はてなキーワード: 北田暁大とは
事実、本稿で引用した朝日新聞の岡田憲治氏の言によると、「リベラルの正しさが必ずしも受け入れられるわけではない」と述べているが、実際に過去10年間を切り取っても、性的少数者や女性差別について、主にリベラル側から提起され続けてきた問題について、現在ではそれが大メディアのコンプライアンス基準となり、実際の番組制作や表現を動かしているではないか。まさに、マックス・ウェーバーの言う、”堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業”が、奏功したのが現代社会ではないのか。そういった地道な、刹那的に注目されない政治活動を「無意味」「(リベラル以外に対し)不寛容で訴求しない」と決めつけて自虐を行い、すぐに主張を修正しようとする恰好そのものが、リベラルの弱点だと言っても差し支えはない。
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20210920-00259285
ネット上のリベラル論客(主に社会学者界隈)は二パターン。一つは、リベラルの現状に絶望して自虐に行き、にわかに経済政策とかを勉強しはじめて「経済成長」「反緊縮」とか言いはじめている人と(北田暁大先生とか)、もう一つは、現状の日本の政治や社会をやたらにディストピア化して、それを改善しようとしない政権与党を強い口調で非難し続ける人(本田由紀先生とか)。
自虐に向かっているのはあくまで前者の系列で、経済や社会保障についてはにわか勉強の薄っぺらな知識や問題意識しかないので、専門家や実務の人からは全く相手にされてない。他方で後者も、PCやコンプライアンスを広めることには一定程度成功しているが、安倍・菅政権下での改善傾向を一ミリも認めないので、無党派層からは「なんか怖い」「ついていけない」になり、支持を拡大することは困難。。
twitterでたまに、男オタクは女や非オタク男と比べて「男は仕事、女は家事」のような性別役割分業を支持する割合が高く保守的である、という結論の棒グラフが回ってきているのを見かける(例:https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/phanomenologist/status/1228500960588124163)。あれはしばしばフェミニストによって「男オタクの女性蔑視の表れ」のように引用されるが、そもそもどういう文脈で出てきた棒グラフだったかちゃんと確かめた人はいるのだろうか? そして、あのグラフをめぐって学者同士の意見が対立していることはどのくらい知られているのだろうか?
ということで、以下であのグラフが出てきた文脈を紹介してみるよ! なお、増田は男オタクだけど、統計とか専門外だよ!
あの棒グラフの出典は、社会学者の北田暁大による若者と趣味に関する研究の一節である(北田 2017: 291)。だがもちろん研究というものはそれだけで完結するものではなく先行研究の積み上げた文脈のもとに成り立つものだ。そして北田(2017)が特に目の敵にして批判しているのが、心理学者の山岡重行による研究である。山岡は2016年の単著において腐女子を心理学的に分析し、腐女子の恋愛観だけでなく彼女たちに向けられたイメージについても論じた(山岡 2016)。
山岡の研究はどう評価すればいいのか難しい。確かに興味深い点が多く、たとえば2015年時点でもオタクに対する否定的イメージが存在し、そのなかでも腐女子は同じオタクからも否定的に見られているということを学術的に明らかにしたこと(山岡 2016: 99, 132)などは、オタクのあいだでは公然の事実とはいえ一定の意義があるだろう。しかし一方で、男オタクと腐女子は相性が良いんだからもっと恋愛すればいいのにというようなアドバイスは大きなお世話というかクソバイスの極みであり、腐女子の心理について質問紙調査のみに基づいてものを言うのはいいとしてもBL作品の構造を論じる上でテキストクリティークを欠いていることは理解しがたい(山岡 2016: 229-230)。山岡はデータに基づく研究の重要性を主張するが、物語の構造などの質的な面に踏み込むのであれば、数字で示されたデータだけでなく様々なテクストに当たって読み込むという人文学的な手法を採用する必要があるはずだ。心理学の実証研究としては面白いが、実証以外の部分で余計なことを言い過ぎている、という評価をするのが最も良いだろうか。
では、それを批判した北田の研究はどのようなものなのだろうか。実はこれ、読んでみるとわかるがかなりのツッコミどころの塊なのだ。
まず、北田がこの調査で用いた方法論について確認してみよう。北田が依拠しているのは、2010年に練馬区の1988年~1990年生まれの男女に対して行った調査である。つまり、2020年現在のアラサーに対して10年前に行われた調査に基づくデータである。このデータは、北田が中心となっている若者の趣味についての共同研究の一環として採られたものであり、北田(2017)が収録されている本に収められた他の論文も同様にこのデータを出典としている。
北田は、東浩紀(2001)のデータベース消費論に依拠しつつ、男オタクの消費が東の言うようなデータベース消費である一方で女オタクすなわち腐女子(ここ、「ん?」と思う人が多いだろうけどとりあえず脇において続きを読んでほしい)の消費が関係性消費である、という先行研究で提示される図式を踏襲する形で分析を進めていく。当然、ではこの論文で言う男オタクと女オタクってのはどんな集団を指すんだ、腐女子かどうかはどうやって決めるんだ、という操作的定義が求められるわけだが、北田がどんな定義をしているのかを以下で見てみよう。
北田はまずオタクの操作的定義を示すが、この時点で首を傾げてしまう。たとえば「ライトノベルが好きだ」という質問はいいとして、「マンガがきっかけでできた友だちがいる」や「アニメがきっかけでできた友だちがいる」という項目は、そりゃそれに当てはまるオタクは大勢いるだろうがコンテンツがきっかけでできた友人がいるかどうかはオタクとしての本質に何も関係ないよね? もちろんこの研究では若者と趣味というテーマを掲げていて、趣味と人間関係がどう連関しているかという点も研究対象に入るわけだからそういう質問項目が悪いわけではないのだが、それをオタクの定義に使われると困惑するほかない。やめてください! 友達がいないオタクもいるんですよ!
