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2023-04-03

ワンピースエアプで去年の夏filmREDだけ映画館に見に行って、何となく面白いなー」という感想けが残っていたかアマプラでもう一度観てみた

思っていたよりウタがメンヘラだった 新時代とか曲調めちゃくちゃポップだけど、言ってしまえば現実から逃げて夢の中にコミットする歌だし

INTERNET YAMEROと言ってる内容大差ない

世界毒電波巻き散らしてやべー女だ

シャンクスが「俺の娘だ」言うシーンで「こいつ子供養育費払ってなさそう……」と思ってしまった

シャンクスのこと何もわかってないけど

妻子ほったらかして行き先も理由も告げずに家から姿を消しそう 普通に離婚かもしれん

残された母親養育費の未払いで昼職と夜職の掛け持ちを余儀なくされるし、子供祖父母の家に預けられて育てられる

子供は苦労と浪人の末藝大に受かるんだけど、その頃偶然シャンクスと連絡がつく

今度こそ学費を払ってもらおうと新宿居酒屋で待ち合わせをして、怒りを煮えたぎらせながらそこに行くと、ラフな格好の癖に小物はやたらと超高級品の男

いざ顔を合わせてみれば想像以上に気さくな人柄で、「大きくなったなあ」なんて感慨深く呟かれて、お金ことなんか今はどうでもよくなってしま

それで結局学費の話はなあなあに流れてしまい、彼の素性も分からずじまい

ただ顔のいい父親

完結前にワンピース全巻買ってみるかー

2023-03-28

anond:20230328103707

87 番組の途中ですが名無しです 2006/07/24(月) 01:38:51 ID:DoJob0Wz0

東大目指して浪人してる俺もニートなの?

90 番組の途中ですが名無しです 2006/07/24(月) 01:41:05 ID:5k+HJayk0

>>87

いや、それならニートにはならない。

ニートってのは、Not in Employment, Education or Trainingの略だからな。

98 番組の途中ですが名無しです 2006/07/24(月) 01:42:21 ID:DoJob0Wz0

>>90

Employment・Educationって日本語で言うとなんですか?

102 番組の途中ですが名無しです 2006/07/24(月) 01:43:53 ID:5k+HJayk0

>>98

やっぱお前ニート

2023-03-26

5chで罵詈雑言レス気質なやつが生意気にも浪人やっててid隠してるんだがそんな社会不適合者が浪人やるような金払う余裕あるのかってなんかむかつく

2023-03-25

anond:20230325185905

他にも親が大学教授帰国子女京大模試生物一位取ったのに落ちて浪人

浪人中全く勉強せずまた落ちて関関同立に進学

→全く大学に通わず中退

→なぜか美大入学して漫画描いてる女とかもいた

あとは灘高から理三受験したけど落ちて関関同立に進学

→1年仮面浪人したけどまた落ちたみたいな人もいたな

結局関関同立に骨を埋める覚悟をしたようだけど、灘生同士のような知的な会話ができないと嘆いてたわ

関関同立はまじで魔境

2023-03-22

1990年大学受験したいわゆる私大バブル経験した世代だけど

ダメ時代だったなあと思う

大学予備校高校受験生たちも……なんというか、日本大学受験はまだ未開だったんだなあと50代に突入した今冷静に振り返って思う


こういうこと言いっこなしだけど当時の試験問題総合レベルは今と比較して冗談みたいに低かったと思うよ

こういうのはスポーツと同じで時代が進めば必ずどんどん洗練されてレベル高くなるもんだから仕方ないことなんだけど、

2000年代くらいかセンター過去問を戯れに見て(特に数学2B化学あたりが)明らかにやばくなってきてるのを感じて、

共通テスト突入してからハッキリとヤバいレベルに洗練されてなおかつ難度が爆上がりしててビビったもん

それにもかかわらず有名国公立の共テやセンター合格者平均得点パーセンテージが俺の時代全然変わってなくて

「ああ、AO入試とかの推薦枠が定員の3割もなかった当時と比較して、今一般入試ってもんは明白に次元の違う厳しい競争になったんだな」

と察した

俺たちの時代はさっきも言ったように大学受験界隈が本当に未開も未開で、

たとえば受験生たちがリアル

睡眠時間7時間も8時間も取るなんて怠けてたら落ちる。そういう奴は必ず負ける」

とか

「みんなが解けないようなカルト級の難問を制する者が入試を制する」

みたいなアホ丸出しなことを平気で言ってて、

しかもそれが「ハッキリとした誤り」として訂正されることが全然いくらいには正しい情報共有(そして良質な参考書が今の比じゃないほど少なかった)が難しい時代だった

そういえば赤本青本とで早稲田国語の解答がよく割れてたな

あと日本史なんかだと

法隆寺玉虫厨子の羽の使用枚数」

とか

世間胸算用初版本の値段」

とか

志賀島金印発見した農民名前

なんかを問うクソ問題マジで出題されてた


今考えれば「馬鹿じゃねーの、そんな問題に付き合ってられっか」で丸っきり相手にせず、さっさと基礎~標準問題絶対取りこぼさないよう徹底的に訓練する以外ないんだけど、

当時の受験生たちは

「いーや、あのカルト問題だって実はどこそこ社の教科書にだけはちゃん掲載されてる情報だったんだぞ?それを捨てるのは甘え。捨てる者は落ちる」

だなんて大真面目に言う者が大半だったから、みんな無駄努力無駄努力を重ね、しか予備校などの受験産業もそれを後押しした


から詐欺みたいなカリキュラム受験塾なんかを個人が立ち上げても余裕で商売になったんだろうなとも思う

例えば、

授業なんぞしないで滝行させるとか

試験マジで何も関係ないスピリチュアル書籍読ませて感想言わせて詰めて泣かすとか

……たとえそのレベルのイロモノ予備校であったとしても

(実際、こういう笑えないほどお粗末でインパクト強い受験塾は存在していて、なおかつ年間200万とかの受講料を設定していても浪人生は押し寄せていた)


ただし、狂ったように加熱していたのは私大受験だけで国公立平常運転だった

最後1989年私大と国公立両方受験した者達の合否データを示して終わろうと思う


早稲田政経× 東大文I〇 60人

早稲田政経東大文Ⅰ× 34人

上智外語× 東京外国語大〇 72人

上智外語〇 東京外国語大× 13人

中央法× 東北法〇 11人    

中央法〇 東北法× 32人

立命館法× 広島大法〇 21人

立命館法〇 広島大法× 5人


明治理工× 東北大工〇 38人   

明治理工〇 東北大工× 13人

東京理科大工× 名古屋大工〇 70人

東京理科大工名古屋大工× 51人

         

立命館理工× 九州大工〇 24人 

立命館理工〇 九州大工× 17人


追記

自分は、私大受験バブルピークは過ぎてたとはいえ1993年慶應経済「のみ」を受験して見事に現役合格したふかわりょう尊敬している。

彼は電波少年坂本ちゃん東大受験企画に呼ばれた時や内P唯一のレギュラーだった番組黎明期なんかに慶応卒をドヤる振る舞いを許容範囲披露していたが、

あんな異常な時代慶応経済に現役で受かったという事実や自負を全く表に出さな謙虚さは同世代として凄いと思う。

一方、

現役受験の年が私大受験バブルピーク年とほぼ重なっていて、結果的一浪明治大学文学部補欠繰り上がり合格した安住紳一郎は、

その浪人期間がいかに苦しく精神的にギリギリだったかをおりに触れて語り、

今でも学歴受験ネタなら大学高校中学わずやたらめったら詳しく、

なおかつ「今でも指定校推薦組を許してない」と公言してはばからないが、

あの感じはまるっと全て凄ーくわかる。

運悪くあの当時の受験地獄に晒されることになった世代の中で安住紳一郎の「二浪明治文学部補欠合格」という結果はそれでもかなりいいほうだし、

結局東京神奈川千葉のどこの私大にも受から人生捨てたような感じになった奴は腐るほどいた。

(余談だが、

私の地元というか受験可能公立高校グループのなかでは都立日比谷が1番賢かったのだが、

当時は日比谷ですら現役時に法政合格を確保できれば同級生平均より明白に良い結果だったので

「こんな大学受験しかったんなら高校入試とき大人しく法政行ってたわ」と嘆く奴が絶えなかったという笑えないエピソードがある)

2023-03-21

anond:20230321185825

しかにここの台詞は4つ中3つおかしいな。

(1)総合人間学部経済学部比較

20年前だと自分もちょうどいたけど、経済は入るの簡単って扱いだった気がする。総合人間は難関な方。

(2)医学科やめて看護にした

上の人が言ってる通り模試全国二位で医学科やめて看護にしたというリアリティもよくわからないが

そもそも「保健」学科だった気がする。名称。今は看護学科なんか?

