんだ。あなたの普通は万人の普通ではない。ましてや私の普通でもない。二週間って別居でもあるまいし通常の家族が「実家に帰るね~二週間くらい☆」な気分でそんなに離れるか。乳児も連れて。私は嫌だ。それに行きと帰りだけ夫を足に使えというのか。結構な距離を。
当然断った。
もういい年だから、親のせいにしてはいけない。自分の意見がないのも、あっても言えないのも、周りに合わせることを第一と考えるのも、決断力がないのも、怒る怒られるということに極端に恐怖するのも、誰かの怒鳴り声でもパニックを起こし過呼吸になるのも。
でも、私は自分の子供をこうにはしたくない。同じ思いをしてほしくない。やっぱり大事だよ、生まれてからの18年あまりは。一生の性格を培う。人一人を歪めかねない。
上司に辞めたいと伝えたけどもうちょっと頑張ってみようって言われちゃった
頑張ってるつもりだったけど周りから見たら頑張ってないみたい
残業ないし
これぐらいで辞めたいとか本当に一般的に見たら甘えてるのはわかってるけど
みんな耐えられることに耐えられない
ゴミじゃん
でもまだ死ぬの怖い
恐怖心消してほしいすぐ死ぬし
本当に無理かもしれない
どうしよう
なんでこんな何もかもうまくいかないのかな
親には絶対頼れないし
なんで生んだのかな?
あたしのことなんで生んだのかな
生まなきゃよかったって言ってたし中絶しててくれればあたしもこんなことで悩まずに済んだよ
死にたいけど恐怖心あるのめんどくさい
音が耳に入ってくるのさえ不快に感じる時あるし何にも感じたくない頭少しでも動かしたくない
仕事も最近集中できなくてぼーっとしちゃうし絶対でかいミスそのうちしちゃう頑張らないといけないのに全部もうどうでもよくなっちゃって
こちとら腐ってはいないまでも何と無しにゲームとかアニメを鑑賞する女オタク
一方で『正社員で入社しては過呼吸を起こし1年少しで退社』を繰り返し現在はコンビニバイト
申し訳ねえと思いながら実家暮らしをしているが実際罪悪感で潰れそうである
推しがいる人は「こいつの為に生きなきゃ!」「こいつの為に金稼がなきゃ!」とか
なるんだろうが上記の通りぼんやり「あー面白いな」って思う程度だからそこまでいかない
周りに流されるように艦これやとうらぶをやってはいるが、当初は「このキャラ好き!」ってのはいたが
これも最早『生活の一部』みたいになっているので逆に特別感を感じなくなってしまった
一方リアルでは付き合ってるんだか付き合ってないんだか判らん男友達がいるが
悔しいかな彼もアルバイターである。結婚するんだとしてももうちょっと先だろう
つらつら書いたが結論から言うとよくある「何で私生きてるんだつらいしんどい」状態なんだな
ちらちらツイッターを見れば「バーフバリを見ろ」「ヒプマイを聴け」「筋トレをしろ」とあるが
そこまでに行きつかねえーーーんだこちとら胃痛・頭痛・聴覚過敏なもんでな!!!!!