そして北田は、上記のような質問で定義した「オタク」を更に「二次創作が好きか否か」で分類する。つまり、オタクを「二次オタク」「非二次オタク」に区分し、それをさらに男女で分けるわけである。そしてこの「二次創作好き」というのを定義する指標として「マンガの二次創作(同じ登場人物で、原作のストーリーとは違うストーリーを考えたり読んだりすること)に興味がある」(北田 2017: 270)というのを持ち出している……えーっと、これだと、『銀河英雄伝説』も『炎の蜃気楼』も『東方』も『アイドルマスター』も原典はマンガではないので当てはまらないのではないか? この調査の後にヒットした『ラブライブ!』も『艦隊これくしょん』も『刀剣乱舞』も『ユーリ!!! on ICE』も、いずれも原作はマンガではない。仮に私が当時練馬区に住んでいてこんなアンケートを渡されていたら、「私が買っているのはアニメ作品の二次創作なんだけど……」と回答に悩んでいたことだろう。「作品」「コンテンツ」とでも言い換えれば済むところをなぜ「マンガ」と表現したのか理解に苦しむ。ゲームを全部ファミコンと呼ぶおかんかよ(この喩えもいい加減古くなってきたな……)。
さらにこの調査は、「二次創作が好きな女性オタク(女性二次オタク)」と「二次創作が好きではない女性オタク(女性非二次オタク)」を区別しているが、肝心の二次創作の中身については区別していない。つまり、BL同人を読んでいようが男女カプの二次創作をしていようが「女性二次オタク」だし、商業BLや一次創作同人専門の読み手で二次創作に手を出していなければ「女性非二次オタク」である。つまりこれは、二次創作が好きなオタクを析出することはできても、本質的に腐女子を析出できる調査ではありえない。もちろん同じことが男オタクにも当てはまり、女キャラが無駄に淫乱になって男相手にサカる同人誌も女キャラ同士がプラトニックにイチャイチャする同人誌も同じ「二次創作」である。種つけおじさんレイプと百合を区別できない質問項目をもとにデータベース消費と関係性消費の対立みたいなこと言っていいのかな……いやダメでしょ。
だが北田の定義のおかしさはこれに留まらない。彼はなんと、「二次創作好きでオタク度の高い女性を『腐女子』という言葉でまとめあげることにはもちろん問題がある。二次創作好きとBL好き、やおい好き、女オタクなどの差異を孕んださまざまな概念が交差する地点に『腐女子』概念は存在している」としつつも、便宜的に「『二次創作好きで、オタク尺度が高位2層である女性』を、操作的に腐女子と」定義している(北田 2017: 307)。はぁ???
言うまでもなく、腐女子の全員が二次創作に興味を持つわけではなく、二次創作に興味を持つ女性オタクの全員が腐女子でもないのだから(男女CPや百合の愛好者はどうすればいいんだ)、この段階で北田が研究対象を正確に捉えられていないことがわかる。「BLが好き」という質問項目を入れてないのに「腐女子」の操作的定義なんてできるわけないだろ! この問題については山岡からもtwitterでツッコまれているほか(https://twitter.com/yamaokashige/status/1131363111636615168)、「興味」と「嗜好」を区別すべきだとも批判されている(山岡 2019: 21)。妥当な指摘だろう。意地悪なこと言うけどさ、これを注に放り込んでるのって悪意ありますよね?
さらに、男オタクに関しても、「二次創作好きオタク男性≒ディープな男性オタク」(北田 2017: 294)と記述している。当たり前だが二次創作にはたいして関心もないがディープなオタクはいるだろうと言わざるを得ない。声優のおっかけを熱心にやっているオタクはディープなオタクではあるかもしれないが二次創作が好きなオタクとはいえないだろう。
総じて、北田の研究は、オタクとしてディープであるか否かとか腐女子であるか否かといったことを、すべて「二次創作が好きか」で測ろうとしている。だがそれはとんでもない勘違いである。二次創作が好きな人とディープなオタク/腐女子であることとの間にはある程度の相関関係はあるだろうが、あくまで論理的には一対一で対応しているわけではないのだから、ディープなオタクを定義したければ注ぎ込んだ時間やカネや知識量を、腐女子を定義したければBL趣味の有無を、それぞれ尋ねるべきだったのだ(特に、客観的な測定が困難な「ディープなオタク」と違って、腐女子かどうかは「BLが好きだ」という項目を入れた上で性別と組み合わせれば一発で判定できるのだから、ここで手抜きをしているのは許しがたい)。
少なくとも山岡の著書にはパッと見で「おかしいぞ?」と思うような操作的定義はあんまり見当たらなかったのに、北田の論文の操作的定義はパッと見でもわかるツッコミどころが多すぎる。これもうどんなグラフ出されても信用できないでしょ。データの処理とか以前に操作的定義がおかしいんだもん。
で、北田にさんざんdisられた山岡は別の著書(山岡 2019)を発表して北田に反論している。個人的にはその議論はおおむね妥当であるように思えたので、詳しく知りたい人は山岡(2019)を読むか、彼のtwitterを見てほしい。私は統計とか詳しくなくて、前提となっている操作的定義のおかしさは指摘できても、標準得点に差があることは「対極にある」ことを意味しない(https://twitter.com/yamaokashige/status/1125940271298990080)とか、このへんはまったく気づかなかったので。
最後に、北田と山岡のどちらの研究もおかしい、と思ったポイントがあるので言及しておく。
北田のデータは練馬区の若者から採ったものであり、山岡のデータは都内の複数の私立大学の学生から採ったものである。つまり、東京圏に居住しているか、通える距離に住んでいる若者のデータに偏っており、さらに後者は大学生のみのデータとなっている。これが血液型性格判断の話であればいいかもしれないが(よくないけど)、オタク文化の拠点が東京などの大都市に集積していることと、就労等によって趣味との関わり方が変化すること、そして趣味に学歴が及ぼす影響を考えると、「東京圏の若者」のみに焦点を合わせて「オタク」の全体像を論じることは適当ではない。そこで集められたサンプルは、オタクコンテンツが身近に溢れていて可処分時間が多く学歴も高いオタクのサンプルに過ぎず、オタクの代表例とも若者の代表例ともいえない。
