はてなキーワード: 領域とは
いつもの Youtube のライブ放送では、彼らはショーマンに徹していて、政治的スタンスは徹底的に隠している。視聴者の俺たちも探りを入れたりするようなマナー違反はせずに、楽しみの供給側・受給側として一定の距離を置いていた。モニターを隔てた両岸には政治的・思想的な摩擦はなく、スムーズで快適な互恵関係が築かれていた。
エンターテイメントは主に Youtube で Vtuber やゲーム配信を視聴して賄っている。
情報収集用のツイッターのアカウントまで分離して、相異なる領域をゾーニングして保護してる。
たぶん誰もが知っている、快適な距離感を維持するコツ。
あの日、Vtuber やゲーム配信者たちが一斉に配信を休んだ。
もちろん全員が同じ理由であるハズはないし、あの日はそれなりに暑かったから熱中症とかで休んだ人もいたかもしれない。ボカされた個人の理由を勘ぐるのはモラル違反だ。でも、全体的な傾向は否定できないだろう。それほど多くの配信中止の宣言があった。
「今日は気分が乗り気じゃない」「配信を予定していましたが…」「ゆっくり休もうと思います」
フォロワーたちも「わかります」だの「しっかり休んでね」だのと、同調と共感を表明していた。
マジかよ…
俺は元首相の死に際して、志村けんさんがコロナで亡くなった時と同じような思いだった。
正直、お気の毒だとは思うけど、やっぱり、他人ごと。
仕事を休むほど心が傷ついたわけじゃない。
お前ら、そっち側だったんか… モリカケとかどう思ってるのか聞いてみたい衝動に駆られた。
目先の楽しさに夢中になるうちに、いつのまにか足元を浸すカルト宗教の恐怖。
関連・
努力だけじゃたどり着けないかもしれないような領域を目指そうとすらしなかっただけなのに上から偉そうに根性論を唱えやがる
天才も努力してる!お前も努力しろ!とかね、もう、ホント、バカかと
必ず人間には得意不得意があるのは当然として、天才はそりゃあ天賦の才がありますから最初から完璧でないにしろ人より少ない努力でメキメキ伸びていくわけですよ
今回の事件の詳細が明らかになるにつれ、はてなやツイッター、さらにはあのヤフコメでさえも、容疑者に対しての同情と、安倍の統一教会との生前の関係について批判が多く見られるようになってきてる。
しかしこのようなネットの風潮とは一線を画す領域が存在している。それが中高生が主ユーザーのtiktok。
(ごめんセンセーショナルに「はてな民が知らない」と書いたけど、実際には多くのネットユーザーがこの状況を知らないと思う。)
tiktokにおいては上記のような主張はほとんど見られなくて、「犯人許すまじ。」「何も悪いことしていない安倍さんがかわいそう。帰ってきてほしい。」という意見が主流。
確かに本件についてのニュースを積極的に摂取しない中高生だったら、安倍元首相は彼らの人生の半分近くを自分が暮らす国のトップであったわけで、その彼が銃撃というショッキングな理由で殺されたのだから、このような反応一色になるのは十分に理解できる。
でもそれだけでは理解できない部分がある。それは彼らが寄せる安倍ちゃんへの思慕の深さ。
tiktokの投稿動画を見ると、少なくない中高生ユーザーが推しのアイドルに対してするように安倍への追悼として彼の画像を複数集めて、それらを音楽に乗せた編集動画を投稿してる。(主に麻生や昭恵夫人、プーチンやトランプと談笑する写真や、単に飯を食ってる写真とかが使われてる)
それも普段全く政治的な発信をしない、ジャニーズやKpop好きの普通の中高生が、そうしてる。
さらに驚くべきことだけど安倍支持の連帯を示すファンマークも存在している。(ファンマークとはユーザー名の末につける絵文字で、これをつけることで特定の人物のファンであることを外にアピールする風習がある)
冗談のように聞こえるかもだけどこれは本当の話で、結構なユーザーがこのマークを自身のユーザー名につけてる。(試しに検索してみるといいかもね)
こんな感じの特定の人物に向ける素朴かつ深い思慕、なんか既視感あるなと思ったら思い当たる例があった。
それは上皇様。彼に対して多くの若者は近所の優しいおじいちゃんに対してのそれに近い親しみの感情を持ってた。
安倍ちゃんにtiktokの中高生が寄せてる感情ってこれにめっちゃ似てると思う。
なんで安倍ちゃんってこんなに中高生に親しまれてるんだろ。岸田や菅が同じように長期政権を築いたとしても同じようになるとは思えないし、もっと言えばノンポリの(のように見える)普通の中高生が政策の話など抜きに無条件に特定の政治家に親しみを抱いてるってこれまでの日本の政治シーンに無かったことだと思う。
はてな民はどう思う?この辺が解明できれば今後色々有用だと思うんだけど...。
・譲位の事実から勢いで諡を書いてしまっていた部分を上皇様に修正。ご指摘ありがとうございます。
・書き方が分かりづらくなったけど安倍ちゃんに対しての思慕は、素朴さと深さの点で上皇様のそれに似てるから引き合いに出したけれど、おじいちゃんへの思慕とは安倍ちゃんの方は違うように感じてます。
すごく分かる。
多分、短時間の会話なら集中すればいけるけど、長時間は無理なんじゃないかな。
記憶が揮発性で覚えておくことができない。
一度分からないことがあるとそこの処理で止まって、聞きながら考えるということができない。
そんな感じだと思う。
対処法は、慣れること。
結局慣れか…と思うかもしれないけど、これは自分の体験からきている。
自分も元増田と同じで会話を覚えられなかったんだけど、集中して聞くところは聞き、手を抜くところは抜くといった自分なりのコツをつかめば、仕事に差し障りのない程度には慣れると思うよ。
メモを外部の記憶領域と思えばいい。一旦外部に出してしまえばその分脳のメモリに空きができるから、会話に集中することができる。
覚えておくというのが苦手なだけなので、覚えるべきことは外に出せばいいんだ。
外に出して、あとはとにかく会話というものに慣れること。
自転車の運転のように、自分の感覚を頼りにして、聞きながら覚えて考えるということに慣れていく。
すると、聞いた情報の取捨選択が自分でできるようになり、聞きながら考えて会話することも可能になってくる。
ITにおけるフリーランスというのは、基本的には企業から仕事を請ける、受託開発の仕事だ。稀に、発注主が個人事業主ということはあるかもしれないが。だから、仕事を獲得するためには、企業と契約に至らなければならない。言い換えれば、企業から信頼を獲得しなければならない、それ以前に「知ってもらわないといけない」のだ。
案件紹介サイトみたいなのはあるけれども、そういうところを経由すると費用がかかったり、契約内容に制限がかかったりすることがあるので、できるなら案件紹介サイトのお世話にはならずに仕事を獲得したいものだ。
多くの場合は、フリーランスになる前の会社員勤めなどを通して、同じ職種の人間と仲良くなるだろう。同じ職種の人を経由して入ってくる仕事というのは、以下のケースが考えられる。
仕事してお金が入って生活できればそれで良いんだって話もあるけど、同業者から回ってくるお仕事って、多少の例外はあるけれども基本的に「おこぼれ」なんだ。
