はてなキーワード: 十字架とは
自分たちの宗教を守るために異論を唱える人を片っ端から異端審問と称して弾圧する。
マリアは魔女だけど、異端審問では神に祈って殺されても文句を言わないのがキリスト教の教えで
これに反対して様々な人種を助けたら処刑されるというような物語で、マリア一人が人を助ける十字架を背負い続けてるのに
彼女を異端として処刑しようとしている連中が、言う事聞かないならと女性の尊厳を踏み躙ってでも戒律を守らせようとする。
これがキリスト教の真の姿である、とこのアニメは主張している。
俺も同感だ。
島原天草一揆では数多くの罪のない信者を引連れて殺戮の場で罪もないのに殺されたり処刑されてしまっている。
また、アフリカの原住民および先住民を追っ払って国立公園化したり、ツチ族とフン族の抗争を煽って彼らのダイヤモンドを略奪している。
「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」
お前らこの一節リアル活字で見たことあんのかよ、文脈わかってんのかよ、ファリサイ人の悪巧みしってんのかよ
とか思うよね
俺も結局よくわかんないけど
やっぱ石は投げちゃダメだわ
ゴルゴダの丘までの長い道のり、知らない者がいっぱい十字架を運ぶ様子を見物して、恥ずかしい気分もふきとんでしまうよ。
だけど、重い十字架を傾けてバランスを崩したら笑われてしまうんだ。
裏切り者のユダをしている家では、「銀貨30枚いただいて本当にありがとうございます。」という気持ちを、
言葉だけでなく目つきにもあらわし、ユダヤ当局の心に語りかけたんだ。
当時の人々は、ワインを盗まれたことに気づかず生活していたんだ。
だれに対しても、平等に投石するのが、イエスキリストしぐさの基本だよ。
イエスと弟子にとっては、復活の約束は約束の中でも最高の約束だったんだ。
でも、失敗して死んじゃうかもしれなかったんだ。
両手足縛って十字架にしばりつければ完成!
最近の韓国批判は酷いもので、ネットも書籍もとりあえず韓国を批判しときゃいいだろみたな風潮である。
そんな中ふと、このネトウヨの嫌韓はいわば宗教みないなもののように思ったので書き出してみる。
「私、K-POPが好きです。」という書き込みをネットで見かけた。しかしその後のネットの反応たるや誹謗中傷の嵐である。
「頭おかしいんですか?」
「奴らはクソだ。奴らを肯定するお前もクソだ。」
しかし日本では個々人の趣味趣向は自由のハズ。なんで好みを言っただけで、国民であることや彼女(多分女性)自身が否定されなきゃならないんだろうか。
そしてふと何かに似ているような気がした。
そうだ「イスラム国」だ。
ご存じの通りイスラム教はアッラーを唯一神とし、教えはコーランに準ずる。そしてイスラム国は自分たちの思想以外は認めない。思想が違えば「悪魔(異教徒)の手先」として殺される。十字架を持っている?悪だ。殺すべし。
ネトウヨにとっての思想・教義は「韓国は敵だ」ということだろう。それに従わない場合は容赦なく攻撃する。それが趣味や好みの範疇だろうが関係ない。教義に反したのだ。それはつまり悪であるということだ。悪なら攻撃して問題ない。キムチが好きだ?悪だ。死んだ方が良い。
宗教全般にそうだが、人生や生活への不安を神と共にあると信じることで和らげ、心の拠り所にする。
ネトウヨは韓国を批判することで、心の平穏を保つ。例え自分が将来に何の可能性を感じない底辺な存在だろうが、自分は日本国人、彼らはそれより下。そう信じることで自尊心やアイデンティティを維持する。
イスラム教では日々神に祈りを捧げることにより、神を身近に感じ、心の平安を得ている。
ネトウヨは日々韓国の悪口を書くことで、ストレスを発散し、仲間の同意を得て教義を再確認し、心の平安を得ている。
イスラム国の戦闘員たちに、いくら「神様なんていないんだ」と説明しても通じない。科学や論理など意味をなさない。彼らにとってコーランが世界の法則であり、その歪曲解釈が正義なのである。
ネトウヨにとって「韓国が敵」であることが世界の法則で、韓国の批判こそが彼らの正義。彼らは根拠のない根拠や出所不明なデータ、使い方を誤った統計データ、そして完全な主観を繰り広げ韓国を批判するが、しかしそんな内容など実はどうでもいいのだ。教義に準じていればそれで良い。客観性やソースへの批判?それは教義に反する悪だから無視して良いのだ。
イスラム教には「異教徒を殺しても良い」という教えは含まれていない。しかし過激派は教育を受けていないので本が読めず、勝手な解釈をして乱暴な手段を講ずる。
韓国政府のやり方は褒められない点も多いが、イコール韓国全体・韓国人全体の批判には結びつかないハズだ。しかしネトウヨは無知なので、嫌韓の教えを無抵抗に信じ歪曲解釈をして乱暴な手段を講じる。
そのうちどこかでテロが起きるんじゃないだろうか。
ベイマックスの胸のカードスロットから「HAMADA」と書いたメモリーカードっぽいものが出てきたとき、増田を読んでいる人なら気付くと思う
気付くでは無いな、ほぼ条件反射で「バックアップを取らなきゃ」と、ど・ストレートに
他の人が書いているように、日本では「ベイマックス」、アメリカでは「BIG HERO 6」で、その違いに付いて
「BIG HERO 6」では女性に受けないから、というのは当たっていると思う
じゃあ、何が好きかと言うと「丸くて、柔らかいもの」 抱きしめると、ムギュっとするもの
そこらを日本の興行会社が考えて「ベイマックス」にしたのだろう
子供と女性層を取り込まないと、この冬休みは妖怪、アイカツ、仮面ライダーに勝てないもの、根こそぎ客を持って行かれる
大切な人が不可解な死に方をして、その謎を探るうちに、大きな陰謀を知り、それを止めるために立ち上がる、とはありきたりのストーリーだ
主人公とベイマックスが街中のテレポーテーション装置に突っ込んで、教授の娘を助けに行くのだけれど、これもお約束、ギリで全員助かるのだろうと思っていた
しかし、ベイマックスはケアロボット、自分を置いて主人公を助ける。なんかインターステラ―という映画で同じようなシーンがあったな
ケアロボットだけに、何が何でも主人公をケアする、つまり命(ロボットに命がどうのということはこの際、)に代えて守るわけ
自己犠牲というやつですね
お子様に自己犠牲を見せていいのだろうか? 「最後まであきらめずにがんばる」と教えるのが大人の良心、義務だと思う
自己犠牲は人として人らしい行為で美しいのだけれど、残される当事者としては一生背負わなければならない十字架だ
子供に自爆テロをさせるのと同じこと、とは考えが飛躍しすぎだろうか
映画では、残されたベイマックスの手のひらから、先のメモリーカードが出て来て、主人公は十字架を背負わなくて済んだのだけれど
アメリカの正義の味方の映画は「チーム」と「信じる」がベースとなっていると思う
チームとしなけばならないのは、マジョリティとマイノリティの混成チームにしないと、広く観てもらえないどころか、反発をくらう
だから、白人、黒人、東洋人、その他、といった編成になってしまう
そこで必要なのは信じること。友情とかでもいいと思う。人種混成チームは信頼がなければ成り立たない
(追記:H26/12/05)
元ネタになった方々に騒がれているようなので、格好悪い形になりますがいくつかの点について付記を加えておきます。
まず当エントリはあなた方の何かを批難し、留まらせようとして書かれたものではないことを強く主張しておきます。
後半の(ブックマークコメントを借りれば「国語力の低い」)文章には、
あるジャンルに対する愛の形に優越も何もあったものではないのだ、という思いを、あなた方の遊びに対する私が抱いた「気持ち悪さ」それ自体を茶化す寓話に変え、
