はてなキーワード: クロゼットとは
そもそも、真夜中にこのブログを開設するあたり、私はもう正気じゃない。
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5歳の頃、家族旅行でアメリカへ行った。国外へ旅行へ行くのはこの20数年間でこの一度だけ。知らない言語に囲まれて、知らない文化に触れた、初めての経験。
私はそれまで、父親よりも背の高い人間がこの地球にいるなんて知らなかった。
幼稚園はキリスト教系だった。でも園の中に十字架とかそういう「偶像」がなかったので、私が日々の中に神の存在を感じる機会は非常に限られていた。お弁当を食べる時になると手を合わせて祈りを捧げた。「神よ、日々の糧に感謝いたします。アーメン」。この時間くらいじゃないだろうか。
先生たちは定期的に聖書の話をしてくれたけれど、当時の私には理解できなかった。そして多分先生たちも私たちに理解することを求めていなかった。卒園式で綺麗に装丁された聖書を記念品にもらった。字が読めるようになり、心に哲学の概念が沸いた年齢になった時に初めて読み返した。そしてようやく何かしらは理解できたと思う。多分。…。時間差があるね。
でもこれだけは覚えているのがある。園長先生という方は非常に柔らかいお話の仕方をなさる方だった。わかるようなわからないような、でもそれはそれとして言葉がスーッと染み込んでいくようなお話をなさっていた。
先生はいつもこうおっしゃっていた。唇に歌を忘れずに。光の子として歩みなさい。
前半は知らない。でも後半は聖書の一節だ。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです」
小学校の頃は全く覚えてない。
英語と音楽と国語だけできた。でも国語の担当教師と年がら年中喧嘩してたので評定に定期テストの点数が反映された記憶がない。
英語は楽しかった。小さい頃漠然と定型分だけ覚えて旅行に行ったあの「英語」が、形ある理論と知識として目の前に再び現れた。いうなれば、旧友との再会のような。互いに少し成長していたけれど。
音楽は、心の拠り所を得るために気まぐれで合唱部に入ったら急に歌えるようになった経緯がある。何それって話なんだけど、私もよくわからない。ただ、ある日ある時急に突然「声の出し方、響かせ方」が分かった。2年生の時、ソプラノのソロパートを担当させてもらった。嬉しかった。あれは、私が自分の実力だけで勝ち得たもので、そして私にもできるものがあるのだという証明になったから。音楽の先生は卒業式の日私の母をとっ捕まえて手を握ってこう言ったそうな。
「お嬢さんが音大に行きたいと言ったら、どうか止めないで入れてあげてください」と。
周りの子供たちは「自由」が増え、レンタルショップでビデオを借りた。麓の街に行って、友達同士で服を選び合った。私にもそんな自由が欲しかった。漫画の貸し借りをしてみたかった。アニメの情報を共有してみたかった。
彼女は「あなたが弾きたい曲が入ってる楽譜、家にあるから貸してあげる。家まで来て」と言った。彼女の家は私の家とは少し離れていた。やや逆方向寄りなのだ。でも私は彼女について行った。そして楽譜を借りた。
家に帰ると母は非常に機嫌が悪かった。ただいま、という挨拶に対して返ってきたのは「どこほっつき歩いてたわけ?」だった。確かに帰宅時間は通常より20分ほど遅かった。
正直に話した。友人の家に寄って楽譜を借りてきた、と。楽譜は没収された。
ちなみにその友人は時々漫画も貸してくれていた。しかし母はそれを目敏く見つけて隠した(母はよく私が学校にいる間に私の部屋に入って物を漁っていた)。そして3週間ほど経った頃にクロゼットから出してきて「あの子に返してきなさい、今すぐに」と言ったのだ。
少し考えればわかること。この家は、何かが少しずつ狂ってる。
私にも自由が欲しいとゴネた事がある。他の女の子みたいにガーリーな服(当時は少し露出があるのが流行っていた記憶がある)が着たい。髪を伸ばしたい。休日は友達とお出かけをしたい。バレンタインは友達とチョコレートの交換をしたい。
ことごとく跳ね除けられた。
