2018-04-26

差別と戦うすべての人へ

ここでは差別区別を論じ、そして問いたい。

まずは、差別区別の違いは合理性の有無、もしくは合理性包含量にあるという仮の出発点から話を始めたい。

アメリカ黒人公然差別されていた頃、差別をしていた白人はそれを差別だと思っていたのだろうか。

否、全く合理的区別だと思っていたのである

あるいは江戸時代、えた・ひにんへの迫害や、癩病患者への扱いは、支配層にとってば全く合理的区別だと捉えられていたのである

現代では上記の例のいずれも、謂れなき差別と捉えられている。

ここで鑑みるべきは、人の合理性認識時代場所によって劇的に変化しうるということであり、先述の例はその証左に他ならない。

さて、問おう。

あなたは全くどんな人をも「区別」しないのか?

区別はするとしたら、それはなぜ「実は差別」ではないと言い切れるのだろうか?

あるいは、自分合理性を感じられるもの区別で、そうでないもの差別なのだろうか?

それならば、あなたのその主観正当性はどのように担保されるのだろうか?

それとも差別区別の違いは合理性ではないのだろうか?

それならば、その2つの違いはどんなもので、その違いによってなぜ差別は批難され区別は許容されるのだろうか?

もしかして差別区別には違いはないのだろうか?

もしそうなら、そしてあなたが何らかの人的区別をしているのなら、それはどのように正当化されているのだろうか?

からない。私にはまったく分からない。

山月記に出てくる李徴氏のように、理由も分からないまま、ただ「差別ダメ。でも区別はあり」という世界に生きている。

諸兄の忌憚なき意見を聞きたい。

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