はてなキーワード: 歯がゆいとは
30過ぎて転職をした。実家より田舎ではあるが生活には全く不便しない環境なので全然気にしていなかったけど、子供ができる可能性を考えていたら急に実家付近の環境の良さに心がむしばまれ始めた。これは一緒のホームシックなんだな。
実家は首都圏の地方都市。そこそこな文教地区で私鉄駅直ぐ近くだった。東京にすぐな立地なので自分の家をやや田舎だと子供の頃は過小評価していた。一時期は東京に住んでいたし実家は建て替えるまえはかなりのボロ家だったので自分の家がまともという感覚はあまりなかった。
それに片方の親との確執もあってか実家から離れたい願望が強く、今の仕事も実家から程よい距離間を保てるという理由で決めていた。
結婚してしばらくは全然問題なかった。しかし子供の計画を話している内に、教育地域としてはあまり充実していない事実に頭を悩ませている。
結局の所、公立中高なんてのは年や校長によって常に変わっていく。近所の中学だって校長が替わってからは劇的に改善してと聞く。単なるくじ運でしかない。とはいえ実家付近の公立学校の評判より明らかに低いのだ。地方なんてそんなものだ。そう割り切ればいいと思っていたが、自分の実家付近が軒並み「どこにでもある普通の学校」であることがむしろ羨ましい。こちらは年度単位で当たり外れがあるし、そうでなくとも普通よりは下の水準なのだ。
実家付近にいれば子供の教育で変に頭を悩ますことはない。それどころか能力に応じて柔軟に高校までも選べる。こっちだと特に公立高校から荒れやすい。
こちらは一人・二人だけの暮らしには全く問題ない。金があれば比較的良い家だって買えるが、実家付近だと家は馬鹿高いか狭っ苦しい。いまの賃貸だってかなり快適だ。
下手に東京に近かったから教育は少しは受けていた自覚がある。だからそれ未満の環境しか用意できないのが歯がゆい。こんなことで実家のことを評価する時が来るなんて思わなかった。良い解決方法は、収入増やして私立の中高に通わせる程度しかない。あるいは転職をして教育環境の良いところに移るかだ。田舎でも文教地区は意外とあったりする。というか田舎だからこそ教育に力入れる傾向がある。転職の立地を間違えたと思った。
①日中1部屋に閉じ込めることに反対
一部屋に閉じ込めるのはいいけどトイレやえさのこと考えると1匹ならともかく2匹だと二部屋分くらいスペース欲しい
②閉じ込めるのはかわいそうという理由で猫部屋の窓を開放 ベランダを自由に行き来させている
2階なら危ないねバランス感覚よくっても風や体調で落ちることもあるだろうしカラスなど危険がある
完全室内飼いなら必要ないけど外に出てるのにしないのは汚いよフロントラインなど駆虫薬つけててもダニノミで人間にも影響ある
いきなりシャンプーじゃなくてペット用ウェットティッシュで拭くところから始めてみるとか
④家中どこでも行き来させたい
自分も実家に猫連れてくとき絶対に台所には入れないよう注意してる猫にとっての毒物もあるし火気もあるからね
「それは家族を危険にさらしても行かなきゃいけないものなのか」
題名と一行目のとおり、私はとある理由で東京にいかなければなりません。
てか行ってきました。
遠征にいってはいけない理由は、持病持ちの親と介護職で働く家族がいること。たしかに一理ある。
だが一番の理由は「コロナになったら近所にバレるのが怖い」からです。
私の地方はまだ比較的数が少ないので夕方のニュースでどこ住みの何歳代で下手したら職業までさらされる。
田舎の情報網はすごい。ニュースに出た次の日にはどこのだれか特定される。
家族はそれが怖いのだ。そうなったら家に落書きされていたずら電話がきて家族は会社をクビになる。(本当です)
コロナでしんどいとかより社会的に殺されることのほうが怖いから感染のリスクを冒してまで東京に行くのかと聞いてくる。
自己責任だけど家族と同居してたら自己だけでは片づけられないんですね。一人暮らししたい…。
全国各地からお客が来る環境。コロナ禍でもあまり変わらずむしろGOTOのせいで(あえてせいという)客足は増えた気さえします。
「私は北海道から」「大阪から来たの」「九州から来たけど雪すごいね」
客は口々にどこから来たか簡単に教えてくれるがそのたびに自分のソウルジェムは濁っていく。
なぜこの人たちは自由に全国を行き来しているのに私はどこにも行けないのか。
そもそもこの人たちと普段から接している私はもはや東京行ったとか行ってないとか関係なくリスキーなはずだけど
でも私は行きたい。
そのミュージカルがどんなに私の心を救ってくれたかは話せば長くなるので割愛するんですが、
某歌詞の「何のために生まれて~…」のとおり何のために生きているのかわらない。
どーーーしても生で見たい。
親には友人宅で新年会をする。そのまま泊まると言って出ました(新年会はいいんかい)
久しぶりの新幹線、東京駅で食べたお寿司がおいしかった…昼からビールも飲みました。昼間っから外で飲めるって最高です。
会場に向かう電車の中隣を見れば同じ会場に向かうであろうお姉さんのバッグに推しのグッズ。
電車内にどんどん増えるオタク。会場最寄りの駅で降りて前の人についていく感覚。ついていけば会場につくだろうという謎の安心感。
おしゃれしたお姉様方。推しのコーデや持ってるグッズの色。もう最高でした。
これだけで東京に来てよかったと感動すら覚えました。
公演はとにもかくにも最高でした(語彙力)
演者さんの生の歌声。腹の底に響くビブラート。配信じゃわからなかった生じゃないと味わえなかったたくさんの感動がありました。
ずっと泣いてました。こんなに素晴らしいパフォーマンスに自分は拍手しか返せるものがないのが歯がゆい。
公演が終わった後、駅に行く道すがら満足感で免疫力爆上がりで何も怖いものはありませんでした。
やっぱり来てよかった。もし遠征しなかったら一生後悔したと思う。
私の行為はまったくもって褒められたものじゃないとわかってます。反対されてるのを押し切ってまでやったことはいけないことだとは思ってます。
でもどうしても行きたかった。見たかった。リスクを冒してまで見る価値があるのか。答えはもちろんイエスです。
幸い遠征から帰って1週間以上たちましたが家族ともども症状はありません。
このことは墓場まで持ってくつもりです。
また、遠征に行くにあたり自分の健康状態はすこぶる良好でした。
あと今回、遠征に行くにあたりSNSでも私が遠征に行くことは一切誰にも言ってません。
本当は会場で写真撮ったり感想をつぶやいたりしたかったし現地の友人にも会いたかったけど我慢しました。
フォロワーさんが現地で見ますと写真を挙げてるの見ると羨ましかったですが最悪の場合どこからバレるかわからないので。
でもどうしても遠征行ったよと言いたくてここに書きました。王様の耳のように言わないと気が済まなかっただけなので遠征を推奨するわけではありません。
読み直しても自己中でめちゃくちゃ自分勝手でほんとひどい内容だなと思います。
