はてなキーワード: 希薄とは
随所ですこぶる高評価なので「やがて君になる」を読んだ。
百合漫画ではカップルがどのような関係性であろうと、どこかに「デレ」が表現されているものだが、この作品では片方が完全に冷えきった冷凍マグロ。2巻の時点でイチャイチャキュンキュンすることはなく、他の百合漫画のような王道ストーリーとは異なり特殊性が際立つ。
片方は自分の感情は「恋」ではなく「利害一致による関係性」と「相手への気遣い・やさしさ」と捉えているよう。まだその感情が理解できていないだけで、展開が進むに連れ一気に落ちる雰囲気は感じる。
ただ、全体的に当事者たちの感情や行動について、説得力に乏しく薄っぺらい印象を受けてしまう。悩みや葛藤がある故の関係性なのにその感情描写が非常に希薄で、物語的には進展しているけどただひたすら淡白に展開される。
http://anond.hatelabo.jp/20160517114849
トラバ元を書いた方がよく見知っていた分野は、ニコニコの構造上廃れやすい分野だと思う。
一方で生き残る分野はどんなところか。それを書いてみたい。
生き残ると思しい分野に含まれる要素を先に述べておくと、「解説・説明・突っ込みを加えられる」と言うことに尽きる。
私は2006年が大学二年生で、暇だったわけだ。クラスが同じMという男からニコニコ動画の話を聴いてサイトを使い始めた。
http://nicovideo.g.hatena.ne.jp/myrmecoleon/20080527/1211907817
に詳しいような、「おっくせんまん」の成立過程もリアルタイムだったし、住宅街の人が初めて歌ったこともリアルタイムで見ていた。
その後東方の隆盛や音MAD、パンツレスリング、淫夢、歌ってみた踊ってみた、ゲーム実況やらなにやらがこの10年で興っては消えて行った。
10年見ていて思うことは、冒頭で書いた通り、「解説・説明・突っ込み」を入れられる動画が強いということだ。
例えば、先ほどの「おっくせんまん」は動画に歌詞を加えたことで大きなムーブメントになって行った。こうした部分がニコニコの固有性だ。
一方、そういうのが基礎になり生まれた「歌ってみた」は、あまり「解説・説明・突っ込み」を必要としない。動画を見て楽しむことがメインのコンテンツだ。
先に投稿した方が、もう誰もやってないと嘆いたのはこうした分野だからだろう。
ゲーム実況だと、初めは実況者の音声のみで、とにかくゲームをしていく、という内容が多かったように思う。
そのうち、ルールが細かいゲームや、難易度が高いゲームに「解説」しながら実況する人が多くなっていた。
ソウルシリーズやオブリビオンなんかがそう。この時期で覚えているのは「テクテク」さんの動画だ。
また、TAS・RTAなど速さや面白さを競うゲーム実況も生まれた。
こちらはマリオやFFドラクエなど比較的皆が知ってる、プレイしたことのあるゲームが好まれた。「魔界塔士」さんの一連の仕事が著名だろう。
どちらであっても、動画内で状況を「解説」する。そしてコメントでは、驚嘆を示すコメント・指摘や修正を加えようとするコメントが出てくる。これで動画が盛り上がる。
ゲーム実況では実況そのものが面白い人ももちろん多かった。しかしそれだけではニコニコ動画の固有性が発揮されなかったのではないか。
「解説」を投稿者もコメントを書き込む者も可能な点こそが、ニコニコの妙味なわけだ。そうした構造を持つジャンルは生き残っていく。
もう少しゲーム実況の話を続ける。RTA動画を多く投稿している「biim」兄貴と呼ばれる人が創始した「biimシステム」というゲーム実況のスタイルについて。
私はこのシステムこそがニコニコ動画におけるゲーム実況の成熟であると思う。
「biimシステム」は、ゲームプレイ動画本体を左上に据え、右に解説窓二つ、下部に解説窓一つの構造を持つゲーム解説スタイルだ。
下部の窓には、ゆっくり実況の音声が台詞として字幕表示される。右の解説窓ではクエストの確認や、敵やアイテムのステータス、チャートなどが示される。
このように「biimシステム」は、ゲーム実況を「解説」するに特化したもので、多くの追従者を生んだ。
こうした点を見ても、ゲーム解説実況は、分野として生き残っていきやすいと感じる。
次いで生き残りやすいと思う分野は、専門分野を解説する動画だ。たとえばナショジオとか。本当はアップしたら駄目なんだろうけど。
ニコニコ動画では、かなり以前から「メーデー!」という航空機事故を紹介・解説したナショジオのシリーズがアップされ続けている。
ここに、どこからともなくやたら航空機に詳しい奴が現れ、緑色でやたら細かい解説を加えて行く。
また、「メーデー民」と呼ばれる人々は、以前の動画で出てきた事故と、今回の事故とを比較しコメントする。初心者はさらに興味が広まる。
それと、軍事映画・戦争映画は盛り上がる。いやが王にも盛り上がる。兵器解説シリーズもそうだ。
軍事オタクが描写の正確性を論議し、また右寄り左寄りの意見で荒れることが頻繁だ。しかし活気がある。
あとは海外の翻訳系も強い。「AVGN」という古いクソゲー好きのアメリカ人がクソゲーに切れる動画がニコニコに輸入されていて、
英語に詳しい者もそうだし、古いクソゲーに詳しい者、日本とアメリカのゲーム事情に詳しい者が説明を相互にしている。
こうした専門分野系の動画は「解説・突っ込み」に馴染みやすい。生き残る。
あと地味にスポーツの放送が良い。野球とか相撲とか。夜中に再放送とかもしていて、疲れて帰ってきたら、西武対楽天とかがやっている。
ここでは多分俺と同じようなアラサーの人たちがのんびり書きこんでいる。
楽天って左打者が誰が誰だかファンでないと解りにくいのだが、動画でちょっとその選手について質問するとすぐ詳しい人が教えてくれる。
10年見ていて思うことは、こうした動画による双方向的な解説・やり取りこそが、ニコニコ動画が獲得した固有性だということだ。
レターズ/ヴァニシング2を読んだ。一作目から尖った作風が露呈してたけど、二作目になって更に吹っ切れたのかな。個人的に結構読みづらいSFになってた。
ラノベと文芸書の中間って感じの内容だった。綿密に配置された設定と、ところどころ散見された学術的な引用がスワロウテイル人工少女販売処を髣髴とさせる小説だったんだけど、一巻との直接的な繋がりが希薄だったから世界観に浸るのが少し難儀した。
ぽつぽつと各章で提示される情報が最後の方で一本にまとまっていく様子が良かった。少し前に書かれていた発見がここに繋がるのかってわくわくした。
一方で人間描写に難有りというか、どいつもこいつも人格形成に問題を抱えている上に未成熟でいびつな偏り方をしてるもんだから、あんまりみんな好きになれなかった。
突き抜けてるキャラクターしか出ないところがラノベらしいと言えばラノベらしいのだけれど、生身すぎる。どんな心情なのか分かりやすいんだけど、痛ましくて見ていられない感じがした。
また文体が硬いことも相まって、設定の説明が多く感じられた。人工知能の生命性や、臓器培養における倫理観など、生命に関することなら興味深く読み進められたんだけど、ハッキングの技術やソフトウェアの設計思想など、モノへの技術的アプローチの話になると、あんまり興味がわかないので集中できなかった。いい意味でも悪い意味でも過剰かなって思う。
とは言え、なんか脱獄しそうな人もいるし、三巻が出たら読みたいと思う。
ちゃんと出るんですよね?