おしゃれがしたいなら家でやらないで外で自己主張して頂戴。学校にお菓子を持ち込むのは校則違反でしょ?(それをバレンタインの日だけは黙認されてるから私にもやらせてくれと言ったのだが。)お出かけして遊ぶ暇があるならピアノの練習して勉強したらどう?アンタは目の前の遊びを取って将来を失うつもり?それに私たちがアンタのピアノの習い事にどれだけの月謝を払ってると思ってるの?その分ちゃんと練習してよ。
そんな言葉で私の心はポッキリだった。でもその時はまだ幼かったので「高校生になったらきっと変わる」と思っていた。
ちなみに上記の言葉を言われた後で私は一度だけ地域のお祭りに友人と行ったことがある。
一言で言えば、つまらなかった。目に映る何もかもがくだらなく見えて、そんなくだらないものにはしゃげる友人たちが寧ろ一周回って羨ましく思った。その日の私はピアノの練習もしなかったから、鍵盤が恋しかった。結局皆より一足早く帰宅したはずだ。
…そんな私の感想に、母は非常に満足げだった。こればかりは癪にさわる。
高校は私立女子校に入学した。良い大学に行くことだけが目標だった。それさえ達成できたなら、きっと私の人生は報われると思った。おしゃれらしいおしゃれをしなかったことも、友人と行ったお祭りを楽しめなかったのも、バレンタインの日にお菓子作りをしなかったのも、全部全部。
周りの友人は有名らしいアイドルにどっぷりとハマっていた。週末になれば電車に乗って遠くへ行き、グッズを買い、ブロマイドを買い、皆で見せ合って楽しんでいた。
街のお祭りを楽しめなかった女は、アイドルの良さもわからなかった。女の子たちが「ねえねえ、このひとカッコいいと思わない?」と見せてくるのを適当に「ほんとだ、カッコいいね」と返した。
ちなみにミュージカルをやる部活に入ったが、言わずもがな母は私がそこに入部するのを死ぬほど嫌がったし、門限は昔よりもシビアになった。当然遊べなくなったし、部活も毎回早退していた。それは舞台本番の1週間前でも変わらなかった。先輩も同期も私の家の事を理解してくれていたことだけが幸いである。あの人たちは皆優しかった。でもその優しさに永遠に甘えるわけにもいかなかった。当時私はスマホを持っていなかったから「今日だけは門限を伸ばして」と公衆電話から家に電話をかけた。「それなら家に入れてやらない」とだけ返されて電話を切られた。私は職員室の前で泣きながら「どうしろって言うんだよ!」と叫んだ。
その部活は1年生の冬に廃部になった。まあ色々あったのだ。晴れて私は本当に勉強しかすることの無い暇人になったのである。
英語にのめり込んだ。きっと海の向こうの人たちが喋ってる言語は私の住む世界を広げてくれると思った。
音楽は私の心の拠り所だった。親には「私たちがアンタのピアノの習い事にどれだけの月謝を払ってると思ってるの?その分ちゃんと練習してよ」と言われていて、それでよくピアノが嫌いにならなかったな、と思わないでもないが、それはひとえにピアノの先生の教え方が非常に上手かったからだ。あの先生は一生の恩師と言っても良いだろう。ピアノの技術だけでなく、音楽を体全体で楽しむことの大切さを教えて下さった。
必死で勉強して、そこそこ良い大学に受かった。当時は大学入試の定員規定が厳しくなったばかりだったから絶対浪人すると思ってたけど、受かった。第0志望、希望の希望通りの学科。
高校生の頃(というか小学校中学校から)ずっと母は私に「アンタみたいに頭の悪いやつは、私の時代なら商業高校に行ってたよ。今はいいね、アンタみたいなバカでも人並みに高校に入れて受験できるんだからさ」と言っていた。
何度も娘をバカだと言わなくて良い。言われなくても本人がちゃんと分かってる。
同じ地域に住み、同じ景色を見ていた小中、その延長線上にあった高校とはまるで違っていた。私のような実家住まいもいれば、一人暮らしで頑張る人もいた。
でもこれだけは断言したいが「明日の屋根を心配しなければならない人」は私以外あの空間には存在しなかった。
「7時半には返って来れるでしょ」
つまり、7時半が門限だということだ。大学生の、門限が、7時半。
あんまりだよ、と泣いた。父を説得しようとし、父方の祖母を説得しようとした。大学生なんだよ、大人だよ?と。でも父は母のイエスマンだったし、祖母(と叔母)は如何せん価値観が若干古かった。「7時半は十分遅いよ、お母さんは譲歩してる方だと思う」と言って譲らなかった。