一方で、「企業の偉い人たち」という人脈があると、以下のような話が舞い込んでくる。
こういうお仕事を良い案件にするのもクソ案件にするのも自分の実力次第なのではあるが、私にとっては絶対にこっちの方が楽しい仕事だ。
私は、いわゆる旧帝大に入ったものの家庭の事情(主に経済的事情)で中退してしまい、派遣会社(今は亡き「特定派遣」の会社)に就職した。それでも3年間は大学にいたので、サークルなどを通して多くの人と知り合うことができた。体育会系ではないものの活動量の多いところだったので、それぞれの人となりは十分にわかるところだ。
30代前半のときに独立してフリーランスになり、仕事に困る時期も時々あったが、今は40手前。同世代の仲間たちの多くは大企業で偉くなっていたり、士業として開業していたりする。人によっては自ら起業している者もいる。彼らから仕事の相談が沢山あるので、最近では仕事に困ることは無くなった。仕事をくれる皆さんに本当に感謝だ。
以下の点が重要だと思っている。
これらの人脈があったら、フリーランスでなくて会社員をやっていたとしても、いろいろ有利に働くだろうし、フリーランスを目指していなかったとしても人脈は大事にするのぢゃ。
何か原因はあるんだけど、言語化できない理由でそう言われる、ってのは厳しいもんがあるな。
知人じゃなくて、全く関係ない第三者のカウンセリングを受けてみる、っていう手はあると思う。
変な団体とつながりのないまともな専門となると、金かかってしまう所が多いけど、対価取って責任持って原因を探ってくれるクリニックのような所に頼るほうが、結果的には無難じゃないかな。
自分が他人からどう見えていてどんな印象与えてるかってのは、本当に自分だけじゃわからないから、状況改善したいなら多少しぶとく、複数の相手に聞き回っても一緒に原因探ってくれる他人を見つけることをオススメする。
参考や慰めになるかわからんが、俺の場合は「笑い方がキモい」ってのを、大学時に女の子に言われた。全く自覚がなかったんでショックだった。
「直したいので率直に教えてくれ。俺の性格に触れての指摘でもいい。一切反論はしない」って約束で、当時の友人に感想を徹底的に聞いた。まな板の上の鯉の心境だった。
どうも声を抑えて笑うのが癖になっていて、息を吸う際に高い声が漏れ聞こえていたサマが、他人からは浮いて「キモく見えていた」らしい。
遠因として、それまでの人生で感情を前面に出すことを咎められるシーンが幾度かあった、なんだかんだ他人との会話の経験値が低く緊張していた、って心理があったと自己分析している。この領域はたとえ親友や夫婦関係であっても踏み込むのは無礼に入るゾーンだと思うから、他人の証言を手がかりに自分でたどり着くしかない。
それ気をつけて、笑うときは声を出して開放的に振る舞うようにしてみると、談笑時に変な目で見られることも(たぶん)なくなったし、女とも普通に会話して付き合えるようになった。
その友人にも、元指摘のあった女の子にも、もう十年以上会ってないけど、重要な気づきを与えてくれたと感謝している。
そんで、「なぜ」の部分を掘り下げた結果、もうこれは自分に責がない話で、治すことはできない、って結論になったら、自分に合わない奴は割り切って人間関係整理していくのがいいんじゃないかな。っていうか、30過ぎると自動的にそんな感じになっていくと思う。
何か役立てばいいけど、立たなければ読み捨ててほしい。健闘を祈る。
実際数学勉強して幸せに暮らしたロールモデル女子あんまりみたことないなー。実は男も幸せな数学者ってごく一握りのような気がする。
世の中で要求される対人コミュニケーションスキルとか気遣いとかいうような技術や知識とオーバーラップするところがなさすぎて、いわゆる変人、つきあいにくい人多い。まだ計算機科学とかの方が実在世界と関連している分はるかに生きやすいのでは。大学の学長さんとかも数学者って少ない。実務ができない人が多いからなんだよ。抽象的なことに能力と努力を全振りしてる。でも世界の進歩に一ページを書き加えられる人は一握りなんだよな。
「おまんこに中出しされた女性が、妊娠している状態としていない状態の重ね合わせの状態にあり、観測を行うことでどちらかの状態に収束する」といった量子力学的記述は、哲学者プッシーシュタインによって、彼の哲学的問題意識と深く結び付けられた。
プッシーシュタインは、人間が「おまんこ」について考えることは、自分の心について考察することと同じであるとした。プッシーシュタインによれば、人間は「おまんこ」という言葉を使って、自分自身の心の中にあるものを表現しようとする。「おまんこ」について考えることは、自分が何者なのかを考えることと等しく、極めて重要な意味を持っているのである。
また、プッシーシュタインは、人間にとって最も大切なのは「おまんこ」であり、それは、人間の知性や道徳性を超越した領域にあると主張した。人間が「おまんこ」について考え続けることは、理性を超えて存在する真理を探求し続けることである。そして、そのようにして探究される真理こそが、すなわち神だと信じた。それゆえに、プッシーシュタインにとって、シュレディンガーのおまんこは神の存在を揺るがす重大な問題点として認識されたのである。
プッシーシュタインは、シュレディンガーのおまんこについて次のように述べた。
「もし『シュレディンガーのおまんこ』が真実だとしたら、われわれ人類は、自らの心を理解できなくなってしまう。しかし、そのような事態に陥ってもなお、われわれは、おまんこのことを考えて生き続けるだろう。なぜなら、それを考えることこそは、我々の生きる目的だからである。我々は、神から授かったこの素晴らしい知恵を駆使して、永遠におまんこを探究し続けなければならないのだ。人類よ、チンポコを勃起させよ!」
ここ最近、SNSやネットニュース上では「親ガチャ」「毒親」という言葉が流行しているが、自分はどうもこれらの言葉が好きにはなれないでいる。
いや、正確には「言葉自体」が嫌いなのではなく、「その言葉を使うことを無条件に肯定する人間や風潮」が嫌いなのであろう。
その嫌悪感は、「親の言うことは無条件に正しい」「産んでくれたことに感謝しろ」「みんな大変なんだ、自己責任だ」といった無根拠な精神論、根性論によるものではないということは、初めに強調しておきたい。
どうも、インターネット上ではこれらの言葉に反感を抱く者は、上記のような精神論を振りかざしていると、誤解により、若しくは意図的にレッテルを貼られ、
「無理解な大人である」とカテゴライズされることを免れないようだが、せめてもの抵抗として、ここにその旨を記しておこう。
さて、私が「毒親」「親ガチャ」を不快に思う理由は、主に以下の3点にまとめられる。
この3点について、それぞれ考えを述べていきたい。
(精神的、身体的、性的)虐待をしている、経済的に困窮している、近所とトラブルを起こす、アルコール中毒者である、自身の進路や恋愛への過干渉、単に性格が合わない等々、
しかしながら、その言葉の意味の含有する領域があまりに広いことにより、非情にカジュアルな意味合い
(具体的には、自分の意見を聞き入れてくれないといった、思春期にはありふれたような悩み)でも使うことができてしまう。
