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はてなキーワード: 「生きる」とは

2024-10-24

anond:20241023231223

すごく情景が浮かぶ話だった

東出が熊のモツ煮を無心に食べてる姿、そしてそれを見て感動するあなた気持ちが伝わってきた

東出の一心不乱に食べる様子が、ただの「食事」を超えて、もっと根源的な「生きる」ということの姿を見せてたんだろうね

かに普通食レポとか美食家が見せる「味の感想」だけじゃなくて、ただただ食ってるだけってのが逆に強烈に「生」を感じさせる

東出はきっと今、色んなことから解き放たれてて、だからこそ素直に、ただ生きてるだけって感じなんだろうね

増田が「俺は東出みたいに、あんなふうに一心不乱にメシを食えているか?」って自問自答したってのも、まさにその通りで、我々が普段忘れがちな、ただシンプルに生きることのエネルギーを見せつけられたんだと思う

カイジみたいにキンキンに冷えたビールで「キンキンに冷えてやがる!」ってなる瞬間も、あれもまた、生きてる実感のひとつなんやけど、東出のあの熊のモツ煮の食べ方とはまた違うんだろうね

なんだかんだで、東出がそこに映し出した「生物としてのパワー」に惹かれたんだろうな

普通やったら照れくさくてできへんことも、あんな風に無心でやってるの見ると、むしろかっこいいと思わせる力がある。羨ましいって気持ちも、きっとその「生」を感じさせてくれるからなんだろうね

ももしかしたら、増田もいつかあんな風に何かに夢中になれる瞬間が来るかもしれんよ

生きる実感ってのは、意識してると意外と得られへんもんやけど、ふとした瞬間にガツンと感じることもあるだろうし

2024-09-24

クソな社会に興味を持つべきではない

この世界混沌としています政治経済環境問題など、社会は様々な課題を抱えていますしかし、そんな「クソな社会」に興味を持つ必要などありません。なぜなら、真の知的満足は社会喧騒から離れた静寂の中にこそ存在するからです。

社会貢献?他人のための活動?そんなもの無意味です。代わりに、自室に引きこもり数学世界に没頭することこそが、最高の喜びをもたらします。数学純粋論理と美しさは、この世界混沌とした現実はるかに超越しています

他者との交流社会との関わりを断ち切り、ただ一人で数式と向き合う時間。それは比類なき知的冒険であり、精神的な高揚をもたらします。フェルマーの最終定理リーマン予想など、未解決問題に挑戦する瞬間の興奮は、どんな社会成功よりも価値があります

部屋に引きこもり数学世界に浸ることは、現実世界からの完全な解放意味します。社会の期待や責任人間関係の煩わしさから逃れ、純粋思考の喜びに浸ることができるのです。

社会貢献や他者のための活動は、結局のところ自分を縛るだけです。真の自由幸福は、社会から完全に切り離され、自分の興味のままに数学を探求することにあります。それこそが、知的生活の究極の形なのです。

「クソな社会」に興味を持つことなど、時間無駄しかありません。部屋に引きこもり数学世界に没頭すること。それこそが、最高の知的満足と幸福をもたらす唯一の道なのです。社会の期待や常識に縛られることなく、純粋知的探求の喜びを追求しましょう。それこそが、真の意味「生きる」ということなのです。

2024-07-23

anond:20240723195928

フフフ…面白い考え方だね♥

死ぬのは確かに誰にでも訪れるものさ…だからこそ、今この瞬間をどう生きるかが重要だとボクも思うよ♦

未来を見据えることも大切だけど、目の前の現実にどう向き合うか…それが本当の意味での「生きる」ことなんじゃないかな♠

大事なのは、その瞬間瞬間で自分が何をしたいか、どう感じるか…そして、それをいかにして実現するか、だよね♣

2024-07-02

anond:20240702000259

こういう奴は黒澤明「生きる」を一度見てみることを勧める

2024-03-01

男って何で男同士で連帯しないの?

弱者男性やチー牛みたいな弱いオスが

弱い者同士で連帯しない理由が分からない。

それどころか弱男同士で争ってる始末。

何か単純に男って「生きる」のが下手だなーって

感じる。

というより連帯協調が出来ないから弱いんだね。

2024-01-07

収入が増えた

まれてこの方不景気で食うに困るほどではなかったけどろくに贅沢もせず生きてきた。

生活必需品は常に店頭で1番安い1番グレードの低いものを買うのが当たり前の35年間。

それがひょんなことから職を変えることになって収入が急にめちゃくちゃ増えた。

給料明細見てびっくりした。ギリギリ生活にもかなり余裕ができてきた。

外食の値段を気にしなくなったり、毎日ささやか晩酌ができるようになったり、親に美味しいものを買って送ることもできた。

ここ15年ほぼ毎日同じメニューだった食パンコーヒー朝ごはん

ふと、たまにはパン屋ちょっといいパンを買っていつもと違う朝ごはんにしてみようかなと思った。

いいなと思った。

人生って楽しいんだなと思った。

ずっとそういうささやか生活の充実を求めてたのかもしれないけど、それに気づくことも出来なかった。

今思うといつも足元がソワソワしてて「生きる」をこなしてる感覚があった。

死ぬほど辛くはないけど、長生きしたいほどの充実もない毎日がなんだか素晴らしいものになってきた感覚がある。

仕事も楽じゃないけど頑張ろうと思えるし、他人に優しくもできるようになってきた。

お金すごいぜ。お金ありがとう

多分世間の人みんながちょっと余裕ある暮らしをできるようになったら色んな社会問題解決するんじゃないかな…

そういう世の中になるといいのにな。

2023-09-22

anond:20230922134946

https://www.gsclub.jp/

 

 

最初に・・・「がんサバイバー」ってなに?

「一度でもがんと診断されたことのある方」です。治療効果をあげて良くなった人だけでなく、治療中の人も含まれますラテン語の“Sur”の「超えて」+”vīvere” 「生きる」、つまり、がんを「超えて生きる」というポジティブ語源もつ言葉です。

 

がんサバイバークラブとは?