更に本エントリ自体をリチャード・マシスン著「アイ・アム・レジェンド」との”クロスオーバー小説”へと転換することで込めたつもりでした。
それが全く伝わらず、怒りの対象となり、ましてやトラックバック先の不可思議な関連エントリ(”マシンスパイ・ゼロクロー”)による批難を「ユーモア」と称することで
その溜飲を下げていらっしゃるのであれば、それらにはご指摘の通り私の文章力の低さに責任があります。すみません。三号買えなかったんです。
書き手・語り手としてサークル側の立場を騙ったのは、これを書くうえでやはり一種の寓話として成立させるためです。
また書き手の特定等行っているようですが、文中にあります通り私は真実ツイッターアカウントを所持しておらず、
元ネタとなった当該サークル様とはなんら面識等関わりのない一読者です。
それら無用な争いの火種となり、徒に皆様の感情を刺激してしまったことについて大変申し訳ないと思っております。
誠に申し訳ございませんでした。
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特定はほぼ確実にされるだろうが(見る人が見れば一発でわかる)、まあ出来る限り伏せていく。
今年の夏まで、ある映画の二次創作を行うサークルを主導していた。
元ネタの作品は軍事・諜報、及び公務員としての警察組織の軋轢、更にテロの絡んだ国際問題・技術革新問題にまで踏み込み、
旧来のマフィア映画や諜報ものと比べその圧倒的なリアリティが評価されていた。
監督・脚本・演出とその全てが見事に釣り合い、作品単体としてきちんとエンターテイメントしているのみでなく、
題材となった問題についての正しい知識・見識を広めることで、その理解を深めるものとして機能しており、そこから製作陣の志が読み取れた。
舞台である近未来の厳密な時代考証。一見突飛に思えたキャラクター設定を納得させる脚本・演出の力。
物語の筋そのものが秘めている魅力。どれをとっても一級品で、インターネット上の口コミのみならず、業界人からの評価も非常に高い作品である。
年に数度行われている同人誌即売会で、コミケや文学フリマのようなものだと捉えてくれればいい。
コミケがその題材について自由であり、文学フリマも同様であることと異なり、本イベントは映画関係の二次創作・評論誌であることが参加の条件だ。
先ほど「業界人からの評価も高い」と書いたが、昨年春頃の段階ではまだその評判が広まってはおらず、作品の話をすることができる相手は限られていた。
そこで某壁サー(ようは人気サークル)にコネがあった私は、何人かの知人友人と共に50Pほどの合同誌を作成し、そこに置いてもらうことにした。
私は如何に本作が優れた軍事考証を行い、また現実に向き合った誠実な作品作りを心がけているか、
拙い語学知識を駆使して英文記事を読み、著者の意図を最大限汲み取ろうと努力し、その紹介につとめた。
他の書き手の皆もイラストや漫画、創作小説など凝ったアイデアを出してくれ、読み上がったテスト稿に目を通した時は「非常にいい出来になった」と素直に喜べた。
また委託サークルの方にも口絵を書いてもらい、70部ほど刷った結果売上は40弱。初参加にしては、これはほぼ盛況といっていいだろう。
「艦これ」や「東方」、「アイマス」などのメジャー作品の同人作品に接しているとわかりづらいかもしれないが、マイナージャンルの同人世界はとても狭い。
しばらくして作品自体の人気が向上するとともに、本作唯一の同人サークルであった私のものに便りが寄せられるようになった。
大方の内容は「合同誌の在庫はないか」といったもので、余っていた30部ほどは瞬く間に売り切れた。
また「次回があるなら是非参加させてほしい」という声も聞かれた。原作はちょうど二作目の発表直後であり、イベントの締日も近づいてきていた。
正直なところ、もういいかな、と思った。
私はこの作品を多くの人に紹介したかったのであり、それは既に成されていた。
が、他のイベントに出ていた委託サークルの方にも同様の問い合わせが相次いだため、結局彼女に迷惑をかけない意味でも「出よう」と思った。
再び合同誌の執筆者を募り、原稿が集まった。前回の寄稿者が私を含め5人であったのに対し、今回は11人。
前回の依頼者は本業が忙しく不参加となり、全員が新人で、更に大幅なボリュームアップとなる。正直嬉しかった。
執筆者募集の際、「どのようなジャンルでも構わないが、極端に下世話なものはやめてほしい」
「前回の合同誌を見て、その意図に沿うように」とのみ告知した。あまり上から目線で人を縛りたくはなかったし、私も過去にそれで何度か嫌な思いをしていたから。
私は原稿に目を通し始めた。そして目を疑った。
評論は0。
そして集まった創作小説は、クロスオーバーものが大半であったのだ。
クロスオーバーとは、例えば「アベンジャーズ」「リーグオブレジェンド」、「シュガー・ラッシュ」のように複数作品のキャラクターが同じ作品に登場し、
物語の主役となるもの。また、「シャーロック・ホームズ vs モンスター」をはじめとした「このキャラクターをこのジャンルに放り込む」という、無茶苦茶な設定を持ち込む
ジャンルである。ホームズが恐竜と戦ったり、映画ではないが、ゾンビが魔法少女の形をとって襲い掛かってきたりする作品のことだ。
集まった原稿も、それと似たようなものだと思ってくれればいい。だが内容がひどい。
諜報部がロリ少女に変身してマフィアと戦い、突入部隊が恐竜を召喚してホワイトハウスを守る。
悲惨な死を遂げたヴィラン・キャラクターたちがブードゥーの魔術によって毒々モンスターとして蘇り、警察組織がハイパーヨーヨーを操ってそれらを撃退する。
ネコミミの生える奇病にかかった中間管理職が、侍の操る機械兵とカードバトルに勤しむ…。
読み通すのも苦痛な作品がそこに並んでいた。あまりにも酷すぎる。惨いといってよかった。
しかし印刷所への締め切りは迫っており、原稿はまごうこと無く完成していた。私はそれを出す他なかった。
結果は100部印刷が1時間で完売。遅れてきた客にどのような口調で完売を告げたのか、私は覚えていない。
イベント終了後、ツイッターで彼らのアカウントを覗いてみた(私はアカウントを持っていない)。どうやら日夜これらのクロスオーバー・二次創作の話で盛り上がっているようだ。
月の光に導かれ、前世からの愛を告げられる捜査本部長。謎の覆面五人組によって救われるロシアン・マフィア。麻薬漬けにされパンツレスリングに興じる闇市場のギャングたち…。
彼らはこの作品を、彼らなりに心から愛しているのだろうと想う。だが私にはその愛が受け入れられない。原作で遊ぶことしか考えていない、怪物どもには。
その愛が正しいとはどうしても思えなかった。許せなかった。
だから殺すことに決めた。
「次回用のフリーペーパー見本が早めに刷り上がったので、先にサンプルを送ります」とメールを打てば、氏名付きで住所が送られてくる。簡単な仕組みだ。
大半の女が都内近郊、単身者向けの安アパートに暮らしていた。電車で30分もかからないだろう距離に全員が住んでいたのは好都合だった。
一人一人、作品の「ありえなさ」順に殺していった。包丁で抉るのが、鋸で刺すのが、最も下手なときに、最も嫌いなやつを殺してやりたかった。
彼女らは私の顔を見て戸惑った。まさか自宅に来るとは思っていなかっただろう。
「何度出しても住所不備で戻って来ちゃうんですよ」と微笑めば、皆が皆後ろを向いて茶の用意をしてくれた。そこで首を絞めた。
ベッドに縛り付け、何度も謝らせた。口に刷り上がったばかりの合同誌から担当ページをちぎり取り、口に詰め込んだ。
