はてなキーワード: 根付とは
日本のゲーマーに思われてるほど、買い切りとガチャゲーで「ジャンルが違う」なんてことないはずだよ。
同じアクションやRPGとして、ゲームとして面白くする作り込みのノウハウは同じ。
ただガチャゲーとして売れるには、継続的にキャラやマップやシナリオを高品質に追加しつづけていく体力が必要。
そこに関して、「ってことは金かけなあかんな」と真っ当な考え方をして人材確保や開発規模をあげて対応したのが、00年代の韓国オンラインゲームや20年代の中国モバイルゲーム。
前者は国策として支援金があったし、後者はバブル景気でお金を集めやすかったのがあるだろうけどね。
でも、日本がガチャゲーを作る時の考え方として土台にしたのは、貧弱なガラケーみたいなハードでスキマ時間を潰すための、くだらないゲーム。
低予算でとにかく射幸心を煽って競わせることで、チープなんだけど連帯感を持たせるバトルでゲームっぽさを演出するアプローチでやってきた。
ソーシャルプラットフォームに根付いてSNSのフレンドを引っ張ってくるからソシャゲなんだけど、文字通り社会性ゲームだと思うね。
つまり、日本は最初からガチャゲーをゲーム未満のゲテモノに貶めてしまったんだよ。それでもソシャゲバブルで大成功した企業が出た。
で、ユーザーも適応して、ガチャゲーは馬鹿になって遊ぶもんだ、という頭になってしまった。
そこに本物のゲームと化した、ガチャだけど上手にマネタイズする作品が入ってきたから、脳がバグってしまった。
スマホのゲーム性能が高まるにつれ、買い切りゲームと同等かそれ以上の開発費をかけなきゃいけなくなって、
それでも日本勢はビジュアルだけリッチにしてゲームの構成はゲテモノガチャゲーを引きずったものを作りつづけた。
かつての成功体験があったせいで、抜本的に異なるものを作る勇気あるメーカーは出てこなかったんだね。
さらに悪いことに、中華ゲーのガチャシステムも一見自分たちと同じようなものに見えていたから、見習うポイントを見いだせなかった。
ガチャ2.0的な排出地点制御を理解したとしても、かつて高確率設定をアピールしてアドレナリン中毒にさせてきた既存顧客に対して、「超低確率で天井までまず出ません」みたいなしわしわガチャを魅力的だと理解させるのは難しい。
非常識な方のガチャゲーを基準にしちゃってるから、モダンでお利口なガチャゲーのゲーム設計を受け入れにくい。
その点ではモバゲーグリーに触れてこなかった若者のほうが有利だし、素直に「こっちの方が遊びやすい」と感じられるだろう。
このへんの世代間断絶はなかなか埋められなさそうで、そこが先が暗い原因だと思う。
アメリカのちょっと田舎の方に旅行行ったんだけど、意外と政治の話が日常会話に出てくるのに驚いたよ。スーパーとかカフェとか、ちょっと世間話してると普通に「トランプがどうだ」とか「バイデンはダメだ」とか出てくるの。日本だったら、政治の話ってあんまりしないじゃん?でもこっちは「自分の意見を言うのが当たり前」みたいな感じで、みんな遠慮なく話すんだよね。あと印象的だったのは、田舎の人たちって保守的な考えが強いこと。例えば、銃規制の話になると「自分の身は自分で守るべきだ」って本気で言ってて、銃はなくせないみたいな。ニュースとかで聞いてたけど、実際に話してみるとその考えが根強いのを感じたわ。でも、その一方で「政府は信用できない」って言ってる人も多くて、共和党支持の人でも政治家はみんな同じだみたいな諦めムードもあったりするんだよね。都会とは全然違う雰囲気で、彼らの考え方がしっかり生活に根付いてる感じがしたな。
ブコメを書いた人が持つ偏りの背景には、いくつかの要因や経験が影響している可能性があります。以下のようなバックグラウンドが考えられます。
ブコメのような視点を持つ人は、過去に結婚制度や伝統的な社会規範に対して強い反発を感じた経験があるかもしれません。例えば、次のような状況が考えられます。
結婚において、パートナーシップにおける自由が制限されたと感じた経験や、結婚生活が束縛的だと感じたことがある場合、その反動として結婚制度そのものを否定的に捉える傾向が強くなることがあります。特に、自己決定権や自由を重要視する人は、過去の結婚や恋愛の中でそれらが抑制されたと感じることがあるため、その経験が強くブコメに現れる可能性があります。
もし育った家庭や社会環境が非常に伝統的、保守的であり、家族や結婚に対する「所有物」的な価値観を強調していた場合、これに対する反発から、結婚そのものに対する批判的な態度が形成されることがあります。この場合、「結婚=自由を制限する」といった見方が自分の価値観として根強くなりやすいです。
ブコメのような自由主義的な視点は、特に近代的な社会において育った場合や、自由と平等を重視する思想に影響を受けていることが考えられます。次のような文化的・社会的な背景が影響しているかもしれません。
西洋的な個人主義の価値観が強く根付いた環境で育った場合、「個人の自由」や「自己実現」を最優先に考える傾向が強くなります。このような環境では、結婚という制度を「自由を制限するもの」として否定的に捉える考えが浸透しやすく、またそれが自然な価値観として受け入れられることがあります。
リベラルで自由主義的な教育や思想を受けて育った場合、結婚に対する伝統的な価値観を否定する傾向が強くなることがあります。例えば、結婚を「所有」のような抑圧的な関係として捉え、その背後にある社会的・文化的な規範を批判する立場を取ることが多くなります。この場合、「自由」や「個人の権利」を重視するあまり、結婚の持つ他の側面(信頼、相互尊重、責任感)を軽視してしまうことがあります。