間男をやって6年になる。
途中、複数の女性の間男になったこともあったが、結局は最初の彼女のもとに落ち着いた。
まぁ、俺はあくまでも独身の間男なので、厳密には「不倫のメリット」を大げさに語れる立場ではないのだが、「間男を6年やってわかったこと」よりも「不倫のメリット」の方がいいかなぁと思ったのでこのようなタイトルにした。当然ながら非常に下世話な話になるので、注意してくれ。間男はいいぞ。
不倫と聞くと大体の人は即座に「死ぬべきだ」と思うだろう。しかし、実際の所不倫をしている人はどう思って不倫をしているのか、あまり聞いたことは無いんじゃないか。人は悪いことをしようとは思わないもんだ。本人にとって何かしらのメリットがあるからこそ(無意識だろうとも)不倫を行うというものだろう。「死ね屑」と叫びたい気持ちをぐっとこらえて、ちょっと耳を傾けてみてほしい。や、まぁ、叫んでもいいけど。
まず大前提として、不倫は他者に知られてはいけない恋の形態だ。女性の場合は親友なんかに話しちゃう場合もあるけどな。しかし不倫関係を長く深く続けたい場合は、誰にも話さないほうが良い。なぜなら、不倫というのはほぼ唯一と言っていい「一対一の恋愛」だからだ。この「一対一の恋愛」こそが不倫の絶大なメリットなので、親友に話してしまうとその関係が崩れる。他人に話すくらいなら、不倫はしないほうがいい。不倫をする意味がない。誰かにバレて内容証明郵便が届くその日まで一人の相手と添い遂げること。これが真の不倫であり、「不倫に悩むアタクシ」を演出する青二才は不倫の醍醐味を知らない。
これは男女の関係に限らずだが、一対一で向き合える関係というのは実に少ない。普通の彼女なら、仲が深まるに連れて両家の親に紹介しあったり、学校で噂になったり、親友からのアドバイスがあったりする。婚約、結婚となれば家族を超えて親戚との関係まで広がる。子供が生まれると更に多くの関係が増える。こういった関係の拡散はもちろん素晴らしいものだが、一方で関係が拡散するに連れて一つの関係性は薄く引き伸ばされていく。そう感じる人が増えてくる。
「不倫に走るバカ女」の典型例としてあちこちで見聞きする「旦那がかまってくれなかったから」「寂しくて」「自分の存在を誰かに認めてもらいたかったから」というような女性の「言い訳」は、この関係の拡散に疲れ「一対一の関係を欲した」ことの言い換えだ。これらの発言は簡単に一蹴してしまえるものではない。と思うぞ。
不倫というのは、拡散して薄まり続ける関係性から目をそらし、ひとつの濃厚な関係を欲する普遍的な感情が根っこにあるものだ。子供がいるのに不倫をする女性の中には、「○○ちゃんのお母さん」でいることに弱っていった結果という場合も多いだろう。その弱った気持ちをモラルでなんとかしろと言われても、実践できる人はそう多くない。揺るぎないモラルなんてものが万人にあるならサービス残業もブラック企業も存在しない。誰でもうつ病になる可能性があるように、誰にでも不倫をする可能性はあるということだ。うつ病よりも確率は相当高いと思うぞ。一夜限りのものも含めると。
また、不倫はお互いの関係性において面倒なことをすべてアウトソーシングできるというメリットもある。不倫相手はいつも小奇麗な身なりをしてくれている。デートの最中も気を使ってくれる。楽しませてくれる。私だけのために。生活臭のすることは言わないし、冷蔵庫の中の配置を勝手に変えたりしないしオナラもしない。自分だけを見てくれる。愛してくれる。恋愛初期のあの情熱が持続する。そうなると、オーガニック的に言う「情熱を秘めた肉体…」ということになるわけで、お子さんや旦那には大変申し訳無いことが日々ベッドで繰り広げられることになる。
反面、面倒なこと"だけ"を押し付けられる旦那は溜まったものではないな。すべてのライトサイドは間男に持って行かれ、自身にはダークサイドしか向けられない。愛も情も冷め切っていく。薄く伸ばされた希薄な関係だけが彼女と旦那を繋ぐのみだ。誠にお気の毒だが。高額な調査料を払って疑心を確信に変えた挙句、得られるのはいくばくかの金と広い部屋、そして女性不信というわけだ。
ちなみに、「不倫中の男女は芸能人の不倫報道をどう思っているか?」だけど、これは単純に「意識しない」で終わると思う。ベッキーの報道を見ても特に何も感じない。それどころか、ベッキーを非難する側に立つこともある。不倫を叩く人の中にも不倫真っ最中の人が結構いるものだ。後ろめたさから叩くのではなく、あくまでも他人事として叩いている。不倫をしていなかった時のように。不倫の話を振られても顔色なんて変わらない人のほうが多いだろう。「不倫野郎はこうあるべき」みたいなものは幻想だ。多くのことと同じく。ベッキーの「センテンススプリング!」の時の気持ちも結構わかる。寝取られ系のエロゲーをやって「なんで主人公はきっちり復讐しねえんだよ!破滅まで追い込めよ!そこまでやらないと片手落ちだろうが!」とか普通に思うよ。
とまぁ、よくも間男風情がペラペラと語るものだと思われているだろうが、実際の所、既婚者諸氏には気をつけてほしい。
配偶者あるいはパートナーと、どれだけ一対一の関係を意識しているか?しようとしているか?