守らなければならなかった。この映画を、作品を、この怪物たちから。
ひとりは太った女だった。腹を割いてもなかなか死なず、頭を割らなければならなかった。
ひとりは痩せた女だった。首を絞めただけで死んでしまったから、便器に顔を突っ込んでおいた。
ひとりは若い男だった。私を見て赤らめた頬がみるみる血に染まっていった。
そして最後の一人の家を訪れ、インターホンを押したとき、不意に頭部に衝撃が走った。
目が覚めると、法廷のような場所にいた。すり鉢状に抉られた岩場、私を見下ろすように無数の女たちが並んでいた。
皆手に石を持ち、こちらに投げつけてくる。大半は当たらないが、うち一発が右眼窩を砕いた。一滴の血が頬を伝い、漆黒の闇へと堕ちていった。
顔を覆おうとしたところで、手足の自由が効かないことがわかった。広げられた腕は手首のあたりで縛り付けられ、足首の腱は切られているようだった。
自分が十字架に縛り付けられていたことに気がついたのは、松明に火がともされてからだ。何が始まるのかは明白だった。
私は殺されるのだ。この怪物どもに。
私の愛するものを壊し、踏みにじり、これからも汚し続けるやつらに。これで本望か。私を殺し、晒して、あざけ、笑いものにして。
叫ぼうと思ったが、口からは呻くような音しか出てこない。歯は抜かれ、喉も潰されているようだった。
私は唯一動かせる乾いた眼で、焼けつくように痛む瞳で彼らを睨みつけた。口角をあげ、指を指し、ごらん、こいつがいまから死ぬんだよ、と子供に教える母親を。
肩を組んだ恋人たちを。
叫びながら絶え間なく石を投げる女を。
そこに見えた表情は私の考えとは違っていた。眉をひそめ、眼を細めて、唇は固く引き締められている。
瞳に涙を浮かべているものも少なくない。彼らは怯えているのだった。
子供は母の影に隠れ、母はそっと子の頭に手を置いていた。
恋人たちは寄り添い、震えるように松明を支えあっていた。
女の叫びは慟哭だった。石を持たないほうの手に抱えているのは、遺影だろうか。そこに写っている白黒の写真は、いつか殺した男の顔に似ているような気がした。
ああ、と気が付いた。
そうか、奴らにとっては、俺こそが怪物だったのだ。
別に、はてな民に相談したいと言うわけじゃないが、自分の頭を整理する為にメモ。
何回かデートして、キスも済ませて、ようやく僕のアパートでいい雰囲気でベッドインと言うところまでこぎ着けたところで、ズッコケた。
彼女とベッドの上で服を着たままイチャイチャスキンシップをしていると、彼女が急に真っ青な顔になってトイレに駆け込んだんだ。
吐いたと言えば、吐いたような感じだったが、胃液しか出てなかった。
なんとか、背中をさすったり、白湯をあげたりして、落ち着かせた。
どうも、彼女が言うには、僕とイチャイチャしている時に、昔のイヤな思い出がよみがえったらしいんだ。
といっても、僕は大したことをしてない。
彼女が『自分の性感帯はニブいかも』的なことを言ったので、それを否定して、
「きみって、じゅうぶん鋭いと思う……」
と言っただけなんだ。(それを言った瞬間は、彼女の身体を触っていなかった)
その言葉が、昔のイヤな思い出を思い起こすセリフだったらしい。
とはいえ、男関係の思い出ではなく、同性の友達に関わる話だと言うんだ。
不正確な部分もあるかも知れない。
(イヤな思い出なんだから、話し辛かったんだろう)
彼女が高校生のとき、二人の親友(仮にA子とB子としよう)と一緒に合計3人で、自殺を図ったらしい。
結局、A子と彼女は命が助かった(つまり自殺未遂に終わった)が、B子は自殺して、帰らぬ人となったらしい。
で、このB子の口癖が『わたしって、じゅうぶん鋭いと思う……』だったらしいんだ。
自殺未遂直後、彼女は入院していたため、B子の御葬式にも立ち会えなかったらしく、
それもあってB子の死を受け入れられてないのだろう。
ま、気持ちはわからないでもないが、生き残ったことで永遠に十字架を背負う必要は無いと思う。
それに、彼女が言うには、自殺するときに使った薬(毒薬みたいなもの)は、
B子がメディケアで自作して、他の二人に渡したらしいんだ。そんなヤツに負い目を感じる必要は無いよなあ。フツー。
そのトラウマを忘れさせてあげる為にも、もう一度セックスに持ち込もうと、
『わたしはあなたの手がしていることに耐えられない』
って捨て台詞を吐いて、キレながら僕のアパートから出て行っちゃったんだ。
確かに、一発抜いた今の僕なら、デリカシーに欠けてたことは分かるけど、その時はどうしても堪えられなかったんだ。
う〜〜ん。どうやって謝ればいいんだろう。。。
ぼちぼち来春の就業を控えている学生さん達が、社会人装備を揃える時期に近づいているし、
クリスマスだの年末年始の実家だのでもプレゼントで貰ったりするかもしれないので、
リア充爆発しろ。じゃなかった、装備品でも特に高めの腕時計についてちょっと言っとこう。
高いから良いものではないし、その装備品はオプションだよ、という点についてね。
まず、「これは高かった」という話が下品だっていう感覚は、持っておこう。
次に「高いから良いものだ」という発想は、骨董品でダマされる爺さんと同じだと言うのも基礎になる。
tpro business
腕時計はもはや実用品ではない。宝飾品は値札に価値があるのであって、安くしたらダメ。
qESstTkj
機械式腕時計なんてもんはもはや高いから意味があるもんであって、安くなったからといって需要が増えるとは思えんねえ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/ascii.jp/elem/000/000/939/939920/
この手の「宝飾品は値札に価値がある」という価値観は、セールストークであって「売る側の都合」というのは抑えておこう。
例えば、ダイヤモンド。
3.0カラットのカラーがHで、VS2クラリティとなると、おおよそ200万程度の価値がある。
これが、4.0カラットになると、400万ぐらいだ。
(VS2は、一般人がお目にかかれる最高レベル程度。I3なんかだと4.0ctでも150万くらいだったりする)
つまるところ、金の延べ棒なんかと同じでインフレ・デフレと無関係な、一定の価値を持つ資産としての意味合いだ。
突如政変が起こりました中央銀行の都合でインフレします、みたいなのに影響を受けないための、防衛的な意味合いの資産。
一般人にはあまり関係がないが、客観的な価値は知っておいても良いかもしれない。
有名なところで言えば、シータが身に付けていた飛行石のペンダントだろう。
魔除けであり、王家の証としても意味を持っている。(劇中ではもっと他の価値があるけど)
例えば軍人は略章・略綬として、「勲章を持っている」事を示す小さなリボンをつける習慣がある。
大抵の軍隊では左胸に付けているが、これには金銭的な価値は無いしファッションでもない。
アメリカにおけるパープルハート章の様に、その授与歴は名誉を示すものだ。
まあ、十字架のネックレスやミサンガ等なら、馴染みもあるだろう。
簪や櫛、カフリンクスからネクタイピン、メガネマフラーベルトに手袋と、
そのカテゴリーとして宝飾品がある。
これは権威を示すのでも魔除けでもなく、センスを示したり何かを表現する為に身につける。
腕時計がもはや実用品ではない、というのは一定の説得力がある。
まあ、メッカの方角を示すクォーツ時計なんていうヒットした実用品もあるし、
スポーツウォッチなんかの実用品として使われている分野もあるけど、
腕時計というのは、宝飾品として位置づけられていると言って良い。
では、先の3分類のうち、どれだろうか?