ブコメに見られる「好きでいれば素晴らしい」という考え方は、理想主義的な価値観が強いことを示唆しています。この理想主義は、現実的な制約や複雑さを無視して「理想的な自由」を追求しようとする傾向を強化することがあります。理想主義的なバックグラウンドには次のようなものが考えられます。
自由で対等な関係が理想とされ、パートナーシップや結婚においても「制限なし」「束縛なし」の理想を追求する傾向があります。過去の経験や読書、映画などで「理想的な恋愛」や「理想的な自由」を見たことがあり、現実の結婚や恋愛がその理想にそぐわないと感じる場合、結婚を否定的に捉えるようになることがあります。
完全な自由や平等を重視するあまり、それを実現するためには結婚制度や伝統的な価値観が障害となると見なすことがあります。この場合、結婚の複雑さや、関係の中で自然に生じる役割分担や責任が「自由の制約」として過剰に否定的に解釈されがちです。
ブコメのような視点を持つ人は、特定の社会的背景やグループに対する反発心を持っていることがあります。例えば、家族や社会からの期待や圧力に対して反発を感じ、自分自身のアイデンティティを守るために「自由」や「個人主義」を強く主張することがあります。
特に、保守的な社会や家庭に育ち、結婚や家族に対する伝統的な価値観を強く押し付けられた場合、その反動で自由主義的な立場に傾くことがあります。結婚や家庭に関する社会的規範に対して強い反発心を抱くことが、そのような偏見を強める原因となる場合があります。
伝統的な結婚観が社会において「常識」とされている場面では、その枠に収まることに対して反発を感じ、自由な選択肢を支持する立場を取ることがあります。このような人は、結婚制度を単なる社会的規範として批判し、その枠組みからの解放を理想とすることが多いです。
ブコメを書いた人がこのような偏った見解を持つ背景には、個人的な経験、文化的背景、理想主義的な価値観、社会的な反発などが影響している可能性があります。特に、自由や個人の権利を重視し、結婚制度や伝統的な価値観に対して反発を感じることが、ブコメの主張を強化している要因であると言えます。また、理想的な自由を追求するあまり、結婚に伴う複雑な側面や責任感を軽視しがちになることも、その思考に偏りを生んでいる要因と考えられます。
ここ数日で2文見て気付いた
(数十年前に英検3級。大学入試とかで6割ちょいぐらいの苦手科目。そこからさらに衰えてるが最低限の文法や単語は思い出せたりするぐらい)
夢が真実になる、夢がかなう ぐらいの意味か。バンドしか出てこない
Back to the Future
未来へ戻る? 未だにタイムスリップするぜ ぐらいの意味で捉えてる
洋楽、洋画のタイトルや頻出歌詞で単語も単語の並びも知ってるが意味まで考えたことないのが多そう。慣用句とかレベルじゃなしに(そうであったり、何かのもじりかとかでもわからない
All You Need Is Kill は大人になってから読んで、内容も加味してなんか「ただ殺すだけ」という意味と繋がっている
https://anond.hatelabo.jp/20241106140729 が個人的にあんまりなので自分で選び直してみた。
すべては ここから はじまった!
正直1stの曲ならなんでもよいが、選曲画面でいの一番に出てくるコイツをチョイス。
Q. 音ゲーといえば?
5鍵1stのロケテ時点では存在しなかった20,novemberは、いともたやすく達成された全曲クリアを阻むために作曲された「ボス曲」のハシり。
難しいものを攻略してもらうことでインカムと人気を確保するため、というなんとも実利的な意味合いではあったらしい。
実は音楽ゲーム史で最初に版権曲を取り入れたのがDDR 1stなのだ。(東芝EMIとコラボ)
このBUTTERFLYが先行まとめであったように人気曲を版権曲として取り込む潮流の元になったことは間違いないであろう。
これも1stの版権ならなんでもいいが、音ゲーブームのきっかけになった点も加味してチョイスした。
曲の実質BPMは160で固定だが、譜面としてはBPM80~320と強烈な変速をするのが特徴。
早く墓譜面付きで復活してほしい。
IIDX 4thからチョイスしたこの2曲は初めての「公募曲」。
今やSDVX、CHUNITHMをはじめ太鼓の達人に至るまで音楽ゲームに「公募」という概念が根付いているが、ハシりとなったはこの2曲だ。
古今東西使い古された音MAD楽曲であるコイツはIIDX REDが初出。2004/10/28稼働なので丁度20周年を迎えたばかりの楽曲である。
ちなみに元のBGAにMADでよくある左右分割地帯は存在しない。
融和(?)の象徴。BMS(わからない人向け:PC向け同人音ゲー。IIDXにそっくり)から初めての商業音ゲー進出を果たした楽曲。
今やスマホ音ゲーからAC音ゲーまでBMS楽曲が入っていない機種の方が少数派と言っても過言ではないが、いかんせんゲームシステムからしてアングラ気味だったBMSから曲を引っ張れる下地を作れたのは大きい。
近年の音ゲーコンポーザーはBMSを足掛かりにキャリアをスタートすることも多く、そのキャリアコースを形成した一因と言ってもよいだろう。
音ゲー大会の決勝はなぜか曲数が多い。なぜなら最後に新曲を初見でやるからだ。
そのハシりとなったのがSDVX BOOTHのMax Burning!!。
KAC2012でお披露目されたこの楽曲はトップランカーを蹴散らす…程ではなかったが、音ゲー史にその名前を深く刻みつけた。
最後にIIDX 9thからこの楽曲。そんな曲シランがな、という人も多そうだが、何を隠そうこの楽曲は史上初の「解禁曲」(特定の条件で出現し、かつそれ以降常駐する新曲)。