とはいえ、では他にどういう調査のやりようがあったのか? というと、思いつく計画がどれも高額の研究費を要求するものになってしまって個々人の研究ではなかなか厳しい。少なくとも、東京だけでなく日本全国(最低でも、大阪や札幌などの東京以外の大都市圏)からもサンプルを抽出することは必要だろうし、そのサンプル調査には大勢の非オタクも引っかかる以上はサンプル数もそれなりのものにする必要があるだろうし……こういう大がかりな質問紙使った研究ってやったことないからイメージ湧かないんだけどどんくらい金かかるんだろう。
それと、北田も山岡も統計的データを重視しているので、あえて質的な研究には踏み込んでいないのだろうが、それでもやはりいずれの研究も当事者の言説分析を欠いていることは大きな欠点であろう。オタクは自分たちについて膨大な自分語りを残してきており、それを悉皆調査すべきだとは無論言わないが男オタクや腐女子が自分たちのことをどう語っているのかも踏まえた上で論じられればなお良かったんじゃないかな。もちろんそれは大規模な質問紙調査並にめんどくさい手続きであり、代表性とかどうやって保証するんだ、という感じではあるのだが、せめてオタク自身の手になる非学術的な文献はもっと多く引用されていてもよかったのではないか。それは一歩間違えば大塚英志(2018: 136-140)が指摘するような当事者の営為を無視した簒奪的な研究にもなりかねない、と思う(もちろん彼らは文化そのものを論じているわけではないので、文化を論じる研究者に求められるほどの慎重さは要求しなくてもいいとは思うが)。
いやでもやっぱりこれ北田(2017)のほうがひどいわ。山岡(2016; 2019)の操作的定義を見てると、彼自身がオタクではないにせよ、趣味によってつながる人間関係のありようみたいなのを肌感覚でわかってるって感じがするけど、北田の定義はトンチンカンなんだもん。もしわかった上でやってるならクソだけど、仮に本気でああいう定義を持ち出してきたんだとしたら、それはもう根本的に趣味でつながる人間関係がどんな感じなのか肌でわかってないってことだよね。趣味人としてのリアルからかけ離れすぎてるんだよな。
あと北田の研究がひどすぎるからって社会学全般が悪く言われないといけない理由はないので念のため。北田の研究は別に社会学者なら誰もが参照してしかるべきみたいな位置づけのそれではないので……
よく分からんのだが、その北田氏の研究がいい加減なものだとしても
2007年の練馬区の若者においては、漫画やアニメが好きで二次創作を好む男が
これ、回答の平均値じゃなくて標準得点を元にしたグラフなのよ。標準得点をもとにそんなこと言えるか? って山岡が批判してるからそれ読んで(https://twitter.com/yamaokashige/status/1126035720122953729)。
ワイが間違ってたわ。言えるっぽい。すまん。
続きはanond:20200722142616で。
SSクラス 江藤淳、柄谷行人、廣松歩、栗本慎一郎、谷沢永一、村上泰亮、中村元
Sクラス 小室直樹、浅田彰、福田和也、渡部昇一、呉英智、蓮實重彦、永井陽之助、中村雄二郎、すが秀実、佐伯啓思、高澤秀次、筒井康隆、小谷野敦、菅野覚明、養老孟司 見田宗介、佐藤誠三郎、大森荘蔵、西部邁
Aクラス 丸山眞男、吉本隆明、長谷川三千子、丸山圭三郎、橋本治、村上陽一郎、佐藤優、松岡正剛、伊藤貫、猪木武徳、坂部恵、坂本多加雄、大澤真幸、中川八洋、永井均、野矢茂樹、小浜逸郎、飯田隆、河合隼雄、片岡鉄哉、鎌田東二、梅棹忠夫、竹内洋、山本夏彦、山口昌哉、入江隆則、
Bクラス 猪瀬直樹、坪内祐三、中沢新一、御厨貴、橋爪大三郎、鷲田清一、北岡伸一、池田清彦、中西輝政、立花隆、山本七平、宮台真司、桶谷秀昭、宮崎哲弥、司馬遼太郎、古田博司、市川浩、東谷暁、苅谷剛彦、秋山駿、関岡英之、加藤尚武、浅羽通明、松原隆一郎、東浩紀
Cクラス 中島岳志、鎌田哲哉、兵頭二十八、内田樹、森本敏、村上龍、西尾幹二、仲正昌樹、大江健三郎、齋藤孝、森岡正博、富岡幸一郎、小泉義之、井沢元彦、桝添要一、中西寛、中島義道、鄭大均、山内昌之、村田晃嗣、山形浩生、林道義、松本健一
Dクラス 斎藤環、福岡伸一、副島隆彦、榊原英資、梅原猛、寺島実郎、佐藤健志、大塚英志、五木寛之、笠井潔、潮匡人、高橋源一郎、岸田秀、山田昌弘、竹中平蔵、池田信夫、萱野稔人、大川隆寛、大森望、櫻田淳、上田紀行、手嶋龍一、和田秀樹、藤原正彦、中野剛志
Eクラス 佐々木中、村上春樹、三橋貴明、田原総一郎、木村太郎、池上彰、竹田恒泰、切通理作、島田雅彦、酒井信、夏野剛、苫米地英人、上野千鶴子、姜尚中、鷲田小爾太、竹田青嗣、小阪修平、佐藤亜紀、
Fクラス 糸井重里、加藤典洋、中上健次、勢古浩爾、北田暁大、藤原和博、小熊英二、佐々木俊尚、西條剛央、玄田有史、城繁幸、茂木健一郎、岩田温、千葉雅也、岡田斗司夫
Gクラス 小林よしのり、宇野常寛、勝谷誠彦、荻上チキ、鈴木謙介、勝間和代、伊坂幸太郎、濱野智史、赤木智弘、坂本龍一、いとうせいこう、上杉隆、酒井順子
Hクラス みのもんた、久米宏、古舘伊知郎、ハマコー、太田光、水道橋博士、テリー伊藤、リリー・フランキー、コシミズ、香山リカ、森永卓郎、ホリエモン、津田大介、ひろゆき、中村うさぎ、雨宮処凛、桜井誠
おい、そこのお前!あさま山荘事件が大好きすぎてカップヌードル食う度に機動隊の気持ちになっているお前!なおかつ伊勢×戸田か戸田×伊勢かで議論したいが相手がいないお前!お前だ!お前に向かって俺は今書いてる!
『三体』だ!『三体』を買って読め!せめてKindleで無料サンプルは落とせ!BGMはRHYMESTERのThe X-Dayを無限リピートだ!
よし、Kindleの無料サンプルは読んだか?読んでないよな。面倒くさいもんな。あんくらいWeb上で読めるようにしといてほしいよな。まあいい、せめてSpotifyでRHYMESTERのThe X-Dayをリピート状態にして以下の文章を読め!