現代の一般的な日本人は、ファッションアイテムか、権威の誇示のどちらかだろう。
(私は魔除けとして水晶の腕時計を身に付けている!と言う人は少数派だろう)
ここに不幸な逆転があって、特に日本の男性社会人にとって、権威を価格に求めることがある。
腕時計には宝飾品としてではなく、芸術作品としての側面もある。
美しい機構があり、それを組み立てる職人が居て、その作品性を買う、というパトロンがいる。
これは、布に塗料を塗りたくった「絵画」に価値を見出す人間がいるのと同じだ。
みんな大好き『なんでも鑑定団』の中島誠之助さんは、値段が低かった壷や皿に対しても、大事にしてねと言う事がある。
粗悪なコピーや露骨な偽物には嫌な顔をするが、数が多い人気がない市場で売れないものに対しては愛を持って接する。
これは、「良いもの」と「市場価値があるもの」とに差があることが解っているからだ。
同じように、本来「良い腕時計」と「高価な腕時計」とは、独立の概念のハズなのだ。
ファッションアイテムとして、スーツに似合うベルトや盤面を選び、他の装身具(カフリンクスやネクタイピン)との調和が大切であって、
品質が良く手入れが頼みやすく、好みの形があるからという理由で「結果的に」高価であることがある、というだけのハズなのだ。
湿度が高く夏暑いから皮ベルトでなくメタルにしようと考えた時点で、それは実用品なのだ。
同じように「社会人なら10万円以上の腕時計は付けないと」みたいなバブルを引きずる親父の意見は無視して良い。
さっき、ファッションアイテムとして選ぶと結果的に高くなるという話をしたが、実はファッションは外見なので、クォーツで良い。
なぜ「機械式」なのかという理由は、それが「嗜好品」だからだ。
チチチと着実に動き、秒針がスムーズに流れ、週に数分ズレたとしても、その歯車の塊を腕につけることが楽しい。
冠婚葬祭と接待の時に、古い知り合いからもらった昔のオメガを付けることがあるが、やはり場にすんなりと馴染む。
油を挿そうが調整しようが日に3分はズレる時計だし、中古でも大した値段じゃないが、自己満足できる。
その意味で、実用的な品質で、つけていて楽しくなるような機械式腕時計が手頃な価格で手に入るのであれば、それは喜ばしいことだ。
増田は激怒した。必ず、かの邪智暴虐の増田を除かなければならぬと決意した。増田には政治がわからぬ。増田は、村の増田である。笛を吹き、増田と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、増田一倍に敏感であった。きょう未明増田は村を出発し、野を越え山越え、十里はなれた此の益田の市にやって来た。増田には父も、母も無い。女房も無い。十六の、内気な増田と二人暮しだ。この増田は、村の或る律気な一増田を、近々、増田として迎える事になっていた。結婚式も間近かなのである。増田は、それゆえ、増田の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばる益田にやって来たのだ。先ず、その品々を買い集め、それから益田の大路をぶらぶら歩いた。増田には竹馬の増田があった。増田である。今は此の益田の市で、増田をしている。その増田を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。歩いているうちに増田は、益田の様子を怪しく思った。ひっそりしている。もう既に日も落ちて、益田の暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりでは無く、益田全体が、やけに寂しい。のんきな増田も、だんだん不安になって来た。路で逢った若い増田をつかまえて、何かあったのか、二年まえに此の益田に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、益田は賑やかであった筈だが、と質問した。若い増田は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて増田に逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。増田は答えなかった。増田は両手で増田のからだをゆすぶって質問を重ねた。増田は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。
「なぜ殺すのだ。」
「悪心を抱いている、というのですが、増田もそんな、悪心を持っては居りませぬ。」
「たくさんの増田を殺したのか。」
「はい、はじめは増田様の妹婿さまを。それから、御自身のお世嗣を。それから、妹さまを。それから、妹さまの御子さまを。それから、皇后さまを。それから、賢臣の増田様を。」
「おどろいた。増田は乱心か。」
「いいえ、乱心ではございませぬ。増田を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、増田の心をも、お疑いになり、少しく派手な暮しをしている増田には、増田ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。きょうは、六増田殺されました。」
娘と名作映画と言われるものを一緒に見たことがなかったので、若干無理やりにだけど、まずは共に「禁じられた遊び」からDVD視聴することにした(ちょっと抵抗されたけど・・・)。
見終わって感じたこと。昔何度か見たのだが、そのときからずっと不思議に思ってきたことが、東日本大震災後に報じられていたあることと符号し、一気に理解できた。
不思議に思ってきたこと。
・なぜポーレット(主人公の女の子)は死んだ父母の元から離れ、その後あまり父母のことを思い出そうとしなかったのか。
・そしてなぜあの動物の埋葬と十字架遊びを繰り返していたのか。
つまり主題である「禁じられた遊び」にどのような意味があったのか。
リンクにあるように、東日本大震災後、子供たちの中で地震ごっこや津波ごっこが執拗に繰り返されたと言う。それは大人の目から見ると、不謹慎な遊びであり、ある意味「禁じられた遊び」である。
これは実は東日本大震災だけでなく、神戸の震災のときにも見られた現象とのこと。
つまり、大人のように理解する枠組みを事前にもたない子供には、事態を身体で理解し受容するまでに、何度か遊びを通じて事象を繰り返す必要があると言う。いわゆるPTSDからの回復過程。
映画「禁じられた遊び」のポーレットもまた、機銃によって目の前で父母を殺されるという事態を受容していく過程として、まずは理解しやすい飼い犬の埋葬からはじめ、動物の埋葬を繰り返す埋葬遊びを通過する必要があったのではないだろうか。そして周囲の大人はそれを理解しなくても、同年代のミッシェル(男の子)はその必要性を感覚として悟り、協力していったのではないだろうか。
そう考えると、最後の最後で「ミッシェル、ミッシェル、ママ!」と冒頭より忘れ去っていた母の存在がようやくポーレットの中で浮かび上がってきた意味がよく分かる。
名作と受け取られる作品はどこか、時代にとらわれない普遍性があるからこそ名作なのかもしれない。
地震ごっこ、津波ごっこなどの子どもの遊びへの対応 その1 http://blog.livedoor.jp/pomr/archives/51870238.html
いつでも苦難受けたくてウズウズしてるまんこ野郎っす
使徒の見てる前なのにガッチリ年下に金貨三十枚でハメられ、俺もしっかりたぎってる
こんな親父の扱いもイスカリお手の物、マタイのガタイがちらちら目に入る、
続けざまに晩餐のメインディッシュにされちまった俺の身体よ
通行人に見られながら丘の上まで達しちまったが、そこで百卒長にバトンタッチ
生でロンギヌスは初めてだから不安だったけど考える間もなくピストン始まって
兄貴の槍さばき、超絶テクで俺も声を漏らす、「ジーザス!ジーザス!」
十字架にしっかり打ち付けられて、リバもできねえけど大満足
血が流れちまったがそんなの問題じゃない
3日後の復活のときにまた会う約束をして俺はゴルゴダを後にした
その時記念に貰った聖書には俺の恥ずかしい受難までしっかり載ってやがる
こいつを読み返すと思い出してまた興奮してくる
俺のバイブルだ』
不安がひどいからかもしれない。ここ最近、というわけでもないけれど、ふとした時に劣等感やコンプレックスに呑まれそうに
なる時がある。空しくて空しくて、そしてなんで自分だけがこうなんだと、そう自分の境遇を呪わざるをえない。
少しでも良い目に遭っている奴をみると、正直な所嫉妬と劣等感しかわいてこない。悔しくてたまらないし、怒りしかわいてこない。
報われるだとか報われないだとか、そんな人生観で生きようだなんて微塵も思っちゃいないけれど、もう少し自分は報われても