9thは初めてe-amusementに対応した作品であり、このような解禁方法が可能になった最初の作品である。初の解禁曲だけあって解禁方法は至ってシンプルで、①9th柄のエントリーカードでプレイする②他の柄のエントリーカードで一定回数プレイする、のどちらか。
解禁イベントの重量化は昨今の音ゲーで深刻である。そもそもの火種を起こしたこの曲が残した功罪は大きいかもしれない。
1stにいっぱいいるJ-POPは同時期に既にBEMANIシリーズにちょくちょくいたりしたのと、覇権を取った所以が楽曲にあるわけでもない(と思っている)。
デニムは言うほど浸透してない気がしたので。
特異点(クローンゲーからの譜面含めた移植)ではあるが史上で重要かというとそうでもない。
やってないのもあるがいまいち思いつかんかった。あったら言及ください。
少なくともbeatmania III (2000年) の「mnemoniq」が先行してる。フロッピーにプレイ記録を保存できた。
ほぼ結果が確定したようで、トランプに決まったっぽいな。
一度トランプに背を向けた人達や、今までトランプに票を投じなかった人たちも
トランプに票を投じてるっぽい得票率になってる。
過去にトランプに痛い目にあわされた人たちがトランプを支持してるってことだ。まぁ、強烈な反トランプも根強いみたいだけどw
これって凄いなと思う。
「痛みを受け入れてでも変化を求める」というのがホントに有権者に根付いてるんだな。
まぁ、民主党政権が続くと今以上の痛みが続きそうってのも大きいんだろうけど、
それでもロシアにべったりなトランプが選ばれるって凄いことだ。
今後の個人的な予想でいうと、ガザもウクライナも見捨てられ、日本もまた冷や飯食わされるだろう。
自分が4歳の頃に月に1,2回、父にパチンコ屋に連れて行ってもらっていた
正直連れて行ってもらってたのか連れてかれたのかは記憶が曖昧だけど、とにかく4歳児のくせしてパチンコ屋に出入りしてたんだ
当時のパチンコ屋は今と違ってどこか牧歌的で、なんか今で言う昼から新聞片手にタバコ吸いながらビール飲んでる町中華みたいなゆるっとした空間で、タバコが濛濛としてる以外はまあそんなに悪い場所でもなかった
パチンコの台も今の台と違いとてもシンプルな作りで、クルクル回ってる当たりの穴に玉が入ったら当たりという、4歳児にも一発でわかるシンプルそのもののルールだった
パチンコ屋に着き父の横の台に座って待機していると100円分の玉(二十発くらいだったと思う)を自分の台に入れてくれてその玉で遊んでいた
最初の十発くらいは何も考えずに連続で打つんだけど残り玉数が減ってくると、一玉一玉丁寧に打つようになってたのを覚えている。貯金が2万円を切った時のお金の使い方と似てるなと今更思う
まあじっくり打っても所詮は二十発なので堪えれても5分くらい。その後はどうなるかと言うと次の玉の補給(大体15分に一回くらいもらえた)までやることがないので、店に落ちてる玉をひたすら拾い集めてその玉で打っていた
今の時代こんなことしてたらSNSでとんでもない燃え方をして火だるま不可避の案件だと思うのだけど、まだ古き良き昭和で全然気にしている人もいなかった(パチンコ屋で子供に会ったことはほぼ無かったけど)
父が当たった日は金の延棒(?)の端数の玉でお菓子をもらえて子供心にも遊園地に来たみたいな気分になっていた
そんなある日、玉拾いに勤しみながらパチンコを打っていたらなんと当たりの穴に入ってしまったのよ。興奮状態で、父に、あ、当たった、、!!と伝えたところ、音速で席を奪われそのまましっかり玉を稼いでいた
流石に子供が当てたのを全部現金化するのを悪いと思ったのか、交換所で好きな景品を選んで良いよって言われたので、ホログラムのパッケージがメチャクチャかっこよかった月風魔伝って言うファミコンソフトに交換してもらった
唐突に話は終わるんだけど、4歳にして自分の力(?)でゲームソフトを勝ち取ったのがとても良い体験となってその後も自分の行動原理に根付いているような気がしましたまる
今日、私はある出来事を通じて自転車乗りの思考が少し理解できた気がする。彼らにとって、自転車に乗っている間は、自分が「移動している側」だからこそ、特別なルールが存在するのかもしれない。つまり、周囲の歩行者や車と違う基準で行動している感覚なのだろう。ロードバイクのおっさんがライトをチカチカさせるのも、彼にとっては「安全を確保するための当然の行為」だったに違いない。だが、こちらが同じ行為を逆に行った途端、彼はそれを「攻撃」だと感じてしまったのだろう。この矛盾は、自転車に乗ることで生じる特有の心理的なバイアスなのかもしれない。「自転車に乗っている=自分が優先されるべき」という無意識の前提が、彼らの中で根付いているのかもしれない。
「デブは温厚」:太っている人は性格が温和で優しいというイメージがあるため、他人と争わない性格と思われがちです。
「イケメンは浮気しやすい」:容姿が良い人はモテやすく、恋愛に対しても多情になるという偏見が含まれています。
「長髪の女性は自由奔放」:髪が長いと性格も開放的で、自由を求める傾向があると見られることがあります。
「太眉の男性は強気」:眉が濃い男性はリーダーシップがあり、強気であるというイメージが根付いています。
「色白の人は繊細」:肌が白い人は体が弱い、もしくは神経質で繊細な性格を持っていると見られることがあります。
「金髪は奔放」:特に西洋文化で、金髪の女性は明るく社交的だが、奔放であるといったステレオタイプが存在します。
「ガタイがいい人は優しい」:大柄で筋肉質な人は見た目と裏腹に、心は優しく穏やかであるといった先入観もよくあります。
去年、アメリカで民間会社が統計取ったら全体の8割が夫の姓を選択していて、保守・高齢は夫の姓、リベラル・高学歴・若年は別姓っていう傾向が出てる(どちらかが見栄を張ってるのか男女で数字が合ってないし....)