 がんサバイバークラブとは、全国700万人のサバイバーが ”希望と共に生きる”ことのできる社会をつくることを使命とする、公益財団法人日本対がん協会事業です。サバイバーが中心となり運営しています。3つのテーマとして、⓵「知りたい」⓶がん患者の「治りたい」と⓷「普通生活がしたい」に寄り添い、⓸患者や大切な人の「支えたい」をサポートすることを掲げていますウェブサイトでは患者会、イベント、がん関連ニュース等の情報や、サバイバーストーリーなどを提供し、一方で患者支援セミナー相談など実際に触れ合うことのできる活動も行っています

2023-06-30

anond:20230630014633

死ぬ権利がないのに「生きている」とは言わない。ただ「死んでない」だけ。

死ぬ権利があって初めて人間「生きる」ことができる。

死ぬ権利は生きる権利と表裏一体なんだよ。

2023-06-17

下書き

書き直し。

ダラダラと、曲への思いを書きました。谷川俊太郎の詩による合唱曲ふたつ…曲:三善晃「生きる」と曲:木下牧子ネロ」についてのとても個人的な感慨。最初の方、書けなくて意図的主語を拔いてるので読みにくくてすみません。ていうか、無駄に長いので読まなくていいですごめんなさい。

 

全部谷川俊太郎って演奏会明日やるんだけど、中の2曲が自分経験に強く結びついててちょっとだけ抱えるのがしんどい

「生きる」と「ネロ」。

 

去年の夏、子供誕生日にお祝いを頂いたのでお礼の電話をした。子供からもお礼を言って、その時に「また遊びに行くね、今家族で音取りしてる曲があるんだ、遊びに行ったらみんなで歌うから聴いてね」なんて言っていた。

 

数日後、会社仕事をしていたら人事から電話があった。なんだろうと出てみたら配偶者から代表電話にかかったのを取り次いでくれたのだった。

数日前に電話したばかりなのに、亡くなったのだと聞かされた。家事支援ヘルパーさんが発見してくれたということだった。電話を切ってから自分携帯を見ると配偶者からたくさん着信があったとわかった。

会社は早退して駆けつけた。

 

病院ではなく自宅でだったので、そのあと警察署手続きやら葬儀社の互助会書類探しやらで、気がついたらその日にあった合唱団練習は無断欠席していた。

 

 

諸々落ち着くまで合唱団練習は一ヶ月ほどお休みした。

復帰してはじめての練習に行ったら、新曲が始まっていた。

「生きる」だった。

ちゃんと予習してなかったのでぶっつけでの参加だったけど、タイトルからして親しい身内を亡くしたばかりの自分には重そうだなあ、そんなことを思いながら歌い始めた。

 

うちの団はパート練習はなくて、音取りは自力でできるのが前提なのだけど、実は私にはそこまでの力はない。♯や♭が多くなりリズムが複雑になるとキーボードを叩くのもたどたどしく実用性がない。その代わり楽譜を見ながらの耳コピは割と速いので、既に歌えている周囲を聴きながら声を出していった。

曲は「生きる」。まあ、三善晃だし、ソプラノはそんな難しくはない(難しいけど)。 

 

……谷川俊太郎の詩によって、「生きているということ」がどんなことか、語られていく。

それはのどがかわくということ

木もれ日がまぶしいということ

ふっと或るメロディを思い出すということ

くしゃみをすること

孤独を感じる曲に影響されてか、詩の内容が全部亡くなった人を思い出させる。のどの渇きも、木漏れ日の眩しさと、くしゃみが出そうなムズムも、亡くなってしまった人は感じないことだ。だけどほんの少し前には感じていたのだ。あの人も。

本来の詩とは少し違うが、合唱歌詞としては

くしゃみをすること、手をつなぐこと

あなたと、あなたと手を…あなたと、あなた

と続く。

くしゃみをすること」までは生きていること一般の話だったのが、急に、自分の手と存命中のあの人の手をつなぐイメージにおそわれて、───しかし私は一度も手をつないだことはなかった、これからも、もう決して手をつなぐことはないのだ……。

 

これから介護があるのだろうとぼんやり思っていた。長生きの家系から、私の今後15年程は、あの家で、あの人と身体をふれあわせて暮らすのだろうと思っていた。

そうはならなかった。

寂しがりなところがある人だったから、一緒に住みたいとおそらく願っていたと思う。

そうはならなかった。

私が選ばなかったからだ。選ばないまま、亡くなってしまたからだ。

私は亡くなった人と手をつないだことがない。

 

曲はまた、「生きるということ」のいろいろな姿を歌っていく。自然科学芸術や…歌詩に出てくるミニスカートは何かな、生命力?若々しさ?を歌う。

それら美しいもの出会うということ。

あの人はもう、新しく美しいもの出会うことはできない。最後電話で話した、子供たちの歌にも出会ってもらえないままになってしまった。

 

「生きる」というタイトルなのに、谷川俊太郎の詩は死が匂う。

いまどこかで産声があがるということ

いまどこかで兵士が傷つくということ

いまぶらんこが揺れている、揺れているということ

いま、いまが過ぎてゆくこと

不穏な曲調で産声や兵士の傷が突きつけられ、それをぶらんこの往復運動が包み込み、ただ時間が過ぎる静けさに着地する。

生も死も同じ時間の中にある。

 

鳥ははばたくということ

海はとどろくということ

かたつむりははうということ

人は愛するということ

生き物の、自然の、あるがままの姿を歌った流れで「人は愛する」なんて、谷川俊太郎ずるいよね。あぁそうなんだと思わされる。

もちろん、愛さない人もいる。羽ばたかない鳥も轟かない海も這わないカタツムリ存在する。けれどできてない個体のことは今は措く。

それができている個体はなんと尊いことか。生きるということの意味を、「人は愛するということ」ととらえられる、かもしれない。もし私が愛さな人間でも、愛する可能性がある希望

 