(3) TOEIC 220点?

TOEIC受けてないけど対策しなくても600以上は取れるでみたいな話は聞く。

「俺、浪人して経済(学部)に行こうと思ってたけど、総合人間でもまあいっかと思って」

高校の頃の模試は全国で二番だった。医学科行きたかったけど、キツそうだからやめて看護にした」

「昔は全然勉強しなかった。奇跡が起こって合格した」

「お前らまだ若いからいいじゃん。俺こないだのTOEIC220点だったぞ。大学入ってから頭が悪くなっていく一方だよ」

anond:20230321131216

ダウトやろ

総人の方が難しいぞ

「俺、浪人して経済(学部)に行こうと思ってたけど、総合人間でもまあいっかと思って」

没落した京大生の話を聞いてほしい


かつては大学生だった。今から20年前のことだ。地元公立高校必死勉強して、勉強して、勉強して、青春のすべてを犠牲にして京都大学法学部合格した。一浪だった。いわゆるイカ京みたいな京大生がたくさんいる中で、自分もその1人から脱出しようと頑張ってみたが、結局だめだった。

40歳が間近になった今では、没落というか、いや元々高い位置はいなかったのだが……今は、普通に非正規労働者をやっている。契約社員みたいな仕事に就くこともあるが、あまり続かない。1年くらいで辞めることが多い。結局、学歴って大したことはないんだよなぁ、と実社会で働くようになった今では感じる。

これから大学時代の話をさせてほしい。暗い話になる。みんなジメジメした話は嫌いだろう。だから、すぐに終わらすよ。頑張って五千字以内に収める。リアル一人称が僕なので、以降は僕でいくことにする。



入学式を終えて大学生になった僕は、どこかのマンガで見たようなサークル勧誘活動を眺めることになった。どういう風に勧誘があったか、さすがにまったく覚えていないが笑

でも、僕にはあまり声がかからなかった。ルックスはいまいちで、特にスポーツからは全く声がかからなかった。浪人生活がたたって不健康に見えたのだろうな。

文科系からは何度か勧誘された。漫画研究会とか、小説を書く倶楽部とか、山登りの会とかも見学に行ったっけ。結局、どこにも入らなかった。高校時代バリボーをやっていたが、大学部活はいわゆるガチめのところが多い。通用しないとわかっていた。

それで、大学1年生(※正しくは1回生)の時は、ごく普通に講義に出て、帰りに図書館に寄って、たまに帰り道にラーメン店を巡っていた。実家美山町の貧しい農家だったが、親が優しかったので仕送りをたくさんくれていた。月に8万ほど自由に使えるお金があった。

アルバイトを始めたのは、かなり後になってからだ。大学2年生の春だった気がする。退屈に負けて繁華街にあるマクドに応募したんだっけ。

そんな時だった。1年生の秋頃、学内であるチラシを見かけた。『みやこ音楽祭』なるものの開催案内だった。京都学生有志で集まる大学サークルで、くるりとかの有名バンドを呼んで京都音楽を発信しよう、みたいな団体だった。

チラシには第1回の文字はなかったけど、結局第8回まで行われることになった。僕の時は、西部講堂という古めかしい場所があるのだが、そこでライブをやっていた。

いろんな大学学生が集まる、しかライブイベントスタッフなんて、こんな体験は二度とできないと思った。小学校中学高校も、文化祭リーダーをやるタイプではなかった。下働きだった。

数年前のアニメだと、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』で、高校生だけでアメリカ風プロムをやろうみたいな場面があって、ゆきのんが実行委員長で、八幡が陰の立役者で、いろはす現場リーダーだったと思うんだが、僕はその現場下働きだった。

それで、みやこ音楽産業みたいな名前団体があって、そこに電話をかけて参加申し込みをした。もうほとんど覚えてないが、西部講堂付近カフェ面接があったのかな、その場で誓約書みたいなやつを書いてスタッフとして登録した。

若い人達がやってるんだろうなぁ、と思っていたら、みやこ音楽祭を立ち上げたのは20代半ばの人達だった。とっくに卒業年齢だったのだが、京大にはあえて留年をして大学看板を使っている人もいる。ハタチくらいの有志が集まって~みたいな団体ではなかった。

まあ、そうじゃないと、第1回目からくるり向井秀徳矢野顕子は呼べないはずだ。伝手があるのだろうなと察したのを覚えている。

もう想像できると思うけど、ここでも下働きだった。現場で机とか、椅子とかを運んだり、他大学へのチラシ配りとか、やはり音響機材を運んだりとか、ライブ中の警備とか、掃除とか、そういう下働きをしていた。

いろんな学生が集まるサークルなだけあって、多様性に富んでいた。僕は4年分すべて参加したけど、僕のような中核ではない臨時スタッフまで入れると軽く50名を超えていた。なんだかんだでマーケティング活動は抜群だった。もし、経営の才能がある大学生がここで活動したなら、きっといい経験になったと思う。

思えば僕は、アニメ漫画でいうところのモブキャラだった。その団体の中核メンバーほとんど京大生だったけど、中には同志社とか、立命館とか、京都産業とか、龍谷とか、いろんな人が揃っていた。

僕は京大生だったけど、4年間活動してもずっと臨時スタッフだった。そういうところには潜り込めなかった。かと思えば、才覚のある大学1年生(仏みたいな名前大学女子だった)が入ると、次の年からは中核メンバーとしてスカウトされていた。

そういう光景を目にして、つくづく自分が嫌になった。自分臨時スタッフなので、次の年も参加したいと思えば、またチラシを見つけて応募する必要があった。

それで、イベント初回の時は、その1ヶ月後には打ち上げ会があった。その会では、今の自分から見ても相当気持ちが悪い光景が繰り広げられていた。京大の近くにある居酒屋での開催で、和室座席を貸し切っていた。席の配置は自由だったけど、大体男女が別々に固まる。40人ほどだった。

ただし、主催者の方で誘導して、男女がある程度向かい合わせになるようにする。それで、京都大学学生のうち、女子と向かいになった人達が、飲み会が盛り上がっている半ばでこういうアピールを始める。※京都方言標準語に直している。

「俺、浪人して経済(学部)に行こうと思ってたけど、総合人間でもまあいっかと思って」

高校の頃の模試は全国で二番だった。医学科行きたかったけど、キツそうだからやめて看護(保健学科)にした」

「昔は全然勉強しなかった。奇跡が起こって合格した」

「お前らまだ若いからいいじゃん。俺こないだのTOEIC220点だったぞ。大学入ってから頭が悪くなっていく一方だよ」

(3/21追記コメントを受けて。以上は飲み屋での会話だから、卑屈な謙遜がかなり混ざっていると思う。会話自体は確かにこのとおりだ。

こんなノリで会話を始めて、自分の財布から京都大学学生証を取り出して、目の前の女子に見せびらかす。こんなことを彼らは四年間ずっと続けていた。見ていて情けなかったけど、かくいう自分も、隣の人に振られる格好で一度だけやったことがある。

