はてなキーワード: 担保とは
今回はとなりのヤングジャンプでも読める、シンマンGP2018のエントリー作品。
主人公の秘密は、ストーリーものに慣れている人が警戒して読めばすぐに見当がつくから、前半すぐに明かしたのは割り切ってるなあ、と思った。
プロットとしては、読み切り作品だと定番な「隠された力を持った主人公が、土壇場になって奮起する」みたいな話。
その隠された力が、敵側の力だっていうのも今日び珍しくないかな。
本作はそのことについて前半であっさりと明かされる構成だから、どちらかというと主人公がそのことで葛藤するのと、取り巻く環境(世界観)について楽しむ感じだろうか。
主人公の葛藤については、死が怖いからというよりも、周りからのプレッシャーや、自分の隠された力を使うことで人としては死ねない、といった具合にちゃんと練ってあるのは好印象。
ただ、まあ、話の軸となっているのが主人公の葛藤になっているのは良くも悪くもって感じだなあ。
結果、他の鬼殺隊の活躍する描写が皆無に近くて、妙に設定とか作りこんである分、無駄な情報を羅列された印象を与える。
話の構成上、善戦させたらダメだってのは分かるし、前半で語られた背景と齟齬があるわけでもないけれども。
まあ、批評とかそういうの抜きにして、単純に今回の企画を楽しむ(期待する)上で、エントリー作品のレベルの高さを見せるスタートダッシュとしては申し分ないと思う。
タイトルで察しがつくけれども、いわゆる“ナントカ系女子○○さん(ちゃん)タイプ”の漫画。
常識人の男子と、特定の知識やスキルに特化した非常識な女子が主役ね。
プロットの都合上、絵の動きが少なくなりがちだから、主役の女子に「サバイバル」という要素を付与したのは良い判断。
おかげでアクションシーンを描く理由が出来て、作者が画力をある程度見せることに成功している。
女子が披露するちょっとしたウンチクとか、奇抜な言動によって発生する嬉し恥ずかしのイベントとか、コレ系の漫画の要所は抑えているし。
強いていうなら、主役の鯖井の言動がやや悪目立ち気味かなあ。
作中での主役、目立たせるのは女子のほうってのは分かるんだけれども、男子が紋切り型の巻き込まれ役って感じなのもマイナスポイント。
まあ、全体的な印象としては、作者の力量を見せつつ無難にテーマをこなしたかなあって印象。
うーん、こういうのって判断に困るなあ。
本作がシンマンっていう、「連載権をかけた賞」という土台に乗ってなければ、もっと評価したいんだけれども。
なにせシモ・ヘイヘを題材にした漫画って時点で、話の骨組みとしての面白さ自体は担保されているわけで。
素材が良いから、作者がよほど無能でもない限りは、そりゃ面白いだろうっていう。
本作のストーリーが面白かったとしても、それは作者の手柄だとは言い切れなくなる。
もちろん表現力とか構成力とか、そういったところでの評価は出来るけれども、そこと完全に切り離すのって難しいよね。
題材選びも含めての作家の実力と割り切るなら、まあ面白かったかなあ、と。
絵やコマ割、演出などの表現力の面では小奇麗でもそれだけって感じだし、テーマもそこまで深くないしね。
ただ、感想書くときに改めて読み直してみると、中々にあなどれないとも感じた。
話は主人公とヒロインの学生生活での表面上の関係性と、プライベートでの秘密の関係を対比させつつ描いている。
で、この「プライベートでの秘密の関係」というのも、学生生活とはベクトルが異なるだけで同じく表面上のもの。
けれども、ここに主役同士の対立を軸にすることで、話を展開させつつ関係性が深まる理由付けをしている。
で、合間合間にちゃんと主役二人の設定や現状を説明しつつ、自分自身のポリシーや、互いのことをどう思っているか、というのも描いている。
そして最後には、二人の関係が初めの頃とは違い、少しだけだが確実に深まったことが分かる描写で終わる。
正直、ラストまでの展開は予定調和気味というか尻すぼみではあるけれども。
キャラクターの関係性に説得力を持たせる上で必要なドラマを丁寧に描いている構成力は、特筆して褒めるような作家の個性ではないにしろ、ここをしっかりこなしたことは個人的には評価に値すると思う。
金借りる為の担保は米なんだけどな。
https://anond.hatelabo.jp/20180527035719
今回は1999年の派遣法の対象業務の原則自由化について、政府がどういう説明をしてきたのか振り返ります。ちなみにこの時の質疑でも、ILOの条約批准のために、労働者派遣対象業務の自由化が必要だというような事を言っているのですが、共産党がILOに質問したら、別にそんな事をは要求していないという返事が来たとかいう去年どっかでみたような流れが。
質問者は、前なんとかさんに、ルーピーズからいつの間にかしれっと評論家にクラスチェンジして好き放題言っている松井孝治に選挙区を譲れと言われて、ブチ切れて無所属から出て落選後、引退した笹野貞子。
笹野
「(略)
そして、私が一番大臣にお聞きいたしたいのは、この間大臣と久しくお話をさせていただいたときに、大臣は終身雇用制はいい、日本にとって終身雇用制というのは本当にいい制度
だと盛んに力説したのを見て、私は正直言いますと、あれっというふうに思いました。そのあれっというのは悪い意味ではありません。やっぱり大臣っていい人なんだなと、こういうふうに思ったわけです。
この今の競争原理とかそういうのを推し進めていきますと、例えば労働基準法の改正なんかを見ますと、大臣が終身雇用制はいいというその考え方と裏腹の方向に行くんじゃないかというふうに思いますので、まず第一、大臣、終身雇用制をこの流れの中でどのようにお考えか、お聞きしたいと思います。」
「(どうでもいい事をだらだらと言っているの略)
一番大切なことは、やはりこの日本人の立派さ、自助自立の気概と、そして産業に対する帰属意識というんでしょうか、権利だけを主張せずにきっちり義務を果たしていく性格というんでしょうか、そういう日本人をつくる教育をつくっていけば私は終身雇用制というのは守れると思いますし、また、そういうふうな形で守っていかねばならないと思っているんです。(因果関係が意味わからんけど)
