はてなキーワード: ルワンダ虐殺とは
なんで、人気ラジオ番組という、”既得権益にまみれたマスゴミ”の煽ったルワンダ虐殺の責任を、YouTubeの動画に責任転嫁してるの?
なんで、”既得権益にまみれたマスゴミ”は、そういう前科があるのに、虐殺の原因にならないと決めて、そんな前科が一度もないYouTubeの動画には、何の根拠もなく、そうなる可能性がある、とか攻撃してるの?
ルワンダ虐殺を煽ったマスゴミは、完全に”既得権益”からの指示を受けて、プロパガンダを行ってたんですけど、何でその話を、「既得権益無罪論」に利用できてるんですかねぇ?
ルワンダ虐殺を起こす可能性のある衆愚が日本に居るなら、こんな無茶苦茶なマスゴミ擁護論を、平気で受け入れてる馬鹿どもでしょ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%80%E8%99%90%E6%AE%BA
>>ルワンダ政府中枢部の指示を受けていた『カングラ』誌は、1990年10月に開始された反ツチおよび反ルワンダ愛国戦線キャンペーンで中心的な役割を担った。
>>1994年4月6日以降、(ルワンダ政府)当局がフツ過激派を煽り、虐殺を指揮するために両ラジオ局を利用した。特に、虐殺当初の頃に殺害への抵抗が大きかった地域で重点的に用いられた。この2つのラジオ局はルワンダ虐殺時に、フツ系市民を煽動、動員し、殺害の指示を与える目的で使用されたことが知られている。
まあ最大の問題は、あの兵庫県知事が、元(テレビなどのマスゴミを管轄する)総務省官僚という完全なマスゴミ既得権益の出身なのに、マスゴミに叩かれ、それを擁護する動画もまた、マスゴミに拡散されたという事実。
多分あの県知事は、マスゴミ既得権益の中でも、人格的に最も屑いヤクザの一人で、それを、反マスゴミのネット民に支持させようと、自作自演で味方だと思わせた、というのが真相に思える。
5月3日放送。NHKプラスで1週間配信。副音声で池上彰とサヘル・ローズのオーディオコメンタリーあり。
ドキュメント エルサレム - 時をかけるテレビ〜今こそ見たい!この1本〜 - NHK
https://www.nhk.jp/p/tokikaketv/ts/WQGK99QWJZ/episode/te/J7W4V9VJKL/
イギリスの三枚舌外交でイスラエルが建国されるまでの前編しか放送しなかったが、後編ではその後の終わらない戦闘やテロはアメリカで生み出されているという内容が描かれている。NHKプラス限定でもいいので後編ももう一度配信してほしいが、見たい人はググってみれば見られたりするのでどうぞ。
[B! NHK] NHKスペシャル「ドキュメント エルサレム(前後編)」がすごかった
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20231111160010
『時をかけるテレビ』。昔の日曜に放送してた森田美由紀アナ司会の『『あの日 あのとき あの番組~NHKアーカイブス~』の後継番組みたいなもののようだが、いつの間にか終わってアーカイブ番組がなくなってしまったのでこうしてリニューアル復活して良かった。
前々回の『なぜ隣人を殺したか〜ルワンダ虐殺と煽動ラジオ放送〜』もすごかった。あの虐殺扇動のラジオDJは、今のインフルエンサーやYouTuberと変わらん。
しかし、残念ながらこれは多くの場合嘘なのだと最近理解してしまった。人は、人が死んでも悲しまないのだ。
例外は親しい相手とか、少なくとも敵意のない知り合いとか、有名人とかである。
そうした相手が死ねば悲しむが、そうでなければ気にも留めない。
殺人事件のニュースは「怖い」かもしれないが、その人の死を悲しむわけではない。悲しむ人もいるが、例外的である。
特に、差別感情を抱いている相手なら死ねば喜ぶ。場合によっては、自分で殺すか、死に追いやる。
関東大震災では庶民が朝鮮人を殺した。ルワンダ虐殺ではフツはツチを殺した。ナチスドイツではヒトラーをはじめナチスの連中がユダヤ人を殺した。いずれも差別感情に基づくものだ。
彼らは相手の死を喜んだ。少なくとも相手の死に悲しみなど覚えなかった。そして、他人に死をもたらした。
そしてゲームや小説で登場人物が死ねば人はその死を喜び楽しむ。嫌いな相手でなくとも喜び楽しむ。
いや、正確にはある程度悲しみも交じりうるが、それすらもゲームや小説の楽しみの一つである。(人が死ぬシーンを作るな、とは言っていない。「規制だ!」とやたら言いたがる人がいるので、魔除けとして書いておく)