2020年のBBCの報道では西欧は今でも夫の姓にする社会的圧力が強いらしい
https://www.bbc.com/worklife/article/20200921-why-do-women-still-change-their-names
戸籍制度の無い国は男女平等で夫婦別姓にしているのはなく、勝手にやって下さいというだけの話だけだと思う
現代の日本で「健康で文化的な生活」を送るためには、身体と精神の健康、社会的つながり、文化的な活動をバランスよく取り入れることが重要です。以下に、具体的な取り組みを挙げながら論じます。
身体的な健康を維持するために、適度な運動、バランスのとれた食生活、十分な睡眠が必要です。
• 運動: 日本国内で推奨されるのは、週に2~3回程度の有酸素運動と筋トレです。ウォーキングやランニング、ヨガ、筋力トレーニングを定期的に行うことで、心肺機能や筋力の維持、ストレスの軽減に役立ちます。また、屋外の公園や公共施設などを活用し、自然との接触を通じてリフレッシュすることも可能です。
• バランスのとれた食生活: 健康的な食生活は日本の文化でも根付いており、魚や野菜、発酵食品(味噌、納豆など)を取り入れた「和食」はバランスの良い栄養摂取に適しています。厚生労働省も「健康づくりのための栄養・食生活指針」を通じ、炭水化物、たんぱく質、脂質のバランスを意識することを推奨しています。
• 睡眠: 日本人の平均睡眠時間は、他の先進国と比べて短い傾向があり、慢性的な睡眠不足が問題視されています。良質な睡眠を確保するために、就寝前のスマホやPCの使用を控え、一定のリズムでの生活を心がけるとよいでしょう。
精神的な安定を維持するためには、ストレスを管理し、心の健康を意識した活動が重要です。
• マインドフルネスや瞑想: マインドフルネスや瞑想は、自己を見つめ、ストレスを軽減する効果があり、日常生活での心の安定を助けます。短時間でも呼吸を意識することで、気分転換や精神のリフレッシュが図れます。
• 趣味や文化的活動: 自分の興味に合った趣味を持つことも精神的な健康に有効です。読書、音楽鑑賞、映画やアート観賞など、文化的な活動は心に豊かさをもたらし、リラックス効果があります。また、日本独自の伝統文化や芸能(茶道、華道、能、歌舞伎など)を学ぶことも、生活に彩りを与えます。
3. 社会的つながりを築くための取り組み
社会的な孤立を防ぎ、他者とのつながりを持つことも、健康的な生活の基盤となります。
• 地域活動やボランティア: 地域のイベントやボランティア活動に参加することで、他者とのつながりが生まれます。日本では「町内会」や「自治会」など、地域のコミュニティ活動が活発な場所も多く、こうした場を通じて、世代を超えた交流が可能です。
• オンライン・コミュニティ: 遠方に住む人や共通の趣味を持つ人とつながるために、オンラインのコミュニティやSNSも有効です。ただし、過度なネット依存に注意し、リアルな交流とバランスを保つことが大切です。
環境保護の観点から、エコロジーな行動も健康で文化的な生活に関わります。
• エコ活動: 日々の生活でリサイクルやエネルギー節約を意識することで、環境保護に貢献することが可能です。ゴミの分別やエコバッグの使用、自家栽培などの「小さなエコ活動」を通じて、持続可能な社会の構築に貢献できます。
まとめ
「健康で文化的な生活」を送るためには、身体的・精神的な健康を維持し、社会的つながりを築き、環境意識を持つことが重要です。自分の生活環境に合わせた具体的な取り組みを通じて、日常生活における質を高め、心身ともに充実した生活を目指すことができます。
1つめが目玉政策きなる日本版メガチャーチ設立……これは大事業になる
仏教系か神道系か分からんが、カルトじゃない宗教コミュニティを拡大し地方に根付かせる事
アメリカでもイスラエルでも宗教右派は現代社会の優等生だからね
よく分からんサービス業に従事させるよりはメガチャーチの職員増やして信徒を増やし、信徒同士で結婚させた方がいい
宗教右派増やしたいとか言ったら、リベラルやフェミニストに物凄く怒られると思うけど、そいつらには首都圏には設立しない進出させないと言えば怒りも大分収まると思うんだよね
北海道、東北、北関東信越、中部、中国四国、九州辺りの大きな都市にとりあえず設立し、小さい支所をそこから広げていく
2つ目で25歳以下で婚姻&出産した人への支援金200万円などのバラ撒き政策