『三体』は最高だ!一般的なあらすじは「文革で物理学者の父を失った娘が云々」などとぬかしているが、無料サンプルで読めるその描写が最高であることはまったく紹介されていない。引用するぞ。
シュプレヒコールがおさまるのを待って壇上に立つ男の紅衛兵の片方が批判対象をふりかえって言った。
「葉哲泰、おまえは力学の専門家だ。自分がどれほど大きな合力に抵抗しているか、わかっているだろう。そうやって頑なな態度をとり続ければ、命を落とすだけだぞ! きょうは、前回の大会のつづきだ。くだらない話はもういい。次の質問に真面目に答えろ。六二年度から六五年度の基礎科目に、おまえは独断で相対性理論を入れたな?」
「相対性理論は物理学の古典理論だ。基礎科目でとりあげないわけにはいかないだろう」と葉哲泰。
「嘘をつけ!」そばにいた女の紅衛兵のひとりが荒々しい声で叫んだ。「アインシュタインは反動的学術権威だ。欲が深く、倫理に欠ける。アメリカ帝国主義のために原子爆弾をつくった男だ! 革命を起こす科学を築くためには、相対性理論に代表される資産階級理論の黒旗(反動の象徴)を打倒しなければならない!」
(中略)
「葉哲泰、これは言い逃れできないはずよ! あなたは何度も学生に反動的なコペンハーゲン解釈を撒き散らした!」
「それが実験結果にもっとも符合する解釈であることは厳然たる事実だ」これだけ厳しい攻撃にさらされても、葉哲泰の口調は落ち着き払っていた。紹琳はそれに驚き、畏れを抱いた。
「この解釈は、外部の観察者によって波動関数の収縮が引き起こされるというもの。これもまた、反動的唯心論の表れであって、その中でも、じっさいもっとも厚顔無恥な表現よ!」
「思想が実験を導くべきか、それとも実験が思想を導くべきか?」葉哲泰がたずねた。突然の反撃に、批判者たちは一瞬、言葉をなくした。
「正しいマルクス主義思想が科学実験を導くのが当然だ!」男の紅衛兵のひとりが言った。
「それは、正しい思想が天から降ってきたと言うに等しい。真理は実験によって見出されるという原理を否定し、マルクス主義思想がどのようにして自然界を理解するかという原則に反している」
紹琳とふたりの大学生の紅衛兵は、無言で同意するほかなかった。中学生や労働者出身の紅衛兵とは違って、彼らは論理を否定することができなかった。しかし、附属中学の若き闘士たち四人は、反動分子を確実に攻め落とすための革命手段を実行した。
最高かよ!!! 時はあさま山荘事件の数年前だが、アカの本場中国でも似たようなどうしようもないことが起こっていたのだ!引用の最後の部分で作者がたくみなカメラワークを用いて批判者側の「論理の欠如」を指摘しているのがまた光り輝いている。そうなのだ。この手の議論には論理というものがまったく存在しない。あるのは連想ゲームだけなのだ(「物理学者のお前は自分がどれほど大きな合力に~」「アインシュタイン=核兵器=帝国主義=敵」)。あさま山荘事件でもそうであった。無色のリップクリームを塗ったことと、彼女が死ななければならないということの間にまったく論理的な関係は存在しない(そもそも何かと誰かが死ぬということの間に論理的関係が成り立ちうるのかという問題は置いておくとして)。そこにあるのは、「革命」や「自己批判」といったマジックワードを挟んだアクロバティックな地滑り的連想ゲームだけである。
しかし、しかしである。われわれはそうした連想ゲームに時として身を委ねてしまう。どころかしばしば喜んでその中に身を投じさえする。あさま山荘の彼らが目指した「革命戦士」という存在にどうしてもワクワクしてしまうのは、そこからこれまでわれわれが目にした「革命」や「戦士」についての輝かしい言説やビジュアルがまさしく連想ゲーム的に引きずり出される快感にわれわれが抗えないからである。
「ベネディクト・アンダーソンは国民国家を『想像の共同体』と呼んだ」と言われるとき、たいていアンダーソンが主張したかったことは無視されている。アンダーソンはこうも書いている。「国民国家は『想像の共同体』であるからこそ強いのだ」と。どういうことか。例えばご近所たちは想像の共同体ではない。そこに想像力が働く余地はないからだ。近くてよく見えるがゆえに嫌いなところがよく見えてしまう。しかし国民国家は想像の共同体であるから、そうしたデメリットを回避することができる。逆の意味で、人類もまた想像の共同体ではない。そこにもまた想像力は働かない。あまりに大きな対象であるがゆえに、想像することができないからである(それを想像できるように「地球市民」とかいろいろなレトリックが開発されては頓挫した歴史があるわけだ)。つまり国民国家は想像するのに小さすぎも大きすぎもしないがゆえに、人間の持つ最も偉大な能力=想像力/創造力を刺激する存在であるがゆえに、これほど大きな存在になり得たのだ。世界大戦を二度経験して、戦後もエコやらなんちゃらがあってメイクアメリカグレートアゲインな今、人類は人類を想像力の対象にすべきであると誰も[誰?]がわかっているはずであるが、そうした方法は未だ見つかっていない。めっちゃナウい想像力を持ってそうなイスラム国ですら国を名乗る時代である。
そうした状況にある人類に対して、「地球市民」としての自覚=想像力を持たせるために一番手っ取り早い方法は、宇宙人に攻めてきてもらうことである。映画『インディペンデンス・デイ』があれだけ面白いのは、その「俺たち感」を徹底して純粋なものとして描けているからだ(もちろん「俺たち」と書いたようにそこからは女性が排除されているのだが、それもまた「俺たち」の盛り上がりを純化させるように働いている)。しかし、この方法には大きな問題がある。それはわれわれの知る限り宇宙人が当分の間攻めてきそうにないという点である。したがって二番目の方法が取られることになる。それが科学教育である。ひとりの神様とか王様の下で人類みんなが仲良くするのは無理だとわかったので、次は科学様の下で人類全員集合しましょう、というわけだ。まあ、承知のようにこの方法にもいろいろ問題はあるのだが、他に良さそうな方法もないので多くの人々からのんべんだらりと支持されているといってよい。
科学の持つ大きな問題として真っ先に挙げられるのが、それが神様よりも信頼可能か?というものだ。科学教の信者はそうだとなんの疑問も持たずに答え、異教徒たちはおらが村の神様の方が偉いと主張する。そこを調停するのが科学哲学者の役割のひとつであったが、どっちつかずとして双方の陣営から攻撃されるため調停役に名乗りを上げる科学哲学者はほぼ絶滅している。
(注:ネタバレ防止のため人名や固有名をアルファベットに置換している)