もし少しでも不安に思ったとしたら、この日記を二人で読んでみてほしい。で、話し合ってみてほしい。すでに不倫をしているかもしれんが。その時は「あるある」と思っているかもな。顔色には出さないだろうが。
何にせよ、「一対一の関係」を改めて意識し、繋ぎ直すことは大事だ。上手く行くことを願っているよ。
それと、モテない人は間男になるのもいいぞ。結構いるだろ、「恋愛現役女子相手だとガチガチに緊張するけど、人妻相手なら緊張しない」って人。そういう人は「一対一の関係」に取り組んでもいいと思う。結構上手く行く。がっついちゃダメだが。俺も童貞卒業は既婚女性だからな。変に見栄をはる必要も無いし、恋愛経験のなさが逆に魅力になったりもする。まぁ、最悪刺されるリスクを負う行為なので手放しにおすすめはできないが。刺されるのだけは注意しろよな。心配してるぞ。誠意を持って付き合うようにな。
で、この日記を見て気分を害した人は、そのエネルギーを持ってきちんとパートナーとの関係に注力してくれ。じゃないと、俺が(あるいは他の俺が)寝取るぞ。いや正確には寝取るんでなく、正面突破でお前のパートナーの愛を奪うぞ。エロ漫画じゃないんだから、チンポに勝てなかったとかそういうのは無いぞ。年齢も容姿も性格も無関係だからな。注意するんだぞ。頼むぞ。しっかりやれよ。「うちの妻に限って」ってことがないのが恐ろしいところだからな。大丈夫か。それはもう凄いことをやるからな?やっているからな?今そこにいるお前の、その椅子の上で、ベッドで、な?よくある「最近急に妻の態度が」なんてことはあんまりないからな?そもそもそこに気づかないからこその事態だぞ。もう一度よく見て見るんだ。彼女、おかしいところはないか?ないな?それが怖いんだからな?運動と瞑想は今回はあんまり関係ないぞ。大脳が壊れた人間なんてまずいないぞ。だからこそ恐ろしいんだからな。
すげぇどうでもいいんだけど、俺は「○○はいいぞ」を「学校であった怖い話」の新堂さんの「スポーツはいいぞ」を念頭において使ってるんだけど、最近はガルパンと思われてしまう。非常に生きにくい世の中だ。なんとかならないか。無理か。
追記:
「メリットというのはデメリットと比較するものだろ?デメリットを語れない立場の奴がなにを言っても現時点での主観止まり」「たまたま修羅場がなかっただけだろう」というブコメがあったが、デメリットは誰もが承知だろ?デメリットやリスク、修羅場が誰にでも知られていることと対照的に、メリットは知られていないから書いたんだよ。知られていないというかまぁ、言う奴が少ないということだな。そしてこの日記は、「不倫してる奴がどういう主観を持っているか」を書いたものだ。客観的な不倫話なんてそこら中に溢れているからな。
婚活で、二次面接を通過したはずなのに、最終面接に行く前に落とされた。
日本死ね。
と、まあお約束をかましたところで、本当にお見合いを利用した場合の婚活って就活に似ているなぁとつくづく思った。
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通過=交際開始
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何回か体験したが、どうやらこんな感じらしい。
んで、お断りをする際は人事(仲介者=やり手婆)を介するのがルールとか、いよいよもって就活くさい。
うわあああああああああああクッッッッッッッッッッッッッッソ面倒くさいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!!!