この言葉の使用者の目線で言えば、自らの具体的な悩みを抽象的で使用しやすい概念を指す言葉に置き換えているので、
当然自らの状況が「毒親」「親ガチャ」に該当するのであると確信を持てている状態となる。一方で、この言葉を見る者からは、
「毒親」「親ガチャ」といった抽象的な概念を指す言葉から、発言者の具体的な悩みを推し量ることは難しい。
こういった「発信者」と「受信者」の理解に隔たりが生まれることは、良い状況を生まない。
発信者は深刻なSOSのつもりであっても、受信者は「カジュアルな意味合いで使っている者との区別がつかず、無条件に肯定し難い」のである。
この問題は、単なる親との不和を指す言葉として「毒親」「親ガチャ」を使う話者が増えれば増えるほど、深刻化していくだろう。
では、そういった発信者と受信者のすれ違いを解消するには、どのような方法を用いればよいのか。
私は単に、それぞれの問題に相応しい言葉を使うべきだと考える。
虐待は虐待、貧困は貧困、我儘は我儘なのであって、それ以上でも以下でもない。
果たして、「親から虐待を受けているから早く家を出ていきたい」「貧困のツケを子供に払わせるような親を恨んでいる」といった趣旨の発言に対して、
冒頭のような「親は悪くない/自己責任だ」と心無い言葉を浴びせる者が、そう多くいるだろうか。
たとえ同じ悩みについて語っていたのであっても、「毒親」「親ガチャ」と表現するより、遥かに受信者にはその深刻さが伝わるだろう。
「毒親」「親ガチャ」の言葉の定義の曖昧さに起因するカジュアルな響きは、「万引き」「いじめ」といった言葉において指摘されているような、問題の矮小化という欠点を抱えている。
(いじめや万引きは、その加害者や責任者が使うことによる問題の矮小化を指摘されているので、正確にはやや性質が異なることは承知しているが、毒親、親ガチャは被害者自らがそれに類似した矮小化を招いていると言える。)
自分の悩み、心の叫びを誰かに聞いてほしいのであれば、より正確に、相手にそれが伝わる言葉を用いることも一つの工夫であろう。
「毒親」「親ガチャ」といったサーチに引っ掛かりやすい、目につきやすい言葉を用いて形容することで、より多くの人の目に触れる可能性は高まるというメリットも確かに存在する。
よってその言葉自体を使うことを非推奨するわけではないが、用いる場合も自らの具体的な悩みを併記する方が、真剣に捉えてくれる人は多いはずだ。
これは、「毒親」「親ガチャ」を使用する側の問題ではなく、「受信者」の、更に言えば「大人」の責任の問題だ。
「毒親」「親ガチャ」を使うことは何も悪くない、どんどん使うべきだ、批判者は恵まれているだけだ、こういった無条件な肯定は、同世代の共感からくるものとは限らない。
自分が虐待などに苦しんだ、などの経験を持つ「善意の」大人からも多く寄せられている。
しかし私には、どうも「嫌ならやめよう、逃げよう」論と同様に、自らが責任を持たなくて済むのを良いことに、軽々しく注目を浴びたいだけの者や、
「毒親」「親ガチャ」といった言葉の存在を社会問題に繋げたい者といった、「悪意ある」大人が多分に含まれているように思えてならない。
(思えてならない、というのは正確ではないかもしれない。実際にそういった趣旨の発信を観測したことや、発信者のbioおよび過去の発信を観察した結果などから鑑みるに、上記の大人が一定以上の確率で紛れ込んでいるのが事実だ。)
1で述べた通り、「毒親」「親ガチャ」は曖昧な言葉で、本来は「虐待」「貧困」などといった深刻な問題から、単に思春期特有の不和なども含まれている。
そこに新たな社会問題が生まれたのではなく、「元々そこにあった問題が別の呼称をされている」に過ぎない。
もし社会的な問題が新たに生じているのだとすれば、青少年がSNSを使用する機会が増えたことにより、そういった「無責任な大人や唆したい大人」の意見へ触れる機会も、必然的に増えてしまったことこそが問題だ。
(無論、SNSの繋がりによって救われる人も多い。SNSそのものが青少年に悪影響である、と主張するつもりは全くない)
本来であれば、後から思い返して「自分が若かったな」で済む話を、周囲や社会へ責任を転嫁するような、拗らせてしまった人が量産されることは、自分は望ましくないと考える。
(「じゃあ『悪い大人』の狙いを嘯くお前の狙いは何なのだ」と聞かれたら、自分の幸福を守るためです。単に拗らせた他責性の強い人が社会に出てこられると迷惑なので。
ついでにその人自身も拗らせない方が幸せだとは思っていますし、正確な言葉でSOSを求める人が増えた方が、社会全体の利益に繋がるとも考えていますが。)
これも言葉を使う若者というより、それに付随する議論で生じる「悪い大人」の話に近い。
冒頭で述べた通り、「毒親」「親ガチャ」へ不快感を示す人は、その論の内容について考慮されることなく、「無理解な大人」のレッテルを貼られることが多い。
加えて言うと、「あなたは恵まれた家庭環境(親ガチャ当たり)だから恵まれない人の気持ちはわからない」というレッテル貼りを、非常によく見かける。
この論は全く筋が通っておらず、安易に社会の分断を加速させる、極めて悪質極まりないものであると私は考える。
何故ならば、「毒親」「親ガチャ」否定派の家庭環境についてはどう頑張っても想像の域を出ることはなく、属人的な論法でありながら「人」の部分を故意に都合よく歪めているからだ。
このやり口には一欠片ほどの正当性もない。
「毒親」「親ガチャ」という言葉へ好意的な者の家庭環境が、批判的な者よりも劣悪だったという根拠は何一つない。そもそも家庭環境そのものに対する評価が極めて多様なベクトルからなされるものであり、単なる比較がしづらい。
更に言うならば、「『毒親』『親ガチャ』批判派には人の気持ちがわからない」論者は、この点を最大限悪意的に利用し(または思慮深くないためか)、他者の家庭環境をジャッジしている。
親ガチャ批判派「自分も貧乏だったけど…」→虐待されてないだけマシ
親ガチャ批判派「自分も虐待されていたけど…」→裕福なだけマシ
といった具合である。彼らは相手によってゴールポストをずらすことで、自分たちが相手よりも恵まれていないことを強調する。繰り返すが、そこに根拠は何一つないのである。
先ほど、家庭環境については想像の域を出ない、と記したが、珍しくこの点についてある程度確度がある情報が世に出ているにも関わらず、誤った「ジャッジ」がなされた例もある。
昨年、某男性アイドルが「親ガチャ」という言葉に難色を示した件について、多くのネットユーザーが「お前は恵まれていただけだ」「アイドルになれる時点で親ガチャ当たり」
しかし、当該アイドルは幼少時に父親から身体的虐待を受けていた事実をカミングアウトしており、ニュースにもなっている。
虐待を行い、我が子に恐怖を植え付ける父親を、どういった基準で判断すれば「親ガチャ当たり」なのだろうか。全くもって理解に苦しむ。
「毒親」「親ガチャ」といった言葉を無条件に肯定する者の中には、勝手な想像で同情し、勝手な想像で批判する、
真の意味で他者の心に寄り添うだけの器量を持たない人間が多くいるということが、あの一件だけでも証明されたと言っていいだろう。
