はてなキーワード: 中間テストとは
・来年から毎年、高3生は、6月と11月にセンター試験と同じくらいの重み・規模で、英検かGTEC(ベネッセの検定)を受けることになる。
というもの。
田舎(離島ではない)の進学校に勤めている自分の身の回りで起きていること、心配事を挙げてみます。
・英語外部検定は7種類あるが、田舎なので、受験会場が多い英検かGTECの2択。
・進学校なので学年全員が受験する。入試に直結する重要性から、受験会場までは学校でバスを借りて教員が引率する。学校行事のような位置付け。ちなみに現行のセンター試験も学年バス旅行、教員引率、ホテル借り上げて宿泊、弁当手配、などやっている高校がある。
・学年受験旅行は大がかりなので、学校として受けさせるのは英検かGTECのどちらか一つが限界。
・GTECも英検も期間内に2回受けられるが、基本的に、6月の第一回は試験が11月にある推薦やAO入試への出願に利用。11月の第二回は一般入試に利用。推薦入試を受けたい生徒にとっては6月が本番。
・6月というと、運動部は高校3年生の最後の県大会の時期で忙しい。今までの受験生より早く入試が始まることになるが、最後の大会に集中できるのか。実際、来年6月のGTEC試験日と部活の大会日程が重なっている部がある。その部の生徒だけ英検を申し込ませるなどの別対応が煩雑。
・そもそも6月は多くの学校で中間テストが行われる。英検やGTECの検定日周辺に、学校行事が重ならないようにする調整が必要。学校の年間行事計画はだいたい前年踏襲なので、大幅に変えると各所で混乱が生じる。
・検定試験を受けるのは来年度だが、申し込みを前年度の秋にしなけばならない。今まさにやっている。民間試験を受けていないと出願できない大学もあるため、全国の高校2年生が、来年大学受験をするかしないか決断を迫られ、今申し込まないで後で進学したくなっても救済措置がないので、恐らくほとんどの高校2年生が申し込みをしている。
・あまり報道されていないが、現高3生が浪人した場合も、民間試験の受験が必要になることがある。まだ今年の受験が始まっていないのに、浪人の可能性があるなら民間試験の申し込みをしなければならない。恐らくほとんどの高校3年生が申し込みをしている。
・英検はこの申し込みに3000円かかる。浪人せずに済んで受験しなかった場合でも、返金はされない。
・そもそも大学側は反対の声が強い。どうなったかというと、大学側が受験生に求める英語レベルは蓋を開けてみたら英検3級、準2級程度という大学が多く、これはそもそもその大学に合格できる受験生ならそんなに頑張らなくてもクリアできるレベル。大学は、受験生に検定試験を目指して頑張ることを期待しているというより、皆が形だけ民間検定を受けて、後は学校独自の二次試験で詳細な英語力を測って選抜する。という方向に持っていって、民間試験活用を無効化しようとしているように見える。
・そうなってくると、もうやる意味があるのかわからなくなってくる。
・しかしこの英語の入試改革が決まってから数年間、高校現場では情報収集を行い、勉強会を開き、不確定情報が多すぎる中で生徒・保護者になんとか学校の方針を説明し、生徒に不利益がないように頑張ってきた。特に英語科の若い先生などは新テスト対策係となり、情報提供を一手に引き受け、大変な負担がかかってきた。新入試を延期するにはもう遅いような気がするが、今後毎年このような複雑な業務を継続的にやっていけるかというと、なかなか難しいと思う。
気づいたら友達がいなかった。原因を探るため自分の人生を振り返った。
一学年15人程度しかいない程度の田舎の公立小学校に通った。天パで吃り癖があって3月生まれで足が遅く体格で不利な癖に、本をよく読んで小難しい事を喜んで話したがる君の悪い子供だった自分はわりといじめられた。今振り返ると自分に原因があったと思う。当時の自分は周りは馬鹿だから大人になれば一番自分が金持ちなって自分が幸せになると思っていた。当時の人達の多くは恐らく高卒。現在交流なし。
一学年120人程度の公立中学校に通った。最初の中間テストで学年一位だったので頭いいキャラになった。親に学年一位だったら何でもかってあげると言われたので、当時20万円近くするノートパソコンを買ってもらった。プログラミング等に目覚める事はなく主にエロサイト閲覧に使う。部活は卓球部のインキャ。身長は150→172になるも運動神経は悪いまま。当時の人達とは現在交流なし。
東大に行く人もいるような進学校は下宿する必要があったので偏差値53の公立高校に進学。インターネットで進学校は高二で受験範囲を終わらせる事を知る。参考書を親にAmazonで買ってもらって自分で軽く勉強。そこまで長時間勉強したわけでもないが計画的に受験対策を行い、数学3物理化学2が高3の11月末に終わる劣悪な環境で地方旧帝国大の工学部に現役合格。
部活では卓球部のキャプテン。というか他のメンバーが高校中退or卒業後引きこもりor明らかな発達障害などで明らかに谷間の世代だったので消去法だったと思う。クラス、部活共に当時の人達とは連絡なし。部活は年末年始集まる仲。
工学部の機械系に進学。大学は遊ぶところだと聞いていたので全く勉強せず、授業中は寝る。単位だけは落とさないようにしたのでひたすらDをとりまくる。というかテスト前はDが取れそうだと思った時点で他の教科に切り替えていた。そのお陰でGPAは2ちょっとしかないくせに一度も単位を落とさず。その際にクラスの人に頼み込んでノート見せてもらっていたので、そういうグズな面もあってか研究室入って以降、クラスの人達とは連絡とらなくなる。サークル、バイト共に在籍時は交流があった人たちとも現在は交流なし。
ただ、大学入ってすぐはインキャだったものの、コンプレックスだった天パをうまくパーマ風に生かすことを覚え、身なりに気を遣うようになった結果、身長が180cmあって顔立ちはイケメンではないが小顔で脚も長く雰囲気で誤魔化した結果、合コン大学2年あたりからそこそこモテるようになった。
初体験こそネットで会った女性なものの、彼女と交際を通して女性とのつきあい方などのコミュニレベルをあげた結果、バイト先やサークル、居酒屋、合コン、クラブ、ネットなどで女の子をお持ち帰りできるようになった。ただ、経験人数も30人程度になりいつまでも遊んでいるわけにもいかないと思っていた時にベッドで『付き合わないのにするのは嫌』と言ってきた女性とお付き合いを始める。
旧帝大、早稲田慶応あたりの人達がマス層の大手メーカーに勤務。彼女とは就職時に遠距離を始める。同期とはたまに飲みに行く程度の仲。
社会人2年目も終わろうとしていた今年の3月に転勤が決まる。あるプロジェクトに参画する形で職場に自社のメンバーは自分だけという状況になった。一方、遠距離だった彼女とは逆に近くになり、いよいよ結婚かという期待を彼女からされた時点で彼女を振ってしまう。まだ結婚したくなかったからだ。そして自分にはもっと相応しい人がいると思ったからだ。
彼女と別れてマッチングアプリを始める。学生の時にやったとき、普通クラスなら自分でもどうにかできるが、トップレベルの女性には学生というお金も車もない身分からお近づきなれない限界のようなものを感じていた。
ところが社会人になり、彼女とのデートでたまった見栄えのいい写真に加え、高学歴、企業名こそ明かしてないものの地方の中ではそれなりの高給取り、車持ちというステータスとなった私は婚活市場の中でなかなか『強い』ようで、女の子の方からバンバンいいねが来る。明らかに自分がこれまで付き合ったレベルの女性よりハイクラスな女性からもいいねが普通に返ってくる。
これはこれで嬉しいのだが、一つ問題に気づく。正確には気づかないふりをしていた問題が顕在化したとも言えるが。
彼女と別れて自分には雑談をふれるような連絡ができる友達が一人もいないのだ。