目の前の女子からは、こんな反応が返ってきた。

「え、え、自分京大なん? リッツ(立命館大学)かと思ってた」

法学部なんですね!! すごーい」

「機材を運んでる時、気遣いがすごかったですね。警備中もずっとお客さんの方を見てた。ほかの人はサボってライブ見てたのに」

今思えば、女子は気を遣ってくれていた。こんなに恥ずかしいことを、当時は若かったとはいえ自尊心に負けてこんなアホみたいな、つまらない、人間として三級品にも等しい、救いようのない子どもじみたことをしていた。トイレの手洗器に張り付いたタンカスの方がまだ魅力的だった。

で、そんなことをしていると、向こうから中核メンバー乾杯にやってきた。すると僕の周りにいた京大生は、借りてきた猫みたいに大人しくなる。それで、女子は彼らの方を眩しい視線で見つめるのだ。目のキラキラ感が違う。

……でも、当時の僕は受け入れていた。これが正しい形なんだって思っていた。強い人間モテて、強い人間がいろいろ持っていくのは当然だと思っていた。僕だって京都大学合格した時は、中学校や高校先生や後輩から神扱いだったし、親族からもすごく褒められたし、母親は泣いていた。

でも、違うのだ。大学保証する個人能力というのは、実社会必要な力のせいぜい20〜30%だ。ほかの能力面がダメだと社会では通用しない。



結局、在学中に目立つことはできなかった。自信が持てるような体験はなかった。学業成績は中の中ほど、アルバイト先は今は亡きマクドナルド河原町三条店で、そこでは全スキルをほどほどに鍛えた。就職活動はコツコツとやって、結果は京都銀行内定した。しかし、自分という存在確信がもてないまま、あっという間に四年間が終わっていた。

銀行でのことは話したくない。嫌な思い出だし、気が付けばすごい文章量になっている。増田でこんなに書いたのは初めてだ。

掻い摘んで話すと、社会一年から地獄だった。地方支店からキャリアが始まったのだが、預金口座とか、金融商品営業がまったくできなかった。

営業としての適性がなかった。ぜんぜんだめだった。当時の成績はゼロに近かった。ほかの同期は、月にひとつ以上は契約を取ってくる。高卒で入った男の子女の子ですらそうだった。

同期に馬鹿にされて、上司には激詰めされて、居場所がなくなって、しかしクビにはならない。いっそクビにしてほしかった。京都山間部に住んでいる親には「うまくやってる」と嘘をついていた。

三年目のある冬に、メンタルが完全にダメになって仕事中に交通事故を起こした。運転中に手が震えて、ハンドル操作ができなくなった。それで免許停止になってしまって、人事との面談では……もう雇い続けることは難しい、次やったら本当にだめだ、みたいなことを言われた。クビにはならなかった。

まだ次があるのかと思った。上司からは、「お前は京大からな!! 地銀に入る京大なんか珍しいからな!! できる!! なんとかしてみろ」と何度も言われた。

結局、次の交通事故を起こす前に辞めた。退職手続きはあっさりだった。相応のレベル会社らしく、有給消化や退職その他の手続きは出社しなくても全部やってくれた。今でも感謝している。



それから坂道を転がるみたいだった。どの仕事でも2年以上続かなかった。期待していた仕事でも、やってみるとぜんぜんダメだった。先日は、市役所会計年度任用職員をクビになった。現業仕事をするポジション剪定、伐木、廃棄物処分)で募集があったので応募した。

書類選考が通って、市役所役職者が面接をしてくれた時に、「え……京大なんですか……?」と愕然としていた。自分以外に応募者が10人以上いたけど、現場仕事経験自分でも内定を取ることができた。

もうわかっていると思うが、結果は散々だった。口頭での指示を理解できず、とんちんかんな行動を繰り返して、何度も怒られて、1ヶ月も経つ頃には役職の人に呼ばれて三行半を付きつけられた。

すんません……こないな自分が言うのもなんですけど、事務職やったら……」

事務職はもうパートさんがおるさかいあんたには任せれへん」

すんません

「頑張っとるのはわかるけど、次の職場ではもっと~」

会計年度任用職員の試用期間は1ヶ月だった。こういうわけで、先日見事にクビを切られた。情けない限りだ。いや、もう僕はこういう状態に慣れてしまった。これでいいのかもしれない。

これからも、アルバイトで日銭を稼いで、スーパーで閉店近くに八割引きになっている惣菜を買って、コンビニストロング無糖ドライを買って、二級品の梅干しを入れて、ウィルキンソンで割って飲み続けるんだと思う。



最後に知っておいてほしい。学歴仕事の結果には関係がない。最近読んだ『科学的な適職』という本で、アメリカ研究学歴仕事の結果の相関係数が0.1とあった、との記述を見た。つまりほとんど関係ないのだ。マイナス相関でないところは皮肉に感じる。

そろそろ仕舞いにしよう。こんなおっさん愚痴を聞いてくれてありがとう。適度なところで死ぬようにする。いつも布団に入る時に思う、「目が覚めた時に死んでいればいいのに」って、本当にそう思う。

 ――ああ! 誰かがあの肉からあの魂を取除いてくれないかなあ!――「造物主」が何かのはずみで手違ひをしたとしか思へませんからね!

未來のイヴ ヴィリエ・ド・リラダン (著), 齋藤 磯雄 (翻訳) P.99

3/21追記 この本の引用が上の言葉の元です。こんなところまで自分言葉じゃなくて申し訳ありません。



もし若い人がこの日記を読んでいるのだとすれば、学歴仕事能力関係ないって、それだけでも心に刻み付けてほしい。そうすれば、僕のような人間を少しは減らせるかもしれない。

2023-03-20

anond:20230320214334

受験勉強本当にお疲れ様でした。

自身は大昔に浪人してなおぼちぼちの私大しかからなかったへっぽこですが返信させて下さい。

まず言えることは、あなたの父君はいわゆる毒親に分類される可能性があるということ。

ただ、父君には父君なりの苦悩があり、その苦悩を味わってほしくない、

そしてその苦悩を打ち消したいという一心からであるあなた成功を求めたのだと思います

僕の親も似たような感じでした。

親というのは自分の叶えられなかった夢を子にたくす所があります

それは今では子のいる僕もすこしは共感するところです。

もちろん、子のあなたからしたらたまったものではないと思います虐待です。しかし残念ながら親は選べません。

それでも、情熱が無いながらも、あなたセンター8割取ったのだから大快挙だと思います

自身受験で失敗し長年どこか空虚気持ちで、自分無意味だと思いながら生きていましたが、

社会に出て仕事が楽しくなりようやくその思いか解放されることが出来ました。

そこで感じるのは、人間情熱のないところではがんばれないということです。

きっともしあなたの夢が医師であったのなら、あなたの素質からすると13戦13戦だったと僕は思います

こんな赤の他人の言うことなので無責任すみませんが、

いつかあなた気持ちを切り替えて本当にやりたいことを見つけられることと、

父君の弱い部分を諦めることができることを応援しています

あなた生物学上の親はこれから評価しないかもしれませんが、あなた努力した数年間は絶対無駄ではありません。

父と、受験と、それから

 突然ですが大学を一度でも受験した方にお聞きします。あなたは何故、大学受験しまたか?なんのために受験しまたか?それは自分がやりたいことのため、自分が学びたいことのため、あるいは自分が将来就きたい職業のため、色々あると思いますし、きっとそのほとんどが自分のためでしょう。

 さて、私はここ2,3ヶ月、現役の受験生として多くの医学部を受けさせられてきました。結果もほとんど判明しており、0勝13敗という散々たる結果でした。何故落ちてしまったのかの理由ははっきりしており、演習不足の点と共通テストで8割ほどしか取れなかった点にあると考えています。それ以外の理由として、私が心から医学部に行きたいと考えていなかったという点にあると思います