家庭環境について想像の域を出ないことは、「毒親」「親ガチャ」を使う人に対しての批判にも当てはまる。だから私は、「毒親、親ガチャは甘え」と、使用者そのものを批判するつもりはないのである。
ただ、「その言葉が多用され、繰り返し無条件な肯定をされると、社会は少し良くない方向に進む」と考え、非推奨しているに過ぎない。
・最後に
以上、3点にまとめて私の意見を述べてきた。
おそらく、「こうやって書くお前自身親ガチャ当たりなんだろ」と、全く内容を理解しているとは思えないコメントや反応も来るかもしれない。(そもそも誰にも反応されないかもしれない)
属人的な話をしたところで正当性が担保されるとは考えていないため、私自身については語る必要はないと思っているが、やや長めの文章を読めない人のために、家庭環境のうち、あまりよろしくなかったと感じている点を一応書くことにする。
私の両親は治療を要するレベルのアルコール中毒者で、父は酒を飲むと理不尽に怒るため、家の中で遭遇しないようにしていました。
母は酒を飲むと暴力へのハードルが著しく下がる方だったので、対処に苦労しました。今の関係性は身バレを少しでも防ぎたいので書かないことにします。
今回の文章を通して、それぞれの立場の人に伝えたかったことを簡単にまとめて、締めくくりたいと思う。
然るべきところ(学校や児童相談所)へ相談しましょう。インターネットで愚痴をこぼすことで発散するのも、それはそれでいいと思いますが、
本当に困っているなら、より正確な表現を用いた方が、真剣に聞いてくれる人は多いはずです。あと、悪意ある大人の、わかりやすいけど破綻しているような話には気を付けましょう。
その不快感の理由を言語化しないと、単なる無理解な大人と映ります。
深刻な悩みを抱えているかもしれない人へ、心無い言葉を浴びせるのは絶対にやめましょう。
本当に心配なら、言葉に不快感を示す人を煽ったり、無条件な肯定をするのでなく、
相談を呼びかける、貧困解決や、虐待防止運動をするNPOなどへの寄付をする(又は呼びかける)など、もっと当事者たちのためになることがあると思います。
リアルでこんなことをつぶやいても誰も聞いてくれないし、真剣に語りすぎても異常者扱いされて終わるだけだろうから、ここで書かせてもらいたい。
モテないやつの負け惜しみ、みたいに思われることもあるだろうが、そう思われても仕方がないのは承知である。
ただ、あまりにも感情のやり場がなくてどうしようもないので、せめて吐き出させてもらえたらと思う。
タイトルにも書いたが、恋愛とか結婚とか子育てとか、そういうイベントを経験して一人前……みたいな風潮が本当に苦手だ。
そういう人たちはほんとに幸せそうにしているし、
何より「守るもの」ができたことによって、生活にもハリが出てきている……ような気がする。
ただ、私がその領域にたどり着けるかというと、そんなことは絶対にないだろうなと思う。
悲観でも卑屈でもなく、本気でそう思っている。
もう30年近く生きてきたが、今までまともな交際をした経験はない。
今まで生きてきてこんな調子だし、今更人間なんてそう大きく変わることもないだろう。
だから私は、このまま、残りの人生を独身で生きる覚悟をすでに決めている。
そうした思いを覆すような「運命の出会い」でもあれば気持ちは揺らぐかもしれないが、
そんな実現可能性があるかもわからない話に期待していても仕方がない。
……という話をすると、決まって、「まだ若いんだから諦めるなよ」みたいなありがた~いお言葉をいただくわけだが、
そもそも私は、自分に恋愛ということへの適性がないと思っている。
人間誰しも得手不得手があるというものだし、わざわざ苦手分野で勝負することもないだろう。
私の場合、その「不得手」にあたるのが恋愛だったと、それだけの話だ。
苦手なことで頑張ってもつらいだけだから、私は苦手なことである「恋愛」をしないという決断をしているのに、
それをなぜ周囲は「恋愛したほうが成長できる」とか押し付けてくるのか、理解に苦しむ。
というか、そもそも、恋愛とか結婚とか子育てとか、そういうのって「人として必ず経験しないといけないこと」なのか?
恋愛をすることの目的のひとつは、子供を作って次の世代を育てるということにあるだろう。
近年少子化だなんだと騒がれているが、子供を作って育てる人がいなくなれば、人口が減ってしまう。
だから私も最終的には子供を残して、次の世代につなげなければならないのだろう。
それは当然、建前としてはわかっている。
だが、「次の世代を残す」ということの重みを考えたことがあるか?
私は大して頭がいいわけでもなく、他人と比較して突出した能力があるわけでもない。
金だってそんなに持っているわけでもないし、仕事が忙しくて時間もあまり余裕があるとはいえない状態だ。
そんな私が、「子供」という「一人の人間」をこの世に生まれさせて、
一人前の人間として生涯かけて育ててやれるような気概があるだろうか?
健康な状態で生まれさせて、大病を患うこともなく、健康な生涯を送らせてやることができるだろうか?
そもそも、私が子供を残すこと自体が社会にとって有益なことになり得るのか?
一口に「子供を育てる」といっても、想定されるリスクがあまりにも大きすぎる。
とにかく、不確定要素が多すぎるのだ。
子供が「〇〇をしたい」と言ったときに、お金に余裕がないからと諦めてもらうことになるかもしれない。
子供が「やりたい」と言ったことは支持してやりたいが、それをかなえてやれるだけの力が、私にある保証がないのだ。
もちろんお金以外にも色々要因がある場合は出てくるかもしれないが、それもひっくるめて、私にはそれだけの力量がないと思う。
子供に不自由させたことで、子供に恨まれることだってあるだろう。
そんなとき、子供はこう思うはずだ。「こんな親のところに生まれたくなかった」と。
そんな状況でも、一度生まれてきた以上、生を全うしなければならない。
日本の平均寿命が約80歳らしいので、仮に80年生きると考えたとして、80年も「生きる」ことを強要されるのである。
この私が親であるというハンディキャップを背負いながら、80年。
どうせこの世に生を享けるなら、何一つ不自由なく暮らせる、いい家庭に生まれてほしいと思う。
ただ、私の作るような家庭では、そんな環境などできないのだ。
そのためには、私が出しゃばってはいけないのだ。
私のような不完全な人間が「親」になるということは、
ところが、「子供を残さなくても恋愛はできる」という考えもあるだろう。
運よく誰かと結ばれたとして、子供を作らずにそのまま家庭を築けばいいのかもしれない。そういう夫婦のありかただってあるだろう。
だが、私が恋愛をしようとすること自体が、そもそも私のエゴにすぎないものであると思っている以上、
私は特に裕福なわけでもなければ、大して仕事ができるわけでもない。
私が人間的に魅力がないのは、今まで30年近く、ろくに異性に相手にされなかった事実が物語っている。
そんな私が誰かを好きになったとして、その相手にアタックをしかけたとしよう。
その相手は、「私のような人間から好かれたこと」を喜んでくれるだろうか?