年末年始とかに今度集まろうじゃなくて、なんとなく用事はないけど普段の近況について話す事ができる人間が全くいないのだ。
どうやったら友達ができるんだろう。というかみんな友達っているのだろうか。まぁたぶん自分の性格に問題があるんだと思う。友達がいなくて寂しいくせに、自分から連絡を取れないのがいけないんだと思う。だからネットで安易に浅く繋がって、それで自分は相手の肉体と精神を傷つけながら一時の寂しさをしのいで、深く長く関係を築くのを拒否し続けた結果が今なんだと思う。
小中学校ではそれなりにいじめられていた。太り気味で走るのが遅かったし。頭はそこそこ回ったので勉強教えてやったりして自尊心を保っていた。だが勉強せずとも授業だけでイケる、みたいな間違った自負を持ってしまったせいで勉強の習慣がつかなかった。
成績ランクに基づいて高校に進学してから、ついていけない科目が出てきた。特に数学。1年の1学期中間テストでは満点近かったのが、期末テストでは30点台にまで落ち込んだ。壁にぶち当たった。だが勉強はしなかった。親は家庭教師をつけようとしたが拒んだ。とにかく勉強が嫌いで、大学に行こうなんて気には全くならなかった。ゲームプログラマーになろうと思って専門学校に進学した。
専門学校の授業内容は簡単すぎた。中学生のときにゲームプログラミングの教科書だけ与えてくれれば、半年で2年分の知識を身につけられただろうと思う。だが楽しかった。ひたすらゲームを作りまくった。ネットゲームを作ろうとして挫折し、3Dプログラミングにも挫折したが、2Dゲームを作りまくった。
卒業が近づいたが、就職しようという気持ちにあまりならなかった。好きだったゲーム会社に1社だけ申し込んでみたが、書類で落ちた。ところで、その頃はエロゲーブームだった。高校の時から憧れていたエロゲークリエイターがいたので、その人の会社に電話してみた。ゲームエンジンを作ってもってこいと言われた。作った。そのときには卒業から半年経っていた。
続く
中学生の頃、登校中にだ。
でも、漏らしたのはこれが最初で最後(だと思いたいという希望的観測)だ。
当時の登下校に限らず移動の時は腹の調子を見て、出来るだけ大便を済ましてから動くように心がけている。
ただ、いくら心がけていても、腹の下しは先取りできないし、終わりを伸ばすのも限度がある。
腹痛が始まったのは、通学路の半分を超えたあたりだったと思う。
腹を襲う猛烈な鈍痛。あ、いつものやつが来たなと思い、大便が漏れないように尻の穴に力を入れて堰を作る。
波は堰のギリギリまで攻めてきて、そして引き潮のように戻っていく。その繰り返しがしばらく続いた。
民家でトイレを借りることも考えたが、私にとっては腹痛は日常茶飯事で、借りることによる羞恥を鑑みると、それはとても実行できなかった。
全身から冷や汗だひたひたと湧出し、顔が自然と下を向く。視界には余計なものを入れず、ただ足と尻の穴にだけ意識を集中した。
一歩、また一歩と歩みを進める。普段登下校している20分程度の道程が、永久に続くのではないか、そんな風に思えた。
校舎が見えて来た。学校の周りであることを示すレンガの歩道をそのまま進む。
登校中の生徒に友達がいないことを、そしていたとしても話しかけられないことを、頭の片隅で祈る。
この時点で尻の堰は既に限界を超えており、土嚢を積んで緊急対応をしている状態だった。
校門を通り、自転車置場を抜け、校舎へと入る。
靴を脱ぎ、靴をしまう。下駄箱からトイレまでは曲がり角の無い一直線。
その途中。もうトイレまでは10mも無かっただろう。中庭に面した日当たりの良い廊下で、堰が決壊した。
モリモリモリと、尻から大便が噴出し、ズボンを盛り上がらせる。大便が尻を伝い、足の付根へ落ちていく感触を受ける。
廊下に落ちたら一貫の終わりだと思い、残りの10mを尻を(大便を)抑えながら、歩みをさらに小股にして、トイレへと駆け込む。
幸い足元からの大便の漏れは無く、道中は無事のようだった。だが、パンツ及びズボンは悲惨な状態で、見事に大便にまみれていた。
普通の人間ならこの時点で、授業には出ずに下校することを考えるだろう。僕もそうだった。
しかし、今日は中間テストの日だった。休んだことによる、先生や親、友達への事情説明等を考えると、頭が重くなった。
トイレの水で洗えば何とかなるのでは、そう考え、大便器の水でパンツとズボンを洗い、出来るだけ乾かして、颯爽と何事も無かったかのように教室へと向かった。
その後のことは、書かなくても分かると、思う。というか、これ以上、書くことが、自分にとって辛い。
簡単に概要だけ書く。教室は臭い臭いのオンパレード、教師は気を使い現状維持、その状態でテスト続行、絵に描いたような最悪な1日となった。
何でこんなに辛いのに、書いてるだけで冷や汗が出てきて、情けなく思えてきて、思考はどんどんマイナスに落ちていくのに、わざわざこんな文章を書いたんだろう。
似たような経験のある人とか、現在進行系で似たような問題に陥っている人がいれば、こんな奴もいるよというお知らせにはなるのだろうか。
良ければ、過去の恥を書くことの意義を、誰か教えて下さい。
を書いたら、なんでかすぐに正体がバレてもうたんやけど
ブコメとかツイッターに「で、どこを見ればええんや」って書いてる人が居たから考えてみたで。
セレクションブックとかも出てるけど長編シリーズかっとばしてるからおすすめできへん。
アニメより単行本が一番早いわ。アニメ初期は長期シリーズになると思ってなかったから結構改変もあるねん。
これじゃあ足りんやろって思うかもしれへんけど、最短ルートやからな…。
1巻 すべての始まり
2巻 宮野明美(アニメで改変されてるから、実はアニメって筋通ってないんやで。読みや)
(7巻) ピアノソナタ月光事件。これ最短ルートにはいらんねんけど、外したら怒られそうでな。
(10巻) 西の名探偵 服部平次が初登場するで。黒の組織はまったく出てこーへんけど読めや。飛ばしてええとか言うなや。
12巻 ゲーム会社のやつ。テキーラさん、関西弁やったな。ちらっとバーボンとか言っとんで。
18巻 灰原哀登場
19巻 同上
(20巻) 競技場無差別脅迫事件。どうもなんか未回収の伏線回っぽいから読んどけや。
21巻 ロス行き飛行機の話。工藤の本格探偵デビューや。ここで初めて「本庁の刑事恋物語」がスタート。23巻24巻にパート2。その後の恋物語はぐぐってや。
(25、26巻)命がけの復活シリーズや。ちょっと間だけ工藤が戻ってきてたわ。
28巻 そして人魚はいなくなった「動いたら殺すぞボケ」。服部もかっこいいし超重要な未回収伏線話やから見とけ。
30巻 超弩級の重要回「集められた名探偵! 工藤新一vs.怪盗キッド」白馬探登場。中間テストで西の探偵は参加できへんかった…。
37巻 黒の組織との接触。大ピンチ。ゲーム会社からの伏線回収話。そして最新刊までの伏線やで。
38巻 同上
41巻 42巻につなぐ重要巻
42巻 満月の世の二元ミステリー。ベルモットと直接対決。服部も頑張っとったで。
(43巻)後日談
49巻 同上 本堂瑛祐が登場
56巻~59巻 赤と黒のクラッシュ ここ読まないと、あとが読まれへんで。
60巻 バーボン編開始や。俺あんま出番無かったな。沖矢昴が登場。
65巻 赤井秀一っぽい人が出てくるで。
67巻 赤井秀一っぽい人が出てくるで。
71巻 ある意味黒の組織より衝撃的な工藤と姉ちゃんの最重要ラブコメ回や。
72巻 同上
73巻 世良真純が登場
(74巻) 76巻へのフラグ。博士のやらかしにより灰原ピンチ。
75巻 ウエディング・イブ。安室透が登場(前も言ったけどアムラーここから読むと後で読み直しになるから気を付けや。56巻からや)
(77巻)読むと流れが分かりやすいで。
78巻 漆黒の特急 ミステリートレイン 当時「最も真実に近づくシリーズ」として大々的に宣伝されたで。特別ポスターもある。
85巻 緋色シリーズ 59巻からの伏線回収や。最も真実に近づいたのコレちゃうんか?
