はてなキーワード: ポリティカル・コレクトネスとは
↑これの続き。
少年ジャンプの漫画『ゆらぎ荘の幽奈さん』が炎上しているのを見て、私はハイヒール・化粧を滅ぼすべきだという気持ちを新たにした。
この件に関して、リベラル側の主張は、「セクハラを肯定的に描いた漫画を子供に見せるべきではない」というものだった。
私もこれに賛成である。もちろん表現の自由があるので、ああいう有害表現のある漫画を発禁にしてよいとは思わないが、ゾーニングをして子供の目が届かない場所に置くという配慮が必要だろう。
そして、これは化粧・ハイヒールについても同様のことが言える。
私は化粧・ハイヒールのような有害物をゾーニングするべきだと思っている。
「女は化粧・ハイヒールを好むのが自然だ」「化粧・ハイヒールを使えば美しくなれる」というイメージを子供に植え付けることは、大変に有害だ。子供にそういうものを見せるべきではないし、もし見せるとすれば何らかの教育的配慮が必要だ。
女性の中には、たしかに自分で好んでハイヒール・化粧を選ぶ人たちも多い。
一方で、それを女性のスタンダードだとして強制する空気もある。
仮にハイヒール・化粧そのものには罪がないとしても、それが同調圧力となっていて、すでに実際の人権侵害が起こっているのである。このファッションの愛好者たちには、社会的責任を取らせるべきだろう。
もっとも、化粧・ハイヒールを楽しむことは、一応は表現の自由や幸福追求権に含まれるのであって、その権利を奪ってはいけない。
しかし、なぜ子供が見ている場所でそれをやってみせる必要があるのか? なぜ女性たちを縛りつける同調圧力を作ってまで、公共の場所でそのファッションをする必要があるのか? 私はこの不正義に怒っている。
どうしてもやりたければ、愛好者だけが集まる場所を作って、そこで存分にハイヒール・化粧を楽しめばいい。なにも完全に規制しろというのではなく、時と場所をわきまえてくれというのが私の主張だ。
リベラルの何がクソなのかというと、あいつらはラディカルな左翼とは違って、やっていることが世俗的すぎるし、大衆の味方をしすぎている。
例えば彼らが主張している「ポリティカル・コレクトネス」は、あくまで現代の大衆が受け入れられる程度の正しさである。
それは大衆の好みを忖度しまくった上で構築された概念であり、本当の意味での正しさではない。
例えば先日のニュースで、アメリカのディズニーランドの『カリブの海賊』のアトラクションで、花嫁オークション(人身売買)のシーンが女性差別だとして中止になったという報道があった。
はてなやTwitterで反応を調べてみると、案の定、リベラルはこれを好意的に受け止めたようである。
言うまでもなく、女性差別をエンターテイメントとして消費するのはポリコレに反するから、ディズニーランドの今回の判断は進歩だと見なすことができる。しかし、本気で正しさを追及するつもりがあるならば、「差別から目をそむけるな。差別について学習する機会を奪うべきではない」という意見になるはずだ。
「ディズニーランドは娯楽施設であって、差別を学ぶための学習施設ではない」
「エンターテイメントなんだから、正しさを過度に求めてはいけない」
これはまるで、表現の自由戦士のオタクどもが必死になって、有害でおぞましいアニメ・漫画を正当化するときに使っているロジックそのものである。
つまり、リベラルにとっては、オタクのような異端者は弾圧してよいが、ディズニーランドを楽しむのは大衆の権利だから擁護しなければならないというわけだ。この恣意的な基準によって構築されているのが「ポリコレ」だ。
リベラルが言うところのポリコレとは、大衆の好みを反映し、せいぜい大衆の利益を損なわない程度に追求すればよいものであるらしい。だから、ディズニーランドを廃園に追いこめ、廃園しなくていいが年齢制限を設けろ、というような話には絶対にならないのである。
なお、ディズニーによくある「お姫様(プリンセス)」を美化する物語も、私は有害だと思っている。こういう物語は身分差別を正当化しているし、労働者や庶民を軽んじすぎていて、そのことが民主主義の妨げになりうる。
これは子供に悪影響を及ぼすだろう。リベラルはこの点に関して甘いので、私のようにこれを有害表現だと断罪してみせることはない。それどころか、恥知らずにも『アナと雪の女王』を絶賛している始末である。
このことからも、リベラルの唱えるポリコレというのが本当の正しさを求めているのではなく、普通の大衆が受け入れられる程度の保守的な道徳観に基づいていることが分かる。
大衆は、例えばオタクのような異端者が腐臭を放っていることを我慢できないくせに、自分たちがいかに腐臭を放っているかに無自覚だ。リベラルはこの大衆を代弁している政治勢力なのである。ゆえに、リベラルは、大衆に過度の負担を強いるほど厳格なやり方で正しさを追求することには耐えられず、「ハイヒール・化粧を規制しろ」という私の主張には反発するのである。
リベラルがLGBTの権利を擁護するときの姿勢を見ても、このことは一目瞭然だ。
彼らは「同性婚を認めるべきだ」とは言うが、「結婚制度を粉砕しろ」とは言わない。
結婚などというのは、個人主義を抑圧している封建主義の産物であるが、リベラルはあくまでも大衆の利益であるところの結婚制度を維持しようとする。その上で、そこに同性愛者を取り込もうとしているのである。
これはまさしく、大衆の利益を損なわない範囲内で正しさを追求していることの証左だ。大衆には過度の負担をさせないという原則、リベラルにとってこれが一番重要なことなのだろう。
ゆえに彼らがやろうとしているポリコレの追求とやらも、ことごとくこの原則を基盤にしたものになっており、ひどく不徹底なのである。
追記。
ちょうどホットエントリの増田があったので、私もそれにかこつけて追記を書きました。
ともあれ、ハイヒールは滅ぼさねばならない。
↑ これの筆者である。私がこのエントリを書くにあたって意識したのは、共産主義、ファシズム、ラディカル・フェミニズムだ。そこにミソジニーの味を加えてみた。
ついでに、最近話題のポリコレも組みこんだ。その点ではリベラル思想も汲んでいる。
文章はいい加減だし、今日の日本において実現可能性はゼロだと思うが、この主張自体はマジメに唱えているつもりである。
たとえば、労働問題について考えてみよう。
「過労死するほど働く自由」と「過労死するほど働かない自由」の両方を労働者に与えれば、それで十分だろうか?