この三連休で温泉に行ってきたけど、道は空いてるし、ホテルはガラガラだったし、部屋も勝手にアップグレードされてめちゃくちゃ広かったしいいことしかなかった。
平日なら大人一人1万だけど、この日は1万5千円だった。
でも結果的に、普段1万8千円くらいの部屋に泊まれたし、あまりにも全てが快適だったのでめちゃくちゃお得な買い物をした気分になった。
もちろんこんな時期なので、予約のときに緊急事態宣言が発令された地域からの旅行であることは断った。
それでもホテル側は快く受け入れてくれた。
もし混雑しているようならやめようと思ったけど、かなり余裕があるということなので信じてみることにした。
子どもたちの学校は休み、妻と自分はリモートワークでステイホームが1週間以上続いていたので、感染している可能性は限りなく低い。
だから家族全員で、発熱や咳などの症状がないことを確認した上で行くことにした。
ホテル側も感染対策はしっかりしていて、配膳の人はマスクとフェイスガード2重だったし、フロントもアクリルとマスクでしっかりと対策していた。
出入りの消毒、検温も徹底していて安心だった。
正直、もっと全然嫌がられるかと思ったけど、従業員の人全員一生懸命に応対してくれて、途中で何度も涙が出そうになった。
だってさ、誰一人嫌がるどころか、こんな姿でこんなサービスしかできなくて申し訳ないって顔してるんだよ。
こんなときなのにこんなにサービスしてもらって頭が上がらないのはこっちだって。
自分ひとりの売上なんてたかが知れててなんにもできないことがこんなにも歯がゆいことだとは思わなかった。
Go toつかって安く行こうなんてスケベ根性出してちゃダメだ。
そんなスケベ根性丸出しの人間たちの中に特攻していくだなんてコロナを貰いに行くようなものだよ。
使わないともったいないって思わせるようなチキンレースみたいな政策がうまくいくわけないって。
相手もこれだけ感染対策していて、自分たちだってできる限りのことをした上で行った旅行の何が不謹慎か。
このメッセージの意味が理解できる人だけでもいいから、旅行に行こう。
それだけでケチくさい人間は足切りされるし、そういう人間がいない世界がどれだけ快適かわかるはずだから。
批判に耳を傾けるのはもう止めよう。
飼い犬が蹴り殺されるという痛ましい事件が発生した。
https://www.asahi.com/articles/ASNDK5JTWNDKUTNB00D.html
この記事を受けて私が言いたいことは4つだ。
※たまたまそのときだけ首輪がすっぽ抜けた可能性も否定できないし、まともな人なら自分の過失を悔いていないはずはないので外野から騒ぐのはここまでにする
上3つは書くのも辛い話なので、ちょっとパピヨンの魅力だけ語らせてほしい。
増田スペック→パピヨン飼育歴16年、去年の今頃パートナーを看取った(要するに素人)
n=1の例とか主観とかも多く含まれるのはすみません。だってかわいいんだもん。
あと他の犬種や雑種もそうだよっていう人、語ろう。うちのはたまたまパピヨンだったが、犬がみんなかわいいのは真理だ。
もちろん個体差はあるが、大きく「明るくて活発」タイプと「おとなしくて温厚」タイプの2種類で軒並み性格がいい。
うちの犬は前者で、初めて出会ったときはうなぎみたいに身をくねらせながらベロベロ喜んでた。
友達の家にいた子は後者で、初めて会ったときは控えめにキスをしてくれた。
基本的に人間を好きになってくれるし、頭がいいので飼い主が喜ぶことをきちんと把握して「これで伝わるだろ?」って愛情表現してくれる。
その出自からか狩猟本能も闘争本能もどこ行ったって感じで優しいので、他の動物とも仲良くできる。
小さな同居人に手を出すことはない。小鳥や子うさぎにやられて悲鳴を上げてるところは何度か見たけど犬が怒ってるところは見たことない。
もちろん個体差はあるが、賢い犬種ランキングでみるとパピヨンは8位。小型犬では唯一のトップ10入りだ。
人の言葉は理解するし、逆に犬の言葉も人間に伝わるよううまく表現できる。
賢いエピソードとして、鏡越しに目を合わせてくれることとか、「布団を敷いて」「一緒にゴロゴロしよう」という2文節の要求を人間に分かるように伝えてきたこととか。
なでてアピールを無視して寝てたら手のひらの上をゴロゴロ転がりだしたのは、賢いエピソードなのかおバカエピソードなのか判断に迷う。
もちろん個体差はあるが、健康で丈夫。犬種特有のかかりやすい病気というものがほとんどない。
犬は(猫も)人間の都合で品種改良されてきた都合上、負担のかかる造形になってしまっていることがある。
例えばダックスフンドは胴が長いので腰痛になりやすいとか、ブルドッグはたるんだ皮膚の部分が皮膚炎になりやすいとか。
パピヨンはサイズこそ小さいものの狼とたいして変わらないフォルムなので、そういう病気につながる形質が特にないらしい。
小型犬なので、骨が細いとか膝の皿が外れやすいとかはあるが、小型犬の中ではそんなに弱くない。
なぜかというと小型化の歴史がかなり長いから。100年単位でゆっくりゆっくり小型化していったため、あまり体に負担がなかったと言われている。
活発で運動神経もいいのでよく動くが、うちの犬も生涯一切の怪我なく、風邪も引かなかった。ぴんぴんころり。
あと運動しすぎて肉球が分厚くぷにぷにで気持ちよかった。冷たい雪の上も平気でずんずん歩けるしっかりした肉球だ。
もちろん個体差があるがみんなかわいい。これは真理であり裏も表もない。かわいい。
タヌキ顔もキツネ顔もみんなかわいい。おでこが広い子も狭い子もみんなかわいい。斑が多い子も少ない子もみんなかわいい。かわいいい
毛は長毛。スーツで抱っこでもしたら悲惨なことになるが、シングルコートなので実は見た目ほど毛が抜けない。見た目ほどは。
街を歩くたびに「まあきれいにお手入れして~」なんて褒められるけど、一回もトリミングしてない。いい感じの長さを勝手にキープしてくれてるだけ。
最大の特徴である大きな耳もパタパタ動いてかわいい。お風呂に入れると全体的にしょぼくれて、でも耳の大きさだけ変わらなくて宇宙人かわいい。
くるりと巻き上がったしっぽも感情に合わせてよく揺れてかわいい。ブンブン振ると、ながい毛がふわわーふわわーと周期をずらして揺れる。
キラキラの目が何より最高だ。澄んだ瞳で、どこまでもまっすぐにこちらを見つめてくる。
犬は人と目が合うだけで幸せになるというけど、人も犬と目を合わせるだけで救われるんだ。
人間好きでグイグイ行っちゃう子もいるし吠える子もいるから、犬が苦手な人にはどうだろうな…本来怖い犬では決してないよ。
まあ人を噛むような性質の犬じゃないし、百歩譲って本気で噛まれてもまず怪我しない、と思う。
自分の知らないパピヨンがいるかもしれないし、絶対と言えないのが歯がゆい。
頭と首を守ろう。こっちが攻撃したら犬がもっと攻撃的になることもあって危ないよ。
でも本当の意味でいきなり襲ってくる犬は他の動物と同様そんなにいないと思う。
その意識があるだけで、「いきなり襲ってきたように見える」状況でもちょっと冷静に判断できないかな?だめ?