マスク着用を求める基礎疾患持ちやコロナ後遺症患者は、政府にとって都合が悪い存在になってしまった。コロナ禍から経済復興しようとしているのに、存在自体が健常者に不安感を与える、生まれながらにして悪い存在、それが基礎疾患持ちやコロナ後遺症患者、という事になると思う。事実上、基礎疾患持ちやコロナ後遺症患者に対する配慮など必要ないかのようにふるまっている千葉県知事みたいに、基礎疾患持ちやコロナ後遺症患者は邪険にされて、経済の敵、存在自体が不景気の元凶で、こういう人間がいるから社会が悪くなるんだと言われるようになると思う。
歴史上、権力者が、反抗されないように民を支配したいときに時に使う手は、国を問わず大体決まっている。民をいがみ合わせることだ。日本は士農工商の下に「えた・ひにん」の身分を作って、抑圧された平民の怒りが、支配階級に向かってこないようにした。現代では、1994年のルワンダ虐殺がそれだ。もともと、ほとんど差がなかった民族を、宗主国だったベルギーがツチ族とフツ族の2つに分け、互いにいがみ合わせて、民の怒りがベルギーにあがってこないようにした。
ついこないだ、G7が行われた。G7の日本以外の国ではLGBTの結婚の権利が、ここ数十年ぐらいで認められるようになった。女性に選挙権が認められるようになった時代と同じような変化が先進国で起きている。
が、日本では、超高齢化と結婚する人自体が減少していることから、票にならないので政治的な優先度は低く、LGBTの結婚が許されるのは数十年後になるのではないか。一方、機械翻訳と国際化により、LGBTであることを理由に差別する言説は、だんだん許されなくなっていき、企業にはコメントなどに含まれるLGBTへの差別的発言を自動発見して削除するAIなどを導入する事が普通になるだろう。
するとどうなるか?要するに、日本は政治的にはLGBTが認めるような権利を長期に認められない中、企業の方が先にLGBTの権利を強く認める方向に転向していくだろう。当然、LGBT層にはフラストレーションがたまり、政治的にもちゃんとした権利をLGBTによこせ、と主張するようになる。
フラストレーションのたまったLGBT層の怒りが政府に向かわないようにするため、政府は何を考えるか…LGBT層と非LGBT層の間に共通する事は何かを考えれば、それは大多数が身体的には健常であることだ。基礎疾患持ちやコロナ後遺症患者は、今後、社会が徐々に感染対策を緩めるのに反対し、健常者にとってマスク着用を強制する厄介な存在になるだろう。
そこで、LGBT層の怒りをしずめ、非LGBTである人間はLGBTの仲間であることを強調するために、政府は基礎疾患持ちやコロナ後遺症患者を目の敵にして、彼らがいかに厄介な社会の敵であるかをメディアを使って喧伝するようにするだろう。LGBTでも健常な人間は誠実に働き、社会に迷惑をかけずにマスクを外して気持ちよく働いている。一方、基礎疾患持ちやコロナ後遺症患者は、政府から医療費をぶんどり、経済を悪化させる社会の敵であるように喧伝される。特に、高齢者ではない基礎疾患持ちやコロナ後遺症患者は、コロナ禍前の生活保護受給者のような扱いをメディアで受け、恥ずかしい人間であると攻撃されるようになるだろう。
そうやって、LGBT層に対する怒りを、よりマイノリティである基礎疾患持ちやコロナ後遺症患者に向かうように仕向けて民をいがみ合わせ、根本的なLGBTの結婚の問題は一切進まない・進めないようにハンドリングされるのではないか…自分はそう思っている。
詰まる所、いつの時代も、政府が民を統治する簡単な方法は、民をいがみ合わせて怒りが政府に向かわないようにする事だから、今回も同じようになると思う。
https://anond.hatelabo.jp/20220729194901
さえぼう先生はかなりまともなフェミニストだということは確認しておきたい。
確かに呉座さんの一件では明らかにおかしかった。個と公の区別がつかなくなって愚にもつかないオープンレターを出した上、批判にもまともに向き合わなかったのでMUGEN フェミトーナメントにおける狂キャラみたいな扱いになっちゃったけど、あの一件を持って全否定するのは反対だ。
あれは沖さやかさんなど他の人も絡んできたせいで自分一人でうまくコントロールできなかっただけで、個人の活動としては結構真っ当なことを言ってる。
男全殺し委員会の件なんかても叩かれてるけど、あれかルワンダ虐殺の扇動と同じくらいの大罪として語られてるのは納得いかん。他人の学術論文を翻訳しただけでそんなこと言われたらヒトラーの研究やってる人全員縛り首やん。私はこの点でさえぼう先生批判してる人には反対やで。
「虐殺は増える相手にしかやらない」のは、中国政府にとって人口増加は脅威なんだろうね。実際、一人っ子政策とかやってきたわけだし。
フェミニストによる非モテ男排斥運動の場合、国民を扇動してやってもらうんだよ。