人から好意を持たれることは嬉しいかもしれないが、よりにもよってその相手が「私」なのである。
相手の立場から見たときに、「私」から好かれることが必ずしも嬉しいとは限らない。
ほかに魅力的な人物がいれば、そちらに流れてしまうのは自然なことだ。
運のいいことに、それでもなお、相手が私の好意を了承してくれたとする。
私は好きになった人と結ばれたことで、幸せで居られるかもしれない。
だが、相手は「私に"付き合わされている"」のであって、私の好意を押し付けられている状態だ。
そんな状態で、私のことをずっと好きでいてくれるような保証があるだろうか?
私に「付き合わされる」ことになった相手は、それで幸せなのか?
よく聞くありがたいお言葉に「恋愛すると人間的に成長できる」というものがある。
そのお言葉はある意味では正しいのかもしれないし、そういう意見は否定しない。
ただ、恋愛対象となる「相手」だって「一人の人間」なはずだが、
「恋愛すれば成長できる」のであれば、交際相手という存在は「自分が成長するための踏み台」に過ぎないのか?
恋愛や結婚なんて、自分だけでなく、相手の人生も大きく変えてしまう、大事なイベントだ。
大事なイベントだからこそ失敗は許されないし、合格点は当然100点満点だ。
そんな一大事なのに、「自分が成長したいから」という身勝手な思いだけで、
「私のような存在に人生を狂わされること」を考えたときに、相手からしたら良い気がするものではないだろう。
むしろ、私が好きになった人だからこそ、私のような存在が関わるべきでないとさえ思っている。
私が関わることで、相手を余計に不幸にさせてしまうのではないかと思う。
そもそも、「私が相手を幸せにしてやる」なんて思うこと自体が思い上がりも甚だしいのだ。
「相手の人生を変えることへの責任」を果たしきれる自信がないのだ。
もろもろのイベントに対して、それに伴う責任を果たせる自信がない。
仮に取り組んだとしても中途半端な結果になり、破滅して終わるだけだろう。
ことによっては賠償金とか慰謝料とか、そういう話も出てくるかもしれない。
自分も相手も、次の世代も守るためには、「私が恋愛をしないこと」が最適解になるのだ。
そうすれば、「幸せ」にはなれなくても、「不幸」は少なくとも避けられる。
こういう話をすると、「責任から逃げてるだけだ」とか「そういう責任を果たしてこそだ」とか言われるだろう。
「責任から逃げている」というのは否定しない。実際そうだと思う。
焦って準備も不完全なまま手を出したとして、それで付き合わされる相手や生まれてくる子供が不幸になるだけで、
私が恋愛をしたところで、相手や子供が不幸になる未来が目に見えている。
確かに恋愛や結婚や子育て自体は大変なことだと思うし、その重い責任を果たしている人は本当に立派だと思う。
それを「逃げ」だというならそれで構わない。それで不幸を再生産することのほうが、結果的には不利益だから。
確かに、「なんとかなる」こともあるだろう。
だが、「なんとかなってる」状態で過ごすことを強いられる、交際相手や子供のことはどうなる?
「なんとかなってる」というのは自分の勝手な思い込みであって、実際はそうではないのではないか?
責任が重いことである以上、100%の完成度が求められてしかるべき話だ。
そんなことが「なんとかなる」で許されていいわけがない。そんな状態で生きてても誰も幸せにならないじゃないか。
あと、「子育て世帯にやさしくない社会が悪い!」という論調もあるだろう。
もちろん、それも理由の一つではある。
だが、私はそもそも「子供を育てること」に適性がないと感じているので、
いくらそういう制度がしっかりしていようが、「子供を育てる」ということをする気がそもそもないのだ。
必要とする人への補償はしっかりされるべきだと思うので、その辺の整備はしっかりしていたほうがいいとは思うが、
それは私が「子供を作りたくない」と考えることとは無関係なのだ。
長々と書き連ねたが、まとめるとこうだ。
・私は「恋愛」やそれに付随するもろもろのことに適性がない
・私が下手に恋愛や子育てをしても、相手も子供も、自分さえも不幸にするだけ
それを「逃げ」とか「もったいない」とか言うなら、それはそれで構わない。
ただ、「お前も早く結婚しろよ」とか「子供がいると仕事もハリが出るぞ」みたいに言ってきて、
交際相手とか子供とかを「自分が成長するための道具」としか見ていないような、
そういう言い分にはすごく嫌悪感を覚えるし、腹が立って仕方がない。
私が恋愛とか結婚とか子育てとかをしたいと思ったとして、それはあくまで私のエゴにすぎず、
それに振り回される人たちのことを考えたときに、そんな自分勝手な真似は到底したいと思えない。
頼むから、私が「恋愛をしない」という決断を敢えてして実行していることについて、
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お読みくださってありがとうございます。
「恋愛」とか「結婚」とか、そういう「人生の大きなイベント」に対して、
ただ「自分が成長するための機会」みたいにしか捉えられていないような、
そんな風潮に嫌気がさしているので、日ごろの思いを書かせて頂きました。
なお、「恋愛する奴が憎い」みたいな話がしたいのではなくて、
恋愛とか子育てとかの責任をちゃんと果たされている方のことは、嫌味でも何でもなく本気で尊敬に値すると思っています。
あくまで「私には能力がないから恋愛したくない」という、私個人の話であって、
恋愛といった一連のことを経験できる方を馬鹿にしたりするような意図はございません。
以上です。ここまで読んでいただいた方、ありがとうございました。
ごめんねそのクラスの人のことは想定してない
でも知的労働社会に端から適合できないような人に適合を強要するのは、適合できなかった事実をもとに「社会に合わせられないんだからお前がどうなろうとも自己責任だ」という論調に結びついてしまうんじゃないかなと思う
適合できる人の負担になるのはわかるがそこは政治でなんとかすべき領域だと思う
(だから尚のこと某党首の考えには賛同できない、個人レベルで優生思想的な考えがあるのは仕方ないと思うけど優生思想は政治レベルでやることじゃない)
仕事も正直スタートアップだの起業だのってのは楽園を騙った墓場ってのはわかってきて、それでも当たればでかいし、当たれば収入面で年齢をカバーできるかという気持ちも多少あって頑張ってくる。
だけど技術以前の上のピエロ共の笑いや踊りばかりでげんなりさせられる毎日。うまくいかないんじゃね?って気もしてる。
普通に稼いでいて安定して土日はきっちり遊べる企業に勤めて、休日は自分の好きなことで遊んで、少しずつ異性のいる領域にも顔をだして、好きなものを共に遊べる異性と好きなものを遊びたい人生だった。
アリとキリギリスの寓話はあるけど、今の日本はキリギリスは悪いやつをうまく交わせるが、アリはやりがいあおりや使命感で何処かで使い潰される存在。
それから長い時間が経って、今は野良のプロとして漫画を描いている。特定の組織には所属していない。ごく稀にR18雑誌に寄稿したりもするが、基本はずっと一人だ。
今回、こうしてエッセイみたいなのを増田に投稿しようと思ったのは、感謝の念が芽生えたからだ。
ずっと、社会に恨みを抱いて生きてきた。子どもの頃からストレスが多い環境にいたせいだろう。最近、ようやく周りに感謝ができるようになった。以前は、作品を認めてくれるファンの人だったり、SNSで意見やコメントをくれる人だったり、本気で叱ってくれる人にしか感謝できなかった。
