心ない言葉をなげる人は多分自分を守ることを考えている。自分を守ることと他者を攻撃することを同一視している。自分が間違っていることを認めてしまうと何もない気がしてしまっているんだと思う。自分が正しいことを示したくて他者を攻撃している。自分が正しいということを、その言葉を使って表現したいだけで、その言葉そのものに意味はない。自分が正しいことこそ意味があると思っている。
何を期待してその言葉をなげてしまうのか。自分や自分の考えの正しさを示したいのか。その正しさのなかに、その行動は含まれているのか。
凡人は空虚な正しさを捨てて一回自分に何もないことを認めて、そこから始めるしかないのだと思う。何が大事で何が大事でないか、何かを持っている状態でなく何も持っていないところから始める。
逆に非凡な人は、何かを持っているからその何か以外のものを持つ必要がないんだな。そういう意味で凡人のことはわからないのかもしれない。
そして私は空っぽになった。でも、この空っぽをどう埋めればいいのか。これを探していくのが人生なのか。だとしたら苦しい。この何もなさとどう付き合っていけばよいのか。
その答えは多分そこなしの沼しかない。
何の見返りもなく愛せるもの、無償の愛を送ることのできる対象を見つけるしかない。ただし、他者が絡むのはよくはない。他者への期待が膨み、見返りを求める可能性があるから。
人の沼を絶対に馬鹿にするな。特に意味など求めるなどもってのほかだ。その人にしかわからない意味があるし、その存在が意味だからだ。そういうものがあることを理解するだけでもいい。それが不可侵なものだと理解してくれれば世界は平和だ。
各自が自分の沼に浸れているうちは平和だ。その世界では比較など無意味だ。
しかし、この道は孤独に通ずる道でもある。この孤独を自分で愛せるようにならないといけない。
この孤独を愛せたら死も楽しみになれるだろうか。
参考文献