私はそうは思わない。読者諸君も、一部のリバタリアンを除けば、「過労死するほど働く自由」を認めないはずだ。
「過労死するほど働く自由」なんていうものは、たとえそれを望む労働者がいるのだとしても、決して認めてはならない。政府が長時間労働を厳しく規制し、それを抑圧することが必要だ。
人が趣味や遊びをやりすぎて死ぬというのは愚行権の範囲で、一応は自由だと言えるかもしれない。しかし労働問題においては、そういう権利を適用するべきではない。
長時間労働は、それをやる自由とやらない自由の両方を認めてしまった場合、ブラックな労働環境の中で強制的にやらされて苦しむ人が続出するのが明らかである。
女性が労働するときのハイヒール・化粧についても、これと同様のことが言える。
明治時代の日本でも、あるいはどこかの後進国でもいいが、近代化の過程では必ず「上からの改革」がある。
「旧弊に従う自由も、旧弊に従わない自由も、どっちも認めましょう」という生半可な方法では、おそらく近代化を達成できない。国民はややもすると旧弊に従おうとするからだ。だから政府が強権的に指導し、旧弊を排除することで、国民はようやく新時代に適応できる。
たとえば女性差別がひどい国では、政府が女子教育の権利を提唱しても、おそらく多くの国民はそれに従おうとしない。
権利を与えるだけでは、都市部のごく一部の家庭が娘を学校に通わせるにとどまるだろう。貧困層や田舎にまで女子教育を普及させるには、政府が国民に権利を与えるだけでは不十分であって、その権利を行使することを国民に義務付けなければならない。
「おらが村では女子教育なんてやらない」とか、「うちの家庭は伝統的な女性にふさわしい育て方をしたい」とか、そういう保守的な反発をするのは男性だけではない。母親や祖母も「女はかくあるべし」と考えている。「女子を学校に行かせる余裕なんてない。家の手伝いをさせたい」と思っている毒親もいるだろう。
そして女子児童は、当人がまだ子供であるため、自分がどういう価値観に従うべきかを判断できずにいる。
ここにおいて「多様な価値観を尊重せよ」などという主張は有害だ。政府は旧弊にまみれた価値観をきっぱりと否定しなくてはならない。
当然ながら現代の日本で、後進国が近代化するときのような強権的なやり方は適さない。とはいえ、政府や会社のお偉いさんが主導しなければ何も改善しないというケースが多いのも事実だろう。
たとえば就活の会社説明会で服装自由と言われたら、参加者は皆がスーツを着てきたという笑い話がある。こういう未開社会のごとき状況を改善するためには、「必ず私服を着ろ。スーツを着るな」という強権的な命令が必要だ。
上から改革をおこなって、下々の者は全員一斉に従う。――今日でもこれが最も現実的な手段なのだ。
私はなにも女性からハイヒール・化粧の権利を奪おうというのではない。会社や官庁ではそれを禁止しろと言っているだけである。
前回に書いたとおり、ハイヒールも化粧も、やりたい人だけがプライベートな時間に楽しめばよい。(短髪はすぐに伸ばせないけれども、それならカツラをつけて好きなヘアスタイルにすればよい)
私がこのように主張するのは、リベラル思想の影響を受けたからだ。
もし本物の極左ファシストであれば、プライベートな時間にもどんどん介入し、ハイヒール・化粧を完全に禁止するであろう。しかし、私はそこまで厳しい統制には反対である。
近年、女性蔑視の"萌え絵"等が問題になっているのをよく見る。
そのときのリベラル側の主張は、「女性蔑視の表現は政治的に正しくない。プライベートでその表現を楽しむ自由を制限するつもりはないけれども、公共の場所ではちゃんとポリコレに配慮せよ」というものであった。
私はこれに賛成だ。そしてそうである以上、ハイヒール・化粧もまた、公共空間から追放せねばならないと思う。それらのものは非常に女性蔑視的であるからだ。
もっとも、ハイヒール・化粧は女性たちが好んで選択しているという場合が多いだろう。
「女性の主体性を尊重しましょう」――これがリベラルにとっての錦の御旗なのだ。
しかし、私は世のリベラルほど無邪気になってその御旗を掲げることはできない。前回に書いたことの繰り返しになるが、女性がハイヒールや化粧を好んで選択することは、被差別者がなぜか自分の受けている差別を肯定するという現象だからである。
被差別者が望むならば差別を受ける自由はあるのか? 被差別者であればその差別を正当化してよいか? これはきわめて難しい話である。ただ一つ言えるのは、ここにポリコレ的な問題意識を持たないリベラルは、よっぽど鈍感か、よっぽど不誠実ということだ。
(この意味では、リベラルを気取っているフェミニストなんかより、ラディカル・フェミニズムの方が先鋭的になって突っ走っている分だけ、かえって正しい認識を持っている。)
私は歴史に詳しくないため、このさきは与太話しか書けないが、昔の中国には纏足という習俗があった。
そしてこれはあまり知られていないことだが、お上が纏足を強制していたわけではない。とりわけ清朝は漢民族のこのバカらしい習俗を忌避し、それを禁止する傾向にあった。にも関わらず人々は好んで纏足を選択し、競うようにその美しさを賞賛していたという。
女真族(満州族)の建てた清朝が纏足禁止令を出しても止めようがなく、結局、義和団の乱以後の近代国家への動きの中で反対運動が起こり、まずは都市部で罰則との関係で下火になった。しかし隠れて行われ、中国全土で見られなくなるのは第二次世界大戦後のこととなる。最終的に絶えた理由として、文化大革命で反革命的行為と見なされたこともある。このため、現在でも70歳以上の老人に一部見受けられる。
当時、女性が嫁に行くと、嫁ぎ先では何よりもまず最初に、花嫁の足を調べた。大きな足、つまり纏足をしていない普通の足は、婚家の面目をつぶすものだ。姑は、花嫁衣装の裾をめくって、足を見る。足が十二、三センチ以上あったら、姑は裾を投げつけるようにして侮蔑をあらわし、大股で部屋から出て行ってしまう。婚礼に招かれた客は、その場にとり残された花嫁に意地の悪い視線を投げかけ、足を無遠慮に眺めて、聞こえよがしに侮蔑の言葉を口にする。母親のなかには、幼い娘の苦痛を見るにしのびなくて纏足を解いてしまう者もいる。だが、成長した娘は、嫁入り先で屈辱を味わい世間の非難をあびると、母親が心を鬼にしてくれなかったことを責めるのである。