「Aくん、きみは仕事の範囲を逸脱しかけている」Bが首を振りながら言った。「研究は理論的なものだけに絞るべきだ。こんなに手間をかける必要が本当にあるのか?」
「Bさん、この実験は、大きな発見につながる可能性があるんです」とAは懇願した。「実験は絶対に必要です、とにかく、一回だけやらせてください。おねがいします」
「B、一度だけやらせてみたらどうかな?」Cが言った。「オペレーションはそれほど大きな手間でもなさそうだし。送信後、エコーが帰ってくるのに要する時間は――」
「十分、十五分だろう」Bが言った。
「だったらXシステムを送信モードから受信モードに切り替える時間もちょうどある」
Bがまた首を振った。「技術的にもオペレーション的にも造作ないことはわかっている。しかし、C、きみはどうも……、この手のことには鈍感みたいだな。赤い太陽に向かって超強力な電波を送信するんだぞ。こういう実験が政治的にどう解釈されるか、考えてみたことは?」
AとCは、どちらも茫然としたが、Bの反対理由が荒唐無稽だとは思わなかった。逆に、自分たちがその可能性を考えもしなかったことにぞっとしたのである。
この時代、すべてのものに政治的な意味を見出す風潮は、不合理なレベルまで達していた。紅衛兵は、隊列を組んで歩く際は左折のみ許され、右折は禁止された。信号機は、赤が進めで、青が止まれでなければならないと提案されたこともある(周恩来首相に却下されたが)。
(中略)
そういう風潮に鑑み、これまでAが研究報告を提出する際は、Bが必ず綿密な査読を行っていた。とくに、太陽に関する記述は、専門用語であっても、くりかえし吟味し、政治的危険がないように修正した。たとえば、“太陽黒点”という言葉は使用が禁じられた。太陽に向かって強力な電波を送信するという実験については、もちろん、千通りのポジティブな解釈が可能だが、たったひとつのネガティブな解釈がなされるだけで、関係者全員が政治的な災難に見舞われるにじゅうぶんだった。Bが実験の要請を拒絶する理由は、たしかに反駁のしようがなかった。
イアン・ハッキングがイヤンと言いそうなくらいむき出しの「科学の社会的構成」である!ここでも論理が連想ゲームに膝を屈している。このことを中国に特殊なものだと考えるのは科学教の信者である。似たようなことはどこの国でも多かれ少なかれ起こっている(また国家がくくりとして出てきてしまった!)。STAP細胞は論理を飛び越えればどんなものまでが「発見」されてしまいうるか、という好例であろう。それでも科学教の信者は言うだろう。「STAP細胞は誤りであることがわかった!これこそが科学の勝利ではないか!」と。残念ながら科学はそんな単純なものではない。たとえばケプラーの理論はそれ以前の理論よりシンプルでもなければ正確でもなかった。そのあたりのことはスティーブン・ワインバーグ『科学の発見』に詳しく書いてある。「それでもわれわれは今はケプラーの理論が正しいということを知っている!これが科学の進歩だ!」という主張は残念ながらワインバーグとは仲良くなれるが歴史学者からは異端扱いされるだろう。このワインバーグの本は、「ノーベル賞物理学者が科学の歴史について論じたら歴史学者から総攻撃を食らった」というそれじたいSFにガジェットとして出てきそうなシロモノなのだが、けしてトンデモ本でなくワインバーグは確信犯的にその地雷を踏んでいる。非常に面白い本なので『三体』を読んだあとにはぜひこの本を読んでほしい。『三体』に出てくる宇宙物理学の理解の助けにもなるし。
話がそれた。『三体』である。まあ、歴史学者から異端扱いされようが科学者は科学者でやっているのである。……本当に?「科学をする」とはどういうことか説明できるひとは今のところ地球上に存在しない。どころか説明できるひとが今後現れる可能性もまた科学哲学者によってほとんど否定されていると言ってよい。では科学者は何をやっているのか?われわれのような皮肉屋に言わせれば「教義の精緻化とその確認作業」とでも言い捨てられるだろうが、『三体』はそこに真摯に向き合っている。どころか、その先までをも作品の中に織り込んでいる。ネタバレになるので詳しくは話せないが、科学を「打倒する」ことを本気で考えてみた人はいるだろうか?いないだろう。『三体』はそれを本気で考えている。誰がなんのためにそんなことをし、さらにそれに抗うには何をするべきかを描いている。そしてその描き方がまた最高なのである。作中、ある「組織」が出てくるのだが、それがまたなんとも、「アカい」のである。もちろんそれは最初の引用で出てきたような無知蒙昧なアカさではない。連想ゲームではなく論理によって貫かれた「アカさ」というものがあるとしたら、こういうものだろうという迫力がある。
作中にこういうセリフがある。「中国では、どんなにすばらしい超越的な思想もぽとりと地に落ちてしまう。現実という重力場が強すぎるんだ」と。これはおそらく作者の嘆きでもあろう。その重力場から逃れるために、作者はこれを書いたのだと思う。中国の現実の重みは、隣にいるわれわれも知るところだろう。この作品は、その中国の現実の重みを、実に力強く脱出していると思う。それがこの文章で伝わったかどうかは甚だ心もとないが、一人でも多くの、未だ北田暁大先生のTwitterの件に心の整理がつけられていない人々が、『三体』を手にとってくれるよう望む。
18・19歳、自民に4割傾く 立憲民主は高齢層支持多く:日本経済新聞 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO22561000S7A021C1EA2000/
日経の記事が話題になっていて思い出した選挙前のラジオですが、若者の保守化論に関して是非とも紹介したい内容なので途中からですが文字に起こしました。
https://youtu.be/l7_mlqvCB8s?t=15m11s
北田「安倍内閣の支持率が東大生で高いっていう記事が流れてきて、実際そうなんですけど。上がってるんですよ昔より。東大生は強いものに巻かれるんだなって左派的な人から批判があったんだけど、同時に他の大学と比べてみて一般的にどうかっていうと若者全般がそうである。どっかの調査でもありましたけど若者自身が保守化していると言えるのか、現状の閉塞感みたいなものに関して安倍さんの方を革新と見ている可能性がある」
宮崎「読売新聞に早稲田大学の研究所と一緒にやった世論調査があって、50代まで(50代以上の意)は共産党を革新だリベラルだと評価するんだけど50代を境にして(下の世代は)一転して保守的だと共産党を。じゃあ(下の世代にとって)一体何がリベラルかって言うと維新が1番リベラル」