 私の医学部受験の始まりは今から9年前、中学受験のための勉強が始まったときのことです。当時小学4年生だった私は、中学受験について全くの無知でした。また私は超がつくほどの田舎で、自分の市には中高一貫校がなく、県内にも4校ほどしかないようなところで育ったため、中学受験対策塾や周りにも中学受験をする人がいない環境で育ちました。そんな環境で、何故中学受験を、しか関西の最難関校を受けることになったのか。それは、私の父です。父は関西出身で、小学生の時に中学受験に失敗しています。私の父はいつも「世の中は金」「金を得るためには学歴必要」「中高一貫校を出て医者になれ」「公立はクソ」「医者以外は人じゃない」とよく私に言い聞かせてきました。それもあってか、私は父に半ば強制される形で中学受験をすることになりました。しかし、市内には塾がなく、また父も金持ちというほどお金を持ってないらしかったため、勉強については父から教えてもらいました。私の父は口が悪く、問題を間違える度に暴言を吐き、時には私を殴ったり叩いたりしてきました。間違える自分が悪いのですが、やはり辛く、小学生ながらよく自殺未遂を起こしていました。またこのような教育体制を取る父に対し、母は反対しており、毎日喧嘩をしていました。また、両親共働きでもあったため、母の帰りが遅いと父は母の職場によく電話で怒鳴り散らしてました。今思えば物覚えの悪い私と、父とは違って要領が悪く、父ほど賢くはない母にストレスを感じていたんだと思います

 それから3年後、私は第一志望であったかつて父が落ちた中学合格してしまいました。このことおいて、私は父に感謝しており、また自分も嬉しかったです。しかし、本当の戦いはこれからでした。人は突然自由を手に入れるとろくなことを起こしません。

 私は中学校に入ってから挫折を覚えました。周りには自分より賢い人、自分でこの学校に行きたいと思って頑張ってきた人がたくさんいて、圧倒されました。自分はなんのために勉強しているのか、勉強してもこの人達には勝てない、色々思うことがありました。学校の中で私は中の下で、賢い方ではありませんでした。自分ではなんとかしようと考えており、時には友達の力も借りて、勉強したつもりでした。でも、つもりはつもりだったのです。

 学年が上がるに連れ、周りは大学学部志望を決め始めました。私は父の言いつけのもと、もちろん医学部を目指すことを決め、引き続き勉強ごっこをしていました。しかし、本当にその学部に行きたい人たちはどんどん賢くなっていきます。「やりたい」という思いは、自分のそれを大きく凌駕し、私はどんどん抜かされて行きました。そんな状況下で父は私の成績状況に不満を言うだけでした。時には周りの医学部以外を志望する私の友達馬鹿にすることもありました。自分馬鹿にされるのはなれていましたが、友達バカにされることはとてもとてもつらかったです。でも反抗すると碌な目に遭わないので、私は同調するだけでした。

 私は成績状況を打破するべく、塾に通うことにしました。入塾テストは1回目は落ちたものの、2回目は友達の力を借りて受かることができました。その塾は、学校にいる人よりも賢い人達が多く、自分井の中の蛙感がより増す結果となりました。しかし、その中でも、大量の宿題レベルの高い授業についていき、成績はなんとか現状維持することができました。

 朝5時半に起きて、6時に家を出て、2時間電車に乗って、学校で授業を受け、1時間かけて塾に行き、3時間授業を受け、1時間かけて帰り、宿題をして、2時半には寝る。こういう生活を2年続けました。そこにはこれだけやったら流石に受かるだろうという慢心もあったと思います

 話は飛んで、受験期に入ります。私は父に言われた通りの大学を受けました。父は「お前が行きたいところに行け」とよく言いましたが、半ば強制されていました。年内に2校受験し、両方落ち、共通テストを受けました。そこから毎週末に試験が入るというとんでも受験が始まりました。1週間で赤本6年をこなし、受ける。こんな生活が続きました。ときには連日受験ということもあり、死にそうでした。

 最初にも述べた通り、結果は全落ち、当然の結果でした。私は13回不合格を見た影響でメンタルがぶっ壊れ、暴言暴力を振るうようになってしまいました。反省しています。こんな状況でも父は冷たく、はじめは「受験は何があるかわからない。最後まで戦うこと」と鼓舞していましたが、「すべて親のミスでした。自由にしたらいいよ」「好きに生きろ」「お前が決めたことだからお前に責任がある」「受からなかったお前が悪い」と完全に突き放しました。

 最後不合格発表があったその日、父は1つのメールを送ってきました。タイトルは「浪人同意書」。内容は至極真っ当のことが書かれており、落ち着いてみると納得行くところもありました。でも、ボロボロになった僕にはとても堪えるものでした。父は本当に人間なのか、感情があるのか。どんな不合格よりも辛かったです。その後、父は私の前に現れ「お前には医学部は無理やった」と言って消えました。

父の敷いたレールから初めて自分脱線してしまった瞬間でした。

私は父の理想人生を歩めなかったどうしようもなく、生きている価値のない奴です。

でも、どうしようもない奴なりの、最初最後の反抗を、するときが来たのかもしれません。

2023-03-17

29歳無職ラーメンを食べながら

経歴

18歳 高校卒業

19歳 浪人

20歳 東大落ち、早稲田入学

21歳 勉強

22歳 勉強

23歳 国家公務員総合職試験合格内定先決まら卒業

24歳 勉強しながら官庁訪問リベンジ無い内定

25歳 国立法科大学院入学

26歳 修了

27歳 不合格

28歳 不合格

29歳 7月に向けて勉強中、イマココ

なぜこうなったか

我が家金持ちではなかった。家は小さな戸建てでしか借家。父は中小企業サラリーマンで母は専業主婦。なぜ上記のような甘えた生活可能かというと俺が一人っ子から

俺は同じ地区に住む同い年の幼馴染が小さい頃から好きだった。彼女祖父や父は医師で、大きな自宅に住んでいた。4姉妹末っ子彼女はとても優しく、純粋で可愛かった。小さい頃は格差など気にせず遊んでいた。彼女の両親は優しかったが、彼女祖父母は俺を見下して蔑んでいた。だから勉強して偉くなりたかった。別に勉強して偉くなった所で幼馴染と付き合える保障など何も無いし、そもそも男としてすら見られていなかっただろうが。それでも某都立校に受かった時や、一浪東大落ちだが早稲田に進んだ時彼女自分のことのように喜んでくれたし褒めてくれた。それがとても嬉しかった。しかし、認められたい一心で不相応な目標を立てたが故に一度きりの人生破壊してしまった。

ちなみに彼女幼稚園から大学までエスカレーター女子大卒業した後に、父の医療法人職員として入り、昨年医師男性結婚した。つまり俺がこれからどのように努力しようが、幼馴染と何かが発展する可能性はない。

これから

正直受かったところで自分の現状だと法曹職は無理だろう。つまり仕事を探さなければならない。受からなければ勿論仕事必要になる。

絶対にやりたくない仕事は嫌な順に介護製造土木物流営業しかし、ここから探すことになるだろう。つまり父親よりも低賃金人生となる。また、ジャックレオナルド・ディカプリオ)のようなイケメンコミュ強なら底辺でもローズケイト・ウィンスレット)のような上流の女性を射止められるが、自分イケメンでもなければコミュ力もないので上記の職に就いた瞬間に生涯独身が決定する。

まり

人生100年といわれる時代上記の職に就けば100年生きるなど不可能だが)に生きていながら、20代人生が終了した。人生10代後半から20代前半までの「10年かけたスタートダッシュ」で結果が決まる短距離走である

刑訴証拠法に関する論文問題を解き、インスタントラーメンを食べながらこれを書いた。最後まで読んでくれる人がもしいたなら、敗残者の長い長いつまらない駄文に付き合ってくれてありがとうと言いたい。

2023-03-14

anond:20230314174335

小中不登校通信卒で大学ストレート卒の人と、小中高皆勤で三年留年又は浪人大卒の人なら、同じレベル大学卒なら後者の方がまともそうだが…

よほどお前がFラン同級生高学歴とか?