この引用で注目するべきは、姑や母親たちが纏足を推進していたということだ。
そして子供のときは纏足を痛がっていた娘自身も、親に纏足してもらえてよかったと考えていることだ。
さらに言うと、纏足は、男性中心の社会から女性たちが悪弊を強制されていたという観点だけで語ることはできない。それは女性自身が願望するところの"オシャレ"でもあった。
「纏足は、女性の誇りだった」「女性は肉体で動くから、痛みに耐えれば、高貴でよりよい人間になる」「母から娘への 女性になるための教え」「痛みを通して、身体を使って、女性は成功する」「足をより小さく、洗練して優美にすることで、女性は大きな誇りを感じた」
http://coconutpalm.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/--10---0239.html
西洋で女性を苦しめたコルセットにしても、きっと纏足と同様、女性自身が望んでやりたがるオシャレという側面があったはずだ。
これはまさしく、現代日本の女性が「ハイヒール・化粧はめんどくさい。強制されるのは嫌だ」と考えていながら、一方ではそれをやりたい願望を持っていて、結局それが手放せなくなってしまい自家撞着するのと同じ心理だ。
ハイヒール・化粧をやるかどうかに関して、「女性の主体性を尊重しましょう」とか「強制にならないかぎり両方自由です」ということを言っているリベラルは、あまりに鈍感かあまりに不誠実か、そのどちらかのために、この観点を見落としている。
無論、健康面やそれにかかる手間を考えれば、纏足やコルセットよりもハイヒール・化粧は随分とマシである。ただ、それは差別が過酷なものから軽いものになったというだけだ。進歩はしているけれども、まだ差別を克服できていない。
だから我々はさらなる進歩のため、おしゃれをしたいという女性の願望を抑圧しなければならない。ハイヒール・化粧を好んで選んでしまう女性性(女性らしさ)は、政治的に正しくないのである。逆にそれを憎悪するミソジニーこそが政治的に正しいのだ。女がオシャレをやめることで初めて男女平等を達成できると私が主張するのは、この洞察に基づくものである。
なお、議論はここにおいて、私が冒頭に書いた長時間労働の問題につなげることができる。「過労死するほど働く自由」を是認しようとする資本家・知識人は、プロレタリアの敵である。我々はこれを打倒しなくてはならない。
この理論を適用すれば、女がオシャレをする自由を是認しているリベラルと一部のフェミニストこそ、女性差別の温存を図っている連中だと言えるだろう。
twitterをなにげなく読んでいたら、たまたま的確な言葉を見つけた。
リベラリズムの本質的価値-自由、平等など-は、どこにあるのか? 逆説めくが、リベラリズム自体はその本質的価値を原理主義の激しい攻撃から救えるほど強くはない。 リベラリズムがその重要な遺産を生き延びさせるためには、ラディカルな左派の同志愛による助けが必要となるだろう。
「スラヴォイ・ジジェクbot @SlavojZizek1949」より
https://twitter.com/SlavojZizek1949/status/864981669509332995
前回のエントリは、穏健なリベラリストから散々顰蹙を浴びた。それは投稿前に分かっていたことだ。
ポリティカル・コレクトネスの考え方から言うと「妊人」
ダメだ。
そうやって、さも当たり前の共通言語のように、ツイカスだとかクズだとか、品性に欠ける単語を使ってしまっては。そうやってラベリング意識を刷り込み、他人を侮蔑することを当たり前にやるというミームを感染拡大させる、それは増田が嫌うネットの人々がやっていることと何も変わらない。特に、私達のようにWebを見てきた30や40を超えた人間は、ネットの空気になじんだような口調になってはいけない。
どんな嘲笑を受けようが、自分の高潔さを保ちながら、丁寧な言葉を選びながら誠実に謙虚に核心を突く議論を(たとえ匿名でも)展開していく。そういう事を続けて、わずかでもその姿勢に共感して倣ってくれる人を増やしていかないといけない。ただでさえネット上ではみな次第に同じような卑しい口ぶりと思考回路になっていくバイアスがあるのだから、それに抗って「ネットの向こうの人」の多様性を見る者に意識させていく必要性が、今ますます高まっている。
想像してみてほしい。Webの言論が悪化してみえる大きな原因の一つは、発信者がリアルに低年齢化しているからではないか。10年以上前の時点ですら、小中学生がPCを使ってMMORPGに入ってくることがあった。今の子どもは幼稚園以前からスマートデバイスに触れて、小学生でも大人以上に使いこなす。そうしてネット上で、子どもが子どもを「キッズ」だなんだと揶揄しているような中に、そうと気づかず青年や中年までも同じようなノリでやれやれと叩きはじめる。現実に、小中学生がしょうもないいがみあいをしている所に大人が一緒に混じってやりあうことがあるだろうか。ネット上では、ある。しかも悪いことに、子どもたちは彼らが自称ながらも本当に大人であろうということを知ってしまっている。世の中はそういうレベルものだという認識を強めていってしまう。そんな中で、そういう輪の中に大人たちが立ち入らない(スルーする)ことは賢明ではあるけれども、場合によっては、きちんと良識やポリティカル・コレクトネスをふまえた丁寧な注意をしてあげるべき状況も少なからずあるはずだ。その時ただちには理解されずに、袋叩きにされて逆効果のように思えたとしても、子どもたちが育っていったとき「あの時はアホだと思ったけどマトモな大人が確かに存在した」と思って貰えることが重要だ(ただし上から目線にならないよう相当注意しないと、本当に逆効果になってしまう)。それがないと、ネットの同調性に囚われ、低みにとどまり続け、自省能力を失った大人たちが将来多数派になってしまう。その後の未来はもう誰もが薄々感じているような様相になるだろう。実際のところ、ネット上での振る舞いを教えてあげられるのは、教師でも親でもない。彼らはその場に居合わせていないのだから。同級生から学ぶことも難しい。この問題を現状で一番どうにかできる可能性があるのは、その場に居合わせた大人だけ。その事実をもう少し重く捉えてほしい。