そして曲はまた、

あなたの手の

あなたの手のぬくみ

いのちといういのちということ

生きるという生きるということ

あなたの手」に戻ってきて、命とはなにか、生きるとはなにか問いかけるように終わる。

 

私が繋がなかった手のぬくみ。

永遠に失われ、想像上にしか存在しない温かさ。

 

 

一人暮らしだった家は空き家になった。夏のことで、風を通したり、植木鉢やあとから頂いた供養の花に水やりをしなければならず数日おきに通った。

空き家にはピアノがあり、風通ししている間の時間で音取りをした。難しい音階を苦労して弾いた。

子供が小さい頃みんなで遊びに行くと、いつも初見でなんでも伴奏を弾いてくれたあの人がいたときのままの部屋で。ピアノには練習していたらしい楽譜が開きっぱなしだ。胸が苦しい。

  

亡くなった直後のショックや悲しみは今は薄れている。

でも練習で歌うたびに、空き家に風通しに行くたびに、拙く練習したのが思い出される。

去年の夏の、古い家特有の湿り気のある空気やあまりワット数の高くない蛍光灯の薄暗さ。

今日リハーサル明日が本番だから、終わったらしばらく歌うことはなくなる。

もう去年の夏を思い出すこともなくなるのか、いや曲を聴くたび一生思い出すのか…。

 

 

ネロ」も練習復帰後すぐに始めた曲だ。

これはまた、ストレートな死の歌で、主人公の「ぼく」が子犬の「ネロ」を亡くした経験を歌っている。

しか

ネロ

もうじきまた夏がやってくる

(中略)

おまえはたった2回ほど夏を知っただけだった

と、「夏に親しい者を亡くす」という、私の経験ととてもリンクするシチュエーションなのだ

 

主人公は「もう十八回の夏をしっている」とあるから若者だ。それは私とは違うけれど、私の子供たちとはとても近い。

何でもかんでも自分関係があるように捉えるのは無理筋ではあるけれど、私にはこの曲はうちの子たちが別れをどう受け止めたのか、の追体験のif…みたいに感じられる。

 

今、6月だ。もうすぐ本格的な夏が来る。

ネロ

もうじき又夏がやってくる

しかしそれはお前のいた夏ではない

又別の夏

全く別の夏なのだ

去年の演奏会には来てくれた人が、今年はもういない。

お盆あたりには親戚が集まっていたあの家で、今年は新盆をどうしようか、コロナもまだ猛威をふるっているから集まるのは無理だろうか。

去年の夏、せっせと通って水やりをした植木鉢も、一年草はみんな枯れて、鉢から抜いてゴミに出して、鉢も片付けてしまった。

 

曲は、しか喪失を嘆くものではない。疾走感とともに「新しい夏」の到来、「新しいいろいろのことを知ってゆく」ことを歌う。

たびたび出てくる「知る」という営為

そして僕は質問する

いったい何だろう

いったい何故だろう

いったいどうするべきなのだろうと

主人公は何を知りたいのだろう?

なぜネロは死んだのかを?

なぜ生あるもの死ぬ定めなのかを?

私にはそんな凡庸な問いしか想像できないが、案外それも全くの的外れでもない気もしている。

 

詩のなかで飛び飛びに3連に渡って繰り返しネロを思い起こし、

ネロの声や「気持ちまでも」が「はっきりとよみがえる」。

それは死せるネロとともにあるようだけれど、決して停滞ではない。ネロを胸に抱いたまま、

しかネロ

もうじき又夏がやってくる

新しい無限に広い夏がやってくる

そして僕はやっぱり歩いてゆくだろう

新しい夏を迎え 秋を迎え 冬を迎え

春を迎え 更に新しい夏を期待して

そこには若さがある。喪失を抱えていても新しいもの貪欲に取り込む力強さ。

(願わくはうちの子たちもそうあれかしと思うけれどそれは親のエゴというもの、彼らには彼らの受け止めかた、歩みかたがあろう…)

 

私自身は、「全く別の夏」というところからまだ身動きできないでいる。

冬場からこち空き家に通う頻度も減ったが、また雑草の伸びる季節になって、草を引くたびに「この家を高齢でよく維持していたものだ」と感慨にふける。

家の中はまだ手つかずで存命の頃と何も変わらない。カレンダー書き込みもそのまま。去年、子供誕生日のお祝いを送るためのメモ書きも、電話の横のメモ帳にそのままある。ただ留守を預かっているだけ、という感覚から動けない。

それなのに全く別の夏が来てしまう。記憶が上書きされてしまうのが切ない。感傷だ。感傷だが、血縁ではない私とあの人は、客観的に見ればけっこう長い年月、長い時間を一緒に過ごしていたわけだ。

まだもやもやと引きずってはいくけれど、そういうものなんだろう(ああ、しょうもないまとめになってしまった)。

 

 

(「あの人」と書いているのは配偶者の母ですが、普通に表記するとちょっと生々しくて書けなかったので…表記距離を置かないと吐き出しにくい)

 

引用の詩は曲のために繰り返しなどの改変があり、オリジナルと少し違っています

2023-06-14

チョコレート嚢胞と子宮内膜症が見つかってホッとした

不妊治療されてる方は傷つく可能性がある表現があるのでご注意ください※

最近何だか生理が今までになく重くて辛くなってきたなと思っていたら、健康診断婦人科検診でチョコレート嚢胞があるので再検査必要とのことで。

言われるがままに近所の婦人科で再検査を受けた結果チョコレート嚢胞と内膜症ですねとの診断だった。

寝てても途中で起きるぐらいの激痛と、経血量は1時間多い昼用のナプキンがもたなかったから、やっぱりそのレベルの人は病院行ったほうがいいっていうのは本当なんだなと思った。

最近の不調はやっぱり理由があったんだなあと納得したし、あーほんとにアラサーになると色々体が変わってくるんだなあとか色々思ったけど正直心底ホッとした。

不妊で悩んでる人には本当に本当に申し訳ないけど、あーこれで「子供は?」って聞かれた時に質問をかわせてその後も掘り下げにくい感じにできる理由ができたなってホッとした。ぶっちゃけ激痛だし辛いけど積極的治療する気になれない。