どうしても蹴らないでほしいんだよね…
どんな状況でも犬を優先しろとは決して言えないけど、どんな状況でも犬には罪はないんです…
怖いよね。でも「だから犬に噛まれそうになったら蹴っても(or殺しても)構わん」は論理の飛躍じゃないかな。
ちなみに増田の兄弟も幼少期にちょっと様子のおかしい犬に噛まれてたよ。調べてみたら幸い病気持ちではなかったようだけど。
日本では狂犬病は撲滅されているはずだけど、もし様子のおかしい犬や海外犬に噛まれたら病院で調べてもらってね。
わかる。一応、踏んだり蹴ったりしそうだなーっていう意識が頭の隅にあると致命的な踏んづけや蹴っ飛ばしはしにくいってどこかの獣医さんが言ってた。
子供が見てるチャンネル登録ン百万人の人気キッズがたまに死んだような眼してる時あるから、なんか心配。毎日ネタ探して動画撮られて、大変だろうね。
「当時どう思ってました?」ってきいてみたいけど、「正直嫌でした」「親のこと嫌ってました」とか最高にこっちの空気読んだコメントくれそう。本心はどうなんだろう。目立つ楽しさや、儲かる嬉しさもあるんかな。完全に家計を支えてる状態なの、子供心に重いだろうね。
ちゃんと学校行けてるのかな、友達と遊べてるかな、外出に気を使わないかなとかいろいろめっちゃ気になる。うちの子も「やりたい!」と言ってくるときあるけど、家バレ怖いから無理、一人暮らししてやってと言ってる。何より再生数少なくても多くても恥ずかしくて、しんどそう。
「毎日動画投稿しなくていいよ」「無理しないでね」と思うけど、1ファンからは「応援してます」としか伝えられないの、歯がゆいね。見なければいいんだろうけど。
https://anond.hatelabo.jp/20200803190330
投稿して以降、記事への反応の部分しか見てなかったんだけど、『ブックマークコメント』を見落としてました。
たくさん意見を頂いていて、ありがとうございます。しっかりと読ませて頂きました。
ごめんなさい、一つだけ訂正を…。
私は、自分で神絵師と思っているわけではなくて、『神絵師が云々という意見の、この神絵師の部分は私のことを指して言っている』と表現したかったわけで…けして自分で神絵師だと思っているわけでも、自称しているわけでもなくて…。
『奥付や後書きなどに彼女の名前を入れる』『彼女が協力者であると発信する』というコメントをたくさん頂いていた。
もちろん奥付に彼女の名前を入れるし、後書きか挟み込みペーパーで彼女がどれだけ尽力してくれたかを書くつもりだ。
でも、なんというか、そういうの書いたところで彼女のことを非難してる相手に痛む心はないんだろうなって思う。
彼女が協力者であることを発信しても、彼女のアカウントをブロックし、彼女の名前をミュートしていたら、こちらがいくらツイートしても届かない。
彼女と共同サークルという形にすることや、彼女を購入の窓口にする(つまり彼女をブロックしていたら買えない)形を取ることは一番に考えて、彼女に提案をしたんだけど、『お前の名前とキャラで売ってる部分も大きいんだから、わざわざ自分を挟んで売上が下がるようなことをしなくていい』と言われてしまった。
どなたかもコメントに書いてくれていたけれど、『こいつ、自分が大嫌いな人間が作った本を有難がってるんだよなwバッカみてえ〜w真実を知った時の顔が見てえ〜w』とゲラゲラ笑える…とまでは言わないが、友人は『嫌っていた人が作った本を大事にしてるとか想像しただけで笑える』って言ってた。
彼女のことを批判している人をブロックしないのは、彼女に言われているのだ。
『お前のことを言っているわけじゃないんだし、私を嫌っているだけで本は買ってくれるんだから、迷惑料として売上に貢献してもらおうって思ってるのに、自分から売上減らそうとするなよ』と。
『そんなこと考えるくらいなら1冊でも多く売ってボーナスくれ。ちなみに絵の稼ぎ以外での金は受け取らない』と。
さっきも書いたけど、彼女を批判していた人が本を手に取って、奥付に彼女の名前があったり挟み込みで彼女の功績を讃えたりしても…やっぱり心に罪悪感とかは抱かないんだろうなって思う。
なんか、人間って『見たいもの』しか見ないじゃん?奥付に彼女の名前があっても突然そこだけ文字読めなくなったりしてんじゃないかなって。
商業漫画家がスペシャルサンクスに協力者の名前を入れても、読者からしたら『誰ソレ?』だし、いくら発信しても彼女の名前を出しても、私のフォロワーは『私の本(グッズ)』だと言う。それが歯がゆい。
彼女の最大の意向が『私は何言われてもいいから1冊でも多く売ること』だし『積極的に売上を減らすようなことはするな』だし…自分に無関係なら先行ブロックもするな物申しもするなって…この子なんでこんなに精神が鋼なの。羨ましい。
今私が彼女の為にやるべきことは、本を1冊でも多く売ること。
元々彼女は私の絵のファンだった。感想をくれて、仲良くなって、私の絵を愛してくれて、その愛情が重すぎて鬱陶しく思ったこともあるけど、彼女はずっと『絵師』『アカウント名』といった表面的な看板を越えて、その奥にある私自身に接してくれた。
だから私は、彼女が好きだと言ってくれている私の絵で、彼女に恩を返したい。
私の本を手にとってくれる人たちが、彼女の存在を認知してくれて、『本を出してくれてありがとう』という言葉を私だけじゃなくて彼女にもかけてくれることを願っている。
本当に済むのか? という事について疑問がある。
例えば何かマズイ話が合って、「それは考えていませんでした」と答弁したとする。
その時に責任問題になる組織がクソ組織っていうのは、経営の話のなかじゃ常識だよね。
失敗を報告したら罰を受けるんなら、罰を正直に報告する部下はいなくなる。
国会でいまおきてるのはこれだと思うんだよな~。虚言を擁する部下とおなじくらい、叱っているやつもクソだというのが俺の考え。
証人喚問を促すってなに? その部分マジでお前がなにいってるのかわからん。
国会でやらなくてもいいよ。検察が逮捕なり任意同行なりしろ。これじゃ通じないのか?