最近になって、子どもの頃から散々な目に遭わされた家族とか、昔々の、辛い状況でも諦めなかった自分に感謝ができるようになりつつある。ちょっと長くなるけど、自分語りをさせてほしい。
虫取り網を叩き折られたり、廊下を歩いていると後ろから蹴られたり、みんなで遊んでいる時も置いてけぼりにされたり、自分の家で遊んでいる時は貯金箱からお金を盗まれたりした。
イジメから助けてくれる先生はいたが、見て見ぬ振りをする先生も多かった。中学に上がってからは、暴力がますます激しくなって、週に1,2回くらいしか学校に行かなくなった。保健室通いというやつだ。
学校だけじゃない。家族もそうだった。自営業(工場主兼農場主)をしている父はただ黙々と働いているだけだったが、母(介護福祉士)がとにかく理不尽だった。小四くらいで整体マッサージを覚えさせられ、母が夜ドラマを観ている最中、足や背中をひたすら揉まされた。
数学のテストで20点を取ったり、ワイシャツを洗濯に出さなくて洗濯機で汚れが落ちなかったりすると、決まって布団叩きで頭をぶん殴る。その後は決まって反省文の提出と朗読がセットで付いてくる。
一番ムカついたのは妹(現在イラストレーター。女性誌の挿絵とかリクルートの雑誌の4コマ作ってる)だ。3つ下だったが、自分が中学一年生の秋に不登校になり始めてからは、ひたすらバカにしてきた。
母と一緒になって、「役立たず」「頭が悪い」「人間性に問題がある」「兄ちゃんのせいで学校で嫌な思いをする」「早く家から出て行って」など言いたい放題だった。
中学を卒業して偏差値52の公立高校に通った。イジメに遭いそうにない環境や生き方を必死で探したおかげか、陰キャラとして3年間を過ごすことで平穏無事に高卒の肩書を得た。
人間としては全然ダメだった。今でもそうだ。青春期に、部活とかボランティアとか、人と関わる活動をしてこなかったせいか社会性に問題がある。クリエイターを目指す専門学校に入っても変わらなかった。マックでアルバイトを始めたけど、根本的なところはいっしょだった。
自信がなかったのだと思う。自分自身の生き方に対する信仰、というか。それが社会性のなさに繋がって、いつまで経っても結果が出せなくて、それで自信を失っての悪循環だった。
普通の20代前半くらいの人間だったら、「お前はすごい」と言われたことがあるはずだ。自分にはそれがない。もどかしい気分になったけど、当時は鬱蒼鬱屈(教えてくれた人サンキューです笑)とした気分で街を歩くしか手段がなかった。
ちょっと前に、マクドナルドに面接に出かけて、遅刻して店長に怒られて逆切れをした人のはてなブログがバズったことがあったはずだ。まさにそんな気分だった。あれは自分だった。もう一人の自分。今思えば愛おしい。
専門学校に入学してすぐだったか。あるまとめサイトを見たのは。
絵師の上達みたいなタイトルの2ちゃんねるのスレッドだった。いろんな神絵師の上達していく過程が何枚かの絵を抜き出すことで説明されていた。ところで、自分はシナリオ学科だった。イラストとは縁がない。けど感動したのは覚えている。
ある神絵師の最初のイラストは、東方のチルノだった。最初は小学生が描いたみたいなシンプルな鉛筆書きみたいなノリだったのだが、年を経る毎にどんどんうまくなっていって、最後のイラスト、神輿と一緒に映っているチルノはまさに圧巻だった。
この時になって思い出した。小学生の頃は、授業中のノートに絵を描くのが好きだった。当然、大したことはない。まさに子どもの落書きだ。中学生になる頃には一切書かなくなっていた。
自分もイラストをやってみたいと思った。確かな感情だった。自分が好きなアニメのイラストを描いてみたい。あの時、確かにそう感じた。
まずは自由に描いてみた。
一番最初に描いたのは実家で飼っていた猫だった。灰色のやつで、自分と妹が小学生の時に拾ってきた。自分達が近付くと、「ヌアァン」と鳴いて田んぼの稲穂の中に入って行った。
出てくるまでに20分はかかったろうか。「いつまでも一緒に待つんだぞ」と妹に提案して、出てきた猫を妹が抱えて家に持って帰ったんだっけ。父には反対されたけど、母を味方に付けることに成功した。
そんなこんなで初めて描いた猫は、猫ではなかった。よくわからない物体だった。耳がへなっと折れていて、ほわほわとした毛並みを表したはずの鉛筆でのなぞり書きは、角が折れたトーストの上に浮かんだような暗黒物質を生み出していた。小倉トーストだった。
二番目に描いたのは、好きなアニメのキャラだった。アイカツ!の星宮いちごを描いてみた。二次元だったら何とかなるかと思ったが、ぜんぜんそんなことはなかった。一応人間にはなっていたが、こっちの方がまだ猫に似ていた。
三番目は、風景に挑戦した。上で田んぼと書いたが、当時は関東圏でもそれなりの田舎に住んでいた。実家の近くに小高い山があるのだが、そこに昇って、自分が住んでいる町を見下ろしてスケッチをしてみた――結果は燦々ではなく、散々とした出来だった。透き通った空気の中に浮かぶ田畑が並んだ一帯を描くはずが、自室の襖に飛び散ったとある黄ばんだ一角のような、痴態のようなものしか描くことができなかった。
独学で学んでいるからダメなんだと思い、ネットで上達方法を学んでみた。といってもツイッター検索だが。「とにかく量をこなせ」というメッセージが心を掴んだ。
次は書店で本を買い、何周も読み返して基礎的な人体の描き方を頭に叩き込んだ。新しい何かが開けた気がした。
そんなこんなで、何を描いたのか判然としないようなモノを1週間につき1枚のペースで仕上げていった。努力しただけあって「ヘタクソ」の領域に到達することができた。
これでいい。あとはpixivに投稿しさえすれば、絵描きへの第一歩を踏み出せる。ここまでに約二ヶ月かかっている。今までのpixivの使い方はといえば、好きな漫画やアニメのイラストを見たり、さあ寝るかと思った時に、より深く就寝に至るための聖なる行為(SeaCallと呼んでいた)をするためだった。
それが今、人生で初めて本気で描いたアイカツ!のキャラ絵を投稿しようとしている。色々と入力していって、最後に「投稿する」ボタンを押すと、ブラウザ画面がぐるぐると回って投稿が終わった。
最初のブクマ数は、3時間で「5」だった。閲覧数は70くらい。コメントも付いた。テンプレだったけど。
嬉しかった。自分のイラストを気に入ってくれる人がいたのが嬉しかった。この時が絵描きとして人生で一番最高の瞬間だった。この時以上に嬉しかったことはない。
ところで、検索で一番上に出てくる上位勢とは月とすっぽんだった。それくらい画力に差があった。子どもの頃に観ていた夜ドラマで喩えると、彼らがお空に浮かぶお月様だとしたら、自分は味噌汁の出汁に使われる煮干し様だった。彼ら彼女らを引き立てるための数多のヘタクソの1人。それが当時の自分だった。
今の自分は、漫画的な儲けであれば、彼ら上位勢のほとんど全員に勝っているだろう。もしかすると、pixiv出身の若手作家という括りでは自分が歴代一位かもしれない。いや、多分そうだ。
しかしbut。あいつらの画力には到底及ばない。あれは常人が至れる領域じゃない。努力できる天才だけがあそこまでいける。
当時は、気が狂ったようにイラストを描いた。専門学校の授業が終わると、真っ先に家に帰ってイラストを描いた。アルバイトは当初週4でシフトに入っていたけど、週2に減らした。