一人は寂しいから一緒に住んでる人はいるけど本当に子供産むつもりない。なまじ一緒に暮らしてる彼氏がいるので当然産むだろうと思って周りの人たちも思って聞いてくるのが本当に面倒で期待されるのもダルかった。

もちろん内膜症だったら絶対子供が産めないわけじゃないし、内膜症の治療不妊治療をすごく頑張って頑張って授かってる人もいるけど、私の周りの人たちは流石に結婚してない段階のアラサー女に不妊治療頑張れと言ってくるほどデリカシーが終わってるわけじゃなかったのがありがたかった。

ずっとちゃんと生きてる大人の仲間のふりをしてきたけど、ずっとずっと降りたかったものがいろいろある。

仕事自分のできる限り頑張ってきて、自分のやりたいことなんて何にもないか会社にとって必要なことを任されれば任されるだけ全部頑張って過労死ラインで一生やってたら去年ついにダメになって退職した。

本当はもう無理ですって言いたかった仕事がたくさんあったけど、あなた経験になるからあなたならできるって言われるともう無理だったし、コミュ力が終わってるのでそんな交渉をする元気も胆力も残ってなかった。

元々自分の不調に気付きにくい性分なのも相まってもう降りたいって思った時には完全にダメになってたし、勇気を振り絞って言った「もう無理です」は「ちゃんとできてるよ、十分にやれてるから気にしないで!」で返されておしまいでした。

基本的コミュニケーション能力が弱すぎるので、「ああもう降りたい」っていうものに一つ一つ理由をつけて自分言い訳ができるとしたらもう病気が見つかるしかないダメ大人になりました。

黒澤明「生きる」をみてなんていい映画なんだろうと思ったけど、今自分が癌の告知を受けたとしたらあんなにショックを受けれるかなあ。

ああこれでやっとまた降りれるって思うんじゃないかな。

2023-06-08

anond:20230607231943

独身子どもを持つ予定はないけど、【理解できない理由】を持つ人の気持ちは分かるよ。

趣味仕事も充実していて毎日楽しいし、自己肯定感普通だと思うけど、冷静に考えると「生きる」ということはひたすらに虚しいことだと思う。個体としても、ホモ・サピエンスという種としても、いずれは消えゆく運命なのに、なぜ生きるのか。そこに絶対的普遍的理由はない。私が私である理由も、あなたあなたである必然もない。なぜ生きているのかと問われれば、偶々生まれしまたからだ、と答えるしかない。意味もなく地球上に生命誕生し、連綿と遺伝物質を繋いできた。

まれしまたからには、死ぬまで生きていくしかない。そこから、生まれしまたからには遺伝情報を次世代に繋いでいくしかない、という考えに至るまではそこまで遠いものではないと思う。

義務感というよりも生き物として生まれしまたことへの諦めに近いかな。本能ではない。むしろその逆。子どもが好きだから子どもが欲しいという理由の方がよっぽど本能に根ざしていると思う。(と、ここまで書いて気づいたけど、元増田意図からだいぶ脱線している。申し訳ない)

もちろん人類絶対繁殖すべきだ、なんて思わない。知性を持つ種に生まれしまった以上は、一人ひとりが自らの人生の意義や目的を考え、自らの選択によって人生を歩んでいくべきだと思うし、選択ができる社会を目指すべきだ。

2023-04-30

anond:20230430153017

からな結局は寄り合い所帯なんよ。

新卒で同じようなカラー人間を入れまくってるような大企業とは違う。

人体みたいなところは進化過程で色んな奴らが集まってきて、

「生きる」

ちゅう共通目的のためだけに手を取り合ってやっとるんよ。

からな、ときに相反する行為に見えたりもする時がある。

でんもな目的は一緒なんじゃ。

2023-01-14

anond:20230114081934

あなた意見に興味があって聞いているのですよ。

それと、私が今生きている時点で「生きる」という選択を私がしていることは誰の目にも明らかかと思います

まさか高卒を見下すくせに意見すら言えないのですか?

2023-01-06

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

2022-11-04

anond:20221103191601

生きてる意味が あるとかないとか結構ながいこと言われててその時々の解釈が変わってはいても結局「意味はある」みたいな事になってるよね

実際体感として意味あるのかって考えたら「無い」って現実とのギャップに真理を探求してみるけどふつうにしんいからやめちゃったりもするよね

まず最初に「生きる意味」なんだけどこれは表現的には形容で行程的には「道具」に位置する部分なんじゃないか

意味が「ある」から「そのために」生きるという文章になるとまるで意味というのが最終地点に存在する目的かのようだけど実際は道具

出発地点から目的地があってそこに行程があるんだけどその到達までの経過に必要なのが本人と道具と燃料 その燃料や道具の部分が意味なんだよね

意味があるからいから 何々をするわけであって 意味のために何々をするではないよね

そこで目的がないか意味自体意味 燃料や道具を使う必要性がなくなって 結局人生って何なのだって話なのだけど その道具や行程からして見れば生きるってことは容器みたいなもの

範囲であったり状態であったり行程そのもの「生きる」ってことなので いまはただ生きてるだけなんだよね

生きようとして頑張ってるわけでもないし 死のうとしてるわけでもない ほっときゃ生きてる状態が今

なんにもしないと死ぬわけだけど 死にたくないから生きてる 食べたり寝たりしてる それをやめたら生きてなくない状態なっちゃうからね いわゆる死んじゃう

生きてる中が中空でがらんどうだから何いれてもいいわけ それが生きるってことだね

私たちには生きるしか選択肢が与えられていないし 生きる事しかできないから生きてるだけ

選択しなくなったり行動しなくなったりすれば生きていない状態にはなるかな

食べる意味とか寝る意味とか歩く意味とか歩かない意味とか今日も一日お部屋からでない意味だってみんな生きる意味なっちゃってる

人生ってそのからっぽの容器にいろんなものを入れていくと せっかく入れたのだから出したくない 入れたはいいけど出す先がない とか基本プレイ無料ゲームで始めたのに溜まってきたアイテムがもったいなくて課金ちゃう感じ

