はてなキーワード: 自傷行為とは
自分の宮崎駿監督に対する身勝手な期待とか甘えを供養するために書く。今作品は期待半分、不安半分という気持ちだった。宣伝なしということだったし、宮崎駿監督作品を事前情報一切なしで視聴できる機会というのはおそらく最初で最後であろうと思ったので、早バレ等も避けるために数日SNS断ちして初日に見に行った。ただ映画館に向かう足取りの中で最後感じていたのは恐怖感だった。子供のころにもののけ姫を見たときの衝撃を再び与えられて、おっさんになった今再度、人生観を揺るがされるかもしれないと―。
さて、いざ蓋を開けてみると、途中まではリアル物なのかファンタジーのどっちなの?というドキドキや不安感。方向性が確定したときに期待感はMAXとなったが、それ以上膨らむことはなくしぼんでいった―。
美術、アニメーションの美しさは申し分ないが、ストーリーは感情移入できない半端な作りと言ったところで、結局、いつもの宮崎監督後期作品という他ない。今、振り返ってみると監督のキャリアハイとしての作品は千と千尋の神隠しあたりになるのだろうが、その千と千尋も後半から、この半端さの片鱗がある。例えば終盤、千尋は豚の中に両親がいないことを見抜くが劇中にその説明はない。しかしながら説明不足ではあっても、千尋とハクとの心のふれあいみたいなものが十二分に描かれているから、感情的に押しきれている。手を離すシーンとか思い出しただけで泣けるわ。
しかしながら、君生きはストーリーっぽいものや感情の揺らぎみたいな表現はあるものの、説得力というか、それ自体の根拠がはっきりと提示されないから、大抵の観客は感情移入できずに戸惑いを覚えると思う。例えば劇中で主人公の自傷行為や継母の拒絶が描かれるが、その感情の根っこが分からないので観客は困る。自傷はもっと構ってもらいたかったのかな?とか拒絶はやっぱり連れ子がうざかったのかな?とか想像はできるけど見てる側はそれを確定させる要素がないから、多分こうだろうとか理由を補完して見ていくしかない。つまり作品に気を遣う状態になるわけで、それは相当きつい。忖度は要求されるが、圧倒的な感情の「分からせ」がない(※)。監督が一人で突っ走ってる。観客は置いてけぼり。かつて宮崎監督は、見終わったあとに2階から出てくる感覚になるような映画がいいとか言っていたような気がするが(ソース探したが見つからず)、君生きは観客が一生懸命2階への階段を必死に探すものの見つけられないまま塔の中で迷子になり、最後にパヤオだけが悠然と2階から出てくるという感じだろうか(画・浜岡賢次で想像してもらいたい)。
あとはヒロイン?3人は多すぎる。実母に継母に婆さんでしょ?詰め込み過ぎて破綻する典型。正直、継母は全部削除して、序盤で実母エピソード増やして、実母を探しに塔に行く形にして、最後、実母ときれいに別れてで多少は形になったろうにね。もっとシナリオ段階で練ればいいのに…もったいない。
もう一つ、主人公が大叔父と話した後に、急にインコに囚われてるシーンになるが謎過ぎる。壁につながれた手が映ってからの下にパンしたときに、実母でも継母でもなくお前かーいってなったのが一番面白かったかもわからない。宮崎監督が過去、インディジョーンズの潜水艦移動を批判していたが( https://ei-gataro.hatenablog.jp/entry/20131030/p1 )、それと似たり寄ったりだろう。いくら異世界?だからといってワープしすぎである。
※ 宮崎監督とも対談したことのある養老孟司は「バカの壁」において強制了解という語をつかった(p.41)。例えば数学においては前提と論理を共有しているのであれば同じ結論に達せざるを得ない。ある定理の証明を正しく説明されたのであれば、その正しさを了解せざるを得ない。そういった強制力を強制了解と呼んだ。そうした強制力は感情においても成立する。例えば電車で子供が騒いでるのをぼけっと放置している父親がいたとして、普通はそれを理解できないが、もし父親が「実は母親が病院で亡くなって帰る所で、これからどうしていこうかと悩んでいたところなんです」と説明されれば、事情は理解できるだろう。事情が分かれば感情を了解できる。それは物語を受容する過程でも同じことが言えると思う。
なお、この流れで養老は他人の気持ちが理解できることを重視すると同時に、「個性」信奉を批判する。そんなに個性が大事かと。存分に「個性」を発揮している人は病院にいるという。白い壁に毎日、大便で名前を書く患者がいるらしい。芸術的にみればすごいかもわからないが、現実的には大変迷惑でたまらないだろうとのこと。奇しくも本作においては継母の美しい顔が鳥糞まみれになる描写があるのでそういう個性的なスカトロジー的芸術に理解を示す人はいるかもしれない。
こうした一見てんでバラバラに見えるような物語の断片も、もしかしたら宮崎監督だけには分かるのかもしれない。スピルバーグだか有名監督が誰にも分らない映画つくるのはホームムービー撮ってるのと同じだ的なことを言っていた気がするが、もしかしたら本当に宮崎監督はホームムービーを撮ってしまったのかもしれない。自分だけがわかる映画作品を作れるとしたら、映画監督としては最高の贅沢だろう。自分用の映画、私小説と言われたらなるほどという気もする。今回、宣伝がなかったという点でも符号する。これはもはや天才にだけ許された所業なのかもしれない(現実に実行可能という意味で)。
ナウシカだったと思うが、興行的に大失敗とはならなかったことから次の作品を作るチケットを手に入れたみたいな監督のインタビューがあった気がする。ジブリブランドが確立するまではコケたら次はない状態であったろうから、興行面は大変重視されたことだろう。つまり天才は大衆に合わせてくれていたわけである。しかしブランド確立された今となっては、大衆を気にすることなく好きな作品を作れるというわけである(ジブリの体制を維持できなかった点には目をつむるとして)。だから今もしかしたら「天才が本当にやりたかったこと」を我々は目にしているのかもしれない。
過去、パヤオ的感性としてはもっとアニメーション表現に全振りしたかったのだろうが、それじゃあ興行的に成立しないから、ストーリーもしっかりさせていたというのが過去の名作への向き合い方だったのだろうか。我々、一般大衆は天才の現実的な妥協のお陰で、(大衆的には)名作となる過去の珠玉を見せてもらえていたということなのだろうか。凡人が天才にちょっと付き合ってもらったという感じ。天才はちょっと退屈していたのかもしれない。大衆は今の退屈を嘆くのではなく、昔、天才に付き合ってもらっていたということを感謝すべきなのかもしれない。
この作品のそういった諸々の分からなさに対してなんとか理解しようとする感想や、なんとか説明しようとする解説記事などが上がっているのを見かけるが、なんとも物悲しい。めっちゃ面白い作品を骨までしゃぶりつくしたい!という渇望から生まれてくる文章はいい。例えばもののけ姫においては「『もののけ姫』を描く、語る 」というムック本があったのだが、それには一ファンから文筆家まで様々な人々の作品に対するとてつもない熱量で溢れている。でも味のしない作品をなんとかして食えるようにしたいという動機から解説を書いたり、それに群がることの虚しさよ。宮崎監督だから面白いはずなんてことはない。権威主義的だし、もうそれは諦めて次に行こうよ。これを知っていれば、本当は面白いんだよって本気で思っている人もいるかも知れない。でもそういう解説を必要とすればするほど、その面白さが作品内で素直に伝わってないことの裏返しである。野球の大谷がいくら凄いからって彼の(打者としての)ファールや三振をありがたがったりしないでしょ?今回の打席は残念だったねでいいじゃんね。(もちろん宮崎監督の場合、次があるかは分らんが)
さて、作品の表題に立ち返ってみると、これは疑問形である。作品としては名作とはとても言い難い。しかし聴衆に対する問いであると捉えたらどうであろうか。物語がてんで成立していないのに問いかけを見出すことができるのか?うーん正直、自分には無理。味がしないんだから問われたとも感じない。
しかし確かに思ったことがある。それは、大叔父のようなお爺さんに期待するんじゃなくて、自分が見たい作品があるのなら、他にそれを提供してくれる別の人を見つけるか、もしくは自分で作るべきだということ。初めから品質保証なんてものはなかった。自分が勝手に期待して、勝手に失望しているだけのことである。
最後に話がそれるが、しかしながらなぜ我々大衆は次々と名作を望むのであろうか。新作を批判すると「じゃあ、過去の名作繰り返し見とけや!」って言われるかもしれない。そう言われるとちょっと答えに窮する。何度も見ればストーリーも覚え、感動も薄れてくる。やっぱり初見の衝撃に叶うものはないということだろうか。それを再び味わいたくて次の名作を追い求めているのかもしれない。キリがないし、わがままだなって思われるかもしれないが、正直人としての性としか言いようがなくないか?そこを内省しだしたら仙人になるしかない気がする。
あとは現実がつらいからね。時には金払ってちょっといい気分になりたい!ぐらい許してほしい。こっちは作者の高尚な構想にがんばってついていく苦行やマラソンじゃなくて、自動で楽しませてくれるジェットコースターに乗りたいの!