ところが一方で、豊かになって、先ほどもいろいろな御質問がありましたが、子供を産み育てながら保育園へ子供さんを連れていった後少し働きたいとか、あるいは子育てが終わった後また働きたいとか、いろいろな働き方の選択が豊かさゆえに出てきているということも確かにあるんです。それにこたえるのは、私は派遣職員とかパートという形態だろうと思うんです。今おっしゃっている労働基準法の裁量労働制とかあるいはまた変形労働時間制度とか、こういうものはあくまで終身雇用制の枠の中の話でございますから、その枠の中の話として労働時間の管理を働く人たちにゆだねるということなのであって、それは終身雇用制を破壊するという先生の問題提起の仕方については、私は率直に言ってやや奇異な感じを受けました。
終身雇用制の枠の中で労働時間の管理をゆだねていく、もしこれをだめだと言いまして、そして日本人の資質がだんだん自助自立の気概と権利だけの主張で義務を果たさないということになってきますと、企業は多分終身雇用制をやめて、そして裁量労働制じゃなくて派遣職員型の形をとってくると思います。すべてがそういう形になるということは私は余り感心したことじゃないと思いますので、その点はぜひ御理解をいただきたいと思っております。」
教育族らしい頭のおかしさはあるものの、表面上は、派遣はあくまで自由な働き方の1形態であり、その対象業務を拡大しても終身雇用は崩れない、あくまでニーズがあるから拡大するんだ、というつい最近加藤勝信から伺ったのとそっくりな事をおっしゃる伊吹文明。その後どうなったのかはご存知の通り。
質疑者、石橋大吉は情報労連の石橋通宏参議院議員の父親。世襲型労組候補というちょっとめずらしい例ですね。なお石橋さんは、参院厚労委員会では一番期待できる論客と思っているわらし。
「略)連合など労働組合側が非常に心配をしているように、派遣労働が常用雇用の代替となり、いたずらに拡大しないようにするための最大のかぎは、派遣受け入れ期間の制限に果たして実効性があるのかどうか、これが一番大きな問題ではないか、私はこう思っているわけであります。
(略)
そして、具体的に、改正法案では、この第四十条の二第一項ですが、派遣先はその事業所ごとに同一業務について一年を超えて派遣を受け入れてはならない、こういうふうになっておりまして、問題は、果たしてこれが現実に実効性があるかどうかが問題になるわけであります。
このことに関連して、まとめて三つほど聞いておきたいと思うのですが、まず第一点は、一年の受け入れ期間を超えて派遣労働者を用いた場合の派遣先に対する制裁をどうするか、こういう問題であります。
改正法案では、制裁としては企業名公表などの措置が予定をされているわけですが、しかし、派遣期間を限定する法制において、派遣期間を超えた場合にはユーザー企業である派遣先への雇い入れを強制される制度をとっている国、例えばドイツ、フランスもそうだったと思いますが、そういう国々が結構多いわけであります。我が国においてもそういう制度を導入することはできないのかどうか、これが一つ。
二つ目は、改正法案では、同一事業所の同一業務について一年を超えてはならない、こう規定しているわけですが、問題は、同一業務をどのように当事者及び監督官庁が特定、認識をするか、こういう問題があります。従来の適用対象業務という枠と違って、ネガティブリスト方式のもとでは企業ごとに多種多様な業務指定がされる可能性があり、また業務の境界線もあいまいとなるものと考えられるわけであります。この点も厳格にきちんとされなければ一年間の期間制限も全く無意味なものになってしまう、こういう問題があると思うのです。この点をどう考えるか。
三つ目の問題は、派遣受け入れが終了した時点からどの程度のインターバル、クーリング期間を置けば同一業務についての派遣を受け入れることも可能となるのかなどが重要な問題となると思います。期間限定の実効性が担保されるような基準を設ける必要があると思いますが、この点についてどういうふうに考えておられるか、承りたいと思います。
「まず、一年を超えて派遣労働者を使用した、その場合のいわゆる義務化の問題でございます。確かに、諸外国の例には、派遣期間を超えて継続してこれを使用するといった場合には雇用契約が成立したものとみなすといったふうな規定を設けておる例が見られます。我が国の雇用に関する法制を見ますと、(略)事業主が広く有していると解されております営業の自由、採用の自由を含め営業の自由、こういったものの保障との関係でかなり大きな問題があるのではないかというふうに考えておりまして、現行では、雇用についての努力義務を課するというところがぎりぎりのところではないかというふうに考えているところであります。
改正法案におきましては、同一の業務について継続して派遣労働者を受け入れてはいけないというふうに規定しているわけでありまして、この解釈を確定するということが、常用代替の防止を図る、厳密に運用するという点から大変大事なことであるというふうに私どもも思っております。
現行の法令におきましても、この派遣労働法関係でも、この業務という言葉はいろいろ使われておりまして、例えば職業や職種を用いて表現するものとしては秘書の業務とか通訳の業務というふうに使われていたり、あるいは具体的な行為を明記して表現するものとして事務用機器の操作の業務というふうに、確かにかなりいろいろな使われ方をしているわけでありますが、この同一の業務の解釈に当たりましては、これが常用労働の代替を防止するという観点から解釈をされる必要がある、こういった観点に立ってかなり厳密に解釈をする必要があるというふうに考えているところであります。
(略)
次に、いわゆるクーリング期間の問題でございます。(略)この問題につきましては、あくまでもこれも常用労働の代替の防止という観点に立ちまして、どのくらいの期間が適当であるか、これは、法案が成立しました後に、審議会の御意見も聞きながら検討したいというふうに考えております。
(略)
「(略、法案では)製造業における労働者派遣事業を当分の間禁止、こうなっているわけです。しかし、産業界を中心にして、製造業における派遣を解禁すべきだ、こういう意見もあるわけであります。さっきの雇用調整の問題などもそういうところに絡まってくるのかなという感じもしないことはないんですが、製造業における派遣労働が禁止をされているということは、そういう意味では産業経済に非常に大きな影響を与えている、こう思うんです。
例えばフランスなんかは、鉄鋼だとか電機だとか自動車だとか、ほとんどそういう製造業中心で派遣労働が行われておって、四分の三は男子だ、こういう形になっております。日本では、製造業における派遣が禁止をされておるということも恐らく関係があるだろうと思いますが、派遣労働の大部分が女性、こういう形になっておるかと思うんです。
