はてなキーワード: 狩野派とは
【田中圭一連載:ゼビウス編】ゲーム界に多大な影響をもたらした作品の創造者・遠藤雅伸は、友の死を契機に研究者となった。すべては、日本のゲームのために──【若ゲのいたり】
http://news.denfaminicogamer.jp/manga/180913
ゼビウスの人の記事なんだけど、「日本人のゲームのやり方は禅に通じる」的なところから一気に胡散臭くなる。
こういう現代の事象を過去の日本文化と結びつけて語るのってたまにあるけどなんか名前つかないの?
似ているってだけで因果関係がまるでないし、「日本人の遺伝子には……」とか言い出すと明らかにトンデモ。
しかも言っている人には「すごい発見をした」みたいな興奮が感じられてうんざり。
こういう疑似科学でもない、何ていうの? 疑似人文科学? にズバリな名前をつけてほしい。
「それ○○だよ」って言っておけば終わりみたいなの。
けっこう安易に「そうだったのかー!」と受け入れる人いるのが怖いのよ。
いやいや、似ているだけだから、っていう。「英語のRoadは道路が起源でつまり日本語と英語は同祖」って言っているのと変わんないから。
どうにかしてくれ。
例えば、ある有名な寺社を拝観して、そこに狩野派の障壁画があったとして、
自分が「ああ、狩野派かあ。道理で背景キンキラキンやねえ」とつぶやくと「狩野派って?」って聞かれる。
例えば、ある有名な城郭を拝観して、そこで石垣を見て自分が「これって野面積みかな?」とつぶやくと、「野面積みって?」って聞かれる。
それに対していちいち説明するのが、面倒くさいし、いろいろとなんか辛い。
めっちゃ分かる。自分が詳しいフィールドだからと言って、いちいち他人に逐一説明せなあかんのは面倒。
もちろん自分の知識を披露することが楽しいとか自分が優越感に浸れるとかで、メリットを感じられる人なら苦に思わないんだろうけど。
前に友人たちが「自分の趣味に興味が無いのに甲斐甲斐しくついてきてくれるとかすごく嬉しい」とか言ってるのを見てとんでもなくゾッとした。そんな相手と一緒にいたら自分の「楽しい趣味の時間」が一瞬で崩壊しそう…
国内旅行した時、夫が見聞したものや自分の呟きについていちいち訊いてくるのが、なんか辛い。
例えば、ある有名な寺社を拝観して、そこに狩野派の障壁画があったとして、
自分が「ああ、狩野派かあ。道理で背景キンキラキンやねえ」とつぶやくと「狩野派って?」って聞かれる。
例えば、ある有名な城郭を拝観して、そこで石垣を見て自分が「これって野面積みかな?」とつぶやくと、「野面積みって?」って聞かれる。
それに対していちいち説明するのが、面倒くさいし、いろいろとなんか辛い。
自分の友人とならば、こういう会話にならない。
旅での体験に対して、一方通行でない、対話が楽しめる。知識の交流がある。
それが夫とはないのが辛い。
夫との国内旅行がなんか辛くてすごく疲れてあんまり楽しくなくて。
それがなんでなんだろうと思って、上のことに気づいた。
友達との旅行が一番楽しいのは、こういうのもあるのかなと思った。
でも夫はとても楽しいみたいで、色々自分に訊くのもただの素直な知識欲からで、悪気はない。
悪気が無いのはわかってるけど、「訊くだけじゃなくて自分で調べる」ってことはしない。
でも、「ちょっとは自分で調べて」とか「わたしはあなたの先生じゃない」とか、言えるわけもない。
自分が大学で国史やってて、一般の人よりは歴史に詳しいのもあるのだし。
教えるのが楽しいって人もいるんだろうし。
でも、旅先でなんか見て、それに対して、
「青はいい…」「いい」
「さすがは緑…」「うむ」
みたいな、そういう会話で盛り上がりたいんだよお。
そこで「青って何?」とか聞かれるの、ぶっちゃけ、興ざめなんだよー。
ああそう、興ざめ、それなんだ。
それで夫と国内旅行するのが気が乗らないんだ。
(海外だと、どっちも同じだけ知識がないのでそういうことにならない)
それ以外の点では何も不満はないし、この問題だって、別に夫は悪くない。
心が狭くて、本当にごめん。
どうすればこの状況を楽しめるのかな。
デッサン(形取りの練習)の講評で「デッサンが狂ってる」と言わないのは当たり前(ややこしいから)。教育の現場ではない美術評論の場などで完成図としての油絵や日本画に「デッサンがしっかりしてる/おかしい」なんてことばは普通に使う。この場合の「デッサン」は油彩や水彩という「画法」の技術と形取りの問題を切り分けるために使われている。
そもそも「デッサン」ということばが日本語に取り入れられた経緯からして、洋画のリアリティにコンプレックスを持った日本の画家が「洋画に負けないデッサンを」とか何とか言って、もともとの狩野派みたいな「日本の絵画」から、今あるような西洋の「デッサン」に和の画材を合わせた「日本画」を新しくつくり上げた運動に由来する。
日本美術界において「デッサン」は、もともとが不正確な印象論のことばとして、「西洋画のリアリティ」に対するコンプレックスとともに使われて来たことばである。