88巻 領域外の妹の正体に近づくで。
89巻 ラムの正体に近づくで。
(91巻)あいつの小学校に新しい先生がくるで。大岡紅葉が…初登場やな…。
(93巻)この辺は後々に響いてきそうやから見とけや。
94巻 あいつ呑気に修学旅行行こうとしてるで。(次の回でラブの予感や…「あの方」も分かるで)
頑張って41巻で追いつけるな。言うて最近のやつが一番多いし。
(最近展開早いねん…終わるんかな。まだ俺告白してないねんけど)
数年のブランクを経て、先月、金策とリハビリを兼ねてコンビニアルバイトを始めた。夕勤四時間を週に2、3回だ。
何せ久々の労働だし、以前の仕事先では使えないとかお前みたいな役立たず死ねばいいのにとか毎日面と向かって罵倒されていたので、今度は上手くやれるだろうか?というのんきな不安よりも、今度もまた死にたくなるほど詰られたり、なんのかんの言いくるめられて契約時間がどんどん引き伸ばされ連勤の嵐にのまれてブラック労働から抜け出られないようにされるんじゃないかっていう恐怖があった。
だが心配は杞憂だったようで、今のところこれまで働いたどの職場よりも快適な環境でルンルンの気分で働いている。
コンビニバイトはよく、覚えなければいけない仕事が多くてキツいと言われている。要領と物覚えの悪い私に勤まるのだろうか?と不安だったが、実際仕事について得たのは、私意外と要領も物覚えも悪くないんだ!?という発見だ。
思うに、毎日充分な食事と睡眠を取れて体のコンディションがよく、上司に些細な事で罵倒されず心穏やかに働けるのがいいのだろう。勤務日数も時間も少ないから疲れが溜まりにくいし。
小さなミスを何度も何度も重ねて客に胸ぐらを掴まれ泣きながら仕事をしていた若い頃の日々はなんだったんだろう?
なんだー、私だって落ち着いてやれば出来るんじゃん。一つ一つの仕事を速く正確にこなしていけるという、それだけの事が嬉しい。
私以外のアルバイトやパートの人達も、それぞれ無理ない時間で希望の収入が得られるだけ働いている様だ。
そういう環境を整備してくれている正社員の人達、特に店長や副店長はかなり過酷な労働をしていて、毎日の様に12時間以上勤務し、出勤時間も不規則の様だ。私など非正規は昼勤なら昼勤、夕勤なら夕勤だけと勤務時間帯が固定されているが、正社員は主に夕方~早朝の勤務、それに加えて非正規の休暇の穴埋めをしている。
今週は、高校生のバイトの子達が中間テストの勉強の為に休んでいるので、正社員さん達は特に忙しそうにしている。(私も1日出勤を増やしたけれど、私以外のバイトで高校生達の代わりに入ってくれる人は見つからなかった模様。)
殊に店長はゾンビ状態で、たまに遠くを見たまま立ち止まっているし、呼んでも反応がないこともしばしばある。
人手不足のお陰でいつの間にかアルバイトやパートが優位になりつつあるようだが、正社員さん達の様子を見ると、この状況は長くはもたないだろうなあと思う。
元はと言えば小学校高学年で「ハブる」という文化のもと、クラスメイトからの徹底的に無視をされたことが発端である。担任との相性の悪さなども相まって、学校生活への自信や信頼をなくしていった。核家族の共働き家庭の一人っ子の私は、学校では人と話せず、放課後の時間も一人で過ごした。特に習い事などもしておらず、学校と家庭の二つしか生活の場がなかった私は人間関係における信頼や安心などを失い、自分の考えを人に話すことや言葉をスムーズに出すことができなくなっていった。
そして中学入学。環境が変わることを期待したが、結果的には悪化した。たいていの公立中学では部活動には強制参加させられる。しかし私が入学した中学校は全校生徒が少なく、文化部は一つだけ。他運動部も一般的にはあるような部活がなかった。当時文化部に入るとスクールカースト底辺になる空気があり、私は運動部に所属した。しかし、運動神経が良くない方だったため部活でもうまくいかず。小学校高学年で人間関係に対する安心や信頼を失った私は、中学で出会ったクラスメイトともうまく接することができなかった。
そして決定打となったのは合唱コンクール。「絆」「仲間」「大きな声を出す」「グループ練習」などといったものは当時の私には地獄だった。音楽の時間が恐怖の時間になり、合唱コンクールが近づくにつれ朝練や帰りの学活でも練習を行うようになり、一日の始まりから終わりまで恐怖の時間となった。そこから学校に行けなくなるまでは簡単だった。学校に向かう足が遠のき、制服に袖を通すのが怖くなり、家から出られなくなった。共働きの私の家で朝一番最後に家を出るのは私で、一番最初に帰るのも私だった。そんな中で、朝起きて制服を着て仕事に行く親を見送り、自分は学校へ行かず無断欠席をするようになった。当然学校から固定電話に電話が掛かってくるが、家には私しかいないため無視。親に連絡が行く。意外にも親は私が不登校になったことを受け入れてくれた。
会話から始まり、日常生活の行動全てに自信をなくした私は学校での学習や電車に乗るといった行為もおぼつかなくなっていた。授業で先生から発問されれば、注目される恐怖や答えを急かされるような焦燥感で「わかりません」というのが精いっぱいだった。「私は何をしてもうまくできない」という強迫観念に襲われ、不登校の間に学習障害の検査などを受けたこともあった。一人で家で勉強する分には問題なく、また中間テストや期末テストを受ける分には人と関わらず済むため、それなりの点を取れていた。
不登校だろうが、家から出られなくなろうが、無情にも時は過ぎていく。中二では、通知表は「1」「2」「-」がほとんどになっていた。中三が見えてくると頭をよぎる高校受験。入試資料集などを見ると、入学選抜に当たっての内申点の基準の数字が踊っていた。家から出られなくても、学力低下だけは避けたかった私は家で学習を続けていた。当時、私の学力から出される偏差値は60〜63あたりであった。それくらいの学力層の高校では、おおよそ大半が9教科36以上の内申点を基準としていた。一方、私の内申点は9教科で23。地元工業高校ですらあやしい点になっていた。また、中二の時の担任は繰り返し私に面談の場を設けてくれた。私の話を無視したり、相槌を打たないなどということはなく、久々に会話ができることに感動した。担任ともっと話したいと思うようになり、徐々に学校に行けるようになっていった。
この状況の中で、私には一つだけ自信が持てるものがあった。それは絵を描くことである。まだ学校に行けていた中一の初めに美術の先生から風景画を褒められ、不登校になってからは家でよく写真模写などをしていた。授業にも出られるようになった中三の一学期、今まで体験したことのなかった画材と出会った。油絵具である。失敗しても被覆度が高く上から重ねることができ、乾くのも遅くゆっくり描くことができるこの画材は私の中で革命的であった。人間関係で失敗を重ね、急かされることに恐怖を覚えていた私は、個人で取り組むことができ、ゆっくりと描ける油絵具に希望を見出した。もっと油絵が描きたいと思い、誕生日には親から油絵セットを買ってもらった。もっと油絵を描きたいと思い、美術コースのある普通科高校への進学の意思を固めた。
その高校を受けるにあたり、偏差値は足りていた。美術コースを受けるにあたり、実技の力も合格するであろうという程度には達していた。しかし問題となったのは、やはり内申点であった。担任からは渋い顔をされた。それでもやっぱり受けたい、あの高校に行きたいと思い受験制度などを調べ尽くした。すると、不登校などを経験した生徒のための特別選抜制度を発見した。内申点を度外視し、受験時の学力テストと実技、面接で入学選抜を行うという制度だ。その制度を担任に報告すると、なんと担任は知らなかった。50も過ぎたベテラン教員がその制度を知らないということにはがっかりした。その教員が受け持ったクラスの過去の不登校の生徒はどんな進路をたどったのか心配になる。
何はともあれ、私はその制度を活用し無事志望校に合格することができた。入学後は絵と勉強に励み、学力では上位10%あたりを維持し絵では県の高校美術展で賞を取った。
そしてやってくる大学受験。もっと油絵を描きたかったので美大を望むも、家計が厳しく断念せざるを得なかった。幸い、学力はそれなりにあったため国立大教育学部の美術専攻に進学することでどうにか油絵を続ける手段を得た。
時は流れ大学四年。義務教育時代に失った人間として生きる自信や信頼関係を高校や大学の友人と接するうちに取り戻し、バイトをしたり彼氏ができたりと一般的な大学生として大学生活を送ることができるようになった。教育学部で学ぶ中で、義務教育時代の自分をメタ認知することができた。当時の自分と同じように人間関係に悩む子供に接し前向きな未来を示せたらと思い、教員の道を選び教員採用試験に合格した。
卒業制作とバイトに追われる今日、私が四月より働く予定の自治体では不登校の生徒が高校に進学する際の特別選抜制度が数年前に廃止されたと知った。
あ、わかったぁ!