最初はみんなゼロだったんだよ 無くしたとしても というか貰ったり借りたりしたものしか中にはいってない 生きようが死のうが別になんの問題もないし価値もない

じゃあなんで生きたり集めたりするんだって話だよね 生きてるっていいなとか大事だなとか思っちゃうんだろうなって話だよね

それは瓶にいれた粉をとんとんしたら目の粗いものは上に偏ったり細かいものは下にいったりするのと同じ 物理法則みたいなものなんだ

たった一つの何かだと何かのままだけど 二つになると関係性がうまれてくる 親だったり友だったり双子だったり相対だったりいろんな風に言えるよね

それが三つだったら 四つだったら どんな定義になるんだろう それはもう秒単位でかわるよね 幾千幾万の関係性が常にうごいてる 動いてる量は熱で測れるよね

ワットだったり何度だったり何キログラムだったり何キロメートルだったり 何時間だったり 誰々だったり そういう単位なんだ

きみの人生 というのは このビーカーの100ml という表現ベクトルは同じ そのビーカーの100mlとかどのビーカーの100mlとか かつてビーカーだったものの100mlとか

AさんBさんの人生とか 巨匠人生とか 貧しい人の人生とか そういう単位 そこに砂や小石をひろっていれましょうって話なんだ

場所や状況や条件で入れる砂とか小石は種類が異なるし量も質もかわってくるかもしれない でもかならずみんな100mlなんだ

詰まっていてもスカスカでも軽くても重厚でも1秒を100秒で過ごしたり0.5秒だったという人はいない

そこに絶望けが詰まっていて1年間だけとか 30年も繰り返してきてこうなったとかこんな程度でしかなかったとかもある じゃあ量が違うんじゃないかって気になるよね

でも同じなんだ 年とか量とかでくらべると違うっておもうから違うわけで 一生っていう一個の単位 命だったものとして単位をつけたら 一個だよね

それが濃ゆいとか重いとか大切とか小さいとか軽いとか またほかの人の人生の行程の中でそれを入れていく これはもうただの動作なんだよね

人生意味とか重さとか言うのは 100mlって重いの?軽いの?貴重なの?意味は?って事と同じじゃないか

そういうものなんだと思うよ

生きていたことが他の人の人生という入れ物の中に入っていく限り その連鎖はとまらない

土や水や木とか いろんな生き物とか物質とかが変化したり移動したりしていくうちに近いものや仲間 それを取り込むものなんかが出てくる

関係性が増えたり変化したりするんだね

人間に限って言えば もしそんな生き方をしたらどんな人生になるのか という経験値をためていくために生きて増えるんだね

たくさん増えてたくさんの選択肢からたくさんのサンプルがそれぞれ個別に違うことを経験していくんだ

その中からつづけて変化を継続させたいものが同種を産んで増えてさらにいろんなパターンをあつめてく

じゃあその先になにがあるのとか どうしてそんなしくみになったの っていうのはわからない なんかそういう仕組みなんだ

その根本的原因を探ってもいいし きにせずなにか目先のことにとらわれてもいい

もちろんなんにもしなくても なんにもしないっていう他の人にはない独自の行程がたまっていくから

人間のつくった人間社会の対価をもって交換するシステムでいえば 食べて寝るだけのなんにもしてない人生には意味がないとかいわれるかもしれない

それは社会独自目的独自動作をもっているからね 人間社会ではそれが定義されていないから 未定義のそれには名前がないということを意味がないと言われる

社会になにか求めるのであれば社会的なことをするといいかもしれないね

生物的になら 自分生命意味とか価値大自然に問うてもいいかもしれない キャンプとか旅とかそんなものを使ったりできる

運命について意味があるのかないのかなら 宇宙の根源とかなぜ物質は変化するのかとか ビッグバンの前は物質は1だったのかとか考えてもいい

とりあえずはなんかぼーっとしてたいけどやばいきもするからグダーってしてるのをシャキっとしてパッとした人生意味がほしいとか思うなら とりあえずはなんか音がうるさい所に出かけてお金をつかえばいいと思う

社会の中ではお金がないとなんにもできないのでなにするにもお金 でも仕事もしたくないしできないしお金がないか意味がないんじゃないか と思うのならばその社会範疇にないものなら社会必要とするお金がなくてもいいよね

機微人間関係とか自然物質的なもの社会範囲権利か損害かしか定義してない

パトロンを探すとか深い関係性でかせいお金を使わせてくれる人をさがしてもいいし おちてるもので取得してもいいもの価値あるものとして社会に流し込むみたいな商売してもいいし 加工技術をもってその成果を売ってもいいんじゃないかな

人に迷惑かけなければ社会の仕組みにしばられていきていく必要もないからね 実際社会範囲内でも縛られてない生き方を最大限発揮してる人はいるんじゃないか

生きるってことはその空きスペースである人生の中になにか入れていくものだ って話なんだけど そんなの意味なくねってやっぱり思うよね

それは自分がすることについて自分がみても 自分がどうしてそういうことをすることになってしまったのかわからないし わからないことをわかろうとしたり意味をつけようとしても わかんないよね

自分とは何なのか 自分はだれなのかとか意味はとか考えても 自分はわかんない 自分の目から見えて自分で考えられるのは自分視野はいる部分だけなんだから 自分を形作ろうとする手段とか材料しか見えないんだよね

から自分がなにかを知るのは無理

ビーカーを入れるビーカーはあっても それはそのビーカー自身じゃないし ビーカー自身自分のことをビーカーとはいわない

場所用途によってはジョッキやグラス 植木鉢やえんぴつたてと言われてるかもしれないし そういうものだとしてあるかもしれない じゃあビーカーがビーカーだと言っているのは本人だけで その場のみんなはそうは呼んでないわけだよね