で、初見という点で最近思っていることは「私の体験」を大事にすることが重要なんじゃないかと思っている。ゲームでもなんでもあまりレビューを見ずに体験するように心がけている。あらかじめレビューを見て他の人が面白い!星4以上!と言っている作品なら、安定して面白いかもしれないが、半分ネタバレのようなものではないか?
若い人にはタイパを優先しすぎて自己の視聴体験やプレイ体験を損なっていないかと問いたい。面白さの保険料として自身の体験・感動を売っていないか?と。おじさんおばさんは子供のころに自分で図書館で本を表紙で選んで借りた体験とか、ネットもない時代にゲーム屋で「クソゲーかも知れんがままよ!」と覚悟してゲーム買った記憶とかを思い出してほしい。そういう多少、損するかもと思ってもクソ作品を引く勇気をもって、一対一で作品と向き合う、ぶつかってみるということを時々でもした方がいい気がする。だから、今回、作品に対しては残念だったが後悔はない。純度100%の自分の感想を持てた。展覧会的な感じでいろんなアニメーションを見せてもらったという感触では数千円も損したという気もしない。今後もどんどん色んな作品に触れていきたいと思っている。例えばポノックの次作品はちょっと子供向けだろうけど、子供と一緒に見に行こうかなと思ってる。
視聴しながら、ぼんやりと宮崎監督がゲド戦記作るとしたらこんな感じだろうなと思った。影との戦いでゲドは船で移動するし、ところどころの魔法感や大叔父は大賢者になったゲドのイメージだなと感じた。大叔父のイケオジ度は過去最高かも分らんので一見の価値はあると思う。
インコの大王を追いかける時に螺旋階段を落とされるシーンがあったが、長靴をはいた猫での魔王と主人公たちとの大立ち回りを彷彿させた。この作品の監督は宮崎ではないが、そのクライマックス部分は大塚康生との二人で原画担当した箇所であり、とにかく面白い( https://www.ghibli.jp/shuppan/old/pickup/nagagutsu/ )。1969年の作品なので絵のきれいさはどうしても現代の作品には見劣りするがアニメーションの面白さは今でも通用する。未見の人はぜひ見て欲しい。君生きよりよっぽど面白いと思う。で、君生きでは大王がラスボスっぽくでてくるが大した戦いもなく終わってしまうのであっけない。長靴をはいた猫でのアクションを思い出しただけに、「あ、これだけなのか・・・」という虚しさが半端なかった。念入りに階段落とさせたり、序盤で主人公の着替え丁寧に描写するぐらいならもっと面白いカット増やした方が良かったろうにって思っちゃう。
使いまわし多いし、特に盛り上がる曲もなし。3日で作りましたと言われても信じるレベル。久石譲も「これぐらいの作品ならこれでいいや」って感じだったと思う。絶対、名曲ストック持ってるだろうと思うが、映像側がそれを引き出せなかったというのは至極残念に思う。米津曲も悪くはないけど、作為がちょっと鼻についたかな。いつも何度でもみたいな作品とのマッチ感は正直ない。と言っても作品の味がしないのでどうしようもない気もする。そういう意味では米津もかわいそう。
君たちはどう生きるか、をみた。
自分はジブリファンではないので、物語の先にある「モデル」や「元ネタ」までは考えが及ばないのだが、
「こんなお話だと解釈したぞ〜」ってのを書きたい!(ネタバレあり)
「ライフステージ転換期の、戸惑いと受容を描いたお話」だと思った。
転換期の渦中、心や体の変化に戸惑いを抱える者たちが神隠しにあった〜みたいな。
キリコに関しては、次のステージに引き上げてくれるキャラに感じた。
ちょっと悪知恵をくれる先輩だったり、手助けしてくれる産婆さんみたいな(実際物語では船頭や見守り役に徹するし)。
だけど眞人はこの先の人生に興味がなさそうで、疎開先の学校も嫌、新しいお母さんも嫌、
気持ちはこれから先の「生」よりも、死んでしまったお母さん、つまり「過去」に向いている。
しかし体や心は先へ先へと成長していて、ナツコや父親の「性」に触れて戸惑い、怒りを感じている。
塔への侵入が失敗に終わった後の眞人の声の低さに驚いた。
2次成長の強調を感じて、眞人は少年→青年になりかけている状態なんだなと思った。
初期、アオサギヘ異常な攻撃性を持って接しているのも思春期のあまりあるパワーを感じたw
自傷行為は、クラスメイトへの嫌がらせではなく「こんな環境に送り込んだ父親」を責めたい面もありそう。
「自分が拒否しているんじゃない、周りが自分を拒否しているんだ」という状態を作り出したい、
社会への拒絶を相手のせいにしたい…という受け身な心の表現のように思えた。
アオサギはそんな「社会的死を望む眞人の心の表れ、葛藤」なのかなと。
成長なんかしないでずっと自分の中にいたい!ずっと子供でいたい!みたいな願い。
異世界に行ったのもの「ナツコを取り返しにいくぞ〜!」みたいなモチベがあったわけではなく、
ただただお母さんに会うために、流されるままにいった印象。
なんなら「お母さん=過去」に向かって、成長したくない〜〜みたいな思いも抱えながら向かっている感じ。
同様に、ナツコもつわりに苦しみ、出産が怖かった。いきなりできた息子(眞人)が怖かった。
言われなきゃ妊娠中なんてわからない、母親感のない妖艶なお姉さんビジュ。
そんな、変化が怖い!変わりたくない!状態の眞人とナツコが、同じく殻に閉じこもった大叔父に導かれて異世界へ行ったのかな〜というのが物語の始まりの捉え方。
ヒミとの出会いは、「自分の中の母親像に別の面を見つける」という体験だったんじゃないかなあ。
母親が元少女だったことを知る、そして少女が母親になるということのヒミツを知るというか。
産屋に入る=禁忌を犯す…というのは、「性行為」を知る?とかなんじゃないかなと。
(ナツコとヤったとか、ナツコで抜いたとかじゃなく、どうやったら子供ができるか知っちゃう…みたいな)
ヒミ/ヒサコ、ナツコ、眞人は性行為を知っているから楽園から追い出される…みたいな見方もできるのかなあ。大叔父はそれを知ることを拒んだからずっと楽園にいる。
血の表現の多さや、おどろおどろしいジャムパンは処女性の喪失のようにも思えたし、ジャムとパンはキリスト教で言うワイン(血)とパン(肉)にも思えた。
(あの食事シーンでキリストとの契約=人類を繁栄させ続けることを約束させられたのかな?とも思ったり。)
精子っぽい表現の多用、「命を奪う、頂く」「命が死ぬ、命をつくる」みたいなモチーフも多くて、全体的に「命の受け継ぎ」が描かれてる感じがした。
ワラワラの邪魔をする老ペリカンたちは、戦争によって死んでしまった人や今で言う氷河期世代なんかの
「そう生きざるをえなかった人々=命を繋げなかった人々」なのかなあとも思えて、
その選択や悲しみを否定する気にはならず、敵キャラだとは思わなかった。
このへんは私が出産適齢期を過ぎつつある未婚女性だからそう感じ取ったのかも。
そしてこれだけ性的な印象を感じておきながら、物語全体を通して「子を産め」というメッセージだとは思わなかった。
というか、大叔父の世界で作り出されるワラワラたち=精子たち?は…なんか受精しなさそうな感じがするw
殺生もせず、無垢なもの(加害意識を持たざるもの)の精子の放出は、オナニーなんでないかい…?と。。
ナツコが「あんたなんて大嫌い」みたいに言うのは、眞人だけに向けられた言葉じゃなくて
子供を産み育てることへの恐怖、与えられる存在から「与える・守る存在」に変わらなければならない、母になることへの恐怖の表現なんじゃないかなと。
眞人が「お母さん」と呼びかけることでやや柔和な表情に変わるのは、眞人への好意ではなくて覚悟が決まったような、我を取り戻したような感じがした。
あのシーンでナツコは母になる覚悟、眞人は大人になる覚悟(母親の死を受け入れ新しい母親を受け入れる、実社会と向き合う覚悟)が決まった感じ。
そういう意味ではこの物語は神隠しではなくて、「ナツコの出産」の寓意でもあるのかな?