就活に失敗し、紆余曲折を経て正規社員となり、ようやっと同い年(31歳)の平均年収ちょい上くらい貰えるようになって始めた婚活で、
もう二度としたくないと心に深く刻みつけた就活をもう一度しなければならないとか、ちょっとマジ勘弁なんだけど。
いや、ほんとマジ勘弁なんだけど。
なんか、こちらも採用担当であると同時に、あちらも採用担当って感じで、マジ面倒くさい。
いや、ほんとマジ面倒くさい。
これも痛感した。
なんか仕事とかは普通に出来るんだろうけど、肝心な部分で異性とのコミュニケーションが出来ない感じ。
ちゃんと断ることも出来ないようで、相手を不快にするような行為を取りまくる。
こちらとしては、ダメならダメにしてくれた方がダメージが少ないので、さっさと見切りをつけたいんだけど、
いや、もうダメならさっさと次に行きたいし、行けばいいと思うんだけど。
なんで自分も不快、相手も不快にして、時間を無駄にしようとするのか全然分からん。
そして、大体アラサー女で処女は、家庭において父親との関係が希薄か不在。
いやこれ本当。
今のところ何人か会ってきて地雷は9割9分がそうだった。
いいこと言うね。
実際のところは彼らの愛の形がゆがんでるんじゃなくて、単に売名のために人気キャラクターのポルノを描いてるってところまで堕落してる奴も、まあ結構いるよね。
創作と現実を混同するなという意見は、創作が現実にもたらす影響を過小評価してるようで気に入らないね。創作の現実との関わりが希薄になった時、創作の価値自体が薄れるのだと思うね。
ところでキャラクターが消費物として扱われがちになったのは、「勇者」とか「ギャル子」とか一般名詞的なキャラクター(これは2ch SS発祥なんだろうか?)が出てきたことと関係があるように思うね。
キャラクターを属性としてしか捉えようとしなくなったのではないか。いわゆるイナゴ系の人やその周辺の人たちのやるキャラいじりって、典型的かつ表層的なんだよなあ。
2037年、音痴が障害であることが社会に一般化した。音痴という言葉は差別的な表現であるとされ、音声障害者と呼称されるようになった。
また音痴の人を影で笑うことは、四肢が欠落している人、目が見えない人を嘲笑することと同じように、差別的な振る舞いとされた。
音痴を矯正するリハビリ・発声練習には保険が付き、程度の差こそあれ安価で音痴が治る時代になった。リズム音痴・音声音痴はそれぞれ音声障害A型・B型と定められ、病状に応じたリハビリが行なわれた。
コミュニケーションツールとして数十年の歴史のあるカラオケ業界は、岐路に立たされることになった。
カラオケに行けば必ずや数人の音痴が現れる。音痴が障害になったことでカラオケから人が遠のいた。
カラオケ業界は対応策として、高性能のキー同調機能をカラオケに付与した。
カラオケで発せられるべき正しい音声に、自然と矯正して音が響くようにしたのだ。
この技術はそもそもテレビ業界が、歌の決してうまくないアイドルや歌手に対して施していた技術だ。
これがカラオケでも流用され、一般人も正しい音声で歌が聞こえるようになった。
この善後策によりカラオケボックスには一瞬だけ人が入ったが、すぐにまた誰もカラオケに行かなくなった。
誰が何を歌おうと同じだからだ。
こうして、旧石器時代から続いていた営みである歌舞の文化、歌って踊って楽しむ文化は打ち捨てられた。
2106年の現在、音声障害法の制定が、カラオケ文化の衰退を生んだとされているが、これは語ってきたとおり正確ではない。
差別がーとか言われたらめんどうだから増田で書くわ。俺自身としては生理的な話をしてるつもりなんだけどね。
英語の勉強始めてから結構時間かかってるけど、最初の2年位はまったく上達しなかったがようやくできるようになってきた。
それで思うんだけれどとにかく外国語の習得ってさ、文法の基礎さえ分かったらあとは下手でもいいからガンガン実践あるのみってところだと思う。
でね、日本人が英語が苦手なのは白人コンプレックスのせいなんじゃねえのかな。
中国にいった友人はは誰も中国語が上達するのがメチャ早かった。
日本人は白人に対するコンプレックスがアジア人に対しては希薄なので、覚えた中国語は直ぐに、発音がめちゃくちゃでも、恥ずかしがらず、相手構わず使い始めるってことじゃないかな。
この恥ずかしがらず、やたら多くアウトプットすることによって、脳に言葉が効率良く蓄積されて行く。そんなイメージ。
そんな訳で、英会話を習得したい人は白人に教わるよりも、フィリピンで習った方が多分、上達が早いってのを考えてみた。
俺は中国人で英語話せる友人がレッスンに付き合ってくれたおかげでややおかしいけどなんとなく喋れるようになったけどオンライン英会話スクールでフィリピン人相手に練習するのいいんじゃないかと思ってる。
これはステマのつもりで書いてるんじゃなくて、むしろレアジョブ使ってるやつらのステマを俺に聞かせて欲しい。実際どうなん?フィリピン人相手でもやっぱり上手くしゃべれないもん?
http://anond.hatelabo.jp/20160221211019
に対する
kato_19 確かにすごい考察ではあるが・・・楽しめなくて可哀想としか。辻褄や現実にこだわる理由がわからない。私の感想『『ラブライブ!』は私達に何をもたらしたのか?』http://kato19.blogspot.jp/2016/01/lovelive.html
匿名でここまで書くのはすごい!でもおりあそ氏同様、脚本の物語性に非常にこだわる点が自分とは大きく違う所。現実に根ざした物語を超えて、抽象化されたアイドル像に魅力を感じるんだよなぁ。 https://t.co/C43GeQjkcD https://t.co/9DE4lPVVaB— kato19@アニメとスピーカーと‥‥。 (@id_kato_19) 2016年3月19日
について。
まず、彼に限らずアニメラブライブのファンが多少筋の通った批判を目の当たりにすると苦し紛れに発することが多い「楽しめなくて可哀想」という感想について。
この表現にこそ、とにもかくにも「ラブライバーである自分が好きだからラブライブが好き』という感情状態から生じた「ラブライバーでない奴は可哀想」という論理が見え隠れする。
一応、何事も楽しめたらそれは素晴らしいことだ、というのにも一理はある。