(略)」
「製造業におきます派遣の適用につきましては、特に製造業の現場にこれを適用することについて、強い懸念が表明されたところであります。したがいまして、改正法案におきましても、こういった意見に留意をいたしまして、製造業の現場業務につきましては、当分の間、労働省令においてこれを適用しないこととするというふうにしておるところであります。これは、特に製造業において、今委員御指摘ありましたように、いわゆる偽装請負というふうなものがまだ存在するのではないか、こういった懸念があるために、今回もこういった措置になったというふうに理解をしております。(略)」
ご存知のように無期転換ルールが導入されるのは2012年の民主党政権まで待たねばならないし、同一業務規制は有名無実化したし、クーリング期間は2015年の安倍政権で3ヶ月と定められました。2006年には製造業派遣が合法化され、2007年には、上限3年に緩和されますね。
「今説明をお聞きいたしますと、要するに、常用雇用がいわば派遣によって圧迫されることはない、また、むしろこの今の経済不況の中で雇用の推進につながっていく、こうおっしゃっておられると理解をしております。そこで、労働者派遣事業の事業所数及び派遣労働者数、できれば男女別あるいは年齢別の、特にそういったもので突出しておるところの現状及び労働者派遣事業の総売り上げといいますか、どれぐらいになっておるのか。そしてまた、今回の法改正によって派遣労働者数というのがどの程度増加するように見込んでおられるのか、この辺についてちょっとお尋ねをさせていただきたいと思います。」
「(略)また、派遣労働者数ですが、これは平成九年度の報告でございますけれども、これによると、約八十六万人でございます。そのうち、いわゆる登録型の派遣労働者は七十万人、常用労働者が約十六万人であります。登録型の中には複数の事業所に登録をしている方もおられますので、この方たちについて常用換算してみますと、派遣労働者は平成九年で約三十四万人ぐらいではないかと思います。したがいまして、派遣労働者の実数は八十六万人と三十四万人の中にあるのではないかというふうに見ているわけでございます。
また、平成九年の調査によりますと、派遣労働者に女性が占める割合は七二・四%というふうになっております。また、年齢別では二十歳代が四〇・三%というふうになっているわけでございます。
また、この事業報告によりますと、派遣労働者の平成九年度の年間売上高は総額が約一兆三千三百三十五億円で、これは前年度比一二・八%増ということになっておりまして、平成六年度以降増加傾向にございます。今回の改正によりまして派遣労働者がどの程度ふえるかということでございますけれども、現在は二十六業務のいわゆる専門的業務に特定しておるわけでありますが、これを広く拡大していくということになります。ただ、これは、そういった面では増大要因でありますし、また、従来の派遣と違いまして、あくまで臨時的、一時的な一年間の限定をつけるということでございますから、これが正確に今後どのくらい伸びるかという予測はなかなか難しいのですが、そう急激にふえることはないのではないかというふうに見ております。」
「急激にふえるということはない、こうおっしゃっておられますが、この改正によって幅が広くなる、二十六業種以上に広くなってくるということになると、当然、派遣先がふえてくるわけでございます。ならば、業者数も当然ふえてくると思いますし、また業者さんも、それによるいわば労働者確保というものも当然ふえてくる。したがって、そうふえないのではないかというよりも、私は、急激にこういったものがふえてくる可能性がある、こういうふうに理解するわけであります。
そうすると、ふえてくるということになりますと、今度は派遣先の問題になります。派遣先は、極力安い賃金で雇えればその方がありがたいということになるわけであります。過剰の労働者を抱えている業者としてはできるだけそれを送り込みたいということになると、私は、これからの労働賃金というものは今のこの二十六業種の平均賃金よりもむしろ安値で安定していく可能性というものがどんどん出てくる、あるいはまた、労働条件そのものも大変悪くなってくるという可能性が多分に出てくるんでは(略」
「企業の側で派遣労働者に対する要望があるということは、これはいわゆる即戦力を求めているという要素が大変大きいと思いますし、また、派遣元事業主にとりましても、派遣した労働者が派遣先企業が要求している能力の水準に達しているということが事業の発展にも大切なことでございまして、この派遣業におきましては、とりわけ派遣労働者の教育訓練というものが従来から重視をされているというふうに考えております。
現行の法律の中にも、派遣元事業主は派遣労働者に対する教育訓練の機会の確保に努めなければいけないという規定を置いておりますし、私ども、実際に派遣業の許可やあるいは更新の際には教育訓練の状況についてチェックをするというふうにしているわけでございます。
また、今般、一時的、臨時的な分野について一年間に限って派遣労働の対象分野を拡大することにしておりますが、短期になればなるほど即戦力に対する需要という面が強くなってくると思います。そういった意味では、派遣労働者というのは、一定の能力あるいは技能水準を備えた労働者が派遣の対象になるということで業務は広がりますが、すべての人が派遣の対象になるというものでは絶対にないというふうに思っております。
そういう意味では、即戦力としての能力を備えた、安心して企業の方も使用できる、こういったことでいいますと、今般の派遣労働の拡大が必ずしも賃金その他労働条件の低下につながっていくものではないのではないかというふうに考えております。」
能力の高い人が対象になって業務は広がるが、みんなが対象になるということは絶対にないとおっしゃる。またおちんぎんが低く張り付くこともないとおっしゃっていますが、噴飯物ですよね(橋本岳風に)。ちなみに5年後には全業種対象、派遣期間無制限化が実現する模様。政府答弁の絶対にならない、は無意味。さらにちなみに、そう増えないとおっしゃていた派遣労働者数は、5年で3倍近いの240万人に、10年で、5倍近い400万人近くに到達する模様。