だから、本当に憂いているならば、そう簡単に「さよなら」を言ってほしくない。日本人は性質的に無理なんだとか、そういう諦念をバズらせて思考感染させないでほしい。
http://d.hatena.ne.jp/kanjinai/20170202/1486027602
ここで主張されていることは全面的に支持する。
では、なぜ「恋愛工学」に陥る男性が後を絶たないのか、考えてみた。
最も重要なことは、倫理的に正しく、敬意を持って誠実に好きになった人と向き合っても、叶う恋なんてそうそうあるものではない、ということではないか。しかも、本人がそう思ってるだけではなく、仮に真理的にそういう状態だったとしても叶わない恋はあるし、逆に不誠実に向き合っても愛されてしまうこともある。誠実・敬意・倫理は、人から愛される十分条件ではない。
誠実に向き合ったのに恋が叶わなかった場合、多くの人はブルゾンちえみ宜しく「女なんて35億もいるんだから、次に行こう」となる。泣きながらも、未練を抱えながらも、諦めたり妥協したりして、他の女性を好きになる。また、相手から先に好きになられて、自分も知らないうちに相手を好きなってたりする。
一方でそれができない男性がいる。
しかし、マトモな恋愛指南者は、元記事のように、誠実であれ、相手に敬意を抱け、倫理的であれ、それこそが幸せへの近道だとしか言わない。いまそこに現前として、どうしても叶えたい、切実で、個別具体的な恋愛を叶える特効薬でもないのに。
「恋愛工学」は、そういった葛藤を抱える「非モテ」達には福音になる。落としたい女性がいる男性には、一見すぐ使えそうなテクニックが数多く紹介される。恋敗れた男性には、いままでの思考は間違っていた=自分は悪くなかった、と感じることが出来る。
それを考えていたら、多様性とか、ポリティカル・コレクトネスとかが、現に貧困などに直面している人たちにそっぽを向かれて、ポスト真実な政治に流れていくのと構図としては同じなのかもしれないと思った。「正しい」ことは、個人個人の、今、目の前にある問題を解決できない。
いずれにせよ、彼らは今既にデッドエンドにいるのだ(少なくとも彼らはそう思っている)。それならば、その先がデッドエンドであろうと、先に進める手段を取るのは自然のことだ。「恋愛工学」にせよ政治にせよ、「正しさ」以外のアプローチを見つけないと、彼らには声が届かないのではないだろうか。
「ぼく!ぼく!できたよ!」
意識の中の限りになく奥で聞こえる、かすかな声。
徐々にクリアになる視界とサウンドを感じながら、現在の状況を呼び戻す。
視界に流れてきたのは、白髪の主人。
ここの店主だろうか?
見た目だけで「ぼく」呼ばわりなんて、ポリティカル・コレクトネスという言葉を知らないのだろうか?
義体が普及した現代で、見た目だけで中身を決めつけられて話されるのは不愉快でしかない。
少しイラつきながらも、状況を整理する。
ああ、そうだった。
トランプタワーから逃げ出して、イーストジャパンに流れ込んだのが災難の始まりだった。
男なら一度は必ず訪れるべき場所。今は無くともだ。
その多くで扱われるガッジーラの義体。
素直にガッジーラの義体にしておけばよかったのだが、その中で一際目を引いた義体があった。
俺の祖国は義体と実年齢の差には厳しかったから、単なる興味本位だ。
狂っているとしかいいようがない。
気付けば俺はもうサインをしようとしていた。
まだ言語パックのダウンロードが完全でなかった俺には半分も理解できない。
とりあえず理解できたのは燃費が悪いから気を付けろということらしい。
半分も理解できないままサインをして、そのままシモキタのクロークに送ってもらったが、これが失敗だった。
トーホーシティの義体はガッジーラとウルトラマン以外はロクでもないと聞いていたが、その通りだった。
まさかこの義体にあんな罠があったなんて、誰が想像できただろうか?
まったくこの国はクレイジーと言わざるを得ない。
翌日シモキタのクロークで義体を交換した私は、オダキュウ跡を伝いながら、ネオシンジュクを目指すことにした。
だが、数十分歩いたところで異変に気付く。
何かを猛烈に欲しているのだ。
何だこの欲求は?
他にもいくつか欲しているものがあるが、
空腹が進むのも感じる。
イエローの服を着た義体士曰く、この義体は燃費が悪いだけでなく、
なんてこったい。
「ニンニクイレマスカ?」
残り40分少し。
カネシはラーメンジロウというヌードルショップで補給できるらしい。
急いで近隣店舗を探す。
あった、ニューダイタだ。
ガッデム!
休んでやがる。
次に近いのはネオシンジュクか!
俺は走った。走った。
今思えばUberを呼べば良かったのだが、そんなことが思いつかないほど焦っていた。
ようやく店に入った頃には、カネシが切れる直前だった。
時間帯が良かったのか、幸いにも並ばずに入ることができた。
ゆでている間のカネシ切れを防ぐため、スリープモードに移行したわけだ。
どうやらこの義体、ドージンキングが趣味で作らせた特注品らしい。
ショタ趣味のジロリアンだったらしいが、とんでもなくクレイジーな野郎だ。
そう言えばあの義体士、イエローのシャツにチャイニーズキャラクターが二文字書いてあったけ?
あれは何て読むのだろうか?
この言語パックでは解析できないようだ。
そうして、目の前の白髪の主人と向き合う。
LGBTや女性の苦しみやポリティカル・コレクトネスなどを知ってしまった知識人からしたら少年漫画なんて楽しめなさそう。。。
http://anond.hatelabo.jp/20161207120909
※原作漫画もドラマもネタバレ全開です。ついでに後半にエグザイル族ドラマ HiGH&LOW ハイアンドロウ のネタバレもします。ご容赦下さい。
【要約】 (できませんでした……。)
1, 面白い! そして超興味深い!
みくりさん やっぱり小賢しい。が、そこが頼もしいし、愛らしい。
ポリティカル・コレクトネスを完全に満たした上で女性の欲求ダダ漏れ全開だと思う。
2, 私は本作最大の『虚構』は、(このような鑑賞法は不純だが……)
プロの独身を自称する超高スペック童貞の 津崎 平匡氏が、同時に最初から「女一人が転がり込める『家』を保有している事」
だと思ってるのですが、皆さんは どうでしょうか?
平匡氏は童貞と、特大の父性 という相反する属性を両方とも持っている。 メシアかな?