同じ症状持ちの人で「これ効くぞオヌヌメ」ってのがあったら教えてくださいオナシャス
俺も子供は大嫌いだが赤ん坊の泣き声が不快という理由で吐き気や過呼吸に襲われた経験はない。
なので増田は一般人の「赤ん坊の声が不快」よりも明らかに酷い症状がある状態だと推測できるんだが、それを「みんな耐えてるのだから自分一人が辛いと思うな」で片付け増田を咎めるようなレスが早速ついている・・・
症状を訴えた増田を理不尽に叱り飛ばし誰にも理解されないというに至るまで追い込んだ増田の親や周囲の人間はこういう系統の連中なんだろうな。可哀想に
これって同じ症状(?)の人いないのかな。
赤ちゃんが泣いてる声が嫌い。
長く聞いてたら心臓をギュって掴まれたような不快感に襲われて、鳥肌と冷や汗が止まらなくなる。ひどいときは吐きそうなぐらい気分が悪くなる。心臓がバクバクして過呼吸になりかける。
電車、特にすぐ降りられない特急とかで赤ちゃん泣かせてて、それを放置してる親とか最早テロ。
でも他に乗り合わせた人は大丈夫よ、とか元気な子ね、とか優しく声かけたりしてるのに私だけが泣き声少しでもかき消すためにヘッドフォンつけて、それ以上気分悪くならないように車両変わったりして。
時には車両変わるとき、それを見てたおばさんとかお年寄りに嫌な態度。当て付けみたいとか、今の子は我関せずで思いやりがないなとかわざと聞こえるように言われて。
所詮、同じ症状を持たない他人には私は人でなしにしか見えないのか。
赤ちゃんの声を受け付けないのがそんなに悪いことか。
女なのに赤ちゃんの声が嫌いなんて酷いね!自分も赤ちゃんだったんだよ。とか
お母さんは悲しい。自分が親になった時どうするつもり?
とかいって怒られた。
みんな赤ちゃんの時は人に迷惑かけながら成長したんだからそんな事思ったらいけない。
って見当違いなことばかり言う。
別に迷惑と思ってるから嫌いなんてひとことも言ってないのに。聴いたら具合が悪くなるぐらい受け付けなくて困ってるって話なのに、ただの私の狭量みたいな問題にすり替えられてさ。
だからどうせ誰にも分かってもらえないと思ってそれ以来公言しないって決めた。
けどそれはつまり今後一生私一人で抱えていかないといけない問題ってこと。そうすると具合悪くなるのだって一生治らない。
たとえつらくても、誰かに打ち明けて軽蔑されるか、あの吐き気も動悸も過呼吸とかも全部一人で耐え続けるかの2択しかないということ。
今、Twitterで閉所恐怖症のパニック障害の方が、通路側の人と交換することを理解して欲しい、
そして、同じように薬などである程度コントロールしてイベントを楽しんでいる身です。
障害を持っていてもイベントを楽しみたいと言う気持ち、イベント中に発作が起きることの恐怖に対しては
ですが、件のツイートをした方の主張が拡散されているのを見て、安心よりも強い危機感を覚えています。
私がパニックを起こす引き金は逃げ場が無いことでも、狭いところでもないからです。
私は対人恐怖症で、知らない人と数分程度のやり取りをする事でもどうしようもない不安に襲われ過呼吸になります。
ですので、閉所恐怖症についての理解を求めるツイートがたくさん拡散され、賛同する方も多い様子を見て、
今、私は泣くほど辛くなっています。
これからは通路側の席になってしまったら、閉所恐怖症の人たちが話し掛けてこないか脅えながら
イベントに参加している障害を持っている人は特に、真っ先に考えなくてはいけないことがあると思っています。
自分が参加できるのだから、他にも自分のような問題を抱えている人が当然たくさん参加しているのだということです。
そして、その発作を引き起こすきっかけはひとつではありません。
今、世の中では訴えた方の気持ちを尊重しようという流れがある。
様々なハラスメントに対して、それらを行った側の言い分は聞かれず、された(と訴える)側の言い分ざ尊重される。
が、しかし。
された(と訴える)側が、強大なものとされている場合はその例に当てはまらない。
そんな体験をした。