これを移項して、こうするんですねっ
先生!
できました!
丸つけてください!
…え、あっ
間違えちゃった…
同類項ですね。
また、間違えちゃった…
今度は満点取ろうと思ったんですけど…
せっかく、先生に教えてもらった公式の覚え方マスターしたけど、計算ミスしたら意味ないですよね
先生、どうしたら良いですか?
…え、基礎演習ですか?
また、あのワークやるんですかぁ
やだやだ!あれ量が多いじゃないですかぁー
って、もうプリント用意してあるんですか?
…先生、これ全部同じページですけど…
へ、間違いなんですか?
うふふっ
この前も、丸付け用の答えの紙、違うのでしたよ?
私見てたんですよっ、ふふっ
私とおんなじですね。気をつけないとですね。
…って、冗談です!
あ、もう時間ですね。
次も、よろしくお願いします。
ドジですけどね、ふふっ
じゃあ、また来週お願いします。
ああっ、ごめんなさい
出すの忘れてました…
あっ!先生見ちゃだめです!
あの、あの…
じゃあ、私帰りますっ!
高1の夏の定期考査前日の夜
中間テストで数Ⅰで15/100点(クラス最低点)とって死にたくなったし、長い通学時間や見知らぬ人間たちが多すぎて疲れすぎていた
僕も定期テスト初日で姉が徹夜する勢いで勉強していたから実行したのは午前4時くらい
家中の風邪薬頭痛薬、花粉症の頓服薬とか全部ひっくり返してリビングで飲んで
麻痺した両足で階段登って自室のベッドでこれで眠れば死ねると目を閉じたけど全然眠れずに数分後「これは吐くぞ」と直感してトイレに向かったが間に合わず階段で吐きながらトイレに向かって残りをトイレで吐いた
吐き終わったあと何故か賢者モード突入して、吐いたところ全部掃除して、自分の顔面蒼白を洗面所の鏡で確認して祖父母が起きてきたのでとりあえず報告
父母も起きてきて父の会社の病院に電話したが空いておらず結局救急車呼んで搬送
病院で点滴打たれて帰されて(車で帰ったらしいが全く記憶がない)朝食のあと精神科行かされてわかったようなわからないようなこと父母と精神科医が言い合って結局薬もらって帰った
中学2年のころ、生徒に好かれていない数学教諭が担任だった。教えかたは下手くそですぐにキレるからその評価は当然といえる。数学はわりに得意だった私も授業を真面目に受けようと思えないレベル。そんな中行われた1学期の中間テストはみなボロボロで、追加のテストをすると担任は息巻いていた。
テスト当日、朝のホームルーム直後1限の授業が数学だった。一旦職員室に戻る担任、馬鹿な男子連中は相変わらず騒いでいる。その中のひとりが教卓を漁って何かを見つけた。「おいここにテスト問題があるぞwww」。見つけた生徒も馬鹿だが置き忘れた教師も馬鹿だな、馬鹿には関わらないほうがいい、私はそう思っていた。でもクラスの大半は違ったのだ。みんな我先にどんな問題なのかを見に教卓に駆け寄っていくではないか。女子の姿も何人かある。おいマジか。カンニングする気か。即バレるのは間違いないのに。いやそれだけでは済まない。何もしていない私までもが疑われる。とばっちりにもほどがあるじゃないか。
しかしここで彼らに「やめなよ」と言ったところで何になる。見た奴らがいたことに代わりはない。それはフェアじゃないし、点数に現れた結果バレる。仕方なしに私は職員室の担任に報告することに決めた。私が教室を出ていこうとすると、勘づいた真面目な生徒のひとりが本気かと言う。後からバレるほうがより悪いことになるでしょ?と押し問答をしていると馬鹿どもがこちらに気付いた。調子に乗るなとかチクるのは卑怯者だとか言っていた。忘れたあいつが悪い、あんな奴の味方をお前はするのかとも言っていた。その声を背に私は職員室に向かった。
置き忘れてますよと言うと担任は血相を変えて教室に駆け込んでいった。テストは中止、置き忘れた自分への反省もそこそこに、全体への罵倒と説教に終始する担任だった。とてもではないが尊敬できない態度である。でもカンニングという汚名をみんなが被らなかったのだからマシだろう、私はそう思っていた。甘かった。その日からクラス全員による無視が始まったのだ。
やらかすような馬鹿が無視するのは勝手にすればいい。でも真面目な女子からも無視されるのは正直つらかった。チクリ扱いされるのはもっとつらかった。一時は何故か学年全体にまで無視が広がり、同じクラスだった人とは結局卒業まで話すことはなかった。担任に言わなければもっと良い中学生活だっただろう。
あのときの私はどう行動するのが正しかったのだろう。自問自答する。なにも私は正義漢を気取りたかったわけではない。やってもいないのに疑われたくなかっただけだ。でももしそれが全体からの無視につながると知っていたら、残りの中学生活がボロボロになると知っていたら、定期テストでもなんでもない下らないテストのために私は職員室に向かっただろうか?
多分、ネットで何万回と繰り返されてきた話。
毎日、ネットで誰かを攻撃して留飲をさげるだけの人生を送っている。自殺したいが、する勇気もない。
小学校と中学校では「神童」と呼ばれた。勉強はほとんどした記憶がない。でもテストではいつもほぼ満点だった。クラスの他の奴が100点を取れない理由が、当時は本気で理解できなかった。
高校は県内一の進学校に行く事にした。さすがに塾には通ったが、似たような問題を反復練習して精度を上げるだけだった。入試問題はあっけない程に簡単で、合格通知が届いても特に感慨もなく、淡々と入学手続きを済ませた。
私はこんなだったが、両親、特に母親は喜んでくれた。両親は2人とも学がなく、特に母親は小学校すら満足に通っていない。私が幼い頃から、「人の2倍給料が欲しいなら、人の2倍働くしかない」が両親の口癖だった。
おかげで物心ついた頃にはいつも家にひとりでいた。両親は昼も夜も働いていた。土日も働いていた。たまに日曜日の晩に家族揃って晩御飯が食べられる時があるが、私はそれが何よりも楽しみだった。
そんな母親だから、高校に合格した時には、ご近所に「○○高校になんとか受かりまして…。」と吹聴しまくっていた。私はそれが大層恥ずかしかったが、母にとっては自慢の息子だったのだろう、私が「あまり自慢するのはやめてくれ」とせがんでも、静かになる様子は一向になかった。
だが、テンプレ通り、私は高校でアッサリと堕落する。周囲は本物の天才揃いで、しかも努力家が圧倒的多数だった。他校の授業は受けた事がないので一概に比較もできないが、通っていた高校の授業内容もかなり独特だったらしく、授業はかなりハードだった。
中学までの学習貯金はアッサリ底をつき、1学期の中間テストで壊滅的な点数を取った時、自分は選ばれた人間ではない事を知った。
そこからは早かった。学校には出席日数ギリギリしか通わず、あとはバイト三昧の学生生活だった。バイトで稼いだカネはほとんどゲーセンで使った。高校までロクに遊びを知らなかった人間が「遊び」にハマった時の行動は極端で、学校よりも自宅よりも、駅前のゲーセンにいる時間の方が長かった。
さすがにこれじゃいかんと高校3年の時に慌てて勉強を始めたが、当然の事ながら宮廷だの地底だのといった大学には引っかかる事もなく、東京の某大に受かるのが精一杯だった。
この時に何か思うところがあれば、私は変われていたのだろう。だが皆さんのご想像通り、私は変わることができなかった。だからこんな文章をダラダラとタイプしている。
大学に入ると、当然一人暮らしになる。東京の大学に入ったんだから、当然そうなる。私のような人間が一人暮らしをするとどうなるか。答えは簡単だ。大学に行かなくなる。
起きたらバイトかゲーセン、大学に行くのはたまにである。その「たまに」が起こって大学に行ったとしても、サークル棟の奴らとダベって終わりである。単位は3つぐらいしか取ってないんじゃないだろか。結局、大学は1年休学した後に辞めた。