13個の石の積み木が駿の作品数を意味しているとは思いもしなかった〜!(というかそんな知識なかった!)
英語で12まではeleven…twelve…て数えるけど、13からはteenで数え始めるので、そういうキッズとティーンの境目に留まる…みたいな意味なのかなと思って見てた。
大叔父はキッズにしがみついて、1から13まで積み続けるが13を超えられない(13個詰むとバランスが崩れてしまう)
眞人にとってのアオサギは、大叔父にとってのインコ大王なんじゃないかな。大叔父は、インコ大王と共に自分の楽園に閉じこもることを決めた。
眞人はアオサギを説得し、社会と向き合うことを決めた。13よりその先の世界を作っていくことを決めた。
(この異世界が聖書の楽園だとしたら、キリコは蛇の側面もあるのかな…)
大叔父もけして悪役とは思えなかった。
本をたくさん読んで知識と理想の社会への願いはたくさんあったんだろう。だけど実社会で石を積むことを選ばず、自分の楽園を"理想の世界"にすることを選んだ。
大叔父は眞人を楽園に閉じ込めようなんて思ってなくて、世界へ送り出すことを心から喜び、希望を託しているように思えた。
このシーン、これが駿からのメッセージなんだろうなと思って見ていた。
自分の理想や知識や教養を大切に、でも自分の中だけでもなく、血縁でもなく、半径5mでもない、外の世界と折り合いつけて"よく生きてくれ"みたいな。
いつまでも誰かの作品や誰かに庇護される世界に留まっているなよ〜みたいな。
私たちはみんな14個目のブロックを渡されていて、この世界をよくするためにそれを投じる責任がある。そんなことを思った。
神隠しのような、蘇りのような、胎内回りのような鑑賞体験を通して自分が感じたのは「やだ〜〜思春期追体験みたい〜〜〜」という感想。
アオサギが言ったように、私たちはじきにこの感情を忘れてしまう。
成長と共に、私たちの世界への意志(理想や希望や野望)はどんどん弱まってしまう。だけどカケラぐらいはみんな持っている。
自分が忘れても、キリコ(私たちの思春期を見守っていてくれた少し上の先輩)はうっすらとその青い時代を覚えていてくれる。
この社会の暖かさと、この社会を大人として生きていく自分の責任…みたいなものを感じらせられて、鑑賞後はなんだかじんわりと涙目になってしまったのだった。
アッ…そういえばこの映画には「おわり」がなかった。たぶん。
監督から後世を生きるわたしたちに対して「社会と関わること」「命を紡ぐこと」「ものをつくること」のバトンを受け渡されてるような気がして、
この世界はおわらない、つづいてく…さぁ、君たちはどう生きるか?みたいなメッセージを感じた。(タイトルのまんまァ!!)
この映画難しいなって思ったのは、小さな感情の動きやメタファーっぽいものがバラ撒かれていて、
それらが調理されて最終的にハンバーグやらカレーになって出されるでもなく、そのまま終わるところ。
見る人は、物語のカケラを自分なりに取捨選択して、頭のなかでそれぞれのストーリーに調理しなければいけない。
それゆえ、ジブリや駿ファンはそれを彼らの社史や人生だと捉えるし、そうでない人は何か別のものに捉えるのかも。
(当然"カケラ"だけ渡されるわけなので「なんのストーリーもなかった…なにこれ?」となるのも当たり前。)
私は出産適齢期を過ぎつつある未婚女性なので、どうしてもカケラの拾い方や積み方にクセがあると思う。
でもそういう、「見る人によって様々なミスリードが生まれる=見る人の中にいろんなストーリーが生まれる作品」って本当に面白いと思うんだよね。
結局この映画が見せているのは映画ではなく、自分自身のような気がする。
私の勝手な解釈を読んでイラだった人もいるかもだけど、もしよかったら他の方が感じたストーリーも教えてほしい!
先人の皆さんたちの解説も楽しく読みました〜!!(ジブリいろいろ未視聴なのでほ〜そう読み取ると確かにおもろ〜と勉強になった…
https://anond.hatelabo.jp/20230714205336
韓国ドラマ以下Kドラは、もうそうだと思わせるくらい女の性欲をぶっ刺しにきている。
全部ではないが、こんな話は多い。
昔の韓流メロドラマと違うのは、恋愛要素に加えて、女性の社会的に自立したいという欲求も叶えるという点にある。
これがポルノだと言うのは、ドラマの前提となる設定が余りにも女性側に都合良くできているからである。主人公の女性は男社会でやっていけるくらいの能力を持ちながら、オンナを使えるくらいには美人設定で、言うなれば才色兼備。
また、オンナの使い方も枕営業といった下品なことはしない。あくまで女を盾にして、男なら殴られるから言えないようなことを平気な顔で言い放ったり、好意を向けてくる男をうまく利用したり、といった狡猾な使い方である。
一方、彼女の相手をするイケメンの類は男児のような幼い顔で、大人しく、ツルツルした女性のような顔立ちである。男の暴力性は無害化され、男のわがままは男児の駄々こねに見えるくらい可愛く描写される。
少年漫画や王道アニメでは、仲間のために強くなれる男をヒロインが好きになるという共同体の構造が必ずある。しかし、Kドラは、この共同体の概念を希薄させ、私とあなたの物語の周縁程度にとどめる。そして、最終的には私が気持ち良くなるようにあなたとその周りを改変させていく。この過度な私中心のストーリー展開はポルノ的と指摘せざるを得ない。
しかし、Kドラは女性をエンパワーメントしているとフェミニスト界隈ではむしろ称賛されている。能力を活かして仕事をバリバリこなす筋書きなら理解できる。しかし、オンナを逆手にとって、都合よく愚かに設定した男性社会をのし上がり、一番魅力的な男を自分だけのものにする過程を描くことはエンパワーメントではなく、単なるエンターテイメントである。
同時に、過度に弱体化した男性相手に性的な優位性を取って支配下に置くことはもはやレイプ演出と呼べるのではないだろうか。
しかし、ポルノをポルノだと見抜けないまま大人になると痛い目に遭うのだ。充分に成熟しないとポルノを閲覧してはいけないのはそのためである。これは今まで男の専売特許だと言われてきたが、女にも言える時代が来たのだと思う。女性用風俗が産業になる時代なのだ。
Kドラに感化されるのはいいものの、現実はそこまで都合良くできていない。実際、美人や能力者ではない女性は取り残されるという、ドラマ設定の裏の脅迫に対して多くの弱者女性たちは無力だ。だからこそ彼女たちは美容整形に走ったり、摂食障害になってしまったり、姫扱いしてくれるホストクラブにハマってしまったり、ODに依存したりといった逃避・自傷行為に出るようになったのではないか。
また、現実にはドラマほど愚かな男性は中々おらず、ドラマで見るような鉄槌を下す機会などほとんどない。煮え切らない思いをぶつけるために、一部フェミニストが敵の定義を不必要に押し広げた結果、フェミニズム運動は女性にすら支持されないくらい過激化してしまった。
韓国の異常すぎる整形文化、”韓国フェミニズム”と呼ばれるに至った特殊なフェミニズム、憎悪としか形容できない激烈な男女間対立と、極度に低下した出生率は、Kドラをはじめとする女性用ポルノの悪影響と言えるのではないか。もちろん、依然として残り続ける儒教社会の悪習や、周辺国相手に全く役に立たない弱腰軍隊(や徴兵制)及び政治家への辟易など、男性を糾弾する土壌が先にあって、その欲求に応えるようにKドラが発展し、その価値観を強化して捻じ曲げたとの見方もできる。