将来への不安、死ぬ事への恐怖、結婚できるかどうかとか、そういったものだけを普通の人は「つらいきもち」として認識しているらしいことにここ数年やっと理解が至った。自分の場合はそれとはまた別の正体不明の「つらいきもち」も存在していて、これも含めて一般的な「つらいきもち」だと認識していた。みんなもそうなのかなぁと思っていたけど、違ったっぽい。これじゃ普通の人とは微妙に話が噛み合わない上に誤解されるわけだなぁと。
自分も自分で、なんでそんな斜め下の解釈するんだと腹が立つ事がよくあったけど、その「斜め下」の解釈がむしろ一般的であって、自分が運悪く例外的な経験をしてきた事で認識が違ってしまっていたらしい。
そしてこれまでは、自分のこの「つらい」の正体を正確に把握できた事がなかった。何故かと言うと、気持ちの原因を思い出すことが精神的に非常に苦痛だったため。
原因というのは家庭環境、養育環境のことで、学生時代にもこれについての問題意識はあった。
ふとした切っ掛けでスーザン・フォワードの「毒になる親」と出会って実際に読もうとしたけど、冒頭の数ページ読むだけで精神的に不安定になってしまい、結局その時はそのまま先には進めなかった。大学卒業後も同じことを4年くらい繰り返していた。
でも一人暮らしを始めて2年経ち、転職をしてという直後から半年間立て続けに起きた出来事に対処する一環としての取り組みの結果、最近では「つらい」の比較的ちゃんとした輪郭と、具体的な内容と原因が把握できつつある。「毒になる親」も最後まで目を通すことが出来たし、関連する他の書籍にも手を出せている。
自分の「つらいきもち」の正体は自分の歴史的経緯から来るものだという事が確信できた。ただ、その歴史的経緯を自分に対して現在も無意識に適用しているのは自分自身だという事も段々分かってきた。
一言で表すなら「毒親の影響」ということになるけど、もう少しちゃんと表現するなら次みたいになる。(まだちょっと分析甘い)
今認識できている範囲の話だけど、これらが自分の「つらい」のキモのように思っている。
「毒親」ってワードを使うとすぐケチ付けてくる人間がいるから面倒だし、言葉が暴力的にストレートだから別の表現が必要だと思わなくもないけど、それでもこの単語は凄く的確な表現だと思う。
幼い頃から刷り込みで自己否定などの「毒」を植え付けて、親と同じ空間におらず暴言を吐かれていない瞬間でも、自主的に自己否定を繰り返すよう教育することで、大人になったり独り立ちした頃には苦しみのたうち回り…みたいな。のたうち回るような元気が残ってる人がどれだけいるのかって話だけど。
虐待によるトラウマを除くと、毒親による影響で特に大きなものは親を自分に内在化してしまうことだと思う。これにより何が起こるかというと、自己否定をデフォルトとしてしまうことが挙げられる。
この自己否定はポジション的には超自我とかにあたるもので、本来なら自己否定なんかじゃなくて規範としてどちらかと言うとポジティブな物として機能しなくちゃいけないんだけど、親が精神的に未成熟だったり自分の人生の課題に対して答えを出せていないとかで不安定な場合は、「毒」を規範として植え付けられる結果になってしまうのかなと。
それがどのようにして植え付けられるのか、憶測込みだけど文字に起こしてみると案外悲しい感じになった。
思考するだけだとそんなでもなかったけど、文字に表してみるとやっぱりこう、悲しいというか、しょうもないというか、酷くがっかりする。
休日に少しでも長く寝てたり、病欠したり、平日に休暇を取ったりすると
とか頻繁に怒鳴られてたけど、あれは完全に自己紹介だったなと思う。当時はそう思う余裕は無かったなとも改めて気が付いた。
うちの場合は問題の中心は父親だったんだけど一方の母親は何をしていたかというと、俺をかばうどころか、フォローするどころか、傍観をするどころか、「あの人がおかしな事をするのはお前のせいだ」と罵ってくるタイプの人間だったので、自分の両親は味方ではないという認識だった。問題のある人間は問題のある人間とくっつくんだな、という気持ち。
兄弟は妹がいるけど、妹は味方というよりは共通の敵を持つ他勢力みたいな認識だったな…。
去年会って話をした時には、当時俺に対して「哀れだな…」と思っていたらしい。それは俺を庇って同様の被害を被るよりずっと利口だと思うし、去年妹と会話をして結果的に問題の改善が進んだし、妹が逞しく成長してくれていてむしろとても助かったと思ってる。「こっちに来るんじゃねえぞ、そのままいけ…!」みたいな。ありがとう。
少し前まで、どんな些細なことであっても何か考える度に最終的に「死にたい…」という結論に結びついていた。
去年あたりから「自分の親は毒親だった」と認識でき始めて、更にここ1,2ヶ月は「毒親」と濁すんじゃなくて、自分が経験させられた事を「親からの虐待だった」と自分に対して説明することができるようになってきた。
昔と比べてかなり進歩したと思う。昔ならそんな認識は恐ろしくて出来なかった。自分はそんな酷い目には遭っていないと思いたかったんだと思う。
そして少しずつだけど、自分のことを大事にするという概念が掴めてきているような気がする。
自分のことを大事にするといえば、最近また新たに気付いた事があって、これは個人的にはかなり収穫だと思ってる。近いうちに効いてくるはず。
初めの方で書いた「その歴史的経緯を自分に対して現在も無意識に適用しているのは自分自身」の事なんだけど、これについての現時点での理解をちょっと整理したいと思う。
大きく2つあって、1つ目は、この記事中で何度か出てきている「自己否定」「毒」という存在の在り方と、これがそもそもどこから来ているかについて。
自己否定が起こるのは自己評価が低いためだと思う。じゃあ、自己評価が低いのはなぜ?という話になってくる。
自分の欲求をちゃんと満たしていないためだというのはあるかもしれないけど、自分の場合はそれよりも重大で根本的な問題として、延々とされ続けた親の否定的な刷り込みの存在が強いと思う。
親から虐待や人格否定を受けることで幼い子供の自己認識は「自分は無力な人間、ダメな人間」となり、それがそのまま人生脚本となり、無意識にそのように振る舞ってしまいそのような人間になる。
それを精神的に未熟な親が自己有効感を得るエサとして利用(虐待、人格否定)し、それにより子供は更に自己無力感に陥り…という、子供にとって悪夢のような悪循環が発生する。このサイクルが「否定的な刷り込み」の実態であり、毒親が子供に植え付ける「自己否定」や「毒」の正体なのだと思う。