しかし、見方や立場を変えてアニメ前の作品内容や原案公野櫻子先生による内容を特に愛するファンから見た場合は逆に、アニメと同等以上に可能性に溢れているそれらの媒体をおまけ以下と扱って注目せずにアニメや声優のみに注目し楽しむ現在の大半のラブライバーこそ、楽しめなくて可哀想に映るともいえる。
本来であればもっと楽しかったもの、もっと楽しくなれるものに期待できず楽しめない状態でありながら、あんな物語性もキャラクターも薄く浅いアニメを萌えるとか尊いとかいって満足して楽しんでいることこそ可哀想だ。
と、子供の喧嘩のような言い合いになるので、楽しめなくて可哀想理論は微妙だ。
次に、「辻褄や現実にこだわる理由がわからない」「脚本の物語性に非常にこだわる点」について。
これもアニメラブライブなど、拙い脚本を持ち味とする作品のファンが内容を批判された場合に反論でよく用いる意見だが、この意見が出てくる時点で大体の場合勘違いが存在しているように思う。わざとの可能性もあるが。
アニメや劇場版のラブライブ、少しずれるが艦これなどに至るまで、脚本内容を批判している人達の大半は恐らく完全な辻褄や現実性、脚本の物語性に非常にこだわっているというわけではない。“最低限”の辻褄や現実性が脚本や演出に伴っていないからこそ批判しているのであって、辻褄や現実性絶対主義者だから批判しているのではないことを盲目的に賛美することしか念頭にないファン達は再認識してもらいたい。
もしくは、彼らにとってそれらの作品の「萌え」や「勢い」といったものが上級表現の「尊い」どころか脚本の物語性や辻褄・現実性の拙さと乏しさから来る違和感と物足りなさを補えるほどには全く至っていなかったのだ、ともいえる。
実際、辻褄やリアルさよりも萌えや勢いで全てを吹き飛ばして満足感をもたらしてくれる尊い作品を自分も欲しているが、アニメラブライブはそれには程遠いと思う。
そしてそのような細かい辻褄の拙さやおかしさを吹き飛ばせる萌えや尊さといったものが存在しているものこそ、アニメ以前の雑誌や漫画におけるラブライブ!だと自分は思うのであるが…。
京極尚彦氏や花田十輝氏、ラブライバー達にとってはそんなものより海外ドラマにのっぺりとした無個性の二次元美少女絵を貼り付けて動かしてたまにライブシーンで踊らせておけば萌えて尊い、物語性など要らないって思ってしまうらしい。そのような部分を見ていると、彼らが一体作品の何を好きなのか分からなくなってくる。(そこでラブライバーはラブライバーである自分のファンでしかないという説が起こる)
ラブライブ!はアニメ以降よりも1stシングルPVのキャラクターデザインの方がシンプルながら個性と卓越性があった。当時は黎明期だし全てが未熟だっただろうという雑な先入観から考えて初期の絵や内容を馬鹿にしている者はファンにも多いが、もう一度しっかり見直してみた方が良い。実際初期の雑誌の絵は拙いもっさりした感じの絵もあって、主にそれを持ち出して「初期のキャラデザはこんなに酷かった」なんてネタにされているのをよく見る。しかし、雑誌やスクフェスなどの公式絵はアニメ化以降でも当たり外れがあるのでそのあたりを踏まえて考え直してみる機会を設けてもいいだろうと思う。
次に「現実に根ざした物語を超えて、抽象化されたアイドル像」とそれに呼応する内容が述べられているブログの記事内容について。
『ラブライブ!』って本当に美しいですね!特に劇場版のラストライブ・・・極限まで高められた美しさに圧倒されました。『萌え』の上級表現である『尊い』って言葉がこれほど似合う作品ってあるでしょうか?
ここまで心に響く理由・・・それは『ラブライブ!』という作品がアイドルの持つ偶像部分のみを分離し、現実の枷から飛び立つ事が出来たから。現実に囚われない理想のアイドル像を実現できたからだと思います。
(アニメの)ラブライブ!って何が美しいのだろう。ラストライブの何が美しかったのだろう…。個人の主観だから仕方がないが、同様に自分の主観だと1stシングルのPVの方がまだ美しかったように思うためによく分からない。
劇場版のライブは1期や2期と比べても心に響くものがなかった。楽曲の質が突き抜けてこないのはネタ切れもあって仕方ない所もあるだろうが、無理矢理終わらせようという勢いと都合に溢れていたからだろうか。
「『ラブライブ!』という作品がアイドルの持つ偶像部分のみを分離し、現実の枷から飛び立つ事ができた」「現実に囚われない理想のアイドル像を実現できた」
この意味がよく分からないが、後の記述から推測すると、芸能界というビジネス的なしがらみのある世界から分離され、物語やキャラクター性といった辻褄や論理から脚本やライブ演出に特化され解き放たれたことで自由になった作品だと言いたいように感じた。
しかし、それと併せて考えて見てもラブライブ!という作品が「現実に根ざした物語を超えて」(いる)というのは、先述したような内容の辻褄や物語性の乏しさという都合の悪さを隠すために言い換えてみただけの取って付けたような表現に感じてしまう。
2013年、そこへ発表されたのが『ラブライブ!』という作品でした。架空のアイドルをつくるメディアミックス・プロジェクトを出自とする本作にとって、現実のアイドルという縛りは初めから希薄なものだったのです。
2013年からラブライブ!という作品が始まっており、その時点でメディアミックス・プロジェクトから分離され独立していることが前提であるかのような書き方に嫌悪感を覚える。
現実から解き放たれたラブライブ!という作品
当時、多くの人がアイドルアニメといえばアイマスのようなものをイメージするなか、京極監督はおそらく気づいていたんだと思います。『アイドルアニメはもっと自由になれる』という事に。
『ラブライブ!』のTV放送一回目。多くの視聴者の度肝を抜いた突然のミュージカル演出。これによって本作がダンスと楽曲のコラボレーションに重点を置いた作品である事を宣言しました。
この方に限らずアニメラブライブ!や京極氏を絶賛する人達はこのように言うのだが、そもそも元からラブライブ!は「スクールアイドル」作品で、キャラクターが外のしがらみから独立して作詞作曲・演奏ライブなどを自由に行う描写がある作品も、ブログでも言及されている『けいおん!』などのように以前から存在しているし、その点においてラブライブがそんなに画期的だったとは自分にはあまり思えない。
また、ダンスと楽曲のコラボレーションに重点を置いた作品であることを宣言しても、作品の脚本内容の致命的な拙さやキャラクター配慮の不備の免罪符にはならないし、海外ドラマからパクって間に合わせただけで許されるわけでもない。