3, 本作は 『リベラル』だと評されるが、私は半分はそうだが、もう半分は違うと考える。
finalvent翁曰く、「愛とは公正さ である。」とのことだが、
女性が、男性に求める「理想の公平さ」を描こうとした結果。平匡氏の初期スペックと人徳がMaxに設定されてしまっている。そこが良いけど……
リベラルを極めた結果。平匡氏≒超マッチョも同時に顕在化してしまうのは、極めて皮肉だ。そこが良いけど……
4, イヤな言い方になってしまうが、結局のところ、
男性は女性に対し、最初から 対等な社会人/ 恋人/ 妻/ 我が子の母 の 何れかを選べるけど、
女性は男性に対し、対等な社会人/ 恋人/ 夫/ 我が子の父 の全てが『必要』ということになるのでは?
「男性は女性に対し何れかの属性の100点満点を求めるけど、女性は男性に対し全教科100点満点の400点が『必要』である。」と、読み取りました。
まー、しょうがないよねー。
夫婦 までなら、理性的合理的近代的自我で「計量計算」出来るかも?しれないけど、
妊娠出産育児を含む 我が子の両親 となると、そんなの不可能だろう。
そもそも、無から有を生み出すわけで、合理性も自我も超えた領域だもんなー。その分は、男が負担しないと……、少なくとも覚悟は……
5, ゆえに「逃げ恥」は、最高最良最狂の『女のポルノ』であると言える!!! 逆説的だけど、男性こそ必見!!!
女性は男性に堂々と「全教科100点満点中の400点」を要求しつつ、同時に その無茶と矛盾とを理解して頂き、
男性は少なくとも女性に対し「全教科100点満点中の400点」を求められている事を理解し、その矛盾を解く覚悟が要る。と……、
辛い……。そして無茶だ……。
しかし、「逃げ恥」によって「女性の欲求」を定義出来た……。少子化も解決するんじゃない?!
万のポリティカル・コレクトネス、百のフェミニストより、一作の「逃げ恥」。ですよ!
▽
・新垣さんと星野さんに影響されないように原作から読んでみました。
2週目以降、津崎 平匡氏の「男子力」を計測しようと思って、原作とドラマ見てるけど、まぁー。辛い辛い……。私では計測さえ出来んわ……。
作中、平匡氏が自身の「男子力」の低さを嘆くシーン有るけど、普通に超高いよな?
童貞という属性と、恋愛周りが やや弱いだけで、他はカンストしてね?
普通、もっと童貞拗らせてるでしょ! ドラマの方は ちょっっっとだけ拗らせ度強いけども、
・本作の みくりさん と平匡氏の「恋愛」をスリリングかつ安心して喜劇として楽しめるのは、
平匡氏が みくりさん に対して、対等な社会人としての敬意と感謝。
(形式上だけど)夫としての安定と安心を両方共、最初から100%保障してるからよね。
つまり、みくりさんは最初から平匡氏の愛を200%保証された状態で、更に恋人としての300%目の上積みを狙っとるわけだ。
・流石に平匡氏と言えど 恋人契約を提案された時点で みくりさん の好意を確信しないのは
人物描写として無理があるのでは? このイベントはもう少し作品の後半にまわすか、
・食事は殆ど外食とコンビニで済ませる平匡氏が、何で男女2人分の食料保存できる冷蔵庫を初期装備してんねん!
・みくりさんが平匡氏を可愛いと言うのも興味深いし、ムカつくな。
そりゃ、初めから内側に保護された状態で平匡氏の愛を再確認すると そう感じるのも必然なんだろうけども。
・みくりさん。さぁ。 安心と安定の平匡城を堂々と内部から蚕食するのは良いけどー
平匡氏、完落ちさせてから~の 外部に求職活動は流石に小賢し過ぎるわ! 私は見逃さんぞ!
貴方が家事代行の給金を求めるのは良い。 だったら! 平匡氏が最初から提供してた「生活保障」にも値段 付けんかい!!!
まぁ、平匡氏からすれば、そんな貴方の小賢しさも頼もしさや愛おしさとしてプラスに評価するんでしょうな! お幸せに!
・女性の小賢しさって、相手の男性の度量の範囲内なら頼もしさや愛おしさになるけど、超えると途端にウザさになるよね。
…… 逆でも一緒か……。 っていうか人間関係全てでそうだな……。
・原作8巻で、平匡氏が みくりさん を解呪するイベント有るんだけど、これって別に みくりさん に限らないよね。
平匡氏は、他者に壁こそ築くものの、(おそらく)誰も馬鹿にしないし、値踏みもしない。自分からは挑発も攻撃もしない。 の~に、
壁の内部に2人分以上(ぶっちゃけ、赤ちゃん含めた3人分)の安心空間を単独で作り維持出来る……。やっぱりメシアだよね。
・森山みくりというキャラって、本質的に(平匡氏に対して)相対的肉食女子で、(平匡氏に対して)貪欲女子じゃん。相対ビッチじゃん。
清純な新垣結衣さんのタレントイメージを壊しかねないキャラだから心配してたけど
ドラマでは平匡氏のスペックを若干落として、面倒臭さは足してバランス取ってるの 上手いよなー。
・ドラマでは「やっさん」=田中 安恵を最初から出してるのも上手いよね。
みくりさん と平匡氏のスペック差を縮める代わりに やっさんを比較対象に出す事で平匡氏の誠実さを際立たせている。凄い。
・ドラマでは百合さんと風見の関係が弱くなっているのは残念。完全にメイン2人の補強材よね。良い配役なのに、仕方無いけど
風見と平匡氏の年齢差が縮まった(って言うか役者さんの年齢的にも逆転もある)ために平匡氏の優勢が削がれてるのも緊張感が出てて良い。
・ぶっちゃけ、森山みくり役は新垣結衣さんである必然は無いけど(イヤ、他の女優さんでも成立するって意味ね。)、