漠然とした。多分私の人生の話。

急に昔の話をしたくなったので衝動ではてぶに登録した。

多分春だからだと思う。これは花粉症の症状の一つ。

そもそも、真夜中にこのブログを開設するあたり、私はもう正気じゃない。

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

漠然とした。多分私の人生の話。

5歳の頃、家族旅行アメリカへ行った。国外旅行へ行くのはこの20数年間でこの一度だけ。知らない言語に囲まれて、知らない文化に触れた、初めての経験

私はそれまで、父親よりも背の高い人間がこの地球にいるなんて知らなかった。

幼稚園キリスト教系だった。でも園の中に十字架とかそういう「偶像」がなかったので、私が日々の中に神の存在を感じる機会は非常に限られていた。お弁当を食べる時になると手を合わせて祈りを捧げた。「神よ、日々の糧に感謝いたします。アーメン」。この時間くらいじゃないだろうか。

先生たちは定期的に聖書の話をしてくれたけれど、当時の私には理解できなかった。そして多分先生たちも私たち理解することを求めていなかった。卒園式で綺麗に装丁された聖書記念品にもらった。字が読めるようになり、心に哲学概念が沸いた年齢になった時に初めて読み返した。そしてようやく何かしらは理解できたと思う。多分。…。時間差があるね。

でもこれだけは覚えているのがある。園長先生という方は非常に柔らかいお話の仕方をなさる方だった。わかるようなわからないような、でもそれはそれとして言葉がスーッと染み込んでいくようなお話をなさっていた。

先生はいつもこうおっしゃっていた。唇に歌を忘れずに。光の子として歩みなさい。

前半は知らない。でも後半は聖書の一節だ。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意正義真実とが生じるのです」

小学校の頃は全く覚えてない。

中学時代勉強はできるような、できないような子供だった。

英語音楽国語だけできた。でも国語担当教師と年がら年中喧嘩してたので評定に定期テストの点数が反映された記憶がない。

英語は楽しかった。小さい頃漠然定型分だけ覚えて旅行に行ったあの「英語」が、形ある理論知識として目の前に再び現れた。いうなれば、旧友との再会のような。互いに少し成長していたけれど。

音楽は、心の拠り所を得るために気まぐれで合唱部に入ったら急に歌えるようになった経緯がある。何それって話なんだけど、私もよくわからない。ただ、ある日ある時急に突然「声の出し方、響かせ方」が分かった。2年生の時、ソプラノソロパート担当させてもらった。嬉しかった。あれは、私が自分の実力だけで勝ち得たもので、そして私にもできるものがあるのだという証明になったから。音楽先生卒業式の日私の母をとっ捕まえて手を握ってこう言ったそうな。

お嬢さん音大に行きたいと言ったら、どうか止めないで入れてあげてください」と。

周りの子供たちは「自由」が増え、レンタルショップビデオを借りた。麓の街に行って、友達同士で服を選び合った。私にもそんな自由が欲しかった。漫画の貸し借りをしてみたかった。アニメ情報を共有してみたかった。

ある日、一緒にピアノを習っていた友人から楽譜を借りた。

彼女は「あなたが弾きたい曲が入ってる楽譜、家にあるから貸してあげる。家まで来て」と言った。彼女の家は私の家とは少し離れていた。やや逆方向寄りなのだ。でも私は彼女について行った。そして楽譜を借りた。

家に帰ると母は非常に機嫌が悪かった。ただいま、という挨拶に対して返ってきたのは「どこほっつき歩いてたわけ?」だった。確かに帰宅時間は通常より20分ほど遅かった。

正直に話した。友人の家に寄って楽譜を借りてきた、と。楽譜没収された。

ちなみにその友人は時々漫画も貸してくれていた。しかし母はそれを目敏く見つけて隠した(母はよく私が学校にいる間に私の部屋に入って物を漁っていた)。そして3週間ほど経った頃にクロゼットから出してきて「あの子に返してきなさい、今すぐに」と言ったのだ。

少し考えればわかること。この家は、何かが少しずつ狂ってる。

私にも自由が欲しいとゴネた事がある。他の女の子みたいにガーリーな服(当時は少し露出があるのが流行っていた記憶がある)が着たい。髪を伸ばしたい。休日友達とお出かけをしたい。バレンタイン友達チョコレートの交換をしたい。

ことごとく跳ね除けられた。

おしゃれがしたいなら家でやらないで外で自己主張して頂戴。学校お菓子を持ち込むのは校則違反でしょ?(それをバレンタインの日だけは黙認されてるから私にもやらせてくれと言ったのだが。)お出かけして遊ぶ暇があるならピアノ練習して勉強したらどう?アンタは目の前の遊びを取って将来を失うつもり?それに私たちがアンタのピアノ習い事にどれだけの月謝を払ってると思ってるの?その分ちゃん練習してよ。

そんな言葉で私の心はポッキリだった。でもその時はまだ幼かったので「高校生になったらきっと変わる」と思っていた。

ちなみに上記言葉を言われた後で私は一度だけ地域お祭りに友人と行ったことがある。

一言で言えば、つまらなかった。目に映る何もかもがくだらなく見えて、そんなくだらないものにはしゃげる友人たちが寧ろ一周回って羨ましく思った。その日の私はピアノ練習もしなかったから、鍵盤が恋しかった。結局皆より一足早く帰宅したはずだ。

…そんな私の感想に、母は非常に満足げだった。こればかりは癪にさわる。

高校私立女子校入学した。良い大学に行くことだけが目標だった。それさえ達成できたなら、きっと私の人生は報われると思った。おしゃれらしいおしゃれをしなかったことも、友人と行ったお祭りを楽しめなかったのも、バレンタインの日にお菓子作りをしなかったのも、全部全部。

周りの友人は有名らしいアイドルにどっぷりとハマっていた。週末になれば電車に乗って遠くへ行き、グッズを買い、ブロマイドを買い、皆で見せ合って楽しんでいた。

街のお祭りを楽しめなかった女は、アイドルの良さもわからなかった。女の子たちが「ねえねえ、このひとカッコいいと思わない?」と見せてくるのを適当に「ほんとだ、カッコいいね」と返した。

ちなみにミュージカルをやる部活に入ったが、言わずもがな母は私がそこに入部するのを死ぬほど嫌がったし、門限は昔よりもシビアになった。当然遊べなくなったし、部活も毎回早退していた。それは舞台本番の1週間前でも変わらなかった。先輩も同期も私の家の事を理解してくれていたことだけがいである。あの人たちは皆優しかった。でもその優しさに永遠に甘えるわけにもいかなかった。当時私はスマホを持っていなかったから「今日だけは門限を伸ばして」と公衆電話から家に電話をかけた。「それなら家に入れてやらない」とだけ返されて電話を切られた。私は職員室の前で泣きながら「どうしろって言うんだよ!」と叫んだ。

その部活は1年生の冬に廃部になった。まあ色々あったのだ。晴れて私は本当に勉強しかすることの無い暇人になったのである

英語にのめり込んだ。きっと海の向こうの人たちが喋ってる言語は私の住む世界を広げてくれると思った。

音楽は私の心の拠り所だった。親には「私たちがアンタのピアノ習い事にどれだけの月謝を払ってると思ってるの?その分ちゃん練習してよ」と言われていて、それでよくピアノが嫌いにならなかったな、と思わないでもないが、それはひとえにピアノ先生の教え方が非常に上手かったからだ。あの先生は一生の恩師と言っても良いだろう。ピアノ技術だけでなく、音楽を体全体で楽しむことの大切さを教えて下さった。