そもそも、元々の設定が存在し、それがある程度当時のファンに支持された上で存在していたメディアミックス作品なのだから、どうせ別のどこかから適当に引用する程度にしか監督や脚本家に作品のキャラクターや物語性への真摯さと思い入れが足りていないのであれば、元の作品から丸々引用する方が良かったはずである。それならコピペでも文句を言われないどころか、原案原作を生かしていて素晴らしいと絶賛されていた可能性の方が高いくらいである。
実際、アニメのラブライブ!で古参新参問わず最も評価が高いシーンの一つである1期8話は1stシングルPVの内容をほぼコピペするようにリメイクした内容だった。
それを、わざわざ無関係の別作品から引用して作品やキャラクターの軸までねじ曲げてしまったのは悪意の盗作という見方がされても仕方がないし、別作品へのオマージュやリスペクトとして捉えてあげるとしても肝心のラブライブ!という作品内容への思い入れと配慮の無さが強く感じられてしまい、その意図と効果は肯定的に受け入れにくい。
その特異にも見える現実離れした演出は回を重ねるごとに深まり視聴者を戸惑わせます。しかし秀逸なストーリー構成は私たちの心を掴み、いつしか違和感を感じなくなっていきました・・・ここに、現実のアイドルという枷が外れた『ラブライブ!』という作品がひとつの完成を見たのだと思います。
分かりやすく「特異にも見える現実離れした演出」があったのは主に1期&2期1話・最終話だったと思う。それ以外は態々特異というほど現実離れした演出があったと自分はあまり思わなかった。そのため、時折挟まれる無駄に寒いコメディータッチな演出や描写に違和感と嫌悪感が生じた。
腐ってもキャラクターアニメであるのにキャラクター描写が雑すぎて、キャラクターの魅力が淡白で薄くなっていて消えてしまっている。とても演出や勢いがどうとかでは補えるものではなかった。その内容については先述の批判考察記事やそこで引用される元の批判記事で書かれているので省略。
また、自分でストーリーの物語性や現実性と辻褄にこだわってアニメラブライブ!を見ることを批判的に捉えておきながら、その作品のストーリー構成を秀逸と考えた根拠も少々謎である。
百歩譲ってその論理からストーリーにこだわらず演出やライブ(ダンス)シーンがいい、ストーリーはおまけだからというなら意味も分かるし、それに特化した自由なアイドルアニメ作品を評価する論理としても、その人の中でそう思えたなら仕方ないかと多少納得できるのだが、そこで、無理なおべっかを使うような賛美を繰り出す所にラブライバーらしい空虚で盲目的な部分を垣間見てしまう。そのような評価の仕方を見ているとやはり彼らの感覚と論理の間には齟齬が生じているように思う。
結局の所、ラブライバーはキャラクター描写の拙さや、脚本や物語性を批判されたら「ライブシーンが見所だから」「ライブ演出が~」と言い、その演出もさほど大したことがないと指摘されてしまうと「キャラクターが魅力的で~」「初期から紡がれてきた声優ライブとアニメとの融合によるコンテンツの包括的に捉えた中でのみんなで叶える物語(の物語性)が~」というような形のことを言って相反した発言を繰り出すために説得力がない。
そしてコンテンツの初期からの積み重ねやみんなで叶える物語という既に剥がれ落ちた空虚な幻想の影を掲げて信奉する割には、アニメ以前の作品像やキャラクター像には最低限の興味や配慮を払うことすら稀な人が殆どである。
そのような点を見ていると、彼らは結局作品の中身には興味がなく外部のパッケージだけを愛しているように思える。「よく分からないけど初期から歴史があって人気が出たからみんなで叶えた物語だ尊い」、「よく分からないけど結構可愛い声優がアニメキャラとシンクロしたダンスを踊るために頑張ってるから尊い」というような状態なのではないか。別に作品を楽しむためには必ず重厚で説得力のある感覚や根拠を必要とはしないが、そのあまりに粗雑な状態の感覚や根拠を掲げることが必ずいつでもどこでも許されるわけではないということは少しだけでも覚えていてもらいたいように思う。
一方で、そこで素直に「アニメラブライブはクソでもラブライバーとしてアニメやライブを楽しんでいる俺は最高だ、だからラブライブは最高だ」と言ってくれるのであれば、それはそれで確かに素敵だと思うし、納得できる。それを聞くことで作品内容自体の素晴らしさは相変わらず伝わってこないが、彼らが作品を最高だと思っている気持ちは本物なのだろうと思えるからだ。しかし先述のように取って付けたすぐに剥がれ落ちるような根拠ばかり持ち出して内容評価を繰り返すようだと、何かに洗脳されたり、駆り立てられたりして仕方なく作品を賛美している状態に見えて、彼らが作品を好きと思っている気持ちすら実は偽物なのではないかという疑念が生じてくる。
実体がなく抽象化したからこそ表現できるものがある。劇中の『飛べるよ』というセリフは、まさにこの作品自体に向けられた言葉のように思えてなりません。
現実のアイドルという縛りから飛び立った時、アニメーションはここまでの表現ができるという事を教えてくれました。アニメーションの可能性がさらに一歩広がった事を実感できたのです。
自分は劇場版の『飛べるよ』という台詞を聞いて、苦笑いを浮かべた。最近(2016年3月現在)話題の違法・脱法薬物使用によるトリップを「飛べる」と表現することがあるが、それになぞらえて、「ラブライブ!を見てば『飛べるよ』」「作品内容もキャラクターも全部積み重ねてきた歴史をアニメ化してから根こそぎ捨ててきたから中身は空っぽだけど、裏には歴史があると思い込みながら「今が最高!」と騒げば『飛べるよ』」というようなパッパラパーな意味に捉えられ、作品批評者にネタを提供しているなと感じた。
「アニメラブライブ!という作品は、包括的なストーリー性やライブ演出が魅力だから作中のキャラクター描写とかアニメ自体のストーリー性は雑でもいい、描写の足り無さは効果的な省略だからおかしくても逆にそれがいい(効果的な省略が得意なはずの監督なのに無価値な蛇足なシーンやキャラが多いのは何故?)」というような無理矢理な盲目擁護調の論理はこのブログの筆者や、某K氏やG氏S氏V氏などラブライブ!賛美系評論者の多くに共通しているように思う。京極尚彦氏や花田十輝氏の信者に共通しているのかもしれない。
自覚すらないの?
