はてなキーワード: 八幡神とは
id:lostnamer 岡美穂子の感想→「弥助の見た目は大黒天・八幡神っぽいかも」→X民「弥助はネ申」/マジカルバナナ/人は皆思い付きとその場の感想で喋るものだなあと/自身も長すぎて飛ばし読みしてたら誤読したので自戒を込めて。 ブコメ修正済
増田君の文章が長すぎるからid:lostnamerさんは、
「岡美穂子先生があくまで感想として述べたものを愚かなX民が早とちりした」
という話だと誤読したみたいだよ。
「マジカルバナナ」が何を意味してるかは分からないや。連想ゲームだよね?「伝言ゲーム」との混同かな?
まあなんにせよ、かわいそうだから短くしてあげなよ。
ちなみにこれは思い付きとその場の感想だよ。
アサクリの弥助・黒人奴隷と、そこから派生したロックリー・岡美穂子両氏の言説の元ネタっぽいものを見つけたので要約しておく。
○著者:David Wright
○題名:The Use of Race and Racial Perceptions among Asians and Blacks: The Case of the Japanese and African Ameridans
○出典:1998年、一橋大学社会学ジャーナル(https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/8321/)
・16世紀半ばから、ポルトガル人の奴隷等としてかなりの数の黒人が日本を訪れていた。
・日本人は彼らに好意的で、彼らは尊敬の対象だった。特に弥助という者について、信長は厚遇した。
・ポルトガル人が頻繁に黒人奴隷を献上するので、日本人も彼らを見下すようになり、明治維新の頃にはその見方が定着していた。
・というか白人との接触前から日本では白い肌が美しいと言われてたけどね。(その割にはお歯黒は何故?)
・一方で、肌の黒い聖人もいたことから黒い肌に対する欧米のような差別感情は持ってなかった。オランダから入れ知恵されてたのに不思議だね。
(以下開国時の話が続く)
この、「日本人は彼らを尊敬していた」「肌の黒い聖者もいた」が、ロックリー・岡美穂子両氏による「弥助は神とされた」等に変換されていったのではないだろうか。
なお、知る限り弥助を神とした、または神に近かった、神のようだったなどとする史料は発見されておらず、専門家によるものでは、ロックリー氏や岡美穂子氏が述べているものがすべてのようだ。
特に八幡神は南無八幡大菩薩(那須与一)で有名な武士の神であり、これになぞらえるというのはとてつもない厚遇だし、文献にも残っていると思うのだが何を根拠にされたのだろうか。
信長に関する史料では弥助のビジュアルイメージが「八幡神に近かった」と言われています。あるいは、中国の史料ではアフリカ系の人を「黒鬼」と表記している。ですから、実用的な屈強さを求めただけでなく、そういう人間を自分の近くに置くことで「こんなに強いヤツを従えているんだ」という格付けに役立つと考えた、イメージ戦略の部分もあったと思います。
弥助もそもそもアフリカ大陸内の部族間闘争で生け捕りにされ、外国人に売られたといわれます。
(略)
ロックリー・トーマス氏によると、当時の都だった京都の住民と同様、信長は弥助の背丈や体格、肌の色に畏怖の念を抱いたという。
(略)
信長は弥助を「大黒天」ではないかと考えた。大黒天は豊穣(ほうじょう)の神で、寺院では通常、黒い像によって表現されている。信長は弥助の肌の色は墨によるものだろうと思い、こすり落とそうとした。本当に黒人だと納得すると、直ちに宴会を開いて敬意を表したという。
→通常の中国語ではその通りで、日本語に訳すと「黒い幽霊」といった意味合いになる。
あとは道教では鬼というのは死後の世界の人に該当するもので、鬼世界があって普通に鬼が暮らしていて鬼の役人がいたりもする。
いずれにしても中国語の「鬼」には日本のように「強い」「屈強な」という意味はない。(例えば「悪党(中世)」・「悪源太(源義平)」・「悪太郎(堀内恒夫)」という使い方はしない)。
なので、岡美穂子氏が「屈強な黒人」「神格化」という意味で取り上げたのは、解釈の誤りのように思う。御本人の説明を求めたいところだが。
ただ中国史については良く分からないので、昔はそういう使い方をしていたというのであれば補足よろしく。
→弥助はモザンビーク出身って記述があるんだけど、前半生は全くの不明で、岡美穂子氏が「部族間闘争の結果生け捕りになった」とした根拠は不明。