必死勉強して、そこそこ良い大学に受かった。当時は大学入試の定員規定が厳しくなったばかりだったか絶対浪人すると思ってたけど、受かった。第0志望、希望希望通りの学科

高校生の頃(というか小学校中学から)ずっと母は私に「アンタみたいに頭の悪いやつは、私の時代なら商業高校に行ってたよ。今はいいね、アンタみたいなバカでも人並みに高校に入れて受験できるんだからさ」と言っていた。

何度も娘をバカだと言わなくて良い。言われなくても本人がちゃんと分かってる。

大学は色々な地域から色んな人たちが入学していた。

同じ地域に住み、同じ景色を見ていた小中、その延長線上にあった高校とはまるで違っていた。私のような実家住まいもいれば、一人暮らしで頑張る人もいた。

でもこれだけは断言したいが「明日屋根心配しなければならない人」は私以外あの空間には存在しなかった。

大学講義は遅くて6時に終わっていた。母は言った。

「7時半には返って来れるでしょ」

まり、7時半が門限だということだ。大学生の、門限が、7時半。

あんまりだよ、と泣いた。父を説得しようとし、父方の祖母を説得しようとした。大学生なんだよ、大人だよ?と。でも父は母のイエスマンだったし、祖母(と叔母)は如何せん価値観が若干古かった。「7時半は十分遅いよ、お母さんは譲歩してる方だと思う」と言って譲らなかった。

遊ぶことはなかった。化粧もしなかった。ファンデーションだけだった。化粧なんてね、若いうちは要らないの。それが母がいつも言うことだった。

少し考えれば分かること。あの時の母は、私を完全にコントロールたかったのだ。

大学2年生の時、母に内緒彼氏を作った。

その年の秋、私はこれまた突然、手首を痛めた。関節炎だった。ピアノの弾きすぎ、PCの打ちすぎで利き手ではない左手に過度の負担がかかったらしい。もうピアノは弾かないでください。と言われた。

あの時の絶望といったら。私は身近な人を突然亡くした経験はないけど、多分親友がある朝突然死んだらこういう気分なんだろう、と思った。うまく使えない左手、もう弾けないピアノ。虚無感、なんて言葉じゃ補いきれないものだった。

私にとってピアノはそれほど大きな存在だった。嬉しい時も辛い時も一緒にいたのが、ピアノであり、音楽だったから。

その時急に現れたのが昔の知り合いだった「彼氏」だった。

少しずつお互いのことを話す中で私は小さな打ち明け話をした。休日が大嫌いなんだ、と。

当時母は土日のたびに癇癪を起こしていた。やれ私の歩き方が気に食わない、やれ私の話し声が気に入らない。どうしてアンタは私の気に入るように振る舞わないの?と。当時私は土日の早朝6時〜9時でコンビニアルバイトをしていたので、その早朝勤務の後に母の喚き声を聞くと言うのはどうにも「来る」ものがあった。

さて話を戻すと、私の打ち明け話を聞いた彼は私を週末のお出かけに誘った。電車の向こうの街でかれこれこういう催し物があるらしい、行ってみようよ。気分転換にさ。と。そういう具合に。そして私はその誘いに乗った。

母には「友達と出かけてくる」とだけ言った。情報は不足しているかもしれないが、嘘はついていない。少なくとも当時は彼はまだ「友達」だった。

そしてその友人は彼氏になった。

から告白された時、私は一種のチャンスを感じた。きっと私は自分証明できるとお思った。私の人生は私のもので、私の人生の決定権は私が握っているのだと。

しかも、当時の私が心から欲していたのは「絶対的な安全」だった。そして痛めた手首によって失われた「心の拠り所」だった。

きっと彼ならそれらをくれるだろうと思ったので、私は彼の告白同意した。

まりにも、身勝手


彼はそれ以来ちょくちょく私を外へ連れ出した。

その度に私はまるで世間一般に溶け込んだ気分になっていた。世間一般の「普通の子」になれたように思った。そしてその時私は心から喜んだ。「生きてる!」と無邪気に思えた。

私が勝手に出かけ、挙句彼氏まで作ったので、母は怒った。最初父は「別にいいんじゃないか?」と言っていたが、母があまりにも怒るので父も手のひらクルリと返した。

彼の名前学歴を言わされた。ひどく侮辱された。

母は私から家の鍵と財布の金、銀行カード没収した。お前に鍵と金を渡すと碌なことにならない、と言いながら。(ちなみにこの銀行カード、取り返したら今度は月に3万、家に入れる事を要求された。当然今度は私の生活費が足りなくなってバイトを増やしたら、要求される金額がまた増えた)

母は、アンタがどこへ行ったか全部わかってるんだからね!と怒鳴った。最初意味がわからなかったが、どうやらあの時の母は私をスマホGPS機能で追跡していたらしい。それが判明した時、私は泣いて彼氏に詫びた。どうしようもないものに巻き込んでしまったと思った。ざっくり言えば、母のやったことは犯罪に近いのだ。

彼は「気にしてないよ」と言った。

私は「いや、そこは気にしてくれ」と思った。というか、そう言った。

彼は「お前がかわいそうだ、どうにかして救いたい」と言った。

その心はありがたかったが、ありがたがると同時に私はそれを拒絶した。

「かわいそう」と軽々しく言えた彼はどこまでも温室育ちだった。4人家族ペット付き、平均的かそれよりも幾許か上の環境で、ぬくぬくと、二親に愛されて育ち我らが王子様のような扱いを受けてきた彼が言ったのは、永遠に「かわいそう」な立場にはならないであろう人間の、無意識傲慢だった。

「救いたい」と言った彼は、きっと人間人間を救えると信じていたのだろう。確かに信じるものは救われるとは言うけれども、彼氏とはいえ第三者立場人間他人を救えるのなら、今頃イエスキリスト聖母マリアもこの世から用済みだろうし、仏典聖典も要らない。でも世界にはそういうもの存在するのだ…。彼はそれをちゃんとは理解していなかった。

私の状況も、世界の状況も、「聞いて知ってはいる」けど「理解」はしていなかった。

彼氏母親という人は、息子から私の家の状況を聞いて、こうコメントした。

「あそこの大学の子だと聞いて安心していたのに。それじゃあ全く、訳アリのお嬢さんを拾ってきたってこと?」

…ってうちの母がいうんだ、面白いよな、訳アリだなんて。と彼は笑いながら言った。少なくとも彼の中で「訳アリ」という言葉一種ネタとして消費されたらしい。

私は彼氏ができた、とか勝手に出かけた、とかそういう「罪」で度々家を追い出された。そんな時私を匿ってくれたのは大学の友人たちだった。

追い出されるたびに顔色が悪くなる私を見て友人は私の目を閉じさせ耳を塞がせ、その間に家中刃物という刃物を知らない場所に隠した。彼女曰く「今のアンタに刃物を見せたらすぐさま死んでしまいそうで怖い」。当時の私は一体どんな顔をしていたのだろう。

結局、私は彼と別れた。

彼は普通の家で育った普通人間だった。そんな温室の彼を「私」という人間に巻き込み、異常なものを見せ、その一部だけでも経験させてしまたことは、私が負うべき「罪」のように思った。そして、そんな異常な場所から彼を一刻でも早く遠ざけようと思った。「かわいそう」という言葉も「訳アリ」という言葉も、ネタとして理解できる世界に戻そうとした。

それが正しいかどうかは本当にわからない。でも身勝手だったとは思えど、あの時の私にできた「最善」の判断は、それだった。

どうか彼には「普通」の彼女ができていてほしいと思う。そして、私の視界に入らないところで幸せになってほしい。

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大学3年生になり、2つの喪失、「普通」の概念について考える日々、加えてコロナ禍。最悪だった。それでも秋までは保った。そして秋になって体調を崩した。