北田「そうなんですよー」
宮崎「維新のイメージって50代を境にして(50代以上からは)保守だと見なされてしまうと。これが典型的に表れているようにリベラルと保守っていう言い方っていうのが世代で違っている。特に50代を境にして全然違っているということになるんですね」
北田「50代までは恐らく冷戦までは通用したような右左とかタカ派ハト派の論理で政党名と繋ぎ止めているんですけど、40代から怪しくなり始めてもう20代30代になると大きく変わってきてしまっている。この状況を踏まえないと従来型の左右というかリベラル、保守という分け方もそろそろ賞味期限というか少し組み替えないといけないんじゃないかと思うんですが、少なくとも左右の対立項が大きくイメージが変わってるのは確かなんですよね」
宮崎「うん」
北田「宮崎さんがおっしゃって頂いたやつは今の中央公論の最新号で高知大学の遠藤先生たちによる『世論調査にみる世代間断絶』っていうのがあるんですけど、今みたいなお話がでています。19歳から29歳は日本維新の会を1番リベラルだと思っていると。先行世代からはなかなか不思議な構図に見える。そのあとも面白い研究をされていて本来であれば社会学者がちゃんとやるべきことなんですが、安全保障、社会的平等、ジェンダーの質問項目を元にどういう軸が区別の指標になっているか因子分析っていう手法でやってるんですけど、そこに3つ出てて安全保障の軸、社会的価値観(女性の社会進出、差別)、第3に税金負担の軽減とか自国利益の強調とか経済的な側面というか自国のあり方のような・・・」
北田「この3つの軸を出されて研究されているんですが、これが綺麗に当てはまらないんですよね。民進党なら民進党とか自民党なら自民党とかパッケージに対応してなくて。経済とか社会的なところで凄く我々から見ればリベラルな態度をとっている若者が、安全保障では我々から見るとタカ派的なことを言っている。どちらも共通してたぶん現状を変えていくというような意識では一貫しているんだと思うんですね。これ分析する側が旧来型の軸に頼っているようではおそらく民意をつかめないのではないか」
宮崎「遠藤さんが取り上げているか分からないけれど、同じ調査の中で50代以下の人に政党イメージについて改革に積極的か消極的か問うているわけよ。1番改革に積極的だと評価されたのがなんと自民党。次が維新。あとの政党っていうのは改革に対して消極的であるという評価。つまり私より下の世代、50代より下の人たちが何に着目してリベラルと保守と言ってるかというと経済体制の改革っていうのが積極的かどうかが鍵になっていると思うのよ。それがなぜそうなるのかというと、20年も続いたデフレ。先輩たちが就職難で就職氷河期で喘いできたのを見てやっと自民党が変えてくれたという実感に根ざしたものではないかという気がするんですけどね。どうですか」
北田「間違いないと思います。民主党の岡田代表だった時代にリベラル懇話会という形で・・・」
北田「今でもです。勉強会みたいなものを何度かやらせて頂いたんですが、その時に簡単な世論調査をしても安保法制で盛り上がる前くらいから分析してても民意は明らかに経済を重視していて、政党支持率と経済政策の推進というのは関係が強いんですよね。一貫してそうなのに何で今ここでアベノミクスを超えるアベノミクスをやるって言わないの?っていう」
宮崎「アベノミクス内部で考えても消費増税はマイナスだったし2013年以降は第2の矢っていうのはちゃんとやってないわけ。GDP比で財政を考えても明らかに緊縮財政になってる。ここを突いてこんなんじゃ駄目だって言うのこそがリベラルだろって私はずーっと言っていて。リベラル懇話会の経済政策提言の中にもそのことが書かれているのに何でリベラルはこれを受け入れないの?」
北田「そこが本当に私も分からないというか。安倍政権のパッケージングとか安保法制とか・・・」
宮崎「そういうのを全部評価するとかまったくなくて、少なくとも第1の矢と第2の矢を評価して第3の矢に成長戦略ではなくて再分配政策をもっと多様化政策を持ってくるべきだ」
北田「アベノミクスを超える財政出動をするぞっていうような、金融緩和についてはあるジゲン(次元?)を設けて消費税についても上げるなんて問答無用な話でそういうジゲン(次元?)をつけて考えていく。再分配の仕方を再考していくっていうのがイギリスでいうとねコービンとか、ポデモスとか世界標準的な左派の普通になってるハズなんですよ」
宮崎「金の問題も重要なんだけどそれは単純に金の問題じゃなくて、そうやって人々の所得が増えていくことによって貧困率だって下がっていくし人間の生き方の多様性、可能性、ケイパビリティ・アプローチですよ。アマルティア・センが言う。それを増やしていくことがリベラルの理念に適っているんだっていう。何でコレが日本では通用しないの」
北田「それを私も聞きたいっていう。あまりにも安倍さんとの対抗軸を立てたいっていうのか強いのか、民進党のDNAの中に刻み込まれているのかどうか知りませんけど、少なくともやるべきことというのは緊縮の話ではないし、アベノミクス全批判ではないハズですよね。政治家だけだったら敵味方の論理で話が分からないでもないんですが、論壇とかに出てるような左派とかリベラルっていう人たちが経済っていう問題を軽く見ている感じというか、経済の問題をを考えなくても他の部分こそが大切なんだっていう。もちろん大切なんですけど、経済の問題が宮崎さんがおっしゃったように人々の可能性とか潜在能力みたいなものの平等を図っていく上で重要な要素であることは間違いない」
宮崎「あなたがね『現代ニッポン論壇事情』の緒言の部分で言ってることがさ、経世済民は思想にして卑しい事柄でも何でもなく自由権と社会権という基本的な人権に関わる重要な社会的行為なのだと。これは本当にリベラルと自認していらっしゃる政治家や言論人に拳拳服膺してもらいたい」
アナウンサー「リベラルの偉い学者さんとかそういう方々は武士は食わねど高楊枝じゃないですけど・・・」
宮崎「食えてるんですよ。あの世代の人たちは食えちゃってるんだよ。豊かさは限界だろうとかさ」
宮崎「そう江戸時代に戻れとかさ。ほんっとに無責任なこと方言するわけ」
北田「でも若い人は絶望してなくて経済指標がよくなったら嬉しいし雇用状況が良くなれば満足度があがっていっていて、それなりに彼らなりに合理的に見ているわけですよ。成熟してこんな成長いらないとか思ってるのは正直な話、若者じゃないんですよね」
北田「バブルでおいしい思いをしてバブルへの絶望みたいのが過度な形で出てるような気はしますけどね」