あと野党議員がそれをやるのはワイドショー対策の正義ごっこじゃないのか?
>そのプロセスが要らないというのは国民主権と民主主義を真っ向から否定することになるね
良いことを言ったな。
全くその通りだ。いま世界中でそういう否定がムーブメントになっている。トランプ旋風とかそう。
なぜなら民主主義が無能でなんの役にもたってないように見えるから。
「民主主義否定だから悪ですよね」なんて時代は10年代と共に終わった。
お前はそれを言うためには、民主主義がいかに役立っているかを述べねばならない。これは困難な仕事だよ。
>別に立民や共産その他の質疑に対案的な中身がないわけでもない
そうなんだよ。
https://anond.hatelabo.jp/20201119102004
人生無理バーには行ってないけどそういうやつらの気持ちはわかる。つい最近まで再就職の支援施設でこういうやつらの面倒見てきたから。
この手の連中はねー。ほんと厄介だよ。
本当に助けてくれる人って陽キャだとか力がある人だってのはわかってても陽キャ怖いから、自分に近い人のほうが安心できてそっちに行ってしまうんだよ。
あとねー。こういう人生無理って言ってるやつに限って無駄にプライドこじらせてるから助けを求めてるくせになかなか腹をみせないわけ。こういう連中ってほぼ例外なくTwitterやっててさ。何人かの人間は確認させてもらったことあるけどTwitterだとめっちゃ偉そうなんよな。見せてくれなかったやつらはたぶんうちの施設の悪口とかめっちゃ書いてるんだろうな。
自分を脅かさない、なんなら自分がマウントできるような弱い相手がいて
その弱い相手がどうやるのかはわからないけど自分を甘やかしながら自分を助けてくれる
あほかって思う?俺もそう思う。でも本当にこういうあほがいるんだよ。だもんで助けを求めてるくせに、職員の中でも弱くて力がない側の方に寄っていく。だからこっちとしてはそういう弱い方にすりよろうとする人は意識して俺とかが首根っこつかんで引き離すとかやってんの。
人生無理バーの人はそういうガチで人生無理な連中の人間理解が浅すぎるんよ。
大げさに人生無理って言ってたけど自分たちはあくまでちょっと生きててつらいとか愚痴りたいとかその程度の軽い気持ちだったりってあるあるだよね。その程度の軽い気持ちで人生無理って看板を掲げて、本当に無理な奴らが来てむりむりかたつむりーってなって慌てて出禁処理とかやってしまったんちゃうかな知らんけど。
そういうまともな人たち同志の、発達障害いうても程度が浅くて頑張れば日常生活遅れる程度の人たちがさ。人生無理みたいな大げさな言葉を使って、本当に人生無理な人の存在を覆い隠そうとしてるのはむかつくよな。あげく、人生無理な人がその言葉につられてやってきたら排除とか頭の中お花畑すぎるだろってな。一時期騒ぎになってた文化の収奪に憤る気持ちってこういうことかもしれんな知らんけど。
https://anond.hatelabo.jp/20201119133721
上からの言い方に聞こえたらごめんけど君の言ってることすごいい線いってる。
こういうやつらってDV気質が多いねん。たぶん本人の問題というより周りの環境がそうだったんやろな。
こいつらは力がないから女性に対してすら強く振舞えないだけなんよ。むしろ、強くふるまわなければいけないと思い込んでるけど強く振舞えないから自己否定とか自己嫌悪してる始末なんよ。
上でTwitterの話したけど、弱いからおとなしくしてるだけで自分で自分を律するって訓練がほとんどできてへんねん。誰も見てないところではいっつも悪態ついてるし偉そうにしてるよ。だから自分より弱い奴とか甘やかしてくれるやつがいたらすぐ調子に乗るねん。で、こっちが叱ったらシュンとするけどそこで反省する奴としない奴が半々くらいかな。
面倒見ててうまくいくやつって、そうやって相手より強くなくちゃいかんとかつよく振舞わなきゃいかんみたいな他人と自分を比べるのをやめて自分で自分をちゃんと律することで自信をつけられるようになるやつなんだわ。すごい優秀な子で半年以上かかるし、平均すると1年半くらい時間化かかる。んで、2年かけても3割から4割の人たちはなんも変わらんまんま。そういう世界なんよ。
この手の連中は死ぬほど手間がかかるから人生無理バーみたいな単発イベントなんかで扱えるような奴らじゃない。そういうやつは最初から排除してもいいで。これは差別と違って素人には絶対無理やから。無理に対応するよりは最初から無理ですって白旗上げたほうがええわ。 キャパシティ越えてるから無理なんですーって言えばいいねん。そこで発達障害の男性がーって相手のせいにするのはあかんで。なんちゃってでやって、自分の思った通りにならなかったからって発達障害男性への風評被害をばらまいたのは感心できんかな。
お金取ってやりたいっていうなら、ちゃんと勉強して真剣に考えてでなおしてきてほしいわ。
https://anond.hatelabo.jp/20201119154225
そんなことないって。 こういうのって介護と一緒で普通の人には厳しいからさっさとプロとつながれば希望が見えるぞ。
上に書いた文章でこういうやつらを冷たく見放してるように思わせちゃったんであればごめんやけど、俺自身は半分くらいの人間はなんとかなる思ってる。
実はこういう人生無理って思われてる人の支援は国も結構大事だと思ってるらしくて、お偉いさんがプログラムって結構頑張って研究してくれてるんよ。
職業リハビリテーションに関して4年前にかなりしっかりしたプログラムを作ってくれてな。
今ってSSTのトレーニングだけじゃなくて、パートナーと組んで二人三脚で頑張るような仕組みもあってこちらも頑張ってやってるのよ。
今までだったら3割くらいが社会復帰できれば御の字だったんだが、今だと過半数くらいの人間がサポート付きなら仕事できるようになりつつある。
仕事ができるってことは、最低限のコミュニケーションがとれるようになるってことでこっちの方が大事だよな。
半分の確率が低いって言われたらそれまでだけど俺的にはすごい希望持ってる。以前が3割以下だったことを考えれば今後はもっと改善するかもしれないやろ。