早婚有利な環境を作る
3つ目が結婚適齢期の男性に対する恋愛や身嗜みなどのアドバイスをする
民間にやらせるとこの手のサービスは高くつき過ぎて誰もやらないから国がやる
女性を教育するとリベラルやフェミニストが黙ってないと思うのでやらない
異性に困ってる人を拾ってきて入信させよう
日本人と結婚&出産したら国籍はもちろん手に入りますし日本語学校はタダです
ただしこれらの条件として地方に住み日本版メガチャーチに入信してもらいます
多分これらの政策全てがリベラルやフェミニストをブチギレさせると思うから逃げ場を作ろうと思う
あそこはマッチングアプリや男の品評会を女さんが自由にやってりゃいい
多分首都圏に女さんがより一層流入すると思うけど、それって別に今と変わらんしこの層って別に結婚出産しないからどうでも良いと思う
日本における共産主義や社会主義に対する強い拒否反応は、戦後の歴史的・政治的な要因が複雑に絡み合って形成されたと考えられます。以下に、主要な背景を挙げて説明します。
戦後、日本はアメリカの占領下に置かれ、民主主義と市場経済が促進される一方、共産主義への警戒が強められました。1940年代末からの「レッドパージ」では、共産主義の思想を持つとされる労働組合活動家や知識人が公職から追放され、共産主義が社会に根付くことが制限されました。また、アメリカは冷戦の一環として、東アジアにおける共産主義拡大の阻止を重要視し、日本の安全保障や政策にも影響を与えました。この冷戦時代の米国の影響は、日本国内で共産主義や社会主義に対する不安やアレルギー的反応を助長したといえます。
1950年代以降、統一教会(現在の世界平和統一家庭連合)と日本の保守勢力の支援により、「国際勝共連合」が設立され、共産主義に対する強い反対運動が展開されました。この運動は、反共産主義を掲げて政治活動や教育、家庭内の教化を行い、日本社会に共産主義への強い警戒心を植え付ける一因となりました。特に勝共連合は保守政治家や宗教団体と結びつき、社会的に大きな影響力を持ち、共産主義への否定的なイメージを形成しました。
1960年代から1970年代にかけて、日本国内では反政府や反戦を掲げた学生運動が活発化し、一部が共産主義や社会主義に基づく社会改革を訴えました。しかし、その中で一部の運動が過激化し、暴力事件やテロ行為に発展したため、社会全体で学生運動への拒否感が強まりました。特に「連合赤軍」や「日本赤軍」などが関与した事件は、共産主義と過激な暴力の結びつきを印象づけ、多くの日本人にとって共産主義は危険で過激な思想とされる要因となりました。
戦後のほとんどの期間を自民党が与党として支配し、保守的な政策が推進されてきました。自民党と保守的なメディアは共産主義や社会主義に対する批判的な論調を続け、国民の間に「共産主義=非現実的で危険」という認識を根付かせました。さらに、選挙時には「共産党支持は過激派の支持」などといったネガティブなキャンペーンが行われ、共産主義への警戒感が意図的に煽られた面もあります。
高度経済成長期において日本社会が急速に豊かになり、個人主義が浸透する中で、共産主義や社会主義が掲げる「平等」の理念が薄れた面もあります。日本人は生活の安定を重視し、「平等」よりも「自己実現」や「個人の自由」を求める傾向が強くなりました。その結果、共産主義や社会主義が目指す「平等」や「共同体意識」が社会的に受け入れられにくくなりました。
これらの要因が複合的に作用し、日本社会には共産主義・社会主義に対する強い警戒心や否定的なイメージが定着しました。改善策としては、共産主義や社会主義の理念が持つ利点を客観的に見つめる教育や、政治的思想に対する偏見を取り除くための対話が必要です。また、現代の多様な価値観を反映する中立的なメディア報道も重要でしょう。
えー、まずですね、森進一さんというのは、まさに、まさにですね、昭和から平成、そして令和にかけて、日本の演歌界を代表する歌手でありまして、その歌声は、ええ、国民の心に響く、唯一無二の存在であります。
そういう、すいませんちょっと野次はやめていただけますか? たいせつなところなんですから。
“おふくろさん”など数々の名曲が、まさにですね、日本人の心に深く刻まれているわけでありまして、彼の歌は日本文化の一部として根付いているのであります。
えー、ですから、森進一とは何かと問われれば、まさに、日本の音楽の歴史を背負い、国民の心に生き続ける象徴である、そう申し上げる他ないわけであります!
