そもそも教師という物が嫌いなのだが、その中でも特に体育教師というものが嫌いだ。人の心がある体育教師は極々少数だろうし、残念なことに自分は出会ったことがない。そういった偏見の上でこの文章を書いている。
体育、運動、スポーツ。言い方は色々あれど体を動かすことに関してはかなりの「個体差」がでるのではないだろうか。そしてそれは他の科目以上に周囲の目に晒される。
体育教師は運動の出来る生徒を思い切り贔屓する。もちろん他の科目でも多少はあることだろう。科目を持った教師が顧問をしている部活の生徒を贔屓するのもよくある話だ。
だが、体育教師はその贔屓が他の贔屓より群を抜いている。運動の得意な贔屓、お気に入りの生徒にはより丁寧な指導をする。一秒でもタイムを縮め、一点でも多く勝ち取るため、とにかく「出来る生徒」にすべての労力をつぎ込む。指導した生徒が成績を残せば自らの経歴にも箔がつくからだろうか。それとも、自分が追いきれなかった夢の続きなのだろうか。
運動が苦手な生徒に対しては指導の時間を割くことは稀だと思う。肉体の「個体差」は週数回の授業ではどうすることも出来ない。苦しくない走り方、フォーム、トレーニングの仕方など、一般生徒は知る由もない。体育教師にはその専門性が備わっているはずなのに、一度たりとも指導をされたことはない。
基本さえ説明できるのであれば、その辺の老人にでもできそうなことしかしていなかった。
益々出来る出来ないの差は開いていき、明確な格差となる。不得意だったものが嫌いになり、さらに距離をとるようになる。
運動が得意な生徒を潰しかけているところもみた。度重なる披露骨折に過呼吸ほか、体育教師が顧問をしていた部ではレギュラーであろうがそうでなかろうが異常なまでに怪我が多かった。
成長期の体のことを知っているはずなのに、なぜ怪我が増えるのか。減らせるように努力するより、成績を上げる方が大事なのか。
他の科目はどうだろうか。少なくとも「平均点」まではあげられるよう教師陣も努力していた印象を受ける。芸術系の科目は体育教師と似たり寄ったりの部分もあるが、主要科目の教師が出来ない生徒を完全に放置することは少ないだろう。それが教師自身の評価にもつながる部分だからだ。
どの教師にも言えることだろうが、「出来ない側の視点」をもち「出来ない人間の心を想像する」ことが難しいのかもしれない。
理解できない人間がどのようにすれば理解するのか、その生徒がどこでつまづいているのか。体を動かすことが下手な生徒が、どうすれば運動できるようになるのか、そういったことを考えるより、得意な人間にアドバイスをする方が簡単でお手軽だし、自分の評価にもつながる。
もちろんひとりの生徒にあまり時間をかけることが出来ないのも事実だろう。
「いい指導者」と「ただそれが得意な人間」はそもそも異なるのではないだろうか。名ばかりの教師ではなく、生徒の未来の選択肢を増やせるようないい指導者が増えることを願ってやまない。
運動ができる生徒を贔屓するというのはすこし違うと思う。 むしろ運動ができない生徒が無視されるというか、興味がないというか、見えていないというか、存在がなかったことにされ...