遊ぶことはなかった。化粧もしなかった。ファンデーションだけだった。化粧なんてね、若いうちは要らないの。それが母がいつも言うことだった。
少し考えれば分かること。あの時の母は、私を完全にコントロールしたかったのだ。
その年の秋、私はこれまた突然、手首を痛めた。関節炎だった。ピアノの弾きすぎ、PCの打ちすぎで利き手ではない左手に過度の負担がかかったらしい。もうピアノは弾かないでください。と言われた。
あの時の絶望といったら。私は身近な人を突然亡くした経験はないけど、多分親友がある朝突然死んだらこういう気分なんだろう、と思った。うまく使えない左手、もう弾けないピアノ。虚無感、なんて言葉じゃ補いきれないものだった。
私にとってピアノはそれほど大きな存在だった。嬉しい時も辛い時も一緒にいたのが、ピアノであり、音楽だったから。
その時急に現れたのが昔の知り合いだった「彼氏」だった。
少しずつお互いのことを話す中で私は小さな打ち明け話をした。休日が大嫌いなんだ、と。
当時母は土日のたびに癇癪を起こしていた。やれ私の歩き方が気に食わない、やれ私の話し声が気に入らない。どうしてアンタは私の気に入るように振る舞わないの?と。当時私は土日の早朝6時〜9時でコンビニのアルバイトをしていたので、その早朝勤務の後に母の喚き声を聞くと言うのはどうにも「来る」ものがあった。
さて話を戻すと、私の打ち明け話を聞いた彼は私を週末のお出かけに誘った。電車の向こうの街でかれこれこういう催し物があるらしい、行ってみようよ。気分転換にさ。と。そういう具合に。そして私はその誘いに乗った。
母には「友達と出かけてくる」とだけ言った。情報は不足しているかもしれないが、嘘はついていない。少なくとも当時は彼はまだ「友達」だった。
そしてその友人は彼氏になった。
彼から告白された時、私は一種のチャンスを感じた。きっと私は自分に証明できるとお思った。私の人生は私のもので、私の人生の決定権は私が握っているのだと。
しかも、当時の私が心から欲していたのは「絶対的な安全」だった。そして痛めた手首によって失われた「心の拠り所」だった。
きっと彼ならそれらをくれるだろうと思ったので、私は彼の告白に同意した。
彼はそれ以来ちょくちょく私を外へ連れ出した。
その度に私はまるで世間一般に溶け込んだ気分になっていた。世間一般の「普通の子」になれたように思った。そしてその時私は心から喜んだ。「生きてる!」と無邪気に思えた。
私が勝手に出かけ、挙句彼氏まで作ったので、母は怒った。最初父は「別にいいんじゃないか?」と言っていたが、母があまりにも怒るので父も手のひらクルリと返した。
母は私から家の鍵と財布の金、銀行のカードを没収した。お前に鍵と金を渡すと碌なことにならない、と言いながら。(ちなみにこの銀行のカード、取り返したら今度は月に3万、家に入れる事を要求された。当然今度は私の生活費が足りなくなってバイトを増やしたら、要求される金額がまた増えた)
母は、アンタがどこへ行ったか全部わかってるんだからね!と怒鳴った。最初意味がわからなかったが、どうやらあの時の母は私をスマホのGPS機能で追跡していたらしい。それが判明した時、私は泣いて彼氏に詫びた。どうしようもないものに巻き込んでしまったと思った。ざっくり言えば、母のやったことは犯罪に近いのだ。
彼は「気にしてないよ」と言った。
私は「いや、そこは気にしてくれ」と思った。というか、そう言った。
彼は「お前がかわいそうだ、どうにかして救いたい」と言った。
その心はありがたかったが、ありがたがると同時に私はそれを拒絶した。
「かわいそう」と軽々しく言えた彼はどこまでも温室育ちだった。4人家族ペット付き、平均的かそれよりも幾許か上の環境で、ぬくぬくと、二親に愛されて育ち我らが王子様のような扱いを受けてきた彼が言ったのは、永遠に「かわいそう」な立場にはならないであろう人間の、無意識の傲慢だった。
「救いたい」と言った彼は、きっと人間が人間を救えると信じていたのだろう。確かに信じるものは救われるとは言うけれども、彼氏とはいえ第三者の立場の人間が他人を救えるのなら、今頃イエスキリストも聖母マリアもこの世から用済みだろうし、仏典も聖典も要らない。でも世界にはそういうものが存在するのだ…。彼はそれをちゃんとは理解していなかった。