大学を辞める時、母親に連絡しようか迷った。私は休学している事も告げず、毎月毎月仕送りを受け取り、盆も正月も帰らなかった。休学中も仕送りを受け取るのは心苦しかったが、都会の誘惑に負けた。しかし、さすがに大学を辞めるとなると連絡をしない訳にもいかない。
「もしもし?俺だけど、働くことにした。」
「今までありがとう。」
正直、会話の内容はあまり覚えていない。嘘と見栄と虚飾で糊塗した言葉をひたすら吐き出して、仕送りはもういいと言って一方的に電話を切ったような記憶しか残っていない。
大学を辞めても、特に何も変わらなかった。休学中から特にやる事も変わらず、バイトとゲーセンに通うだけの人生。
いつしか、インターネットで誰かを攻撃する時間が増えた。会った事もない、話したこともない、顔も知らない人間が、twitterで失言する。ブログで炎上する。そんな人間を、自宅のPCから延々と責めたてる時間が増えた。「叩いてもいい」人間が目の前にいて、圧倒的正しさをもって思う存分叩ける。叩いている時は快感だった。自分が正義の執行者であることに酔った。当初は目についた炎上案件を叩いていたが、叩く対象を探すようになり、失言・文句・暴言・呪詛をすすんで検索するようになった。
見つけた後は、すぐに騒ぎ立てずに、対象の個人情報収集にはげんだ。twitter、facebookなどの交友関係から年齢や地元を割り出し、実家の写真などをgoogleマップでキャプチャする。twitterなら鍵垢になってもいいようにフォローも飛ばす。フォローされやすいように、常時40個前後のアカウントを管理していた。様々な大学、企業、趣味嗜好についてのアカウントを作成し、1日1回はアカウントに沿った内容で何か呟く。そうやって「育てた」アカウントを対象に滑り込ませ、まんまとフォローされてから炎上→鍵付きとなったアカウントの情報をキャプチャで取得し、ネットに拡散する瞬間には無上の快感があった。
そんな生活も2年近く続けてきたある日、実家から荷物が届いた。食べ物だった。段ボールの蓋だけ開けて放置していたが、翌日に母親から電話がかかってきた。「ご飯は食べているか」「元気でやっているか」「たまには帰って来いよ」基本的に母親の電話上の発言はこの3パターンしかない。なのでいつもは会話もそこそこに電話を切るのだが、この日の母親は違っていた。いつも通りの居心地が悪くなる会話を終わらせようとすると、ふいに
「食べ物だけじゃなくて、少しお金も入れといたから、たまには彼女とおいしいものを食べてね。」
「いつ帰ってきてもいいんだからね」
母親から電話を切ったのは、今のところ、この時が最初で最後だ。
すぐに箱の中身を確認すると、底の方に封筒が入っていた。中には20万円入っていた。
私は封筒を握りしめて嗚咽した。何もしていない、何もしていない、何もしていない。なんの努力もせずに、ダラダラと時間を無駄に過ごし、他人を攻撃ばかりしている。こんな何もしていない人間に、生きている価値があるのだろうか。これから何かを成し遂げる気概があるのだろうか。
消えてしまいたい。そう思ったが、自殺する勇気もない。だいたい、自殺できる人間は「自殺する」と強く願って成就しており、私のようにネットでダラダラと「死にたい」「自殺したい」と言っている人間は自殺しない。
高校の頃に交通事故か何かで死んでおけば、将来有望な若い命として、両親に多額のカネを残すことができた。「惜しい人を亡くした」と皆に同情してもらえた。ところが今はどうだ。今死んだところで、正社員でもない、学歴もない、才能もない。葬式を開いても誰も来ない。働きもせず、ネットで誰かをいびり、母親にお情けの仕送りを送ってもらう。そんな人生になんの意味がある?
特にオチもないが、私の自分語りはこれでおしまいである。荷物が届いたのが数日前、それからバイトに行く元気もなく、体調不良と言って休んでいる。遠からずクビになるだろう。
できれば私はどうするべきなのか、教えてほしい。
追記:cj3029412 様、idコールするのも恥ずかしいので追記にて失礼します。食事のお誘い、本当にありがとうございます。インターネットの優しさを感じました。しかしながら、GWは実家に帰り、両親と今後についてきちんと会話する事になりました。まだ何もしていませんが、少しだけ前に進めたような気がします。これもcj3029412様、トラバ、ブコメを頂いた方々のおかげと思っております。ありがとうございました。
私は高校生、企業への内定を貰い無事に就職活動を終えた高校生だ。
今日は終業式だった。
2学期の成績と出席状況が出る日だ。
放課後、内定者の中で少しでも成績が下がった者、一回でも遅刻欠席をした者が就職担当の教師に呼び出されて怒られた。
呼び出されたのは10数名もいた。
私は運動などは苦手だがいわゆる5教科の成績は10段階評価で10か9だった。80点前後から90点後半。
2学期は中間テストでつまずいた教科もあったが、期末テストは挽回しようと「いい点数」を取った。80点前後から90点後半。
だが点数は100点でストップなのだから一回つまずいた時点で成績は落ちるのだ。
今回呼び出されるのは「少しでも成績が落ちた者」。
その頑張りは評価されない。
元々成績が悪いなら頑張って取った点数が私にとっての悪い点数でも成績が上がって怒られないのに。
その人はそれで褒められて、最初から成績が良かった者は少し落ちたら怒られるのだ。
何のために頑張ったのだろう。
確かに、例えば数学であれば思考力を鍛えるだとかの目的はあると思う。
でも学生にとっての一番の目的は進路を決めるため、再試にならないため、教師に呼び出されて怒られないようにするためだ。
前提が違うのに「成績が落ちた」と一括りにして10数名の前で名指しで怒る。
周りは他のクラスもいるので私の成績など知りもしなく、ただ「成績が落ちた」ということだけを知るのみ。
今回のことだけではなく、大勢の前で名指しで怒る行為がどんなに無意味で尚且つ怒られた人の心に傷をつけるのか。
だが、その教科の教師は授業中に課題を出すだけで授業をしない。
その授業を受ける価値はないと思った私は他の人の妨害はしない程度に態度が悪くなった。
するとどうだろう、20点代でも7を取った人がいる中私は5。
いい点数だけ言うのも格好悪いので恥を忍んで言うと私は55点だった。
確かに授業態度の問題もあるだろうが、まず他の教科は成績を決めるときほとんどテストを見るのに何でこの教科だけ?
授業態度が大事なのはわかるが、この教科だけ特別授業態度が大事なのか。
そんなはずはないだろう。
そんな私怨のような成績で呼び出された内定者10数名の中でボロクソに言われたのだ。
確かに点数を落としたのだから成績が下がるのは当たり前、でもしっかりと成績をつける教師だったのなら、ここまでズタズタに言われることはなかっただろう。
それはそうだと思う。
でも、その理不尽に対してどう対処したらいいかを教えるのが「教育」であってただ理不尽を与えるだけではその教師がいう理不尽と何ら変わらないと私は思う。
それから出欠状況のこと。
私は欠席はしてないし。遅刻が増えたのは私の甘えなので私に関してはそこは言われたことはその通りだと思う。
ただ、終業式で言われた「信頼される」ということを引き合いに出すのなら欠席を怒るのはどうなのか。
確かに健康体が一番。
でも体調を崩したなら素直に休めばいいと私は思う。
体調が悪いのに無理に学校に来て咳や鼻水で周りの人の邪魔をするか、大人しく欠席して早く治すか。
どちらが信頼されるのだろう。
確かに就職してお給料を貰う立場であれば絶対に休めない日もあると思う。
それは「臨機応変」というやつではないのか?