津崎 平匡 役は星野源さんしか考えられんよね。スマートさ、余白力!、清潔感。 ちょっと他の役者さんは考えられんよね。
躍動する星野さんを見られて良かったです。ご病気も良くなられたようで。
・ドラマでは家の間取りを変更してるのも興味深い。ドラマの間取りだと平匡氏はどうやっても
みくりさん の前を通らないと自室に入れない。 家のグレードを原作より下げてるのも平匡氏に肉感を与える効果になってるよなー。
・藤井隆さんの恋ダンスが一番良いわ。逆に新垣さんの恋ダンスは そうでもない。露骨なあざとさが好きじゃない。嫌いでもないけど……
・って言うか……、【童貞】という【枷】って、こんなに重いんやな……。平匡氏程のスペックと人徳で、やっと釣り合うってことでしょ?……
▽ここから HiGH&LOW ハイアンドロウ のネタバレもしまーす。
・「逃げ恥」って凄くブッ飛んだ作品じゃないですか。んで、アレ?最近、同じ位カルトなドラマ見たな―。と HiGH&LOW を思い出しました。
男同士で馬鹿騒ぎはするが、女性の安全と尊厳を殆ど顧みない『HiGH&LOW』と、
(White RascalsとRUDE BOYSは一応、女性を守ろうとはしているが手段が無茶苦茶で、主人公チーム山王連合会に至っては守ってさえいない。琥珀も、)
みくりさん にとって平匡氏が超都合の良い男性として徹底されている『逃げ恥』は
異性を 極端に神格化、偶像化するか、人格を完全に無視する点において 同質ではないか?と思うのです。
故に、逆説的に
女性には 男の(って言うかレベル的には小学男子なんだけど)馬鹿さ加減を知る意味で HiGH&LOW を見て欲しく、
http://anond.hatelabo.jp/20161204095016
驚いた。全く真逆の感想だ。アメリカといっても、サンフランシスコのイケイケスタートアップからウォール街のクオンツからシカゴのコンサルまで、全く違うだろうけど、5年以上東海岸の米系企業に籍をおき、向こうの地でもそれなりに働いてきた自分からすると全く同意できなかった。あくまで個人的な感想であるけど、いくつか反論してみたい。
俺が米系企業の日本支社に就職したとき、最初に「会議で発言しないのは存在しないのと同じだ」と言われた。少なくとも俺の5年以上の経験で、会議に出て黙ったままただメモを取っているアメリカ人は見たことがない。
誰かが発言しない会議があると「君は何も喋ってないけど、この会議はそもそも必要なのか?」と言われる。真顔で。
これは、日本とアメリカのコミュニケーションの違いも大きい。例えば、日本人が「お世話になっております。表題の件ですが…」と書いているうちに、アメリカ人は「ok」の二文字だけで返信する。件名が「ok / EOM」で本文なし、なんてメールも多い。
必然的に報告だけの会議というのは少なくなるし、会議というのは発言をする場であるということが意識として徹底されている。
本国から来たマネージャーは、日本人が会議に出席していながら全く発言しないことに驚く。日本人は、会議という場が意見をぶつけ合う場にも関わらず異常に萎縮しているように見える。間違ったことを発言したら怒られるのではないか、と。俺自身はどんな馬鹿な質問をしても怒られた記憶はないが、発言しなかったらマネージャーに呼び出されてアドバイスされたことがある。
元増田はアメリカの大学のディベートを見たことがあるのだろうか?ディベートというのは、(悪い言い方をすれば)いかに黙らずに早口で屁理屈を言い続けるかを競うスポーツだ。イエールでもハーバードでもエリートが日々「どんな論点をどんな立場でも」ディベートに勝てるかを検査し続けている。(チョムスキーは、深い思索のないディベートがリーマン・ショックを引き起こしたと言っていた)アイビーリーグ卒業生が多い会社はそういうディベートの文化が根付いていて、会議のスピードが異常に早い。
アメリカ人はちゃんと主張する人を好む。給料上げてください」って言うと結構上がる。言わないと上がらない。大抵の企業では「1/1」という、マネージャーと一対一で話してアピールする場が設けられていて、そこの場でどれだけ自分が頑張ったかを語らされる。
それは、年功序列が薄いことと裏表だ。アピールできるやつはずんずん登っていくし、うだつが上がらなければそのままか、クビになる。だから、ボスにアピールすることはむちゃくちゃ重要なポイントだと考えられてる。
日本人のように「頑張っていたらいつか認められる」なんていうことは考えないし、キャリアというのは自分でアピールして掴み取るものだという意識が徹底している。
これはもう匿名ブログの宿命上、想像でしかかけないのだけど、元増田はあくまで「日本人」として接してもらっていたのではないかと感じた。それも日本人が多い多国籍企業の。
アメリカ人(特にサンフランシスコとかシアトルあたりの)は英語できないやつには慣れているので優しいし、日本人が入るような会社なら、シャイなのも知っているから話も振ってくれる。カリフォルニアなんか白人が4割しかいない。インド人の聞きづらい英語に四苦八苦し、イタリア人のコーヒーブレイクには付き合う。多国籍企業とはそういうものだ、と割り切っている。
そして、文化が違うこと、ネイティブじゃない言語で話す人との仕事の仕方をきちんとわかっている。だから、口ごもる人にはちゃんと時間をくれるし、わかりやすい英語を使おうと頭を捻ってくれる。それはポリティカル・コレクトネスに近い。(日本人だって日本語が下手な外国人がいたらじっと聞かないか?)