私の状況も、世界の状況も、「聞いて知ってはいる」けど「理解」はしていなかった。
彼氏の母親という人は、息子から私の家の状況を聞いて、こうコメントした。
「あそこの大学の子だと聞いて安心していたのに。それじゃあ全く、訳アリのお嬢さんを拾ってきたってこと?」
…ってうちの母がいうんだ、面白いよな、訳アリだなんて。と彼は笑いながら言った。少なくとも彼の中で「訳アリ」という言葉は一種のネタとして消費されたらしい。
私は彼氏ができた、とか勝手に出かけた、とかそういう「罪」で度々家を追い出された。そんな時私を匿ってくれたのは大学の友人たちだった。
追い出されるたびに顔色が悪くなる私を見て友人は私の目を閉じさせ耳を塞がせ、その間に家中の刃物という刃物を知らない場所に隠した。彼女曰く「今のアンタに刃物を見せたらすぐさま死んでしまいそうで怖い」。当時の私は一体どんな顔をしていたのだろう。
結局、私は彼と別れた。
彼は普通の家で育った普通の人間だった。そんな温室の彼を「私」という人間に巻き込み、異常なものを見せ、その一部だけでも経験させてしまったことは、私が負うべき「罪」のように思った。そして、そんな異常な場所から彼を一刻でも早く遠ざけようと思った。「かわいそう」という言葉も「訳アリ」という言葉も、ネタとして理解できる世界に戻そうとした。
それが正しいかどうかは本当にわからない。でも身勝手だったとは思えど、あの時の私にできた「最善」の判断は、それだった。
どうか彼には「普通」の彼女ができていてほしいと思う。そして、私の視界に入らないところで幸せになってほしい。
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大学3年生になり、2つの喪失、「普通」の概念について考える日々、加えてコロナ禍。最悪だった。それでも秋までは保った。そして秋になって体調を崩した。
感情がわからなくなった。楽しいとか、嬉しいとか、悲しいとか。
指先から血の気がひいた。四六時中まるで体全体が後ろから引っ張られているような感覚だった。
ほんの少し正気に戻ったその瞬間に病院に行き、うつの診断を貰った。ついでに精神安定剤も貰った。(本来抗うつ剤をもらう予定だったが、そういう精神に効くタイプの薬を飲んだことがなく不安だったため、安定剤からスタートになった)
仮病だ、とか、考えすぎだ、とか、甘えだ、とか。診断をした医者はヤブだ、とも言った。そして私から保険証と現金を没収した。よって私は途中で治療が止まっている。
ちなみにかの「原神」を始めたのは4年の最初だったか、それくらいだったはずである。(タブレットデバイス様様で、こういうゲームは自分のスマホに入っていれば「実体」が無いので、両親は私が流行りのゲームを始めただなんて夢にも思っていない)
うつの診断を受ける前だったか後だったか、とにかくその辺りの時期に私は数回手首を切った。そのうちの一つだけ、鮮明に覚えている。
衝動に任せて切って、うっすらと血を滲ませた。最悪だったのはそれが金曜日で翌日にはバイトがあったということだ。(※この時は体調の限界やらシフトの都合やら色々なものが重なって、私のシフトは早朝6時〜9時ではなく、9時〜12時に移っていた。そこには私の幼馴染の男の子も一緒に働いていたので、早朝から働いていた時よりは幾分気が楽ではあった)
さて左手首を切って血を見て1時間、なんとなく冷静になった時に気が付く「待てよ、明日バイトじゃん」は本当に最悪だ。急いで薬をぬり(強めのステロイドだった気がする)、ガーゼを乗せて包帯を巻いた。
翌朝幼馴染の彼は「それ、どうしたんです」と聞いてきたので、私は笑って言った。
「関節炎の湿布」
この幼馴染、私が怪我をしたとなるとまるで問診か何かのように問い詰めるのである。どこで怪我をしたの、どうして怪我をしたの。その時何があったの、いつもと変わったことでもあったの。
手首は数回掠った。そしてもし、もう一度でも金曜日にそれをやった上で「どこで、どうして怪我をしたの」と問い詰められたら、私は誤魔化せる自信がなかった。