別に報われるだなんて見返りを求めてたわけじゃないけど、今までずっとずっと、一番大嫌いな寂しさにも耐えて努力を
惜しまなかったんだから、もう少し自分は良い目に遭ってもいいような気もする。良い目に遭う、とはいっても、そんな自分の
望むものがたくさん手に入らなくたっていい。心の拠り所一つでもう十二分だ。すがる藁の一本でいいからくれよと思う。
だけどその報われなさを十字架にして背負いこんで生きるような事ももうしたくない。背負い込んだほうが楽(心身は苦だが)
なのはわかってるけど、そんな事をしていても決して自分の望むものひとつ満足に得られない気がする。
というか、十字架を背負いこむだとか背負い込まない生き方がどうだとか、本当の所自分の中では一体どういう生き方を
していたいのだろうと、そう自問してみたけど、本当の本当の事を言えばそんな生き方はしたくないのだ。
十字架を背負うだとか背負わないだとかも、そんな事も思いたくもない。
なら本当は自分はどういう生き方をしたいのだろうか?こうやって思考が凝り固まってしまう前や、嫌だった事、辛かった事、
どうしようもなく悔しかった事、自分が好きだった事、好きな事、色々思い返してみる。
多分自分はもっと道楽主義的に生きたいんんだと思う。刹那主義的に生きたいわけではないけれど。道楽。道楽主義。
果たしてそれが本当にしたい自分の生き方なのかはわからない。でも、十字架を背負うような生き方をするよりかは、もっと
身の流れを世に任せて、道楽主義的に生きていきたい。
希望なんてない。絶望しかない。先なんてみえないし、わからないし、良い未来があるなんて到底思えもしない。
でも、それでも、だからこそかもしれないけれど、劣等感やコンプレックスに呑まれるくらいなら、せめて毎日を少しでも
楽しくしていたい。そうだよ。お酒でも飲もう。
『エンダーのゲーム』の新訳を読もうと思う。十数年ぶりの再読だ。映画は観ていない。
この昼、原作未読のまま映画を観た友人と話した。ご多聞に漏れず評価はいまひとつだった。そんな彼に向かい、奥深さが足りないのはきょうだいの活躍がないせいだろうと言ったら、妙な顔をされた。
——あのとき、あれは『エヴァ』じゃなくて『フルメタル・ジャケット』なんだよと付け加えていたら、同映画好きの彼からは理解の意志さえ望めなかったかもしれない。
ゲームというのは運命の比喩だ。ゲームには規則(ルール)があり、そこには目に見えない支配者(ルーラー)がいる。『エンダーのゲーム』とは、エンダー=終わらせるものを名乗る少年が、誰かのルールで動かされた人生の終わりを求めて闘うという意味だ。
では何と? 憎き兄か、いじめっ子か、昆虫のごとき侵略者か、それとも戦争を強要するおとなたちか。——どれでもない。そんな単純な図式はこの世界にない。
ルールだけが意味をもつ世界に、命を与えられた子どもたち。生きるために従い、人であるために抗う。本当の敵が誰なのか、だれも教えてはくれない。どこまでも歪な世界に、しかし私たちは強烈なリアルを見つけ出す。
しかしそれを描き切るには、どうしてもきょうだい二人の活躍が必要だ。
そもそもエンダーはその生まれから、天才でないかぎり存在を許されぬ命だった。
先に生まれた二人の天才児。それに続くことを期待され誕生を許された特別な三人目(サード)。それがエンダーこと、アンドルー・ウィッギン少年だ。社会の規範はそれを望んでいなかった。両親もまた同じ。だからエンダーは徴用に応じた。戦争を終わらせるもの=エンダーとしての宿命を受け入れた。ほかの選択肢がなかったからだ。
そのきょうだい、ピーターとヴァレンタインは、常にその先行する分身としてエンダーの将来を写し出す。
兄・ピーターはエンダーの鏡像であり、エンダーが認めたくない自己像の投影である(ただし事実においてピーターはエンダーが思う類いの〝人殺し〟ではない)。
その野心が選んだ道は言論による人類の思想的支配だった。そうして自らの生を規定(ルール)したピーターはヴァレンタインを同志に引きこみ、一直線に権力の頂点である『覇王(ヘゲモン)』への階段を昇りきる。
十二歳のピーターも、また十歳のヴァレンタインも、電脳世界ではおとなと同じ。彼らはそれを最大限に活用する。『ピーターのゲーム』では、勝利することとおとなになることがイコールだ。だから彼は生きることにぶれがない。
けれどエンダーはちがう。おとなたちの期待は彼の意に反する行動を強いる。しかし彼が守ろうとしているのは道徳という、人として正しいあり方だ。
だからエンダーは悩み、もがき、ときに逃げもする。だが皮肉なことに、才気あふれる兄と姉による状況認識と優性の証明が、エンダーを戦争の英雄に縛りつける。
その姉・ヴァレンタインは慈愛の両腕と明晰な頭脳を持つエンダーの庇護者であり、最愛のひとだ。その両義性はやはりエンダーと相似する。エンダーが知らないことに、ヴァレンタインのなかにもピーターはいる——彼女もまたペンによって自らの有能を試すゲームに挑んでいるのだ。〝愛情深い〟姉に向けたエンダーの過剰な崇敬は、つまるところ自己愛への飢えに過ぎない。ヴァレンタインがエンダーの善良さに寄せる信頼も同じ。四年を経て面会する日まで、ふたりは驚くほど互いを知らない。
エンダーとヴァレンタインを通じて描かれるのは「人はいかにして殺戮者となるのか」ということだ。エンダーが戦争の術を学ぶのは侵略者からヴァレンタインを守るため。しかしヴァレンタインからの手紙によって彼女がおとなたちの側にまわったと認めたエンダーは、彼らを打ち倒すゲームに没頭しはじめる。やがてエンダーは彼らのルール破りに失望し、彼らのもとを離れる。彼女にふたたび声がかかるのはそのときだ。
ピーターとの言論活動によって政治的な人格を獲得していたヴァレンタインは迷わず務めを果たす。彼女もまたウィッギンなのだ。だが戦場に戻るエンダーのうちに『カサブランカ』のような義心はない。あるのはただ、生かすために殺すという戦争の矛盾そのものだ。勝利の丘に荒ぶ風は、きっと冷たい。そう確信するから、その先の戦いはどこか空疎に映る。
この凄惨な物語の結末は、赦しだ。自らの手で滅亡させた異星人たちの遺産から、やっとはじまるアンドルー・ウィッギンの物語。それは茨と十字架の生だ。偉人のままいることもできた。けれど彼は今度こそ選んだのだ。
シリーズ | 小 | 小範囲 | 中 | 中範囲 | 大 | 大範囲 |
---|---|---|---|---|---|---|
DQ | - | バギ | - | バギマ | - | バギクロス |
FF | エアロ | - | エアロラ | - | エアロガ | トルネド |
BOF | シーザ | - | - | シェーザ | - | シェザーガ |
女神 | ガル、ザン | ガルーラ、ザンマ | マハガル、マハザン | マハガルーラ、マハザンマ | ガルダイン、ザンダイン | マハガルダイン、マハザンダイン |
僧侶が使っていたことを考慮されて十字架を連想したのだろうか。
ダメージのぶれ幅が大きい事も特徴的な魔法だがあんまり使うことはないような。
FFがトルネド以外思い出せないけどなんかあったっけ?(※コメ貰ってエアロ追加。)
作品によっては単体だったり、敵味方全員対象だったりした。
かみそりっぽいのでネーミングとして妥当。
翼っ娘なのでイメージがなじむのだろう。
4ニーナも性能が優秀だったので便利だった。
多分ザンが生き残った。(と思ってたらペルソナはガル系統なのだそうだ)
シリーズ | 小 | 小範囲 | 中 | 中範囲 | 大 | 大範囲 |
---|---|---|---|---|---|---|
DQ | - | シバリア | - | ジバリカ | - | - |
FF | ストーン | - | ストンラ | - | - | クエイク |
BOF | - | ブーレ、ブーレイ | - | ブレダ | - | ガダブレダ |
女神 | マグナ | マハマグナ | マグナス | マハマグナス | マグダイン | マハマグダイン |
浮遊している相手には効かない。
ガダブレダのゆれてる感は異常。
女神はそういやアヤセだったので、
物理魔法になじみが少なかったので余計覚えられなかったのではないかと今思う…。
あ、ゆきのさんがいるか。
シリーズ | 小 | 小範囲 | 中 | 中範囲 | 大 | 大範囲 |
---|---|---|---|---|---|---|
DQ | - | - | - | - | - | - |
FF | - | - | グラビデ | グラビガ | - | - |
BOF | - | - | - | - | - | - |
女神 | グライ | マハグライ | グライパ | マハグライパ | グラダイン | マハグラダイン |
DQ10でズッシードが追加されたがこれはバフなのでここには含まない。
今の今までグライ系なんか忘れていたので、
グライ…パ?!