俺が上で書いたやつはその中でもどうしようもないやつらの特徴だな。
どうしてもDV気質が強い、なんとかして周りにマウント取らないと生きていけないって思いこんでるやつだけは今のところどうしても改善しない。
誉めてもだめだし叱ってもダメ、トレーニングを受けること自体が屈辱って思ってるしとにかく事実を受け入れない。
なんでも自分を正当化するために事実を捻じ曲げてしまうようになっちゃったやつだけは今のところどうしようもない。
そういうところは親が親で甘やかしたり他人と遠ざけようとして家の中に閉じ込めてたりするからすぐやめちゃうしな。
いろいろ歯がゆい思いはしてるけど、人生無理のやつが立ち直る手助けみたいなのはちょっとずつ進んでる。
その人間が何とかして立ち直りたいと思わなければどうにもならんけど、その気さえあれば意外と何とかなるかもしれないから俺は希望捨ててないよ。
つい先月自分が面倒見てた38歳のおっさんから、結婚しました。自分が家庭持てるなんて信じられないって連絡もらってすっごいうれしかったわ。
大ごとになってるみたいでごめんなさい。
たまたま自分が知ってる話が出てきて普段こういう話をする機会もないからはしゃいでべらべらしゃべっちゃっただけで
人生無理バーの主催者の人を責めたいとかそういうつもりじゃなかったんだ。
そもそも事情とかよく知らんし俺はただの現場の人間だから他人様をほめたり説教なんかできるような大層な人間でもない。
なのにこういう取り組みをやろうとしてくれただけでありがたい話だってことを言ってなかったから責めてるみたいになってた。
そもそもタイトルが悪かったよな。他の人へのリプのつもりで軽い気持ちで書いちゃったけどこんなに読まれるなんておもってなかったから深く考えてなかった。
俺がいっていいのかわからんけど、人生無理バーの人を責めることはないようにお願いしたい。
鉄腕アトム「透明巨人の巻」という話がある。若き天才である花房博士が物質伝送機のせいで、ウサギ、魚、ロボットの融合した怪物になってしまうエピソードで、「ハエ男の恐怖」が元になっている。その最終部で、博士が悪党を罰するために物質伝送機であちこちに飛ばしてヒーヒー言わせるドタバタがあるが、その中でラインダンスの真っただ中に飛ばす。悪党どもが冷や汗をかきながら一緒に踊ってごまかす横で、レオタード姿の女性が並んでいる。
また、これはどこで読んだのか忘れたのだが、手塚治虫が宝塚劇場を訪れ、レオタードというか舞台衣装の女性に囲まれて興奮のあまり卒倒しているコマのある漫画があったと記憶している。
つまるところ、こういうスカートやレオタードのラインダンスは宝塚が起源なのだろうか?
まずは基礎的な情報を手に入れるために、ウィキペディアで「ラインダンス」を検索した。すると、意外な事実に行きあたった。
ラインダンス(Line Dance)とは、ダンスフロアに整列し、全員が一斉に同じステップを踏むダンス。主にカントリー・ミュージックやポップスなどの曲で踊られることが多いが、音楽ジャンルに特に限定は無い。
また日本ではポンキッキーズという番組で知名度を上げている。本番組の場合では、主に小中学生の女子は椅子を一列に並べた状態で、ポンキッキーズれていた[ママ]曲や洋楽を流しながら座ったり立ったりしてラインダンスを行う形だった。それに加えて普通のダンスを混ぜて行う為に非常に難易度が高かったが、成功すると非常に見た目がよく、放送当時はこのダンスを学芸会や体育祭で取りあげる学校も多かった。
ひらけ! ポンキッキ!から視聴していた自分のような人間からすると非常に懐かしい。しかし、あの女子たちの踊りは確かに脚を上げるものではなかった。
それならば、あの踊りの名前は何か? 散々探し回った結果、次のことが分かった。横に並んで脚を上げる踊りはロケットダンスと呼ぶそうだ。なるほど、このキーワードで探すとたくさん見つかる。リンクが多いと投稿できないので、冒頭のhを抜く。
ttps://www.youtube.com/watch?v=4i7y6XE7sz8
ttps://www.nicovideo.jp/watch/sm31659056
ttps://www.youtube.com/watch?v=fVewBno93RA&list=RDfVewBno93RA&start_radio=1&t=137
名称は、米国のダンスカンパニーロケッツからだろうか?(後ろの男性諸君の笑顔がいい)
ロケッツは、1925年にセントルイスで、「ミズーリ・ロケッツ (Missouri Rockets)」として結成された。創設者のラッセル・マーカートは、1922年にブロードウェイの「ジーグフェルド・フォリーズ」で見た「the John Tiller Girls」(英国のダンス・グループ)にヒントを得て、「もし、もっと背が高くてもっと脚が長いアメリカ人の女の子たちに、複雑なタップダンスと目の高さのハイキックをさせることができたら...イチコロだ!」と確信した。
だが、ここから名前が来ているとすれば、ラインダンスはフレンチ・カンカンではなくアメリカ起源ということになる。
第二次世界大戦終結後の1946年に、宝塚音楽舞踊学校を宝塚音楽学校と改称し、4月22日から宝塚大劇場で公演を再開した。再開第1作は『カルメン』『春のおどり』の二本立てで、大戦中に入団した計3期69名がラインダンスを披露した。
とある。ここまでは想像がついた。宝塚ではなく松竹のであるが、おおよそ同時代の写真がある。
1927年、岸田辰彌が欧米遊学から帰国。岸田はこの経験を活かして、日本初のレビュー『モン・パリ 〜吾が巴里よ!〜』を日本人の世界旅行記をテーマにして制作する。同年9月1日から上演され、画期的な内容で大ヒットを記録した。主題歌レコードがヒット、当時としては露出の高い豪華な衣装も話題となった。ラインダンスを初めて演目に取り入れ、16段ながら(現在は26段)大階段も登場した。以後、少女歌劇のレビューに欠かせないものとして定着する。
つまり、ラインダンスは1927年にまでさかのぼるのだ! 実際問題、当時としては露出の高いと書かれているが、それがどの程度かはよくわからない。ウィキペディアに写真はあるが不鮮明だからだ。歯がゆい!