日本人が考えずに喋っているとは思わない。むしろもっと怯えずに発言すればいいと思う。どだい、会議というのは話すためにある。ただ単にボスの報告を聞くだけならメールでいい。わかっていないことがあれば空気を読まずに質問すればいいし、気になったことがあれば深く考え込まずに発言すれば良いのだ。
いささか乱暴な言い方ではあるけど、日本人はもっと適当でもいいからどんどん発言するべきだ、と言うのが個人的な結論である。発言することが時間の無駄になるようなメンバーが会議に居る事自体がおかしいのだ。
素晴らしく有能で深い思考を持っている日本人が、発言しないために低い評価に甘んじているのをよく見てきた。とてももったいないと思う。少なくとも、米系企業で働こうとしている人は、とにかく何でも良いから発言する癖をつけたほうが良い。わからないことがあれば聞く、考えていることがあったら意見を言う、適当でも良いから改善ポイントを言う。発言量を増やすだけでキャリアが変わる。
航宙船アモーレ号がH28植民恒星系を離脱してから、すでに300日以上が経過していた。
「はっ、PPAPの出力は99.89%でほぼ安定。マイナス金利の影響で一部トランプ現象の発生が見られますが、聖地巡礼には支障のないレベルです」
「そうか。引き続き、ジカ熱を絶やさぬようアスリートファーストで頑張ってくれ」
「了解です」
「か、艦長!」
「どうした、先任通信士?」
「通信です!」
「どこからだ?」
「それが……。この周波数は、おそらく『センテンススプリング』……」
「バカな! センテンススプリングは、とうの昔にゲス不倫の影響でSMAP解散したはずだ」
「しかし、この復興城主に特有の民泊は、どう考えてもセンテンススプリングのものとしか……」
「はっ。レガシー、レガシー。こちらはH28植民恒星系第5惑星シン・ゴジラ所属航宙船アモーレ。未確認通信の発信者に問う。君の名は。」
「…………」
「こちらはH28植民恒星系第5惑星シン・ゴジラ所属航宙船アモーレ。通信に応答せよ。君の名は。」
「……返答はまだか」
「分からん。だが、いざという時にはすかさずEU離脱できるよう、主機を都民ファーストに変更しておけ」
「……へ、返答ありました! こ、これは……!」
「どうした! 報告しろ」
「いかん! 総員、第一種戦闘態勢! 文春砲、直ちに発射準備に入れ!」
「駄目です! 斎藤さん、タカマツペアを展開しました。歩きスマホで盛り土を散布しています!」
「びっくりぽん」
「艦長、このままでは文春砲が使用できません。新しい判断を!」
《ホイクエンオチタニッポンシネ……ホイクエンオチタニッポンシネ……》
「こ、この音声は?」
「斎藤さんが一般回線を通じて強制割込を行っています! 本艦のメインフレームにも斎藤さんの侵入を確認!」
「ぬうぅ。かくなる上は、あれを使うしか……」
「事ここに至っては他に手段はないだろう」
「しかし……」
艦長の英断によって使用された未完の最終兵器PokEMONが放った「くまモン頑張れ絵」は、その神ってる威力によって、斎藤さんを一瞬でマイナスイオンと水素水に還元した。
窮地を切り抜けたアモーレ号は、予想外のアクシデントで遅れた日程を取り戻すため、盛り土転換によるジカ熱でPPAPの出力を120%にして、一路、母なる惑星地球を目指すのであった。
幼い頃、「ちびまる子ちゃん」を毎週見ていたが、学級委員のみぎわさんが大嫌いだった。
わがままで厚かましく、そのくせ学級委員としてその立場を盾にイチャモンをつけ自分に都合のいいことしか言わない。
とどめに本人はブサイク(に描かれている)ときた。どうしようもない。
現実世界の人間関係にそのような人はいなかったのは幸いだった。
ポリティカル・コレクトネスが声高に叫ばれる中でそれに反旗を翻す動きが生じ、巨大化して飲みこもうとしている、いや飲みこんでいる昨今である。
典型的なのはイギリスのEU離脱や先のアメリカ大統領選の結果だが、日本でもそのバックラッシュをちょくちょく感じる。
そして色々なニュース(おもに女性の萌えキャラであるとかポスターを発端とした炎上案件)に目を通すうち、ポリコレ棒で殴ってくるのはみぎわさんみたいな人なんだろうな、思うようになってきた。
自分が不快であるからという根拠を第一に押しつけの正義感で叩く。さながら花輪クンと話す他の女子に焼きもちをやくように。
こういう人は話が通じることはなくすこぶるめんどくさいので、距離をおくのが一番楽だ。
「ポリコレ棒」という用語はあれか、ようするに「議論が終わった事柄」について説明を省略した「やったら駄目なことリスト」を見せられた人が「初めから全部説明してくれ」という引き伸ばし作戦をするためのものか。— 丹菊逸治 (@itangiku) 2016年11月14日
そう、まさに、少し前までの「ポリコレ」という言葉は、こういう意味で使われていたはずだ。
すでに政治的闘争を経て決着した、これら社会的弱者を差別してはいけない、地位を向上していきましょうという合意のことだ。
@tyk97さん連続Tweet:乙武さん入店拒否の件から考察する「グローバルいんちき」というプロトコル - Togetterまとめ
@H_Nobunagaさん連続Tweet:乙武さんの件、橋下市長の従軍慰安婦の件とPolitical Correctness - Togetterまとめ
上記リンクは、ネットでPCという言葉がよく使われだした頃の議論だ。
人種と文化のるつぼである移民国家アメリカで、マイノリティが闘争を経た末に権利を勝ち取り、歴史を逆戻りさせることのないよう不可侵の約束事となった、それがポリコレ。
個人的にも得心が行ったし、Twitter上の頭の良さそうな人たちにも概ね好評だったので、なるほどポリコレというのは政治的運動で勝ち取るものなのだな、と思っていた。
オタクを差別してはいけないというのは、特に社会的なコンセンサスなど取れていないので、PCの範囲ではない。
そこに突然、君たちもPCで守られてきたんだよ、なんて言われたら、はぁ?となるに決まってる。
ところで、ポリコレの辞書的な意味は「差別・偏見が含まれないよう配慮された言葉」で、マイノリティに限らないものらしい。
ポリティカル・コレクトネス(英: political correctness、略称:PC)とは、政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、職業・性別・文化・人種・民族・宗教・ハンディキャップ・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現を指す。
しかし、オタクが差別されてる!とか噴き上がってるエントリなり発言なりに対して「うんうんそれもまたポリコレだね」と答えた者が、過去にどれだけいたのだろうか。
オタク蔑視に文句があるなら、先人の手柄にフリーライドするのではなく、オタクはオタクで政治的主張をしていくべき、という意見を何度も見た。
その意見自体は正しいと思う。ある程度他から借りてこられる部分はあるにせよ、当事者が声を上げなければ始まらない。
しかし、それをポリコレという言葉を使って表現しているのは、過去には殆ど、あるいは全く、見たことがなかった。
今日これだけポリコレという言葉が溢れているにも関わらず、だ。
つまり、多くの者は暗黙には「ポリコレ=政治的闘争を勝ち抜いた一部のマイノリティを守るもの」と認識していた、と考えるのが自然だ。
いや、オタクがPCで守られているという意見も、言いたいことは多分理解できてるつもりだよ?