宮崎「それもあるでしょうね。でも彼らはバブルの受益者だったわけじゃん」
北田「そうそう受益者で、だからこそ割れた時の記憶が強烈なんでしょうけど、だけど、それを20年間散々下の世代が味わってきたわけだから逃げ切りは私は許されないと思います。それと団塊の中でも逃げ切れるの一部ですよ。だから社会保障の問題が重要になってきて財源論だって色んなところで議論が出てるわけ。逃げ切れる成熟しましょうなんていうことは正直申し訳ないけども呑気な話だと僕は思います」
北田「だーれも言ってない」
宮崎「でも2~3%のパイを増やす政策を取らなければだんだん縮小均衡になって1番割を食うのは若い世代。弱者。この人達ですよ」
北田「だから僕は成熟社会論というのは冷たい冷徹な思考だと思いますよ」
宮崎「でもこれがイギリスのギデンズが唱えた第3の道とかさ・・・」
宮崎「だから左派版、新自由主義でしょ。そういうのと一緒に上の世代の人たちの・・・固有名上げるなら民進党の前原さんの頭にね固着しちゃってるんだよ」
北田「前原さん聞いてるなら経済だけどうにか考え直して頂けないでしょうかっていう気持ちが。僕は枝野さんに心配していたんですが、枝野さんがこういうこと言うんだって。ブレイディみかこさんと松尾匡さんと対談している時にニュースが入ってきて、枝野さんがこんなこと言っている!って衝撃を受けて」
宮崎「賃金を上げるために赤字国債発行するとかさ、ここでは私は枝野支持です」
北田「僕もびっくりしましたよ。それが一番求められていることであり、簡単な思考で言うと経済を椅子の数が決まったゲームと考えずに成長していくことによって維持できるっていう、そういうシステムだってことを考えないと公正性とか格差の問題も広がっていくだけと思いますね。だからこれはリベラルというよりソーシャルと言った方がいいかもしれませんね。ヨーロッパ型のソーシャル」
宮崎「ソーシャルって話をすると、もう少し先の話。フォワード・ルッキングしないといけないと思うので言うと、井上智洋って知ってる?マクロ経済学者。汎用AIが開発されて簡単に言うと色んな産業分野に汎用AIと汎用ロボットが広がっていって失業がどんどん増えていくと。そのとき何が必要かというと、経済構造っていうのは消費の部分がなければ成り立たないでしょう。消費っていうものを担保するためには所得を与えないといけない。でも失業してしまったりどんどん賃金が下がっていけば当然消費も縮退していくわけ。それを補填するためにベーシックインカムは必要だと。汎用AIができるかは別にして産業部門で色々使われることによって人減らしがどんどん起こっていくということはほぼ間違いないですよ。その時にどう対処すべきかっていうことを、今この経済政策で、生物学の前適応じゃないけどもやってるような気がするの。今の長期停滞に対処するのならその政策の延長線上でその状況にも対処できる。その観点から言うと消費税って駄目だと思うんだけどな」
北田「だめだめだめだめだめだめ。少なくとも今は駄目で、経済を社会の中でどう位置づけるのかっていうのを考えないといけなくて。公正かどうかっていう比較分析は社会学は得意なんですけど、財源どこかとか国債どうする金融政策どうとかそこがないんですよね。不平等を見つけるのは上手いんだけど、それをどうやったら直せるかって言うと財政を均衡させるしかないって話になっちゃう」
http://synodos.jp/politics/19136
これ読んでおかしいなと思った点
労働力の確保はもはや手遅れ気味ではあるが――現状、米仏独と異なり、日本に来る金銭的・社会的メリットがもはやなさすぎるので、そこのあたりのちゃんとした待遇・権利保障・教育システム、多様な職種・生き方が併存可能な形を整え――移民や外国人労働者に三顧の礼できていただくしかない。
何しろ「安い賃金で働く移民」が大勢いるのだから、企業は賃金を低く抑えることが出来てしまう。
日本人が働き口を見つけるには、更に低い賃金で働くときだけで、可処分所得が一向に増えない状況が生まれてしまうが、そんな社会は望ましいだろうか?
それでもまだ来たいと言ってくれているひとたちがいる。来てくれているひとたちがいる。そして、なにより実際に来ているひとたちがいる。
そして実際に移民が大量流入したら、失業率が悪化したり、親の貧困を引き継いだ格差が広がる一方だろう。それこそ、新自由主義の負の側面以外何者でもない。
北田暁大さんは、そう言うが、それ逆じゃないの?
治安に関しても疑問が。
「外国生まれの人口比」に関しては、日本はOECD先進国のなかでは実質的に最低の数値、1%ほどにとどまる。独米英仏のように10%を超える状況にはなっておらず、治安の悪化を心配するような段階にすら到達していない。
敗戦直後、日本の治安が良かったなんてどのデータをみたらいえるのか、「昭和30年代」がどれだけ貧しく犯罪の多い社会であったのか、お忘れになったのか。
移民を入れたら、その「昭和30年代」がやってくるかもしれないじゃん。移民に職を奪われ、働いても給料が増えない日本人が、清く正しく生きようとするかね?
上野さんとも北田さんとも違う意見かもしれないが、移民大量流入後の日本でもし治安が悪化したら、その主役は移民じゃなく無職の日本人だと思うよ。
世代間再配分を果たそうにも多くの団塊世代にはそれが難しい。貯蓄額・資産の大きい人びとの資産が、社会的な再配分に向かっていない状況は、上野氏自身が属する「団塊」世代内での断絶を示している。「逃げ切れる団塊」などほんの一握りの人たちであり、そうしたなかで「おひとりさま」などと提唱するのは、社会政策としては絵空事に近く、再配分をなにも考えていないことの証左である。
でもさ、
どれだけ上野氏をはじめとした左派が「アベノミクス」を否定しようと、ここ数年の新卒就職率は高卒・大卒ともだいぶ改善されており、ご存知の通り大学院志願者は低減傾向にある。
上野さんがお花畑なのはそうだとして、北田さんだってお花畑でしょ。
それを踏まえて言えば、移民を制限して、何とか国内で再分配を苦しんででもやるしかないよ。
それをやらないで移民を入れても、分配の議論が混乱するだけだよ。
そんなことを思いました丸
北田暁大 @a_kitada
大学教員のひとと話していてよく話題になるのだけど「フェミニズム=ヒステリックな女」図式を刷り込まれてて「わたしは違う」という女子学生が本当に多いの。それは本音なんだろうけど、多くの人が就職活動、就職後、結婚・出産などでフェミの言葉に耳を傾け始める。許しがたく悪質な刷り込み。
「悪質な刷り込み」とやらを行っている犯人はネトフェミじゃないでしょうか?