すでにこのコメント欄ですら
>キモくて金のないおじさんはテロリストになって社会に復讐するのよ。だから最低限の手を社会が差し伸べないと貴女たちや家族が傷つけられるのよ
こんな見下しコメントがあって★もたくさんついてるよ
「事案発生」で検索してみたら?
http://matome.naver.jp/odai/2135368717890713101
"男が立っている事案が発生"
平成24年6月18日(月)午後6時5分ころ、倉敷市上富井地内で女子高校生3人が電車を待っていたところ、不審な男が立っていたもの。
"女子中学生が帰宅途中、自転車に乗った男が女子中学生を追い抜き立ち去る事案が発生"
概要:女子中学生が自転車で帰宅中、自転車の男がついてきた。男は、女子中学生を追い抜き、立ち去った。
まあ、都合の悪い意見は見えない聞こえない、が劣等女脳の基本だから期待してないけどw
女って被害者意識は過剰で異常だけど
脳に障害があるんだろ
8年付き合っていた彼氏と別れた。正直訴えたい。30過ぎた女捨てる事とか犯罪にしてほしい
http://kijosoku.com/archives/38607787.html
http://girlschannel.net/topics/15906/
現実を見ろよ
ジャニーズ内の格付け(事務所内ヒエラルキーじゃなくてファン視点で)っていまどんな感じなんだ。
女性アイドル含めてアイドルにはぜんぜん詳しくない俺の印象だとこんな感じ。
少し前、まだ毎日勤めに行って、夜勤などもしていた頃、俺は毎日のように死にたいと思っていた。
でもいくらか調子のいい時に自分の気持ちを分析してみたら、本当は死にたいのではなくて、置かれた状況から逃げたいのだと気づいた。
そして、逃げる方法は死ぬことだけではないのじゃないかと思った。
俺は親を亡くしていて、その遺産のおかげで住む場所といくらかの貯金はある。
コミュ障の気があるため独りでいるのが好きだ。ブサメン童貞で彼女も居ないし、もちろん子供もいない。その他の人付き合いも希薄だ。
仕事さえ辞めてしまえば、俺が死んでもすぐ気づく人は誰もいないだろう。
それはつまり、仕事を辞めれば死んで逃げたのと似たような効果が得られるのではないか?
そう考えて俺は仕事を辞め、貯金を増やすことは考えずに維持することを目安に、バイト暮らしを始めた。
出世とか、結婚とか、社会人としての立派さとか、そういうのは全部もういらないことにした。
気持ちとしては、いつ死んでも葬式代くらいはあって、死後処理をする役所の人などにちょっと迷惑をかける以外は、大きく誰かの人生を損なうことはない状態を目指した。
そうしたら、以前逃げたいと思っていたことの全てではないけれど、感覚的に7~8割くらいのことからは逃げられた気がして、とても楽になった。
明るく順調な人生を送ろうとすると、家族がいないとかコミュ障とか仕事が嫌いというような、俺の持っている属性はマイナス点になる。
でも、逃げることを目的にすると、この属性はむしろプラスに働き得るんだと思った。
もし俺に優しい家族やかわいい子供がいたら、おいそれと仕事を辞めてダラダラ生きるなんて出来ないだろう。
もし俺がリア充で、心配してくれる人が沢山いたり、誰かと居るのが当たり前のような人間だったら、独りの毎日が辛くて耐えられないかもしれない。
スヌーピーの「配られたカードで勝負するしかない」という名言があるけれど、カードでなく麻雀でたとえるなら、俺の配牌は字牌ばっかりみたいなものなんだろう。
平和を上がろうとすると厳しくても、九種九牌やチャンタなら狙える手なのだ。国士無双というのはさすがにおこがましいにしても。
http://anond.hatelabo.jp/20151224151950
(追記)
元増田です。
たくさんの反応があって驚いています。
すべて目を通させてもらっているので、いくつかお返事を返したい。
http://anond.hatelabo.jp/20151224152315
女ってそういうのあるから付き合いたくない
本音と建前が交錯する人間関係なんて男も女も変わりないと思ってたけど、男のほうがそういうのさっぱりしているのかな?