日本でも、トー横キッズ、歌舞伎町界隈、港区女子、過激なフェミニズムといった女性が登場する世相の乱れが目立ってきたのは、女性用ポルノの無制限の蔓延をその要因の一つに挙げても良いのではないだろうか。
ポルノは社会の風紀を乱す。だからこそ男性向けポルノは文化的に暗がりに追いやられ、法的にも規制されており、表立って語られるときは冗談や嘲笑の対象にすることで現実との距離感を保っている。
それなのに、Kドラに見られるような女性用ポルノは忌避されるどころか、政治的妥当で、多様性準拠で、年齢制限も緩くて良いものとみなされている。今もなお、エンタメ界のど真ん中を、スポットライトを浴びながら威風堂々と闊歩しているのだ。
ポルノを嗜む主体性を女性が得たことは歓迎するべきことである。しかし、主体性に伴う責任と枷のようなものが、男性側には文化・慣習の中で課せられている一方で、女性はそのような社会的装置を壊すことが近代であったがために、際限のない自由に放たれてしまったことは問題視したい。
自由を阻むものは自分だけである。だから自由は弱き者にとっては呪いでしかない。フェミニズムは弱者女性を救うことができないまま、自由だが不安定な空虚だけを残したのだ。
そんな空虚を埋めるために、男性向けポルノのような規制を受けない女性向けポルノが広まるのは当たり前のことだった。その女性向けポルノが、Kドラこと最近の韓国ドラマなのである。
タバコの話とかもだけど、あとあとも使う要素は目立つようにして何度も入れてきてると思う。
砂糖が貴重だ―って話の直後にシベリアおやつに出てくるのとか、前妻の子供として軽んじられたりはしてないんだなって分かる。
自傷行為は流石に意味不明すぎるて。何なんだこのメンヘラとなって一気に気持ちが離れたわ。
君たちはどう生きるかバードことアオサギの正体を出し渋るのも、作品世界の軸足を異世界に持って行き過ぎないためにナイス判断だったかなと。
羽が手に入る流れは流石に都合が良すぎるね。
ババァの持ち込みもゲームオーバーポイント運で回避しすぎやろと。
助けてるの分かるのに辞めろ―とかマジでなんなん?
つうかあのダクソみたいな世界がどうなってるかって本当視聴者的にどうでもいいんで。
インコに自分からくわれに行くのまじでイライラするわ。でも説明不足すぎてどこに移動したら良いのか分からねーんだよなあのシーン。PRGでボタン連打して行き先聞きそびれたときみてーな。
ジブリ飯だからってジャムつけすぎだよ。妹の子供だからもてなしてますってシーンなんだろうけど、ジャムの食い方が汚すぎてちょっとね。トースト重ねまくっときゃいいだろそこは。
石積み直して1日持たせるシーンがパっと見だとむしろ寿命縮めてるようにしか見えないんだよね。
つうか身内勝手に連れ込んで黄泉平坂出産させようとする塔なんて継ぎたくなるわけねーだろばーか。
んでさ、結局なんの話がしたかったの?
若い頃の母親にあったけど「まあ死ぬのはしゃーないやろ!」で終わらせられて主人公モヤモヤしたままじゃん
つうかあの塔の扉って別の時空に繋がってるはずっぽいんだが、それがどうして「1年ぐらいしたら平気な顔して帰ってきて~~」で同じ世界の過去に繋がってるんだ?作品の都合すぎひん?各並行世界に塔が一本しか刺さってないはずでは?
後半はもう全てが滅茶苦茶で何やってるのか意味不明すぎるし、なにより話のオチが分からん。
「死んだ人間を生き返らせようと思うな」ってこと?
宮崎駿を墓から掘り起こして復活の儀式をしないでくださいってこと?
うーん。
50点やな。
まあ話のつながりは分かるのでな。
「そういう部分もある」では駄目。
これはほぼ100%がそうであるタイプであり、それ以外の部分は繋ぎでしかないと思っていい。
作中に説明不足に見える用語が沢山あるけど、それらは作品の外から持ってくる必要がある。
たとえば戦争映画でわざわざ「日本とアメリカが戦争をしています。日本は最後に負けます」と解説しないのと同じで、作品外から情報を補わせることで作品のテンポを良くしたり仄めかすことでより感情を揺さぶろうとしてる。
まずは作品のラストから遡っていき重要な用語を現実に当てはめて整理していく。
13個目の積み木→宮崎駿の長編監督作品(ルパン2作とコナン1作を含む)13作目が君たちはどう生きるか
血を継ぐものへの継承→宮崎吾朗(アーヤと魔女を見れば分かる通り、継承は失敗している)
インコの王→米林宏昌(それっぽい真似っ子は出来るが……を越えられず、ついには独立してメアリと魔女の花を作っている)
インコ→ジブリのアニメーター(塔(ジブリ)の庇護下にあるときは強いのだが、外に羽ばたいて見せると途端に魔法が解けて拾ってきたときのか弱い生き物に戻ってしまう。インコは結局真似っ子しか出来ねえかんね)
下の世界の死人→アニメーター以外のスタッフ(自分たちでは何も生み出せず、いざ作品が形になると群がってくる)
ワラワラ→未来の太客(面白い作品を見せて育てることで将来的に太い客になってくれる)
ペリカン→客を食い物にしようとするアニメ関係者(せっかく育てた客を食っていく。傷ついた客がアニメに愛想を尽かすすことも)
これがマジで難しい。
アニメーターとしての宮崎駿だと考えることも出来るし、宮崎吾朗の成長物語だったのかも知れないし、鑑賞者の分身だったのかも知れない。
そういった全てが重なり合った存在であったと解釈するのが自然ではあるのだが……。
たとえば自傷行為で心配されているのは宮崎駿が引退するする詐欺で周りを振り回したときの様子にそっくり。
ことあるごとに鈴木敏夫に振り回されているのは宮崎駿もそうだけど鑑賞者側も同じなわけで。
主人公は最初、本当の母親との再開を求めて塔に向かうが、途中から新しい母親を連れ戻すための冒険も同時に進行していく。
塔の中では幼少期の本当の母親と再開し、最後に別れを告げることになる。
また、新しい母親のことを最初は他人行儀に読んでいたのが、夏子母さんと母であることを認めることで取り戻すことに成功する。
結果として、どちらもが本当の母であると言わんばかりの終わり方となる。
これは宮崎アニメにおいて「ヒロインをどのようなキャラクターとして造形するか」についての葛藤を描いているのではないか。
ハッキリ言えば、「ロリコン趣味を疑われながらも少女を主人公とするべきか、そうではないヒロインを描くべきか、それらは物語や世間が求めるヒロイン像により時には重なり合い時には反発する」という話をしたかったのだと思う。
歪な時間軸の中で幼少期の母に出会いヒロインとして共に冒険しながら、もう1人の大人のヒロインを救出に行くという混沌とした物語構成が、常にその葛藤に晒されてきた宮崎駿の複雑な心情を描いているのである。
こうして纏めてみると結構スッキリした話なんじゃね?(むしろドロドロって気もするけどな(笑))
宮崎駿の目から見たジブリの物語を描いてますよって感じなのでは。
「君たちはどう生きるか」というタイトルはこの状況に対しての語りかけで、どこに向けてそれを言ってるのかで意味は変わるんだと思う。
ジブリと関係が深い人に対しては「俺が引退した後好き放題するんだろうけど、何をする気?」みたいな感じだろうし、インコに対しては「真似る相手がいなくなったらお前らもう本当に何も無くなるんじゃね?」とかなんかな。