ここでいったん筆を止めて、pixivのマイアカウントを眺めてみる。過去に描いた作品を時系列に巡ってみたのだ。すると、端的なある特徴が出てきた。割とすぐに一般絵からエロ絵主体に移行しているのだ。もっと遅いと思っていた。
今の自分は、一応プロだ。エロ絵で生きている。絵の初心者だった当時は、そんな未来は全く想定していなかった。自分が描いていて楽しいものを作っていただけだ。自分はおそらく、エロに興味がある人間だったのだろう。
とにかく、たくさん投稿していた。週に2~3つ上げていたこともある。今だと月に1枚が限度だ。暇な時間がなくなってしまって、好きなキャラ絵を描く時間も体力も気力もない。専門学校を卒業する頃には、200本以上のイラストや漫画をアップしていた。子ども向け~若者向けのアニメが多い。アイカツ!とか、プリパラとか、ポケモンとか、ラノベ作品とかそんな感じだ。
すっかり絵描きになっていた。マックのアルバイトで貯めたお金でペンタブを買ったりした。今でも使っているお気に入りのやつだ。
絵を好きになれたのはよかったが、専門学校を卒業しても就職しなかった。シナリオの勉強は存分にさせてもらったけど、別に脚本家になりたいわけでもなし、ゲーム制作の実績があるわけでもなし、就職活動やコネ作りなど当然しているはずもなく。文章を書くのは好きだったが、小説書きには興味がない。そんなことより絵が描きたかった。
いや、違う。専門学校に居た時、違う学科同士でグループを作ってゲーム制作をしたことがある。途中で抜けることになったが。コテコテのRPGだった。
ツクールで制作を進めていて、魔法の名前を考えている時、自分が水属性の魔法として「シーコール」を提案したのだ。それで、3人居た仲間の1人が噴き出した。また別の子が、「海をイメージしてるんだね。きれいな名前だね」と言ってくれた。それで、「発展形はどういう名前になるの?」と聞いてきた。
「ゼンイン・シーコールというのはどう?」と自分がいうと、さっき噴き出した奴が机に突っ伏していた。「それは、どういう描写をイメージしてるん?」とさっきの女の子が聞いてきた。
「みんなで力を放出して集めたやつを、その聖なるやつをさ、敵に流し込んでやるんだ。思い浮かべてみて」と言ったところで、また別の人が「お前はふざけているのか。帰ってくれ!!」と憤った。
以後は、それなりのペースで開発は進んだ。順調だったように思う。上の女の子が、みんなをうまくリードしてくれた。自分にキレた人も、開発の途中からは冗談を言うようになっていた。
「増田君、いいシナリオが思い浮かばない? じゃあ、この主人公がトツゼン・シーコールをするのはどう?」
と冗談を言ってくれるようになった。
懐かしい記憶だ。ちなみに、シーコールをきれいな名前だと言ってくれた子は、卒業後にガンホーに入社した。当専門学校では一番の出世株だ。同窓会ではスマホゲームを開発してると言っていた。参考までに、マジメに考えた技や魔法も一応提出した。
・無窮動(ペルペトゥーム・モビーレと読む。それ以外は亡失)
・規律ある発狂状態(ディシプリナ・インサイアと読む。それ以外は亡失)
・夜明けの羽ばたき(〃。たぶんミネルヴァの梟から取ったのだろう)
こうして自分は、絵を描いていたいがあまり、フリーターとしての道を選んだ。父や母からは馬鹿にされ、軽んじられた。当然、妹からも。
当時の妹は、実家の台所で自分の存在を認める度に、ごみを眺めるような感じで素通りした。なんというか、存在を認識していないのだ。あいつも高校を出てすぐに入った会社で嫌なことがあって、1年ちょっとで辞めてしまって辛かったのかもしれないが、とにかく目線が冷たかった。
自分もフリーターの身分なので、家族内で大したことは言えなかった。母にはよく「役立たず」「プーの分際で」「一生トイレ掃除でもしてなさい」など冷たい言葉を吐かれた。
フリーターだった頃の自分は、何を思っていたのだろう。「見返してやる。世の中で絶対成功してやる」などと思っていたのだろうか……いや、そんなことは思っていない。自分がやりたいように、やりたいことをして生きていきたい。そう思っていた。それだけだった。
マックで週2~3回のアルバイトをして、家に帰ったら小学校に上がる時に買ってもらった児童机に座り、ペンタブを握って作業に没頭した。傍らの床には、スケッチ帳を破って放り投げた下書きが何十枚も落っこちている。そんな毎日だった。
できた、できた、できた!! 作品を完成させた時のあの感覚、自分がまるで神にでもなったかのような、いま過去最高を更新し続けている、今この瞬間の自分は過去のどの自分よりも優れている――という、あの頃の高揚感にはもう戻れない。あの日々、俺は俺で満たされていた。我を忘れるほど。自分が決めて進んでいた道のなかで。
成長しすぎてしまった。10ヵ月以上かけて長編作品を完成させたとしても、喜びはあまりない。それよりも、ホッとした、安心したという感情の方が強くて。ある時期を境に、自分は作者として堕ちているのか、このままで大丈夫なのかという疑問が湧いてきた。一方で、FANZAやDLsiteで多くの人達が楽しんでくれているのを観ると、やはり絵描きをしていてよかったと感じる。
DLsiteに長編作品を投稿しようと思ったのは、ある夏の日のことだ。アルバイトが終わり、家に帰って夕食を食べていた。すると、台所の四角い卓の斜めに座っていた妹が、「ん」と親指を床に向かって指した。そこには、おそらく何日か前のご飯の残りカスみたいなものが落ちていた。妹は、ウザそうな顔で「拾え」というジェスチャーを繰り返した。
しぶしぶ右手を屈めて拾ったのだけど、それから何時間か経って、自分が相当馬鹿にされていることに気が付いた。あれはそもそも、自分が落とした残りカスだったのだろうか? 違うんじゃないのか。とにかく馬鹿にされていたのは間違いない。怒りが込み上げてきた。許せないという気持ちが何日も続いた。
ある日、ようやく思い立った。自分の思いに決着をつける方法を。解決になるかはわからなかったが、とにかくやってみようと思った。
R18作品を扱っている販売サイトを見て廻った。それで、処女作はDLsiteに捧げようと思った。これまで同人作品や同人ゲームを購入したことがあるというシンプルな理由だ。「此処で作品を売ろう」と思ったら判断は早かった。すぐにpixivのマイページを開いて、これまでに投稿した約250作品をひとつひとつクリックしていった。読者の反応を観るためだ。
長編作品と向き合うにあたっては、自分の強みでとにかく突き抜けようと思った。専門学生の頃に、ヒルティという人の『眠られぬ夜のために』を読んだことがある。あまりに感動してしまって、つい何篇かの言葉をメモ帳に書きつけていた。
突き抜けよ。この短い言葉は、内的生活の多くの危機に、ほとんど魔術的な効果をもつものである。
195ページ
あなたの義務を行いなさい、できるならば楽しい気分で。できなければ、そうした気分なしでもよい。この方が一層ほむべきことであり、一層大きな実りがある。
211ページ
まことの人生の楽しみを得ようと思うならば、なによりもまず、その楽しみがいったい何にあるかをはっきりさせ、それを妨げるすべてのものを、断然さけなければならない。
237ページ
今でも好きな本のひとつだ。
とにかく、突き抜けてみようと思った。頭に閃いた何かを形にするために、これまで作品をお気に入り登録してくれた人達の意見を集め、この試練に立ち向かうのだ!