何度もいうが、地域に根付いている社会人のスポーツサークルに入るのがいい。
深夜のダラダラした文章に、思った以上の反響があり、恐縮です。キャンセルカルチャー運動に辟易していましたので、考察と言いつつ、n=1の、偏見まみれのくさすような内容になっており、申し訳ございません。
コメントを通して、西洋史観や海外勢の動きなど己の勉強不足を感じ、大変参考になりました。ほか、新たに以下の視点を得ました。
(現行法上合法とされている無断学習(?)をダメとし、無断の二次創作をヨシとする矛盾性など)
彼らの職業は、対脚本家と演者という関係からみて、クリエイターではなくプレイヤーよりかなという偏見があったため、言及していません。
そもそも、声は、創作というより身体的特徴なので、人権の一つとして適切に保護されることには、なんら議論の余地はないのでは。
自他ともに達人と認める域に達した方が、「ワシは猟師じゃ」と自称するのは、偉そうだけど実際に偉いし、じゅうぶん身の丈にあっているのでいいんじゃないでしょうか。
最近、日本の「絵師」と呼ばれる者達の界隈で、生成AIに対する反発が拡がっている。
それは年々過激さを増し、最早、「お気持ち」や「感情的な反発」ただそれのみで、法的にも倫理的にも問題のないコンテンツを焼き払うまでにいたった。
もちろん、全ての絵師がそうだとは思わないし、思いたくはない。
このような状況下では肯定的意見など出せようもないだろう。魔女狩りの憂き目にあってしまう。
さて、リーガルマインド(法的思考能力)は、法学部で法律科目をみっちり学んでやっと習得できるようなものなので、これを持たない相手に議論をふっかけても、いつの間にか例えになっていない例え話にすり替わるのがオチだ。
だから、反AIを説得したり、論破したりするつもりは、私にはない。
生成AIに過剰に反発をしているのは、「絵師」やそれをとりまく「アニメコンテンツ」(以下、「絵師界隈」という。)に限られている。
他の分野でも生成AIの進化・深化はめざましいが、変な炎上なども起こらず、粛々と最新ツールとして活用されている。
実際、私がメインで活動している音楽分野(以下、「音楽界隈」という。)でも、生成AIは、比較的自然に受け入れられている。
音楽界隈にいると、少数の作曲家(以下、「クリエイター」という。)、多数の演奏家(以下、「プレイヤー」という。)、無数の聴衆(以下、「リスナー」という。)が互いにインスパイアし合う「「創作の循環」、古から続く巨大なうねりを、あらゆる局面で感じる。
生成AIの学習云々の問題は、この循環の一要素として、肯定的に受け入れられている。
しかし、絵師界隈には、循環の要となるプレイヤーがほぼ存在しないため、「「創作の循環」を知覚しづらい。
西洋芸術は、音楽や絵画の分野を問わず、才能は神から与えられたもので、作品は神に捧げるもの、という共通認識のもと、発展してきた。
信仰が薄れてきた現代においても、なお、フェアユースの思想として残っている。
対して、日本には、そのような一神教の概念はないものの、少なくとも音楽界隈にあっては、神に奉納する神楽なる存在がある。
更に、音楽理論そのものが、西洋をルーツとするので、「与えられた「捧げる」意識を醸成する機会が多い。
一方で、日本の絵師界隈は、ガラパゴス状態で進化しているため、「自分がゼロから努力して勝ち取ったもの」「作品は自己表現」という認知になりやすいのではないか。
今、音楽を本業として、いわゆる音楽でメシをくっているクリエイターは、厳しく長い音楽不況を乗り越えた存在であるので、生成AIごときには脅かされない実力がある。
そうでないクリエイターは、純粋に趣味として作品を作って発表して楽しんでいるので、生成AIも、面白いツールが出たな、としか捉えない。
一方、イラストを本業として、それでメシをくっている絵師界隈は、クリエイターの淘汰が進んでおらず、生成AIごときに簡単に脅かされてしまう。
リアルに生活がかかっているのなら、反発も過激になってしまうだろう。
参入障壁の低さと、00年代からの需要の急速な拡大が、本来実力に見合わない人間をプロとさせてしまったのかもしれない。
さながら、チューリップ・バブルだ。
以下、それぞれ、補足。
音楽界隈では、古くからクリエイター、プレイヤー、リスナーが繋がり、互いに影響を与え合う「巨大な循環」が存在している。
例えば、クラシックのプレイヤーが過去の偉大なクリエイターの作品を演奏し続けたり、ジャズやヒップホップにおいて、サンプリングやリミックスを通じて新しい音楽を生み出すのは、既存の作品や表現を再利用する文化が根付いているからである。
「表現の蓄積に敬意を払いながら、新しい創造を探求する」というプロセスを自然に受け入れられる土壌が存在している。
これは、DTMの世界も同じで、音源やサンプルが膨大に共有され、再利用されている現状からすると、AIによる生成もただ新しい音源や手法を追加しただけという感覚が強い。
技術的な進化が日常的に行われており、特定の著名なプレイヤーの演奏をサンプリングして音源化することも一般的である。
これにより、生成AIも単なる新しいツールとして、既存の「循環」の中に自然に組み込まれている。
また、音楽界隈において、多くの場合、クリエイターはプレイヤーを兼ねており、リスナーもまた、プレイヤーを兼ねている。
音楽愛好家ならば、誰だって、一度は何かしらの楽器を触って、誰かの作った曲を演奏しようとした経験があるのではないか?