周りにうつさないために、自分も早く治すために欠席という判断をした、それだけなのに何故怒られるのか? 大勢の前で恥をかいてまで。
私は冬休みの間に「決意文」を書く。書かされる。書かねばならない。
理不尽な怒られ方をしても。
何故ならば就職担当の教師が「内定した会社に言う」と言うからだ。
脅しかもしれない。それでも書く。
何故ならば書かなければまた怒られるから。
こうこんな理不尽に言い返せない空気でボロボロに言われるのは沢山だ。
遅刻は本当に私の気が緩んだ結果なのでそれは反省するが、それ以外は書くことが浮かばない。
成績が落ちたこと自体は私が悪いと思うけれども反省するような点数ではないし、そもそも反省したから期末で挽回しようとしたのに。
拙い文章に加えて、書ききれないことも山ほどある。
もしこれを読む貴方が教育者または何かしら人に何か教える立場であるのなら。
「大勢の前でボロボロに言わないこと、それは傷にしかならない。何も生まない」ということはわかってほしい。
そして怒るのなら。「一方的に言うのではなく相手の言い分も聞くこと」を頭に置いてほしい。
最後に。
今回「怒る」という言葉を使ったのはこれが何も生まない行為だと思うから。
成長させるために相手の欠点やミスを注意することだったら私は「叱る」という言葉を使う。
就職して、私の上司になる人にはちゃんと「叱って」ほしいし、今まで怒っていた人は相手に押し付けるばかりでなくちゃんと歩み寄って叱れるようになってほしい
この間の体育祭は最悪だった。
せっかくクラスランクで中の上を維持していたのに中に下がった感じ。
ランク維持は少しでも気を抜くと下がるから努力してきたんだけど流石に運動までは努力できなかった。。
頑張って友達付き合いしていたA子から見下されると思うと悔しいわ。。
学生生活、高校時代、蠱毒のような教室でいがみ合い食い合わなければならない。
私は底辺のB子のようにお人好しでもないし、C子みたいにわざわざ敵を作ることもしない。
私は土台になりたくない
私は成功をつかむの
これが結構面白くて1200年前の地球で行われていた教育機関を体験しようってやつ。
高校時代三年間で上位クリアすると単位が取れるからついムキになっちゃう。
ノートにとって良い点数取って友人とのコミュニケーションも円滑に、、、
そんなの頭にインストールすれば済む話だしね。
つくづく昔の人は苦労してたろうと思う。。
親として煮詰まったので記録してくことにする。
理由は、なじめなかったこと。中一ギャップ。学校が微妙に荒れてて暴言にさらされたこと。
あとは親の私の「勉強しろ」「中学生なんだからちゃんとしろ」圧力なんだろうな。反省。
ま、いいかと思ってたが
二か月過ぎて行かなくなった。
むり、つかれた、だそうだ。
子育て本を読むと「過干渉はやめて、本人に任せろ」と書いてあるので
毎回放置してるが、塾代月に3万どうすんだ。これ。
来月は一教科に減らして様子見るつもりだが。一教科でも無理かな。
新しい所を嫌がる男だから、きっと別のとこは行かない。
そのうち不登校だと塾も行かなくなるって、専門家の記事読んでたけど
やっぱりそうなのか。がっくり。
「学校行くのムリ」だそうだ。
不登校3か月って、まだまだそんなもんかな。
どこも行かなくなったら、不登校児専門の訪問支援を頼んだ方がいいのかな。
高い…。
この先、不登校って、お金かかりそうなのに、この出費は痛いわ。
学校行けって言わないようにしてるけど
妙にほっとして、家でるんるんしてる息子を見て不安になる。
講演会を聞きに行くと長期化した例がでてくる。
小学4年くらいから性欲旺盛で、高校時代は1日3回以上、たぶん1年に1000回くらいはオナニーして射精してたと思う。18歳になった誕生日、地元の小さな本屋で、リストアップしておいた欲しいエロ漫画を30冊ほど購入した。受験をつつがなくこなし、上京して、今は大学2年。エロ漫画にハマり、バイトをしながら中古で買ったりして今は400冊ほど持っている。趣味はオナニー、と言っていいほどポルノが好きで、去年は初めての一人暮らしで狂ったようにオナニーし続けた。
今年の夏にバイトを辞めて実家に帰ったとき、両親が離婚して母方の実家に帰った。離婚後にお金に困らないように母親はしっかり貯金をしていて、なにも生活は不自由しないはずだった。9月には東京に戻り、もともと憧れていた書店員のバイトをしようと思ったが、落ちてしまった。そこからは自信を無くしてバイトをする気になれず、趣味にかけられるお金は少なくなった。生活には困ってなかったが、父親からの経済的援助が無くなった以上、母親のことを考えると、バイトをしていない身で贅沢するのは良心が許さなかった。食生活は週一度の二郎系ラーメン、ほかはレトルト食品やパスタばかり食べるようになった。そのほかは毎日野菜ジュースを200ml、エビオス錠を20粒、DHCの亜鉛サプリを1粒摂っていた。
異変を感じ始めたのは10月頭だった。いつものようにdlsiteで買った同人音声でオナニーを始めるが、連続で射精を促されるようなシーンでも、2回目の勃起ができない。悲しかった。食生活のせいかもしれないし、実家とバイトに関するストレスのせいかもしれないし、ほかの理由かもしれない。そのままダラダラと1日1回しか射精せずに今に至る。憧れのバイトに落ちてからというもの、ただ大学に行って友達と遊んで帰ってきてゲームをしてオナニーして寝るだけの生活が続いていて、正直マンネリ化している。自由にお金を使うことに負い目を感じるだけでここまでストレスが溜まるとは思わなかった。今まであまり大きなストレスを感じること無く生きてきたので、自分のストレス耐性をの低さを思い知った。
中間テストの時期も過ぎ、心を入れ替えて昨日ようやく次のバイトに応募した。採用されて自分で稼いだお金を好きなように使えるようになれば、現状が変わると信じたい。また前のように働いてお給料をもらって、好きなゲームを買って、おいしいくて栄養のあるものを食べて、エロ漫画も同人誌も同人音声もオナホもたくさん買って、毎晩毎晩4,5回はドバドバ射精して楽しい毎日になるといいな。それまではきちんと1日1回、できれば2回射精して、徐々に精力を高めていきたい。
今はhttp://www.calc-site.com/randoms/rearrangeこのサイトを使って、文法問題集の作問から1個ずつ作ってる。
テスト範囲の分の英文を全部(100以上ある)並べ替えにするのは結構手間がかかって、しんどい。
でも並べ替えをさせると英作文力がつくから、生徒からは好評だし、中間テストの結果にも反映されててよかった。
こういうウェブサービス、自分で作れたらいいなと思うんだけど、専門外すぎる。
本当は
②半角空白を自動で区切りポイントと認識してランダム配置して、半角空白スラッシュ半角空白を単語のあいだに挟んで吐き出す
っていうのが1度に10問くらいできちゃえばかなり早くプリント作成できそうで、本当に欲しい。
できたやつはそのままワードにコピペするからプリント形式で吐き出さなくていいし。
1. ①loves / ②me / ③he.
みたいな形。
というわけで誰かのウェブサービス作るネタにならないかと思って、技術部員が多いはてなさんで吐き出してみたのでした。
神の増田が現れて、作っていただきました。どうもありがとうございました。
http://www.geocities.jp/s107ken/prog/js-eigo.html
>> 大文字→小文字変換(先頭バレ防止)と[,]を選択肢として独立させる(文の切れ目バレ防止)のと[.]はずし(文末バレ防止)のオプションがあると完璧になりそう 大文字小文字変換くらいは自分でやれかもしれんけど <<
大文字→小文字変換をつけるとしたら主語の「I」だけ大文字のまま残すとかできるんでしょうか?
wordでも一括変換できたような気がしますが、特定の文字だけ省いて変換というのができなかったようなという気がしたので気になりました!
いろいろ機能が増えてさらに便利なものになっていました!本当にどうもありがとうございます!
サポート掲示板としてここがリンクされていたので、一部文章削除しました!
カッコ内のみ並べ替えられるよう、バージョンアップしてくださいました!