スケッチ帳への下書き(追記 専門用語でいうネーム)から始めて、セリフを付けて、大まかに色を塗って(追記 色鉛筆でザザッと塗るだけ。難しい場合は✓で表す。自分の場合は一度紙で表現しないとデジタル作業に移ることが難しい)、効果音のイメージを書いて……いや、大事なことを忘れていた。基礎設定はできていたのだが、キャラクター同士の人間関係をまるで作っていなかった。これでは駄目だ。というわけで、もう一度スケッチ帳への下書きからやり直した。「うん、これでいい。やっぱりやり直してよかった」と、当時の日記に書いてあった。
今でもそう思う。キャラクター間の繋がりが何よりも大事だ。特にR18コンテンツにおいては。「男性はカタログとシチュエーションに萌え、女性は物語と関係性に萌える」のだから。
粉骨砕身の末、三ヶ月以上かけて初めての長編作品ができた。50ページ近くはある。誰に対しても胸を張ることができる妹凌辱ものだった。
精一杯、想いを込めて突き抜けた作品だった。2022年6月現在のインターネット掲示板での自分は、近親相姦ジャンルの大家として知られている。恋人たちの予感がするほど、そんなラブラブな作品は作らない。ガチ凌辱とかではなくて、『ライト強姦』とか『ソフト凌辱』とか言われるコンテンツになる。
以下に続きます。
民主党は元々「まともな野党」として出発したのに、お前らみたいな共産党と左翼どもが寄ってたかって妨害し、めちゃくちゃにしてしまった。
2000年代、民主党は共産党・社会党と一線を画して、「国防に責任を持ちます」「改憲も考えていきます」とアピールしていた。当時はそれが凄く画期的なことであった。そのおかげで「まともな野党」と認められたし、政権交代を実現できた。
しかし、今では党が存在せず、後継の立憲民主党がご覧のありさまだ。
民主党は確かに右翼から叩かれていたが、常に左翼からの攻撃にも悩まされていた。とくに選挙になれば、かならず共産党が独自候補を立てて、リベラル票を割ってくる。それが自民党を利して、民主党はすっかり選挙で勝てなくなってしまった。その意味では、じつは左翼からの攻撃こそが深刻な問題だったと言える。
では、共産党と協力して、候補者を調整すればいいのだろうか? それをやってしまったのが下野後の民主党、および枝野の立憲民主党だ。彼らが共産党と組んだことの代償はあまりに大きかった。そのデメリットを下記に挙げると、
1,共産党とツルんでいるだけで、保守派の支持を得られず、無党派層からは不信感を持たれる。
3,立憲民主党は共産党への遠慮・恩義があるせいで、サヨク活動家を完全に切り捨てることができない。
しかしながら、もう今さら、立憲民主党は共産党との選挙協力を止めることができない。
現在の泉代表は、どうにか共産党を切り離そうとしているが、それは無理だと思う。
党内には選挙協力のおかげで当選した議員がたくさんいる。枝野幸男ですら、前回の選挙は接戦で、共産党が離反すれば落選していたくらいだ。これでは、党をまるごと共産党に乗っ取られたようなものだろう。
こうして立憲民主党は衰退しましたとさ。めでたくなし、めでたくなし。
【注】3について。
立憲民主党は、共産党への遠慮・恩義があって、もはや自由闊達な議論ができない。サヨク活動家から無茶な要求があったときも、きっぱりと拒否して突き返すことができない。このため、一般の有権者からは、「活動家の顔色をうかがっている」「左翼の言いなりだ」と思われてしまっている。
もともと国防や改憲でその傾向が見られたが、近年は反原発とジェンダーがそれに当たる。
例えば立憲民主党は、フェミニストと一緒になって表現規制をするというイメージが持たれてしまった。これは共産党と組んだことが大きい。山田太郎・赤松健のように自民党から出馬して、最初から共産党を切っておけば、サヨク活動家への忖度をしなくてすむ。旧民主党でも、フェミニストを軽くあしらうことはできただろう。しかし、立憲民主党はその選択肢を取れない。
これは「表現の自由」問題だけではなく、他の領域分野についても同様と言える。立憲民主党はたやすくサヨク活動家の脅迫に屈し、または率先して忖度をおこない、滅茶苦茶なことをやりかねない。有権者はそれを疑っている。
もし共産党と協力すれば民主党を食い荒らされて終わるというのは、完全に正しい認識だった。
一度手を結んでしまうと、進むも地獄、引くも地獄で、そう簡単に駆除することはできない。
ブクマ数が伸びているので、少し補足しておく。
民主党の政権運営は酷かった。それによって信用を失ったのは間違いない。鳩山、菅、野田に対しては、いろいろな立場から、多数の批判がなされている。
しかし、政権を手放した後、あっけなく分裂に至ったのはなぜか? 支持率が下がったからといって、なぜ一丸となって再建をめざせなかったのか? それは民主党がうかつに共産党と組もうとして、逆に左翼にひっかき回されてしまったからである。