少なくとも高校生の頃までは、定期考査、に限らないんだけれど、学校のテストが好きだった。なんで高校生までかというと、大学のテストでほとんど良い成績を取った記憶がないからだ。
理由のひとつは、テスト期間は授業がないこと。パパッと問題解いちゃえばあとは寝放題だったのは良かった。午前中とかで終わるし。
もうひとつは、大学のテストは前述の通りなのだけれど、高校までは逆に、あまり悪い成績を取った記憶がないということ。高校の時は廊下に毎回上位者の結果が貼り出されてたんだけど、三年間そこから脱落したことはなかった(と思う)。良い結果に終わることがある程度わかってるから、テストに対する危機感とかネガティブ意識みたいなものが希薄だった。
何より、答えがあって、点数がついて、順位がつくというのが良かったと思う。一番上が見えて、平均が見えて、自分がどこにいるのかが見える。良くも悪くも明確に、明朗に、明白に、数字で評価されるというのは、存外に悪くないシステムだったと今になって思う。
大学以降は、解答欄をたったひとつの答えで埋めるということが滅多になくなった。思考力を問われ、論述を求められるようなテストが多くなった(文系だったからかもしれない)。僕は昔からそういう曖昧なものを求められるのが苦手だったし、嫌いだった。作文とか読書感想文とか、今もなお総じて不得意分野だと言っていい。
だというのに、社会に出てみれば右も左もその不得意分野で溢れていて、否応無しに仕掛り、仕上げなければならなくなる。学校の勉強が役に立たないという弁は、こういった点においては真だと思う。
かと言って、社会は社会で、会社は会社で、人を数字で評価する仕組みがあるし、その結果如何で一喜一憂もあると思う。学校と違うのは、如何に教科書を、問題集を理解しているか、公式を暗記しているかではなく、僕が不得意とする『曖昧なもの』を元にしてその数字がはじき出されているということだ。苦手だと自覚しているものについて、改めて指摘されるというのは居心地がいいものではない。学校の勉強が苦手な人は、あるいは苦手教科がある人は、すでにそのことを身をもって感じたことがあると思う。誰しもあることと思う。しかしそれが『曖昧なもの』に基いていなければ、ひとつの指針になることも事実だ。
学生時代のような評価を受ける機会がなくなってからこそ、例えば資格だったり、何かの問題集だったり、明白な解答があるものに臨むと、意外とやる気が呼び起こされたりするのでおすすめしたい。良い点をとって自己満足を得ることは、存外に悪いことではないのだ。