過去を整理する。
今ではそこそこブラックすぎない会社に拾われて人生つまらないなりにあまり苦しくなく生きられている。
あまり苦しくない人生というものに、それなりに満足できているのは一度それなりに苦しんだからだろう。
ストレス耐性のある人間からすれば全然余裕だったんだろうが、生まれつき精神構造が弱かった自分にとっては十分に苦しい時間を過ごした。
あれより下もきっとあるんだろうが自分が知ってる中で一番下があれだ。
あれより下がきっとあるだろうから必死にそこから逃げ出そうとして、その結果中退の道を選んだとも言えるだろう。
ろくにやってなかった。
緩やかに限界に近づいていた。
毎週やってくるレポート提出日におびえていた。
土日に図書館に行ってレポートを書くための資料を集めて、それでちゃんと準備をしているのに全く進まないレポートに苛立っていた。
何を書けばいいのか本当に分からなかった。
今思えば当たり前の事を書けばよかったんだと思う。
自分は出来の悪い学生だと認めて凄く基本的な事、誤差の計算の話とか実験の教科書に既に書いてあることの焼き直しとか、装置のもっと細かい説明を百科事典から丸写ししていればよかったのだろう。
呆れられるだろうが、何もしないよりはマシだ。
それか、他人のレポートを借りて少しだけ言葉や計算を変えて丸写しするかだ。
あの頃の自分は阿呆な癖にプライドだけは高く、そういう事はできなかった。
それでいて自分の出来の悪さには半分気づいていたので、その後ろめたさから教授に相談することも出来ないでいた。
ただ完成しないレポートとにらみ合いながら、そのままでいると無力感で気が狂いそうだからとラジオを聞いたり横目にテレビを見ながら部屋の周りをぐるぐるしてばかりいた。
朝の6時までそんなことを続けてから、12時間眠って夕方の6時に起きて、5分ほど布団の上であぐらをかいてから大学をサボってしまったことにふと気づいたりしていた。
実際は友達が少ないからと昼休みになるたび図書館に行って学習まんがを読んで過ごしているうちに無意識に勉強をしていたんだと思う。
それでも勉強が人より出来るのは間違いがなかったので親は自分に妙な期待をしたらしく私立中学に行くことを勧めてきた。
その頃の自分は「いい子」だったので親がそう言った以上は逆らうこともなく、素直に塾に通い、素直に人より多く勉強をして、気づいたらそこそこの私立に入っていた。
今覚えばこの時点で覚悟を決めておくべきだったんだろう。
自分は運動も出来なければコミュニケーションも上手く取れなくて、それでいて賢くもないと。
ダラダラと過ごすうちに最初は中間だった成績は下の下まで落ちていった。
今思えば、自分は小学校の頃にちゃんと勉強をする癖を付けそこねたんだろう。
勉強は暇つぶしの範囲でしかしなかったし、テストの大部分は学習まんがで覚えた知識を応用してどうにかしていた。
嫌々ながらも机に向かって問題を熱心に解くことは少なく、宿題も面倒になると適当に埋めて終わらせていた。
算数の問題(今覚えば公務員試験の数的処理によくにていた)を解くのはパズルみたいで好きだった。
だけど単純計算は嫌いで、よくケアレスミスをするのは知っていたのに全然トレーニングをしようとはしなかった。
そうして面倒くさがって勉強しない癖を付けたままダラダラと中学高校時代を過ごし、大学受験シーズンを迎えた。
分からないことが多すぎた。
英語の基礎はなっちゃいないし、数学も積分の問題を解いているのに微分がそもそもろくに理解できていなかった。
社会化の知識は小学校で止まっていたし、かろうじて理科はどうにかなると思ったらこれも中学校で止まっていた。
自分は勉強しなくても勉強が出来るはずだという感覚を未だに捨てきれなかった自分は混乱した。
何から手を付ければいいのか分からなくてとりあえず周りに合わせて受験生がやるような問題を解こうとした。
手も足も出なかった。
中間テスト前に毎回丸暗記して何とか赤点を回避していた知識は反復不足でほぼ全てが抜け落ちていた。
高校1年の問題どころか、中学2年程度のレベルでも怪しい所が無数に合った。
まず何をすればいいのか。
それを誰に相談すればいいのか。
その答えも出せないまま刻々と時はすぎて、気づけば滑り止めも受からないまま高校時代は終わった。
塾には行っていた気がするのだが、基本的な部分で躓きまくっているのをどうすればいいのかが分からなくなり、誰に相談するでもなく自主休講を繰り返していた事だけは覚えている。
相談すれば真摯に対応してくれていたのかも知れないが、あの頃の自分はプライドと疑心暗鬼が心の中で手を組んでこんな奴らに相談しても馬鹿にされた挙句にはぐらかされるだけだぞと完全に思い込んでいた。
浪人生になった春。
新しい塾に入ることにした。
そこは前に通っていた塾よりもレベルが低く、自分が通っていた高校の名前を出したらすぐに上のクラスに入れてもらえた。
自分の今の実力は非常に低いから不安なので一応テストを受けたいと申し出た。
いくらもう1年時間があって同級生には高校3年生もいるとはいえ、こんな問題も解けない奴はヤバいだろうと感じた。
今思えばここで油断したのかも知れない。
勉強をしない生活が基本となっていた自分は、隙あらばサボろうとしていたのをよく覚えている。
最初のうちは授業にはちゃんと出ていたが、いつの間にか加速度的にレベルの高くなる内容に振り落とされ、気づけば足が遠のいた。
どこであんなに差がついたのかとその頃の自分は悩んでいたが、答えは明白である。
日々の反復学習だ。
予習も復讐もロクにせずに授業に出るだけでは大学受験レベルの問題が解けるようにはならないおつむの作りをしていると高校時代に散々味合わされたはずなのに、半年もしないうちにそれを忘れてしまっていたらしい。
そうして勉強をする癖を付けることが出来ないまま、二回目の大学受験を迎えた。
滑り止めには受かった。
「こんな所行ったら終わり」だとすら思わず「こんな所に行く自分が想像できない」滑り止めだった。
他の試験会場で味合わされた絶望感がそこの試験の時だけなかったのを覚えている。
同時に「こんなに簡単ならきっと逆に競争が熾烈化してギリギリの戦いになるだろう」なんて考えていた。
そうして勉強する癖も、自分のイメージする大学生にふさわしい知識も、自分のイメージする大学生にふさわしい学習環境も、何一つ手にすることがないままに大学生編が始まるのであった。
もう一年浪人して心を入れ替えておけばよかったのかも知れないと今は思う。
二浪したら人生の終わりの始まりだとその頃の自分や両親は思っていたが、その程度で終わるなら大学を中退したらどうなってしまうと思っていたんだろうか。
大学に入った頃の自分はまだ自分がそこの学生である事を実感できないでいた。
結局一度も心の中で認めていなかったのかも知れない。
周りの学生も教師も皆馬鹿に思えたし、そんな連中とつるまなきゃいけない自分自身の馬鹿さ加減にも日々絶望していた。
心の半分ぐらいがずっと灰色だった。
浪人時代に失敗したから大学に入ったらちゃんと勉強を頑張ろう!