感情を表す語彙力が少なくてなんて言えばいいのかわからないけど…。
法的手段を使えるのであれば、使って社会的に抹消したいレベルで無理な人、界隈がある。
そんな気持ちになった理由は、今となってはもうなんだったか鮮明には覚えていないが、彼らの自分へ対応にあまりも理不尽さやストレスを感じることが多々ありいつしかそうなった。
ひっくるめて無理だ。と説明したのに新しく開拓したところに絡んでくる意味がわからない。
なぜ無理なのか、なぜ関わりたくないのか説明したのに、どう話をしてもこちらが悪者になるように捉えられてしまう意味がわからない。
強く頑丈に見られがちだが実際はそんな事はなくて、くだらない事でよく落ち込む。嫌なことは考えるな。と言われるけどそれができない。
なぜこうなってしまったのか、なぜこんなトラウマを抱える羽目になってしまったのかを考えてしまうことがある。
何かというと思い出しては嗚咽がとまらず虚しく、静かに苛立ちを覚え、ひどい時は胸がざわついて過呼吸にすらなる。
それでも負けずに辞めないのは、まだなし得ていない色んな事があるからなのだが。
たまに負ける。道を見失う。
辞めたいと思ってしまう。
なんの為に頑張って、なんの為に元気を振りまいているのか…。
わからなくなって辛くなる。
この気持ちを分かち合える人がいなくて寂しさを感じる。
こういう事を発信すると、心配されたがりにみえたり、意図せず心配をかけてしまう事がある。
が、心配をかけたいとか、心配されたいとか、いっさい思っていなくて、共感までいかずとも「ツラい気持ちなんだね」と、ただただこの心情を受けとめて、わかろうとして欲しい、認めて欲しいだけなのだ。
道は険しく孤独だ。
僕はプログラマーをしているのだが、体調を崩しがちで、月に何度か高熱が出て会社を休んでしまうことがあった。朝も弱くて寝坊だってする。傍から見ればただのクズだ。体調管理が出来ないなんて社会人失格、というのは前の会社で頻りに言われていたことだ。結局大きな病気になってしまい、その会社は辞めることになった。就職して一年も経っていなかった。
ニート期間というのは、実家ぐらしだからこそ続くのだなと思った。20歳で実家を飛び出して一人暮らしを始めた僕は、今更実家に戻ろうなんて考えはなかった。母からご飯をちゃんと食べているか、仕事は決まりそうか、なんなら戻ってこないか、などと定期的に連絡は来ていたが、無駄にプライドの高い僕は一度巣立った場所からの援助なんて受ける気はない、受けちゃいけないと思っていた。
ニート生活を始めて数日は、気ままに生活が出来て楽しかった。貯金にもある程度余裕はあったし、ゲームも好きなだけ出来る。だが、一週間経つと、急に不安に苛まれるようになった。僕は変なところが真面目だったのだ。自由を謳歌できなくなった。周りが働いているのに働いていない自分への危機感、減っていく貯金、過ぎゆく時間。大好きなゲームも、今はやっている場合じゃないと思い始めた。結局遊べたのは二、三週間であとの二ヶ月は勉強をしたり、プログラムを書いたり、転職に向けての活動をしていた。
仕事を辞めた当初、転職なんて簡単にできると思っていた。就職も周りがバタバタしている時にすんなり決まったし、今回もすぐ決まるだろう、と。現実は残酷で、僕はなんて甘い考えをしていたんだと痛感した。今の自分は新卒ではないのだ。プログラマの求人は、どこも実務経験を重視していた。まだ若いとはいえ、実務経験が一年に満たないような、自己都合で退職したニートを雇ってくれるところなどなかった。
ただひたすら焦っていた。自己都合退職なので失業保険も貰えず、時間だけが過ぎていく。その頃から、頭の中で追い込まれていく感覚を感じ始めた。いろいろな方向から罵倒されているような、怒鳴られているような、何かから追われていて、逃げなきゃいけないという感覚。息が詰まる。一人きりの部屋で、何も音のしない部屋で、過呼吸で倒れそうになる。