なんでパに活用されるの?!と動揺した。
シリーズ | 小 | 小範囲 | 中 | 中範囲 | 大 | 大範囲 |
---|---|---|---|---|---|---|
DQ | - | - | - | ザラキ | ザキ | - |
FF | - | - | - | - | デス、ブレイク、デジョン | キル |
BOF | - | - | - | - | ワース | - |
女神 | ハマ、ムド | - | - | ハンマ、ムドラ | - | ハマオン、ムドオン |
ザキは効果は高いが単体。
どちらが上というわけでもないバランスの発想が凄い。
女神はかつてこんなに即死技が豊富なゲームがあったであろうかという感じ。
エイハとコウハなんて技すっかりわすれとったわい。
シリーズ | 小 | 小範囲 | 中 | 中範囲 | 大 | 大範囲 |
---|---|---|---|---|---|---|
DQ | - | - | - | ニフラム | - | - |
FF | - | - | - | - | ホーリー | - |
BOF | - | - | - | - | - | キリエ |
女神 | - | - | - | - | - | - |
FFはケアルがゾンビとかには攻撃魔法にもなるという形でカバー。
シリーズ | 小 | 小範囲 | 中 | 中範囲 | 大 | 大範囲 |
---|---|---|---|---|---|---|
DQ | ドルマ | - | ドルクマ | - | ドルモーア | - |
FF | - | - | - | - | - | - |
BOF | - | - | - | - | - | - |
女神 | - | - | - | - | - | - |
敵に闇が多いためあまり充実してない。
シリーズ | 小 | 小範囲 | 中 | 中範囲 | 大 | 大範囲 |
---|---|---|---|---|---|---|
DQ | - | - | - | - | - | - |
FF | ルイン | - | ルインラ | - | フレア | メテオ、アルテマ |
BOF | - | - | - | - | - | ド・ブンバ・ラ |
女神 | - | - | メギド | メギドラ | - | メギドラオン |
魔力を直接ぶつけるとかそういうのなんでしょうか。
『路上の人』つながりでキリスト教関係の書を読んでいる。今回取り上げるのは『人と思想 パウロ』(八木誠一・著 asin:4389410636 )。キリスト教を現在につながるものに体系化した人物であるパウロがどのような人生を歩んで、どのような思想を持つようになったのかが解説されている。
パウロを通して語られるキリスト教の「赦し」や「愛」の観念の解説が新鮮だった。キリスト教というと、同性愛の禁止といった聖書の教えを忠実に守ろうとする人びとの宗教というイメージが勝手に合ったのだけれども、そういう教えを厳格に守ることを重視するのはユダヤ教的発想で、そういう態度への批判から生まれたのがキリスト教であるとしている。
なぜ教えを守ることにこだわることが問題なのだろうか。
ユダヤ教では旧約聖書にある様々な律法を守ることで神に救われると信じる。そこでは律法を守ったか否かが重要だ。しかし、自身も厳格なユダヤ教信者であったパウロはそれを否定した。律法を完璧に守ることができる人間はごく少数であり、たいていは律法を守ることができず、絶望に陥る。または律法を守り切ったことの優越感が、やがては本来の神への信仰を忘れさせてしまい、そのことを自覚した時そこでも絶望に陥る。つまるところユダヤ教の律法主義は必然的に絶望へと至ってしまうのだとパウロは考えた。
そこでパウロは、イエスを神の子と信じる原始キリスト教に意義を見出す。すなわち、人間の罪はイエスの十字架によってすべて赦された。だから人はただ神を信仰することに集中しさえすれば救われるという理屈を展開したのである。パウロはユダヤ教の持つ厳格な律法を踏襲しつつ、それを守りきれない人間の心も考慮に入れて、堕落も絶望もしない状況に人を導くように教義を設計したのだ。
以上がパウロのキリスト教の教義への貢献であり、それがゆえにキリスト教の教義を学ぶうえで重要な人物足りうるのだという。まあキリスト教についてまともに学ぶ人からすれば当たり前なのだろうけれども、無学な自分にはパウロに対する自分の偏見が訂正されたので面白かった。
もし増田が暴言を吐いたことの無い人だけ暴言を批判しなさいと上から目線で偉そうに言っちゃったが最後
KYな奴だとはてな村総出で石を投げつけられ十字架に貼り付けにされ
はてブコメントの槍でハートを常に貫いてよしとする空気が生まれ
魂は永劫の煉獄に繋がれるだろう
初めて遭遇する人に払われるべき敬意は払われず嘲笑してもTLの空気の流れでは当然許される
その状況を覆すのはなかなか難しいということを
実名派の中にはその実名を持って感じてる人たちもいるはずなのにな
世に弾かれた魂のデータの欠片が、方向性を持ち特定の物事に向けて集中豪雨や台風となることが前もって予想される時
増田にできることは避難所(アジール)への誘導や予報進路を出すぐらい
名を出すのも嫌なほど世に倦み傷つき疲れ果てた人々はネットのどこに行けばいいのか それが此処では無いのか
数年前のこと、このぐらいの時期の平日に元彼女で、一緒にバンドをしていた子から電話がかかってきた。
別れてからもバンド活動はしていて、彼女はシンガーだったので月に2、3回はライブやら、練習で会っていた(別れてから肉体関係は無し)
家もお互い、都内一人暮らしで、隣りの駅で近かったため、月に一回ぐらいは居酒屋で呑んだりしていた。
そんな彼女からの電話も、そうそう珍しくないのだが、その時は少し面倒だった。
面倒だった理由は、
・バンド活動があまりうまく行ってなかった。(毎年アルバムをインディーで1枚リリースしてたがこの年は予定がなかった)
・金も無いし、休みもなくいらいらしていた。(普段はサラリーマン)
今考えると、その時自分は軽く鬱だった気がする。
サラリーマンでバンドマンとはいえ、本気で音楽活動をずっとしていた。
とにかく自分のことでいっぱいいっぱいだったのを覚えている。
会話の内容は、
・寂しくて、ぬいぐるみを買った。(ぬいぐるみを買うような性格ではないのに)
そんなような、かまって欲しいという内容だった。
それに対して私は
みたいな内容で、突き放すように切ってしまった。
電話を切った後、邪険にしてしまったことを少し悔いながら、メールを送った。
内容は、週末ライブの予定だったため、3日後のスタジオ練習忘れんなよ!というメールだった。
いつもならすぐ返信がすぐ来るはずだが、その日は返信がこなっかった。
もう寝てしまったのか?