でもインコの話について観客に対しても「お前らもインコになってねえか?」って圧かけてきててもおかしくないんだよなーこのお爺ちゃん職人気質とかいてパワハラって読むような所あるからさー正論で人を追い詰めるマチズモなんだよなー。
しょーじきここまでメタファーまみれだと「風斬りの7番」とかも分かる人には分かる要素なのかもね(鈴木敏夫の弱点って聞くと咄嗟にとある女性が思い浮かんだりしちゃうが、アオサギ=鈴木敏夫じゃなくて高畑勲って解釈もできるし焦っちゃ駄目ね。高畑勲の場合は柳川堀割物語かな。まあ人間なんかしら人生に汚点はあるからこじつけようと思えばいくらでも出来ちゃうね)。
アオサギを適当な人物に当てはめて「宮崎駿が「お前とは色々あったけど本当に友達だったと思ってるぞ」と言ってるんだ―尊いー(T_T)」って適当に感動しときゃええんちゃう。
作画スゲーだけで終わらせるのも吉。
ジブリは滅びますぞ―のセンチメンタルそのものについて鑑賞者まで深く考えんくていいと思う。
マザコンなのかロリコンなのかハッキリしろって突っ込むとか、宮 崎 吾 朗 wwwwwみたいにヤジを飛ばすとかは見終わってからまでわざわざせんでええのかもなと。
やっぱ全体としてストーリーラインが雑というか、もののけ姫とかに比べて不自然さは凄いし、ストーリーだけを楽しもうとするのは厳しいね。
マクガフィンが母親であることのパワーを過信しすぎて「え?そこまでする?」になってるのがあまりよろしくないのよねー。
メタファー込みで考えると上手い具合に物語に落とし込んだなって感心はするけど、そんなの見せられても困るんですよお爺ちゃんって感じよ。
子供が不幸にあった記事とかで軽く自分に重なるところがあったものだから、一文でお悔やみコメントをしたことがあるんだ
でもそのほかにその子供や親をなじる心ないコメントが散見して、さらにそういうものを上から目線で抑え込むコメントが上位に食い込むことがある
さらにそれが派生すると、増田とかで空中戦が繰り広げられるケースもある
そうなったときの最終的な着地点が「まあ、ブクマカは愚かで馬鹿だから」とか「ネットの書き込みなんぞそんなもの」という安直な自傷行為ばかりになる
そこに俺のような愚にもつかない人間を巻き込もうとしているようで、、滅茶苦茶気持ち悪い思いを何度かした
コメントに注目してもらいたいとかないのに、両極端な意見しかいらないという風潮が根付いているようなので自分の思うツールとは完全にかけ離れているんだなと思っている
単なるブックマークにコメントやタグをつけて思い返したいだけなのに、なんで関係ない連中の争いに強制的に巻き込まれなきゃならないんだろうな
そんでそういう意見が別に出てくると「俺たちのような人間にはここが必要なんだ」「辛辣なコメントしてると楽しい」とかいう意見にスター集まって、あっ、ちげーわってなる
おじさんたちがどう感じていようが構わないが、身勝手で気持ち悪い主義主張の掛け合いの場にされているのは、ちげーなって
いまはdiscordやNotionをメモ・ブクマ代わりにしている
はてぶは便利だったけどこんな感じなのですごく気分が悪い
俺は自傷行為として性加害してる
なぜそんな店が多々あるかと言うと、サービスとして容姿や技術、ホスピタリティで勝負出来ない嬢が世の中には沢山いる
出来る嬢は高級店やオプションがそれなりの値段の店に在籍出来るが、出来ないととにかくオプションが無料で過激な店にしか勤められないからだ
俺は風俗嬢として無能な嬢が在籍する店でとにかく乱暴の限りを尽くしてる
小便をぶっかけたり
糞着きのケツの穴を舐めさせたりとめちゃくちゃやってる
当然性病のリスクは承知しているが、そんなことはどうでもいいんだ
お前らは女性や弱者を守りたいという建前を振りかざすだろうが、そういう言説へのカウンターとして、かつ自分への自傷行為としてこれらの行為を行ってる
この手の店に勤める嬢は本当に酷いぞ
例えば、店は嬢に広告としてブログを書くことを推奨するが、嬢はまともに日本語を書くことが出来ていない
明らかに知的ボーダーで宣伝になるような文章は愚か、普通の文法すら危ういレベルだ
俺は、そういう嬢を捕まえてはめちゃくちゃにするわけだ
お前らはその手の嬢と同じレベルの知能指数だから生活保護でも受けさせればいいのではないかと言うだろうが、無理に決まってるだろ
まともに飯や良い男への欲望は満たしたいから、生活保護の金でなんとかなるわけないんだ
だから俺のような男に安い金で小便や糞を浴びせかけられて、生きていくしかない
これが平等な社会とか言うまやかしを掲げるお前らへのカウンターになるわけだ
今日もお前らが形だけ掲げる平等というお題目を崩す為に、俺は弱者に小便をかけ性病を振りまく
最高だろ
これはお前らへのカウンターとして行われてる合法な行為なんだぜ?
最高だよ
最高に気持ち良いよ
その後、いい歳になってもコミュ障が治らなくて、人が怖くてどうしようもなくなってしまった。
コミュニケーションの本を読んでも、場数を踏んでも治らない。
何にしても辛くて辛くて、もう働けくなるかも、というところまで来た。
そして精神科(メンタルクリニック)を受診したら「社交性不安障害」と診断がついた。
先生が言うには。。
不安が強いんでしょう、と。
そして、
自己肯定感が低い
↓
でも承認欲求はある
↓
↓
言葉を選んでしゃべりづらくなる
短期間での気分の浮き沈みも激しくて、それも不安が強くなるとガタガタと落ちてしまうんだろうと。
なんだか色々納得がいった。
そして処方された薬を飲むようになった。
薬を飲んだからといって、別にスラスラ雑談ができるようになったりはしない。
ただ、不安が軽減されてく人に話しかけたり、会話したりする際にかなり楽になった。
精神状態が落ち着き、自傷行為や自●未遂未遂(紐を結んでいたら猫が遊びだしてほっこりして中断した)もしなくなった。
生きることの辛さがだいぶ減ったと思う。
これまでは飲酒ODリストカット首絞めセックスだった"ぴえん"界隈で近年起きているムーブメント。北米経由で来たもので、「酒類をたっぷり吸わせたタンポンを膣内に挿入し粘膜吸収で即効性の高い気絶を楽しむ」という新たなムーブメントが起きているのだ。しかし、この行為、中には急性アルコール中毒で吐瀉物を辺りにまき散らし救急搬送されるという悲惨な話も聞く。
我が国が誇る私立中高一貫セルフクンニ軟体開発女学院の生徒たちも、深い繋がりのある"ぴえん"界隈の惨状に胸を痛めていた。生徒自ら"アルコールタンポン"を試してみたのだが、日々過酷な訓練を課され高いストレス耐性と並外れた体力を持ち合わせた生徒たちでは気絶にまで至る事はできなかった。むしろ、アルコールの回った状態で"殺人潮吹き"の命中精度をどれだけ高められるかという話に発展する始末である。その結果、ある日岐阜市日野射撃場にてその腕前を競おうということになった。
私立中高一貫セルフクンニ軟体開発女学院は飛騨山脈の某所に所在する。その生徒1919人は揃って山岳踏破用の装備に身を包み、徒歩で当射撃場へと向かった。
闘争心を剥き出しにして攻撃的な感情が高まっている生徒たちは道中、どちらの家庭環境が酷かったか、どちらの出身地がより田舎で、気の弱い両親がつらい目に遭っていたか、どちらのリストカット跡のほうが壮絶か、などで一悶着を起こした。しかし、当女学院出身で一時は陸上自衛隊に在籍していた教員たちが、ここ最近入手困難になっていたロシアのヤバい粉を生徒全員に何色も配布し目元と大陰唇により過激な地雷メイクを施す時間を与えることで、生徒同士の小競り合いは収まった。