そもそもコンビニのアルバイトなんて、いつヘルプ要請が入るかもわからないものなので、それが金曜日じゃなくても、手首を切るのは普通にアウトだった。いつか誤魔化せない日が来ると思ったし、その調子で切ってたら取り返しのつかない事になるのは目に見えていた。
それ以来、手首を切るのは自制している。少しばかり、褒めてほしい。
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先日、この幼馴染と少しばかりの遠出をした。
出かける予定を作ったことを正直に母親に白状し、許可を得た(これがまたハードルが高かった。)母は私たちが電車で行ったと思っているが。
私は彼が運転する車に乗って遠出した。
帰りの移動だった。彼は、夜の暗闇が一番好きだと言った。
私も夜が好きだと返した。夜は良いなと思う。あの暗闇も、程よい明るさも好きだ。
その日すっかり疲れてしまっていた私はぼんやりと、彼に少しばかりの昔話をした。
まだ私が早朝6時のバイトのシフトに入っていた頃、5時に起きて支度をしていたから冬の早朝は真夜中みたいに真っ暗だったのだと。そして少し季節が春に近づくにつれて日の出の時間も早くなり、西の空は暗く、東の空は明るくて、私はその真ん中に立っているような錯覚を覚えたのだと。まるで、昨日と明日の境目にいるような気分だったと。
ある時私は親に家を追い出されて、月曜火曜ならまだしも金曜日に追い出されたのなら翌朝のバイトは始発電車に乗らないと間に合わなかった。まだ空が真っ暗な時間にそっと友人の家を出て、電車の窓の外がうっすらと明るくなるのを見ていた。
そう言った。話し終えてからようやく自分が一体なんの話をしたのか、一体彼に何を聞かせていたのか気がついた。
変な話してごめん。私の家の騒動を知ってて私を家に泊めてくれた友人くらいしか知らない話だ、多分他人に初めて話した、幼馴染の女の子ですら知らない話だ…。と途方に暮れながら謝罪したところ、彼は「そうだろうね」と言い、こう続けた。
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今も私は「普通ってなんだろう」と考えている。
家では相変わらず母がつまらないことで喚き散らしているし、私の髪の一本一本にすら執着し干渉している。そして相変わらず父は母のイエスマンだ。
幸せになりたいな、と思う。
でもまず私は「幸せってなんだろうな」から思考を巡らせなければならい。
そもそも私はいまだに感情の生成についての問題を解決していない。
たぶん私という人間も私の家族も、私の家の一族も何かしらが「おかしい」のだ。皆が皆で、それぞれ違うベクトルで狂ってるから、その異常性に気がつきにくい。
でも気がついた人が気がついた時に「終わらせなければならない」。母は自分で自分の母親と絶縁した。もしかしたらそれはいつか来る自分の未来だと思う。
ロッテンマイヤーさん、子どものころはムカついてたけど基本正論しか言ってないし、むっちゃ仕事頑張って苦労してるまともな社会人だった。
山奥から来た字も読めないクソガキがお嬢様の勉強の邪魔したり、パンをクロゼットに詰め込んでカビだらけにしてたらそりゃ私だって発狂する。
デーテおばさんもハイジを置き去りにしておいて、ようやく山やおんじに慣れたころにいきなりやってきて自分の都合で連れ去る悪い人だと思ってたけど、姉夫婦が亡くなり残された女の子を独身の女一人で育てるなんてあの時代無理だし生きていくためにハイジをどうにかしないといけないのは仕方ない。むしろ、娼館に売り飛ばしたり孤児院に捨てたりせず身内に預けに来たのは偉い。さらにそうやって、ろくな暮らしもできず教育も受けられそうにない山に姪を置き去りにしたことにずっと罪悪感持ってて、ちゃんと都会の豊かなお家のお嬢様の遊び相手に売り込み、何不自由なく暮らせるよう話をつけて連れ戻しに来たのだから、むちゃくちゃいい人。
デルフリ村の人もおんじのこと悪くいっててひどいと思ってたけど、無神論の人殺しって噂のじいさんが山で一人暮らしてたらそりゃ怖いわ。
ていうか、おんじ、金持ちの家で生まれ育ったがギャンブルで身を持ち崩し傭兵になり喧嘩で人殺して除隊して山にこもったって経歴なんで普通にアウトローだったわ。
好きな服に拘らないのがまず大事。
全く似合わないので諦めた。