しかし、1930年の「パリゼット」の写真はあった。確実なことは言えないが、ほぼレオタードだ。日本国内で初めてバレエが演じられたのは1911年の帝国劇場であり、レオタード的なものに対する抵抗は、わずかながらも減っていた可能性がある。
今まで、同じ少女歌劇団としてこの二者を併記したが、それぞれカラーは大きく異なる。長くなるが、「松竹歌劇団」の項から引用する。
宝塚歌劇との比較では、松竹歌劇の方がよりスピード感と大人の男性の嗜好(色香)を優先した演出を行っていた。これは片や下町の浅草、片や山の手の日比谷(東京宝塚劇場)という、両者が拠点とした土地柄の違いによるものともされるが、前述のように、東京松竹が発足する以前から、松竹レビューの基本要素には「エロティシズム」が含まれていた。青地晨は次のように述べている。「昔はズカファンにとっては松竹は下品でみられなかったし、SKDファンには宝塚は気取って鼻もちならなかった。だが、二派に分れてシノギを削るほど、本質的な違いはなかったにせよ、宝塚と松竹と、それぞれのカラアと伝統があったことはいうまでもない」。戦後の占領期には松竹・宝塚両方を取り上げる雑誌が複数刊行されており、ある程度観客層の重複もあったとみられるが、戦前からのファンには、両方を愛好するファンを「節操がない」と批判する向きもあったという。
こうした説を補強する、次のような画像がある。
1932年、松竹の「らぶ・ぱれいど」公演の様子。 明確にレオタードを確認できる。
スポーツ新聞ではラインダンスを撮影するとき、たいてい脚を上げているところを映しており、これってどうなのか、と思わなくもない。最近、女子スポーツの写真をことさら性的に撮影することを阻むため、JOCが対策に乗り出すことにしたそうだ。いいことだと思う。女性がスポーツを思い切り楽しむとともに、写真を撮る楽しみも守られるよう明確なガイドラインを望む。それと同時に、スポーツ新聞のこういうチアのアンスコばっかり撮っちゃう傾向にも一定の歯止めがあってしかるべきだろう。ついでにノーバン始球式という表現もギャグが滑っている気がする。
しかし、自分も同罪かもしれない。ある程度読んでもらうためにはタイトルを工夫せねばならず、レオタードで読者を釣ってしまっている。
上記の松竹歌劇団の動画が含まれているリストをたどっていると、驚くべきものを見つけた。
https://www.youtube.com/watch?v=BVKkNAf1ruI&list=RDfVewBno93RA/
なんと、1940年代にはすでにチアの見せパンのようなものが存在していた! こうなると、見せパンの歴史はサーカスの衣装などにまでその調査を広げないといけない。もっとも、これは見せパンなのかスカート付きレオタードなのか判然としない。一瞬お腹は見えてるけど……。
英語版ウィキペディアのshortの項には、bun huggers(ショーツみたいなブルマー)について次の記載があった。
In 2008 it was noted that the International Volleyball Federation used to require that female volleyball players wear such garments while playing.
なんと、ブルマータイプの衣装の強制が21世紀になっても行われていたのである。にわかには信じがたい。以前にはビーチバレーの衣装の強制について調べたが、問題はここにもあったのである。
さいわい、こうしたことは昨今になって改善され、好きなものを着ていいことになった。動きやすいようにショートパンツが多いが、ブルマーが強制されなくて本当に良かった。
僕はブルマーが好きだ。だが、強制は大嫌いだ。ブルマーが好きなら嫌がる女性にはかせて喜ぶなどもってのほかだ。
それとは別に「Short shorts」と呼ばれる短パンがあることも知った。自分が以前の記事で1930年の The Women’s League of Health And Beauty=The Woman’s League of Health and Beautyのブルマー風のものやナチス時代にブルマーにカウントしていたのはこれだったかもしれない。やはり写真だけではわからないことが多いが、念のため訂正しておく。ブルマーの世界的な分布についても、再考を要する。
今回は、フレンチ・カンカンへの興味から派生して、ラインダンスについて調べた。1930年代にまでさかのぼることが分かったが、それがフレンチ・カンカンからの影響を受けているとはっきり示すには至っていない。彼がパリにいたのは名高いMistinguettが活躍した時期のことで年代に矛盾はないが、証拠は不十分である。
また、追加調査により、ブルマーや見せパンの広がりの年代がかなりずれる可能性が見つかった。今後も調査に役立ちそうなキーワードが見つかり次第、記録していきたい。
人間の性格ってほとんどは精神的な利益のために最適化されて決まってるよな。
精神的な利益ってのは楽しいとか、いやな思いをしないとか、辛くないとか楽とかってあいまいな定義だけど。
具体的にどう最適化されるかは個人で全く異なるけど、その基礎は子供の時に作られたと思う。
顔が悪いとか頭が悪いとかの欠点に対する攻撃から自分を守るために最適化された奴
出来ることを必ず認めてくれる人が必ずいて、褒められた結果、うれしい・楽しいを最大化するためにトライ&エラーや挑戦をすることに最適化された奴
強者的な立ち位置にいて、弱者を踏み台に力を行使して、ひたすら楽しむことに最適化された奴
でも、大人になってから、金銭、地位、愛情、名誉とかを自分が獲得する上で最適な振る舞いってのを知っても、性格に反して完璧にこなすのはなかなか難しい。
つまり、よっぽどの体験(痛い目かおいしい目に合う)がないと大人になってから性格は変わらなさそう。
精神的な利益に囚われて、瞬時に自明な現実や予測に基づいた最適な振る舞いの実行、性格の変容を行えないってのは歯がゆいものだけど、それが個性ってのを形作ってるのかな?