どうやって裏アカ見つけたんだろうって方が気になる
Twitterのオススメユーザーみたいな所に彼女の裏垢が表示されてた。
彼女の本垢と繋がってたし、名前も『彼女:裏垢』みたいになってたのと、呟きの内容が本垢と連動してたから確信した。
脇が甘すぎるだろ・・・と思うけど、私にみられようと構わないのかもしれない。
二十年も月一で中高のころの人と会うとかすげーな全然話し合わなくなるだろうに
自分でもよく続いてると思うよ。
話が合わなくなっていたし、月一開催っていうのが息苦しくて、ここ数年は欠席することの方が多いよ。
他のメンバーはどうなんだろう。本当はかったるく思ってたりするのかな。
徹底的に喧嘩するという選択は、正直かなり考えた。
たぶん中学生の私だったらそうした。
だけど悲しいかな、三十路の私は、彼女と喧嘩したり話し合いをする元気が残っていないのだ。
人に憎悪を向けるのって時間や精神の消耗がかなり激しいものでメリットは超希薄なのに、大人になってもそれが解らん人がいるんだよ
まさしくその通り。
人を悪く言ったり喧嘩したりするのってものすごく疲れるし、まして自分に悪意を持った人間だ。
そして一度は好きだったものを、嫌いだと言って攻撃しなくてはならない。
そこまでして向き合って、なにか決着がつくのならばまだいい。
でも結局お互いに憎悪をぶつけ合って、疲弊して、ずっと禍根が残ったままになる可能性のほうが高い気がする。
大げさな言葉だけど、憎しみの連鎖を未来に持ち込みたくないのだ。
私が彼女と争う姿を、おそらく周囲の友人たちもみるだろうし、それでまた私のことを不快に思うひとも出てくるだろう。
なんのメリットも感じられない。
そんなことより、旦那とデートしたり、別の友人たちと飲んだり、大好きなバンドを追っかけることを考えたい。
そして現実的に結婚式とか新居のことで忙しくなりつつあるので、彼女に向かい合うエネルギーが勿体ない。
相手の裏垢を探し出してる自分の行動にはなにか思うところはないのだろうか
ある。
裏垢は探し出したわけではないが、彼女ををヲチってるのは自分も一緒。
もうこんな不毛なことはやめたい。
どうかな・・・。
彼女も婚活パーティーとかは行っているようだけど、あまり一生懸命ではなかったような気がする。
そんな漫画みたいな展開だったらよかった。
旦那とは20年先も50年先も仲良くやっていければと思います。
昔の人の言葉はためになるね。
胸に刻んだ。
中学生みたいな人間関係の縺れだが、いろいろダメージを受けてしまっていて、
このひと月くらいずっともやもやして仕方なかった。
予想以上に反応をもらって驚いているし、
あーなんか感覚の違いがわかってきたかも。自分に唯一の正しい名前があるって感覚が俺は希薄なのかもしれん。
「山田さん」は全くの間違いではなく、山田さんと結婚した時点でサブアカみたいなもんじゃない? それで通じる場所ではそう呼ばれても構わないんじゃないかなあ、って感じ。
どうしても本名で呼ばれたい場所っていうのは、本名による実績の連続性が重要になるところ。仕事の成果とか。そっちは「近所の人が自分をどう呼ぶか」よりははるかに重大であり、行政の手続きなどを一致させるならこちらを優先させたいだろうな、と思う。でもそういう実績の連続性が重要な場面では既に相手は鈴木さんの本名を知っているわけだから問題は起きない。
そこまで実績の連続性にこだわらない人にとっては、日常生活での周囲からの呼ばれ方が統一されていた方が嬉しいのかもしれない。
で、そういう人は自分に関しては従来どおり同姓を選んでいるだろうから、他人から別の姓で呼ばれて嫌だと思うこと自体が生じない。
すれ違いが生じるのは、「実績の連続性にこだわらない後者の感覚の人」が、「別姓を選んだ鈴木さん」を山田さんと呼んでしまうことに対して、自分の感覚から「それは嫌だろう」と余分な気を回してしまう、という場合のみ。
でも別姓を選んだ鈴木さんは時には山田さんと呼ばれることがあるのは慣れたもので、きっとそんなことは気にしないから、あなたも気にしなくていいんじゃないかな、というのが俺の意見。
もちろん人それぞれだから、絶対に鈴木花子って呼んでもらわないとやだ、って人もいるかもしれない。でも現実に知ってる別姓夫婦でそんな人を見たこと無いんだ。俺の知らない頑固な人がいるかもしれないけれど、大多数の場合、「本人は大して気にしないんだから周囲が気にしたって仕方ない」で済むと考える方が妥当だと思う。
繰り返すが、あなた自身が別姓を選択する事情があるのでない限り、あなたが別の名前で呼ばれることを嫌と思うかどうかは関係ないってこと。別姓を選択した鈴木さんがどう思うかだけが問題でしょ?
ツイッターで顕名で議論を試みたが誰も食いついて来ないのでこちらに書く。
俺は、握手とおっぱいの間に、越えてはいけない壁を感じるけどね。それは、割と、日本の社会通念に合致していると信じている。もっとも、アイドルグループの握手会もどちらかといえば嫌悪感を感じるし、自分は参加しないと思う。あと、噂される枕営業が本当なら許容しない。多分、本当にあるんだろうが。
寄付者は誰なのか
おっぱい募金の寄付者をおっぱいを触らせた女性と見る意見には違和感を覚える。そういう意見の人は、ビル・ゲイツが氷水をかぶった後に集まった募金はゲイツが寄付者だと見るのだろうか。それとも、Oh cool !と言ったかどうかは知らないが、それを見て実際に出資した人間と見ているのだろうか。桑田佳祐が無償でライブコンサートして、コンサート収益が寄付された場合はどうだろうか。俺は、いずれの場合も、寄付者は、実際にお金を出した人間だと思うぞ。
収益を得ているのは誰なのか
本件では、当事者は、出演者(女性)、主催者(スカパーのチャンネル運営者?)、出捐者(金を投じておっぱいを触った人)がいて、これら三者の関係は日テレの24時間テレビと近いのではないかと考えている。主催者はチャンネル加入者と広告主から対価を得ていて、利益を得ているんだよね。24時間テレビの日テレが広告収入を普通に得ているのと一緒。次に、出演者が出演料を得ていると、24時間と大分似てくるんだけど、ここは俺の持っている情報では不明。そして、出捐者は、性的なサービスの対価を払ってるんだよね?24時間テレビの場合、マラソンを見たりして、感動して募金するわけだが。
主催者が営利でやっているのに、性的なサービスを提供する女性が無償、っていう枠組みは、チャリティーじゃないって批判される24時間テレビよりもさらにチャリティー性が希薄ではないだろうか。(追記 女性たちは大した対価を貰ってないか、無償な気がするので)想像するに、専門チャンネルで自分の専門(AV女優さん)を宣伝できるんだから無償でもペイする、という考え方のようにも思うのだが、星の数ほど出版されるAVの中で、少しでも目立たないと報酬を得られない女優さんたちの立場の弱さにつけ込んだ性的な収奪のようにも思える。実質、テレビ局に対する枕営業、というか。