近所のおばさんは、僕が在宅業務をやっていると思っているらしく、昼間でもおかずを持ってきてくれたりするのだが、優しい声で話しかけてきているはずなのに、頭のなかでは何かに脅迫されているような錯覚に陥る。目を覚ますたびに、テレビをつけるたびに、PCをつけるたびに、出かけるたびに、人と話すたびに、それは起きた。気が狂いそうだった。今思えば、あの時実家に帰っていればこうはならなかったのかも知れない。
ニート生活三ヶ月が経とうかと言う時に、僕が入社する会社の面接日が決まった。不安でいっぱいだった。面接官が話すたびに頭のなかであの感覚がやってくる。まともに話せていたかどうかも覚えていないが、とにかく何も考えないようにした。
その会社から採用をもらった。採用通知を見た時。憑き物が落ちるのを感じた。ただ、就職してからも脅迫されているようなあの感覚に陥ることがある。前と何も変わっていなかった。あの感覚は何だったんだ。そう思っていた。
変わっていたのは心の持ちようだった。あの瞬間に、心が成長したんだと思う。前の仕事を辞める前より体調不良になりにくくなった。寝坊もしなくなった。仕事でも、大きな評価をもらえるようになっていた。
そもそも教師という物が嫌いなのだが、その中でも特に体育教師というものが嫌いだ。人の心がある体育教師は極々少数だろうし、残念なことに自分は出会ったことがない。そういった偏見の上でこの文章を書いている。
体育、運動、スポーツ。言い方は色々あれど体を動かすことに関してはかなりの「個体差」がでるのではないだろうか。そしてそれは他の科目以上に周囲の目に晒される。
体育教師は運動の出来る生徒を思い切り贔屓する。もちろん他の科目でも多少はあることだろう。科目を持った教師が顧問をしている部活の生徒を贔屓するのもよくある話だ。
だが、体育教師はその贔屓が他の贔屓より群を抜いている。運動の得意な贔屓、お気に入りの生徒にはより丁寧な指導をする。一秒でもタイムを縮め、一点でも多く勝ち取るため、とにかく「出来る生徒」にすべての労力をつぎ込む。指導した生徒が成績を残せば自らの経歴にも箔がつくからだろうか。それとも、自分が追いきれなかった夢の続きなのだろうか。
運動が苦手な生徒に対しては指導の時間を割くことは稀だと思う。肉体の「個体差」は週数回の授業ではどうすることも出来ない。苦しくない走り方、フォーム、トレーニングの仕方など、一般生徒は知る由もない。体育教師にはその専門性が備わっているはずなのに、一度たりとも指導をされたことはない。
基本さえ説明できるのであれば、その辺の老人にでもできそうなことしかしていなかった。
益々出来る出来ないの差は開いていき、明確な格差となる。不得意だったものが嫌いになり、さらに距離をとるようになる。
運動が得意な生徒を潰しかけているところもみた。度重なる披露骨折に過呼吸ほか、体育教師が顧問をしていた部ではレギュラーであろうがそうでなかろうが異常なまでに怪我が多かった。
成長期の体のことを知っているはずなのに、なぜ怪我が増えるのか。減らせるように努力するより、成績を上げる方が大事なのか。
他の科目はどうだろうか。少なくとも「平均点」まではあげられるよう教師陣も努力していた印象を受ける。芸術系の科目は体育教師と似たり寄ったりの部分もあるが、主要科目の教師が出来ない生徒を完全に放置することは少ないだろう。それが教師自身の評価にもつながる部分だからだ。
どの教師にも言えることだろうが、「出来ない側の視点」をもち「出来ない人間の心を想像する」ことが難しいのかもしれない。
理解できない人間がどのようにすれば理解するのか、その生徒がどこでつまづいているのか。体を動かすことが下手な生徒が、どうすれば運動できるようになるのか、そういったことを考えるより、得意な人間にアドバイスをする方が簡単でお手軽だし、自分の評価にもつながる。
もちろんひとりの生徒にあまり時間をかけることが出来ないのも事実だろう。
「いい指導者」と「ただそれが得意な人間」はそもそも異なるのではないだろうか。名ばかりの教師ではなく、生徒の未来の選択肢を増やせるようないい指導者が増えることを願ってやまない。