この強い自己否定感、自己無力感は、親が自身の無力感や精神的な不安定さをカバーするために押し付けられた親自身の問題であり、こう認識してしまうともう親に対して「ぶっ転がすぞ」という気持ちでいっぱいになる。
以前は親に対してこんな認識を持つどころか「もう人生だめだ…死にたい…」となっていたのでこの気持ちも進歩だと思う。
つまり、自分に対する自分の認識は、無意識に親の自分へのニーズを反映したものであり、自分が自分を正しく認識した上で自分に下している判断ではない。
内面化した親のニーズで自分を見ていたのだ!(強調したい部分)
「毒親を内面化してしまっている」という表現は書籍やブログで何度か見かけていて、ただ実際どういう状況になっているのか全然理解できていなかったけど、この考えに至ってようやく合点がいった。であれば、ひたすらに自己否定をしてしまうのも納得がいく。親の抱える問題を解消できない限り自己否定は続くんだと思う。
親からしたら本来親自身が頑張らない限り親が死ぬまで未達だし、親が死んだ後であっても、内面化した親(のニーズ)から見て未達なので、子供は無限に自己否定し続けることになる。
自己否定の原因を正しく特定して認知を変えないと死ぬまで自分を否定し続ける。
こんなの「毒」じゃなかったら何だっていうんだ。現代の呪いじゃん。洗脳とも呼べるのかもしれない。まぁ「刷り込み」って「洗脳」の呼び方変えたようなもんだし同じようなもんか。
2つ目は、やり場のない感情とその矛先について。
ここひと月ちょっとは、過去に親との間にあった出来事と当時の自分の感情を、出来る限り思い出して言葉として書き出すという事をやっていた。
これによって狙っていた事は、自分の意思だけでは思い出し切れないトラウマ記憶に近い時系列の記憶に迫り、文字に起こして認識することで「過去の出来事、終わった事象」として自身に印象付けようとしたのと、あわよくばトラウマを芋づるで掘り当てて、当時の自分の解釈を現在の自分の解釈で認識を上書きすることでトラウマを軽減、解消する事だった。
精神的な負荷が高いから嫌だったんだけど、EMDR以外では1人で出来るもので現実的っぽそうなのがこれしか無かったので、今の自分であれば精神的に安定している時なら回復にそれほど苦労しないと判断して挑むようにしている。
結果的にはまだ解消に至ってはいないけど、認識できていなかった事を認識することが出来た。
自分で自分の感情を無視していた事に気が付いた。これ文字にすると厨二臭くていやだな。
無視していた感情というのは、具体的にはある期間の横暴を働く親とそれに対抗できない自分に対する強い憤りなんだけど、当時の自分はストレス発散の手段を親に奪われた挙句に愛玩動物の延長みたいな扱いを受けていたので、感情を解消したり発散する機会が無い状況だった。
自分の意思を表現すると「立場を思い知らされる」ので、あまりの怒りと無力感から自分の机に伏してバレないように動物みたいな唸り声を上げたりしていた。趣味も生き甲斐も取り上げられ仲間とも断絶されて、ストレスから肌も顔も荒れ放題、耳は切れて黄色ブドウ球菌に侵されてリンパが垂れ、首筋もあかぎれのように切れてしまい、腕の皮も荒れて剥け落ちてという有様で、生きているのがひたすら苦しかった。
病院には行っていたけど、治癒のスピードよりもストレスによる身体の破壊が早くて当然なかなか治らなかった。鼓動が早くなっていて体温も通常時より高く感じていたので、自律神経失調症にもなっていたなと思う。これまでで一番白髪が多かったのもこの頃。友達からは「お前、なんか覚醒するんじゃねえの」みたいな軽口を言われてちょっと救われた。高2〜3の頃だったと思う。
これを書いていると、今すぐ家を飛び出し実家に乗り込んで、徹底的に仕返しをしてやりたいという衝動を自分の中に確認できる。この期間は同じく家庭環境が複雑な友達が支えてくれていたお陰で、問題を起こさず自分も生き延びる事ができた。その友達との連絡は今はもう取れなくなっている。まだ生きていてくれると嬉しい。
この記憶を思い出した事で付随する感情も引きずられて出てきて、この時に気が付いたのがここ数年ほとんど自分の怒りらしい怒りを認識していなかったという事で、なんというか新鮮な気持ちになった。感情が揺れ動くのがなんだか嬉しくて、ちょっとワクワクした。
「怒りを感じていなかった」というのが実は大問題だったと思う。
この怒りの矛先は本来親に向けて抵抗するために利用すべきだったものなんだけど、利用できていなくて、そして最近ありありと思い出せたという事は当時のフラストレーションが解消されず残っているという事になると思う。解消できていないのならそれを感じなくなってしまっていたという認識はおかしくて、じゃあ認識できなくなっていたそれはどこに向かっていたかというと、これはまだ検証中ではあるんだけどどうやら自分自身に向かってしまっていたっぽい。怒りの矛先が自分に向かうことで、自己否定を一層強化してしまっていたんじゃないかと思う。
「しんどいのは親に向かうはずの感情の向き先が自分になってしまっていたため」と考えてみるようにした所、体が以前よりも軽くなり、洗い物が出来ない、風呂に入るのがつらいなどの恐らく精神的な問題が急に改善されだしたのは大変嬉しいんだけど、ネガティブな側面として最近色々な事にすぐイライラするようになってしまって困った……。これは多分……親に向けるべきものが溢れてコントロール出来ていない的なものかな……と思ってる。
でもこれは創作活動に転用できるエネルギーだと期待しているので、自己否定の改善と併せて、またしょっぱいながら活動を再開していけるんじゃないかと自分には期待をしてる。
つまり何が言いたいかというと、動けない、簡単な事ができない、しんどいという状態は何かしらのネガティブな強い感情が無意識に自分に向かうことで強いストレスを生じ、そこから起こる精神的な問題なんじゃないかと思う。と書いたところで気が付いたけど、よく見かけるような文になったし、そんなに発見ではなかったかもしれない。でもこれまでの情報との紐付けができたので、これはこれで知見かもしれない。
最近の取り組みは方向性は間違っていないと思う。例え間違っていても、死ぬまでに目的を達成するためにも引き続き認知の歪みを直す取り組みを続けたい。
「やりたい事をやらないのが苦しい」のは当然だけど、「やりたい事をやるのも同じように苦しい」というのは異常だし、このままじゃ今度こそ気が触れるかもしれないので、出来るだけ早く絶対にこの状況を脱したいです。おしまい。