当時のモザンビークってインド人も大勢住み着いてるので、インド人とか混血の可能性は十分にある。
弥助が八幡神に近かったと述べているが、著書にも知る限りの史料にもそのような記載は見られなかった。一体何を根拠にしているのだろうか。
また、中国語で「鬼」は幽霊・化け物のようなかなり悪いイメージで、日本語のように力強いといった意味はあまりなかったように思えるのだがどうだろうか。
信長に関する史料では弥助のビジュアルイメージが「八幡神に近かった」と言われています。あるいは、中国の史料ではアフリカ系の人を「黒鬼」と表記している。ですから、実用的な屈強さを求めただけでなく、そういう人間を自分の近くに置くことで「こんなに強いヤツを従えているんだ」という格付けに役立つと考えた、イメージ戦略の部分もあったと思います。
1.神武天皇
2.綏靖天皇
3.安寧天皇
4.懿徳天皇
5.孝昭天皇
6.孝安天皇
7.孝元天皇
8.孝元天皇
実在する可能性のある初めての天皇。大物主神を祭り、疫病を治めた。武埴安彦の乱を鎮圧し、各地に四道将軍を派遣。戸口を調査し課役を課した。
愛妻が兄狭穂彦王の乱に連座し焼死する憂き目に遭った。伊勢神宮を建立した。彼の代に相撲や埴輪が誕生したとされる。
13.成務天皇
国郡県邑を定めた。
14.仲哀天皇
熊襲より先に新羅を討つべしと言う神託を無視したため、病没した
15.応神天皇
神功皇后の三韓征伐中に誕生。彼の治世に大和政権は国力を伸ばし、倭の五王讃と同一視される。八幡神として祭られる。
16.仁徳天皇
民の貧しさを嘆き3年間一切の税を廃した。好色であったため木崎の嫉妬に悩まされた。倭の五王讃と同一視される。
帝位を狙う住吉仲皇子に暗殺されかけるも、端歯別王(後の反正天皇)にこれを殺させ即位。国内情勢調査のため国史を設置した。倭の五王讃と同一視される。
18.反正天皇
身長3mで綺麗な歯並びの美男子であったとされる。倭の五王珍と同一視される。
刑部を定め、死傷の混乱を避けるため盟神探湯を行った。倭の五王斉と同一視される。
允恭天皇の皇子を暗殺して即位。大草香王を殺して妻を娶るが、その息子の眉輪王に殺された。倭の五王興と同一視される。
21.雄略天皇
眉輪王と履中天皇の子を殺して即位。渡来人を重用して王権を強化した。倭の五王武と同一視される。
22.清寧天皇
履中天皇の孫。父を雄略天皇に殺されたため、播磨に逃れたが、清寧天皇に迎えられ即位した。
25.武烈天皇
妊婦の腹を裂く、人を木に登らせて殺す等の暴君であったとされる。
慈悲深い君主であったが、朝鮮での日本の勢力が弱体化し、磐井の乱が起るなどその治世は乱れた。
30.敏達天皇(572~585)
任那復興を目指して新羅と交渉、国内では物部氏と組んで排仏運動を進めた。
初めて仏教を受け入れた天皇。その治世は物部氏と蘇我氏の対立が激しく、天皇の崩御直後に物部氏が滅んだ。
32.崇峻天皇(587~592)
34.舒明天皇(629~641)
35.皇極天皇(642~645)
女帝。在位中に乙巳の変が起きる。弟の孝德天皇に日本初の譲位を行った。
36.孝德天皇(645~654)
37.斉明天皇(655~661)
皇極天皇の重祚。阿倍比羅夫に蝦夷を討たせた。百済救済のため軍を派遣し、自ら九州に赴き現地で死去した。
38.天智天皇(668~671)
40.天武天皇(673~686)
甥の弘文天皇を倒して即位。八色の姓を創始、律令の制定、国史の編纂など律令国家の確立に尽力した。
41.持統天皇(690~697)
女帝。天武天皇の妃。夫の制作を引き継ぎ、飛鳥洗御原令を制定し、藤原京を造営した。
42.文武天皇(697~707)
大宝律令を制定した。
43.元明天皇(707~715)
女帝。平城京に遷都し、風土記・古事記を編纂、和同開珎を鋳造した。
46.孝謙天皇(749~758)
女帝。その治世に奈良の大仏が完成し、鑑真が来日した。藤原仲麻呂を重用したため、橘奈良麻呂の変が起きた。
47.淳仁天皇(758~764)
孝謙上皇が道鏡を寵愛すると、藤原仲麻呂と結託して乱を起こすが敗れ淡路島に流された。
48.称徳天皇(764~770)
孝謙天皇の重祚。在位中は道鏡の専横が激しく、宇佐八幡神託事件が起きた。
50.桓武天皇(781~806)
平安京に遷都。空海・最澄を登用した。勘解由使の設置、兵役の廃止など農民の負担軽減に努めたが、蝦夷討伐には財力を惜しまなかった。