事実、はてな匿名ダイアリーでも「女だけどネットで騒いでるフェミ系の人にはついて行けない」という内容の投稿複数回見ました。
ネットのバカウヨを見て育った層がSEALDsのごとき薄いサヨクになるように、ネトフェミを見て育った層が薄いアンチフェミになるパターンは考えられます。
ですからネトフェミはフェミニズムにとって有害な存在だと思うのですが、フェミニズムはネトフェミが間違ったことや危ういこと言っても絶対に批判しませんよね。
なんででしょう。
SSクラス 江藤淳、柄谷行人、廣松歩、栗本慎一郎、谷沢永一、村上泰亮、中村元
Sクラス 小室直樹、浅田彰、福田和也、渡部昇一、呉英智、蓮實重彦、永井陽之助、中村雄二郎、すが秀実、佐伯啓思、高澤秀次、筒井康隆、小谷野敦、菅野覚明、養老孟司 見田宗介、佐藤誠三郎、大森荘蔵、西部邁
Aクラス 丸山眞男、吉本隆明、長谷川三千子、丸山圭三郎、橋本治、村上陽一郎、佐藤優、松岡正剛、伊藤貫、猪木武徳、坂部恵、坂本多加雄、大澤真幸、中川八洋、永井均、野矢茂樹、小浜逸郎、飯田隆、河合隼雄、片岡鉄哉、鎌田東二、梅棹忠夫、竹内洋、山本夏彦、山口昌哉、入江隆則、
Bクラス 猪瀬直樹、坪内祐三、中沢新一、御厨貴、橋爪大三郎、鷲田清一、北岡伸一、池田清彦、中西輝政、立花隆、山本七平、宮台真司、桶谷秀昭、宮崎哲弥、司馬遼太郎、古田博司、市川浩、東谷暁、苅谷剛彦、秋山駿、関岡英之、加藤尚武、浅羽通明、松原隆一郎、東浩紀
Cクラス 中島岳志、鎌田哲哉、兵頭二十八、内田樹、森本敏、村上龍、西尾幹二、仲正昌樹、大江健三郎、齋藤孝、森岡正博、富岡幸一郎、小泉義之、井沢元彦、桝添要一、中西寛、中島義道、鄭大均、山内昌之、村田晃嗣、山形浩生、林道義、松本健一
Dクラス 斎藤環、福岡伸一、副島隆彦、榊原英資、梅原猛、寺島実郎、佐藤健志、大塚英志、五木寛之、笠井潔、潮匡人、高橋源一郎、岸田秀、山田昌弘、竹中平蔵、池田信夫、萱野稔人、大川隆寛、大森望、櫻田淳、上田紀行、手嶋龍一、和田秀樹、藤原正彦、中野剛志
Eクラス 佐々木中、村上春樹、三橋貴明、田原総一郎、木村太郎、池上彰、竹田恒泰、切通理作、島田雅彦、酒井信、夏野剛、苫米地英人、上野千鶴子、姜尚中、鷲田小爾太、竹田青嗣、小阪修平、佐藤亜紀、
Fクラス 糸井重里、加藤典洋、中上健次、勢古浩爾、北田暁大、藤原和博、小熊英二、佐々木俊尚、西條剛央、玄田有史、城繁幸、茂木健一郎、岩田温、千葉雅也、岡田斗司夫
Gクラス 小林よしのり、宇野常寛、勝谷誠彦、荻上チキ、鈴木謙介、勝間和代、伊坂幸太郎、濱野智史、赤木智弘、坂本龍一、いとうせいこう、上杉隆、酒井順子
Hクラス みのもんた、久米宏、古舘伊知郎、ハマコー、太田光、水道橋博士、テリー伊藤、リリー・フランキー、コシミズ、香山リカ、森永卓郎、ホリエモン、津田大介、ひろゆき、中村うさぎ、雨宮処凛、桜井誠
東浩紀・桜坂洋の「キャラクターズ」(新潮10月号掲載)を読んだ。論壇へのスキャンダラスな興味で読むぶんには面白いのだけれど、宣言した「キャラクター小説」としては失敗だと思う。文芸誌に載るキャラクター小説とはいかなるものか、そこにしか興味はなかった。オタク哲学者とラノベ作家の共作ということで期待したのだが、残念ながら期待は裏切られた。これはキャラクター小説ではない。この作品のどこら辺がキャラクター小説だと考えているんだろうか。私小説が「この作品の私は作者としての私ではありません」と説明することと何が違うというのか。東浩紀の虚構話を書くこととキャラクターとしての東浩紀を書くことは違うのだ。この作品には標題に反してキャラクターなんて一人も描かれてはいない。
100歩譲って、この作品の登場人物はキャラクターである、という説明を受け入れたとしよう。それでもこの作品はキャラクター小説としては駄作だと思う。簡単な話だ。この作品の登場人物はどれもキャラが立っていないじゃないか。例えば作品の中では東浩紀が東浩紀R、東浩紀S、東浩紀Iの3人に非現実的に分裂する。この3人は向かうあう問題と行動が異なるだけで、いつでも他の東浩紀と交換可能であり別の性質的な差異は感じられない。つまりキャラが立っていない。北田暁大にしても香山リカにしてもその他の人物にしても、凶行の被害者に実在する人物の名前を与えただけではないか。これもキャラが立っていない。
キャラクターとは本来、記号的で類型的なものである。また、実在する何かを写し取ったものではなく虚構の世界に独立して存在するものだ。漫画にネズミを登場させることとミッキーマウスを書くことは違う。前者は実在するネズミと対応させることができるが、後者に実在を求めることはできない。
そもそもキャラクターとしての「私」は可能なのだろうか。しばしば現実の世界では「キャラを演じる」「キャラが被る」という言葉が使われるように、私とキャラクターの問題は「私」と他者との関係における記号的類型的な役割の問題である。文章の大半を「私」の愚直な内省独白が占めるこの作品はこの点においても私小説の延長線上にある単なる「私」の虚構話であり、キャラクター小説であるとは言い難い。
桜坂洋は文学に媚びたりせずにラノベの流儀を貫くべきだった。この作品を書くにあたっては東の自分語りに流されず、ラノベを書く時のように、キャラクターの造形からしっかりおこなって欲しかった。論壇やオタクが東に求める役割=キャラクターは最大限に利用または逆用するべきだし、キモオタ、ロリコン、ガリ勉という類型化された属性ももっと強調したっていい。例えば男性の登場人物全員になんらかの腐女子好みの属性を割り当て東×鈴木、柄谷×桜坂…手当たり次第にヤリまくったほうが朝日新聞社を爆破するよりもまだ破壊力があるというものだ。この小説は「私」に対して愚直すぎる。
あるいは東は桜坂よりもイラストレータと組むべきだったのかもしれない。そして二次創作や便乗グッズ販売が生まれるくらいのクオリティで東をはじめとするキャラクターを作ってみれば面白い。そんな魅力的なキャラ絵を含む小説が新潮に載ったら痛快ではないか。それで掲載を拒否されてたら新潮社と徹底的に戦え。それこそラノベと文学との戦いそのものじゃないか。