彼女らは明くる朝に無事日野射撃場へと到着する。しかし「当射撃場は今日中は"陸上自衛隊守山駐屯地"の新隊員が射撃訓練で使用するので"殺人潮吹き"の訓練は認められない」「そもそも"殺人潮吹き"ってなんだ、ふざけんなお前ら何者だ」と管理者がごね出した。その為、生徒の一人が手首を貝印カミソリで切り裂き、赤い刀身にしたいわゆる"リスカブレード"を首元に突きつけ黙らせようとする。しかし、教員らにそれは止められた。
「たまには自然に囲まれた屋外で、まったりとセルフクンニに耽り、田畑を荒らす害獣をターゲットに"殺人潮吹き"を実施するのもいいのでは」という提案に生徒たちは最初は難色を示した。彼女らはスマホをいじりながら、「広末涼子W不倫」の報道を知り"ハイパーメディアクリエイター"高城剛への罵詈雑言に発展するが、それは沢尻エリカの元夫の間違いであることは明白だった。そして、広末涼子の夫はキャンドルジュンであること、鳥羽周作がクラシルで披露したガパオライスのレシピは私が月に一回は作っているくらいうまいこと、で諭されることになる。
結局彼女らは、「日没を待って"アルコールタンポン"を膣内に挿入し、300m以上先に設置した蝋燭の火を殺人潮吹きで誰がどれだけ消せるか競おう」という話になっていった。その時を待ちセルフクンニに勤しんでいた最中、日野射撃場で何かトラブルがあったようだった。異変に生徒たちは駆けつけようとしたが教員に「今セルフクンニ軟体開発女学院の存在を公に出すわけには行かない」と制止された。
日が暮れると、動揺の中灯籠流しを思わせるターゲット相手に殺人潮吹きを開始したが、生徒たちの動揺はいまだ収まらなかった。
基本的にぴえん界隈の怒りは
さらには、そのことをコンセンサスに、彼ら氷河期世代の一部が、(津田大介が良い例だが)
社会問題を斬った気になっていることも怒りの火に油をそそいだ。
結果、(トー横問題のような)彼らの最も嫌うメンヘラDQNが勝手に自滅してるだけなのに、
と、喚くような拝金主義の醜いクソキモおじおばに痛い目を合わせてやりたい、という気持ちが彼女らには強く起こりすぎた。
結局灯籠相手には一度も"殺人潮吹き"は行わず、「我々の真の敵である”無責任な昭和生まれ"の"氷河期世代" "負け組" "欠陥品" "クソキモ"おじおばたちに対して天誅を与えるべきでは」という論調が場を支配しながら、彼女たちは私立中高一貫セルフクンニ軟体開発女学院に帰還した。
帰還後、彼女たちは著名なSNSに一斉にサイバー攻撃を仕掛け、若年被害女性を一見心配しながらも一切身を削って支援救済をする様子のない偽善的なクソキモおじおばをリストアップし、本日フレンドリーファイアを実施した18歳の自衛官候補生に思いを巡らせながら、より社会への不信感を募らせていき、今日も涙を流し自傷行為に耽っていくのであった。
この記事は、社会の問題や様々なジェネレーション間の摩擦について述べています。特に、「開発女学院」と呼ばれるグループに焦点を当てているようです。
"開発女学院"の存在は公にされず、その一方で彼女たちは社会問題について深く悩み、その中で自身の立場や行動を模索しているようです。彼女たちは、社会的な不公平や若年被害女性への支援の不足、そしてリモートワークや学生、ブルーワーカーへの無関心など、様々な問題に対する関心を持っています。
また、彼女たちは特に自分たちの親世代、つまり昭和生まれの氷河期世代に対して批判的であり、彼らが自分たちの苦境に無関心であると感じています。さらに、彼女たちは自分たちが苦しんでいるにも関わらず、社会や政府がそれに対して何もしてくれないという不信感を抱いています。
それでも彼女たちは、自身の問題に取り組むために行動を起こしています。記事の中では、彼女たちがSNSで一斉にサイバー攻撃を仕掛け、問題を抱える若年被害女性に対して実質的な支援をしていない人々をリストアップするという行動を起こしたと述べています。
しかし、彼女たちは社会的な問題に対する自分たちの対処法についてはまだ模索中であり、それが自傷行為へと繋がっているとも述べられています。
この記事は非常に抽象的で、具体的な話題や事象が直接的にはほとんど指摘されていません。そのため、全体的な要約は難しいですが、上記の内容は記事の大まかな内容をカバーしています【7†source】。
サヤスカーレットが和室界隈の貢ぎ物を食い尽くしそうで震えてる。
近年ぴえん界隈では飲酒ODリストカット首絞めセックスに加え酒類をたっぷり吸わせたタンポンを膣内に挿入し粘膜吸収で即効性の高い気絶を楽しむという新たなムーブメントが北米経由で起きてはいるが、中には急性アルコール中毒で吐瀉物を辺りにまき散らし救急搬送されるという悲惨な話もあり。
我が国が誇る私立中高一貫セルフクンニ軟体開発女学院の生徒たちも深い繋がりのあるぴえん界隈の惨状に胸を痛め、生徒自らもアルコールタンポンを試してみるも、日々過酷な訓練を課され高いストレス耐性と並外れた体力を持ち合わせた生徒たちでは気絶にまで至る事はできず、アルコールの回った状態で殺人潮吹きの命中精度をどれだけ高められるかという話に発展し、岐阜市日野射撃場にてその腕前を競おうということになった。
飛騨山脈のどこかに所在する私立中高一貫セルフクンニ軟体開発女学院の生徒1919人は山岳踏破用の装備に身を包み、徒歩で当射撃場へと向かったが、闘争心を剥き出しにして攻撃的な感情が高まっている生徒たちは、道中どちらの家庭環境が酷かったか、どちらの出身地がより田舎で気の弱い両親がつらい目に遭っていたか、どちらのリストカット跡のほうが壮絶かなどで一悶着あるも、当女学院出身で一時は陸上自衛隊に在籍していた教員たちがここ最近入手困難になっていたロシアのヤバい粉を生徒全員に何色も配布し、目元と大陰唇により過激な地雷メイクを施す時間を与えることで、生徒同士の小競り合いは収まり、明朝には無事日野射撃場へと到着する。
しかし、当射撃場は今日中は陸上自衛隊守山駐屯地の新隊員が射撃訓練で使用するため、殺人潮吹きの訓練は認められないということになった。そもそも殺人潮吹きってなんだ、ふざけんなお前ら何者だと管理者がごね出した。
そのため、生徒の一人が手首を貝印カミソリで切り裂き、赤い刀身を発生させたリスカブレードを首元に突きつけて黙らせようとするが、教員らにそれは止められた。
生徒たちは、まったりとセルフクンニに耽りながら自然に囲まれた屋外で田畑を荒らす害獣をターゲットに殺人潮吹きを実施する提案も最初は難色を示した。しかし、スマホをいじりながら広末涼子W不倫の報道を知り、ハイパーメディアクリエイター高城剛への罵詈雑言に発展する。
その後、沢尻エリカの元妻であり、広末涼子の夫はキャンドルジュンであり、鳥羽周作がクラシルで披露したガパオライスのレシピは私が月に一回は作っているくらい美味しいと諭される。それからは、日没を待ち、アルコールタンポンを膣内に挿入してから300m以上先に設置した蝋燭の火を殺人潮吹きで誰がどれだけ消せるか競おうという話になっていく。
その時を待ちながら、セルフクンニに勤しむが、日野射撃場で何かトラブルがあったらしく、生徒たちが駆けつけようとするも、今セルフクンニ軟体開発女学院の存在を公に出すわけには行かないと制止される。