一人暮らしを始めて転職して、そしてまた引っ越した際には保証会社を使ったので住所を自分からは伝えていない。確認は可能らしいけど。
ゴミ親父は前々から借金していた事が去年発覚して、その際に出向いて縁を切ってきた。俺のこの先10年間と俺の収入を返済に充てたかったらしい。ぶり転がすぞ。
母親は発覚直後もほとぼりが冷めてからも、問題には触れようとしない他力本願ぶり。あんたは昔から自分にとって都合の悪い事はどんな些細なことからでも逃げるよな。いや、借金は父親の独断だからその点だけは間違っちゃいないけど自分が住んでる土地?家?が担保にされてるのにそれは無いでしょう。
みたいな状態なので、実家はもうどうにでもな~れという気持ち。妹ちゃんも脱出がんば。応援してる。
早く人間になりた〜い
マニュアル接客は、低コストで一定のサービス品質を担保するための仕組み。
安い給料でワン・トゥ・ワンのサービスを本気でやれる人なんて存在しないと思うよ。
それをもって日本的なおもてなしとか美徳としているなら勘違いだと思う。
高い金を払って、高コスト・高品質なサービスを受けたらわかるのでは。
国際線のビジネスクラスとか、五つ星ホテルとかだとそれこそきめ細かいサービスで、全然違うと思うよ。
自分は北米在住経験があるけど、日本以外だとマニュアル接客すらできない、自己流の店員が多くてマネージャーが苦労するって聞くよ。
これはファーストフードとかのケースだけどね。
自己流のサービスが顧客から高く評価されるかどうかは、本人の資質、モチベーション(多くの場合給与レベル)に大きく左右されるから、
クオリティコントロールが難しい。ただ、北米ではチップの文化があるから、それがモチベーションとサービス向上につながってる面はある。
海外からみると、日本はどこにいってもチップすらないのに、高いサービス品質を出せるほうがすごいって言われることのほうがほとんど。
思い出について語る。始めに、筆者は2014年前後からいわゆる地下アイドル界隈で仕事をしてきた。すぐに身バレするので一切詳しく書く事は出来ないが今は実家に戻り、別の仕事をしている。大体カラフルスターライトの発売前後からcheaky paradeのライブを見る機会に恵まれていた。
思えば、C.P.U!?が当時圧倒的なキラーソングとして東京近郊のオタクの間で語られていて、いわゆるチキパMIXを打つオタクをみて楽しそうだなぁと感じていた。
各社の思うところがあるにせよ、やはりいわゆる地上のアイドルとしてのプロデュースを優先するあまりにイベントを選び、出演費をとって活動するというのは厳しい部分もあるように思える。例えば、今月先月のライブイベントが合わせて4本というのは回収するとかそういう話ではない。解散の発表があったにも関わらず5月のスケジュールが白紙のまま、というのは大変つらい。
予算配分についても近年大変つらいと見てて感じていた。露骨に予算が狭まったなというのがhands up以降だ。スタジオ撮影を中心にシフトし、美術の予算も薄くなりかつてのクオリティを担保できていないように感じる。(もちろん新しいことにチャレンジしていて素晴らしいが)
この辺りからcheaky paradeのイベント出演は減りアーティストとして一度上がった形になる。かといって地上波の番組出演やグラビアといった活動が伸びている訳でもなく、別の姉妹グループで精一杯という感じだ。
とは言え、終わった話を書くのは置いておいて、今の頑張りを見てほしい。ここ最近はMVを作らずにストックされていた曲を数週間おきにアップロードしている。リリースイベントやレコーディングスタジオ、おそらくゲリラ撮影と思えるロケを行いMVを出しているが、これらのものは制作陣はほぼ無給に近いものだと考えられる。考えれば考えるほど涙が出そうになる。marigoldのPVなんて、本当にゲリラを中心にディレクターのセンスだけで最低限以上のものを作ることに成功している。
かつてイベントのラストを飾りみんなが盛り上がる曲を歌っていた彼女たちが、夢をまっすぐに歌い、仲間と離れてそれでもcheaky paradeを守ってきた彼女たちが、その活動を終える。 閉めるタイミングミスったのかなーとは思っていたがもうちょっとなかったか...
Answerなんて歌わせないでほしい。あんなに元気溌剌に跳ねていた少女たちが、狭いダンススタジオでこれからのことを歌っているなんてつらすぎる。予算規模も社内のカメラに照明レンタルで5万もかからないだろう。組織の力学でも、周囲の大人がそれでも、と頑張っているのがありありとわかってしまう。社外の人間として見れば、一連のMVの予算規模は5本で100万グロスでみたいなレベルにしか思えない。
実際にどうなのかは知ることができないのだけど、頑張ってるように見えるのでよかった。
最後の時はまだ先だけど、これから少しでも彼女たちとその関係者に幸運があることを願っている。
そしてa社のグループを応援している人たちは忘れてはならない。
それでは、赤坂blitzで会いましょう。
財務省のセクハラ被害への対応がマスメディアの批判の対象になっていて
顧問契約のある弁護士事務所に対して、被害内容を実名で届け出るようにといった部分に関して
第三者性がない機関への委託は公平性を欠くし、二次被害への懸念が拭い切れないのに「ありえない対応だ」
といった内容になってます。
なるほどその通りだなと思うし、自分はそこまで考えが及ばなかったなと思ったんだけど
一方でそう批判するマスメディア各社は、少なくとも自社でのセクハラ被害への訴えに関して
第三者機関を介した匿名性を担保した対応は既に用意されているのだろうか?とも思った。
「お前がいうな」と言いたいのではなく、マスメディア側にも必要なセクハラ被害への対応を期待してるし
もしそういった対応が未整備で自らを省みない批判であったなら、それはそれで(あくまでそれはそれで)公平性を欠くなとも思った。
まずは、差別と区別の違いは合理性の有無、もしくは合理性の包含量にあるという仮の出発点から話を始めたい。
アメリカで黒人が公然と差別されていた頃、差別をしていた白人はそれを差別だと思っていたのだろうか。
あるいは江戸時代、えた・ひにんへの迫害や、癩病患者への扱いは、支配層にとってば全く合理的な区別だと捉えられていたのである。
ここで鑑みるべきは、人の合理性認識は時代や場所によって劇的に変化しうるということであり、先述の例はその証左に他ならない。
さて、問おう。
区別はするとしたら、それはなぜ「実は差別」ではないと言い切れるのだろうか?
