2014-02-13

劣等感コンプレックスに呑まれるくらいなら、せめて毎日を少しでも楽しくしていたい

 不安がひどいからかもしれない。ここ最近、というわけでもないけれど、ふとした時に劣等感コンプレックスに呑まれそうに

なる時がある。空しくて空しくて、そしてなんで自分けがこうなんだと、そう自分境遇を呪わざるをえない。

少しでも良い目に遭っている奴をみると、正直な所嫉妬劣等感しかわいてこない。悔しくてたまらないし、怒りしかわいてこない。

報われるだとか報われないだとか、そんな人生観で生きようだなんて微塵も思っちゃいないけれど、もう少し自分は報われても

いいと思う。もうちょっと自分は良い目に遭ってもいいと思う。

別に報われるだなんて見返りを求めてたわけじゃないけど、今までずっとずっと、一番大嫌いな寂しさにも耐えて努力

しまなかったんだから、もう少し自分は良い目に遭ってもいいような気もする。良い目に遭う、とはいっても、そんな自分

望むものがたくさん手に入らなくたっていい。心の拠り所一つでもう十二分だ。すがる藁の一本でいいからくれよと思う。

 だけどその報われなさを十字架にして背負いこんで生きるような事ももうしたくない。背負い込んだほうが楽(心身は苦だが)

なのはわかってるけど、そんな事をしていても決して自分の望むものひとつ満足に得られない気がする。

というか、十字架を背負いこむだとか背負い込まない生き方がどうだとか、本当の所自分の中では一体どういう生き方

していたいのだろうと、そう自問してみたけど、本当の本当の事を言えばそんな生き方はしたくないのだ。

十字架を背負うだとか背負わないだとかも、そんな事も思いたくもない。

なら本当は自分はどういう生き方をしたいのだろうか?こうやって思考が凝り固まってしまう前や、嫌だった事、辛かった事、

どうしようもなく悔しかった事、自分が好きだった事、好きな事、色々思い返してみる。

 多分自分もっと道楽主義的に生きたいんんだと思う。刹那主義的に生きたいわけではないけれど。道楽道楽主義。

果たしてそれが本当にしたい自分生き方なのかはわからない。でも、十字架を背負うような生き方をするよりかは、もっと

身の流れを世に任せて、道楽主義的に生きていきたい。

希望なんてない。絶望しかない。先なんてみえないし、わからないし、良い未来があるなんて到底思えもしない。

でも、それでも、だからこそかもしれないけれど、劣等感コンプレックスに呑まれるくらいなら、せめて毎日を少しでも

楽しくしていたい。そうだよ。お酒でも飲もう。

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