日が暮れると、動揺の中で灯籠流しを思わせるターゲット相手に殺人潮吹きを開始するが、生徒たちの動揺はいまだ収まらず、基本的にぴえん界隈の怒りは実家の太い東京プロパーとのゼロサムゲームで負けて、尚上京以外は死という価値観に拘り、身の丈に合わない高コストな生活を強いられている。その上で、自分たちを産み金の問題で育児放棄もしくは独身を選択し、バブル世代が安倍が竹中がと被害者面をしながら、もっと酷い目に遭っている若年者には決して関心を持たず、福祉に繋げの一点張りで、大した稼ぎもないのに高額納税者気取りで一銭も寄付をせず、関心を持とうとしないアウトソーシング思想に侵された発達障害氷河期世代の親と同世代の大人へと向けられていることをコンセンサスに、彼ら氷河期世代の一部が津田大介が良い例だが、いい歳こいて気持ち悪いアニメゲームパソコンに夢中で社会に無関心なのは恥ずかしいという身勝手な発想から、駆け込み寺的に欧米経由の簡単正義マニュアルを自閉症のように暗記し、マニュアル通りの血の通っていない言葉で社会問題を斬った気になっている。
しかし、彼らの最も嫌うメンヘラDQNが勝手に自滅しているだけなのに、若年被害女性がフェミニズムがとマニュアルに引っかかる要素に惑わされた結果、バグって福祉はどうなっている国がどうにかしろと年齢が重なる彼らの親に対しては一切批判せず、的外れなことを連呼し、進学新卒にコロナが重なって精神を病んだ若者には一切関心を持たず、自分はリモートワークだからどうでもいい、学生はどうでもいい、ブルーワーカーはウイルススプレッダーだから死ねと、持ち前の差別心を発揮したのか知らないが、自粛ムードを煽るような発言を繰り返し、コロナ感染者は時勢を顧みず燥いでいた人殺し予備群の汚物だ、消毒しろ、俺に私に金をよこせ、政府はどうなってるんだと喚いていた。拝金主義の醜いクソキモおじおばに痛い目を合わせてやりたいという気持ちが強すぎたため、結局、灯籠相手には一度も殺人潮吹きは行わず、我々の真の敵である無責任な昭和生まれの氷河期世代負け組欠陥品クソキモおじおばたちに対して天誅を与えるべきではという論調が場を支配し、私立中高一貫セルフクンニ軟体開発女学院に帰還した。
彼女たちは著名なSNSに一斉にサイバー攻撃を仕掛け、若年被害女性を一見心配しながらも、一切身を削って支援救済をする様子のない偽善的なクソキモおじおばをリストアップし、本日フレンドリーファイアを実施した18歳の自衛官候補生に思いを巡らせながら、より社会への不信感を募らせていき、今日も涙を流し、自傷行為に耽っていくのであった。
近年ぴえん界隈では飲酒ODリストカット首絞めセックスに加え酒類をたっぷり吸わせたタンポンを膣内に挿入し粘膜吸収で即効性の高い気絶を楽しむという新たなムーブメントが北米経由で起きてはいるが中には急性アルコール中毒で吐瀉物を辺りにまき散らし救急搬送されるという悲惨な話もあり我が国が誇る私立中高一貫セルフクンニ軟体開発女学院の生徒たちも深い繋がりのあるぴえん界隈の惨状に胸を痛め生徒自らもアルコールタンポンを試してみるも日々過酷な訓練を課され高いストレス耐性と並外れた体力を持ち合わせた生徒たちでは気絶にまで至る事はできずアルコールの回った状態で殺人潮吹きの命中精度をどれだけ高められるかという話に発展し岐阜市日野射撃場にてその腕前を競おうということになり飛騨山脈の何処かに所在する私立中高一貫セルフクンニ軟体開発女学院の生徒1919人は山岳踏破用の装備に身を包み徒歩で当射撃場へと向かったが闘争心を剥き出しにして攻撃的な感情が高まっている生徒たちは道中どちらの家庭環境が酷かったかどちらの出身地がより田舎で気の弱い両親がつらい目に遭っていたかどちらのリストカット跡のほうが壮絶かなどで一悶着あるも当女学院出身で一時は陸上自衛隊に在籍していた教員たちがここ最近入手困難になっていたロシアのヤバい粉を生徒全員に何色も配布し目元と大陰唇により過激な地雷メイクを施す時間を与えることで生徒同士の小競り合いは収まり明朝には無事日野射撃場へと到着するが当射撃場は今日中は陸上自衛隊守山駐屯地の新隊員が射撃訓練で使用するので殺人潮吹きの訓練は認められないしそもそも殺人潮吹きってなんだふざけんなお前ら何者だと管理者がごね出した為生徒の一人が手首を貝印カミソリで切り裂き赤い刀身を発生させたリスカブレードを首元に突きつけ黙らせようとするが教員らにそれは止められたまには自然に囲まれた屋外でまったりとセルフクンニに耽り田畑を荒らす害獣をターゲットに殺人潮吹きを実施するのもいいのではという提案に生徒たちは最初は難色を示しスマホをいじりながら広末涼子W不倫の報道を知りハイパーメディアクリエイター高城剛への罵詈雑言に発展するがそれは沢尻エリカの元妻であり広末涼子の夫はキャンドルジュンであり鳥羽周作がクラシルで披露したガパオライスのレシピは私が月に一回は作っているくらいうまいと諭されてからは日没を待ちアルコールタンポンを膣内に挿入してから300m以上先に設置した蝋燭の火を殺人潮吹きで誰がどれだけ消せるか競おうという話になっていきその時を待ちセルフクンニに勤しむが日野射撃場で何かトラブルがあったらしく生徒たちが駆けつけようとするも今セルフクンニ軟体開発女学院の存在を公に出すわけには行かないと制止され日が暮れると動揺の中灯籠流しを思わせるターゲット相手に殺人潮吹きを開始するが生徒たちの動揺はいまだ収まらず基本的にぴえん界隈の怒りは実家の太い東京プロパーとのゼロサムゲー厶に負けて尚上京以外は死という価値観に拘り身の丈に合わない高コストな生活を強いられながらも自分たちを産み金の問題で育児放棄もしくは独身を選択しバブル世代が安倍が竹中がと被害者面をしながらもっと酷い目に遭っている若年者には決して関心を持たず福祉に繋げの一点張りで大した稼ぎもないのに高額納税者気取りで一銭も寄付をせず関心を持とうとしないアウトソーシング思想に侵された発達障害氷河期世代の親と同世代の大人へと向けられていることをコンセンサスに彼ら氷河期世代の一部が津田大介が良い例だがいい歳こいて気持ち悪いアニメゲームパソコンに夢中で社会に無関心なのは恥ずかしいという身勝手な発想から駆け込み寺的に欧米経由の簡単正義マニュアルを自閉症のように暗記しマニュアル通りの血の通っていない言葉で社会問題を斬った気になっているけどトー横問題のような彼らの最も嫌うメンヘラDQNが勝手に自滅してるだけなのに若年被害女性がフェミニズムがとマニュアルに引っかかる要素に惑わされた結果バグって福祉はどうなっている国がどうにかしろと年齢が重なる彼らの親に対しては一切批判せず的外れなことを連呼し進学新卒にコロナが重なって精神を病んだ若者には一切関心を持たず自分はリモートワークだからどうでもいい学生はどうでもいいブルーワーカーはウイルススプレッダーだから死ねと持ち前の差別心を発揮したのか知らないが自粛ムードを煽るような発言を繰り返しコロナ感染者は時勢を顧みず燥いでいた人殺し予備群の汚物だ消毒しろ俺に私に金をよこせ政府はどうなってるんだと喚いていた拝金主義の醜いクソキモおじおばに痛い目を合わせてやりたいという気持ちが強すぎた為結局灯籠相手には一度も殺人潮吹きは行わず我々の真の敵である無責任な昭和生まれの氷河期世代負け組欠陥品クソキモおじおばたちに対して天誅を与えるべきではという論調が場を支配し私立中高一貫セルフクンニ軟体開発女学院に帰還した彼女たちは著名なSNSに一斉にサイバー攻撃を仕掛け若年被害女性を一見心配しながらも一切身を削って支援救済をする様子のない偽善的なクソキモおじおばをリストアップし本日フレンドリーファイアを実施した18歳の自衛官候補生に思いを巡らせながらより社会への不信感を募らせていき今日も涙を流し自傷行為に耽っていくのであった