あるいは、自分が合理性を感じられるものは区別で、そうでないものは差別なのだろうか?
それならば、あなたのその主観の正当性はどのように担保されるのだろうか?
それならば、その2つの違いはどんなもので、その違いによってなぜ差別は批難され区別は許容されるのだろうか?
もしそうなら、そしてあなたが何らかの人的区別をしているのなら、それはどのように正当化されているのだろうか?
山月記に出てくる李徴氏のように、理由も分からないまま、ただ「差別はダメ。でも区別はあり」という世界に生きている。
諸兄の忌憚なき意見を聞きたい。
「絵に描いたようなオタク像」をサブカルチャー自体が再生産している、という点については同意。だが「だから差別ではない」という主張には同意できない。そもそも社会的に差別が存在しなければ、ステレオタイプな「オタク像」が笑いやからかいの対象として成立しないのだから、それをもって「差別ではない」というのは無理筋だ。被差別者自身が彼ら自身の中に階層を作って「弱い者が更に弱い者を叩く」構造を作り出すのはよくあることだ。その構造を生み出すのが、彼ら自身の弱さなのか社会からのプレッシャーなのかは問題ではない。これはよくある差別の一風景に過ぎない。
どうも、何か「差別=ダメ、ゼッタイ」的な低レベルな学校の人権教育からくる悪影響かとも思うのだが、「差別者=悪魔/被差別者=哀れな善人」というイメージ(典型モデル)を抜け出せない人は意外に多いのだなと思う。実際の「差別」の諸相でそんなことはあり得ない。ときに差別者が、自らの差別意識に苦しんだり差別意識のせいで人間関係を壊して悲惨な目に遭うことがあり、彼らは十分可哀想な人であったりもする。逆に被差別者がその立場を笠に着て横暴な行動を繰り返したり被差別者の中で被差別者の王として振る舞うことだってよくあるのだ。差別を考える上で、上記のような典型モデルほど当てにならないものはない。差別者だから不正なのではないし、被差別者であることが主張の正当性を担保するわけではない。
たとえば「いじめ」ももちろん「差別事象」である。そして、それが差別だということの意味は「偏見に基づいて、特定の属性や個人が、社会的に排除されるといったことも含めて不利益を被るのは不当である」ということであり、それ以上ではない。いじめの解決とはいじめ被害者の心に寄り添って周囲がそれを100%実現することではなく、いじめという差別事件を引き起こした小さな社会の構造自体を変えることである。その意味では、加害者を過剰に罰することは、たとえ被害者がそれを望んだとしても当然避けるべきである。差別は絶対のカードではない。被害者に寄り添っているからといって、それが正義になるわけではない。
「被差別者だから正しいわけではない」ことを前提とすれば、「オタク」を排除しようとする社会的偏見で「オタク」が不利益を被っていることは事実であり、それは差別に相当する不当な行為である、と言えることになる(そしてそれはおそらく主張として正しい)。ゆえにオタクは差別されている。一方で、それは「オタク」を正当な理由に基づいて批判することを妨げるわけではないし、「虐げられしオタク」が全面的に擁護されるべきだということも意味しない。差別は差別でありオタクに対して偏見をぶつける行為は不当であるが、その場合正当な反応というのは、あくまで「オタク?別にいいんじゃないの」であって、それ以上の反応(たとえば「オタク大好き」とか「オタクを救え」とか)ではない。そういうことは、倫理的に判断されるのではなくあくまで政治的に判断されるべきことだ。すなわち、社会の中でお互いに正当性を主張し合い、社会的リソースをどう配分するかを合理的に話し合うということである。
つまり、増田の主張は「差別されているとしても、オタク差別に社会的リソースを配分する必要はないのでは?」という方が正確なのではないか。それはそれで一つの主張ではある。
https://anond.hatelabo.jp/20180422073925
タイトルは酷いが一理はある。
そもそもがMeToo運動というのは、地位や名誉の有る著名人が顔出しで告発する事によって、ウソであれば全てを失うというリスクを背負ってでも名誉や自尊心を回復したいという運動だった。
そして業界内で広く知れ渡っており、告発者が一人出れば雪崩を打って次々と証言が集まるような、巨悪を倒す運動でもあった。
日本だとはあちゅうが先駆けになるのかな。彼女も顔出ししてライター生命かけて告発したよね。
はあちゅうMeTooは全体的に見て異論反論は有るだろうけれど、勇気があった事は誰もが認めざるを得ないはず。
ところが一部フェミニストにより、被害者の過去の過ちは指摘するな、被害者の落ち度を指摘するとセカンドレイプ、セクハラ案件全てに適用せよ、セクハラ被害は匿名告発オッケー等々、真実性や正当性を担保する要素を次々と除外してしまった。
更には、本人が否認している件ですら有罪認定して犯罪者扱いする過激派も出てきた。
MeTooはもはや、気に入らない相手を正義の名のもとに殴る手段「ポリコレ棒」化してしまった。
運動はテメーの感情や思想をぶつける場所じゃない。気の毒な人を助けやすくする制度設計の前段階なのだ。
「えーと あ 我々がやっていた免罪符のランダム性についてですが 第12項によると『賭博にあたる行為を推奨していない』と書かれています なので禁止もしていない と解釈することもでき」
「生活教の七戒の一つ、『営利を介した宗教活動を禁ずる』。是非が明記されていないものについては、生活教の基本信条と七戒を参考にします」
だけど、どうもニセ教祖は話についていけてない。
俺たちと同じで、聖書をマトモに読んでいなかったっぽいな。
「え それって矛盾しませんか どうして こんな曖昧な表現にするんですか」
「賭博に抵触するものを全面的に禁止すると、娯楽だったり、保険などに入ることすら広義的にはダメだとなってしまうからです。それは心身の健全さや、生活における安寧を、かえって損なうことになります」
その後も応酬が続く。