クリエイター、プレイヤー、リスナーは、多くのケースで同じ立場で、創作の循環に積極的に関与している。
AIがその中に入ることは、「革命」ではなく、単なる「進化」だ。
私自身、音楽を通じてこの循環を何度も経験してきたため、AIを恐れることなく、むしろ新しい創作の可能性として受け入れている。
音楽分野では、クリエイター、プレイヤー、リスナーが互いに影響を与え合い、生成AIもその延長線上にあるのだ。
一方で、音楽界隈における「プレイヤー」に相当する役割が、絵師界隈には存在しないか、または極めて少ない。
クリエイターとリスナーの立場を結びつけ、要として機能する「プレイヤー」という存在が希薄であるために、絵師界隈では「創作の循環」を感じる機会が乏しい。
その結果、生成AIは「自分の領域を侵害する存在」として映ることが多い。
絵師界隈において、絵師は、自分の作品について、「自分がゼロから作り上げたものであり、完全な自己表現の成果」として捉える傾向が強く、他人の作品に手を加えたり、既存の表現を再利用することに対しては、現行法上問題がなくとも、極めて強い抵抗を感じやすい。
絵画や音楽を問わず、西洋における芸術の歴史を振り返ると、才能は「神から与えられたもの」として見られており、芸術家はその才能を用いて作品を神に捧げるものだった。
パトロンは、神のために芸術家を支援して、芸術家は神のために技術の研鑽を重ねた。
結果として、優れた作品がたくさん残り、ありがたくも現代にまで継承されてきた。
芸術史への脱線は避けたいので、軽く触れるにとどめるが、少なくとも、西洋の芸術、特に歴史的な音楽や絵画の中では、才能は「神からの贈り物」として見られてきたため、それを使って作品を作ることは神聖な使命の一部であった。
元来、芸術作品やそれを生み出す才能は、個人の所有物ではなく、社会や神に捧げるものとされてきた。
この背景が、西洋でフェアユースの概念が広く受け入れられている一因のように思う。
才能や作品は神のものとして共有されるものというコンテクストのもと、生成AIによる「学習」や「再利用」も一部では容認されやすいのだろう。
任天堂とパルワールドの訴訟問題における、日本と欧米の反応の顕著な違いに、この当たりの感覚の違いが明確に出ているように感じる。
この点、日本の絵師界隈にとって、才能は「自分の努力によって勝ち取ったもの」であり、作品は完全に自分の所有物という感覚が強いのでは。
その態度を傲慢とみるか、当然の権利とみるかはさておき、だからこそ、生成AIが個人の努力や創造性を「奪うもの」として見られやすく、反発が生まれやすいと考えられる。
このまま日本の絵師界隈の生成AIに対する過剰な反発、炎上騒動が続くと、日本では、生成AIはアンタッチャブルとなり、なんらの議論も進歩も遂げなくなるだろう。
最終的に、生成AI技術は、外国の「GAFA」などの巨大企業によって独占され、資本主義の論理に飲み込まれる可能性が高いと感じる。
外国の大企業が規約や契約に巧妙に生成AI技術云々を盛り込み、最終的には技術やデータを独占し、クリエイターがそれに従わざるを得なくなる未来。
絵師界隈の過激な活動により、日本企業にとって生成AI技術そのものはアンタッチャブルとなったので、日本企業は呆然と、日本人の優れた才能が外国資本に奪われていくのを眺めるしかできない。
もちろん、これは資本主義の一環であり、技術の進化の中で繰り返されてきた「ひとつの循環」として受け入れるしかないのかもしれない。
私自身はそのような未来を諦観し、これもまた創作における流れの一部だと考えている。
技術は常に進化し、その中でクリエイティブな表現の方法もまた変わっていくものだ。
しかし、絵師界隈は、そういう未来をどう考えているのだろうか?
AIは決してクリエイターの創造性を奪うものではなく、創作の循環、巨大なうねりの一部として受け入れられるべき可能性を秘めている。
これからのクリエイティブな世界で、AIと共に新しい表現の形を探求していきたいので、絵師界隈には邪魔しないでいただきたい。
「生成AIを使っているヤツを、絵師を呼ぶな」問題にも触れておきたい。
望む絵を出力することは、絵師界隈の人が想像しているような、そう簡単な技術ではない。
命令文の模索や、好みのモデルの階層マージ云々、どれをとっても、相当な知識が必要だ。
現に、クラウドワークスでは既に、「生成AIでイラストを出力してほしい」旨の依頼がわんさかある。
「Novel AI」や「Dall-E 3」、「Grok-2」など、企業が最適化して、提供している出力サービスを使っている者は、今のところ「消費者」かな。
企業が最適化したサービスを使ってキャッキャしているだけの人は、ごく普通の・・・・・・一般の消費者、それ以上でも以下でもないのでは。
消費者がイラスト生成AIの恩恵にあずかれるようになっただけ。
「絵師」という言葉は、2000年代の2チャンネルの「同人板」で、敬称として、使われ始めたと記憶している。
「表紙を絵師に書いてもらって~」とか、「好みの絵師が~」とか。
敬称なので、自分で自分のことを「絵師」と名乗る者は、当時はいなかった。
ニコニコ動画が出てきて、ネットが低年齢化して、「動画師」や「MIX師」という、変な亜種が登場したあたりからだろうか。
まず自分の属性を書いておくと、交通工学を大学でかじっていてLRT推進派。普段の通勤は電車より早いため、車通勤。フルリモートも経験済み。自転車はMAX190km/1日走ったり、自転車通勤なども嗜む程度。地方田舎・地方都市・東京・都市郊外のエリアに居住経験あり。なので、だいたいの通勤属性は経験したことがある。ということで経験豊富な立場としておいてほしい。