怒っているのか?
翌日になっても返信は来ない、電話してもでない。
またその翌日になっても返信は来ない、電話してもでない。
これはおかしい・・病気でもしてるのか?と心配になり、会社終わりで直接彼女の家に向かった。
以前、付き合って間もない頃、突然彼女と連絡がとれなくなったことがあった。
理由は薬物で警察に捕まり、拘置所にいたから、ということがあったのだが。
さすがに、今回はそれは無いだろうと思っていた。
向かう電車の中、もしかしたらという不安に駆られ、駅に着いた時には確信に近いものに変わっていた。
彼女の家についたのは、既に19時過ぎぐらいだったと思う。
2階にある彼女の部屋を外から見ると、煌々と明かりがついていた。
と思いながら、最上階に大家が住んでいることを知っていたので、事情を説明し部屋を空けてもらった。
中に入ると、すぐキッチンで、ドアの先が彼女のいる部屋だった。
ドアを開けようとすると、重くて開けられない。
何か邪魔してる感じだった。
私が来たのを知って、会いたくないから、わざと中からドアを押してるのであれば、どんなにいいだろうか。
と思いながら強引に部屋に入った。
中は、エアコンがびんびんに効いていて、肌寒いぐらいの温度で、彼女はドアのノブにタオルを掛け、首を吊って死んでいた。
その後、大家が警察、救急車を呼び、私は彼女の母親、バンド仲間、近所の友人を呼んだ。
私と、母親と、彼女の親友の女友達に宛てて、「ごめんなさい」という内容だった。
10年の間に、出会ってすぐに付き合いだし、5年同棲し、別れて2年、別々に一人暮らしをしていた。
別れてからはお互いに、別の彼氏・彼女ができたり別れたりしていた。
それをつまみに二人で呑んだりしていた。
自殺する1ヶ月2ヶ月前ぐらいに、二人で呑んだときに、私と結婚したいと、酔っ払いながらも本気で言ってきた。
一度、酔っぱらいながら私にヘッドバットしながら、お前だけ幸せにはさせねぇぞ!
と、ふざけてるのか、本気なのかわからないテンションでのやりとりもあったりしたのを思い出す。
彼女は、末っ子で寂しがり屋のAB型、ひっこみじあんだが、なぜかシンガーで大酒飲み。
仕事が終わると、帰宅中に缶ビールを飲みながら帰るぐらいで、アルコール依存症だったと思う。
リストカットや未遂などの実績はなく、とにかく酒をよく飲む人だった。
事後、彼女と結婚していればこんなことにならなかったのに・・・と後悔したり。
結婚しても同棲で一度失敗しているのにうまく行くわけがない・・・と納得したり。
こんな十字架背をわせやがって!むかつく!!!と憤慨してみたり。
音楽活動はほとんどやらず、地道にサラリーマンに専念している。
忘れようとは思うが、完全に忘れるのは不可能。(第一発見者だし)
http://anond.hatelabo.jp/20130811212721
まず、代表が腹を括って、組織企業にする、飽くなき成長のゲームに参戦すると決める。
それに本気でボードメンバーがついてくるか?を問うタイミングは必要なんじゃないかな。
そこで、自分が圧倒的なリーダーシップを発揮するために、狂気にも近い覚悟と株の整理は必要だと思う。
自分が向いてないならボードメンバーのだれかに代表を代わってもいい。
でも、代表と筆頭株主と連帯保証人と最も給料もらっている人は一致させないと厳しいと思う。
うちの場合は、代表が決断をし、自分がそれに同意し、これまでの現場仕事に加えて、マネジメントを並行して、メンバーを入れ替えながら仕事を必死に仕組化した。
創業時フラットだったボードメンバーを明確な序列、というより代表の完全な中央集権体制を確立させる過程で私以外は皆去った。
ボードメンバーを構成する自分としては組織化は頭では理解していても、自分が会社を作ってきた自負もあるので、なかなか自分の仕事を手放すことができなかったり、これまで比較的フラットで仕事をしてきた社長と主従の一線を引き、代表を支える為に組織仕事を行うことには心の葛藤はあった。
しかし、10年を目前にやはりあの苦しい決断は成長の為に必要だったのだと最近思うし、大変な決断をした代表を心から尊敬している。(もちろん些末な意見の違いなどで毎日ハラワタが煮えくり返る思いをすることはあるが。)
かといって1人ぼっちでもできない。組織の最小構成は2名だと思うから今いるボードメンバーの中に論理だけではなく人間として本当に自分についてくる人だけを腹心にし、組織構築を行うことだと思う。
折角創業期食うものも食わずに一緒に会社を作ってきたメンバーを軌道に乗ったから追い出すようなことになる。。と心を痛めるなら人間としてはあなたはとても愛すべき人だし、友達になりたい人だが、残念だが会社を成長させるにはその心は少なくとも邪魔になると思う。。
やはりベンチャーの世界によかれ悪かれ脚を踏み入れた時点で、成長を志向するなら、この組織化に伴う内部のゴタゴタは背負わなくてはいけない十字架だとあきらめるしかないのではないか。
その十字架が自分にとって重すぎると思うなら、少なくとも成長路線はあきらめないといけない、衰退してもそれも仕方なしとあきらめる。
逆にそれ以外の方法があるなら私も知りたい。
チームのリーダーをやっている。私を含め事務所勤務の正社員が3名、事務所勤務パートが1名、在宅のパートが2名。
在宅のパートは2名ともかつて事務所でがっつりフルタイム共に働く仲間だった。両方とも結婚・出産を期に積極的に在宅ワーク体制を作ったため在宅パートが成立している。
チームリーダーごときの私に体制を作ることができたのは、環境の整ったPCさえあればできる作業がうちのチームの職務柄多いこと、会社が彼女達に結婚・妊娠・出産をしても会社と繋がり続けてほしい、積んだノウハウを生かしチーム力になり続けて欲しいと願ったことが要因だと思う。
在宅ワークの体制を作るのは最初は四苦八苦であったが、そもそも彼女達は優秀であったし事務所勤務時代に気の置けない関係をしっかり構築できていたので、有効な提案がボコボコ出て現在はかなりスムーズに在宅ワークを運用できている。
私が在宅ワークのシステムをチーム内で確立するにあたって、自分にあえて直接負担を強いて「これだけは」と作った具体的なルールがいくつかある。
このルールを作るまで、事務所勤務メンバーにも苦労をかけたと思う。通常業務と平行して試行錯誤の体制作りだったから。残業もいっぱいした。でもよく協力してくれたので今の体制がある。
このとき、実際本当に苦労した記憶があるのだけど私はこの苦労の最中に彼女達に対して少しも不満を感じなかったと記憶している(他の事務所勤務メンバーがどう思ったかは知らん)。
なぜかというと、私は常に「これから子供抱えて在宅とはいえ仕事もしなければいけない彼女達のほうがもっと大変」と考えているからである。
私は子供を持つことにまったく興味がなく外でよその子供を見かけてもまったく気持ちが動かない。
外で子連れの人を見かけると子供の速度に合わせてゆっくり歩かねばならない現実や、(特に暑い季節は)しょっちゅう立ち止まり屈んでは子供の様子を確認している様子や、荷物をベビーカーや肩に沢山ぶら下げて歩いている難儀な姿にばかり目が行ってしまう。