ルワンダ虐殺もアメリカの奇妙な果実も、社会的影響力が強い人達が国民を扇動し、殺人をやってもらったんだよ。
国民からしてみれば、この扇動は殺人を法的に承認したのと同じことだ。
非モテ男排斥運動がエスカレートして起こる虐殺は、政府や軍隊のような公権力が繊密に行うものではなく、国民が無秩序的に行うものになるだろう。
チリが積もれば山になるように、非モテ男排斥運動は日本各地で「こいつキモいから殺した」が積もって大量の犠牲者が出る虐殺になる。
これらは普段対立し、憎しみ合っているが、これらの思想グループに共通する特徴がある。
そのイデオロギーに属する、努力をせず、自分の無能力を他人のせいにする「そのイデオロギーしか価値がない人間」が大暴れするということだ。
この手の人間はプライドが高く、無意識のうちに「自分がこの世で最も優れた人間である」という幻想を守るために、唯一のイデオロギーの価値を最大限まで上げるべく行動する。
だが、上にあげたように努力をしない。そうすると彼らができることはたった一つ。
「自分の持つ価値以外の全てを否定する」という行動に走る。そのためにわかりやすい悪人を発見、または開発し、徹底的に攻撃する。
そうすることで自分たちは「可愛そうな被害者かつ正義の戦士」に早変わりし、自信、正義の安心感、大義名分の全てを一気に獲得できるという具合だ。
もしあなたがこれらの思想に属する人間なら、この手の人間(敵がそういった人間を装う場合もある)は敵以上に味方の評判を落とすので、はっきりと批難すべきである。
そうでなければ、あなたの正義の正当性を判断する第三者は、そのイデオロギーはそういった正義の蓑をかぶった差別的言動を許すものだと判断し、距離をおいてしまうだろう。
そうでなくても、そのイデオロギーに関して本当に困っている人が「そうか、あいつらが悪いのか!」と安易な結論に飛びついて過激派に走り、問題を起こしてしまう。
ひどい話だが、被害者意識がある人間が大義名分を得ると、とんでもなく残虐になるというのはルワンダ虐殺が証明しているところだ。
また、被害者を焚き付けて自分たちの兵士にするというのは利権ゴロやイスラム過激派に見られる典型的な悪へのリクルート方法でもある。
最後にもう一度いうが、これはフェミニズムやリベラル、愛国だけの問題ではない。趣味、仕事などありとあらゆるイデオロギー活動で必ず起こることだ。
New York Timesはシリコンバレーのヨーダというタイトルで「The Art of Computer Programming」の著者でTeXの開発者としても有名なドナルド・クヌース博士(80)の紹介記事に25ブクマ。
https://www.nytimes.com/2018/12/17/science/donald-knuth-computers-algorithms-programming.html
GuardianはGuardianの会社がmysql派生のMongo DBからPostgreSQLに乗り換えるという記事に20ブクマ。今年の3月に上げられた記事。
https://www.theguardian.com/info/2018/nov/30/bye-bye-mongo-hello-postgres
BBCはSlackがアメリカが経済制裁中の地域に行ってきた人をアカバンしているという記事に18ブクマ。
https://www.bbc.com/news/technology-46642760
もう1件ルワンダ虐殺から数十人の人を救ったZura Karuhimbiさんの訃報記事に6ブクマ。
https://www.bbc.com/news/world-africa-46618482
South China Morning Postはカール・マルクス生誕200年記念として中国で伝記アニメが作られておりビリビリ動画で予告編が配信されてるという記事に3ブクマ。中国政府肝いりで作られるという。
ヘイトスピーチ論について個人の理解を並べてしまうが、あれは言論の自由などという抽象的な概念より、現実の世界の実利が優った事例と言えるだろう。
もしルワンダ虐殺が止めれるのであれば、ラジオ報道の自由など、規制された方が良い。
韓国人ヘイトは、韓国人がなんとなく嫌な思いをするからではなく、韓国人街で住民同士の対立を煽るデモが繰り返されるに至って規制された。
そこのところ、一般に流布されている言説は多くが勘違いしてると思う。ヘイトスピーチは、差別だから駄目なのではない。治安が悪化するから駄目であるはずだ。
となると、新潮45についても、同じ理屈が適応できるはずだ。ああいった論を提示することで、社会に看過しがたい不利益が発生しているか? 個人的には発生していると思うが、それは言論の自由という価値のプラスを下回っているか?