かつて献血に行っていた時期があった。
ふとそんな文章を書いたなと思って調べると、当時のものがそのまま出てきた。
https://anond.hatelabo.jp/20180115145722
正確に言えば、献血や、献血ルームで食べるアイスの味やらで、なんとか騙し騙し健常者だと思い込めていただけで、実はずっと前から病んでいたらしい。
だから、寂しくなると献血に行くという僕の発想は、穏便な自傷行為のようなもので、褒められたものではなかったかもしれない。実際にそういう指摘コメントもあった。
だが、動機に関係無く、当時の僕の寂しい血液は誰かの役に立っている。それだけは揺るがぬ事実だ。
精神科医に、「初めて死にたいと思ったのはいつですか?」と尋ねられて、ちょっと考えると、すぐ思い出せた。「6歳の時です」と答えた。
色んな検査をして、双極性障害という病名が告げられた。障害者手帳が交付された。「辛かったですね」と色んな人に言われたりして、その安易な言葉に泣きそうになる自分が滑稽に見えた。
薬を飲み続けることでようやく障害者雇用で働くことができている。でも半年も続かないことばかりだ。薬を飲んでも、ままならない寂しさが付き纏う。献血に行きたい。それでかつて書いた記事を思い出した。5年経っていた。5年の間に、僕の血液は医薬品に浸り、誰かのヒーローになることは叶わなくなっていた。
あの時、まだ自分が、「なんとなく寂しい」だけで済んでいた時に、血液の塊になってしまえていたらよかったかもしれない。
いや、もはや、初めて死にたいと思った6歳の時、あの時に本懐を遂げていたらよかったのかも。
でも、そうすると、僕の寂しい血液で生き延びた人の命がパラドックスに巻き込まれて消えてしまう。それはいけない。
なので、僕は僕の寂しい血液のおかげで、今日も生きていることとなる。寂しくても誰かの役に立ちたいと、そう思ってしまうせいで、今日も生きているせいで、献血には行けない。
もう日本男さんは、自分でわざわざセックスや恋愛を諦めて二度と性愛に関わらないし女性との性行為を望みませんって行動で示してるんだなと思ってるけどさ。
死亡率の高い手術を受ける病人を医師がジョークにしてるようなもんだからね。不謹慎だしそんなん口にすべきじゃないしバケモンだろ。
しかし、この期に及んで非モテとか一生童貞は嫌だとか彼女いなくてつらいとかセックスしたいとか言ってる奴までいるからね。
意味わかんないよな。
自分でわざわざ行動でセックスを望まない人間ですって示してるんだわ。女からセックスを拒まれたくてやってんだろ?希望通りで満足だろ
ガタガタうるせえなって感じ
大前提として、侵襲性の高い危険行為だし、妊娠させて子作りをするための行為だから
スポーツや娯楽じゃなくて、手術とか危険を伴う医療行為くらいの認識であるべきなんだよね
避妊しててもセックスは結局スポーツや娯楽ではなく子作りでしかない
根本的に子作りであるという自覚を持たないなら一生セックスに関わろうとか女とセックスしようとか考える資格ないからね
最悪、子供に一生金を出す覚悟とか出産費用を全額支払って出産前後の女性の介助をして家事も育児も仕事も全部やって、出産で女が病気になったら全快するまでずっと養って治療費出して、女は出産で死ぬかもしれないし、責任と事実を一生背負うという覚悟は、セックスをするときにはうっすら脳裏になければいけない
侵襲される女側が言うならまだ自傷行為かなってわかる(わからない)けどさ
相手に侵襲させてもらっている立場である男側が、他人の体を使ってエンタメとか自信つくとか自己受容感高まるとかって何?
幸せなコミュニケーションとか愛を感じるアクティビティとか2人の絆の確かめ合いとかも、そういう一面はあってもあくまで子作りという認識の上で言ってるんじゃなければ考えが甘すぎると思うわ
医師が死亡リスクもある病人の肉体の手術について、治療よりも自己肯定感や自己受容感高まるとか最高の娯楽とかふざけたネタがおもろいとか考えてたらバケモンだろ
日本人男の殆どにセックスする資格ないし女性との性愛には一生関わる資格ないっすね
【追記】
見にきたら伸びてて草
lowarc 先にこれ見てその後にツリー元の元増田見て驚愕した。エントリ間違えてトラバしたのかと思った。発言は構わんが、ここにトラバするのは違うだろ。笑点の最中にネタにマジ切れして舞台に殴り込みしちゃうような酷さ
こういう話題を安直にジョークにしてしまう文化に呆れてるのでね、笑点がもし人の死ネタや動物虐待ネタや差別ネタなんかで笑いを取ってたら殴り込みに行くよ。
Aion_0913 まあ、なんていうか元ネタはてめえのおちんぽを愛でるためにイマジナリー女体が必要で性暴力妄想するヤバさなんで、ナルシズムに他人を使うなって話だよね。おちんぽにメイクとかすればいいのに。
わかってくれて嬉しい。
WinterMute 日本関係なかった。「ほとんどの男にはセックスする資格がない」認定は、現実と乖離しすぎていて資格認定に意味がないような気がするけど、まあ宗教ってそういうもんかな
日本の、こういった内容を笑いにするとか、嘲笑する、本音の悪質さとか、陰湿な面での差別や蔑視の強さは相当なものと思う
宗教を「論理性よりも信仰性への指向」と定義するなら、ここまで「世間(信仰対象)ではこうなんだぞ」「お前はおかしい、ノリ(信仰対象)を分かれ、世間の普通(信仰対象)に従え同化しろ」くらいの反論しかきてないしこいつらの方が宗教ぽい
Tamemaru 最初の行をうなずきながら読んでたけど、その後の内容が……まさか、日本の男性がまだ現実の女性に未練があることにしたがっているの?ちょっと自己評価高すぎでは。二度と性愛に関わらない方が近く多数派になるよ。
性行為の認識について上の記述に納得できないのであれば、当然そうするべきと思う。行為の侵襲性の高さに自覚的になれない人物は女性との性愛に触れるべきじゃないと思うので
【追記2】
modoroso 増田は「セックスは暴力であり生殖のためにギリ許されている行為」と考えてるってことなのかな?なので暴力をネタにしたお笑いに対してそんなものネタにするなと怒ってると。それは行き過ぎた性嫌悪だと思う
性を嫌悪しようとはどこにも書いていない
覚悟と責任ある者が正しく侵襲性を理解して高いモラル高い配慮と慎重さの中で性行為することについて何も反対していない
natu3kan プロスポーツも苛烈な練習で一生の障害が残る様な侵襲行為だけど支持されてるし度合い問題。コミュニケーションも精神的な不可逆的な侵襲を伴う行為だけど、一人で社会が完結しない以上、自動車のように容認されてる
危険だから女性の自己決定権を奪おうとは言っていない。パターナリズムどこからきたんだよ
医師の手術にモラルを求めてもパターナリズムにはならんだろ。アンチフェミもどこからきたんだ
kaz_the_scum パイプカットし、HPVワクチン接種し、ゴムを使えば、増田が気にしていることは解決できそうな気がする。 手術とワクチン接種で15〜20万。ゴムはいくらになるんだろうな。
解決の方法の一つとしてはいいかもですね。それに加えてネタ化ジョーク化への慎重な態度と高度の注意義務も必要と思います。男女問わず性的なトラウマは精神的影響やダメージも大きい事柄なので