私が子育てに対して持っている印象は「負担」「苦労」ただそれのみである。
そんな十字架を背負って親と会社の仕事を兼業している彼女らに「迷惑かけてくれるな」などととても思えない。
子供が熱を出したと聞きゃあ「ああ、それは大変そうだ…仕事してる場合じゃないだろう」と思うのである。
思うに、私に出産願望があり道往くよその子供が可愛く見えていたら私はこういう発想になれなかったのではないかな。
子供のいない女性の多くはおそらくいつかは子供を持ちたいと思っているだろうし、エレベーターでベビーカーの乳幼児と一緒になったら頬が緩んだり、一瞬変顔を披露して子供の興味を引こうとしたりするだろう。
そんな子供好きの小梨女性にとって、子供が熱を出したから保育園に迎えにいくので早退します案件は「納期だって迫っていて人員もカツカツなのにお前は可愛い子供ちゃんの相手するとかまんざらでもない理由で仕事放り出せるのかよ。いいご身分だな」って感じなんじゃないだろうか。
つまり、子持ち兼業の同僚に感じている女性従業員のストレスの正体は、子供を持っている人への持たざる者の嫉妬なのではないかと思う。まあ私は子供好きの気持ちが分からないから憶測の域を出ないけど。
こんなことリアル社会やいつも書いてる実名ブログで書いたら非難轟々でとても言えないので、不本意ですがココで書かせてもらいます。
大阪の母子餓死事件を最初に聞いた時は本当にやりきれない思いでして、「どうしてこんなことになったんだろう?」っと様々なニュースサイトを見て回りました。夫からのDVから逃げまわってた。昨年から経済的に困窮してた。などなど。ただいろいろなニュースを見聞きしたあとに至ったのは、「ここまで最悪の事態に至ったのは、この母親が非コミュのアホすぎたからじゃないか?」という結論に行き着いてしまいます。
今回の事件の背景に夫からのDVがあって、母子を餓死に追い込むほどのDV被害というのがセンセーショナルすぎてはてブコメントでも「このDV夫は地獄におちろ」とか「死刑にしろ」とか罵詈雑言が書かれてます。しかし第3者の我々には彼の妻へのDVが実際にはどれほどであったのか想像できません。なんというか、今回ここまで最悪の結果になってしまったのは、夫のDV以上に、そこから逃れようとした母親の対応があまりにアホすぎて自分と子供を自らの決断でどん底に追い込んだ結果なんじゃないかと。最近では親族同士を殺し合わせるという陰惨な事件もありましたが、僕には「母子を餓死するまで追い詰める」DVというのが想像できません。この元夫のDVがどれくらい酷かったのかさえ、彼女が警察などに通報してくれないと第3者からは何もわからないのです。
たしかにDVの恐怖からまともな判断ができなかったかもしれません。しかしDV夫から逃げる際に元夫や元夫の家族だけならわかりますが、実の両親にも連絡先を教えなかったというのは意味不明です。彼女のケースを見ていると、よくネットで見かける「極端に最悪なケースばかり想定して結局なにもできない人」を連想します。「実家に連絡したら、そこから元夫にバレるかもしれない」「行政や警察に逃げ込んでも、きっと情報が筒抜けで夫にバレるに違いない」という恐れは、たしかに100%否定することはできません。でもあまりに極端にリスクを恐れるあまり、元夫から完全に逃げ切るために本来なら彼女らを助けるためにある行政サービスらもすべて断ち切った感があります。これからこの事件の報道でこの元夫が悪者扱いされる可能性がありますが、すべての責任を彼になすりつけるのはあまりに無意味であり非常理です。彼自身も自分の元妻や子供を餓死にまで追い込んだことを無念に思っているに違いありません。
あと死人に鞭打つような行為でできれば言いたくはないのですが、母親だけでなく子供まで餓死する状況に追い込んだ責任は、元夫よりもむしろこの母親にあるのではないかと思わざるを得ません。視点を変えれば、これは母親による子供に対する最悪のDVです。いくら夫婦間がこじれていたとしても、それはあくまで両親の話であり、子供には関係ない。むしろ子供にとっては母親と一緒に生活しているより、元夫と生活してたほうがマシな生活ができたんじゃないでしょうか。少なくても彼女は食料が買えないくらい生活が困窮してた時点で行政に助けを求める義務があったと思います。たとえその結果、元夫に居場所がバレるという自体になったとしても、そもそもの問題は彼女と元夫の二人の関係破綻の問題であり、それに何の罪もない子供まで巻き込むのは間違ってます。
彼女にアパートを提供したとされる友人も気の毒に思えてなりません。最近の日本のニュースを聞いていると「優しくて友人想いの人が、その性格のため彼・彼女だけでは支えきれない問題を背負い込み、結局一緒に地獄を見させられる」という悲しい事例が増えている感があります。この件でこの友人に「そこまで助けてやったなら、なんでもっと頻繁に近況を確認できなかったのか」とバッシングする声があがるのを恐れてやみません。この件はこのご友人には背負いきれない事例だったのです。この母子の生活を半永久的に金銭的にサポートするなんて無理ですし、行政サービスを頼るようにいっても元夫への発覚を極端に恐れてそれすら拒否する。これ以上なにができたというのでしょうか。このご友人はその優しい性格のせいで、逆にこの母子を餓死するまで放置していたという十字架を一生背負って生きていかねばならないのです。
今の日本ではDV被害者に対するサポートはまだ不十分かもしれない。それでも探しさえすれば助けてくれるNPO団体などはあります。行政サービスも問題を抱えながらも使えないわけではない。でもこういったサポートも、結局はDV被害者が自分から助けを求めて動いてくれないと何もできないのです。
うちの姉は障害を持っている。
患ったのが中高の頃で、それ以後は精神的に母に頼りきりの生活だったので
かなり未熟さを感じる。
姉が発症して以後、
姉は人が変わったようになってしまい、月に1度だけ家に帰ってきた。
当時小学2年だった俺は、
そんな感覚だった。
姉の病気のこと、
母に無理矢理入信させられた宗教のこと、
父の酒癖の悪さ。
そんな家の問題を、友達に知られるのが怖くて
聞かれるのが怖くて、学校ではひとりで居ることを望んだ。
高校を中退し、バイトで金をため、資格を取り、就職し、家を出た。
30を過ぎた今。
家族の問題に向き合っている。
心のどこかに「家族の問題は問題児だった俺が原因」という負い目がある。
時間を追って冷静に考えれば分かることだが、本当は逆のはず。
でも、その負い目は決して拭い去ることはできない。
父は酒に依存し。
兄は家族との会話を持たず。
姉は薬を飲みつづけないと再発の危険がある。
そんな家族を苦々しく思い、ついつい、
あれが駄目だ、これも駄目だ、と
非難するようなことばかり言ってしまう。
逆効果だと、分かっているはずなのにだ。
いっそ、家の問題から逃げたほうがラクなんだろう。
俺が家から消えたほうが、問題は少なくなるのかもしれない。
改善はしないだろうけど、その方がいいのかもしれない。
俺が、家族をなんとかしなきゃ、と。
辛い。毎日が苦しい。