パーソナルカラー診断とかの診断は、基本従ったほうが早い。
好きな服を無理して着るより、似合う服を好きになりたい。
自分が一番引き立つ服を選んで自信をつける方が早い。
パーソナルカラーがウインターなので、ハッキリしたコントラストが得意。
顔タイプはクールだから、可愛いよりかっこいいに振れば間違いがない。
完全に決めてあると、どの組み合わせをとっても、まず外れることはない。
基本は、モノトーン+挿し色。
爽やかにしたい時は、白と青。
女度をあげたいときは、赤を投入。
全く印象が違う。
クソ暑いテラスで周りなんて気にしてませんよ風にフラペチーノを
啜っててもいいと思うの(笑)
これ見よがしに、爽やかな服きてアップルマークのパソコン開いたりね。
どこにいても、自分らしい服で。
TPOはちゃんとわきまえて、ドレスアップやダウンさせる賢さも
持っていたい。
ミックスしたり、外したりするのがオシャレ。
だから、色んなコーデを楽しみたい私にはとても
ありがたい時代。
数少ない服でも、組み合わせしだいでいくらでもコーデは
今日は数少ない服でどうやって色んなスタイルを生み出すかについて
書いてみたい。
1、自分に似合う服を知っている
これはもう言うまでもなく、大前提でしょ。
特に色と形は大事で、どのテイストの服を買う時も、この二つだけは
死守してる。
2、どんな服にでも合う定番を揃える
どんな奇抜なものを合わせても受け止めるだけの度量がある
気分転換や好みの服はその後に付け加える
どんなコーデにも合う靴やバックなんて、どのコーデも
台無しにする気がする。。
例えば、黒いトートバックを私も長年愛用していたけど、
ある日ふと垢抜けないのはこのバックでは?と思って、やめた。
試しに白や明るい色味のバックを持つと、抜け感が出るし
季節に合わせてPVCバックや冬に敢えてファーのついたカゴバックも
オシャレだと最近気がついた。
靴も同様。
これ一足あれば、なんてものはない。
最低でも、
・サンダル
は必要!
5、コーデを決めるときはその日の予定に合わせて
スムーズ。
合わせるようにしている。
その割合は人によって違うけど、覚えておくと困らない。
掛け合わせるのは服だったり、小物だったりするけど、
そんな感じで日々調整しながらやっとります。
見たまんまの女じゃねえぜ、というアンチテーゼも込めて。
ずっと見た目で「真面目」「優等生」と言われ続けて
骨格診断、パーソナルカラー、顏タイプ診断。すべて受けて自分に似合う服は総じて
「クール」
だった。
他の人は知らないけど、3つの診断の傾向がすべて同じなのには笑ってしまった。
つまり、一番似合うのは、上質なスーツなどのカチッとしたデザイン、色はモノトーンや寒色系、赤などのハッキリした色、と言った次第。
私がかつて好きだったのは、フリルとかレースとかほっこりフェミニンで淡い色なんだけど、診断を受けて潔くあきらめた。
実際、診断にあわせた服を着ると周りの反応がすごい良かったし、自分も確かによく見えるもの。
よく考えると昔は人に嫌わないように、優しい人ぶるところがあった。服もそれに合わせたぶりっこ風。
でも実際は我の強い、ハッキリした性格。目力の強さは定評あり。優しくなくはないと思うけど、どうしてもクールに見られがちだったっけ。
自分の個性を受け入れる方がおしゃれになる。似合わない服を無理して似合わせる工夫をする方が大変だしね。
ただし、毎日スーツなんてもちろんあり得ないし、仕事柄まず着ない。
フリーランスで服装自由なのに、かっちりした服着る筋合いもなく。
ニットやタイトスカート、シャツなどのプレーンな服をメインに、スニーカーやカゴバック、ロック柄(ロック好き♪)など自分らしさを一匙混ぜるのだ。
元々好きなガーリーな服も、革ジャンとゴツイブーツでハードに振れば程良くクールに締まる。
もちろんざっくりでいい。
組み合わせながら、自分に似合う甘辛バランスの数値に納めていく。
簡単なのは、まず100%甘い(辛い)コーデをして、そこから逆のテイストのものと1アイテムずつ交換していって、ちょうどいいところを鏡の前で見つけること。
たとえば革ジャンと黒スキニーの女の子をこないだ見かけたけど、ハードすぎて近寄れない印象。
(最近、ちらほら見かけるんだけど、こういう子。はやってる?)