id:envsです。
ヘイトスピーチ論に関してはルワンダ虐殺の例も含め、私の不勉強な面があります。
ヘイトスピーチをどの程度規制するか、規制する際の法的手続をどうするか、検察が刑事で訴えるのかそれとも民事で訴えるのか、民事で訴える場合誰が原告となりうるか、権利を制限するものだから憲法に明記すべきではないか、ヘイトスピーチの事前抑制は認められるべきか、そしてヘイトスピーチの定義をどのようにすべきか(件の新潮45の記事はヘイトスピーチか)、など、私の中で立場を決めかねている問題が多々あり、現時点で満足行く回答をすることができません。
ヘイトスピーチの規制は、ともすると、ポリティカルコレクトネスの徹底的運用による対立の深化・表現の萎縮や、ポルノグラフィティ規制論など、あまり私が望まない方向へと繋がりかねないのではないかという懸念があります。
当然上記によって割を食う表現やその表現に愛着を持っていた人の権利よりも、ヘイトスピーチで侵害される人間の権利を守る方が重要ではないかという意見も理解できます。
キモくて金のない40代おっさんです。現在立っているフラグは以下の通り
NHKに名指しで「死ね」と言われたとき(一応『AIが言った』体になってますが)、ふと浮かんだのはルワンダ虐殺の際にラジオから流れた「ゴキブリを殺せ」というプロパガンダのことでした。
あの番組を見た後で、私こそがゴキブリだったんだとはっきりと自覚させられ、これ以上日本の社会と接点を持つのは互いに不利益しか生まないのではないかという思いを一層強くしました。
一方で、だからこそ今の自分にできることを少しずつ広げていって、社会との接点を持ち続けるべきという正論も捨てたくはありません。
最近、アルコールに手を出して身持ちが崩れ始めました。ナマポ受給で酒のんでアル中直行とか最低すぎる。これだからゴキブリなんだ俺は。苦しい。逃げたい。
苦しんで死にたい。それを見世物にされ、尊厳を踏み躙られて消費されたい。多分日本が望んでいるのはそういうことだろうと思う。それが、自分ができる唯一の“真っ当”な生き方だと思う。
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トラバありがと。
時間もたって落ち着いた感もあるので。
フジロックで昨年、シールズがトークショーに参加したことで批判を浴びた。
という批判だった。
その際にメディアで盛んに主張されたのが
という文脈を無視して(あるいは知らずに)政治との関わりを絶つというのはネトウヨ或いは無知蒙昧な馬鹿である。
と言う主張だ。
※ちょっと語気荒いけど、大体こんな感じだったと思う。
私はこの類の主張を目にして、言っている内容は筋道が通っているけどもやはり少しずれているなとも思った。
というより、今の音楽界隈に対する不満や足りない点が見えてきたというところだろうか。
・トークテーマは「参院選を振り返る。安保法制、沖縄、憲法、原発」
ちなみにアトミック・カフェというのは以下のようなイベントである。
アトミック・カフェ・フェスティバル(ACF)は、映画『アトミック・カフェ』の上映運動に由来するフェスティバルであり、日本で1984年に開始した。
「音楽を通じて反核・脱原発を訴えていく」がテーマのイベントで、1980年代には加藤登紀子、浜田省吾、宇崎竜童、尾崎豊、ザ・ブルーハーツ、ルースターズ、エコーズ、BOØWYらが出演していた。1984年に日比谷野外大音楽堂で開催された第1回目のライブでは、尾崎豊が高さ7メートルの照明から飛び降り左足を骨折するも、ステージに這いつくばりながら「Scrambling Rock'n'Roll」を最後まで歌い続けたという有名なエピソードが残っている。1980年代の最後の開催は1987年であった。
2011年のフジロック・フェスティバルでアトミック・カフェ・フェスティバルは復活した。フジロックでの開催場所はバイオディーゼル燃料や太陽光などを電源に使用するNew Power Gear Field/AVALONエリアにあるGYPSY AVALONステージとNGOヴィレッジの2か所。