現在は京都住まい。京都は東京に比べても、電動キックボードサービス(以下Luupとする)は向いている。
2,東京に比べて、人が少ない。
京都は公共交通がバスしかない区間や、バス・地下鉄・私鉄乗り継ぎが発生するルートがかなり多い。1回乗り換えるだけで、400円突破する。赤坂から新宿まで行っても180円の東京とは間隔が違うのだ。
それに比べれば、目的地まで直接行けるLuupは選択肢としてかなり良い。時間短縮にもなるので、仕事帰りに旧友と集まるための飲み会に行くタイミングなど、さっと行きたいときによく利用している。
3については、少し説明が必要かもしれない。京都の碁盤の目を想像してもらったときに、碁盤の格子の真ん中には、一方通行の細い道ゾーンが存在している。ここは車は一方通行しかないため、主には歩行者と自転車が多いゾーンになっている。車も30kmぐらいしか出さず、一方通行の分だけ自転車を避ける幅もあるため、比較的安全に運転しやすい場所なのだ。ここに時速20kmで、加減速しやすいLuupが合ってる。減速せずに突っ込む自転車に比べれて、加速調整しながらでもあまり力を使わないので楽に使える。
バランスは確かに悪いし、見た目以上に筋力もいる。ちゃんと練習してから乗ったほうが良いのは間違いない。
うまく車の通らない道路を見つけて、なれるまでいろいろ練習した方がよいと思うし、自信のない人は乗らないほうが良いと思う。
段差あぶないじゃん!って声に対しては、段差超えることがない。としか言えない。
そもそも、歩道を走ることがない(というか禁止)ので、歩道以外に道路には段差が普通はない。
あと砂利道も走れない。なので、押して通れ、キックボード載るな。以上である。
自転車道が整備されていない、車線の少ない道路で、追い抜かす場合は若干手間ではあるが、車道を走るロードバイクと同じ程度なので、そこまで違和感はない。
流石に外国人観光客が、歩道を走っていたり、2列横隊で走ってたりすると、ぐぬぬ!となるが、まぁサービス当初だししゃあないか。という気持ち。ちゃんと注意すれば良いとは思う。
サービスとしてヘルメット共用が難しいのはわかるが、ノーヘルを勧めることになるので、任意でも良いので、保管場所にヘルメット設置してほしい。
個人的に使うときにも、ヘルメット持参しようか。と思うぐらいには、気になる。※自分はロードバイクもノーヘルで乗っていたので、むしろそっちのほうが危ない。時速的に。
最近LED製の自転車用ライトが普及しつつあるが、それよりもライトが弱いので、確実に気付くレベルのハイビームにするべき。
夜間の認知性能がかなり上がるので有用。特に音がない乗り物な分だけね。
自転車よりも、後ろを振り向きづらい。これは、バランスの悪さに由来する点。右ハンドルのみに設置必須で、かなり解消するはず。
これにつきる。
じぶんは2段階右折が必要な場面だと、横断歩道を歩いて渡るようにしている。交通ルール通りだし、安全。自転車でも押して通れと思うレベルだし。
木屋町や寺町、観光地などの、人混みはそもそも通らないように調整している。
色々批判を見るが、おしなべて交通マナーが定着していないことと、都市計画的な整備が追いついていないことが問題だと感じる。
電動キックボードが悪いのではなく、電動キックボードの普及に社会が追いついていないだけ。だとは思う。
交通は何よりも、歩行者最優先で考えるべきだし、もっと公共交通を整備し、そこを補間するための手段の一つとして、ちゃんと整えるべき。
今のままだと事業者が得してるじゃん!ってだけになってしまうので、国側は道交法の禁止を武器に、電動キックボード各社に対応を迫ることができる権力を持っているので、
事業が堅調にのびたタイミングなどで引き締めを強くすることで、交通マナーの啓蒙に繋げれる可能性もある。
いっぽうで、利用する側がこのままだと使えなくなるという危機感のもと、ちゃんとマナーを守る。というのをちゃんとやってく必要がある。暴走族が嫌われる使い方をしている一方、バイクで地方を盛り上げようとする人たちもいて、そういった人が交通手段のイメージアップをしてくれることが交通機関の市民権を得る上でも大事だと思うので。
こういったレンタル自転車は、うまく行けば公共交通の新しい形態として根付くんんじゃないかなと期待している。
LRT信者的にも、駅から個別の場所への交通手段というのは長年の課題だったので、その解決策の一つが生まれるのは嬉しいことでもあるので。
トラックバックのコレは、知らんかった。知ったかですまない。最近は、ほとんど街中に行かない郊外区民なので。
> どこのこと言ってるのか知らんが河原町周辺だと歩道走って通行人引っ掛けてるのよく見るよ
コレはアウトだと、自分も思う。
早めに乗り入れ交通禁止区域を地方条例で作ってしまい、事業者に強要して、GPS上の表示を必須にするように働きかけるとかできると良いのかも。せめて要請レベルでも出せると良いのか。
こういうのを寺町商店街の組合とか、地域団体から要請書を出せると進みが早かったりするんだけどね。
「ココは走行禁止区域です!」って爆音でスマホから音が流れてたら、あいつが悪い!って話になるんだけどね。このままだと事業者やキックボードが悪者にされてしまう。
悪いのは危ない乗り方してるやつ。
https://lp.luup.sc/letter/posts/how-to-rule-ippoutsuukou-230620
但し**「左側通行」**は守るべきだね。