私だったらバッグをファーバックにしたり、インナーにレースを合わせたりするかな。
同じはずしアイテムでGジャンをガーリーなワンピに合わせるのもあるけど、私にはまだ甘みが強すぎる。。
ちなみに、甘辛の見分け方は、男が着てもおかしくないアイテム=辛い、女だけ=甘です。
そんなわけで私の家は、モノトーンにブルー系が多く、一瞬男のクロゼット?に見えそうな中、急にピンクのプリーツスカートや赤のカーで、大きい花柄のワンピが並んでおります(笑)
かっちり、ハッキリしたものが似合うストレートウインターには、このくらいの振り幅が必要なよう。
逆に中途半端が一番ぼやけるんだよなぁ。
私もそうなんだが、服が好きすぎて、買いすぎて、多すぎて、結果クロゼットからはみ出したり、買った服を忘れて似たような服を買ってしまったり、クリーニング代が異常にかかったり、にもかかわらず毎日着る服がないと悩んでしまう、など、楽しいどころかイライラしている人ってけっこう居ると思う。
ファッション雑誌ではたびたび「少ない服で着まわす」特集が組まれる。
自称少ない服で着まわしている一般人が有名ブロガーになり、本なんか出したりする。
でも私こういうの見るたびいつも思うんだよな…
「みんな制服みたいに同じ服ばっかやん!!」と。
殆どが無地だがとくに、柄物=ボーダーTシャツ 率の高さには目を見張るものがある。
私はボーダーはあまり好きじゃない。みんな着てるし太って見えるし「ボーダーを着ている主婦はだいたいダサい」という説も根強くあるのになぜミニマリストはボーダーなのか。ダサいと思われても別にいいのか。そもそもダサいと思っていないのか。
あと困ったことにミニマリストの二番目の定番柄物=花柄 も、あまり好きじゃない。
一番好きなのは動物柄であるが「動物柄をアクセントに着こなす」なんてミニマリストは見たことがない。
無地の話に戻る。これもまた一辺倒で
・黒か紺のパンツ
・ジーンズ
・黒か紺か白のスニーカー
・黒のパンプス
・黒か紺のダウンジャケット
こんなところだろう。
素材は(自称)上質な「綿」「麻」が殆ど。どっちも上質なくせに素材の特性ですぐシワシワになるから、アイロンかけ必須だが、服を選ぶ手間は嫌だけどその手間はいいのだろうか。とくにチノクロスはいくらアイロンをかけても、長時間座るととても汚いシワが出来るので私はほんと嫌いなんだが、ミニマリストにとってはそのシワすらファッションなのだろうか。
あとここからが本題というか、大事なところなんだが、私は猫を買っているので、黒と紺は着ないと決めている。
ダウン(ナイロン)みたいに毛が付かない目立たない素材ならともかく、綿と麻はもちろん、ウールみたいに、とにかく猫の毛が目立つ素材の黒や紺の服はまず買わない着ない…この時点でもうミニマリストの仲間入りは出来ないのである。
ちなみにグレーだったら猫の毛が目立たないから唯一好んで着られるのだが、なぜかグレーはミニマリストには不人気、な、気がする。
だいたいそんな、すぐシワシワになる綿と麻しか持ってなくて、それで仕事に行っていいのか…オフィスカジュアルはこのさい無視か。いやそもそもシワシワでも可能な職業にしかつかないのか?