オタク側にも、俺達の趣味を蔑視するな!アニメやゲームと犯罪を結びつけるな!と主張する権利は認められているし、現にそうしてきた。
今後のオタクの努力次第では、アニメやゲーム等の趣味や職業で蔑視してはいけませんという社会的合意が取れる(つまり、PCになる)可能性もあるだろう。
今PCという概念を否定したら、その未来すらも否定してしまう。
これまでマイノリティの尊重を訴えてきた方々のお陰でオタクも少なからず楽になっているんだ、という意見も見た。
それは至極尤もな話だ。
一口にオタク差別というと内容が非常に曖昧だが、表現に関わる職業に対する差別、それを消費する趣味に対する差別、オタクという属性そのものに対する差別等があるだろう。
この中のいくつかは、オタク以外の政治家や運動家たちによって改善された部分も少なくあるまい。
それでも、少なくとも現時点では、オタクを蔑視するのは社会的に非難されるような行為ではない。
オタクはマイノリティなので地位向上に取り組みましょうという社会的な動きがあるわけでもない。(むしろどんどんマジョリティ化していきそうだがそれは別の話だ)
「ポリコレはオタクの事も守ってきた」というのは、単純に言葉の使い方がおかしいんだよ。
たとえ辞書的には正しい用法だろうと、相手の認識と齟齬があるときはちゃんと説明して使って頂きたい。
それをしないのは「消防署の方から来ました」とやってることは同じだ。
はてなブックマーク - べるお@冬コミ落選マンさんのツイート: "だから「俺らはポリコレで割を食ってばかりだ」って言い分には全然賛成できないんだ。ポリコレのない世界で毎日投げつけ何でもかんでもポリコレに含めるな!テメエの身はテメェで守れ!我々はお前のママじゃねぇ!→あれもこれも全部ポリコレが守ってきたんだ!ポリコレを否定したらお前も死ぬぞ!って変節にしか見えないんですよ。2016/11/13 00:41
これってすっごく今流行りのPC関連な話だけど、2chはもとよりはてブでも宮崎氏の発言を白々しいものとして捉えている人が結構な数でいるので、自分なりに補足してみたい。
パラリンピックなんかで活躍するような、四肢が欠損した人物だろうか?
あるいは、24時間テレビなんかで見かける知的障碍の子供だろうか?
ひと口に障碍者と言っても、その病状、症状は様々だ。
例えば、脳に障害を負ったとする。後天的なもので多いのは、やはり脳梗塞。いわゆる脳の血管が詰まることで起こるそれは、急性期においては命に係わる危険なものだ。また、一命をとりとめたとしても、後遺症として深刻な障害を負うことは避けがたい。左の脳に梗塞ができた場合、右側の身体に後遺症が出る。四肢の麻痺やあるいは半身麻痺、言語障害となる場合も多い。
麻痺とは自分の意志で体が動かせない状態のことだ。それとは逆のパターンで、不随運動と呼ばれるものもある。自分の意志とは関係なく、体が動きコントロールできない状態のことだ。パーキンソン病の主な症状のひとつ安静時振戦などがそう。震えのような症状から手足をくねらすような動きまである。
こういったことを念頭に置いて、川上氏の提出したCGを観たとしよう。その動きはどんぴしゃであの障碍者の動きだ! というものではないが、四肢の奇抜な活用の仕方は、身体のコントロールがきかないそうういった方々を容易くイメージできるものだと言える。
おそらく宮崎氏もそういった連想により障碍者の友人に思い当たったのだろう。故に川上氏の「気持ち悪い動き」を面白がる態度を強く批判した。
要は、かなり平たく状況を述べるなら、駅で見かけた変な動きの人(あえてこう書かせていただく)を見て面白がる無邪気な小学生を怖そうなおっさんがゴラァ! とした、とでも言おうか。
……表題としてはこれで以上ではあるが、ポリティカル・コレクトネスを考えるうえで、個人的に気になることを書く。
今回の件は確かに川上氏の態度に嫌悪感を抱いたし、宮崎氏はそこを鋭く突いたなと感じている。
が、同時に川上氏に対して「他人の痛みが理解できていない」といった批判はできんなーとは感じている。
といのも今回は、自分がたまたまそういった障害を持った方を知っていたからにすぎないからだ。
こういった配慮を想像力だけで補うのは不可能だろうとは感じている。要は知識の問題で、それ故に川上氏を無邪気な小学生と例えたわけだ。
これが企業ならそういった豊富な知識を買うことができるんだろうけど、個人レベルにおいては難しいよなあと、2chやはてブの反応を見て思った次第。
結局のところ、「知らないものは配慮しようがない」といった話になってしまうが、そう考えたときにアイスバケツ・チャレンジのようなムーブメントほ重要なのかもなと思うが……(どんどんと取り留めなくなってきそうなので終わる)
おそらく「correctness:コレクトネス」?の意味で「コレクト」という言葉を繰り返し使っているかと思うのでそれを前提に反論しますね。
「political correctness」は直訳すれば「政治的正当性」であり、「コレクト:correct」というものを直訳したときの「正解・正則」といったものと概念が少々異なります。
「ポリティカル・コレクトネス」を「コレクト」を前提にして理解しているのであれば、世の中の政治はすべて倫理的に認められる正義が前提になっていなければいけないというふうに推測されます。
その点でなんとなく長谷川某氏を思い浮かべてしまうのですが、どうも世の中に対して「こうあるべき」「これこそがあるべき姿」という規範を持っている人ほど、政治的正当性(=political correctness)を理解しづらい位置にいるのではないかと思ってしまいます。
何度も繰り返して申し訳ありませんが「正義」という概念そのものが歴史的に全く不安定なものであり、なにをもって正義と呼ぶかはほんの数十年の間にも大きく変化をしている全く普遍性のないものです。
ですので現在世界中のマイノリティーが訴えているのは「コレクト=正解」ではなくあくまでも「ポリティカル・コレクトネス=political correctness(政治的正当性)」でしかありません。
前提として「政治的」がつくのは、時の政権や民主主義による世間的多数決がその正当性を決めるからです。
その点がますます長谷川某氏と気が合うのではと思わせる要因なのですが、どうもあなたは世間というものに対してウブすぎではないでしょうか?
話をわざと歪曲しているようなのでツッコミを入れておくと、そもそもとして「本当に正しいポリコネ」なんてものは存在していない。
もともとポリティカル・コレクトネスを主張しはじめた人は、就労とか婚姻にともなう家族制度とか、経済的自立とかで差別的扱いを受けてきたのでそれを正して欲しいと訴えているだけ。
人権という利権が一極化していることに意義を唱えているだけのこと。
自分が社会的に不利益を受けていると感じたことに声を上げることは、行う側にとっては正しくても、既得権益のある側にとっては正しくない。
そもそも正しい正しくないなんてことは多数決で決まることであって普遍的な定義としては存在しない。
問題はその主張を本来必要な人への権利獲得ではなく、それらしい主張をぶちあげる本人にとっての利益として利用してしまう人が増えたということだけ。