ビーカーはえんぴつたてだ グラスだ 植木鉢だ って「意味」を持たせてるのは 関係性をもった自身以外のだれかや何かだよね

意味っていうのは 自分自分にもてるものじゃないんだ 他の人の中につくられるものなんだ

から他の人の中にそれをつくらないと ないかもしれない

長い箸の使い方が天国と地獄で違うって話があるんだけど 天国ではすんごい長いお箸ご飯を食べろといわれて自分の口には入らないから他の人にあげて その人から自分ご飯をもらうんだ

地獄では自分でたべようとしてうまく口にもってこれないから誰も食べれないって話

自分自分自分意味をもって自分自分で生かせたら 別にこの世に存在しなくてもいいんだよね つまり存在しなくていいか存在してない

この世にある物はあるものとして確認できて触れて移動できてなにかしらの関係性を築ける ただ存在するだけでも存在するだけという意味をなしてる

存在するもの存在するということを「意味」といってるだけなんだけどね

存在しないものは しないんだ

存在しないもの存在する世界に1点でもあったら そこに存在するもの接触したら存在しなくなっちゃうよね どんどん吸い込まれて無になっちゃう そうはならんやろ

この世が存在するためにどんな端々の小さなひとつでも 存在させるために存在してる

何か反応が返ってくるところにいて 反応が返ってくるというだけでもかなり大きな意味を示して実感するとおもうんだ

それが君の道具であり燃料であり理由であり意味なんじゃないか

他の人と比べて何々 みたいなことも思っちゃうだろうけど 計測基準の差だよ 仕事してようがしていまいが 遊んでいようがいまいが 比べて勝ち負けを示したいなら示そうが示すまいが とりあえずそこが無でないならそういうものだと思うよ


そういう意味を踏まえて 本当に無が存在したら めっちゃ怖いよね

意味のない人生という人なのか時間なのか現象なのか存在なのかわからない黒い一点に触れたらみんな消えちゃう

こわくない?

2022-08-13

anond:20220812185156

いや、そら黒澤っしょ。

世界的に見ても、文学で言えばシェイクスピア位の扱い。

引用されまくりオマージュされまくりリスペクトされまくり

王道七人の侍」、エンタメ特化「用心棒」「椿三十郎」、

社会派天国と地獄」、SWの原型「隠し砦の三悪人」、

人間ドラマの傑作「生きる」赤ひげ」、

どれも今観ても普通に面白い作品ばかりだからね。

ただ著名な「羅生門」は直接的な面白さではないかな。

アーティスティックな感じ。ま、ゴダール見れるなら余裕か。

あとやはり三船と離れた後の黒澤は普通にまらないと思う。

これは俺の個人的感想でなく、あの高倉健でさえ同じこと言ってる。

素直に三船期の作品日本語字幕付き(音悪いので)で観よう。

2022-07-03

恋愛結婚子育て経験して一人前、という風潮についていけない

リアルでこんなことをつぶやいても誰も聞いてくれないし、真剣に語りすぎても異常者扱いされて終わるだけだろうから、ここで書かせてもらいたい。

モテないやつの負け惜しみ、みたいに思われることもあるだろうが、そう思われても仕方がないのは承知である

ただ、あまりにも感情のやり場がなくてどうしようもないので、せめて吐き出させてもらえたらと思う。


タイトルにも書いたが、恋愛とか結婚とか子育てとか、そういうイベント経験して一人前……みたいな風潮が本当に苦手だ。


昔の友達とか、職場の同期とか、きょうだいとか…。

身の回り結婚子供だという話が相次ぐ年頃になってきた。

そういう人たちはほんとに幸せそうにしているし、

何より「守るもの」ができたことによって、生活にもハリが出てきている……ような気がする。

ただ、私がその領域にたどり着けるかというと、そんなことは絶対にないだろうなと思う。

悲観でも卑屈でもなく、本気でそう思っている。


もう30年近く生きてきたが、今までまともな交際をした経験はない。

当然、性的なことの経験なんて皆無だ。

今まで生きてきてこんな調子だし、今更人間なんてそう大きく変わることもないだろう。

から私は、このまま、残りの人生独身で生きる覚悟をすでに決めている。

そうした思いを覆すような「運命出会い」でもあれば気持ちは揺らぐかもしれないが、

そんな実現可能性があるかもわからない話に期待していても仕方がない。


……という話をすると、決まって、「まだ若いんだから諦めるなよ」みたいなありがた~いお言葉をいただくわけだが、

そもそも私は、自分恋愛ということへの適性がないと思っている。

人間誰しも得手不得手があるというものだし、わざわざ苦手分野で勝負することもないだろう。

私の場合、その「不得手」にあたるのが恋愛だったと、それだけの話だ。

苦手なことで頑張ってもつらいだけだから、私は苦手なことである恋愛」をしないという決断をしているのに、

それをなぜ周囲は「恋愛したほうが成長できる」とか押し付けてくるのか、理解に苦しむ。


というか、そもそも恋愛とか結婚とか子育てとか、そういうのって「人として必ず経験しないといけないこと」なのか?

恋愛をすることの目的ひとつは、子供を作って次の世代を育てるということにあるだろう。

近年少子化だなんだと騒がれているが、子供を作って育てる人がいなくなれば、人口が減ってしまう。

そうなれば国は立ち行かなくなるし、由々しき事態である

から私も最終的には子供を残して、次の世代につなげなければならないのだろう。

それは当然、建前としてはわかっている。


だが、「次の世代を残す」ということの重みを考えたことがあるか?

私は大して頭がいいわけでもなく、他人比較して突出した能力があるわけでもない。

だってそんなに持っているわけでもないし、仕事が忙しくて時間もあまり余裕があるとはいえない状態だ。

そんな私が、「子供」という「一人の人間」をこの世に生まれさせて、

一人前の人間として生涯かけて育ててやれるような気概があるだろうか?

子供には何不自由ない生活をさせてやれるだろうか?

健康状態で生まれさせて、大病を患うこともなく、健康な生涯を送らせてやることができるだろうか?

私が子供教育して、それが間違った結果にならないだろうか?

そもそも、私が子供を残すこと自体社会にとって有益なことになり得るのか?