あと結婚式とか呼ばれたらどうするんだ。レンタルか。紺のスーツでシワシワになるのか?とか色々考える。
話は変わるようであるが、ドラマ「家売るオンナ」シリーズが大好きなのだが、第一話から、イモトアヤコ演じる白洲美加のファッションの可愛さに衝撃を受け、そうだ…私はこういうラブリーな服がとても好きだったんだ…とあらためて気がついた。20代か、せめてイモトと同世代くらいならすぐにでも取り入れたいのだが、残念ながら少々年をとっているもので、そのまま同じ服は着られない。
しかしそれでも幾つになってもラブリーを取り入れた服を着たい私が、ミニマリストになるにはどうすればいいのだろう。
雑誌の特集もブロガーも、上記のようなもはや制服と化した服しか着まわしてくれないもので、参考にならない。
とくに夏は、クリーニングいらずで涼しい綿や麻をメインに着たいと思う気持ちはよくわかる。が、ミニマリストだって、洋服が大好きだからこそ一生懸命洋服のことを考え、増やしたくない!でもおしゃれに見られたい!と思っているはずなのになぜ、制服化してしまうのだろう。
だって本当に服に興味が無い結果少ないなら「いかにも昔流行りました」デザインの服でも、何も気にせず平然と穴があくまで着るはずだ。汗を吸うとか防寒とか、衣類本来の目的さえ達成できれば他はどうでもいいのである。うちの兄のことだが。
服が大好きなのにもかかわらず、ミニマリストの間で制服化されてしまった服しか着られなくなるのも哀しいものだ。
きっとそれは「少ないモノで暮らしたい」「本当に自分が好きでおしゃれだと思う服を着たい」を両立するのが難しいことの表れなのだろう。
どなたか、ラブリーで女子力高い、だけどアラフォーが着ても大丈夫な服を、少ない量で着まわしているブログをやってもらえないだろうか。有料でも見る。
もしくは出版してくれないだろうか。5千円でも買う。
片付けを『子供でもできるレベル』から実践して、片付け上手な人間になる。 - 僭越ながら
0歳のステップ、綺麗な部屋を見る
※本筋それるけれど、私の周りでは出世と片付けは関係ないようだ。
上記をかろうじて保っているがレベルは低い。
これから成長していったら
そんなことがどんどん出来るようになって行くはずだというのに。
環境づくりができていないせいで、混乱してしまうのではないか。
片付けられないまま親になったみんなはどんな感じなの。
弁当作ってくれるんだが、弁当の袋にいつもちょっとしたお菓子を入れてくれてる。
(アポロとか、キャラメルとか、キットカットとか、たまに子供向けのかわいいお菓子)
そうしてくれと頼んだわけじゃなくて、そういう心使いが嬉しい。乾燥の季節にはノド飴とか、工夫がある。
しかも、カレー、中華、すきやき、鍋など「何で食いたいのがわかった!?」という絶妙なタイミングで好物を出してくれる。
普段はカロリーを考えてくれてるけど満足度高いメニュー。
「私、おうちにいられて楽させてもらって、ずるいわね」と言うが、風呂、トイレ、洗面所、部屋の掃除はもちろん
クロゼットの中を陰干し日干し、俺のバッグや靴の手入れ、PC周りもホコリひとつなく各部屋の棚の中もきれいで、
シーツもいつも洗い、枕も布団もフワフワ、俺の冬物セーターの毛玉取りをし、ニット帽好きの俺に帽子を編んでくれ、
寒さに合わせて箪笥の中の服をかえてくれてあり、ベランダもきれいで、冷蔵庫の中もいつもきっちり整頓。
実家でも一人暮らしの家でも会社でも出るホコリアレルギーが、家では一切出ない。
やりすぎない、ちょっとしたおしゃれをして待っててくれる。
「遅くなるから寝てて」という日は、パジャマを着てはいるがいつもよりかわいいワンピースみたいなパジャマだったり
色んな髪型にしたり。一緒にエヴァ見た次の日は、アスカになってた。見た目もすごい好み。
俺はちょっとオタクなんだけど、趣味を非難しない。マンガを置くスペースを作ってくれたり、一緒にアニメ見てくれる。
妻の趣味は海外の雑誌(インテリアやファッション、デザイン誌など)を取り寄せて読むことと海外古典文学なんだけど
俺の趣味につきあってマンガも読んでるらしく、ある日いきなり「Dioも承太郎もかっこいいよね、どっち派?」とか言うw
あーもー書ききれん。とにかく結婚してよかったと思いすぎる。