あ、このあたりのやり取りは話の構成上、読み飛ばしても何ら支障はないぜ。
「有償であることについてもそうですが、免罪符の中に“転生”という概念を持ち込んでいるのも看過できません。生活教は、原則として“今”を重視した体系であり、確証のない未来を約束するものではないからです」
「ちょっと待って 生活教は死生観について言及していない これは否定もしていないってことで 輪廻転生も解釈次第では」
「肯定も否定もしていないものについては、基本信条と七戒を柱に考えます」
「えー では 死生観については えー」
「生活教の時間概念は、基本“今”とそれに直接繋がる“身近な未来”を重視しています。免罪符は、そのどちらでもないですよね」
「でも 保険を否定しないということは 遠い未来の保証についても 否定していないのでは」
「それは“今”を生きる糧に繋がるという、可能性を考慮した場合においては、です。もし、あなたの免罪符が無料であるか、輪廻転生が何らかの補償を約束するものであるなら話は別ですが」
「うーん うーん」
「どちらも満たせていませんよね? あなたのやり方は、確証のない未来を担保にして“今”を搾取している。明らかな教義違反です」
だけど、付け焼刃ではどうにもならず、教祖に「都合のよい解釈だ」と論破され続けている。
「更に、あなたが免罪符販売の際、『主の降臨日』だとか『主の生誕日』記念だと言っていましたが、これもおかしい」
「え いや あるじゃないですか 世間でも期間限定の催しは 多少の開きは認められているはず それに生誕日や降臨日といったものは解釈が分かれ」
「そうじゃなくて。そもそも生活教に“主”といったものは存在しません。生活教は体系そのものを信仰しているため、神の存在を認めこそすれ、崇拝しているわけではないですし」
え、そうなの?
「え、そうなんすか?」
「そういえば、現象について説明するとき、いつも精霊がどうとかって言ってた気がする……」
「まあ教祖が言ってるんだから、そうなんだろう。どっちでもいいよ」
仮にも信者名乗ってるのに、そんな反応でいいのか。
こうして十数分に及ぶ応酬は終わった。
パッと見、教祖側が一方的だった形だけど、俺たちの目線では違っていた。
そこで、傍聴していた信者の投票によって判決を下すことになったんだけど、信者たちも判断できなかったんだ。
教義がどうのこうの言われても、その場で理解している人間は教祖しかいなかったってわけ。
馴染みのないスポーツ観戦の、解説を聞かされているような状態だ。
みんな、大体の雰囲気で観ていた。
「んー、免罪符を売ってた人がニワカだったのは明らかだし、有罪確定っぽいよね」
「話の流れとしては、そうなんだけど、何か普通の展開過ぎて面白みに欠けない?」
生活教の信者たちは、面白半分で入信しているから、当然この期に及んでも「面白さ優先」だ。
司法国家なんて知ったことではない世界で、道理なんてものは判断基準にはならない。
そのせいで形勢は、変な方向に傾きつつあった。
「でもなあ、オイラあの免罪符にかなり金使っちゃったから、擁護したくないんだよなあ」
だけど、ここでカジマが何気なく放った言葉が、信者たちに新しい風を送り込んだ。
「……ん? 待てよ。あいつが有罪になったら、返してもらえるんじゃないか。免罪符に出したお金」
万札つぎ込んだカジマはまだ分かるけど、小銭しか出していない他の人たちまで賛同している。
みんな、自分たちで金をドブに捨てたって認識はあるけど、実のところ後悔も未練もタラタラだったんだ。
汚水まみれになってまで拾いたくはないが、労せず拾えるなら話は別ってことか。
「投票の結果、満場一致で『有罪』となりました。免罪符を売っていた者は、自治体に引き渡された後、個人的な制裁を受けます」
みんなが、その結果に拍手をしている。
俺も同じ穴のムジナだけど、さすがについていけない。
これで、めでたしめでたし。
……でもよかったんだけど、この話には続きがある。
「生活教ではない以上、私が介入できる範疇を超えています。生活教は他の宗教をダメとはいいませんし、改宗は迫れませんよ」
釈然としねえ。
やっぱり宗教って、くっだらねえと改めて思った。
でも、くっだらねえものほど、人はなぜか面白がりたいのかも……とも思った。
年次有給休暇を法律通りに付与する会社に入社した場合半年後に10日年次有給休暇が付与され、毎年増えていくことになる。
詳しくは以下資料のとおり。6年半勤続した時点での年次有給休暇は合計101日付与されていることとなる。
http://www.mhlw.go.jp/new-info/kobetu/roudou/gyousei/dl/140811-3.pdf
しかし、世の中には入社と同時に年次有給休暇が20日分付与される会社がある。
こういった会社に入った場合、同じ時点で年次有給休暇は140日付与されていることとなり、39日分の差がついている。
年換算では6日差である。年間休日120日以下の会社は入る価値がないエントリを考えると大差だ。
詐欺の話に着目するのなら
クラウドファンディングの運営がプロジェクト実行者の信用を担保してくれない場合、
何らかの手段で信用を担保する必要があると思っています(トラブル時に仲裁に入らない、保証してくれない場合も含む)。
仰るように直接会うのも手段の一つでしょう。
ただ、詐欺をする気まんまんな相手なら会ったところで騙されるときは騙される
(物理的に距離がある場合は、会うこと自体に困難を伴うこともある)ので、
例えば、別の調査会社なりなんなりを間に挟んだり横に置くのも手(第三者に信用の担保をゆだねる)でしょうし、
あるいは過去の積み重ねられた実績から信用を推察するのもアリでしょうね(見極めに慣れが必要)。
いずれにしても、割りの悪いバクチ、みたいになるのは勿体ないので、
色んなトラブルを経つつ、プロジェクト実行者もBackerも、それなりに熟れていって
ニッチでエッジなアイデアに対する資金集めやファン醸成の仕掛けとして成熟していって欲しいな、
と思っています。