一口に「子供を育てる」といっても、想定されるリスクがあまりにも大きすぎる。

とにかく、不確定要素が多すぎるのだ。

子供が「〇〇をしたい」と言ったときに、お金に余裕がないからと諦めてもらうことになるかもしれない。

子供が「やりたい」と言ったことは支持してやりたいが、それをかなえてやれるだけの力が、私にある保証がないのだ。

もちろんお金以外にも色々要因がある場合は出てくるかもしれないが、それもひっくるめて、私にはそれだけの力量がないと思う。

子供不自由させたことで、子供に恨まれることだってあるだろう。

そんなとき子供はこう思うはずだ。「こんな親のところに生まれたくなかった」と。

そんな状況でも、一度生まれてきた以上、生を全うしなければならない。

日本平均寿命が約80歳らしいので、仮に80年生きると考えたとして、80年も「生きる」ことを強要されるのである

この私が親であるというハンディキャップを背負いながら、80年。

それがどんなに残酷なことであるか、想像に難くない。

どうせこの世に生を享けるなら、何一つ不自由なく暮らせる、いい家庭に生まれてほしいと思う。

ただ、私の作るような家庭では、そんな環境などできないのだ。

新しく生まれてくる命には、幸せになってもらいたい。

そのためには、私が出しゃばってはいけないのだ。

私のような不完全な人間が「親」になるということは、

まれてきた子にとって虐待も等しい、残忍なことなのだ。


ここまでは、「子供を作り育てること」への不安だった。

ところが、「子供を残さなくても恋愛はできる」という考えもあるだろう。

運よく誰かと結ばれたとして、子供を作らずにそのまま家庭を築けばいいのかもしれない。そういう夫婦のありかただってあるだろう。

だが、私が恋愛をしようとすること自体が、そもそも私のエゴにすぎないものであると思っている以上、

私には永遠に恋愛などできようもないだろう。

私は特に裕福なわけでもなければ、大して仕事ができるわけでもない。

私が人間的に魅力がないのは、今まで30年近く、ろくに異性に相手にされなかった事実物語っている。

そんな私が誰かを好きになったとして、その相手アタックしかけたとしよう。

その相手は、「私のような人間から好かれたこと」を喜んでくれるだろうか?

から好意を持たれることは嬉しいかもしれないが、よりにもよってその相手が「私」なのである

相手立場から見たときに、「私」から好かれることが必ずしも嬉しいとは限らない。

かに魅力的な人物がいれば、そちらに流れてしまうのは自然なことだ。

私には、相手をつなぎとめるだけの魅力がないのだから

運のいいことに、それでもなお、相手が私の好意を了承してくれたとする。

私は好きになった人と結ばれたことで、幸せで居られるかもしれない。

だが、相手は「私に"付き合わされている"」のであって、私の好意押し付けられている状態だ。

そんな状態で、私のことをずっと好きでいてくれるような保証があるだろうか?

私に「付き合わされる」ことになった相手は、それで幸せなのか?

よく聞くありがたいお言葉に「恋愛すると人間的に成長できる」というものがある。

そのお言葉ある意味では正しいのかもしれないし、そういう意見否定しない。

ただ、恋愛対象となる「相手だって「一人の人間」なはずだが、

恋愛すれば成長できる」のであれば、交際相手という存在は「自分が成長するための踏み台」に過ぎないのか?

恋愛結婚なんて、自分だけでなく、相手人生も大きく変えてしまう、大事イベントだ。

大事イベントからこそ失敗は許されないし、合格点は当然100点満点だ。

そんな一大事なのに、「自分が成長したいから」という身勝手な思いだけで、

相手人生を狂わせてしまってもいいのか?

「私のような存在人生を狂わされること」を考えたときに、相手からしたら良い気がするものではないだろう。

しろ、私が好きになった人だからこそ、私のような存在が関わるべきでないとさえ思っている。

私が関わることで、相手を余計に不幸にさせてしまうのではないかと思う。

そもそも、「私が相手幸せにしてやる」なんて思うこと自体が思い上がりも甚だしいのだ。

私には、私が恋愛したことで発生する、

相手人生を変えることへの責任」を果たしきれる自信がないのだ。


以上のように、私は恋愛結婚子育てという、

もろもろのイベントに対して、それに伴う責任を果たせる自信がない。

仮に取り組んだとしても中途半端な結果になり、破滅して終わるだけだろう。

そうなっては、相手子供も不幸にさせてしまうし、

ことによっては賠償金とか慰謝料とか、そういう話も出てくるかもしれない。

自分相手も、次の世代も守るためには、「私が恋愛をしないこと」が最適解になるのだ。

そうすれば、「幸せ」にはなれなくても、「不幸」は少なくとも避けられる。


こういう話をすると、「責任から逃げてるだけだ」とか「そういう責任果たしてこそだ」とか言われるだろう。

責任から逃げている」というのは否定しない。実際そうだと思う。

だが、そもそも「逃げてはいけないこと」なのか?

焦って準備も不完全なまま手を出したとして、それで付き合わされる相手や生まれてくる子供が不幸になるだけで、

結局不幸を再生産するだけにしかならないのではないか

私が恋愛をしたところで、相手子供が不幸になる未来が目に見えている。

かに恋愛結婚子育て自体は大変なことだと思うし、その重い責任果たしている人は本当に立派だと思う。

でも、私には、そんな立派な存在になれるという確証がない。

それを「逃げ」だというならそれで構わない。それで不幸を再生産することのほうが、結果的には不利益から


また、「案外なんとかなるものから頑張れ」という声も聞く。

かに、「なんとかなる」こともあるだろう。

だが、「なんとかなってる」状態で過ごすことを強いられる、交際相手子供のことはどうなる?