逆に、精神的な利益に囚われないで振る舞いを瞬時に変えて実行できるのが普通だという性格もあるかもしれないけどそれは凄い才能だと思う。
とりあえず言いたかったのは、私のような取るに足らない精神的な利益の最適化による性格を変えるには、痛い目にあってフィードバックから少しずつ性格を変えていくしかないのかなぁというぼやきです。
最近の俳優の自殺を通して感じることは、「やじろべえ」みたいだなということ
危ういバランスで自分と役を、日常と非現実を、生と死との行ったり来たりは、やはり負担が大きいのだろう
繊細で職人気質で自己肯定感が高めにくい人ほど、その支柱は細くて緻密だから、何かの拍子に脱力しバランスを崩す
自分のいる業界でも「どうしてこの程度のクオリティの仕事を自分の仕事だと公表できるのか」と感じるケースに遭遇する
言わないよりも言った方が次に繋がるだろうし、批判や陰口を受け止める心の強さが自信に変換されるのだろうが、見ていて悔しく歯がゆい
という話を、ビジネスで繋がったまったく別の業界の方に話した時に「増田さんが過去の仕事を公開していないのは、もっとやれた、まだまだ突き詰めることができたという満足していない証拠」と言われ腑に落ちた
続けて「満足できないということは、それだけ目標が高く、向上心があるということ」とも言われ、この言葉は挫けそうにになるたびに心を支える柱の一つになった
生きる希望がありません。
ですが、そもそも児相で働いていると普通に結婚して子どもを作って幸せに生きていくのがどれだけ難しいかを実感してしまいます。
以前南青山に児相を建設するということで周辺住民が反対する騒動がありました。反対派の意見の中に「児相に入所している子どもが南青山住人の生活を見て格差を感じてしまうのでは」というものがありました。
なぜ虐待を受けている子どもは貧しい暮らしをしている、と決めつけているんでしょう。
貧困家庭でいわゆるネグレクトが発生することは当然あります。ですがわたしが働いている中で接したケースには立派な一戸建てに住んで、両親ともに働いて稼ぎもよく、親子ともに綺麗な服を着ている家庭もたくさんありました。それでも虐待は起きます。体にあざをつくり家から裸で締め出されて親に罵倒されている子どもたちに貧富の差などありません。
普通の家庭、いや幸せそうな家庭でも虐待がおきる。加えて、虐待家庭にはDVもある場合がかなりあります。そんなケースばかり見ていると未婚のわたしは結婚し、子どもを育てることが怖くなりました。
自分も子どもを虐待するのではないか?配偶者に暴力をふるわれる、もしくは暴力をふるってしまうのではないかと。
虐待の定義は広いです。今年4月から、児童福祉法改正によりしつけによる体罰も禁止となりました。
正直に言うと、全く虐待をしていない家庭などないと思っています。
例えばお子さんが悪いことをした時に頭をぱちんと叩く。このくらいはどこの家庭にもあるのではないでしょうか。でもこれも定義上虐待になります。
また、虐待のなかで特に多いのが心理的虐待ですが、この中には「夫婦喧嘩を子どもに見せること」も含まれます。子どもの前で夫婦喧嘩した時点で虐待になります。
あと性的虐待。勿論子どもに性的行為を行うことは虐待ですが、子どもに夫婦の性行為を見せたり、AVなどの性的なものを見せることも性的虐待に当たります。
子どもが少しでも嫌だと感じることは基本的に虐待になります。親御さんからしたらあまりに窮屈だと思います。子育ての難易度がたかすぎる。
児相も親御さんが「こんなことが虐待になるの?」と言いたくなる気持ちはわかるのです。でも虐待だと言わなきゃならない。当然親は反発する。これがしんどかった。
わたしはメンタルの弱い人間だったので、親御さんや関係機関の言い分を真に受けてしまい、言うべきことが言えませんでした。そしてうつになりました。
児相で働いている皆さんも同じような思いでしんどい中で働いています。でも児相は行政機関なので、できることに限界があります。みんな歯がゆい思いをしているのです。
昨今の痛ましい虐待事案で児相への風当たりはつよいです。児相に全く責任がないとは言いませんが、児相で働く人間も必死でやっています。
https://twitter.com/TakahashiFumiy3/status/1299262880961892353?s=20
安倍首相、最後の記者会見でようやく等身大の、自分の言葉で回答をしていると感じる。
司会が記者の質問に「何が聞きたいのか?」と突っかかっても、「いいです、いいです」と応じる安倍首相の姿なんて、今まで想像することさえできなかった。
今までの国会での森友・加計問題、桜を見る会などの諸問題に受け答えをする場面では、不誠実で意味不明な答弁に終始していた。
それが、これまでのような責任ある地位から離れる辞任の会見において自身の言葉を扱えるようになっているということは、
総理大臣の地位も結局は神輿に近く、次期以降の首相においても似たような腐敗を働けるシステムが構築されているということを示唆している。
それが自民党なのか、野党含む政治家全体なのか、官僚機構なのかは分からないが、
『早生まれの不利は大人になっても続く』という見出しの記事が最近話題になっていた。
高校入試の偏差値や所得にも影響しているという記事で、統計的に3月と4月で偏差値が約4.5違うというものだった。
6歳になりたて、小学1年生の入学時には身長が109センチ。趣味はスーパーファミコンとドラゴンボールZのビデオ視聴。
好きな食べ物は近所のかっぱ寿司で食べるお寿司。おじいちゃんが大好き。
すでに当時、幼稚園に置いてあったひらがなの書き取りが苦手で、勉強するために行く学校に不安を持っていた。
ひらがなの書き取りより一人でスーファミをするか、読めないゲームの取扱説明書を眺めることのほうが好きだった。
小学校へ入学するにあたって、家で何かドリルをやらされたりということはなかった。3つ下の妹が1人。
小学校1年生の2学期後半、もしかしたら自分はやっぱり勉強が嫌いなのかもしれない。と初めてハッキリ感じた。(当時は苦手、というより自分は勉強が嫌いかも。という感覚だった。)