感情がわからなくなった。楽しいとか、嬉しいとか、悲しいとか。

指先から血の気がひいた。四六時中まるで体全体が後ろから引っ張られているような感覚だった。

ほんの少し正気に戻ったその瞬間に病院に行き、うつの診断を貰った。ついでに精神安定剤も貰った。(本来抗うつ剤をもらう予定だったが、そういう精神に効くタイプの薬を飲んだことがなく不安だったため、安定剤からスタートになった)

家族はまるでお手本のような否定言葉をぶつけてきた。

仮病だ、とか、考えすぎだ、とか、甘えだ、とか。診断をした医者はヤブだ、とも言った。そして私から保険証現金没収した。よって私は途中で治療が止まっている。


正直、大学3年4年をどう過ごしたか記憶がない。

ちなみにかの「原神」を始めたのは4年の最初だったか、それくらいだったはずである。(タブレットデバイス様様で、こういうゲーム自分スマホに入っていれば「実体」が無いので、両親は私が流行りのゲームを始めただなんて夢にも思っていない)





うつの診断を受ける前だったか後だったか、とにかくその辺りの時期に私は数回手首を切った。そのうちの一つだけ、鮮明に覚えている。

衝動に任せて切って、うっすらと血を滲ませた。最悪だったのはそれが金曜日で翌日にはバイトがあったということだ。(※この時は体調の限界やらシフトの都合やら色々なものが重なって、私のシフトは早朝6時〜9時ではなく、9時〜12時に移っていた。そこには私の幼馴染の男の子も一緒に働いていたので、早朝から働いていた時よりは幾分気が楽ではあった)

さて左手首を切って血を見て1時間、なんとなく冷静になった時に気が付く「待てよ、明日バイトじゃん」は本当に最悪だ。急いで薬をぬり(強めのステロイドだった気がする)、ガーゼを乗せて包帯を巻いた。

翌朝幼馴染の彼は「それ、どうしたんです」と聞いてきたので、私は笑って言った。

「関節炎の湿布


この幼馴染、私が怪我をしたとなるとまるで問診か何かのように問い詰めるのである。どこで怪我をしたの、どうして怪我をしたの。その時何があったの、いつもと変わったことでもあったの。

手首は数回掠った。そしてもし、もう一度でも金曜日にそれをやった上で「どこで、どうして怪我をしたの」と問い詰められたら、私は誤魔化せる自信がなかった。

そもそもコンビニアルバイトなんて、いつヘルプ要請が入るかもわからないものなので、それが金曜日じゃなくても、手首を切るのは普通にアウトだった。いつか誤魔化せない日が来ると思ったし、その調子で切ってたら取り返しのつかない事になるのは目に見えていた。

それ以来、手首を切るのは自制している。少しばかり、褒めてほしい。

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先日、この幼馴染と少しばかりの遠出をした。

出かける予定を作ったことを正直に母親に白状し、許可を得た(これがまたハードルが高かった。)母は私たち電車で行ったと思っているが。

私は彼が運転する車に乗って遠出した。





帰りの移動だった。彼は、夜の暗闇が一番好きだと言った。

私も夜が好きだと返した。夜は良いなと思う。あの暗闇も、程よい明るさも好きだ。

その日すっかり疲れてしまっていた私はぼんやりと、彼に少しばかりの昔話をした。

まだ私が早朝6時のバイトシフトに入っていた頃、5時に起きて支度をしていたから冬の早朝は真夜中みたいに真っ暗だったのだと。そして少し季節が春に近づくにつれて日の出時間も早くなり、西の空は暗く、東の空は明るくて、私はその真ん中に立っているような錯覚を覚えたのだと。まるで、昨日と明日の境目にいるような気分だったと。

ある時私は親に家を追い出されて、月曜火曜ならまだしも金曜日に追い出されたのなら翌朝のバイトは始発電車に乗らないと間に合わなかった。まだ空が真っ暗な時間にそっと友人の家を出て、電車の窓の外がうっすらと明るくなるのを見ていた。

そう言った。話し終えてからようやく自分が一体なんの話をしたのか、一体彼に何を聞かせていたのか気がついた。

変な話してごめん。私の家の騒動を知ってて私を家に泊めてくれた友人くらいしか知らない話だ、多分他人に初めて話した、幼馴染の女の子ですら知らない話だ…。と途方に暮れながら謝罪したところ、彼は「そうだろうね」と言い、こう続けた。

「よく、怪我しませんでしたね。危ないでしょう、色々と」





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今も私は「普通ってなんだろう」と考えている。

家では相変わらず母がつまらないことで喚き散らしているし、私の髪の一本一本にすら執着し干渉している。そして相変わらず父は母のイエスマンだ。


幸せになりたいな、と思う。

でもまず私は「幸せってなんだろうな」から思考を巡らせなければならい

そもそもはいまだに感情の生成についての問題解決していない。

たぶん私という人間も私の家族も、私の家の一族も何かしらが「おかしい」のだ。皆が皆で、それぞれ違うベクトルで狂ってるから、その異常性に気がつきにくい。

でも気がついた人が気がついた時に「終わらせなければならない」。母は自分自分母親と絶縁した。もしかしたらそれはいつか来る自分未来だと思う。

それはそれとして、もし誰かが私の幸運をほんの少しでも願ってくれているのなら、多分、私はまだ幸せだ。

2023-03-12

anond:20230312142013

寿命も短くて定年も短い戦前とか戦後すぐとかは、苦学や浪人で30ギリギリ大学院出て教授になったり、二、三浪してから大手企業入ったり、30近くで司法試験パスして裁判官検事になったり弁護士事務所開いてる人多い。医学部だって今より多浪や入り直しが多かった。今は寿命も定年も伸びてるけど二浪まで行くとほとんどのルートで詰みやな。回り道=死(社会的または生物的に)だから若い子には娯楽や享楽に惑わされず頑張って欲しいわ。

2023-03-11

anond:20230311163321

京大先生曰く、浪人経験のあるやつは顔つきが違う。

精神的に成長してるように見えるって言ってたよ。

美大に入るために四浪した人の話を見たが

正直その背景にある実家の太さがチラついて物語全然入ってこなかった。

美大四浪を許す実家って何よ?

作中には「親から毎月7万円の仕送り」「予備校学費は1年分前納」とある

仕送りだけで7×12×4=336万円。

美大予備校学費わからんから調べてみたが年間40万~70万円らしいから、約200万円としとこう。

さらにこの後国公立私立か知らんが4年間大学に通って、260万円か600万円程度の金がかかる。

高校卒業の子供に更に追加で800万円~1200万円の学費を出せるのが主人公実家

主人公といい感じになる(?)男子も同様に複数回美大浪人してるので、同様にその子実家も裕福。

金持ちだらけで白ける。

そんな背景の中で「自分の描く絵が絵の具の塊にしか見えない」だのなんだの悩まれても「はあ、そっすか」と冷めた目でしか見れなかった。

居酒屋で追い出された思い出

浪人が決まりお茶の水予備校にも馴染んできた7月のこと。同じ高校モテない女友達5、6人で居酒屋へ行ったことがある。当時誰もが18、19歳で、私ともう1人以外は大学生になっていた。当時はまだ年齢確認が甘かったが、明らかに高校生の風貌集団入店してきたらそりゃ誰でも警戒するだろう。一杯目から梅酒「そのまま」でオーダーし怪しまれたのか、飲み物が到着する前に店から追い出された。結局そのあとは通い慣れたファーストキッチンで遅くまで駄弁ったんだよね。