ロックフェスティバルで、このようなイベントをするのはロックが政治と密接に関わってきたからでもある。
ヒッピー文化とかカウンタカルチャーとかまぁざっくり説明するくらいでもはてな民ならなんとなくはわかるだろう。
※というか俺もそれほど詳しくないし。
ロックの曲自体に反体制的メッセージが直接なくても社会的盛り上がりから、そういう文脈があるとか
まぁそういう感じだ。
ここからが本題だが、上記のような事情を知った上で違和感を感じたことが2点ある。
②安保、沖縄、反核・脱原発というトークショーのテーマの妥当性
そもそも今のロックはそんなに反体制的なの?という疑問点がまずある。
詳しく調べればまぁ、まず政治的なメッセージの込められた歌はあるだろう。
しかしながら反核・脱原発を訴えた曲がそこまで多いのかといわれればぶっちゃけそんなイメージは全然ない。
2016年のフジロックで反核・脱原発系と解釈できる曲があるのであれば教えて欲しい。※一応補足しとくと1曲、2曲程度の話ではなくここで言いたいのはフェス全体の傾向である。
つまり、現在のロック界の表現している内容とトークショーの内容があまりに乖離しすぎではないのかということだ。
アジカンの後藤さんはTwitterで以下のような発言をしていた。
あとすんごい不思議なの、俺、ほとんどライブのMCで政治の話しないんだけど(NO NUKESとかのフェスを除く)、さもしてるような感じで絡んでくる(妄想してる)人が絶えないこと。大体そんな感じで、来たこともない人たち、本やTFTを読んでくれなひとたちだけが、そういうことを言うのよ。
正直この発言を見てずっこけた。
そりゃ客も面食らうわ。
なんかイキナリ「実は政治的メッセージあんのよね」的な感じになってしまう。
10台の客捕まえて、「俺達は政治的な発言しないけど、過去の人はしてきたからロックは反体制」
とか言われてもえぇぇ!?と言う感じになる。
今のロックの雰囲気みてるととても反原発的な話をするかんじではない。
そしてもう一点気になったのが以下である。
正直、安保、沖縄、反核・脱原発というテーマはやっぱ乖離しすぎじゃね?
と思うわけだ。
「この世界の片隅に」で植民地に関する議論、あるいは軍部どうたらとか、あるいは市井の人の生活について語る
とかならまぁわかる。
というのもまぁわかる。
そんなに好きじゃないけど。
「シン・ゴジラ」と「君の名は。」と「聲の形」と「この世界の片隅に」で「ルワンダ虐殺を語る」くらいに違和感があるわけだ。
いや、そりゃまぁ戦争だし、日本軍も虐殺したけどねって感じだ。
どうにも、そういう「あまりにも飛躍しすぎである」感がアトミックカフェからはぬぐえないのだ。
と言いたくなるのはわかるのだがなんか批評のレベルが50年前走ってねぇかと思うわけである。
と言うわけで反体制的であることをちゃんと今の人達に広く伝えるには今のロック歌手も定期的に政治的なお話をして
また、周囲もちゃんと批評も行ってレベルを高めるべきだと思う。
正直時間も立ちすぎてロックそのものが反体制であるというのは無理が出てきている。
そんな状況ではロックは存在そのものが反体制とは安易には主張できない。
wikiで分断統治の項目を調べると、今の日本でも分断統治政策が行われているとしか思えない。。。
都市毎に応じて処遇に格差をつける分割統治によって、征服した都市からの反乱を抑えることに成功した。
イギリスはインドで、人種、宗教、地域の差異で分割した集団を互いに反目させることで長期の統治に成功した。
ベルギーやドイツは、ルワンダ・ブルンジにおいてフツとツチに格差をもうけ、少数派のツチを中間的な支配層とした。これがルワンダ虐殺の遠因となったともいわれる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E5%89%B2%E7%B5%B1%E6%B2%BB