そう思って友達付き合いやサークル活動を控えて勉強に打ち込もうとした。
駄目だった。
ただ予習・復讐を忘却曲線に合わせてやるだけの事が出来なかった。
だから勉強もできないしサークルにも入ってないし友達もいない救いようのない学生が出来た。
そうしてその救いようのないクズは日々レポートに苦しみながらクズ故のプライドの高さと自己肯定感の低さから来る多方面への遠慮から誰にも頼れずにいた。
そうして自分は大学2年の後半辺りから少しずつおかしくなり始め、就活シーズンの頃にはすっかり頭が駄目になっていた。
誰からも自分は必要とされないだろうという不安から就職活動に踏み切ることも出来ず、だからといってなにもしないのも不安だからとか公務員試験の勉強を始めた。
公務員試験の勉強と、普段の授業と、実験レポートと、卒業論文、その4つにグルグルと毎日追われていた。
授業の実験はなくなったが研究室に妙なやる気があったのでそれに似たことをよくやらされた。
何かをすると他の何かが頭をよぎった。
勉強もしなくちゃいけないし、レポートも書かなくちゃいけない、卒業論文も進める必要がある、面接の準備もしておいた方がいいのだろう、授業の宿題もちゃんとやらなければ……
パニックだった。
計画を立てて物事を実行に移す。
自分にかけていたのはその習慣だったのだ。
今にして見ると簡単な事だ。
だけど自分はまだそのことに気づいていなかった。
だから机に向かって何かに取り組んでは、すぐ別の何かが気になってフラフラしては精神をすり減らしていた。
気晴らしのために遊ぼうとしても色々な事が気になって遊べなかった。
眠ることは生理的に必要不可欠なのでこれなら許される気がした。
悪い夢を見ることが多かったけれどもそれが一番疲れが取れた。
寝ている間の半分は夢すら見ていないからだろう。
実験レポートの内容は相変わらず酷いもので、教授にチェックを受けるたびに皆の前で叱られた。
あるときには呼び出しを受けて教授から2時間にわたり叱責を受けたこともあった。
回りでパソコンに向かっていた同級生・上級生が憐れむような、何か理解できない生き物を見るかのような目でこちらを見ていたのを覚えている。
そうして気づけば研究室へ行くのが嫌になり、卒業論文も進まなくなった。
将来への不安から勉強にも身が入らず単位も不足し、文句なしの留年でその年は終わった。
入る前から死にかけている生きの悪い学生なんてどこも取るはずがないだろうなと今でも思う。
次の年度が始まっても、院生に上がった元同級生や下級生、そしてあの教授たちと顔を合わせると思うと研究室には行く気になれなかった。
研究室を変えたらどうだという話もあったが、どうせたらい回しにされた人間しかやってこないようなもっと酷い研究室に送られるのだと思い拒否した。
今覚えば分が悪くとも賭けに出た方がマシだったろう。
ギリギリの精神を「もうすぐこの状態から抜け出せる」という希望で何とか繋いでいたのが逃亡からの留年という形で切れてしまったこともあり、次の年度は完全に駄目だった。
日々の多くを家に引きこもって過ごしていた。
毎日死ぬことばかり考えていしたし、もうすぐ死ぬのなら今頑張っても無駄だなとふて寝ばかりしていた。
何かを頑張る気にもならなかったし、かといって遊ぶ気にもならなかった。
ただ毎日を死んだ目で寝て過ごした。
段々寝ようとしても寝れなくなっていったが、グルグルと頭のなかで過去や妄想を反芻しながら布団の中で目を閉じている方が起きて何かやるよりかはマシなので眠りもせずに布団の中で過ごした。
そしてその日々の中で、こんなことを続けていたもどうにもならないと思い、自分は中退を決意した。
決意の方向が間違っていたような気もするし、実際もうあの頃の自分はどうやっても大学を卒業できなかった気もする。
生活を見直し、人生を見直し、行動を見直し、とにかく気持ちがどうこうよりも前に日々をどう生きるかを前向きに組み立てなおしていれば可能性はあったのかも知れない。
だけどあの頃の自分は1人でそれが出来る状態にはなく、それを助けてくれる人間も周りには居なかった。
両親は自分の人生で忙しかったし、大学は腐ったみかんの相手なんてする気はなかった。
ひとつ嫌になると何もかも嫌になる僕はまた家から出られなくなった。
4限の授業はおそらく中間テストがあるので行かなきゃまずいなあと思いながらこれを書く。
大学生になった今、中学高校を思い返しては「あのときああしていれば」「ああするんじゃなかった」と思っている。
思い返せば、高校生の頃は「中学の時ああしていれば」中学生の時は「小学生の時ああしていれば」と思っていた。
そんな考えは何も生み出さないことはよーくわかっている。
だけど、そう考えずにはいられないんだ、いつも、なぜか。
毎日30分くらい弾いていた。嫌いなわけではなかったけど特別好きなわけでもなかった。
たぶん親にやるように言われていたからやっていたんだと思う。
中学生の部活で、オーケストラ部に入った。そこでバイオリンを始めた。
オーケストラ部の中には、ピアノが上手い人がたくさんいた。自分なんてヘボだった。
それまで近所や自分の出身の小さな小学校の中では多少うまい自信はあったけど、そんなの比べ物にならなかった。
聞けば毎日2時間とか練習していたらしい。絶対音感もある。和声やなんちゃらもよく知っている子ばっかりだった。
好きで、楽しくってやっている感じだった。
でもそのとき僕はそんなことには気がつかなかった。
そのとき僕は「小学生の時もっと真面目にピアノを練習していたらなあ」と思った。
「なんでもっとちゃんとやらなかったんだろう」と思った。
それからオーケストラ部で5年間(中高一貫だったのだ)バイオリンを弾いた。
大学オケの中ではそこそこの伝統がある方からなのか、(アマオケなんでたかが知れているが)レベルが高い良い環境なオケだ。
中高では比べ物にならないくらい、すごい人がいた。ほんとに学力でこの大学に来たの?と思うくらいの人が普通に居る。
自分は13歳の頃から部活でこのバイオリンを弾き始めたけど、高校始めとか、大学はじめの3年生のとかの方がよっぽどうまかった。
そう、お察しのとおりここでもまた僕は思ってしまったんだ。
「中高生の時もっと真面目にバイオリンの練習をすれば良かった」
「なんでもっとちゃんとやらなかったんだろう」
「あの5年間もっと真面目に取り組めば良かった」
自分のために言い訳するならば、確かにこの5年間も真面目に練習していたわけではなかった(と思う)
オーケストラ部は小さなゆるい部活で、はじめの1年こそ先輩に時々見てもらえたものの後はただ個人で練習して合奏をして発表をしていた。
大半の部員は部活より趣味やらほかの習い事と両立したくてこの部活に入っているようなもんだったから、切磋琢磨する雰囲気なんて、正直なかった。サボりたいやつは勝手にサボり、練習中もお話している方が楽しかった。
だけど、たしかに友達の中にはぐんぐん上手くなったやつもいた。上手くなりたいやつはレッスンに通ったり地元のジュニアオーケストラに入ったり、独学で上手くなっている奴もいた。
僕はたしかにバイオリンの練習をするのは好きで、部活にも真面目に参加していた方ではあったと思う。
でも、そういう積極的な人たちを「すごいなあよくやるなあ」と思いながら何もしなかった。
…なにか矛盾している気はするけど、自分はそういうスタンスだった。
僕は、そういうぬるい環境の中で生きていた今までとは違い、真面目に練習したくてこの大学オケに入ったのだ。
実際入部してからもう半年以上経ったわけだけど、それなりに真面目にやってきたのだ。
だけど、練習するにつれ、他人とのレベルの差に嫌気がさしてくる。
そのたびに思うんだ。「中高のときに真面目に練習していれば」って。
過去を考えてもしょうがない。いまできないから、できるようになるために、練習するのにね。そんなことは分かっている。
だけど、どうも、そんなうまくいかないのだ。
そうしていま家に引きこもっている。
タイトルは広く付けちゃったけど、書くにつれ音楽の話に偏ってしまった。いま自分の心を占めている話題がこれだからだろう。
だけどこの話題に限らず、僕はどうも「ああしていれば」と考えてしまいがちのようだ。
今うまくいかない原因を、全部過去のせいにして、逃げている。
だから僕はいつも自分の過去を肯定して生きることができない。どうりで生き辛いわけだ。
…音楽に関していば、もっと楽しむということをしたほうがいいんだろうけど、どうやったら楽しめるのか全然わかんないんだよな。
まあ、単に、向いていないのかもしれない。
複式学級を知らない人も多いかもしれない。
たとえば三年生と四年生が同じ教室で、三年生に授業をしている間は四年生が自習、四年生に授業をしている間は三年生が自習といった具合に。
文科省の定めでは、1学年が16人未満の場合に必要に応じてとられる措置らしい。
僕の学年は10人未満で、僕の上の学年も、下の学年もやはり10人未満で、2学年が同じ教室に入っても15~18人だった。
僕の学年の、学習到達度は通常学級に比べると低かったと思う。
(規模の順にA~F小学校としよう。一番大きな小学校がA小学校で、僕の小学校がF小学校だ)
当時の中学校では定期テストのたびに上位半分は壁に点数の順に出席番号を張り出す習慣があって、名前こそ貼りだされないまでも、誰が何点で何番かというのは調べようとすれば簡単だった。
アルファベットさえ憶えればなんてことがない内容だった。
中間テスト後、補習に残される生徒は明らかにD~F小学校の出身者が多かったと思う。
デッドラインは30点くらいだったと思う。
小学校の国語の授業でローマ字について習う時間が、よその学校の半分だったからだと思う。
2学年あわせても15人だった小学校時代、授業は最低辺の子に合わせ、ちんたらと進み教科書が最後まで終わらなかった。
40人クラスとなった中学では、最低辺に合わせて授業をするなんてことはなく、多少の配慮はするもののカリキュラムは粛々と進んでいき、当然のように置いてきぼりとなった。
さらに悪いことに、僕らは、競争しようという気持ちがなかった。
小学校時代、勉強の成績を競うという習慣がなかったし、中学に入った時点では、スタートラインから落ちこぼれだったからだ。
塾というビジネスも過疎の町にはなかったし、進研ゼミという通信講座も無力だった。
何故かと言うと小学校時代、複式学級で授業が半分とは言っても、それでも教師の監視の目はたった15人ばかりの教室には行き届いていたからだと思う。
子供同士の秘密とか、いたずらとか、カッコつけたり、ふざけてみたりということが極端に少なかった。