あれから15年が経った。私は受験に失敗してFランへ進み、普通に雇われの人生を送っている。彼女達は軒並み旧帝大を院まで出て華々しく社会人デビューしていたが、無職になってブラジルへ飛んだり、大河ドラマ作ったり、外銀で死ぬほど働いて死んじゃったり、慶應で教えてたり、SODでデビューしたりとかなり幅の広い人生を送っている。

15年前、夜の繁華街に放り出されたまだ10代の私たちのことをたまに思い出す。それぞれが大学に進んでからすぐに会わなくなっちゃったし、もうあのメンバーで顔を合わせることはないんだろうな。

2023-03-02

大川隆法と私

私は幸福の科学信者でもないし大川著作を読んできたわけでもないが、ある時期、すこし彼に執着していろいろ調べたことがあるので、訃報に触れて思い出すことを書いておく。すべてうろおぼえの話を書くのでいろいろ間違っているとは思うが(ツッコミが入りそうな予感はする)。

幸福の科学いちばん面白いのは教祖である大川存在とその頭の中身だと思っている。そして、人間として大川性格のようなものは、幸福の科学教祖になった後、意図的対外的自己像をつくり直した過程によくあらわれていると思う。そのあたりの展開は『太陽の法』の初版改訂版現在の版につづく)を比較するとよく分かる。もし大川の人となりを知りたい者がいれば、おそらく『太陽の法』の初版以上に有用資料は少ないだろう。

彼は徳島田舎誕生するが、たしか父親GLA(かGLA系の何か)に入れ込むスピリチュアルな人で、一時期は共産主義に傾倒したあと精神世界にのめり込んだという、ある意味で救いを求めて生真面目にさまよう人間だった。そして本人は運動もできない、体も弱い、勉強もそれほどできないという劣等感を抱える子どもだった。一念発起してガリ勉に転じ、それでも浪人した末にようやく東大合格するのだが、その後、デキる東大生の中で劣等感に苛まれるという「田舎勉強できる子が東大に入ったらただの人だった」の典型的パターン踏襲することになる。そして、たしか在学中に司法試験を受けるもの合格せず、ようやくのことで卒業して拾われるように商社就職する。会社でも卯建のあがらない存在であり、そのうちGLAかに出入りしているうちに天啓を受ける(おそらくノイローゼの末の自動筆記のような状態になる)。そして、それを知った父親の後押しもあり、次第に宗教家としての自覚に目覚めていく。ある意味父親教祖としての大川プロデューサー的な存在だったと思われる(神懸かりになった者を教祖に立てて、実質的教義や教団はその近親や側近が整えるというパターンは珍しくない)。

この辺のプロセスが『太陽の法初版には赤裸々に語られていて、本人のエリートへのコンプレックスのようなものが後の幸福の科学の「予備校」ぽさにつながっていることがよくわかる。つまり一般的に「頭がいい」といわれる人でなくても、あるいは学歴社会能力主義の中で挫折した人でも、決められた本を読み、順番に「勉強」していけば霊的な高みに至れるという教義は、彼自身挫折を埋め合わせるものなのだ。そしてそれゆえに、受験就職などの競争疲弊していた若い社会人に人気を博していくのである幸福の科学独自性とその人気は、時代要請に加えて、ある種の本人の「素質」とビジネス勘のようなもの合致によって実現されたものだった。

そして、大川はある時期に『太陽の法』につづられていた赤裸々なコンプレックスをすべて削除して、「東大では見事な成績だった」「会社にぜひ来てくれと言われた」といった大言壮語で埋め尽くしてしまう。

用事が入ったので続きはまた後で書くかもしれない)

2023-02-27

医師国試浪人しとる人いる?

辛いんだ。どうにかならないかな。

2023-02-24

フォロワーネトストしたら生徒だった

タイトルの通り。怖すぎたか自分への戒めとして書く。

 

生徒数がまあまあ多い高校教員をやっている。

所持しているツイッターアカウントは9個、得意なことはネトストである

 

きっかけはフォロワー学歴マウントだった。

内容としては「国公立行けないと人権ない」「浪人してMARCHゴミ」「うちの高校から東大も出てる」みたいな、まあよくある感じ。

増田学歴コンプを拗らせているので「さぞやご立派な学校に通われているのでしょうね〜〜〜〜?」となってしまい、そこから粘着の日々が始まった。性格が悪いことは重々承知である

 

そのフォロワーを仮にAとする。

Aの通っている学校を突き止めるべくAのツイートをひたすら遡った。隅から隅まで全部読んだが、そもそも匿名趣味アカウントなので個人情報は当たり前になかった。

唯一、自分と同じ都道府県に住んでるっぽいことだけは分かったが、まあそう珍しいことでもないのでふーんくらいで終わった。

 

今度はAのフォロワーを探ってみた。そこで、一つだけ趣味関係のない、毛色の違うアカウントを見つけた。

Aのツイートと見比べてみると、文体がめちゃくちゃ似ている。おまけに、同時期に同じ話題ツイートをしていたりする。間違いなくAの別垢だろうと思った。

 

そこからは芋蔓式だった。

まずその別垢のツイートからバイト先の飲食店特定した。バイト先は店のツイッターアカウントがあり出勤情報ツイートしていたので、そこから下の名前特定できた。バイト先のアカウントフォロワーを探ったらバイト関係の人と繋がっているらしいAのアカウントが出てきた。

そのアカウントツイートいいねフォロワーなどを探るうちに、Aのリア友らしきアカウントにたどり着いた。

 

そのアカウントのbioを見て、口から心臓マジで出ると思った。自分の勤務先の名前が書かれていたかである

そこには写真もたくさん載っていた。Aの顔も本名も年齢も部活も全部わかった。普通に生徒だった。

おまけにめちゃくちゃ近所に住んでることまで分かってしまった。知りたくなかった。

 

幸いにも授業をもってないクラスの生徒だったので面識はないのだが、向こうは私の顔を知っているだろう。

うっかりでも自撮りを上げたりしなくてよかったと心の底から思った。

 

マジで怖い。インターネット、怖。誰と繋がるかわからん

怖すぎてAのことは即ブロックした。

 

教員として、生徒にネットリテラシーを今一度叩き込む必要があると感じた出来事であった。

SNSには些細なものでも個人情報は載せるな。別垢同士をFFで繋ぐな。教員に見られてると思ってSNSに臨め。

ていうか、リアルで使うアカウントには鍵かけてください。お願いします。

2023-02-22

片親の子供は独特な人が多い気がする

周囲でサンプル数が4しかないんだけど。

(1) 大学受験で良いところに受かって、浪人組を公然バカにしていた男

受験お疲れさま会みたいな場で浪人組をねちねち罵倒し始めたから、はたから見ててひやひやした。

もともと「自分はすごい」発言が多かったから鬱陶しいと思われていたが、受験でそれが爆発した感じ。

後日、当然陰口を叩かれることになった。

(2) 自分のものにならない女をイジメ抜く男

異動のたびに若い女ちょっかいを出して、相手にされないと分かると陰湿嫌がらせを繰り返すようになった。

あと自分より弱い立場の男をすぐイジメる癖があって閉口した。

(3) とにかくイタい

自身運営するブログで「自分はいかにすごいか」ということを熱弁する癖があって、実像とのギャップが凄まじくて嘲笑されていた。

Wikipedia自分記事を作ってアカウントを凍結されていた。

↑は全部10代で母親を亡くしたケースなんだけど、父親がいないケース(周囲で1件)も結構独特だったな~。

こういうのうまいこと言語化した文章とかあれば読みたい。

2023-02-19

大学受験に落ちても、浪人し続ければ失敗ではないってこと?

そういうことじゃん

浪人し続けて、5浪して諦めたその時にやっと「失敗」になるってことじゃん

それなら、永遠に浪人すればいいじゃん

社会人になっても心の中で浪人生ということにすれば、大学受験に失敗したことにならないじゃん

なんでロケット打ち上げだけ特別ルールなの?

自分に甘いだけでは?

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