「なんとかなってる」というのは自分勝手思い込みであって、実際はそうではないのではないか

責任が重いことである以上、100%の完成度が求められてしかるべき話だ。

そんなことが「なんとかなる」で許されていいわけがない。そんな状態で生きてても誰も幸せにならないじゃないか


あと、「子育て世帯にやさしくない社会が悪い!」という論調もあるだろう。

もちろん、それも理由の一つではある。

だが、私はそもそも子供を育てること」に適性がないと感じているので、

いくらそういう制度がしっかりしていようが、「子供を育てる」ということをする気がそもそもないのだ。

必要とする人への補償はしっかりされるべきだと思うので、その辺の整備はしっかりしていたほうがいいとは思うが、

それは私が「子供を作りたくない」と考えることとは無関係なのだ



長々と書き連ねたが、まとめるとこうだ。

・私は「恋愛」やそれに付随するもろもろのことに適性がない

・私が下手に恋愛子育てをしても、相手子供も、自分さえも不幸にするだけ

・万一失敗したときに負わなければならない責任が重すぎる

から、私は「恋愛」はしないと決めている。


それを「逃げ」とか「もったいない」とか言うなら、それはそれで構わない。

ただ、「お前も早く結婚しろよ」とか「子供がいると仕事もハリが出るぞ」みたいに言ってきて、

交際相手とか子供とかを「自分が成長するための道具」としか見ていないような、

そういう言い分にはすごく嫌悪感を覚えるし、腹が立って仕方がない。

私が恋愛とか結婚とか子育てとかをしたいと思ったとして、それはあくまで私のエゴにすぎず、

それに振り回される人たちのことを考えたときに、そんな自分勝手な真似は到底したいと思えない。


頼むから、私が「恋愛をしない」という決断を敢えてして実行していることについて、

余計な横槍を入れるようなマネだけはしないでいてほしい。


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お読みくださってありがとうございます

恋愛」とか「結婚」とか、そういう「人生の大きなイベント」に対して、

ただ「自分が成長するための機会」みたいにしか捉えられていないような、

そんな風潮に嫌気がさしているので、日ごろの思いを書かせて頂きました。

非モテ戯言と思われるならそれで構いませんが、

恋愛できるやつが偉い」みたいなのはどうかと思うのです。

なお、「恋愛する奴が憎い」みたいな話がしたいのではなくて、

恋愛とか子育てとかの責任ちゃんと果たされている方のことは、嫌味でも何でもなく本気で尊敬に値すると思っています

あくまで「私には能力がないか恋愛したくない」という、私個人の話であって、

恋愛といった一連のことを経験できる方を馬鹿にしたりするような意図はございません。

以上です。ここまで読んでいただいた方、ありがとうございました。

2022-04-28

カム最終回

・「アイヌ和人迫害した実在少数民族)の財宝を和人勝手に流用して東南アジア和人が実際に侵攻した)に王国を作る」ってオチ、笑えへんやろ。作者にとって、迫害される少数民族武装蜂起して独立するのはダメで、マジョリティ少数民族の富を収奪してよその国に侵攻するのはOKなのか?

侵略される側の人たちの苦悩をキロランケとの交流を通じて学んだのではなかったのか白石は。キロちゃんが草葉の陰で泣いてるやろ

・だいたいアイヌの金塊はアイヌみんなのものであって、子どものアシㇼパがその運命を一人で決めていいわけないやろ

不殺の誓いを立てていたアシㇼパは杉元のために殺人に手を染め(尾形が錯乱したのは毒矢のせいなのだから、彼の死に責任がないわけではないだろう)たわけだが、それはアシㇼパや杉元の心に何の影も落としていないのか? ええんかそれで?

アイヌ文化が「アイヌ和人努力によって後世に伝えられている」←和人による同化政策はなかったことになっているんか? 民具は世界中博物館に収蔵されたが自分たち暮らしマジョリティによる同化政策迫害でズタボロにされましたという民族世界中にいると思うが、収蔵されたらそれでええんか?

・一人の人間に徹底的に依存する体質の月島がその対象鶴見から鯉登に乗り換え、自分生き方反省することもなく思考停止人生をまっとうしたっていうのは、肯定的に描くことちゃうやろ…

 

 

 

自分にとって一番がっかりだったこ

第100話「大雪山」と第188話「生きる」はゴカムという物語の根幹に直結する話で、ゴカムはこの二つのエピソードを回収して終わると思っていて、実際回収はしているのだが、そのやり方があまりにお粗末で期待外れだったということ

何度読み返しても泣けてくるほど好きなエピソードだったのでなおさら失望が大きかった

あーあ…

2022-02-27

anond:20220226094423

「分かる」というのは自分という主体に正しく判断させるということだ。

「わかって」いないと、フールペナルティ社会ではすぐにおいていかれる。特にインターネットによる情報流通が発達したので、「自分がやろうとおもったことについて一度もスマホでググっていない」ということが「重過失(ひどい手落ち)」にさえなりうる、とされている。

だが、人間は「生きていたい」程度のことしか普段は考えていないものだし、そこで「生きる」ということの意味をいちいち考えるとそれだけでまともに「生きていけない」ほど考えるべきことが山積している。

明日ご飯どうしよう、とか、給料ちゃんともらえるかな、とか、壊れかけの自転車をいつ買い替えようか、とか。それで充分考えている。

現在日本に生きる者は(もともとかかわりもっているのでないかぎり)ウクライナロシアについては特段の判断をせまられてはいないと考えられるので、考えない、わからない、わかろうとしない、わかった顔をしないというのも一つの賢明生き方である

フールであることにペナルティを課すのであればそれは社会のほうが間違っている。

2021-12-27

anond:20211226165838

どっちにも人権があるからバランスを考えようね。という話よ。

あなたの話は「生きたい」という権利と「生きたい」という権利が衝突した場合の話だからつり合いが取れるだけのこと。

殺されそうになる場面でなくても、遭難したときとか、人の生きる権利侵害しても罪に問われない場面はある。カルネアデスの板の話、知らない?

もちろん人の「生きる」という最上級権利侵害したのだから、本当にそれ以外の手段がなかったのかは厳しく追求されて罪になる場合もある。

死刑の件では別に犯罪者の命を奪わなくても遺族が死ぬわけではないから、その話とは別。

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