そう感じたのは1年生が使う「さんすうセット」から卒業した時だった。
今まで視覚的にすうじを追っていたのに急に文字になった途端混乱した。1~5までの数字の計算なら頭の中におはじきを思い浮かべその数を数えた。
5以上が出てくると考えるのもしんどくなり、鉛筆が止まるようになった。隣の席の子を気にしながら指折り数えた。
しかし学校の授業は進む。どんどん進んでいく。そのうち先生がクラス内の学力差に気づき、わからない人が居たら遠慮なく声かけてねと言ってくれるようになったが
職員室は入りづらく、先生も大抵居ない。2度ほど先生からクラスの勉強についていけない子達に声をかけて補習が行われたが、自分から声をかけることはほとんどなかった。
当時にしてみれば、先生は忙しそうに見えたので時間を取らせるのもなんだか悪い。とも思っていた。
そんなことを考えるものだから、授業中にわかりません。と言うことはまず無かった。授業中、自分だけわからないことが怖かった。
体育。一番小さいサイズの体操服を着て走り回り、1年生になって初めての健康診断が行われた後、背の順で並ぶと一番前になり、前へならえでは小学校6年間一番前で手を腰に当ててふんぞり返っていた。
夏のプールでは一番浅瀬で泳ぎ、先生達には常について回っていてもらっていた。
学校行事に「持久走大会」というものがあった。1年生は校庭を3周。
今でも当時の録画を見ているかのように覚えてる。150人ほどいる学年でビリだった。
ビリから2番めからも相当離され、残り半周を学年みんなが、そして親御さん達が全力の声援を送る中。
顔と耳を真っ赤にしながら腕をめちゃくちゃに振って走った。親と仲がいいA君のお母さんなんか名前まで叫んじゃって。
恥ずかしかったし悔しかったし辛かった。達成感はほんのちょっぴりで、もう2度とこんなことしたくないと汗まみれになりながら思った。
得意と言える科目も特になく、ぼんやりと授業を受けるようになった。
もうすでに躓いてわからない科目は聞いているだけだったし、授業の後半に配られたプリントは授業中に解き切ることができず提出しそこね、隠すように机の中に仕舞った。
そのうち授業中に提出できないなら無理やりにでも提出すればいいのでは?と
割り算プリントにデタラメな数字を並べて、クラスの賢い子たちと同じくらいのタイミングで先生に見せにいくも怪訝な顔をされ、突き返された。
考えて答えを割り出すことよりも、提出することに拘った結果だった。
小学5年生の頃には科目すべてが苦手に感じて自分は不出来な人なんだなと自覚していた。
国語は漢字の覚えが悪く、社会科も47都道府県がいつまでも覚えられなくて居残りをした。
音楽も練習したつもりだったリコーダーのドレミの歌はクラスで下から数えた方が早かった順位だったし、美術も風景画や人を描くのはまぁまぁできたつもりだが、立体物はからきし苦手だった。
4年生から始めたスイミングスクールの甲斐あって、高学年になったら持久走はなんとかビリから抜け出した。
中学はもうすでに小学校の時点でついていけなくなった学習状況に拍車がかかり、赤点スレスレか、がっつり赤点を取るかだった。
中学には水泳部に所属したが、3年生にもなると後輩にどんどんタイムを抜かされ、結局水泳部の中で一番遅い状態にもなった。
(書くか悩んだが案外いろんな所でやっているようなので)
中学の運動会が自分の生まれた月によって割り振られる、「春夏秋冬組み分け運動会」だった。
1年生の時に割り振られ、中学生活3年間自分は春組として運動会を迎える。
夏組・春組が強く、冬組はここ数年4位から脱却せずにいた。秋組に至っては万年3位だった。
毎年夏組と春組が接戦を繰り返し、最終的に毎年夏組が優勝をさらっていく。
夏組に割り振られた6月生まれはガッツポーズをして喜び、その学年の生まれの割合から冬組に割り振られた10月生まれは先生に詰め寄り、春組に割り振られた人たち同士で3月生まれか4月生まれかの確認しあいっこが始まる。
秋組に割り振られた人たちは特段リアクションは薄かった。
秋組以外は今年こそ妥当夏組・秋組を狙い奮闘し、夏組は連続首位を逃すまいと躍起になっていた。
運動会を開催してみると、やはり夏組が優勝し、春組が悔し涙の2位。涼しい顔で3位を秋組が握り、終わるころにはあきらめムードの冬組がうなだれていた。
中学1年生の運動会を終えて初めて、早生まれや冬組が体力的に劣っていると体感した。
ぼんやりしがちな性格のせいで単に学習についていけないだけかと思っていたが、なるほど、早生まれはこうして遅生まれ、夏生まれとの差ができるのか。と納得したシーンだった。
今から5年前の運動会、実に30年ぶりくらいに冬組が優勝したと聞いたときはもう知っている後輩も居ないようなこの年の運動会の結果を喜んだ。
きっと当時の学生たちはそれはもう喜んだことだと思う(最下位になってしまった秋組には来年がんばれ、と手を合わせた。)
高校は公立高校へ行ったが、やはり勉強についていけなかったのと家計を助けるためアルバイトしつつ、通信制の高校でマイペースにプリントを進め、コツコツとDTPデザインの勉強をした。
高校生にもなるとインターネットはかなり身近になり、勉強がすごく苦手というと、家庭教師を志望しているネットの友人が声をかけて勉強をSkypeしながら見てくれたりと、本当にちょっとづつ勉強を再開したりした。
通信制の高校へ通いだしてからはかなりストレスなく勉強できるようになり、自分の進行度で確実に学ぶことができたのが嬉しかった。
正直今でも変わらないが、答えを導き出すために考えるということがすでに苦手で放棄するようになってしまったのが今となってはもったいないなと思う。
もちろん、小学生当時の私に考え続けるという根性がなかったことも問題の一つだったのかもしれないが、早生まれがどうして不利を背負い続けてしまうのかという話に関しては
適切な学習環境が必要なのではないか、と当事者の自分は思った。
ちなみに、小学校1年、2年生を担当してくれた先生は自分と同じ誕生日の美しい先生だった。
聡明で明るく、朗らかな先生が大好きだったし幼いながらも尊敬していた。